1-8 君に会いにいく

 彼女がカメリアの皿を手にとって、カネコおばあちゃんに差し出した。

「ばあちゃん、私、これレモンじゃなくてオレンジが合うと思うの。紅マドンナでどうかな。あのとろけるような果肉、このジャムにすごく合う素材だと思うんだけれど」

 あの珠里が急に……。ものすごい勢いでおばあちゃんをまくし立てる姿。

「ほうやねえ。おばあちゃんもこんなに濃ゆいチョコなら、さっぱりしたレモンより、オレンジの方が香りも糖度もコクに合うんじゃないかと思っていたんよ」

 え、レモンよりオレンジ?

 そのスイーツを持ってきた男ふたりを放って、なんだか果樹園の女性ふたりが変な方向へ。

 しかも真田嬢までもが。

「だよね。これお蔵入りするのはもったいない。私もオレンジとの組み合わせをオススメするな。コアントローをジャムに効かせたら大人のテイストになる」

 それを聞いただけで、涼は『うまそうだな、それ』と喉を鳴らしてしまった。

 呆然としている男ふたり、そこへいきなり珠里が向かってきた。

「レモンじゃなくてもいいでしょ。うちの果樹園の、ばあちゃんが栽培した柑橘であることは変わらないんだから。いいでしょ!」

 あの力ある大きな黒目が、また強く真っ直ぐこちらに向かってくる。表情が上手く作れない彼女の今の顔は、ある意味『恐ろしいほど』の真顔で涼と梶原は共にたじろいでしまうのだが。

「真鍋君。もったいないよ。こんな素敵なお皿をお店に出さないなんて!」

 珠里だけじゃない。真田嬢も。

「私もそう思う。私だって、カメリアさんには良く行くもの。この季節限定スイーツの広告を見たら、まっさきにカメリアカフェに行くと思う。もったいないよ。こんなに華やかなひと皿を出せるのは、カメリアさんならでは。コストも同じく。こういう華美なものは、うちの父親は好まないから、真田では絶対に出てこない。カメリアさんにはそんな高級感では頑張って欲しいしね」

「そ、そうだけれど。それは契約が取れなかった以上、上司の再度の許可がないと……」

 だけれど、珠里の勢いは止まらない。

「ばあちゃん。紅マドンナで、このレモンジャムみたいなもの作ってみて」

「そやね。それええかもしれんね。やってみよか」

 にっこりおばあちゃんが笑うと、珠里がこの上なく嬉しそうに微笑んだ。それを見た涼はびっくりしてしまう。あの珠里があんなふうに笑った……!

 それから直ぐ、割烹着姿の女性ふたりがキッチンを動き回り始める。

「珠里ちゃん。紅マドンナの果肉をカットして程よくクラッシュしておいて」

「わかった。ばあちゃん」

 鍋を片手に、砂糖や蜂蜜、そしてコアントローをコンロの周りに準備をして指揮を執っているのはおばあちゃん。珠里はあくまでアシスタント。

「おもしろそう! 私も手伝って良いですか」

 そして真田嬢も、珠里が用意した紅マドンナを手にした。

 もう、涼と梶原はただただ唖然――。負けてがっくりしたばっかりなのに、そんな当人達をそっちのけで何かが動き始めている。

 しかも。カネコさんの手つきが、ものすごく……作り慣れている手。パティシエ顔負け?

「ばあちゃんね。昔から市街に買い物に行ったら、素敵な洋菓子を買うのが楽しみだったんだって。そのうちに自分で作りはじめて。ハイカラなんだよ」

 手伝っている珠里が、指揮長をするカネコさんのことをそう教えてくれる。

「今と違って、ほんとになにもない島やったけん。外国仕立ての洋菓子をテレビや雑誌で見るのが楽しみやったんよ。お伽話のお城を見ている気分。たまにフェリーに乗って市電に乗って市駅のデパートでケーキを食べることを楽しみにして、蜜柑の世話をしよったんよ」

 割烹着姿の島果樹園のおばあちゃん。島レモンのおばあちゃん。そのおばあちゃんが、果樹園で獲れた柑橘で新たに、なにかを作ってる――。

 おそらく御歳八十は超えているだろう。そんなおばあちゃんが、洋菓子への憧れまっしぐらで、島暮らしの中試行錯誤、なかなか買いに行けないスイーツを自ら作っていただろう、若き姿を涼は見る。

 そんなカネコおばあちゃんを見て、涼も閃いた。

「梶原……!」

 隣にいた後輩の腕をひっつかんでいる。

「な、なんすか」

「おばあちゃんの新しい味だ。おばあちゃんとカメリアのコラボレーション。二宮果樹園はレモンだけじゃない。新種の紅マドンナとおばあちゃんの新しいレシピで、スイーツ誕生、カメリア発だ。これで行こう!」

 唐突に新案を投げかけられ、梶原は一瞬、困惑していたが。

「いいですね、それ。俺、すぐに再企画します。……あ、真鍋チーフの案ですよね。これ」

「馬鹿。お前のクラシック・ショコラでコラボするんだぞ。お前の仕事だろ。社に帰って、企画を新しく作り直して、準備していた広告も差し止めやり直しだ」

「わかりました」

 『島レモン』確保は負けた。でも、新しい糸口が見つかった。

 暫くしてできあがった『おばあちゃんのホットジャム』をかけたクラシック・ショコラ。それを試食し、皆が感動したのは言うまでもない。

 

 敗北をしたレモンスイーツ一式を片づける手も急いでいた。梶原と共に『社に帰ったら』の段取りを話しながら、もう涼の気持ちはそこへ向かっていた。

 

「お疲れ様。真鍋君」

 

 さあ、帰ろうという時。珠里がそこにいた。

「ありがとうな。三枝、助かったよ」

 そっと微笑みを見せる彼女が、静かに首を振る。

 気持ちがもう会社に向かっていたが、でも、珠里を見て涼はしみじみ思う。あの時、彼女が『まだ終わっていない』と食い下がってくれなかったら……。

「企画が通ったら。ここの紅マドンナ……」

「勿論です。カメリアさんにお任せ致しますから、お待ちしております」

 そこは果樹園管理人としての顔。それがちょっと寂しく思えてしまった涼……。気のせいじゃなかった。

「また来る」

「うん」

 やっと、彼女がにっこり微笑んでくれた。

 彼女と再会して、初めて見せてくれた紅頬の笑みだった。

 


 ◆・◆・◆


 


 島レモン確保は出来なかった。つまり涼の企画は倒れた。

 その代わり、梶原と共に再度立て直した企画が通った。

 

 部長と課長にも、カネコおばあちゃんの『ホットオレンジジャム』のクラシック・ショコラを試食してもらうと大絶賛。

『梶原の陣頭指揮で、真鍋が補佐につけ』

 涼が引き下がった通りの言い付けが下る。

 だがこれにより、二宮果樹園との正式な取引の契約も成立。これは涼の手柄とされた。

 その後も、涼は梶原と共に精力的に新企画を遂行する。

「梶原、島に行って来る」

「いってらっしゃい。あ、そうだ。これ、カネコおばあちゃんに」

 梶原がリボンがついた包みを差し出している。

「わかった。喜ぶよ」

 洋菓子大好きなカネコおばあちゃんのところへ行く時は、涼も梶原も『おいしくて、かわいい手土産』を心がけている。

「発売まであと少し、頼んだぞ」

「勿論です。チーフ」

 梶原とは向き合うと、思った以上に息があった。

 ――俺、自分一人ではここまで出来なかったと思います。やっと企画した菓子を売り出せることになって夢が叶う。しかも陣頭指揮。でもそれって、真鍋チーフのお陰です。

 ――俺の手柄だなんて思っていません。有り難うございました。

 少し前。梶原にそんな礼を言われた。

 ――涼、今回の企画倒れと辞退は残念だったが、その後の代替えを即刻打ち出しリードする指揮は見事だった。さらに、対抗しあっていた後輩の企画に潔く切り替え、後輩を上手くリードし補佐することでより良い結果が出せたと思う。

 部長から、まったく違う角度から思わぬ評価ももらってしまった。

 涼自身。島に行くまでそんなことは微塵も思い描いていなかっただけに、どうしてこうなれたのか、自分でも不思議な気分だった。そして、それは久しぶりの達成感と幸福感を同時に噛みしめることが出来た。


 

 今日も冬の澄んだ青が濃い空の下、フェリーが海原を行く。

 涼の手には新しい企画。まだ誰にも見せていない企画。それを今日は一番に見せたい人がいる。

 

 島の石垣、段々畑、小さな果樹園。今日もホワイトボードには『果樹園まで』。

 柚子の香りがほのかに漂うようになったその小道を急ぎ、涼は彼女を探す。見つからなければ立ち止まって耳を澄ます。

 潮風、潮騒、島の声。そして鋏の音。

 いつもそうして彼女を探す。その人は決まって脚立の上にいて、いつも青いレモンを手にしている。

「珠里」

 農帽のひさしから覗く真っ黒な大きな瞳。それが今はにっこりとまあるく緩む。

「真鍋君、いらっしゃい」

 もう三枝とは呼ばない。二宮とも呼べない。今は彼女を珠里と呼んでいる。


 

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