2-4 柚子胡椒シフォン
驚愕し言葉を失った珠里との沈黙を埋めるためか。真田社長から話し始めてくれる。
「柚子胡椒は九州生まれの調味料で、四国中国地方などの周辺地方に僅かに流通するぐらいのものでしたが、中央メディアからもようやっと『柚子胡椒』を耳にするようになったばかりだったのに。あの辛みのある調味料をケーキ生地に入れてしまおうだなんて発想は、私も含め誰もが驚いたところでしょう。当時は塩やスパイスを菓子に用いるという発想が、国内ではまだ一般的ではなかったものですから、カメリアからあのヒットが出た時の衝撃はいまも覚えていますよ」
それを。あの若僧チーフが、さらにもっと若い新人の時にやってのけた。
真田社長もその衝撃をこの瀬戸内の地方で受け止めて、自分も何かやってみたいとモチベーションをかき立てていたと話してくれる。そして数年経って、誕生の経緯が判明した現在。当時自分を駆り立ててくれた羨望の作り手が、『同郷の青年』だったと知ったベテラン社長の驚きはいくばかりか。
「ですが納得です。この地方で育った青年が『柚子胡椒を使ってみよう』と思いついたのも、彼にとって身近なものだったからなのでしょう。あの時、単なる調味料だという認識しかなかった柚子胡椒が、遠い中央でスイーツで持て囃された驚きもありましたが、近しい地方の食材が主役になるという嬉しさと誇らしさも味わったものです」
それが、あの青年チーフがしたこと……。
だがそこで、社長は珠里から目線を反らすようにふっと眼差しを伏せる。
「最初の業績が大きすぎたのでしょう。本部の企画部という花形の部署にいながらも、その後は鳴かず飛ばずのまま。『単なる新人のビギナーズラックだった』という判を押され、こちらの地方に送られてきたようですね。『瀬戸内地方に出店するグランカフェの企画営業を担当する』という名目の転属だったようです。売り出し中のカフェをリードしていく企画営業ですからエースはエースですが、本社から地方では彼も悔しい思いをしたことでしょう」
そこまで真田社長が涼を調べたことにも、珠里は驚きを隠せない。それだけ気になったと言うこと。そして『この青年、なにか気になる』という社長の勘は当たっていたというとになる。
そして珠里も。涼がそんな素晴らしい業績を残し、なのに、その若さで辛酸を舐めるような思いで生まれ故郷に追いやられていただなんて……。知らなかった。そして彼の必死さも、なんでそんなに力みすぎなのと眉をひそめてしまったあの勢いも、どうしてだったのかやっと解る気がした。
「し、知りませんでした。私……。彼のこと……。それに、そのシフォンをいまでも時々……食べたりしていたので、その、まさか……同級生の彼が」
今日だって現状把握と称して偵察のように入ったカメリアカフェでも、いつも通りのオーダーで味わってきたばかり。
カメリアでは柚子胡椒シフォンを珠里は好んできた。あのシフォンがメニューから外れたら、もうカメリアのファストカフェでは食べるものなどないから行かなくなると思うほど、珠里という一顧客を繋ぎ止めている商品だった。それを生み出したのが、あの『委員長』だったなんて。
胸が痛み、唇が震えた。彼は頑なな珠里のことをあんなに噛み砕いて丁寧に接してくれたのに。珠里はそれにすっかり甘えていただけではないか。彼には彼の……。
『俺、一般論で珠里のことを判断しようとしていた。ごめんな』。違う。珠里のほうが、なんにも判っていなかった。
珠里は思わず片手で顔を覆ってしまう。
「珠里、さん……?」
「いえ。失礼致しました」
だけれど涙が僅かに滲んでしまった為、ハンドバッグからハンカチを取り出し目元を押さえた。既に誤魔化しようもなく、真田社長が大きくひと息ついた。
「申し訳ありません、珠里さん。私は、すこし熱くなってしまったようですね……」
気になる青年が、思わぬライバルになりそうな予感があるからか。それともその青年が珠里の知り合いだったからなのか。ともかく、落ち着いた大人の男でいたかったはずなのに思わず吐露してしまった。そう言いたそうだった。
「やはり、同窓生ですね。心配させてしまいました」
珠里はそっと首を振る――。
しかし真田社長は『熱くなってしまった』と話をやめたが、話してしまったからにはとまた続けようと口を開いた。
「いまの彼はおそらく都を追いやられた気持ちでいることでしょう。だから必死になりすぎて空回りになることもあったかもしれませんね」
当たっていた。珠里と再会したばかりの涼は、必死で積極的なだけで、なにも持ち駒をもっていなかった。ただばあちゃんのブームに便乗して自分もおおきなことをしようと、俺なら出来るといいたそうな、そんな漠然としたものしか伝わってこなかった。
涼が訪ねてきた時には既に、真田珈琲では『マーマレードの次は、島レモンのスイーツを作ろう』という企画が進んでいた。しかし、同じような企画を持ち込んできた涼の目の付け所は真田と一緒だけれど、ただ『島レモンを使えばなんでも出来る』と考えているだけで、なんのビジョンも見えなかった。
だから珠里は『負けるよ』と投げかけた。カメリア珈琲がグランカフェを通して『良いものを作って届ける』という姿勢を見せてくれなければ、ほんとうに一度だけ彼の営業トークを『同級生のよしみで聴いて』断るつもりだった。
あの涼の空回り。でもそれがどれだけ彼を追いつめてあの姿にしていたのか、いまやっと解る。
「心配でしょうが、これからだと思います」
そんな同級生を案じる珠里を思いやってくれたのか。真田社長は涼をとりまく状況と今後を説いて聞かせてくれる。
「畑で偶然、真鍋さんと会った時。彼の目は負けた男の目ではなく、絶対に諦めないという意志の強い顔をしていました。ですが、ヒット以来不振だったのは転属しても変わらなかったのではと私は感じています。ここ数年、この城下町にあるグランカフェの企画を振り返っても、この地方に根を下ろしているベテランチーフが提案するような無難な企画ばかりでしたから、若い彼等の案が通るのは一年に一度あるかないか――というところだったのでは、と見ております。つまり彼にしてみれば空回りの日々。ですがそんな自分がどうすれば良いか気がつけば、本来の彼の感性が開かれる。先日彼と対面した後、そう思っていました。しかし、それに気がつき開花するにはまだ少し経験が足りず若いかなと感じています。もしかするとそのまま潰れるかもしれない。どこまで耐えうるか。それは私でなくとも、カメリア本社でも注目しているところだと思いますよ。本社で育てるには早かった、だから他の社員同様、地方で育つことを望んで手放したのでしょう」
ベテラン経営者の目から見た青年の姿は、珠里の心に生々しく映った。だけれど、まだ終わっていない。そう言いたげな社長の見解に、珠里は顔を上げる。
「いまからでも、まだ間に合うということですか」
「地方へ転属した青年達は皆おなじく。地方だと腐らず成果をいかに出すか、『志』次第だということです。……ですが。美々から聞かされた『クラシック・ショコラ』誕生の経緯からも、彼の感性がまた目覚めて来た気がしてならないんですよ」
確かに――。珠里も思う。涼自身も言っていたが『自分のことばかり考えるのはやめて、周りにある状況でどうすればいちばん良いかを考えるようになった』と。
それが敵対していた後輩の案なら成功すると認め、上司に採用してもらえるよう自分が補佐に引き下がったこと。そして『誰がリーダーだなんて関係なかった』と言って、自分を認めてもらうことばかり考えた行動をやめ、本当に美味しいものを作るためにとにかく走り回る。そんな自分に変わった時、またときめく企画が閃く余裕を見せるようになったのでは。と、珠里も感じている。
それは、真田社長も既に――。
「なので。どうも気になりまして。また突然、あの柚子胡椒のような発想をこの街でやられたら、私もひとたまりもありませんから警戒中と言ったところです。なにせ、美々が『あのチーフは次にまた、なにかを閃くに違いない』と言っていましてね」
「美々さんが……」
彼女の感性は、まさに真田輝久の娘と名乗るに相応しいものだった。幼い頃から父親の目利きと手腕を見つめてきただけあって、喫茶に関しての先見の明が備わっている。
祖父は真田珈琲創業者、父は二代目で卸販売にとどまらず真田喫茶を確立、そして彼女が三代目。『喫茶業の英才教育』を知らず知らずのうちに受けて育っている。
それが『喫茶経営』に向いているのでは――と真田の関係者は思い始めている。
「あれが、こんなに喫茶の仕事に向き合ってくれるとは思わなかったのですが。なかなか見所があるだなんて言ったら、珠里さんに親バカと言われるでしょうかね」
父親として経営者として揺れる輝久氏が見せてくれる本音。珠里の返答も決まっている。
「いいえ。美々さんなら、お父様の意志をきちんと引き継いでくださると私も思っております。美々さんが果樹園を見つけてくださらなければ、おばあちゃんの島レモンもこんなに知られることはなかったと思っていますから」
「美々と仲良くしてくださっている珠里さんからそう仰って頂けると、私もほっと致します。真鍋君もあとひと息かもしれません。心配されることはないと思いますよ」
ここで成果をあげたら、委員長は東京へ帰っていく。そして涼はあんなに必死になって取り戻そうとしていた。よほどに望んでいることなのだろう。
でもいまの涼は、心に余裕を持っているように珠里は感じている。焦らず動じずおおらかに構えて、二宮果樹園との仕事を始めてくれた。そう思っている。
それならば、彼もそのうちにいつか東京に行ってしまうかもしれない。彼との仕事は一時だけかもしれない。珠里はそんなことを思い描いていた。
「珠里さんにとって。真鍋君はどのような青年なのですか」
その質問にも珠里はやや面食う。だが衝撃で濡れた目元からハンカチを降ろし、珠里はやっと微笑む。
「やはり。同級生です。分かりやすく言えば、『同じ釜の飯を食う』に似ています」
「なるほど。あの蜜柑いっぱいの島で、緑の樹々、橙の果実、蒼い海、青い空、潮の香に囲まれて、ひとつの教室で日常を分け合ったということですね」
珠里は微笑みながらこっくり頷く。
「いままで三十年ほどの人生で、一緒に過ごしたのはたった二年。とても親しくしていた訳でもありませんし、思春期でしたから余計に男子と女子で別れていました。でも……そう、おなじ空気を吸ってきて、おなじ土を踏んでいた。それが身体中、五感の隅々まで行き渡っている。あの頃の匂いが共に解る――そんな感じなんです」
「同窓生、同級生、クラスメイト――ということですね」
「はい。会って直ぐに、あっという間に中学生に逆戻り、そのままでやり合ってしまったほどです」
やり合う? 真田社長がきょとんとした顔になる。
「珠里さんが? そんなふうになるんですか? 彼とやり合ったんですか?」
「はい。当時のまま、クラス統率のためなら強引なリーダーシップも厭わないまっすぐなところがあって、いきなりそのような営業を仕掛けてきたので、『自分が良いと思っていることは、皆にとっても良いと思っている。当時と変わらない。委員長はいつも勘違い、大っ嫌い!』と、子供っぽく感情的になってしまいました。当時もそれに似た行き違いをした仲でしたので、つい」
「ほう……。いつもは何事にも淡々と受け流す珠里さんを、怒らせるとはねえ」
真田社長がおかしそうに顎をさすりながら笑った。
「それが瞬時に蘇るのが、きっと同級生。近頃は、つくづくそう思っています」
そして穏やかな眼差しで、珠里を見守るように微笑む社長がさらに尋ねる。
「東京本社でのヒットメーカーの男と知り、ときめいたりしませんか」
……どういう意図の、質問?
珠里は戸惑うが、今度は自分も真顔で切り返す。
「ありません。ただの同級生、いまは仕事仲間です」
「彼との仕事は楽しいですか」
その問いに、珠里は……同じく共に仕事をしている男性に直ぐに答えるのは躊躇った。でも。
「楽しいです。カメリアさん独特のお仕事にドキドキしています」
「そうですか。楽しくされていると知り、安心いたしました」
どこか社長らしくない質問だったが、きちんと答えた珠里を真田社長はひたすら穏やかな眼差しで見つめてくれている。
そういう懐の広さが……。とても心地よいと思う瞬間。そしてそんな社長にも珠里はきちんと伝えたい。
「もちろん、真田さんも同様に。今日はこのマカロンのキュートな広告に心躍りました。これを見せたら、乙女チックなおばあちゃんもとっても喜ぶと思います」
「ありがとうございます。勝手にしましたが、きっと……いまどきのセンスに敏感なカネコさんが喜んでくれるだろうと思って、この親父もカネコさんを見習って頑張ってみました」
確かに。純喫茶の流れを残している正統派の真田さんにしては、ちょっと可愛すぎるムードに仕上がっている。でも……この厳ついおじ様が『アナタのカラフルはどれとどれ』と瞬時に思いついたセンスも素晴らしい……というか、ちょっと珠里も笑っていた。
「本日は気に入って頂けてほっと致しました。こちらで販売を進めて参ります。では、本日はこちら、予定しているマカロン生産数に対するレモンの仕入れ個数と価格ですが」
今度こそ、仕事の話。真田社長が先ほど用意していた書類が差し出され、珠里もまとめられた計算表を確認する。
小一時間、真田社長ときちんと話し合い、販売に向けての合意を確認しあった。
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