2-3 ミスター・アイリッシュ珈琲

『申し訳ありません。こちらからお伺いしたいところなのですが、どうにもスケジュールが合わなくて、いますぐ島まで行けそうにありません』

 

 真田珈琲二代目社長、真田輝久氏自らの連絡があった。

 

『かまいません。ちょうど街中に用事があるので、こちらからお伺いします』

 と珠里が答えると『では。古泉店でもよろしいですか』との指定。

 

 島レモンマカロン販売について『真田珈琲』との打ち合わせに臨む。

 


 珠里が島民として暮らしていた中学生の頃は、市駅を中心とした商店街がいちばん人が集まり、賑わう中心街だった。しかし時代は移り変わり、郊外にできた大型複合商業施設へと集客が移動。いまこの瀬戸内の街でいちばん人が集まるのは、真田社長が指定した『古泉こいずみ』という駅にある大型ショッピングモールだった。


 百貨店層とは異なる最新のブランドやファッションを集結させるショッピングモール。その中にある真田珈琲にも行ったことがある珠里は『いい雰囲気のお店なのよね』と島から出てその店に出向くことに心躍らせていた。

 

 フェリーで十五分、港から郊外電車、郊外電車で松山市駅まつやましえきまで来た。郡中線ぐんちゅうせんに乗り換えなくてはならない。だが、珠里は腕時計を見て、まだ時間があることを確認する。

 少し早めに出てきた。思うところがあり、電車を乗り換えずその為の道を行く。この駅に隣接する百貨店の中に『カメリアカフェ』があったはずだと。

 カメリアカフェは全国に展開しているだけあって『駅』や『空港』、または『観光名所』など人が集まるところに構えていることが多い。

 そのうちの一軒がこの百貨店にあり、珠里はその『カメリアカフェ』に入ってみる。

 時間はティータイムを過ぎた頃。婦人服のフロアの片隅に、カメリアのカフェがある。店内は一緒に買い物を楽しんだのか初老マダムのお友達同士がほとんどで、空き席も目立つ。メニューも簡単なもので、いわゆる『ファスト的』なシステムとスタイル。これが本来の『カメリア珈琲』だった。

 早速メニューを開く。ありきたりなケーキに、生クリームを乗せればそれなりに贅沢感がでるクレープにワッフル、そしてシフォンケーキ。すべてがセントラルキッチンで作られた保存がきくものとわかっていながら。だが。そのなかでひとつ、独特なものがあって珠里は微笑み、オーダーをする。

「柚子胡椒シフォンと、紅茶をストレートで」

 まだ残っていた。

 だいぶ前になるがこの会社から出たヒット商品だった。

 それにしても。シフォンケーキに柚子胡椒を入れてやろうだなんて誰が考えたのだろう。そう思うといつも笑みが浮かんでしまう。でも、生姜だって『ジンジャークッキー』とかお菓子にいろいろ使われているのだからおかしくはない。さすが作り手ならではの発想だと思う。

 柚子の香りに微かにスパイシーな味覚、そしてふんわりと優しい生地にとろける生クリーム。それを渋いストレートの紅茶で。このカフェでいちばん美味しく食べられると珠里が思っているのはこの組み合わせだった。

 このシフォンはOLをしていた神戸で初めて食べた。東京でも爆発的に流行っていたようで、暫くはカメリア珈琲発の柚子胡椒スイーツが、クッキーやプリンなどで展開されて騒がれた。しかし主役で主力は常に柚子シフォン。

 カメリアに来てこれが残っているとほっとする。だけれど……と珠里はティーカップ片手に辺りを見渡す。

 中心街にある駅百貨店内という好条件の立地を確保している割には、そんなに客がいない。年齢層も高い。子連れの若い主婦は帰る時間帯なのかもしれないし、夕方から仕事帰りのOLが入ってくるかもしれないが……。珠里はため息をつく。この簡易的に回転させるイメージがあったから『カメリアさんはお断り』と当初は思ったのだ。

 ただひとつ、珠里の心に『カメリアと提携』と思い描いた時、引っかかるものがあった。それは、カメリア珈琲が数年前から展開を始めた『グランカフェ』というハイクラスの店舗の存在。いま珠里が入った百貨店内や駅空港などにある既存の店舗とは別枠で一都市に一店ずつ全国展開させていること。

 真っ白な店内に、カメリアのシンボルである『椿』をイメージした真っ赤な革張りのソファー。ファッショナブルな佇まい。その店のために選ばれた専属バリスタ、そしてバックヤードには専属パティシエ。この『特別感』が受け入れられ人気店に。この城下町にも数年前に出店してきて、夜は大人が集まる繁華街の一等地に華々しく構えている。

 路面電車が走る城山の麓、この城下町のいちばんの飲食店繁華街。お城の天守閣が見下ろす街、少し先には道後温泉。城山麓の夜は煌びやかな飲食店街となり観光客やビジネスマン、OLや大学生、大人の街として賑わう。

 この賑やかな界隈に、真田珈琲本店もあり、カメリアグランカフェも大人の店と狙い定めて、敢えて老舗の飲食店が軒を並べる中心街に出店したのだと思われる。

 この大人向けのラグジュアリーなカフェで出されるスイーツを、涼と後輩の梶原氏が企画して――ということになっているらしい。

 赤いソファーのラグジュアリーなカフェはいつも満席で、この城下町では贅沢に素敵なティータイムをしたいなら『カメリアのグランカフェ』。お洒落な女の子が足を向ける店へとステップしていた。

 老舗の真田珈琲が幅広い年代に支持される落ち着きとは対照的で、そこでは『いま』を掴み取る最先端でファッショナブルなのが特徴。いま珠里がいる通常のカメリアカフェとは違い、つねに新しい流行のお菓子が提供されている。

 ――『グランカフェ以外に、売り切れる店をピックアップする』と言っていたが、いま珠里がいる店の様子だと、客層から見ても、『エレガントで高級感があるスイーツは動かない』と涼なら判断することだろう。

 あの赤いソファーの店だけで充分なのではないのか。そこがちょっと気になって、珠里はこうしてカメリアのカフェに来てみたのだが、カメリアの方針に一抹の不安が過ぎってしまった。

 

 現状をひとまず確かめた珠里は、郡中線に乗り換え、大型ショッピングモールがある古泉駅まで向かう。




 冬の早い夕暮れの中でも、古泉の駅を降りるとそこだけ煌々と明るい空間。

 空に夜の帳が遠くに見えても、これからが楽しい時間とばかりに人もたくさんいて、車もどんどん入ってくる。珠里と一緒に電車からこの駅へと降りる人も多い。


 真田珈琲は一階フロアにある。ガラス張りの窓に茶色の木枠で囲まれた老舗珈琲ショップの落ち着いた雰囲気はひとめでわかる。

 外の通路からもガラスドアから入れるので、そこから入店をする。

 ―― いらっしゃいませ。

 落ち着いたスタッフの声が珠里を迎えてくれる。

 バリスタの服装をしているスタッフが接客へとやってくる。

「いらっしゃいませ。一名様ですか」

「はい。二宮と申します」

 そう伝えただけで、男性スタッフがちょっと構えた表情になる。

 珠里が訪ねてくることも、きちんと周知されているようだった。だが、若いバリスタの彼の背後に、短髪白髪交じりの中年男性が現れた。真田社長だった。

「私のお客様だ。あとは私がする」

「はい、社長……、お願いいたします」

「店内を頼む」

「わかりました」

 真田社長もスタッフ同様、白いシャツに黒いロングエプロン、バリスタのスタイルになっていた。

「いらっしゃいませ、珠里さん。わざわざこちらまで来てくださって、ありがとうございました。乗り換えもあって遠かったでしょう」

 珠里は首を振る。

「いいえ。久しぶりに古泉のお店に行けると楽しみにしてまいりました。それにここ真田珈琲さんの古泉店はとても落ち着いた雰囲気でお洒落でお気に入りです」

 そう伝えると、バリスタ姿の強面社長がにっこり微笑んでくれる。眼鏡の奥の目がとても優しく崩れた。

「こちらへどうぞ。ご案内いたします」

 まだまだ買い物客が外通路も店内通路も行き来しているのが木枠ガラス張りの店内からも見える。そしてさすが真田珈琲、ほぼ満席で、ビジネスマンもOLも、若いカップルも、老夫妻もと年齢性別問わずに来店している。

 そんな中、珠里はガラス窓がある外側へと案内される。しかも個室風になるよう引き戸がある席へと連れてこられた。

 大人数で座れる長椅子ソファーと大きなテーブルがある場所だった。

「こちらでお待ちください。お茶はいかがいたしましょう」

「あの、他のお客様がこられた時、このような広いお席に私がひとりでいては邪魔ではないですか」

「ここはママ友会やランチ会と日中にちょっとした会場を必要とされているお客様向けに作ったテーブル席です。そのために引き戸がついて個室風にしてあります。本日は、平日の夜間となりましたので、利用者も予約もありませんから大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 バリスタの姿をしているせいか、お客様を接客するスタッフのムードで、いつもの険しい狼社長さんの雰囲気ではなかった。

「お茶は私が淹れさせていただきますよ」

 いつにない優しい笑みに、珠里もほっとして席にすわった。

「なにがよろしいでしょうか。珠里さんは紅茶もお好きですし」

 だがこの社長が自ら淹れてくれるなら、誰もが頼んでしまうものがある。

「真田さんが淹れてくださるなら、アイリッシュコーヒーをお願い致します」

 真田のアイリッシュコーヒーはどこにも真似できない。しかも社長が自ら淹れたものはもっと格別。本店で彼が淹れたアイリッシュコーヒーに当たったら幸運の一杯だと言われているほどのものだった。

「かしこまりました。では、淹れてまいります。もうしばらくお待ちくださいませ」

 しばらく待っていると、少しだけ隙間をのこしてくれた引き戸の向こうで、真田社長自らお客様に珈琲を運ぶ姿が見えた。

 どうやらスタッフ数名ほどで忙しくしているようだった。だからここに呼ばれたのかと珠里も感じ取る。

 社長としては強面で同業者に畏れられている男性だったが、お客様に見せる柔らかな物腰に、珈琲を届ける仕草も洗練されていて、お客様も凛々しいバリスタの接客に笑顔になっているのが見える。幾分かした後、真田社長自ら銀トレイに乗せた綺麗なカップを運んできてくれる。

「お待たせいたしました。アイリッシュコーヒーです」

「ありがとうございます」

「ほんとうにお待たせしました。いきなりここの店長がインフルエンザを発症させてしまい、いま私が代わりに責任者として入っております。それで島へと行けなくなってしまいました」

「そうでしたか……。ではいまもお忙しいのでは」

「落ち着きましたので大丈夫です。遅い時間帯になってしまいましたが、来てくださって助かりました」

 いいえ――と珠里も彼が気にしないよう笑顔で首を振った。

 では打ち合わせと致しましょう――と、やっと真田社長が珠里の目の前へと向かいの椅子に腰をかけた。

 他の客からは見えないよう、ついに引き戸が隙間なく閉められる。

 ガラス張りの静かなゆったりとした空間でふたりになる。

 まずはせっかくだからとアイリッシュコーヒーをいただくことに。ひとくち、口に含む。

 やっぱり、おいしい! 何度も彼の珈琲を飲んだことがあるのに、珠里は初めて味わったかのように感動してしまう。

 真田社長特製の『サナダ・アイリッシュ』。熱いカップを口に付け、ひとくち。いつも以上に薫るカカオ、そして芳醇なアイリッシュ。そして微かな塩味。

 同じはずなのに、いつも以上に濃厚に感じて珠里は驚いた。サナダ・アイリッシュの特徴であるどれもがくっきりと際だち、そしてきちんと調和している。

「お店のものもたいへん美味しくいただいてきましたが……。やはり、社長が淹れてくださったのは極上です」

「いえいえ。店のものも同様のはずです。厳しく淹れさせていますから」

 だけれど真田社長はこの上ない笑顔を見せ、目尻にはいつにない優しいしわが。謙遜するが、自分の一杯は誰にも負けない気持ちもある。でもそれを言わない。そして店の一杯は自分と同じでなくてはいけないのだと譲らない。そんな彼の気持ちが透けて見えた。

「嬉しいです、真田さん自ら淹れてくだった珈琲がいただけるなんて」 

 にこりと真田社長が微笑み返してくれる。

 本当はもっと怖い人だと思っていた。彼の一人娘の美々がふらりと果樹園にやってきておばあちゃんのマーマレードを気に入ってくれた。その後『父を連れてきます』と二宮果樹園に父親である社長と来た時も、彼はむすっとした顔で、果樹園をじろじろ観察して、第一印象は『気難しそうで手厳しい、頑固そうな社長さん』だった。

 だが、そんな強面社長の第一声は『このマーマレードのファンになってしまいました。もう一瓶食べたくて、戴きに参りました』だった。

 そこからこの社長が電光石火で販売までの手腕を見せてくれ、珠里とおばあちゃんは、ただただついていくだけ。

 島レモンマーマレードを売り出すまでの打ち合わせを繰り返していくうちに、この男性の真摯で誠実で揺るがない信念を貫く姿勢を知り、珠里もいつしか全面的信頼を寄せていた。

 気がつけば、島レモンマーマレードの瓶が全国を駆けめぐり、テレビに映り、新聞の記事になり、雑誌に掲載されたり。めまぐるしい日々を迎えていた。島の小さな果樹園で生産に勤しむだけの農業者だったからどう対処して良いかわからない時も、この社長がすべて対応して守ってくれた。

 だから、どうしても。他の業者には心が許せなかった。ここまでしてくれる経営者はいないと思ったから。

 だがそんな珠里の頑なな心を解いたのは、実際のところ、同級生の涼というよりも、『カメリアの職人魂』だった。

 涼の真剣さもわかっているつもりだったが、どうしても『島レモンブームの便乗』にしか思えなかった。だが『ファスト的喫茶』と思っていたカメリアが新たに打ち出してきた『グランカフェ』、そこの専属パティシエがどのようなものかを珠里は知ってしまう。

 プロの洗練された極上の味に、そして王道スイーツの基本を極めに極めた最高の腕前。『グランカフェ』を打ち出しただけあって、『カメリアでも本物のお茶を提供する』という本気を感じてしまったのだ。

 真田は正統、カメリアは洗練。ばあちゃんの島レモン、双方のパティシエがどのように変身させてくれるのか。その期待が真田一本だった珠里を動かしてしまった……。

 そうして珠里が大満足で珈琲を味わっているのを、彼はしばらく嬉しそうに眺めてくれている。

 そのうちに手元に持ってきたシステム手帳やクリアファイルから書類などをテーブルに並べ始める。もうお客様をもてなすバリスタの柔らかさはなくなり、一気にいつもの鋭い眼光の狼社長の顔になっていた。

 珠里の目の前に、一枚の紙が差し出される。

「こちら、島レモンマカロンの広告のゲラです」

 カラフルに印刷されたその用紙を珠里は手にとって眺める。

「島レモンマカロン、そのように売り出そうと思っています。如何でしょう」

 だが珠里はその自信は本物だと、ゲラ刷りをみて驚嘆した。

「すごい、とても可愛らしい。素敵です」

 ――島レモンマカロンだけだと地味じゃないか。

 涼の心配は当たっていた。だがそんなこと、この社長はとうにわかっていた。だからこそのこの広告。

 その広告には、珠里がいま手にしてるロイヤルコペンハーゲンの茶器の写真、その横に『+』マーク。お好きな珈琲(紅茶)+おばあちゃんの島レモンマカロン+色とりどり、十数種類テイストのマカロン。

 そんな数式のように並べられているデザイン。

 広告のコピーは『アナタのカラフルはどれとどれ? お好きなドリンク+おばあちゃんの島レモンマカロン+お好きなマカロンをふたつ』、イコール『=』、このセットで890円というもの。

 キュートでカラフルな見栄えもさることながら、おばあちゃんの島レモンスイーツの他に、真田珈琲オリジナル限定マカロンを好みでふたつ選べるお得なセット。

 これを見たら『行こう』という気にさせる企画に仕上がっていた。

「ゲラまで仕上げておいて今更なのですが、入稿が目の前です。その企画でよろしいか本日は二宮さんの承諾を頂きたくてきていただきました」

「いえ、とても可愛くて素敵な企画です。こちらでお願い致します」

 まったく異存はなかった。真田社長はだいたい二宮果樹園を不安に陥れるようなぞんざいな企画はしないし、そんな流れももってこない。彼が勝手にこうして決めていようとも、いつも珠里とカネコおばあちゃんの期待以上に仕上げてくれるから不満も全くない。今回もおまかせしてよかったと、珠里はふたたび香り高いアイリッシュ珈琲を堪能する。

「このお部屋、ママさん達も利用できるように作られたのですね。このソファーなら赤ちゃんがいても安心です」

「このショッピングモールへの出店が決まった時に、スタッフと話し合って決めました。古泉店は他の店にない利便性を備えようと。その利便性が、子供連れでもゆったりできるスペースもつくろうということになりました。ですが賑やかにし過ぎても他の年齢層のお客様と噛み合わなくなることも念頭におきまして、そこで取り外しができるこの引き戸の間仕切りで区分けできる設計をすることにしました」

「これでしたら、ママさん達も気にせずにお子様と一緒にお友達とお茶を楽しめますね」

「おかげさまで、毎日予約が入っております」

 こういうお客様目線でお店を時代に合わせて作ってきたのも、真田珈琲がこの街で信頼されている実績だと珠里は思う。

「瀬戸内の地方都市ですが、どうもバカにはできないようですよ」

 いつものニヒルな笑みを、彼が急に見せた。

「ショッピングモールに出店しているショップの売り上げ報告が定期的にあるのですが、こちらに出店している全国大手アパレルメーカーの売り上げが日曜だけで一千万円行くそうです。そちらのマネージャーと親しくなりまして改めて話を聞くと、彼のメーカー社内の日曜売り上げ、全国支店で三位にまでなるそうです」

 珠里はびっくりして、じっくり味わっていた珈琲をごくりの飲み込んでしまう。

「まさか……。こんな何十万人ほどの中核都市ですよ……?」

「それが関係ないのですよ。この地方界隈の市町村からもこの商業施設を目指して、休日に集結するのです。大型連休に100万人集客した実績が残っています。それから客単価が高い。わざわざ出てきたわけですから、来たからには買っていこうとまとめ買いしていくそうです。特にゴルフウェアが売れるそうで、20万ぐらいのまとめ買いもよくあるようです」

 いまこの商業施設にくればなんでも揃う、美味しいものも揃っている、映画も観られる。家電もある、家具店もある。確かになんでもあるけれど、そこまでの力を持っているとは珠里も想像はできなくてびっくりした。

「地方でもその売り上げを出せる力も残っていると確信しました。もう中央でなければ売れない時代ではありません。全国のその場でどう人を集め心を掴むか、発信をするかです」

 その結果をこの社長はすでに『島レモンマーマレード』で出している。

 そして今度はついにおばあちゃんの島レモンでスイーツを作る。

「いまうちのカフェでも城山近くの本店以上にこの古泉店が売り上げを打ち出します。本店はお城山配下の繁華街。観光客と夜の集客がありますが、レモンマカロンはこの古泉店で大々的に売り出すつもりです。ですから、店長に穴を開けられますと痛手で、」

「だから真田社長が自ら出向いていらっしゃったのですね」

「そうです。動けない状態で、申し訳なかったです」

「ですが真田さんのアイリッシュ珈琲をいただけました。それに……ここから見える夕の景色も夜の雰囲気も素敵ですね」

 ガラス張りの壁の向こうに見える山間の夜の始まりと、きらきらのイルミネーション。そこで静かに落ち着いた店で味わえる珈琲は格別だった。

 そんな珠里を真田社長はじっとみつめているだけ。狼社長でもお客様を大事にするバリスタの目でもない。縁なし眼鏡の奥から時折みせるその眼差しは、他では見られないもので、そうして見つめられると珠里はなにか胸迫るものを感じずにはいられない。

「果樹園は大丈夫ですか」

「はい。いま金柑の収穫が始まったところです。温泉街の旅館からも年の瀬も近く注文が多いです」

 仕事以外でも『果樹園を守りたい』と常に口にして、真田社長は女だけの二宮家に気を配ってくれる。

 でも。時々、なにかを飛び越えたかのような、この大人の社長が真っ正面から投げかけてくる気持ちがどんと珠里の胸にぶつかる感触がある。

 実は真田社長、珠里と同じで若い時に奥さまを亡くされている。つまり長く独身だということ。そんな男性が、同じく若くして夫を亡くし果樹園を守る珠里を見て何を思ってくれたのか……。妙に同じものを感じる時がある。

「では。こちらのマカロンの発売日なのですが」

 そしてそれは珠里より長く独身を通してきた彼のほうが身に染みているのだろう。ナチュラルながら巧みに自分の気持ちを伝えてくるところは大人だけれど、切り替えも上手く、諦めも早い。

 その諦めの早さや、うっかり走り出しそうになった心に急ブレーキをかけることが身に付いてしまう。それが珠里には良くわかる。伴侶を亡くした者同士。ときどきこの男性と、懐かしく亡くした相手の話をしてしまうこともある。

「ところで。カメリアさんはどうされていますか」

 周りのライバルなど普段は気にしない社長らしからぬ問いが唐突に出てきた。珠里も頭を切り換えて答える。

「はい。あちらも発売前でお忙しそうです」

 社長にとってはクラシック・ショコラの発売決定は、思わぬ敵の登場と言ったところかもしれない。娘の美々が割って入って協力したり、気にしていた紅マドンナをあちらが先に使うことになってしまったり。不測の事態だったことだろう。お世話になった社長をないがしろにしたようで、珠里もそこは申し訳なく思っていたのだが、その社長が思わぬ話を始めた。

「先日お会いした、真鍋チーフ。美々からも試食日の彼の仕事振りを聞きまして、なんとなく気になりましてね。美々も『クラシック・ショコラの企画者は後輩の男性だったが、ショコラを発売になるよう展開させたのは真鍋チーフの機敏な手腕だ』と褒めていました。その後、いろいろ知り合いを通して話を聞いてみましたら、ちょっと面白い経歴を知ることが出来ましてね」

 え、涼の『面白い経歴』? 十数年ぶりに会ったから、それまでの涼のことはほとんど珠里は知らない。

 そして社長が驚くことを教えてくれた。

「カメリアで爆発的にヒットした『柚子胡椒シフォンケーキ』。東京本社時代、彼の発案で彼の企画で生まれたものだったそうです。つまりヒットメーカーの男だったというわけです」

 あの柚子胡椒シフォンは、涼が作り出したもの!?

 だったらどうして彼はいま、この瀬戸内の地方支社に?

 驚きのあまり珠里は目を見開き、教えてくれた真田社長をじっと見つめるだけに。そして社長の眼鏡の奥の瞳が、黒く熱く揺らめき燃えていた。


 

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