2-5 クレープシュゼット

 翌日、涼と梶原氏がまた一緒にやってきた。

「テーマは、マドンナ。もはやヴァレンタインは彼女たちの為のイベント。手にして幸せになれるものを提供する」

 こちらの次なるイベント企画はヴァレンタイン。果樹園と契約が決まり、おばあちゃんとのコラボ企画へと急遽変更になったとのことで、短期間での準備をすることになった。その進行も加速。新年を迎えたらすぐに準備に取りかからないと間に合わないためだろう。

 今日はカメリアのグランカフェで提供予定の限定スイーツではなく、梶原氏が担当している『ヴァレンタイン向けギフトボックス』の話し合い。

 カメリア珈琲が急速に企画をねじこんできたのにはわけがある。

「ちなみにこのギフトボックスは、何店かの百貨店の催事で出品、販売する予定です」

 人が集まる場所に出店売り出すとなれば、いま人々のアンテナが立ちやすいカネコおばあちゃんのスイーツで行こうと上層部が切り替えてきたということらしい。

「マドンナ、ね」

 毎度、力がこもっている涼の説明に、農作業姿のカネコおばあちゃんも真顔でカメリアが持ってきた企画書を眺めている。

 カネコおばあちゃんは、溜め息をひとつ。

「この土地でマドンナを用いるのは、ありきたりやないかねえ」

 夏目漱石の小説『坊ちゃん』の舞台になった街として有名な土地柄。その小説に出てくる登場人物にちなんだものが、この城下町には溢れかえっている。

 なにごとにも『みかん』、『オレンジ』、そして『坊ちゃん』、『マドンナ』などなど。様々なものに取り入れられている。

 そこを敢えて『マドンナだ』と、涼と梶原氏が打って出てきた。

 だが涼に動じる様子はない。そう返されるのは判っていたとばかりに、横に控えている後輩を見ると梶原氏が動き出す。

「サンプルですが、ちかごろ評判のデザイン事務所に依頼して、そこの若手デザイナーにパッケージサンプルを描き出してもらいました。カメリア側もこの雰囲気でGOサインを出すつもりです。そちらのデザイナーも従来品のようなものは作りたくないという意向です。あとは二宮さんの合意のみです」

 そのギフトボックスのデザインを梶原氏がおばあちゃんと珠里の目の前に差し出してくれる。

 おばあちゃんの表情が一瞬で和らぐ。

「あらまあ。いいじゃないの」

 艶がある大人っぽい黒地にアールヌーボー調のシックで鮮やかな花柄のボックスデザインを、おばあちゃんは気に入ったようだった。

「珠里さんはいかがですか」

 表情がない珠里の反応を梶原氏は気にしているようだった。

「私も素敵だと思います。食べ終わった後もこの箱はとっておきたくなりますね」

 珠里のやっとの反応に梶原氏もホッとした顔。

 そして珠里もうなっている。『やっぱり大手のビジネスマン、急な企画変更でも手抜かりなく手際よく、仕事が速く、確実』。梶原氏も立派な青年ビジネスマンだが……。

 珠里は涼を見た。真田社長が気にするだけある。またこの企画をそつなくリードしているのは委員長。堂々としていた。

 その涼がさらに企画書にある説明を進める。

「あまり地方色を出さず、でもこの街らしく『マドンナ小町的』な気分で、この街ならではのヴァレンタインを女性に楽しんでほしいと願って――」

 涼の企画に、カネコおばあちゃんは笑顔でうんうん頷いて、とても気に入ったようだった。

 そして次なる話し合いは、そのギフトボックスに入れるショコラをどうするか。これも概要は梶原氏が固めてきていた。

 キッチンがまた会社のミーティング室のように変わっていく。スーツ姿の彼等と農作業着の女性ふたり。銀色のキッチン台とテーブルにあらゆる雑誌に料理本を、さらには涼が持ってきたタブレットも使い、珈琲屋と果樹園生産者の白熱した話し合いが始まっていた。

「この土地でマドンナと来れば、ややレトロ和風……というイメージになりやすい。あまり古くさくはしたくない、でも地方らしいものはそこはかとなく取り込みたいんですよ」

 梶原氏とカネコおばあちゃんが肩を並べて椅子に座り、カメリアの企画書を共に眺め真顔。

「そやね。ばあちゃんも年寄りくさいのは好きじゃないよ。ショコラに使うテイストの名前を洒落たものにするとかどうかね」

「ブランデー漬けの島レモンピールとか、レモンリキュールを候補に。他にも柚子、紅マドンナなど。二宮果樹園とのコラボ商品なのでフルーツテイストを中心にしようと考えています」

「ええね。果樹園のものをつこうてくれるのも嬉しいんやけど、どうせローカルでいくなら、松野の桃ワインなんかもええんやないかと思うんよ」

「それ。いいですね! とくれば、中山の栗をつかってマロンショコラとか」

「ええわいね、それ! じゃあ、伯方の塩をつこうた、キャラメルサレとかね」

 聞いていると、珠里も『それってすごくいい』と思うセンスの提案ばかり。おばあちゃんはただのお菓子好きじゃないと最近特に思うようになった。

「この土地もの素材オンリーで、マドンナショコラコレクションというかんじになりますね。いやー、さすがカネコさん。素材集めは既に始めていますが、新たに候補に追加しておきますね」

 おばあちゃんのセンスが花開くよう。時代が時代ならほんとうにどんな企画者になれていたことか。珠里はそう思う。

 梶原氏とカネコおばあちゃんの話し合いはどんどん展開して、梶原氏の手元にあるイメージスケッチもまたたくまに描き上がっていく。

 箱の中に詰めようと考案したショコラ候補があっという間にできあがっていく。その仕事の速さ――。 次回は早速、試作をひと箱作ってくるとのこと。

 それに、おばあちゃん。カメリア珈琲と契約を結んでから、さらにもっとこの仕事に夢中になっているような気がすると珠里は感じている。

 そしてそれは涼も気がついているようだった。

「カネコおばあちゃんは優秀なアドバイザーだよ。でもちょっと根を詰めすぎたかな。時間を忘れている。俺達はいいけど、おばあちゃんの負担にならないよう気をつけないと」

 そっとおばあちゃんを見守っていた珠里の隣で、涼が腕時計を見た。彼等が来てから既に二時間が経っていて、その間休憩もない。

「お茶でもどうかな。うちの豆を持ってきたんだ。俺に淹れさせて」

「カメリアさんのブレンド? いいわね」

 『手伝う』と珠里は涼と共に行動。キッチンでお茶の準備をする同級生と、おばあちゃんと青年ビジネスマンの終わらぬ熱い話し合い。

「おばあちゃん、すっごく楽しそう。梶原さんと真鍋君が来ることを最近、楽しみにしているからね」

 ケトルにお湯を沸かす準備に、食器棚から珈琲カップを取り出しながら珠里は笑う。

 お湯が沸き、涼がケトル片手にドリッパーに湯を注いでいく。背丈がある男性が背筋を伸ばしてそのテクニックを駆使するために集中している横顔――。

 あの真田社長にも劣らない珈琲へのひたむきな姿、そして愛情。珠里はそれを涼からも感じ取る。

「あ、いい匂い。気がつかなかった。すみません、チーフ」

「あれ、真鍋君。ごめんね」

 一気に広がった珈琲の薫りで、話し合いに夢中だったふたりが小休止。

「いいよ、別に。営業に配属される前は現場でやっていたから。梶原だって少しはやっただろ」

「俺は人手が限られているローカル支社のみなんで、すぐにオフィスにいれられちゃったんですよねー。そう思うと、激戦区の東京本社でカフェ現場から本社オフィス企画部に行けたチーフはやっぱすごいですよ」

 急に出てきた話に、珠里はドッキリと硬直する。東京時代の話は、いまの涼にはタブーでは? だが涼は淡々として無反応。なのにそこでおばあちゃんが。

「真鍋君、東京の本社におったん? すごいやないの」

 そりゃ、ばあちゃんだって気になるだろう。そしてそこでやっと涼が苦笑いを見せる。

「いえ。ちょっとしたことで、たまたま。僕自身はこっちが落ち着きます」

 なんとかかわせたようだが、珠里はハラハラしていた。なにか話題を変えた方がいい? なんの話題を挟み込もうか……と躊躇っている瞬間だった。

「そうだ、梶原君。カメリアさんなら『柚子胡椒』が有名やないの。あれ、甘くしてつこうてみたらどうかな」

 おばあちゃんの新たなる閃きに、ドクリと珠里の心臓が大きく動く。そして涼の珈琲を注ぐ手元も止まってしまう。そして、東京時代に触れてしまった梶原氏も『しまった』と顔面蒼白になっている。後輩の彼も先輩チーフが何故本社から地方にやってきたか知っているのだろう。

「ば、ばあちゃん。それは……」

 珠里が割って入ろうとしたら、何故か、涼に肩を掴まれて止められていた。

「そうですね。だいぶ前のヒット商品なので、忘れていました。柚子胡椒も候補に入れておきましょう。梶原、テストキッチンにショコラに合わせたテイストをオーダーしておいてくれ」

「は、はい」

 ばあちゃんの『たのしみだね』という笑顔だけは、誰が見てもほっと出来るもの。涼もそれだけで穏やかな微笑みを見せて珈琲をふるまってくれたので珠里は胸をなで下ろした。



 ◆・◆・◆



 二宮のキッチン。白いケトルに湯が沸き、蓋がカタカタ音を鳴らす。

 畑仕事を終えたひととき。暖に満ちたキッチンは静かでうららかで心地よい。オンラインに繋げた小さなPCマシンのそばに菓子の洋書を広げたまま、珠里はうとうとしていた。

 はっと目が覚め、珠里は慌ててやかんをかけていた火を止める。

 そこでやっと思い出す。『いけない。そろそろ社長が来る』。

 

 ティーカップを二客揃えたところで、キッチンの入り口に人影が現れた。

「こんにちは。真田です」

「はい、どうぞ」

 今日も白いコート姿の真田社長がやってきた。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは、珠里さん。いつも遅い時間に申し訳ありません」

 『いいえ』と微笑むと、社長も微笑み返してくれる。

「おや。また洋書を眺めていたのですね」

「はい。見ているだけで楽しいです」

 どのようにして自分を待っていたか、それを知った社長の目尻がこのうえなく緩むのを珠里は見る。

「今度、私の洋書もお貸ししましょうか」

「よろしいのですか? お大事にされているのでは」

 珠里が菓子の洋書を眺めていることは今までも知っていたはずなのに、一度もそのようなことは言い出さなかった。だが社長は珠里を見つめて言う。

「だからこそ、ですよ」

 近頃、少しずつ距離を縮めようとされているのがわかるようになってしまった。

 お仕事をする契約先の『社長さん』として堅く構えていたところがあったけれど、もう、社長から少し砕けてしまったような……そんな感じ。涼と再会してからのような気がする。

 せっかくの申し出なので珠里も素直に『楽しみにしています』と返すと、暫し、じっと優しい目元の社長に見つめられてしまう。逸らすと、何かを悟られそうで、珠里はその眼差しに捕まってしまっていた。だけれど、それも一時。真田社長からいつもの椅子に直ぐに腰をかけ、テーブルの上にさっと必要書類を綺麗に並べ始める。

 珠里も隣に腰をかけ、待ち時間に眺めていた書籍に雑誌をしまう。

 早速、打ち合わせが始まる。

「島レモンマカロンのチラシが刷り上がりましたので持って参りました。新春の販促が落ち着いた頃に売り出すことは先日の打ち合わせでご了承済みですね」

「はい。楽しみにしています」

 カメリアは新春の豪華な限定スイーツとして売り出す予定だが、こちらは『新春の売り出し時期を敢えてずらして――』という計画だった。

 密かにほっとしていた。カメリアも真田も『新春に』と言いだしたら、人気を二分してしまう恐れがある。どちらか一方が爆発的に人気を獲得できるなら、それはそれでその企業の勝利だが、それとは別にどちらも甲乙つけがたい結果が出てしまうと双方売り上げが割れてしまい共倒れになる危険性がある。

 先日見せてもらった『キュートな広告』の仕上がりを眺めつつ、密かに胸をなで下ろしていると、既に真田社長があの眼で珠里をじっと見ている。

 その眼を見て、珠里も気がついた。探られているのだと――。

「安心しましたよ。そして、私の読みも当たっていましたかね。どうやらカメリアさんはうちと販売期間が重なっていないようで……」

 もう、さすがの読みでびっくりしてしまう。ただ黙って広告を見ているだけで、こうも見抜いてくれるのかと――。しかし、どちらの販売予定も判ってしまう時期に来ている。もういいだろうと珠里も隠すことは諦めた。

「カメリアさんの販売日がいつであるかは私からはお伝えできませんが、重なっていなくて安心しました。どちらも大事な契約先の顧客様で、どちらのスイーツも素敵ですから大事に売って沢山の方に食べて頂きたいので、共倒れだけは避けたいと思っていたところです」

「珠里さんもそう考えてくださっていましたか。ですが、先日の発売日をお伝えした時も、本日も、珠里さんの落ち着いたお顔を見て私が案じていたことがひとつ消えました。カメリアさんの豪華さには勝てませんし、うちのカラーではありませんので同じようなものを作る気はありませんから」

「どちら様も、その持ち味に関して貫くお姿は素晴らしいなと私も思っています」

「どちら様も……ですか。珠里さんには、どちらかはっきり言ってほしいような気もしますがね」

 途端に、真田社長の表情が不機嫌になる。こういうところ、覇者である男のプライドなんだろうなと珠里はいつも思う。珠里の前では顔に出るところも最近は良く判るようになってきてしまい……、そんな大人である彼の隠しもしない素の顔を知ると、珠里も微笑ましく思えるようになってきていた。

 仕切直し、社長はさらなる企画の話を始める。

「それから、ヴァレンタインの企画も整いました。今回は二宮さんから『紅マドンナ』を頂きたく――」

 来た。社長が狙っていた『紅マドンナ』。一番最初に使いたかっただろうに。それでも、ライバル社の後発になってしまっても『この素材を使う』と決断してやってきた。

 その前に。珠里は一応、確認しておこうと思った。

「あの。カメリアさんがもう直に紅マドンナを使った限定スイーツを発売されますが、その後直ぐのヴァレンタイン企画にそれでも同じ素材を使われても大丈夫なのですか」

 突然、社長は『狼の眼』に変貌する。

「珠里さん。お言葉ですが」

 縁なし眼鏡の奥、百戦錬磨である男の目が険しく鋭くなる。珠里の心臓がぐっと硬直する。うっかりしていると、ベテラン社長に珠里だって睨まれる。それでも手加減してくれている眼だとも判っているが、こんな時の社長には珠里も若輩者として萎縮してしまう。

「同じ素材を使っても、うちはうちです。カメリアさんはカメリアさん。二番煎じをするつもりもありませんし、同じものを続けて作って売り出しても『真田の方が美味い、センスがいい』と言わせる自信もありますよ」

 そうだった。この人はこの街でトップに君臨する喫茶経営者。要らぬ心配だったと珠里は頭を下げる。

「申し訳ありません。決してそのような安易なことで案じた訳ではありません」

 そこで真田社長もハッとした顔になったのを珠里は見た。

 申し訳なさそうに白髪交じりの短い髪を社長がかいて、溜め息をひとつ。

「こちらこそ。つい……」

 さらに肩の力を抜こうとしたのか、大きく息を吐くと社長が照れくさそうに言う。

「どうも最近の私は、ついつい熱くなってしまって――。この歳になってこんなこともあるものだと、自分で驚いているのですよ」

「そうなのですか? 既に何事も落ち着いていらっしゃるように感じておりますが」

「いえいえ、そう見せねばやっていけないことが多いだけです。ですが、まさか、あのヒット商品の企画者である青年が傍にいるだなんて。そう思っただけで、気が抜けませんね。それに、この二宮果樹園に通わせてもらうようになってから、もっともっと知りたいこと、やりたいこと、見つけたいものが増えましたから。どんなところに良いものが潜んでいるか分からないものだと痛感した出来事です。娘が島レモンをみつけなければ、私は自分で作り上げた城はもう出来上がってしまった、この先はなにもないのだと満足してあのまま終わっていたでしょう。でも、そうではなかった。まだまだ城は出来上がっていなかった、まだまだ作れる。そう思えるようになりまして。だからこそ。なんだか……心が急くんです。年甲斐もなく」

 だから熱くなっている。つい前のめりになる。

 それって『真鍋君みたい』と思った珠里は、ふと笑ってしまった。まるで同級生の性分が、大人の社長に感染してしまったみたいだった。

「おかしいですか。こんな親父がいまさら必死になるのは」

 珠里は首を振る。

「いいえ。素敵だと思います。いくつになっても、そうしてドキドキしながら何かを追えることは尊いことだと思います。それに、私たちのような若い者がやっていることも馬鹿にしないで同じ立ち位置で同じように懸命に取り組んでくださること――。きっと私たち、社長を見て、社長のようにこれからもどのように仕事をしていくべきか、生きていくべきか教えて頂いていると思うんです」

 そして珠里もハッとする。いつになく、自分も懸命に話していると――。

 すると隣にいる真田社長が、また珠里を慈しむように見つめている。

「いえ。少し前の私は、下の者には徹底的に厳しくして、誰も私のようには成れないのだと傲慢な心を持っていましたよ」

「ですけど……。それは真田さん自身が人一倍ご自分にも厳しくして、この街で愛される喫茶を作り上げてきたからこそであって……」

 本当にそう思っている。その傲慢とも言えるプライドと自信を振りまいても認められているのが『王者』。そんな男性はそうそういない。そして真田社長はそれに相応しい男性だと珠里は思っている。

「ありがとう、珠里さん。貴女がそう言ってくださるだけで、私の至らなかった痛みもやわらぎます。たいしたことなどない、自分のことばかり考えてきた男ですから」

「い、いえ。本当にそう思っているんです」

 話を合わせて、おべっかをしている訳ではない。それは信じてほしいと彼を見た。

 そして真田社長は、ただ穏やかに微笑んでいるだけで。

 そんな彼が、企画書をみさせてもらっていた珠里の手に触れてきた。ほんの少しだけ、指先に触れるだけの……。

「勝手に、孤独だと思っていたんですよ。妻を亡くして、一人きりになってしまった気になっていたんですよ」

 近頃、『社長』というだけの人だと思っていたこの男性が、妙に胸の内を話してくれるようになった。

 そしてその気持ちが、とても自分に近いと感じてしまう――。

「だけれど。それは私が勝手に思いこんでいただけです。自分から隔たりを作って。まあ、元よりそんなに人当たりがよい性分ではありません。だけれど、余計にそうしていたことが判ってしまったんです」

 ただ触れていただけの指が、今度は珠里の手の甲に置かれる。

「痛々しく孤独そうに過ごしている貴女を見て、私はそれを知ってしまった」

「私が、社長の若い時の鏡に見えるのですか」

 妻を、夫を若くして亡くした者同士。確かに、孤独感は否めない。

「それもあります。だけれど、貴女は私が若かった時より、ずっと優しく素直ですよ。だから、貴女にはただそこにいるだけじゃなく、勇気を出して一歩を踏み出してほしいのです。『島を出なさい』と言っているわけではありませんよ。『島にいても、二宮という姓の女性であっても』、もう終わったとか、独りだとか思わないで欲しい。私のように、この歳になってから気がついて、その時に『欲しいもの』が出来てもなかなか思い通りにならなくなるばかり。どんなに欲しても……」

 社長が、今まで以上に珠里の目を見つめる。離してくれない眼差しを注がれる。そしてついに手をぎゅっと握られてしまう。

「珠里さん」

 呼んだきり、社長が暫く黙ってしまう。その間も、珠里は彼の眼差しから逃れることは出来なかった。

 なにもかも見通されているようで、怖い。でも、何もかも見通してくれるから、何もかも任せたいような。そんなふうに心が崩れていってしまいそうな頼もしさを感じている。

「本当に、私が貴女を大事にしたいこと。少しでも覚えていてくれると嬉しいです」

「……は、はい」

 だめ。抱きしめられて、さらわれてしまいそうな錯覚に初めて陥った。

 安易にその胸を頼っても、まっすぐな社長の気持ちを傷つけるだけ――。

 それでも真田社長は、珠里の手をさらに包み込む。

「今日は、寂しそうな顔をしていますね。だからつい」

 今度は珠里から、真田社長を見つめてしまう。

 珠里をしっかり見つめて、いまの珠里を知ろうとして、そして理解しようと努めてくれる。大きな優しさに満ちた人。

「私は寂しい気持ちを持って生きてきましたけど、ずっと意地を張っていましたから。だから貴女には寂しい想いはさせたくないと思っていますよ。ましてや、どんなに貴女が欲しくても、感情任せに貴女を傷つけるようなことなど」

 『貴女をいますぐさらいたい』そう言いたげな社長の眼差しが少しばかり険しくなっている。

「いけない。ほらね、私は近頃、つい熱くなっておかしいのです。続きを話しましょう」

 やっと珠里の手から、熱い大きな手が離れていく。

「今年は少し変わった趣向でヴァレンタインを企画しました。スタッフと話し合った結果……」

 いつも通りに切り替えが早い。その安定した落ち着きが、よりいっそう、常に不安定に揺れる珠里に安心感を与える。

 珠里もなんとか気持ちを切り替え、社長が持ってきた企画書を眺める。

 表題は『冬の、いちばん贅沢なひととき』。だった。

「次のページをどうぞ」

 社長に言われ、めくると。そこに次に真田が狙っているスイーツのスケッチが描かれている。

「クレープ・シュゼット……?」

 ショコラじゃない。クレープ? 何故。珠里は社長を見た。しかしそこには自信に満ちた彼が、今度は挑む眼を輝かせていた。

「貴女のためのヴァレンタイン――という意味で、真田では派手ではありませんが極上の王道を極めたスイーツを展開します」

 ――女性が楽しむヴァレンタイン。

 謳い文句はまったく一致ではないが、カメリア珈琲とコンセプトが『かぶった』。

 密かに珠里は息を呑む。今度は全区域共通イベント、販売時期がずれることはない。ついに真田とカメリア、いや、ヒットメーカーである同級生と老舗王者である社長との真っ向勝負が始まるのでは――と。

「クレープと言っても、スタンドで売っているようなものではなく、フランスで長く親しまれている手作り感たっぷりの、でもオレンジとリキュールをふんだんに取り入れた大人のクレープを提供。今回特別に吟味した『ホットチョコレートドリンク』とセットです」

「すごい、スペシャルですね」

 感嘆の溜め息をついた珠里を見て、真田社長が満足そうに微笑む。

「店内では静かに過ごして頂きたいので、フランベする炎の実演はしないことに決めています。一皿で賞味して頂くことで勝負したいと思っています」

 クレープシュゼットはフランス生まれのスイーツ。焼いているクレープの上にふったシュガーが熱で焦げカラメル状になったものに、フルーツ果汁やリキュールを染みこませフランベしたもの。いろいろレシピがある中で、真田が選んだのは紅マドンナのオレンジソース仕立て。レストランなどでは、皮を螺旋状に剥いたオレンジを掲げ、高い位置から螺旋に沿ってリキュールを伝わせてフライパンで焼いているクレープへ落としフランベをする。その時に生じる青い炎を見せる華やかな演出をするところもある。だが一皿だけで見てみると、その手間の割にはシンプルな出来映えで華美なものではない。

 それでも、真田らしく長く愛され続けてきた菓子をセレクトしたところ、真田という喫茶スタイルから踏み外さない、真田珈琲らしい企画だと珠里も納得。

「一皿に派手さはなくても、海外ではオーソドックスに親しまれているスイーツを『真田』が素材から吟味、プロデュース。この街を裏切らないお店のスペシャルスイーツ。つまり『この時だけの贅沢』というわけですね」

「そういうことです。近々、古泉の店で試食をしていただきたく思っています」

「わかりました。楽しみです」

 あの古泉の店ならものすごく売れる。それが目に見える。あのショッピングモールには集客力がある。

 でも、古泉に店を持たないカメリアカフェはどうなるのだろう? 城山中心街にあるプレミアムなグランカフェもいつも満席だけれど、真田珈琲のような安心感がまったく感じられない。

 どちらにも売れて欲しいという提供生産者の想いと同時に、珠里は同級生の行く末を密かに案じてしまっていた。

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