1-7 完敗……
小雨が降り始めた中、涼の車は二宮果樹園へ向かう坂を上っている。
いつも看板前に車を停めさせてもらっているのだが、今日はそこに赤い傘をさす女性が立っている。今日も農婦スタイルの珠里だった。
「あちらが、果樹園の?」
「そうだ。カネコさんのお孫さんのお嫁さん。いまは、栽培はカネコさんが、若い彼女が果樹園を管理している」
男主人は三代逝去していることも、彼女たちが畑を守っていることも梶原には説明済み。だが『同級生だった』ことは、未だに言えずにいた。
車を停めると、珠里から運転席まで迎えてくれる。
「いらっしゃい。真鍋君」
「今日はよろしく」
噂の果樹園の若女将とも言うべき珠里が、親しげに涼を呼んだことに梶原も気がついたようだった。
「あの……」
小雨の中、赤い傘から涼の顔を伺う彼女。
「どうかしたのか」
「急で申し訳ないけれど、実は……」
彼女が告げたことに、涼も驚くしかなかった。
◆・◆・◆
珠里が告げたこと。
――『真田さんが、新作をカメリアさんにも食べて欲しいと持ってきている。意にそぐわないなら持って帰ると言っているんだけど』と。
どういうつもりなのか、あの社長は……と思いきや。『真田の新作』を持ち込んできたのは社長ではなく――。
「娘の真田美々です」
二宮のスイーツキッチンに、キラキラした茶髪女性。農婦姿の珠里とは対照的に、挑発的な黒ファッション。レザージャケットに黒いミニスカート、ヒールが高いロングブーツ。
え、あの社長の娘? ノーブルで品の良いファッションスタイルだった親父さんとも対照的。『私、おもいっきり世間に反抗しています』と言わんばかりのお嬢様。
涼の横にいる梶原も唖然としていた。『え、あの真田社長の娘?』と、しかも『なんで、今ここにいるんだよ』と。抑えてきた緊張と勢いをかき乱されそうな予感でもあるのか、梶原の眉間に不安を物語るシワが寄っていた。
「本日はぶしつけに申し訳ありません。父には『やめろ』と怒鳴られましたが、どうしてもそちらのドルチェも確かめたかったものですから」
なのに。そこは丁寧に頭を下げ、挨拶をしてくれる。そして珠里も割って入ってきた。
「実は。こちらの美々さんが、うちの果樹園に最初に来てくださって、あのマーマレードを試食してくれたの。『絶対に沢山の人に食べてもらうべき』と、お父様の真田社長に持ち込んでくださったんです」
――なんだって。
それを知り、涼は驚きながら美々を見た。あのヒット商品が全国的に知れるようになった『発見、発信者』は、この彼女? 親父の真田社長の目利きで企画されたわけではなかったのだと!
「では、こちらの真田社長のお嬢さんが、あのマーマレードを見つけたということなのですね」
涼が改めて尋ねると、派手な金茶毛ロングヘアの彼女が、まつげばさばさの大きな目を伏せながらこっくりと頷いてくれた。
「だから。今度の島レモンスイーツの商品化も、絶対に『真田珈琲』で出したいんです。それが……、珠里さんがカメリアさんのスイーツにも心を動かされていると知って……」
マーマレードを見いだした本人だからこそ、『島レモン』に思い入れがある。誰にも譲れない。そんな彼女の眼差しは、父親の真田社長にそっくり。『素材にも愛情がある』と言い切ったあの眼と一緒だった。
『どうします?』
横で戸惑う梶原が、涼に尋ねる。そこは先輩として現役チーフとして頼ってくれたのが判る。勿論、涼の返答は決まっている。
「こちらからもお願いしたいくらいです。本日の新作、是非、真田さんにも試して頂きたい」
堂々とする。それを連れてきた梶原にも『どんなことが起きても、こうだ』と見せておきたかった。……そりゃ本心、涼だって『なんだこの状況』とテンパッているのだが、そこは涼本人のみぞ知る心情として押し殺す。
美々のそばにいる珠里も戸惑っている様子が見て取れた。『この状況、止められなかった』と思っているのだろうか。相変わらず、淡々としているがちょっとだけ眉尻が下がって困っているように見えてしまったのも気のせいか。
「珠里ちゃん、カメリアさんは来たん?」
食器棚の横にある室内ドアが開いた。
おそらく本宅と繋げているドア。そこから、農婦姿の老女が顔を出した。
その老女を見て、涼は固まる。いや『やっと会えた!』と言うべきか。
「ばあちゃん、カメリアさん来たよ。お願いします」
「そうなん。じゃあ、お邪魔しようかね」
珠里が呼ぶ『おばあちゃん』。レモンの作り手、マーマレードの作り手の本人である『カネコおばあちゃん』だった。
「こんにちは。カネコです。今日は、よろしくね」
スーツ姿の男ふたり、こちらに向けて、穏やかな笑顔でお辞儀をしてくれる。イメージ通り、ころころしたちっちゃなお婆ちゃん。珠里と同じく、農業割烹着と絣のもんぺ、そしてゴム長靴という典型的な農家のお婆ちゃんだった。
「今日は、ばあちゃんにも試食してもらいます。管理人である私だけが食べるより、やはりレモンの作り手であるばあちゃんに決めてもらおうと思います。よろしいですよね」
「勿論です。カネコさんのレモンで作る菓子ですから」
涼は梶原と一緒に、珠里に頷いた。
当然の流れだと思うが、涼には少しだけ違う思いが。『同級生だという先入観を拭うため?』。公正なものにするために。
そんな時、珠里のあの黒目の眼差しと、涼の視線が重なった。
――これで、いいよね。真鍋君。
そんな声が聞こえてきそうで、涼は密かに彼女に頷く。
なにを言い合いたいのか通じたのか? 彼女も小さくこっくり頷いてくれた。
不思議な感覚だった。
だが、互いのこの仕事へのスタンス。もう、わかっている。
同級生のよしみで獲れた仕事になんて、涼もしたくない。そしてそれは珠里も同じなのだろう。その為の『公正な審査員、カネコさん』なのだと。
そんなカネコおばあちゃんのところへ、涼から出向く。お馴染みのご挨拶をするために。
「初めまして。カメリア珈琲、企画営業部の真鍋と申します。初めてお電話の時は、こちらからの訪問の申し入れを快く受けてくださいまして有り難うございました」
胸ポケットから名刺を差し出す。それをカネコさんがにっこりと受け取ってくれる。
「同じく。カメリア珈琲、企画営業部の梶原と申します。本日はよろしくお願い致します」
涼に遅れまいと、梶原もやや緊張した面持ちで、カネコおばあちゃんに名刺を差し出した。
「やっぱり大手さんの男の子はビシッとしていて、かっこええねえ」
眼鏡姿の涼と、さらに今どきのアラサー男子である梶原を見て、おばあちゃんがにこにこ。
「カネコさんのマーマレード。真田さんから出ている物も大変美味しくいただきました。ですが、先日、珠里さんからいただきました、このキッチンで、カネコさん自らの手で作られたマーマレード。優しい甘みでまた美味しかったです。母にも持っていきましたが、とても感動しておりました」
初対面の挨拶はもちろんのことだが、まずそこはあれこれ味を比べる前には伝えておきたかった涼。
「珠里ちゃんから聞きました。訪ねてきたカメリアの営業さんが、偶然、昔いた真鍋先生の息子さんで、珠里ちゃんの同級生だったと」
カネコさんの返答に、隣にいる梶原が『えっ』と漏らした。機を見て『まったくの偶然だった』と説明しておこうと思ったが、こうなったら仕方があるまい。『まあ、そういうことでもあったんだよ』と梶原には目配せをしておき、説明は後ほどと待ってもらう。そこは只今営業中の梶原も、プライベートのことは後回しと堪えてくれたよう。
梶原が驚いたなら、あちらの真田嬢もと思ったが。あちらはもう珠里か父親から聞いてるのかどうか? ジッと黙って控えてくれている。それに眼、本当に目つきが父親にそっくりすぎる。
その眼が『挨拶はほどほどにして早く先に進めて』と急かすような迫力を感じてしまうのが、これまた父親譲りに見えてしまう。
「では。早速ですが、弊社で考案した『島レモンスイーツ』を召し上がってください」
梶原と目を合わせ、頷き合う。
クーラーボックスをキッチン台の上に梶原が置き蓋を開ける。そして涼も持ってきたアタッシュケースを開け、自社で扱ってる食器を準備。
主役は菓子。だが菓子だけじゃない。デコレーションに、食器まで。そこまでが『食べること』。それがカメリアのこだわり。パティシエの感性だった。
ネクタイスーツ姿の男ふたり。ジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくる。黒いシンプルなエプロンまで、ネクタイの上に。
「男の子のエプロン姿、ええねえ」
涼と梶原が調理を始めた正面に、カネコさん、珠里、真田嬢の女性三人が並んで腰をかける。カメリアの男ふたりが支度をするのをにっこり眺めている。真田嬢の食い入るような目は変わらない、本当にそこに真田社長がいるよう。涼の肌にピリピリと刺さるような空気を彼女は送り込んでくる。だが涼はそんな彼女の始終真剣な顔を見て思った。
親父に違わぬ『愛好家』だと。菓子にうるさそうな目つき。梶原もある程度手慣れているから良いが、それでもクーラーボックスから落とさずに、きちんとキッチン台に置けるのか。落とさないでよ。美味しいお菓子は丁寧に扱ってよ。なんて、そんなことを言い出しそうな様子を醸し出していて、涼も気が気でない。
クーラーボックスから出てきたのは、白い薄紙に筒状に包まれたショコラ。
「それ。ショコラ?」
目ざとい美々の質問に、手に持っている梶原が『はい』と答える。
梶原がカッティングボードに置いたショコラ。小さな薄いナイフを手にした涼は、薄紙を剥いだショコラにそっとナイフをあて目を懲らしカットする。
「あら、カメリアのチーフさん。手慣れているねえ」
口元を真一文字に引き結び、綺麗に棒状のショコラを輪切りにしていると、カネコさんが小さく拍手をしてくれ、涼も思わずにっこり。
「真鍋さん。もしかして、自分で料理するの」
美々にも尋ねられる。
「このような仕事ですから。たまに自分で菓子も焼きますよ」
「えー、さすがですね!」
あの生意気そうなお嬢さんが、急に涼を尊敬するようにキラキラとした目に。なんだ、そういう可愛い顔できるじゃんか――と思うほど。
珠里とはまた違うが、なんともぶすっとした不機嫌そうな顔つきだったものだから。本当にあの親父の娘だと思ったが、こちらは気を抜けば愛嬌もあるらしい。
それに比べて、珠里はやはりあの冷めた顔のまま。
棒状のショコラをカットし、次は果物ナイフでカネコさんのレモンをカット。レモンの輪切りと、筒状からカットされコイン型になったショコラ。それを白い皿の上にショコラ、レモン、ショコラ、レモンと交互に重ね扇状に並べる。彩りのグリーンを添え、最後は。
「三枝、小鍋を貸してもらえるか」
「うん、いいわよ」
なんて、すっかり慣れた同級生気分でうっかり。
目の前の美々がちょっと驚いた顔をして、隣の梶原も目を丸くしていた。ただカネコさんだけが。
「本当に同級生だったんだね。珠里ちゃんのこと、旧姓で呼ぶなんて」
「す、すみません。うっかりしておりました。そう、今は二宮さんでしたね」
「べつに、かまんよ。ええんじゃないの」
けらけらと優しくおばあちゃんが笑ってくれる。
笑われた珠里も『ついうっかり』という顔で恥ずかしそうにしている。その彼女が小鍋を持ってきてくれる。
「手伝うことある?」
「いや、もう終わるから」
そのやり取りさえも。目の前の美々とカネコおばあちゃんがニンマリとした笑みで見ている。ついには隣の梶原まで。
「なんすか。この状況。あとで教えてくださいよ」
「わ、わかってる。いまは皿に集中しろよ」
そうして梶原も元の真剣さを取り戻し、白い皿の盛りつけを仕上げていく。
最後、涼が小鍋でゆっくり温めたのは『レモンジャム』。このショコラに添えるために、パティシエがゆるく柔らかく煮詰めたもの。ジャムほど粘りと堅さはなく、ソースと呼ぶには液状でもなくジュレぐらいの質感がある。それを温め、白い陶器のミルクピッチャーに注いだ。
「出来上がりです」
丸形カットのショコラとレモンの輪切り。まるでフランス料理のような飾りつけ。これがカメリアの真骨頂。
その皿を女性三人それぞれに梶原が配り、最後に涼が人肌ほどに温めたレモンジャムをそばに添える。
そして、ついにその時を迎える。
「梶原」
彼を正面に押し、涼は一歩下がる。梶原が頷き、女性達に向かう。
「クラシック・ショコラ・レモンです」
わけのわからないフランス料理が出てきたかのように、女性三人それぞれが『クラシック・ショコラ?』と皿を様々な角度から眺めている。
特に美々は、皿を手に持ち自分の目線に持ってきて、ものすごく食い入るように眺めている。
「そういえば。『隠れた名品』として密かに噂されている、パティシエが一本一本、手で作る『昔ながらのショコラ』があると聞いたことがある。手作りだから、向こう半年予約でいっぱいだという知る人ぞ知る名品だって」
彼女の言葉に、梶原がとてつもなく驚いた顔をしたのを涼は見逃さなかった。
そしてやはり、真田美々は『あなどれない愛好家』だと確信せざる得ない。梶原がやっと掴んだ情報を、彼女ももう知っていたのだから。
――動揺するな。
後ろにいた涼はそっと彼に耳打ちを。それだけで、梶原もグッと堪え毅然とした顔を保とうとした。
「そうです。『元来のチョコレートはこうしてつくり、食べられてきた』、パティシエが電子器具を使わず、ココアパウダーから手と木べらだけで混ぜ合わせ練ったもの。厳選素材と丁寧な手作り、『貴女のために、手でつくられた』がコンセプトです」
梶原が足を使って、または懸命な情報収集でやっと見つけた『まだ知られていない、でも都会の愛好家はもう既に取り合っている名品』だったという。
本当に、その国で作られている『昔ながらのチョコレートのレシピ』で作られた物。厳選されたカカオとバターと生クリーム、そしてナッツにフルーツピール、そして香り付けの洋酒。本当に一からパティシエが作った『チョコレートはこうして生まれた』と言いたい一品だった。
それは昔ながらといいながらも、手間暇かけた丁寧な作りと厳選されたシンプルな素材に贅沢感があった。
形成も素朴。型を使わず、トリュフのように小分けにせず。とにかくボウル一個分、パティシエの手で筒状に固めた物。そこに温かみと、手作りの贅沢さもある。
「ふーん、さすがカメリアさん。このショコラの重厚感、エレガントな盛りつけ。それに……これ、なにこの温かいミルクピッチャーは」
「温かいうちに、そのレモンジャムを是非」
梶原の勧めに、女性達がやっとフォークを手にする。
冷たく固めたチョコレートに、温めたレモンジャム。それをかけた彼女たちがフォークにチョコレートをとって口に運んだ。
すると、カネコさんが途端に笑顔いっぱいに。
「おいしいねえ!」
一番言ってほしい人からのその言葉に、やっと梶原もホッとした微笑みをみせた。それを後ろで見守っていた涼も、ホッと胸をなで下ろす。
そして思った。本当はこういうことなんだよな……と。数字とかいろいろ必要だけれど。基本『俺達』は、『美味しい』と笑顔になって欲しくて、この仕事を選んだのではないか。この後輩も、ここまで辿り着くのに必死に走り回って情報をかき集め、何度も企画を無にされ、でも諦めず……。自分だってそうだったじゃないか。なのに、いつの間にか、この後輩と『狭い企画室』だけで目の敵にして争っていただけの……。
「うん、いい。ショコラにレモンの輪切りの香りがほんのり移って、ホットジャムのところが程よく溶けて、フォンダン・ショコラみたい。ショコラの中にはブランデー漬けにしたレモンピール。まさに『レモン・チョコ』だね」
真田嬢は、スイーツを目の前にすると目つきが変わる。涼も既に、彼女のその目には緊張する。娘でこれだ。もし、今日……あの社長がここにいて、このショコラを食べたならば。どのような顔で、どう言ったのだろうか。
そして涼は、珠里も確かめる。彼女はひたすらあの顔に固まったまま、始終無言だった。美味しかったのか、気に入ってくれたのかも解らない。
「三枝、どうかな」
果樹園管理人の意見も聞きたい。だが珠里は。
「うん、カメリアさんらしい」
美味しいとは言ってくれない。それだけだった。涼にはそこがひっかかった。
――もしや。先攻だった真田のレモンスイーツの方が美味かったのか?
急に胸に不安が広がる。
その不安を確かめたかのように、ひととおり味わった美々が席を立った。
「では。先日、カネコおばあちゃんと珠里さんに試して頂いた真田の新作を見てもらおうかな」
彼女もテーブルの上に置いていたクーラーボックスの前へ。蓋を開け、彼女はこの家の食器棚にある普通の小皿のうえに、その菓子を並べた。
その菓子を見て、涼は驚き、梶原も『信じられない』という顔に固まっていた。
小皿に、無造作に彼女が置いたのは。『レモン色のマカロン』。
涼から尋ねた。
「レモン味の、マカロン……ということですか」
「そうです。レモン味のマカロン。それだけです」
美々の平然とした返答にも、涼は余計に不安に煽られた。その動じない様子が、逆に『真田の自信』にも見えたから。
いまさら、マカロン? もう出回って何年にもなる。しかも見たところ、なんのひねりもない、見たままそのまま『マカロン』。それがころっと小皿にひとつ。
「どうぞ」
真田美々の笑みなき、ひたむきな眼差し。揺るがない自信。
彼女の眼に気圧されながらも、涼は前に置かれた小皿から、そのマカロンを手に取る。隣の梶原も続いて手に取り、ふたりで一口。
それだけで、涼は『あっ』と言わされる。
どこでも見かけられるようになった『マカロン』。なのにこれは『レモンそのもの』!
隣の梶原も絶句している。この後輩も菓子は食べ尽くしている故に、きっと涼と同じ感覚になっているはず。
「レモンだ。レモンを食べているみたいだ」
「そのとおりっすね。レモン……だ」
マカロンのかじった所を涼は眺める。そこにはレモンマーマレード、そして『つぶ塩』。
「塩とレモン?」
気がついた涼に、やっと美々が悠然と微笑んだ。
「そう。『塩レモンマカロン』。レモンは瀬戸内の島レモン、塩は瀬戸内の塩」
塩スイーツも出回って久しい。既存の、もう誰もが知っているような組み合わせながらも、これは……新しいというより『絶妙の組み合わせ』、そしてまさに『レモン』。
こちらはカメリアよりもっとシンプル。だけれど素晴らしく鮮烈。ひとくちで『レモン!』とガツンとやってくれる。しかもだからってレモンレモンじゃないところは、マカロンの外はさっくり中はしっとりとした甘いアーモンド生地がレモンに変化を添えている。
これに比べたら、どんなに手作りクラシック、シンプルだと謳っても、カメリアのひと皿はあまりにも『小手先が過ぎる』と感じる。
「たった一口なのに。レモンの果汁感に溢れてくる、すごく……レモン」
梶原もその鮮烈さに驚愕している。つまりそれは……俺達自ら……。
そして真田美々は、そんなカメリアの男ふたりを見て、もう勝ち誇った笑みを浮かべている。涼と梶原の驚きの顔、変哲もないマカロンを食べたその顔で、確信を得たのだろう。
だから彼女から切り出した。
「おばあちゃん、どうでしたか。どちらかお決め頂ければと思います」
美々からの催促に、カネコさんがカメリアの皿を見て唸る。
俺達にまだチャンスはあるのかも。まだカネコさんが答を言わぬうちは、その望みがある。涼は梶原と顔を見合わせ固唾を呑む。
そんなおばあちゃんが、涼と梶原を見てにっこり笑った。
「どっちも美味しかったよ。どっちもお店に出して欲しいんやけどね。ごめんね」
カメリアの男ふたりを見て『ごめんね』。涼は目をつむり、梶原は俯いてしまった。
「本当なら、どちらさんにもレモンをつこうてほしいんやけど、両店のお客さんに行き渡るほどは、ばあちゃんもレモンを作ってはおらんし。他のお得意さんもおるけん。今回は『真田さん』にお任せしようと思います」
――負けた。
涼も後輩と一緒に項垂れた。
しかも、一口食べただけで判った。『完敗』だった。悔しいけれど、納得できる。
「……わ、わかりました。チャンスをくださり、有り難うございました」
唇を噛みしめ動かなくなってしまった後輩の代わりに、礼をする。そうすると、梶原も涙を呑むように涼の横で頭を下げた。
勝負あり。そして涼は噛みしめる。あの社長の言葉が頭に巡った。
『素材にも、地元の顧客にも、故郷にも愛がある』。
島のレモン、瀬戸内の塩。それを如何に調和させるか。そこに確かに『愛』を感じた。
おそらく、自分には今ないものだと痛感させられた。
「まって!」
敗北に項垂れる男達のせいで、しんみりしてしまったキッチンにそんな声が響いた。
それまでジッと黙っていた珠里が立ち上がっていた。
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