2-7 ボンゴレ・ロッソ

 カメリア珈琲、クラシックショコラ第二弾の広告が新聞に折り込まれた頃。

 契約先との企画事業も一段落。穏やかな収穫に勤しむ日々を珠里は取り戻していた。

 

 伊予柑がたわわに実る畑。穏やかな冬の日射しに照り輝く橙の実に囲まれて、珠里は今日も畑にいる。

 物言わぬ樹木に囲まれ黙々と一人、それで寂しくないのかと思われそうだが、こんな時間がいちばん心を穏やかに保っていられる時間だとも言える。

 この日はカメリアと真田との打ち合わせはない日で、珠里はじっくりと柑橘の樹木に向かい午前中の仕事を終えた。

 

 本日は、ちょっとご褒美気分。珠里は収穫を終えた伊予柑畑の片隅に向かう。

 晴れた瀬戸内が見渡せる果樹園の石垣。そこにレジャーシートを敷いて、ちょっとお洒落なバスケットと水筒を目の前に並べた。

 お天気も良く、収穫も一日行う予定。朝、漁協の手伝いから帰ってきた義母の『紀江』が、美味しい素材を持って帰ってきたので、珠里は朝からそれを料理して持ってきた。

「いただきます」

 結婚した時に、憧れていたランチバスケットのセットを買った。白い皿にフォークにスプーン、パンナイフなど。そしてその中から花柄のガラスタッパーを取り出す。

 こうしたお洒落なバスケットで、旦那さんとお昼ご飯を食べるのが夢だった。勿論、その夢は叶った。夫が生きていた三年間、お弁当をつくって彼とおばあちゃんと海を見ながら、この畑で珠里の手料理を食べてもらった。

「直人さん。あなたが大好きだったボンゴレ・ロッソよ」

 このあたりで取れるアサリは美味しい。お義母さんが持って帰ってくると、珠里はそれでボンゴレをつくる。白ワイン仕立てのビアンコも、トマトソース仕立てのロッソも作る。だけれど取り分け、夫が気に入ってくれていたのがこのロッソだった。

 そして水筒には秘密の飲み物……。

 白いお皿に盛り、赤いチェックのナプキンを広げ、一人ランチタイム。

 でも向かいには若草色のナプキンを広げ、そこにもひと皿盛って置いた。

「ナオさんも、どうぞ」

 天気が良い日、ボンゴレ・ロッソが作れる日。珠里はそうして直人と向き合う。

 彼が愛していた畑の片隅で。不思議と寂しくない。何故か満たされる。きっと彼との楽しかった日々が、少しだけ慰めてくれるのだろう。思い出の夫とずっと。


 彼が初めてレモンを収穫している姿を見た日。


それ。レモンですよね。まだ青いのに摘んでしまうんですか。

そうなんよ。国産の瀬戸内レモンと輸入のレモンと識別にするため、青いもんを出荷するんよ。

そうだったんですか。黄色くなってから採るのかと。

これが瀬戸内のレモンだ、国産だと、一目でわかってもらえるようにしとるらしい。輸入もんと一線を画するためなんやと。

初めて聞きました。知りませんでした。

摘んだあと、冷蔵庫に保存しても長持ちするんやけど。その冷蔵庫の中でゆっくり黄色になっていくんだわ。


 彼が青いレモン片手に脚立を降りてくる。

 そして珠里に青いレモンを握らせてくれた。

 

酸っぱいよ。いまの泣いて逃げてきたねーちゃんみたいに。囓ったらもんのすごく酸っぱくて泣きたくなるわ。

あんただけじゃないやろし。俺もそうやし。自分がほかのレモンよりすげー酸っぱいかもしんねえ、食べてもらえんかもしれねえとか思っているかもしれんけど。案外、どいつもこいつも同じ程度のレモンだったりするんじゃけえ。ここの沢山の樹もちょっとずつ違うけどよ。でもやっぱ同じ畑のレモンや。他人様から見たら案外どーでもいい差だったりするんだわ。そやから自分ばっかり責めるなや。

 

 

 夫が、初めて珠里にくれたもの。



 もう五年、彼がはじめてくれたものを思い出して、それを糧にして。珠里は気を取り直して、水筒の蓋をひねった。秘密のドリンク、それを飲もうと……。

「いた。やっと見つけた。レモン畑でなければ、伊予柑畑だろうと思って」

 黒いコート姿、眼鏡の男が木陰から現れて、珠里はギョッとする。

「ま、真鍋君」

 涼は珠里がやっていることを見て、何事かと目を懲らしている。

「こんな冬にピクニックか。しかも一人で」

「畑にいると良くするんだけれど。さすがに寒い日はしないわよ。今日は暖かいじゃない」

「そうだなあ。良い天気だもんな。だからつい、営業回りが終わってふらっとフェリーに乗ってしまったじゃないか」

 お天気が良くて、ふらっとフェリー? 随分と楽天的にこの島に来たのだなと、珠里は呆れた。

「今日は約束の日じゃないのに」

 だから夫と二人になれると思ったのに。そう心で呟いて珠里はそっと、誰も手にするはずのない向かいのお皿を、自分の手元に引き寄せ隠した。

「すんげえいい匂い。美味そうだなあ」

「……食べる?」

 同級生の目が眼鏡の奥で輝いた。もうどうしようもない。そんな期待に満ちた顔をされたら……。

 涼もレジャーシートに腰をかけ、海を見ながら珠里が盛りつけた赤いパスタを頬張ってくれる。

「うまい。珠里が作ったのかよ」

「うん。今朝、お義母さんが漁協からアサリを持って帰ってきたから。私、ここのアサリ大好き。すぐにボンゴレにしちゃう。ほんと伊予灘のお魚は美味しいわよね」

「そうかな。普通だと思うけどな。どこも一緒だろ。確かに海がある街ではあるけど」

「真鍋君は、この街で生まれて育ったからよ。やっぱり海の食べ物は東とは全然違うわよ」

「あー、それは東京にいる時に感じたなあ」

 急に彼が遠い目で青い海を見渡したので、珠里はドキリとして黙り込んでしまう。

 そんなうつむいた珠里を見て、何故か涼が笑っている。

「もしかして。俺が東京で何をしたかとか、どうして四国に帰ってきたのか。誰かから聞いたのか」

 彼から核心に触れてきたので、珠里は戸惑って涼の目を見ることしかできなかった。

「梶原から? なんだか、知っているふうで、俺に気遣ってくれているような気がしたもんだから」

 東京本社に勤めていたことがある。その話題になった時のことを言っているのだろう。だけど珠里は『梶原さんではない』と首を振る。

「じゃあ……。真田社長かな。俺のこと、調べたのかな」

 予測もつけていたようで、もう珠里も隠せそうになかった。

「そうだよ。真田さんが、真鍋君の仕事がとても気になるから、どのような経歴の持ち主か人づてに調べたら……『柚子胡椒シフォン』を作り出した本人だったと知って、とても驚かれたみたい」

「そっか。まあね、あの人にはいずれ知られるとは思っていたよ」

 慌てるわけでもなく、涼は淡々と珠里のパスタを頬張っている。

「私。いまでもカメリアカフェに行くと、柚子胡椒シフォンしか頼まないの。神戸で初めて食べた時から大好きなのよ」

「そうなんだ。ありがとう」

 さっぱりした笑みを見せてくれ、珠里もほっとする。触れてはいけないことだと思っていたから。そして今だってどう接して良いかわからない。

 なのに、涼から言いだした。

「あれさ。実は……。うちの母親がやっていたんだよ。シフォンではなくて、クッキーに入れて焼いていたんだ。それを真似ただけ。実力なんかじゃない。だから……。その流行が去った時、俺に相応しい場所に帰されただけ。本当はもっと早いうちに地方勤務にまわされていたような人材なんだよ」

 お母さんのアイディアだった。そう聞かされ、珠里はますます受け答える言葉を失う。だけど、なんとかしてその功績は確かなものであると言いたくて、珠里も懸命に口を開く。

「でも。それを世に送り出したのは真鍋君じゃない。そうでなければ当時は誰も思い付かなかったものだったわよ」

「いいや、俺の実力なんかじゃなかったんだ。そして俺も、そんな自分を認めたくなくて、また何かすごいことを思いつけるはずだと空回りばかりして時間を無駄にしていたんだ」

 今日の彼は、いつもの委員長でもチーフでもない。そしてそれをどうして珠里に聞かせてくれるかもわからない。

「だから。地道に努力してきた梶原が、最良のスイーツを考案できて当たり前なんだ。俺はただ、二宮果樹園から素材を確保する営業しか出来なかったから」

「だけれど。梶原さんも言っていたわよ。チーフが再採用してくれなかったら、不採用のまま終わっていた企画だったからと。真鍋チーフのリーダーシップがなければこの仕事は成り立たなかったはずだから感謝していると、私にもおばあちゃんにも話してくれたもの。ミニサイズの提案も、今回の売り上げをさらに上乗せさせたと思うし、それを推し進められたのも真鍋君の行動力しかないじゃない」

「まあ。そうなんだけれどさ。なんだろう。今回の企画は俺のターニングポイントだったかもな。急にそんな気になったんだ。自分が、じゃなくて。会社から、いや……俺達のカフェからヒットを出さなくてはいけないと。そうしたら急に仕事が上手く回り出すんだもんな。こういうことだったんだよ、きっと」

 そして涼は、白い皿のパスタを食べきると、珠里にではなく海に向かっていった。

「だからさ。俺、ここからもう一度やり直すんだ。俺も仕事をひとつひとつ積み重ねていくよ。その間に何かが起きるかもしれないし、もう起きないかもしれない。だけどそれは流れ任せだ。とにかく仕事をする」

 だから……。梶原氏の成功を清々しく報告してくれたのだと、珠里にも伝わってきた。ふっきれているようで安心した珠里も微笑む。

「じゃあ。乾杯しようか」

 珠里は秘密の水筒をひねった。

「乾杯?」

 訝る涼の前に小さな白いマグカップを置き、珠里はそれを注いだ。

「はい。これ」

 温かいカップを彼に差し出す。涼もそれを手に取り、香りをかいでいる。

「え、これって」

 彼の驚く顔。手元のカップからは、ワインの匂いがしたからだろう。

「ホットワイン。赤もするけど、今日は白ワインで。時々、体を温めるために畑に持って来ちゃうの。主人も好きだったのよ」

 湯気がゆらめくカップから、レモンとクローブやシナモンのスパイスの香り。甘いハニーも、そして微かな葡萄のアルコールの匂い。特別な気分の時の、秘密の飲み物。

「秘密よ。私も今日は、クラシック・ショコラが大成功して、お祝いしていたの」

 そして、珠里も正直に告げる。そっと後ろに隠していた、誰も食べていないひと皿を涼に見せた。

「夫と、ね。誰も来ないと思って……。彼に報告していたの。うちの畑から、素敵なお菓子が生まれて、たくさんの人が幸せそうに食べてくれましたよ――と」

 今度は、それを知った涼が驚き固まっている。そして急に、くつろいでいた姿勢を改めレジャーシートの上で正座になった。

「そうとは知らずに。ご夫妻のお邪魔を致しました。しかも、図々しく奥さんの手料理を食べてしまいました。こちらも頂きます。ご主人」

 伊予柑の樹に、涼はカップを掲げ『紅マドンナをありがとうございました。乾杯』と言ってくれた。

 まるでそこに直人がいるかのよう。そして夫が涼に『良く来てくれたね』と出迎えているような錯覚さえ起きた。また涙が滲みそうになったが珠里は必死に堪えて。

「真鍋君、お疲れ様。素敵なスイーツをありがとうございました」

 ――『乾杯』。

 小さなマグカップで、ささやかに祝い味わった。

「あーあ。車で帰れなくなった」

 飲み干した涼が呟いたことに、珠里もハッとする。

「やだっ。ほんとうよ! なんで、なんで真鍋君、気がついてくれなかったのよ」

「でもこれ、火にかける時にアルコールをだいぶ飛ばしているんだろ」

「そうだけど。私だって時々、ふわふわってなっちゃうんだから。アルコールが全部飛んでいるとは言えないの」

「そんな俺に飲ましたの、珠里だし。あーあ、帰れねえ」

 でも涼は余裕で笑っていた。今日はいつも時計を気にしている彼じゃない。

「大丈夫だよ。新春の売り出しも落ち着いたし、数字は出たし。あとは梶原の仕事な。俺はちょっと休戦中。でも来週からヴァレンタイン準備で全力かけるから、珠里もよろしくな」

「それならいいんだけど……」

 ほっとした珠里を見て、また涼が笑う。

「あー、やっぱり来て良かった。あー、このまま眠りてえ」

 あの委員長がふざけて、本当にごろっとレジャーシートに寝転がった。

「やめて、やめてよ。こんなところで寝転がらないでよっ」

 これから私はまだ仕事、なのに夫でもない男が、こんなところでほろ酔いでごろごろされたら困ると、彼の身体を揺すった。

 もちろん、涼は珠里が慌てているのが楽しいのか、笑って言うことを聞いてくれない。でも本当にホットワインのせいなのか、彼はゆらりと立ち上がるとコートに付いた砂埃を払い、珠里を見下ろした。

 だまって珠里を見つめたまま、なにもいわない。そして一時、夫が遺した伊予柑の樹をみあげている。彼がコートの襟を正して、歩き出す。どこか疲れているかのような?

「どこに行くの。車の運転、できないんでしょ」

「ああ、ゴリまんのとこに行ってくる。いろいろ密柑山の話も聞きたいんでね」

 あちらの同級生とも、近ごろは『なにか出来ないか』と話し合っているようだった。

 なんだかいつもの彼ではないような気がした……。

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