瀬戸内レモン

市來 茉莉

1章 レモンをください (side 涼)

1-1 こんにちは、おばあちゃん? 

 新人の頃の大当たり、『ビギナーズラック』。それは単なる幸運なのか、少しは実力もあったのか。その運を使い切ってからは、逆風の毎日。なんとか踏ん張って、ここにいる。

 

 久しぶりに企画が通った。

 近頃、妙に力をつけてきた生意気な後輩の企画を押しのけて、やっと許可が出た。

『よし、真鍋。これで行こう。それにはまず、この果樹園の島レモンを一定量確保できるよう我が社との専属契約だ』

『わかっております、部長。アポイントは既に』

『さすがの手際だな。頼んだぞ』

 狙うは、いまや全国で話題の『カネコおばあちゃんの島レモン』。

 市内郊外にある島の果樹園へと、涼は愛車のアウディと共にフェリーに乗船する。

 

 島までは、たった十五分の乗船時間。

 

『はい? カメリア珈琲さん? はあ。ええ、私がカネコで、二宮果樹園はうちじゃけんど。今日はどのようなことで』

 訪問のアポイントメントを取るため、初めてコンタクトをしたのだが、イメージそのまんま、本当に『島レモンのおばあちゃん』である『カネコおばあちゃん』が電話に出た。

『果樹園を見てみたい、ですか。ほうですか。えーえ、そないなことなら、いつでもどうぞ。待ってますけん。はいはい。その日ですね。うちの者にも伝えておきますけえ、どうぞどうぞ、いらしてくださいな』

 のんびりゆったりした昔ながらのおばあちゃん口調で引き受けてくれた。が、あまりにもおばあちゃんが気易く引き受けてくれたのが気になったので『ご家族にお知らせの際、不都合がありましたら、カメリア珈琲の真鍋までご連絡いただけますか』と付け加えておいた。しかし以後、連絡はなく訪問の許可を認めてもらえたと考える。いや、多少強引でも、頭から断られないよう敢えてかっちり約束を確認しなかったところもある。――今日がその日。

 

 甲板に出ると潮風が心地よい。本当に冬なのかと思うほど、この日の天候は緩やか。

 潮の匂いが濃くなる。フェリー燃料の軽油臭も鼻につく。けたたましいディーゼルエンジン音に、船首が海原を切っていく波のざわめきまでもが、涼の身体の奥でひとつにまとまって遠い日へと連れ帰る。

 十何年ぶりか。かつて家族で過ごしたことがある島へ。涼の中学生時代はそこにあった。

 この船に何度乗っただろうか。十五で親元を離れて高校寮生活。週末、このフェリーに乗って島の自宅までの帰省。父親が島小学校の教諭から市街の学校へ転属するまでの五年間――。

 時折強くなる風にあおられ、涼は黒いハーフコートの襟元を閉じる。いつかもこんな風にあたって……あの島へ。

 

 瀬戸内は柑橘類を育成するのにとても向いているらしく、特に涼が生まれ育ったこの街は全国でも有名な柑橘王国。

 いまから向かう島は、島ではあるが同じ市内に属する。フェリーも頻繁に行き来しているので、離島とまではゆかない身近なもの。だが一度でもその島暮らしを経験した者からすれば、やはり不便な面があるのも確かだった。

 いくつか島がある中で、狙っている『島レモン』がある島は、明治時代前から柑橘類を育成することに特に優れた職人が多いことで有名。島は山のてっぺんまで蜜柑畑という、本当に柑橘を育てるためにあるような島。特に伊予柑は秀逸。涼は中学時代をその島で過ごした。父親が教師をしていて、赴任先が島の小学校だったのだ。

 父は五年ほど赴任し本土市内の小学校へと転属になるまで、家族は島で過ごした。涼は中学時代の三年は島内の学校で。島に高校はないので、島外から本土市内の高校へ。父親が本土市街の小学校へ転属するまでは、寮暮らし。週末の帰省は島まで――。そんな五年だった。

「まさか。あの島のレモンがこんな有名になるなんてな……」

 そのレモン様がいまや、この街では出世頭――。知っている島にある小さな果樹園のおばあちゃんが長年作り続けてきたそのレモンが。

 昨年から、突然全国区で売れ始めた今や噂の島レモン。他社が企画して作り出したマーマレードは常に限定販売。向こう二ヶ月まで予約でいっぱいだと聞いている。

 地元で採れる産物が、これほどヒットすることは滅多にない。この上昇気流に乗らずに、いつ乗ればいい。今しかないに決まっている。しかも商品化はそのマーマレードのみ。

「それにしても。マーマレードなんてありきたりな」

 甲板で潮風にあおられる涼の手には『島レモンマーマレード』の瓶。燦々と降り注ぐ光で琥珀色の輝石のようにきらきらしている。

 当然『同業者』である涼も、購入をして何度も味見をした。正直言って……。『美味い』。いまでも『柑橘だからって、マーマレードを商品化だなんて安易すぎる』と批判したくなるが、でも確かに『美味い』のだ。後を引くというのだろうか。

 蜜柑、オレンジ系の皮を使用したマーマレードならよくあるが、レモンというのが良かったのか。

 だが。このヒット商品を頬張って『こんなに美味い』と思う度に、涼の中にある想いがふくれる。

 こんな田舎臭い『マーマレード』じゃない。流行に敏感なお洒落OLにマダムとか、彼女たちのお茶にもってこいの『スイーツ』を生み出す。先手必勝、いまが『島レモン』の商機。

 

 あの時のように。皆の羨望に囲まれたヒット商品をもう一度……!

 

 過去の栄光が、涼を島へと向かわせている。

 初冬でも海の日射しは温かく、今日も青い内海は煌めいていて穏やかだった。本当に、ここで暮らす人々のように、のんびりおおらか。

 だが涼の心は今でも、無機質にそびえる東京のオフィス街にある。かつてのポジションはそこに置いたまま。

 

 島の港に到着し、フェリー船底に駐車していたアウディに乗り込んだ涼は、船員の手合図で着岸した港へと無事下船。そのまま懐かしい島の道へと車を走らせる。

 ちょうど、柑橘の季節。海に向けられた段々畑。海側の車道からずっと上まで橙色の水玉模様。

 相変わらずだ――と、涼は思った。

 車が少ない島の車道から、前もって調べておいた地図を見て脇道へ。上り坂。瀬戸内の島ではよく見かける坂道の風景。蜜柑畑を傍目に古い道を上る。

 やがて『二宮果樹園』という古い木材の看板を発見。

 車を降りた涼は早速、その果樹園看板から奥へと伸びている小さな坂を行く。当然、脇道は蜜柑……ではなかった。ここの果樹園は蜜柑畑ではない。レモンに柚子などが直ぐ目についた。

 小坂を行くと突き当たりに民家。その家の玄関についたのだが、チャイムを押そうとして、ドアノブにホワイトボードがかけられていることに気がつく。

『ご用の方は、果樹園まで』

 つまり留守でいないから、現場まで来いということらしい。

 黒いコート姿で、涼はまた果樹園の脇道へと戻り、そこから木々の畑へと入る土の道へと踏み入れる。

 収穫まっさかりなのか、涼の周りは柚にレモンだらけ。他にも金柑や伊予柑が目についた。どこにいるのだろう。小さな果樹園と聞いているが、それでも木ばかりで来た道もわからなくなりそうだった。

 歩き続けていると、奥からパチンパチンと、ハサミのような音が聞こえてくる。木々の周りに張り巡るいくつもの小道から、その音がする方向へと涼は向かう。

 カネコおばあちゃんだろうか。あの声色だとけっこうな年寄りだと思った。七十、いやもしかして八十? だが喋りも受け答えもしっかりしていて元気そうなおばあちゃんだと感じている。

 おばあちゃんが一人きりで切り盛りしているはずはないだろうが、今日はひとまず『果樹園』にきちんとした挨拶をして、良いキッカケを作っておきたい。

 涼の意気込みが、そのハサミの音へと急ぐ。

 そのうちに木々ばかりの視界が開け、目の前に青い海が広がった。石垣の果樹園、その畑の端に並んでいるレモンの木。そこにやっと、脚立の上に座っている人影を見つける。

 女性が鋏片手に木に向かっている。農作業用のほっかむり帽。紺色のナイロンジャンパーの下は薄い花柄模様の農作業かっぽう着、絣のもんぺ。薄汚れたゴム長靴。

 そこでパチンと鳴る鋏。手にはレモン。

 おばあちゃん? あれが、カネコおばあちゃん? もっと丸っこくてころころした後ろ姿を想像していたのに、案外すらっとしていて、しかも足長い……?

「こんにちは!」

 脚立の側に来た涼は声をかける。ふっと農帽姿のその人が振り返り、見下ろした。マスクをしているその顔は、鼻筋と目だけしかみえないのだが、……どっきりとした。

 おばあちゃんじゃない。黒く光る瞳と、艶やかな黒い前髪が見える。『若い女性』だった。

「ああ、もしかして。カメリア珈琲の真鍋さんですか」

 季節柄、白いマスクをしている彼女が脚立の上から問いかけてきた。口元の表情がわからないせいか、その目が笑っていないように見える。じっと脚立上から涼を見下ろしている。どこか馬鹿にしたようなその目――。

 なんだか。嫌な感じの目つきだが。この目つき初めてじゃないような……。こんな目つきのヤツいたよなあと、ふとなにかを思い出しそうな感覚?

 農作業姿の彼女が脚立から降りてくる。そして涼の目の前に来てくれる。

「ばあちゃんから聞いております。本日、カメリア珈琲さんがいらっしゃるからと」

「そうです。本日は……」

 そこで彼女がやっと口元を隠していたマスクを取り払う。涼と初めて目が合う。化粧気なし。でもぱっちり黒目とまつげの、……美人だ。うっかり、涼は見とれてしまう。

「あの、本日は『果樹園を見学』されたいとのご希望でしたが……」

 訝る彼女に聞かれ我に返り、この機を逃すまいとまずは彼女に名刺を差し出した。

「申し遅れました。カメリア珈琲、企画部におります真鍋と申します」

 彼女もそれを受け取ってくれる。

「まなべ、りょう……?」

 名刺を見ると、彼女がちょっと意外そうに涼を見上げた。あの大きな黒目がこちらをグッと見る。とても力がある眼差しで、目を逸らしたくなってしまう。

「二宮珠里です」

 彼女からは名刺なしの、自己紹介。

「ジュリさん……ですね」

 一瞬、涼の中に奇妙なノスタルジーが起きた。この島で『ジュリ』という名で、しかもその愛想のない眼差し――って。

 じっと涼を見つめている彼女を見下ろし、やっと気がつく。も、もしかして……という思いがとてつもなくふくれあがっている今。

「あの、失礼ですが。ジュリさんは、いつから、この島に」

 恐る恐る尋ねてみると。

「中学二年の時に転校してきて、真鍋君と同じクラスになった時から」

 その返答に、涼は飛び上がりそうになった!

「珠里、三枝珠里さえぐさじゅり!?」

「やっぱり。委員長だった」

 彼女の何事にも白けているような冷めた目、愛想のない顔、可愛いのに可愛くない態度。元クラスメイト!

「に、二宮って、どうして」

「ばあちゃんの孫と結婚したから」

「え。じゃあ、この果樹園の嫁さんってことかよ」

 そこで彼女が一時黙ってしまう。

「……旦那はもういないけどね」

 え。それってどういうこと? 涼はただ混乱するばかりで、もう言葉がでない。だが彼女がそっと眼差しを涼から避け、海へと馳せる。

「五年前にね、あっさり逝っちゃったのよね」

 いまや全国で人気の島レモン。それを生産しているおばあちゃんの果樹園。そこで出会ったのは、この島の中学で一緒だった元クラスメイト。

 しかも未亡人――に、なっていた。


 

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