2-6 クラシック・ショコラ
新年も無事に迎えた。
だが正月といえども、畑が気になれば珠里は農作業着で外に出ている。
海も穏やかで、今日は船も少ない。それでも帰省客を乗せているだろうフェリーはいつもどおり、珠里の目の前を通り過ぎていく。
今年もこの島で新年を迎えた。また一年、きっと珠里はこの島を出ないでここにいると思う。そして、実家には帰らない。もう母にはずっと会っていない。母からもなにも言ってこない。
「珠里ちゃん、見て」
島の静かな元旦を終えようとしていた夜のことだった。
分厚い新年の新聞を、カネコおばあちゃんがこたつの上に広げ、台所で片づけをしている珠里を呼んだ。
「どうしたの、おばあちゃん」
「見て見て、ついにカメリアさんの広告が入っとったんよ」
既に見覚えのある、華やかな広告。明日の初売りに合わせ発売される『クラシック・ショコラ』の広告だった。
カメリア珈琲らしく、艶やかな赤い背景に、華やかにデコレーションされたあのひと皿が大きく載っていた。
このゲラが届いた時、カネコおばあちゃんはとても嬉しそうだった。
それまでは、『瓶詰めのマーマレード』だけが二宮から誕生した商品だったが、今度はお店でお洒落に提供される。おばあちゃんの夢そのものが叶うかのような美しさに、おばあちゃんはその広告のゲラを大事にファイルして取っておいているほど。
「でも。心配やな。梶原君、緊張しとったもん。様子を見に行きたいけれど、初売りやったら人も多いし。もうばあちゃんはそんな人混みの中、歩く気せんのよ」
「そうね。あのあたり、初売りで明日はとっても混むわね。でもお買い物帰りに寄る人も多いと思うから、大丈夫じゃないかしら」
グランカフェはそういう恵まれた立地条件だった。ただ……。
「真鍋君も大丈夫かいね」
「真鍋君は度胸があるから大丈夫よ」
「なんか知らんけど。土壇場になって『グランカフェ以外でも、小皿で売り出す』とか言いだしてたやないの」
その話が出て、珠里は少し頭を痛めてしまう。この『小皿で売り出す』という涼からの提案で、年の瀬前に、一悶着あったからだった。
涼からこのゲラ刷りを届けてもらった時、華やかな広告の片隅に小さな写真画像が貼られていた。
『グランカフェ以外の、カメリアカフェではミニサイズでお届け』と、打ち合わせにないことが掲載されていて、珠里は仰天したことを思い出す。
だけどすぐに、涼がやろうとしていることがわかった。だからグランカフェ以外の『売り上げがありそうな店』の客足を探っていたのだと。
この時涼は、『どこのカフェも、グラン並みの客層と客足が望めないため、価格を下げ、クラシックショコラ一切れのミニサイズで売り出すことも付け加えた』と初めて報告してくれた。
それははっきり言って『身勝手な事後報告』だった。そして涼はそれも重々承知で『打って出た』のだと。
『勝手に致しまして申し訳ありません。時間もなく、上司からの許可をギリギリで得たものですから。本日が最初の報告になってしまいました』
深々と頭を下げ、謝罪してくれた。おおらかなカネコばあちゃんは『いいんやないの。これなら、グランカフェに出向かない客層も買いやすいだろうし』と、なんなく受け入れていた。
だが珠里は違う。その時、『委員長』を既に睨んでいた。そして涼も、おばあちゃんよりも、珠里が怒ることを懸念していたのか申し訳ない顔を見せていた。
『委員長らしいわね』
この一言だけで、涼は珠里がどうして怒っているかもわかってくれていた。だからこそ、再度、珠里に頭を下げてくれた。
『悪い。わかっている。俺の強引な取り決めだったと』
だけど。と、頭を下げたまま涼は続けた。
グランカフェは華やかで高級感がなくてはならない。クラシックショコラの価格は『ひと皿、1200円』。真田とは違いこの豪華さがステイタス。フランス料理を食べに来たような気分を味わってもらうために、素材もこだわり、パティシエに丁寧に作ってもらう。今回のコンセプトも『貴女のために、手でつくられた』であるため、嘘偽り無く手作りであることも含め、この価格が妥当で説得力も増すのだと。だがこの値段だと、おそらく余裕があるOL女性達にしか食べてもらえなくなる。どんなに客足もなく客層が違うファストスタイルのカメリアカフェでも、そこには日々、子連れの主婦やママ友の集まり、あるいは初老マダム達の買い物帰りのお茶として人々がやってくる。そこに主婦層向けに1200円の皿は提供しづらい。だから、彼女達でも注文してもらえるひと皿400円のミニサイズを提案した。
これが涼の言い分だった。そしてそれは、ファストスタイルのカフェを視察してきた珠里が懸念していたことを、すべて払拭する提案だった。
彼がやったことは、勝手ではある。でも最終的には、皆の望むところを叶えるように運んでくれている。だから怒りたくても、許さざる得ない。
こういう強引にまとめるところ。やっぱり変わっていなかった。だから珠里の精一杯の文句が『自分が良いことは皆に良いことと信じて疑わない、真鍋委員長らしいね』だった。
――もう二度と、相談もなしに勝手なことはしないで欲しい。
一度許すと、なんでも強引に取り決められそうで信じられなくなる。同級生だからこそ、余計にその一線ははっきりさせておきたいという、同級生だからこそ強い姿勢になってしまった。
だが、珠里からのきつい釘刺しに涼も平伏叩頭、二度としないと誓ってくれた。
それでも。今思えば、やはり『同級生だからかな』と思ってしまう。
『珠里なら、俺がどうしてここまでやろうと踏み切ったかわかってくれる』と……彼がそれを強みにして押し切ったような気もしていた。いつのまにか出来上がっている『信頼』が根底にあっての行動なのではないか、そんな気もした。何故なら。あのショコラを売り出そうとして案じていたことが、彼と話し合わなくても一致していたから。
珠里は『単価が高すぎる。グランカフェ以外では売れない。なのに通常カフェにも出すのは無駄なことなのでは』と心配してカメリアの手腕を疑ってしまったのに対して、涼は強引でも許される時間ギリギリまで最善の策を打ち出し、奔走してくれていた。実際……、結果的に正しいのは委員長だと珠里は後に一人で噛みしめ反省をしていた。
ついに明日発売。強引なやり口も含め、なんとなく不安が残るカメリアさん。そしてようやっと企画を勝ち取った若手青年二人の、成果が出る日でもあった。
「そやね。真鍋君は、けっこう思い切ったことをやってのけるよね。やっぱりチーフさんやなと、ばあちゃんも思う。そやけどね、梶原君は今度が初めての企画売りだしなんよね。この前も売れなかったらどないしよう……とゆうていたから、なんか忘れられんくてねえ」
おばあちゃんは、カメリアの青年二人を孫のようにして見ているところがある。たぶん、亡くした孫『直人』と重ねてしまうのだろう。
その中でも、まだ若い梶原氏のことは、とても気にかけている。そして梶原氏も、そんなおおらかなおばあちゃんと向かっていると、とても肩の力が抜けて『男の子』のような顔でうち解けている様子を見せる。だからついおばあちゃんには、心許ない心情を吐露してしまっているようだった。
おばあちゃんが『ふう』と心配するその顔は、孫の直人を気にかけていた時の顔と一緒だった。
「おばあちゃん。私、明日、様子を見てくる」
やっとカネコおばあちゃんが笑顔になる。
「ほんとかね。是非、そうしてや。珠里ちゃん」
新年早々、珠里は島からでかけることになる。
◆・◆・◆
新春の初売りがあるこの日に、街中に出向くなんて何年ぶりだろうか。
女性らしい買い物など、ほとんどしなくなってしまった珠里には、この日の人混みは圧倒的でもう島に帰りたくなった。
おばあちゃんのことなど言えやしない、自分も島のゆったり静かな日々にすっかり馴染んでしまったのだと痛感した。
フェリーから郊外電車で市駅まで。そこから路面電車に乗り城山麓の一番町まで。珠里はいま、カメリア珈琲の白いお店、グランカフェの入り口に立っていた。
しかし珠里は一目で目を見張る。若い女性に、綺麗な大人の女性や、若い恋人同士で、その店は混雑していた。しかも珠里が開けようとした重いクリスタルのようなガラスドアのすぐ側にある待合い席も満席だった。
一人で入ってきた珠里に、レジにいたカフェスタッフが『一名様ですか』と声をかけてきたが、すぐに首を振ってしまった。
どうやら大繁盛のようだった。ちらっと見た限り、どのテーブルにもあの素敵なひと皿が並んでいる。そして奥の方で店を見回っているスーツ姿の青年、梶原氏もみつけた。
ほっとしたような笑顔だと、珠里には思えた。でも気になることがあればスタッフに声かけをして、目配りに集中しているようだった。
珠里はそっと店を出る。真っ白で真っ赤なソファーのスタイリッシュな店を背に、珠里も清々しい思いで街中を行く。
次に目指すは、この商店街の端にある駅前へ。珠里が先日、柚子胡椒シフォンを食した駅百貨店内にある小さなカメリアカフェへ向かう。
むしろ、グランカフェを確かめるより緊張していた。もし……。いつものように、がら空きだったら? 初売りにでてこられる主婦がどれだけいることか、出てきても女性だけでゆっくりお茶をする暇などないのでは。主婦がバーゲンで動くなら、夫や家族の仕事が始まる新春明けか、子供の冬休みが終わる頃、もう少し先か。それでは初動が遅れて商品も動かないのでは……。
だが涼が思い付いた方法単価をさげてミニサイズで提供する以外、あの贅沢なショコラを『誰にでも食べてもらえる』ことは出来ないだろうと珠里も思っている。
駅前のざわめきが近づいてくる。ロータリーをまわる車にバスにタクシー、そして路面電車が行き交う音。その騒音の中、珠里は胸を押さえる。
百貨店へ入り、婦人服売り場の片隅へと目指す……。
どうか、どうか。満席とはいわずとも、いつもよりも人が入っていますように。
ついにその店が目に入った。そして珠里は立ち止まる。
初売りで通路いっぱいに人々が行き交う中も、いつも素通りをされて静かに佇んでいたその店に。今日は入り口をのぞき、カフェボードで立ち止まっている幾人もの女性客を見ることが出来た。
あまりにもほっとして、珠里は暫くそこで呼吸を整え動けなかった。良かった……。人がいる。
そっと近づいて、この前はがら空きだった店の前へ。
「いらっしゃいませ。何名様ですか。ただいま満席でございまして……」
入り口にいるバリスタスタイルのスタッフの案内を耳にして、珠里は再度、動けなくなった。
あのがら空きだったカフェが人いっぱい。しかも待合いの椅子もいっぱい。
「いらっしゃいませ。一名様ですか」
入り口でぼんやり立っていた珠里にスタッフが声をかけてくれる。だがこの混雑の中、関係者である自分が一席取ってしまうのは申し訳なくなり、珠里は首を振り出て行こうとした。
「二宮さん」
その呼び声に、珠里は驚き振り返る。
「来てくださったのですか」
スーツ姿の涼がそこにいた。
彼に初めて『二宮』と呼ばれ驚いたが、彼にとっては職場。スタッフの手前、取引先の仕事関係者として呼んでくれたのだとわかった。
「あけましておめでとうございます。そして、発売おめでとうございます」
珠里も仕事の顔で丁寧に挨拶をした。
「あけましておめでとう。来てくれたんだ。ありがとう」
珠里の目の前に来たら、いつもの同級生の涼に戻ってくれていた。
「こちら。二宮果樹園のお嫁さんなんだ。ちょっと出てくる。十分で帰ってくるからなにかあったら携帯に」
女性スタッフにそう告げると、彼女もちょっと驚いた顔で珠里を見た。そして『お世話になっております』と柔らかい笑みでお辞儀をしてくれる。そいういところ、やはり接客業、とても丁寧。行き届いている。
賑わう店を背に、珠里は涼と共に外に出た。
「すごい繁盛ね。よかった……」
人が行き交う通路を涼と並んで歩く。
「駅まで行こうか」
お客様の目につかないよう、エレベーターに乗り込み、一階まで降りる。
隣接している郊外電車駅の構内コンコースへと涼は向かい、そこにある自販機で缶コーヒーを彼は買った。珠里にもひと缶差し出してくれる。
「グランの方は間違いなく客がくるからいいんだけれど。こちらの従来のカフェは客層がまったく違うからどうかと心配だったから、俺もほっとしていたところ。新春広告の成果が出たみたいだな」
「よかったね。おめでとう」
笑顔で伝えると、さすがの彼も照れくさい笑みを見せてくれた。
「まあ、まだ期間を終えないとわからないけれどな。失速するかも知れないし」
「大丈夫よ。後半はミニサイズの方が動くと思うわよ。主婦はお正月の間は家庭のことで忙しいから、これからバーゲンに来るでしょう。その時こそ、この小さなカフェの出番ね。お買い物帰りに、ちょっと覗いて食べていこうかなと思ってくれるわよ。そのころにもう一度『まだやっています』という広告を入れると効果的かも」
なにげなくそう言いながら、珠里も缶コーヒーを開けて、ほっと一息。すると急に黙ってしまった涼がじっと珠里を眼鏡の顔で見下ろしていることに気がついた。
「それ、俺も思い付いていたところ」
「そうなの!?」
「うん。その広告の準備も終えたところだったんだよ。正月明けにゲラを持っていく予定で」
また新たなる準備を既に終えていて、仕事の速さに珠里は驚く。
「……珠里。本当は、オフィスでの仕事に向いているんじゃないかと思うんだけれどな。いままでもきっと、手際よく仕事をしていたほうだろ。この前から思っていたけど、だいたい俺と見ていることが合っている」
それは珠里も感じていた。仕事のスピード感が彼のほうがあまりにも早すぎて噛み合わず衝突はするけれど、考えていることがとても似ていると。だが。
「知ってるでしょ。たとえ、仕事の手際が万が一優秀なOLだったとしても、人間関係が上手く築けないの」
笑って流したのに。涼がとてつもなく固い真顔になり、初めて踏み込んできた。
「神戸で、なにがあった。そうでなければ、あの島にこなかったはずだろ」
珠里は固まる。飲みかけていた珈琲の液体が急に固形になって喉を通っていったように感じるほど、全ての筋肉が堅くなった。
「梶原も言っていた。珠里さんは、手際が良くて、仕事がしやすい。オフィスにいたら間違いなく上司に重宝されるOLだったはずだって。そうでなければ、二宮の果樹園はすでに人に渡っているだろうし、珠里が一人で管理しているのは、珠里にも経営能力があるからだ。あの真田社長があんなに物腰柔らかく、珠里さん珠里さんと気に入っているのも頷ける」
そんなふうに言われたのは初めてで。逆に珠里は呆気にとられていた。
「まさか……。必死なだけよ。夫がしていたことを見ていたから、真似しているだけよ」
「だったら。果樹園で優秀になったんだ」
「やだ。褒めすぎだって」
だが涼は真顔のまま、続けた。
「まだ珠里とやりたい仕事がいっぱいある。今年も頼むな」
よろしく、ではなく、『頼む』という言葉にも珠里は驚いている。
「頼むって。こちらこそ……」
そこで涼は眼鏡の顔で、いつものように腕時計を見た。
「悪い。もう戻るな。正月が明けたら、島に行くから」
「うん、わかった。待っているね。頑張って」
「もちろん。ばあちゃんにもよろしく伝えてくれよな」
涼は一気に飲み干したコーヒーの缶をコンコースのゴミ箱に放ると、最後に笑顔で手を振り、ジャケットの裾を翻し足早に去ってしまった。
もう目の前は、満席のカフェのみと言ったところ。あっさりとした別れ方だけれど、珠里はその背を微笑んで見送っていた。
初めて。彼の背を素敵だなと思った。
今日は『同級生の真鍋君』ではなく、『カメリア珈琲の真鍋チーフ』だった。
正月三が日。カメリア珈琲から発売された『クラシック・ショコラ』は、驚異的な売り上げを伸ばして大成功だという一報が果樹園にも届いた。
初売りの二日に、その様子を目の当たりにしていたので安心をしていたが、ここ数年にない売り上げで、社内でも既に打ち上げ状態とのことらしい。
企画者である梶原氏の華々しい功績になるだろう。涼がそう言っていた……。
清々しく伝えてくれたのだが、彼が知らないところで東京での功績を知っていた珠里はにわかに胸が痛んだ。
真鍋君の手柄にはならないの。そう心配したくて。でも聞けなくて。
だけど、彼はもう先へと目を向けていた。
『次はヴァレンタインだ。次回の打ち合わせで仕上げの菓子を持っていく』
彼は彼なりに進んでいるようだから、珠里もそのままにしておいた。
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