第19話 (裏の上)欲望と理性の天秤
※この話では設定上、徐々に口汚い内容になっていきます。
※あと、この話はバッドなエンドが確定しておりますので、そういうのが嫌いな方は読まれないことを推奨します
……。
……。
…………その時、俺は目の前の光景を信じられなかった。
二週間ぶりの休日を挟んで出社した俺は、勤務先であるビルの前で呆然としていた。いや、正確には、そのビルの4階フロアの一角にて、俺は立ち尽くしていた。
何故かと言えば……それは、フロア出入り口のガラス扉に張られた、一枚の紙切れ。
そこに記されている文章は実に長ったらしく業務的で……有り体にいえば、『倒産した』ということが記されていたのだ。それ以外は何もなく、待っていても何も変わらないということが文末に書かれていた。
……え、嘘だろ?
思わず、扉に手を掛ける。しかし、鍵が掛かっていてビクともしない。ガラス越しに中を見れば、照明は落とされ……誰もいない。事務方もそうだが、偉そうに怒鳴り散らすばかりだった社長の姿すら、なかった。
だが、それだけだ。それ以外に、そこには何の変化も無い。
ガラス扉から見える、俺の席。その机の上に、休日前に置いておいたプレゼン用の資料が見える。記憶の中にあるソレと、全く変化がない。
隣の席もそうだし、向かい側の席もそうだ。壁際に設置した棚に並べられた様々な書類もそのままで、一部は詰め込み過ぎて棚の外に飛び出しているモノもあって……本当に、そのままであった。
入口に張られた紙切れが無ければ、珍しく自分が一番なのかと思っているところだ。それぐらい、ガラス扉の向こうは……いや止めよう。考えれば考える程、空しくなる。
呆然とした頭で、俺は扉から離れた。
いくら現実逃避したところで、現実は変わらない。いくらなんでも、こんな性質の悪いジョークがあるわけない。勤務先は倒産してしまったのだと……俺は、現実を受け入れた。
……辺りを見回してみるが、まだ俺以外に出勤してきた者はいない。それがたまたまなのか、それとも俺以外には事前に知らされていたのか、俺は知らない。
人付き合いの煩わしさが嫌だからこそ、この会社(業界)にいたわけだから……このままここで待っていたとしても、ここに社長が来るのか来ないのかすら、見当もつかない。
……とりあえず、会社の番号に電話を入れてみる。直後、ガラス扉の向こうで電話が鳴った……回線は生きているようだが、これでは何の意味もない。
社長の連絡先……駄目だ、知らない。事務方の……そうだ、経理を担当しているあのおばさん。名前はたしか……鈴木さんだったか。
俺は基本的に外回りばかりで必要以外では話しかけることもほとんど無かった。だから、鈴木さん以外の連絡先も、ろくすっぽ知らない。
このまま待っていたら、誰か来てくれるだろうか。確証はないが、今の所俺が出来るのはそれぐらいしかない。なので、俺はフロアの壁に背中を預けて人が来るのを待った。
……。
……。
…………待ったのだが、誰も来なかった。
気付けば、時刻は昼を回っていた。俺の勤務先はフロアの中でも奥の方なので、誰かが間違って入ってくることはほとんどない。だから、来るとしたら同僚ぐらいなのだが……それが、来ない。
全くもって、来ない。通常の就業開始時刻になっても誰一人来ないから、思わず曜日を間違えてしまったのかと何度もスマホを見て確認したぐらいだ……が、これで一つ分かったことがある。
(会社が倒産することを知らされていなかったの……もしかしなくても、俺だけじゃあ……)
……止めよう、考えると物凄く気分が悪くなる。
ぐらぐらと胸中にて沸き立つ怒りを堪えながら、俺はビルを出た。振り返れば、同フロアの人(何度か、顔を見た覚えがある)がエレベーター待ちをしているのが見える。
昨日まで、こんな会社辞めてやると内心では息巻いていたが、いざその会社が無くなると……何だろうか。物凄く、気分が落ち込む……怒ったり落ち込んだりで、吐き気すら感じ始めた。
……深々と、溜め息が零れた。
とりあえず、帰ろう。何時までも待っていた所で事態が好転するとは限らないし、正直精神的に耐えられない。そう判断した俺は昨日と同じく、おそらくは二度と通わないかもしれない帰路に……ん?
駅に向かう途中、何気なく視界の端に入ったのぼりの旗に、目が留まる。
それは、新装開店したというお知らせと、新台が入ったことを知らせる、パチンコ店の旗であった。
視線を横に向ければ、丁度人が出入りしたところで、開かれた自動扉からはじゃんじゃがじゃんじゃかと忙しないBGMが流れていた。
……むらっと、欲求が湧き起こってくるのを自覚する。
今日は、そんなつもりはなかった。財布の中には万札がけっこう入っているが、それは前々から買おうと思っていた諸々の為に(現金払いにすると、ポイントが大目につく)引き出しておいたやつだが……どうしようか。
普段の俺なら、せめて最低限必要な分だけは購入しておくだけ我慢出来ている所だが……今は、少々タイミングが悪い。
正直、むしゃくしゃしている時にコレはまずい。手を付けてはならない(後で、非常に困る)金であることは分かっているのに、どうしても……ああ、くそったれ!
分かってはいたが、我慢しきれなかった俺は、店内へと足を踏み入れた。その日の店内は何時もと同じく騒がしく賑やかで、それでいて喧しかった。
……。
……。
…………それから、夕暮れになるまで俺はパチンコをし続けた。
騒がしいのは、相変わらずだ。まあ、パチンコ店なのだから、五月蠅くて当然だろう。反面、俺の財布は素寒貧だが……すっかり慣れてしまった座り心地の悪い椅子が、きききと軋む。
ずらりと並んだパチンコ台の、一つ。入店時より、3回目の台替え(席替え、とも言う)。時刻が時刻だからか、隣を見やれば自分と同じ顔……有り体に言えば、ギャンブル中毒ばかりが胡乱げな眼差しを台へと向けていた。
どいつもこいつも、不景気な面をしている。まあ、無理もない。
先月ぐらいに導入された新台(リニューアルされたパチンコ台のこと)は、以前よりも少しばかり当たり確立が上げられているが、それでも微差だ。藁にも縋る思いで手を出してはみたが、おかげで大火傷だ。
時折単発で当たりを引いているやつを何人か見たが、結局はそこだけ。引き際を弁えたやつは一人だけで、それ以外のやつは負けた分だけでも取り返そうと粘り……そうなればもう、悪循環だ。
いっそのこと、スパッと最初から最後まで外れっぱなしなら諦めがつくと思う。中途半端に餌(大当たり)を入れられるから、次を期待して止められなくなってしまう。
かくいう俺も……止めたいと常々思っている。だが、どうしても止められない。気づけば、ちょいと暇を持て余せば、それを自覚した瞬間……考えてしまうのだ。
――パチンコに行こう、って。
これは、パチンコだけじゃない。競馬や競輪もそうだ。むらむらっと、やりたくなってしまう。やりたくないと思っているのに、どうしても手を伸ばして……その都度、後悔する。
それを何度か繰り返せば、今の俺みたいに不景気そうな顔で、しかめっ面で台を睨みつける阿呆な男が一人、出来上がるというわけで。何てことはない、周りのやつらも俺も、そう大差ないのだ。
……はあ、やれやれ。
吐いた紫煙が、パチンコ台のディスプレイを汚す。途端、抗議の意を示すかのように、ぱちん、と。ハンドル(弾を打ち出す時に握るノブ)が空撃ちする手応えが伝わってきた。
え、もう弾切れか?
見なくても分かってはいたが、つい視線を下ろす。外れてくれと願ったが、現実は非情であり、上皿(打ち出す弾を入れておく皿)は空になってしまっていた。思わず漏れそうになった溜息を堪え、最後の回転を行っているディスプレイのルーレットへと視線を戻した。
ディスプレイに映っているのは、アニメ調の金髪美女と海中を背景に、多種多様な魚と数字だ。それが、ぐるぐると目視では捉えきれない速度で回転を続けている。
今日だけでも、かれこれ百回転以上は見ているから正直何の面白みもない。これまでの通算を加えれば、数千回は同じモノを見続けている。何回かリニューアルして映像が一新されたが……まあ、似たようなものだ。
それなのに、俺は見つめてしまう。見開いている目が乾いて軽く痛むが、どうしても目は閉じられない。閉じる勇気が、俺にはなかった。
昼過ぎから初めて、もう限度いっぱい。これまでの合計と、今回突っ込んだ金額を合わせれば、既にマイナス11万円。財布の中には小銭の419円しか残っていない。
家賃や光熱費等を口座に置いている分から差し引けば、当分先まで塩パスタ確定。それもメーカー物ではなく、業務用のスーパーで安売りしていた激安パスタを毎食一人前計算で、だ。
……ルーレットの一つが止まった。赤色の数字……確変(次の大当たり確立を上昇させる、確立変動の略)の数字だ。
自然と、ホルダーに掛けた指先に力がこもる。確変が当たれば、そのまま2連、3連と大当たりが続く可能性が非常に高い。負けた分を全て取り返すことは難しくとも、それでも大分財布に余裕が戻る。
例え確変が成功したけど連続では失敗して、単発大当たりに留まったとしても、だ。とりあえずは、パスタ以外も食える。しかし、外れてしまえばパスタ確定……頼む、来てくれ。
そう、強く願えば……また一つ、ルーレットが止まる。俺の前に姿を見せたその数字は、赤色の数字……一つ目と同じ数字が、横並びになった。
“ リーチ! ”
途端、ディスプレイがにわかに輝きを増した。「――っし!」堪らず、俺は膝を叩いた。胸の奥でカッと熱気がこみ上げる。落ち着けと己に言い聞かせながら、ルーレットを見つめる。
俺が座っているこの台は、他の台と比べて当たる確率は高いが出玉(機種によって、排出される玉の量に違いがある)の量は少ない。ローリスク・ローリターンを狙って席に着いたのに、この様だ。
これで負けたら、俺は何の為に何時間もここで粘っていたのかが分からない。とにかく、一発だ。この単発で終わってもいい……せめて、一回分の辺りを引いて撤退しておきたい。
(頼むぞ……!)
祈りを込めて、ルーレットを見つめる。そうこう考えている内に、最後のレールが止まった……数字と色が違う。けれども、まだだ、まだ終わりと決まったわけじゃない――そう思った直後、3つあるルーレット全てが回転を始めた。
……リーチ演出(ルーレットが外れた直後、そこで外れにはならずそのまま画面が切り替わり、ルーレットが続行すること)だ!
これが始まれば、大当たりの期待が高まる。100%というわけではないが、それでも通常のリーチよりも確率は高い。そのうえ、このリーチの演出は……一度だけではない場合が多い。
その証拠に、ディスプレイに表示されたアニメーションは次々に変化を始めてゆく。
今映し出されているのは、金髪美女が釣りを始めている映像……これは確か、大当たり率6割の……高まる興奮、固唾を呑んで見守る俺を他所に、三つ目のルーレットが……止まった。
……他の二つとは違う色の数字。それはつまり……ハズレであった。
だが、まだだ。まだ、終わらない。記憶が確かなら、6割大当たりの演出がハズレた後、高確率で8割大当たりの演出へと映像が切り替わるはず。
少しばかりのタイムラグはあるけど、ここからだ。ここから映像が切り替わって、釣りをしている美女が今度は漁船に乗って、大当たりの数字を網で引っ張り上げ……上げ……あっ。
画面の映像が、切り替わった。だが、それは俺が求めていた画面ではなかった。
映し出されていたのは、ニュートラルの画面。つまり、回転が行われていない、ただの待機映像だ。これが指し示すのは、リーチ演出が今ので止まったということで……有り体にいえば、ハズレた、ということ。
「…………」
しばらくの間、俺は何も言えなかった。ぐんと圧し掛かる何かに押されるがまま、浮き上がっていた腰を下ろす。ぎきぃ、と軋んだ椅子の音で、これが現実であることを理解させられた俺は……腕を、振り上げた。
――だが、その腕を振り下ろすことはしなかった。
直前で我に返った……わけではない。ただ、この手を振り下ろせば今よりももっと酷い事になることを思い出しただけ。その証拠に……視線をパチンコ台から横に向ければ、通路の方からこちらを見ている女性店員と目が合った。
……仮に台を叩いていたら、即座に屈強な店員を呼ばれて、俺は警察のお世話になっていただろう。
いくら気が立っているとはいえ、こんなので捕まりたくはない。それに、今の勤務先もクビに……あ、いや、もう無いのか。
忘れようとした事実を思い出し、溜め息が零れる。人手不足がどうのと騒がれている昨今だが、それはあくまで20代の人手が足りていないというだけで。
しかも、足りないのは一般的な人手じゃない。ギリギリ一人で食っていける程度の給料しか支払われないうえに激務な仕事を担ってくれる、経営者にとっては都合の良い人が足りていないというだけのこと。
(……今日は厄日だ)
座りっぱなしだったが、緊張と脱力を繰り返していた身体は重い。気づけば、女性店員もいなくなっている。多分、監視カメラでマークされているんだろうなあと思いつつ、俺は店の外に出た。
途端、吹きつけられた冷気に俺は身震いした。
反射的にジャンパーのチャックが閉まっているのを、確認する。「……腹が減ったなあ」ぐうっと食べ物の催促を始めた腹を摩りつつ、しばらく続くであろう塩パスタの日々にげんなりと肩を落とした。
……電車に揺られて、数十分。帰り道の途中にある、寂れた公園の傍。そこを通る度に、俺は何時も思う。
もう何度、繰り返したことなのか。いいかげん、止めなければ駄目だろう。でも、どうしても止めることが出来ない。それは、俺自身覚えていないだけ繰り返した自問自答だ。
医師の診断を受けたわけではないが、俺はギャンブル中毒というやつなのだろう。止めたいとは思っているのに、どうしても止めることが出来ない。有れば有るだけ、全てつぎ込んでしまう。
それは何も、パチンコに限ったわけじゃない。時にはパチンコじゃなくてスロット(銀玉ではなく、コインを使うルーレット)に手を伸ばすし、気分転換がてら競馬や競輪にも手を出す。
気分転換の候補が他のギャンブルしか出ない辺り、俺は中毒としては末期なのだろう。我ながら、どうしようもないやつだとは思っているが……それでも、止めることが出来ない。
……そういえば、実家に帰ったのは何時以来かな。
電車代を捻出することが出来なくなって、もう何年か。少なくとも、10年は親の顔を見ていないなあ……そんなことを考えつつ、誰も待っていない自宅のアパートへと――ん?
「――あっ」
「――おっ」
気分転換も兼ねて自宅まで、もうすぐという辺りであった。休日前まで俺の勤務先の代表取締役をやっていた……元社長の佐田(さだ)さんと出くわしたのは。
佐田さんは俺よりも20歳近く年上の……まあ、還暦間近らしい年齢の男性だ。
恰好はスーツにジャンパーを着ている俺とは違い、ラフな格好……つまり、私服だ。会社に居る時はスーツであったり私服であったりと統一感はなかったが、ここまでラフな格好をしている佐田さんを見るのは始めてだ。
休日前までは、売り上げがどうのだの気合が足りないだの根性がどうだのと前時代的な事ばかり口にして、散々サービス残業を強制されたが……ああ、いや、そうじゃない。
どうして元社長が此処にいるのだとか、どうして俺の家の近所にいるのだとか、お前何で俺にだけ倒産の連絡をしていないのだとか色々あるが、まず、俺が効かなければならないのは、だ。
「社長、今月分の給料をまだ貰っ――て、逃げるなコラァ!」
兎にも角にも、せめてそれだけは確保しておかなければ来月以降の家賃が困る。そう思って尋ねようとした途端、社長……いや、佐田さんは俺に背を向けて走り出した。
いや、そりゃあ会社が倒産したのだ。それも、予告無く……あ、俺以外にはしているのかもしれないが、とにかく運営していた会社が無くなったのだ。
おそらく、今月過ごす金にすら困っているのだろう。考えるまでもなく、元社員に支払う給料なんて無いのは想像出来ている。だが、それで、はいそうですかと納得出来るほど、俺は仏ではない。
俺だって、金に困っているのだ。
今月(つまり、30日分)分はなくとも、せめて勤務日数分だけの給料を支払って欲しい。それが有るか無いかだけでも大違いだ……だからこそ、俺はすぐに佐田さんを追いかけた。
幸いにも……というのも変な話だが、佐田さんと俺とでは基礎体力に差が有った。
俺自身、学生時代は運動部に所属してはいたが、まともに運動をしたのは十年以上前のことだ。けれども、佐田さんだって似たようなものだ。そのうえ、俺と佐田さんとでは絶対的な年齢差がある。
仮に佐田さんの趣味がマラソンなんかだとしても、30代と50代(もしかしたら、還暦を過ぎているかもしれない)では馬力が違う。
突然のことに息苦しさを覚えはしたが、佐田さんを捕まえるのにはそう時間は掛からなかった。「――逃げんなコラァ!」50メートルほど走った辺りで、俺は引きずり倒すようにして佐田さんを捕まえた。
けれども、佐田さんは抵抗した。拳を出して来なかったのは、純粋な体格差のせいだろう。後、警察沙汰になっても喧嘩両成敗になると思ったからなのか……俺と佐田さんは、しばしもつれ合った。
大のオトナが(それも、片方は還暦間近)二人揃ってぎゃあぎゃあともつれ合う様は、さぞ滑稽に見えたことだろう。俺だって、正直嫌だ。本当に、嫌だ。でも、金の為を思えば、この程度は我慢出来た。
「はあ、はあ、はあ……分かった、俺の負けだ。逃げたことは謝るから、一旦放してくれ」
そうして、先に息が切れて動けなくなってしまった佐田さんを取り押さえた後。しばし呼吸を整えて、ようやく喋れるようになった佐田さんからの言葉が、それであった。
俺としても、何時までも男と抱き合っている趣味はない。いちおう、逃げ出してもすぐに追いかけられるように注意しながら、押さえている佐田さんの手を外してやった。
「……とりあえず、ここで立ち話も何だ。この近くに喫茶店か何かあるか?」
そう言われたので、俺は少しばかり歩いた所にあるチェーン店を伝える。すると、「奢るから、とりあえず話はそこでしよう」佐田さんはそう提案してきたので、俺は……頷いて了承した。
何度か利用したことはあるが、ここしばらく足が遠のいていたからか、久しぶりに見たそのチェーン店は少し古ぼけた感じがした。
店の中に入れば、禁煙スペースにはまばらに客の姿が見られた。閉店まで、残り一時間ぐらい。時刻が時刻だからか、客層は仕事帰りの社会人ばかりであった。
こちらを振り返ることなく、佐田さんは喫煙スペースの方へと向かう。正直、煙草は呑まない俺からしたら禁煙の方が嬉しいのだが……まあ、いいか。
喫煙スペースの中でも一番店奥の席に腰を下ろす。とりあえず、腹が減っていたのでオムライスセットを頼む。佐田さんは既に食事を済ませていたのか、ホットコーヒーとトーストのセットを頼んだ。
先に出された水を一口……少し待ってから出されたコーヒーも一口。それで、覚悟が固まったのだろう。「あー、その、単刀直入に言おう」佐田さんはしばし言い辛そうに視線をさ迷わせた後……テーブルに手を付くと、俺に向かって深々と頭を下げた。
「すまん、金はない。だから、給料は払えない」
……何となく、そうだろうなあとは分かっていたけど。
薄くなって地肌が見えている(おそらく、つむじの部分か?)頭頂部より、眼下のコーヒーに視線を移した。ゆらゆらと湯気を立ち昇らせているそれに口づけて……ソーサーに、戻した。
そりゃあ、倒産した会社の社長だ。
幾らか現金化した持ち合わせがあるとはいえ、それでも銀行等からの催促は相当なものであると予想は出来る。殴ってでも取り立てをした所で、無い可能背は高い。
仮に成功したとしても、それで悪者になるのはこちらの方。向こうが警察に行けば、捕まるのはこっちだ。労基に訴えた所で、その会社が既に無いのだ。無い袖は振れないというが、裁判を起こした所で本当に無かったら……結局は無駄骨だ。
「……全くですか?」
「正直、ここを奢るだけでも手一杯だ」
「労基なり弁護士なり立てますよ?」
「構わん、何を言われたところで本当に何もないからな。俺の自宅だって、来月には他人のモノになる。何なら、調べてはっきりさせてもいい」
「そう、ですか」
――あ、これは目がマジだ。
以前とは違う、爛々とした輝きを見せている佐田さんの目を見て、俺はそれ以上を尋ねる事はしなかった。自然と、お互いに無言になった俺と佐田さんは、運ばれてきたオムライスとトーストに手を伸ばした。
オムライスは、相変わらずの形であった。楕円の中心に垂らされたデミグラスソースと、申し訳ない程度に皿の端に添えられたサラダ。薄かったトマトは、相変わらず薄い。
佐田さんが手を付けているトーストも、似たようなものだ。この店では、事前に注文しなければ、焼いたやつを二等分したやつがそのまま来る。まあ、ゆで卵が一つ付いている辺り、値段を考えれば妥当なのだろう。
……それにしても、だ。正直、気まずい。
すきっ腹に入れる久しぶりの味は記憶の通りに美味しいのだが、懐かしさは全くない。それどころか、この空気の重さのせいか、食べれば食べる程、味が薄くなっているように思えてくる。というか、何かオムライスが不味く思えてきた。
ちらりと、佐田さんを見て……思わず、視線を逸らした。
何故なら、先ほど以上に佐田さんの目が座っているからだ。瞬き一つせず、黙々と機械的にトーストを頬張っている。はっきり言って、滅茶苦茶怖い。
知り合いじゃなければ、傍に近寄ることすらしたくない雰囲気を放っている。奢るという前提がなければ、俺も離れているところだ。
(とりあえず、雇用保険受ける為にも必要書類を送って貰って、その後は役所に行って……)
頭の中で、今後のことを考える。佐田さんのことは気の毒だが、俺も自分のことで手一杯。力に成れることなんて有るわけもなく、ただひたすら食事を進めることにした。
……。
……。
…………時間にして、10分ぐらいだろうか。
あからさまに早食いするのも何だし、次にオムライスを食えるのが何時になるかが分からない。先に食べ終えた佐田さんの視線を感じつつ、居心地の悪い食事を終えた俺は、温くなったコーヒーをグイッと飲み干した。
「――なあ、お前は『
その時であった。無表情のままにこちらを見つめていた佐田さんが、前触れもなく唇を開いたのは。「よぎ……何ですか?」あまりに突然のことで、本当に俺は佐田さんの言葉を聞き逃してしまった。
「『夜霧村』だよ。まあ、知らないだろうが……覚えはあるか?」
「……さあ、全く。社長の御実家がある村の名前か何かですか?」
しばし考えてみたが、何一つ思い当たることはなかった。何かしらの映画なり何なりに登場するやつかとも考えたが、掠りすらしない。
なので、素直に尋ねてみれば、「もう社長ではないから、佐田と呼べ」佐田さんはそういって自分の分のコーヒーを一口……次いで、話を始めた。
佐田さんの語る『夜霧村』というのは、佐田さんの祖父が一時期身を寄せていた村の名前であった。
又聞き……つまり、祖父から息子へ、息子から孫である佐田さんが聞いた限りでは、『大した産業もないし、商業ルートからも外れた貧乏な村だった』らしい。
林業を営むには傾斜が酷くて水はけが悪く、良質な木々(電車の枕木のような、高く売れるやつが育たなかったのだとか)が育ちにくい。
自給自足出来る程度に食料は取れたらしいのだが、それも食うに困らない程は採れない。不必要に子供が生まれたり、不作が続いたりすれば……餓死者が出てくる。
男の子は労働力として外に出され、どうしようもなくなれば女郎部屋(今で言う、風俗店らしい)に売られる女の子がいた……という、残酷ではあるが当時の農村ではよく見られていたことを行っていた、そんな村であったとのことだ。
何十年か前……佐田さんの祖父が村を離れてしばらくして伝染病が流行ったとかで、最後の住民がそこを離れてから、これまで。結局、新たに移住して来る者が現れることもなく、当時使用されていた家屋は放置され、今はもう村の名前すら記録から消されている……とのことであった。
「……はあ、それで?」
一通り話を聞いた俺は、それがどうかしたのかと佐田さんに尋ねた。「まあ、焦るな」何かを勘違いしているっぽい佐田さんは、残ったコーヒーを飲み干すと……ここからが本題だと言わんばかりに、かつん、とソーサーにカップを置いた。
「その『夜霧村』なんだが、実は一つ伝説があるんだ」
「伝説?」
「そうだ。何でも、『夜霧村』には『どんな願いでも叶えてくれる』というお宝があるらしいんだが……どうだ?」
「……いや、どうだって言われても」
勿体ぶった言い回しは、好きではない。なので、俺は空になったカップ……ではなく、水滴が浮いて少しばかり温くなっている水を一口飲んでから、佐田さんに……呆れた眼差しを向けた。
「正直、頭は大丈夫ですかって思います」
「へえ、どうして?」
「それを聞きます? そりゃあ少し前はオカルトがブームでしたけど、まさか間に受けているわけじゃないですよね?」
もしかしたら怒るかなと思ったが、佐田さんは何も言わなかった。むしろ、そう言うだろうなと言わんばかりに頬を吊り上げていた……何だろう、その笑みの意味が分からない。
……この人、本当に『願いを叶えてくれるお宝』なんてものが有ると思っているのだろうか?
まさか、とは思う。だが、佐田さんから感じ取れる雰囲気が、冗談ではないということを俺に教えてくる。友人相手なら笑って話を流すところだが、相手は佐田さんだ。正直……気味が悪い。
「……その伝説とやらが本当である根拠はあるんですか?」
「ある! 無ければ、俺だってこんなこと口にはしない」
「そ……そう、ですか」
下手に否定して逆上されたら嫌だ。なので、そこで少しでも言い淀んだらそれを理由に場を離れようと思ったが、即答されてしまった。逃げるタイミングを逃していることを察した俺は、「それじゃあ、その根拠は?」とりあえず話を合わせておこうと思った。
「さっき話しただろ。貧乏な村『だった』、てな」
「つまり?」
「ある日突然、『夜霧村』の住民たちは大金持ちになったんだよ」
「……それ、本気で根拠になると思います?」
思わず、はあ、とため息にも似た苛立ちが俺から飛び出した。これで怒って帰ってくれればそれで良かったのだが、「まあ、落ち着いて話を聞け」佐田さんは気にした様子もなく俺を見つめてきた。
「いいか、死んだ祖父曰く、『夜霧村』は御世辞にも裕福な村じゃなかった。男を奉公に出したって、女郎部屋に娘を売ったって、よほどの器量良しじゃなければ大した金にはならん」
「はあ、それで?」
「お役人と特別なコネなんて持たない農村が、どうやって一夜にして大金持ちになれる? 祖父曰く、『ひと月前はただの田舎村だったのに、今日では蔵が幾つも建てられ、大金の入った千両箱が家々に置かれていた』って話していたらしいんだぞ」
「……それ、お爺さんのホラ話じゃないんですか?」
当然といえば当然の俺の疑問に、「俺も、その点についてはあちこち色々と調べた」佐田さんは気を落ち着けるかのように深呼吸をしてから……おもむろにテーブルに肘を付いた。
「それで分かったんだが、気味の悪さを覚えた祖父が村を離れた後だ。実際に役所に行って確認したんだが、『夜霧村』から近隣の町までの大規模な治水工事を行ったらしい。要は道路を作ったわけだが……その金を、何処が出したと思う?」
何処って、そりゃあ……その言葉を、俺は続けられなかった。
気づけば握り締めっぱなしのガラスコップを一口……手が震えていることに、俺は唇を噛み締める。気づいた様子もなく、佐田さんはそのまま話を続けた。
「『夜霧村』だよ。役所が残した記録にちゃんとあった。『夜霧村』が費用の9割を負担するのを条件に、整備した道路の権利やら一部土地の権利やらを『夜霧村』は手に入れたらしい……だが、俺が気になったのはそこじゃない。金の出所もそうだが、何よりも気になったのは……それは治水工事を行った会社だ」
「会社、ですか?」
「ああ、そうだ。そんな大規模な工事、費用の一割を担うとしても莫大な金額になる。なのに、役所に記録が全く無いんだよ。古くからある工事関係の会社を片っ端から当たってみたが、全部ハズレだ。どこも口を揃えて、そんな工事が行われたなんて知らないと話す」
――だがな、代わりに誰もが口を揃えて同じことを話してくれた。
そう、続けた佐田さんの言葉に、俺は……ごくりと、唾を呑み込んだ。
「『ある日突然、夜霧村へと続く道が出来て、トンネルまで作られていた』……てな」
「そんな……」
――有り得ない。
そう言い掛けた俺の言葉を、「その、有り得ない事じゃないと諸々の説明が付かないんだよ」佐田さんは一言で切って捨てた。
「常識的に考えてみろ、ただ道を通すだけじゃなく、トンネルまで作る大規模な工事だ。それも、今みたいな大型トラックだのショベルカーだのが無い時代で、誰にも悟られることなくどうやって作れると思う?」
「いや、だからそれは……」
「『有り得ない話』だろう? 俺だってそう思う。色々と調べて確証を得ていなければ、俺は親父から聞かされた祖父の話をホラだと決めつけていた……だが、そうじゃない……これを見ろ」
そう言って佐田さんが懐(今になって気付いたが、服の下にポーチを入れていたようだ)テーブルに置いたのは、折り畳められた紙であった。
これは何だと尋ねれば、開いてみろと言わんばかりに顎で指示された。なので、俺は……奇妙な緊張感を覚えながらも、少しばかりボロボロになっているそれを開き……目を瞬かせた。
そこに記されていたのは……何だろうか、地図であった。赤丸で囲われた『夜霧村』から……近くの町だろうか。そこへの道を示すかのように、赤い線で繋げられている。
「祖父の遺品やら役所の書物やらを頼りに作った、『夜霧村』への地図だ。俺は明後日、この村へ行く」
「え?」
思わず、俺は地図から勢いよく顔をあげて佐田さんを見やった。対して、佐田さんは「荒唐無稽と言われようが、俺にはもうコレしかないんだ」はっきりと頷いた。
……確かに、そうかもしれない。俺は、内心にて頷いた。
バブル時代ならいざ知らず、今は雇用が不安定だ。俺だって次の再就職先の当てなんてないし、すんなり決まる保障はない。というか、まず決まらないと覚悟しておいた方がいい。
高望みではなく、この国では一度ドロップアウトしたやつはほぼ下に落ちる。幸運にも同じ位置、あるいは上に行けるやつもいるが、そんなのはレアケースだ。
俺よりもずっと社会人として、経営者として世間に揉まれてきた佐田さんだからこそ、それが分かっているのだろう。借金を抱えたまま、死ぬまで暮らすぐらいならば……佐田さんの目を見た俺は、そう、考えるのも無理はないと思った。
「――それで?」
「え?」
「お前は、どうする? 興味があるなら、集合場所と必要なやつを書いたメモを渡すが?」
「どうするって、それは……」
言いよどむ俺に、「さっきも言ったが、金は本当に無い」佐田さんはきっぱりと告げると、懐より出した一枚のコピー紙を、テーブルに置いた。
「お前に話したのは、せめてもの御詫びみたいなもんだ。他のやつらは……お前よりもずっと、そういうのを嫌っていたからな」
「ああ……そうですね」
俺の知る同僚たちはこの手の話は一切しなかったし、ある意味では俺よりもずっと現実主義だ。その彼らが、こんな話に身を乗り出してくるとは思えない。
佐田さんも、それを知っているから話さなかったのだろう。俺に話して来たのは……御詫びというよりも、いざという時の為に男手を確保しておきたい、という程度のことなのだろう。
……とりあえず、置かれたコピー紙を手に取る。
そこには出発日時と時間、集合場所と、必要になるであろう最低限の装備(防寒着など)が記されている。行きたいのであれば、一式揃えたうえで来いということなのだろう。
山奥に向かうから、『防寒に関してはちゃんとしたやつを用意しろ』と赤字で書いてある。まあ、そうだろう。さっきの地図を思い出す限りでは、とてもではないが普段着で行けるような場所ではない。
おそらく、途中からは徒歩で進まなければならなくなるのだ。まあ、今みたいに一家に一台は車がある時代に作られた道でもない。全く通れないというわけではないだろうが、この時期だ……雪で、通れなくなっているのだろう。
だから、防寒着をケチるなという言い分は分かる……分かるのだが、正直に言わせて貰えば、だ。
(パチンコで負けた後にこれはキツイな……)
と、いうわけなのであった。いや、用意出来ないわけではない。家賃その他諸々とは別の、もしもの時の為の金が口座には置いてある。それを少しばかり崩せば、用意することは可能だ。
だが……それは本当に、最後のセーフティネットだ。
メモに書かれた幾らかは代用出来そうなやつがあるので、そこまでの出費はしないだろう。けれども、『貯金を崩す』という事実が、俺の心にずしんと圧し掛かった。
……。
……。
…………けれども、だ。
(ホラ話に振り回されたとしても、困る事態になるのは俺よりも佐田さんの方だ。俺自身は、せいぜい2万、3万円ぐらいの出費で済む)
コピー紙には、現地では佐田さんが車を用意して待っていると書いてある。つまり、掛かる金額は防寒着を始めとした最低限のモノと、現地へ向かう為の交通費ぐらい……だろうか。
「……俺も、混ぜて貰っていいですか?」
しばし頭を悩ませた俺は、そう佐田さんに答えた。途端、「――っ! それなら、当日そのメモの場所に来てくれ」佐田さんは何処か嬉しそうに頬を緩めた。
先程は確信を得ているとか話していたが、その佐田さんも心の何処かでは信じきれない不安があるのだろう。そこに、一人でも賛同者が現れたことが嬉しいのかもしれない……ん、待てよ。
「ところで、この話は俺以外には誰にも話していないんですか?」
先ほどよりも機嫌良さそうに水の入ったコップを傾ける佐田さんに尋ねれば、「ああ、いや、他にも二人いる」佐田さんはたった今思い出したかのようにコップをテーブルに置いた。
「一人は、経理の鈴木だ……知っているよな?」
「鈴木さんも!?」
「あいつも、歳だ。親の介護のことやら何やらで、とにかく金がいるらしい」
ただ、まさか佐田さんが仲間を既に集めているとは思わなかった。薄らと顔を思い出せるぐらいの付き合いしかないから、「はあ、そうですか……」俺は曖昧に頷くぐらいしか出来なかった。
「それじゃあ、もう一人は?」
正直、見当もつかない。もしかして、佐田さんの知り合いか誰かだろうか?
「ああ、そいつは俺の姪だ」
「姪?」
「あまり詳しくは言えんが、色々とな……持病があるらしいから援助をしてやりたいが、俺もこんな様だ」
「はあ、なるほど……」
持病が有るのに、山登りなんて出来るのだろうか。
いや、まあ、出来るから佐田さんも連れて行くつもりなのだろうが……止めよう。ここで考えた所で、意味はない。そう思った俺は、しばしの間佐田さんと話した後……コピー紙を片手に、自宅へと戻った。
――当日。普段は乗らない路線の、これまた覚えのない停車駅に降りた俺は、防寒着のチャックを締め直しながら辺りを見回した。
所々剥げたコンクリートに、一部が削れている点字ブロック。設置された自販機にはちらほらと錆びが見受けられ、側面には……抽象的な落書きがスプレーされている。
俺以外には二人しか下りなかったホームから、構内へ。後から強引に取り付けたと思わしき高さの合わない手すりを横目にしつつ、改札を通った俺を出迎えたのは……閑散とした光景であった。
黒いガム痕やら何やらが目立つアスファルトより視線を先に向ければ、申し訳ない程度に整備された広場(というには、あまりに小さい)には、錆びだらけの看板が設置されている。
その横にはこれまたボロボロの旗が設置されていて、その旗が示す先に目を向ければ……ぽつん、と一軒だけ店がある。他にも店はあるが、その店以外は全てシャッターが下りていて、中には看板が破損したまま放置されている店もあった。
その途中、ちらほらと道路の端に見られる白い塊。遠目からでも分かる、アレは雪だ。この辺りも雪が降るとなると、これから向かう夜霧村は……分厚い雪で覆われているかもしれない。
……帰ろうか。
そんな考えが、脳裏を過る。いやいや、ここまで来て帰るわけにもいかない。防寒着もそうだが、ちょこちょこと小物を買ってしまった。ここで帰れば、それら全部が無駄になる。
……辺りを見回した俺は、思わずため息を零した。
案の定……という言い方は失礼だとは思うが、実際、俺以外に人の気配はない。朝と晩の通勤時間なら少しは違うのかもしれないが……それでも、俺が働いていた場所とは雲泥の差だろう。
只でさえ、気が滅入る事が有ったばかりだ。どうしても、こういう寂れた空気の中にいると、余計な事ばかり考えてしまう。
(でも、ここまで来たんだ。本当であれ嘘であれ、ここで帰ったらずっともやもやしっぱなしだろうし……)
ここ数日間の間、幾度となく考えては同じ結論を出した俺は、さっさと目的地へと歩き出す。待ち合わせ場所は、ここから少し離れた(駅前は駐禁やら何やらが煩いのだとか)公園の辺りだ。
事前に地図を見ていたから、迷うこともない。わざわざスマフォを出す必要もない。なので、俺は気分転換も兼ねて、きょろきょろと辺りを見回した。
……一言でいえば、長閑な町であった。
駅より少し離れて見える限りの周辺は、建物よりも緑の割合が多い。点在する家々の合間に広がる道路は広くて長く、ちらほらと見える工場は、どれも覚えのある社名であった。
ここら一帯は、そういった工場が数多く建てられているようだ。良く言えば、自然豊かな場所に建てられた……というやつなのだろう。しかし、俺の率直な感想は『ど田舎』でしかなかった。
……そうして、歩くこと数分。
時間厳守(遅れた時点で置いて行くと、コピー紙に書いてあった)の待ち合わせ場所に到着すれば、だ。約束の時間の20分前だというのに、既に俺以外の3人が待っていた。
一人は、この計画の立案者である佐田さんだ。その横にいるのは……ああ、鈴木さんだ。会社で顔を合わせる時とは恰好やら雰囲気が違うから分からなかったが、顔を見て思い出した。
不細工というわけではないが、美人という程でもなく、少しばかり目尻が吊り上っている。怒っているのではなく、そういう顔。会社以外で見る鈴木さんは、年齢よりも少しばかり老けて見えた。それは、分厚いニットの帽子がそうさせるのではなく、佐田さんが言っていた介護やら何やらのせいなのだと、俺は思った。
そして……俺の視線が、その二人より少しばかり横へ。だいたい3歩分ほど離れた所に立っている、俺よりも年若い女性へと向けられ……思わず、俺は目を瞬かせた。
(な、何でこんな美人さんが?)
何故なら、その女性……たぶん、佐田さんの話していた姪なのだろうが、場違いという言葉がこれ以上ないぐらいに当てはまる美貌の持ち主であったからだ。
正しく、部品が整っているというやつだ。何というか、雰囲気が違う。分厚い防寒着越しでも分かる、姿勢の良さ。まるで、雑誌からそのまま飛び出して来たかのようだと思った。
……ジッと見ていると、俺の視線に気づいたのか。彼女は、訝しんだ様子で俺を見やると、佐田さんの背後にそっと隠れてしまった。
(まあ、見知らぬ相手にジッと見られたら、そりゃあ警戒もするけどさあ……)
見た所、年齢は大学を卒業して……20代半ばだろうか。職場だけでなく、周囲の男たちの視線を集めているであろう彼女からあえて視線を外した俺は、「すみません、待たせてしまいましたか?」佐田さんへと話しかけた。
「いや、俺たちもちょうど来たばかりだ。事前に話していた通り、メンバーはお前を除けば、経理の鈴木さんと、姪の優子だ」
視線で促された俺は、「お久しぶりになります、鈴木さん」鈴木さんに軽く頭を下げる。正直、こういう機会でなければ改まって挨拶することすら無かっただろうから、何となく新鮮な気分であった。
「お久しぶり……といっても、まだひと月も経っていないのよね」
「ああ、まあ、そうなりますね」
「あんまり気を使ってくれなくてもいいわよ。この集まりだって、プライベートなわけだもの」
苦笑した鈴木さんも、似たようなことを考えていたようだ。意外と話し易い人なのかもしれないと思いながら、俺は……改めて、優子さんへと向き直った。
「……高木優子です。叔父さんから誘われて参加しました。短い間ですけど、よろしくお願いします」
すると、優子さんの方から簡潔な自己紹介をしてくれた。だが、それだけ。とりあえず俺も名乗りはしたが、それだけ。俺のことについて尋ねる様子もない彼女は、それっきり黙ってしまうと、また視線を彼方へと向けてしまった。
……気のせいかもしれないが、高木、という部分のアクセントが強かったような気がする。これは……もしかしなくとも、名前ではなく名字で呼べということなのだろう。
今時の子は、こんな形で異性を牽制してくるのだろうか。
失礼といえば失礼な態度だが、美人だからなのか、あまり嫌な気がしない。いや、美人だからこそ、そういう牽制をしなければならないのか……まあいい。どうせ、今日一日の付き合いだ。
そう判断した俺を他所に、さっそく出発だと動き出した佐田さんに連れられるがまま、公園を出てすぐの道路に留められている車へと乗り込んだ。
佐田さんの話では、まずここから国道を通って40分。そこから最寄りの山道(車が入れるギリギリの場所)まで30で、計1時間10分ほど掛かるのだという。
そんな場所に車で行けるのかと思ったが、どうやら地形やら気流やらの影響で他よりも積雪量が少ないらしく、この時期でも入ることが出来るらしい。
まあ、それでも実際には行ってみないと分からないらしいが、もう後戻りは出来ないのだ。会話の流れから運転することになった俺は、気を付けながら運転することにした。
運転自体は営業車で慣れているし、それほど回数はないが、雪道の運転は何度か経験がある。とりあえず、想定より時間が掛かるであろうことを伝え……国道へと車を向かわせる。
その間、後部座席に座った俺の耳には時折ノイズが混じるラジオの音と、佐田さんと鈴木さんの雑談が耳に入り、時々俺も話題に参加しながら……ふと、気になることがあった。
それは、必然的に助手席に座ることになった優子さんのことだ。
最初は助手席にこんな美人が座るのかと少しばかり緊張したが、それもすぐに解れた。何故かといえば、優子さんの態度があまりにツレナイというか……眼中に無いというのが嫌でも分かるからだ。
別に、冷たい態度を取っているわけではない。話しかければ普通に受け答えしてくれるし、場の空気に合わせて向こうから話題を振ってくれる。けれども、それ以上がない。
ふとした拍子に会話が途切れればそれっきりだし、視線は常に窓の向こうへと向けられている。いくら美人とはいえ、こうまで露骨な態度をされれば……こちらの興味も失せるというものだ。
……けれども、だ。それならそれで、気になる事が一つ。それは、明確に『お金』を求める俺たちとは違い……彼女が求めるモノとは何なのか、ということだ。
おそらく、彼女も『お金』が欲しいのだろう……だが、しかし。気付かれない程度に、その横顔を見やった俺は、内心にて首を傾げた。
この、美貌だ。わざわざこんな有るのか無いのか(まあ、無いだろうけど)分からない事に時間を費やすより、幾らでも金を稼げる手段はある。何時の時代も、美男美女はあらゆる面において優遇されるのが世の常なのだから。
(……もしかして、不老不死でも求めているとか?)
いや、まさかね。
ちくちくと喉に刺さった棘のように残る好奇心から目を逸らしながら、俺はそのまま運転を続けた。
――幸運、というやつなのだろうか。それとも只の偶然と判断するべきなのか、あるいは……それは俺には分からないが、『夜霧村』への道のりは怖いぐらいに順調であった。
出発した当初は道路状況から考えてプラス20分は覚悟していた。しかし、一度として渋滞などに捕まることはなく。それどころか赤信号にすら捕まる回数が少なかったせいで、結果的には五十分強で目的地へと到着した。
まあ、目的地と言っても、車が行けるギリギリの場所に着いただけだ。
そこから徒歩で夜霧村へと続くトンネル(佐田さん曰く、『一夜にして作られたらしいトンネル』なのだとか)へと向かわなければならないのだが……そこでも、俺たちは順調であった。
何故なら、夜霧村へと続いている山道なのだが……不思議なぐらいに雪が積もっていなかったのだ。
遠目から確認した時ですら、はっきりと地面の茶色やら木々の茶褐色が確認出来たのだ。最初は事前に調べた情報通りに雪が積もり難い場所なのかと思ったが、こうまで違うとそれだけが理由でないように思えて仕方がない。
何せ、いくら地形その他諸々の理由から積雪量が少ないとはいえ、だ。少し離れた場所では都会ではまず見られない高さまで雪が積もっているというのに、この道だけはほとんど積もっていない。
そりゃあ、以前は実際に使用されていた山道なのだ。雑草やら何やらで道路としての面影はほとんど残っていないが、実際に歩いてみて、人が移動できるように整備されていたのがよく分かる。
だが、それを差し引いたとしても……あまりに不可解だと俺は思った。
最初は、夜霧村へと通じる道の周辺にて見受けられる木々が、他とは違うからなのではないかと思っていた。いわゆる雪が積もり難いやつとかそういう理由なのかと思っていたが……違う。
こうして、改めて傍に来て分かる……他と、そう変わりはないのだ。
枝葉が無い木々もあれば、大量の葉を生い茂らせている木々もある。専門家から見れば全く違うと思うのかもしれないが、少なくとも素人の俺からは皆同じ木々にしか見えない。
なのに、夜霧村へと続く道だけは、雪がない。いや、雪だけじゃない。何処となく寒さもマシになっていて、町中では丁度良いと思っていた防寒着が、ここでは暑いとすら感じた。
(……おかしい、明らかに変だ)
先へ行く佐田さんの後ろ姿を追いかけながら、俺は思う。振り返れば、優子さんと鈴木さんが俺の後に続いている。二人は俺と同じく防寒着の胸元のチャックを緩めており、中のシャツが露わになっていた。
町中でそんなことをすれば、寒さで思わず身震いしているところだ。車の中で聞いたラジオの天気予報では、昨日から明日に掛けて強い寒波が襲来していると報じていた。
当然、此処も例外ではない……はずだ。だが、現実は違う。明らかに、この道周辺の気温が高い。しかも、俺は初めての山登りだというのに……あまり、疲れが無いのだ。
山道の傾斜自体は、それなりに有る。しかも、車を降りてから、早30分。休憩一つ取ることなく、俺たちはノンストップで山道を進み続けている。その事実が……俺には違和感に思えてならなかった。
この中では一番齢が若いだろう優子さんなら、まだ分かる。次点で体力があるのは、俺だ。だが、還暦間近の佐田さんだけでなく、鈴木さんまで疲れた様子を全く見せずにいられるのは……どうしてなのだろうか。
(俺だけが……そう思っているのか?)
あえて尋ねるにしても、どう尋ねれば良いのだろうか。佐田さんは脇目も振らず先へと進んでいるし、優子さん……鈴木さんに尋ねようにも……と、考えていると。
「――あったぞ!」
先頭を行く佐田さんが、声を上げた。その声に顔を上げた俺たちは、「……ああ!」まるで申し合わせたかのように同時に声を上げ、そこを指差した。
佐田さんが指し示したそこには、トンネルがあった。古い、トンネルだ。外灯も看板もなく、山の斜面をくり抜いて作ったかのような、レンガ造りのトンネルだ。
あれが……佐田さんの話していた、一夜にして作られたというやつなのだろうか。
少しばかりきつくなった傾斜を登って、トンネルの前に立つ。「ここで、ちょっと一休みしよう」そう佐田さんがリュックを下ろすのに合わせて、優子さんたちもリュックから飲み水を取り出し始めた。
その顔には、やはり疲れの色は見えない。しかし、汗は掻いているようだ。見れば、頬は僅かに赤らんでいて、露わになっている首筋には薄らと汗が張り付いているのが見えた……ああ、それにしても。
(……やっぱり、綺麗だな)
上下に動く、喉の動き。どうしてか、それが妙に気になる。
今まで気付かなかったが、もしかしたら俺にはそういう趣味があったのだろうか……いや、有ったようだ。
……とりあえず、バレないうちに優子さんに背を向ける。
分厚い防寒着で良かった。これがスーツとかなら、一発で分かる有様で、間違いなく変態呼ばわりされて……止めよう。
俺も、リュックから取り出した水を飲んで、気分を変える。そうしてから、何気なくトンネルを見やれば……年月を経ているとは思えないぐらいにしっかりしたモノであることが、素人の俺にもすぐに分かった。
砂埃で汚れてはいるが、トンネルそのものにヒビやら何やらは見当たらない。真っ暗な穴の向こうから、微かに光が見える。電気は……まあ、通っていないようだ。時代が時代だから、設置されているのはランプだろうか。
トンネル周辺を見回せば、このトンネル以外には何もない。治水工事が成されたのであれば、工事員の為の山小屋ぐらいは残されているはずだが……それが無いとなる……と。
(――もしかしたら、本当に『どんな願いも叶える宝』があるのかもしれない?)
そう思った瞬間……ぞくり、と。
背筋に何かが走ったのを、俺は実感した。恐怖ではない、寒気でもない。ただ、何というべきか……胸の奥がカッと熱くなった気がした俺は……堪らず、「早く、行きましょう!」一休みしようとしている佐田さんたちに声を掛けた。
「ど、どうしたんだ、いきなり?」
驚いた様子の佐田さんたち。優子さんも、不思議そうな様子でこちらを見ている。だが、「休憩なんてしている場合じゃない!」俺は構わず声を張り上げた。
「佐田さんの推論、たぶん当たっています。一夜にして作られたという話も本当だと思います。だって、そうじゃないと説明が付かないですよ、これは!」
「いや、それはそうだが……休憩は取らないと……」
「早くしないと、他の人達に先を越されてしまいますよ! 佐田さん、それでもいいんですか!」
そう、悠長なことを言っている場合じゃない。願いを叶える宝があるのは、もう確実だ。だが、それは同時に佐田さん以外の……俺たち以外の誰かが、その宝を狙っているということ。
昔と違い、今はネットで世界中を衛星で見ることが出来る。さすがにこんな場所にまで映像を撮りに来るやつはいないだろうが、衛星写真から……夜霧村を知った者がいるかもしれない。
それなら……絶対に探すはずだ。
何故なら、そこに『願いを叶えてくれる宝』がある。だから俺は、「ここまで来て、目の前で奪われたら悔しいじゃないですか!」水など飲んでいる暇なんてないのだと3人に訴えた。
その俺の説得が、どれだけ心を動かしたのかは分からない。何であれ、『他の人に奪われる』という点には強く反応してくれたようで、佐田さんと鈴木さんは目の色を変えた様子で重い腰を上げると、トンネルへと向かい始めた……けれども。
「――もう少し休憩しましょう。ここまでずっと歩きっぱなしです。この後どれぐらい時間が掛かるか分かりませんし、休んでから向かっても遅くはないでしょう」
優子さんだけが、少し待ってくださいと反対意見を出した。はっきりと意見を述べるその姿は、美貌も相まって凛とした華やかさが有ったが……俺は、内心にて舌打ちを零した。
……うぜぇな、少しは空気読めよ。
その言葉を、私は寸での所で呑み込む。正直に言わせて貰うのであれば、俺はこの瞬間、彼女に対する評価を下げた。そうしてしまうぐらい、俺の中では彼女の印象が悪くなった。
だって、そうだろう。今が、やる気を出す時なのだ。後先なんて考えずに突っ走らねばならない時、それが今なのだ。
それが分かったからこそ、俺は佐田さんたちにそれを伝えた。それが分かったからこそ、佐田さんたちも俺の言葉を受け入れ、やる気を出した。
なのに……こいつと来たら何だ?
皆がやる気を出そうとした時に、ストップを掛ける。鼓舞して気力を出さねばならない時に、休めと気が抜けるようなことを言う。いくら美人だからって、これでは興醒めするにも程がある。
「まあまあ、優子さん。こういうのは勢いが大事です。夜になる前には車に戻らないといけませんし、動ける時に動いた方が良いんですよ」
とはいえ、相手は俺よりも10歳近く年下だと思われる、異性だ。怒鳴りつけて空気を悪くするの何だし、ここは大人の対応を取るべきだと判断した俺は、そう言って彼女をなだめ、強引にその背中をトンネルへと押した。
「ちょ、あの――」
「時間が無いんです。有るのは確実なんですから、他の人に取られる前に急ぎましょう。貴女にだって、叶えたい願いがあるから此処に来たんでしょう?」
「……そ、それは……でも、安全策を取った方が……」
ほんと、鬱陶しい。あんまりグダグダとつまらないことばかり話すなら、終いには――すぞ。
そう、出かけた言葉を俺は飲み込む。言い淀んで口数を少なくする彼女の背中を押しながら、俺は先に向かう佐田さんたちを追いかけた。
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