第3話(裏):真夏の夜の悪夢

 

 ――嫌な予感というか、碌でもない何かは、少し前から感じていた。


 何が切っ掛けだとか、何時からなのかは俺にも分からない。ただ、何となく……本当に気づいた時にはもう、その嫌な感じが胸の奥で疼いてしかたがなかった。

 この『嫌な予感』という名の不快感は、俺のことなど何も考えてはくれない。前触れもなく俺の前にやってきては、不安を俺の中に残していき……そしてまた、前触れもなく俺の中から出て行ってしまう。


 そして、通り過ぎる前に大抵、ろくでもないことが起こる。昔から、そうだった。小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、そうだった。この『嫌な予感』を覚えた時は程度の差こそあるが、俺にとっては嫌なことが起こる。


 ただ嫌な思いをするだけなら、まだいい。だが、これを無視して事故に遭ったこともある。だから俺はこれまで、『嫌な予感』を覚えた時は出来うる限り病欠なり何なりで家に閉じこもり、過ぎ去ってくれるのを待つという対処法を取って来た……んだけど。


「――明日、○○県の××神社ってところにロケに行くから。雨天でも決行だから、そのつもりで準備しておけよ」


 俺がAD(アシスタント・ディレクター)として働くようになってから、丸五年。さすがに新人扱いされることはなくなったが、それでも若輩者としか見られていない俺に、ディレクターである大野さんが投げ捨てるように言い放った言葉が、それだった。


 必要を、簡潔に。その言葉を座右の銘にしている(口癖らしい)大野さんの報告は、いつも突然で最小限だ。初めの頃は『報・連・相』を習わなかったのかこのオッサンはとか思っていたが、今では不満に思わない程度に慣れた。


 というか、慣れるしかなかった。この程度のことでいちいち不満を覚えていたらキリが無いし、気にしていたらこっちが潰れる。この業界、一に体力、二に図太さ、三に面の皮だし。


 まあ、気に入られた方が早くADを卒業出来るものだと早々に割り切っていた俺は、いちおうは直属の上司みたいなものである大野さんの言葉には、何時でも答えられるようにどんな時でも意識を向けていた。


「――へ?」


 ……はずなのだが、さすがに今回ばかりは俺の切り返しもこんな程度だった。


「なんだ、聞こえなかったか?」

「あ、いや、あの、聞き覚えのない神社だったものですから……いちおう、神社の名前はある程度頭に入れていましたんで……」


 瞬間、言葉にこそ出さないものの不機嫌を顔に出した大野さんを前に、俺も表にこそ出さなかったが、凄く慌てた。必要を、簡潔に。その言葉を座右の銘にしている大野さんは、それを当たり前のように周囲に強要する。


 当然だが、俺に対しても例外ではない。というか、むしろ俺に対しては他よりも基準が厳しい。正直鬱陶しいことこの上ないが、その分だけ目を掛けて貰えるということなのだろう。


 多分、それは当たっていると思う。だからこそ、部下みたいなものである俺がアホみたいな返事をしたのが癇に障ったのだと思う。それに気づいた俺は、慌ててそれっぽい言い訳を述べる。勝率は五分と言ったところだが……。


「ん、ああ、知らなくて当然だろ。だって、××神社の話は俺の親戚の姉貴から聞いた話だからな」

「へえ……ってことは、もしかしてご当地ネタってやつですか?」

「まあ、似たようなもんだ」


 ――よし、誤魔化せた。


 その言葉を唾と一緒に呑み込む。悪い人ではないのだが、ちょっと人とは歓声が違う点が面倒だが……ところで、ご当地ネタってそれは……。


「大丈夫なんですか、それ?」


 ――あ、しまった。


 思わず尋ねてしまったことに、思わず頬が引き攣ってしまうのを自覚する。ディレクター同士ならいざ知らず、所詮はADの俺が口を挟むことではないし、余計なお世話なのである。


「まあ、心配なのは最もだ。ただ、もうどこの局もネタ切れみたいなもんでな。ここらで何でもいいからオリジナル色を出さないとしょうがないんだよ」


 ――よかった、大丈夫だ。


 よほど、大野さんも上からせっつかれているのだろう。失言と言ってもいい俺の発言を聞き流してくれたようだ。「それじゃあ、俺はちょっと打ち合わせに行くから。メンバーには伝えておけよ」大野さんは気怠そうに頭を掻くと、そう言って俺の前から去って行ってしまった。


 いちおう、俺は大野さんが見えなくなるまで見送る。意味がないことだとは分かっているが、こういう部分を評価する人がいる以上、しないわけにはいかないのだ……まあ、それはいいとして、だ。


「××神社……ってことは、また心霊特集か」


 そのうちまた来るだろうと予想はしていたことだが……俺は、深々とため息を吐いた。いや、別に疲れている(だからといって、疲れていないということはない)わけではない。俺の溜め息は、もっと別の理由……他人が聞けば鼻で笑いそうな理由で。それはつまり――。


「幽霊、いるんだろうなあ」


 ――つまり、そういう理由であった。


 そう、俺は、親兄弟以外には誰にも話していないし、誰にも話すつもりもないけど、そういうのが『見える性質』なのであった。





 俺がこの業界に入って三年、じわじわと広まっていたオカルト人気が爆発し、日本全国がオカルト一色に染まって、早二年。まだまだ冷める兆しすら見えないオカルト人気にあやかって、心霊特集が組まれるようになったのは……もう、結構前からだ。


 別に、それ自体をどうこう言うつもりはない。オカルトに限らず、SFも、ラブロマンスも、戦記物も、一定のサイクルごとにブームというやつはやってくる。所詮、流行なんてそんなものだ。


 ただ、俺が問題だと思っているのは……取材というか、ロケ。特に、秘所の突撃取材……いわゆる、怪談スポットへの取材。色々な仕事をしてきたけど、この手のロケに関してだけは……今でも、正直憂鬱でしかなかった。


(嫌だなあ……行きたくねえなあ……)


 そんな俺が運転するロケバスは、そんな俺の気持ちを嘲笑うかの如く軽快であった。先日、車検のついでにオイルとか色々を新品に変えたからだろうか。気のせいなのかもしれないが、エンジンペダルは心もち軽いように思えた。


 加えて、ロケバスの運転自体は慣れている。山道はもちろん、首都高速の渋滞から雪道、大雨に水没しかけた道路に至るまで走って来た。もちろん、後ろには大野さんを始め、同期のやつらも乗せているから緊張することも多かった……けれども。


(……嫌な感じ、強くなってきているな)


 こんなに嫌な気持ちで運転するのは、今回が初めてだった。こんなにハンドルが重いと思ったのも、今回が初めてであった。


(いっそ、ハリケーンでも起こってその××神社ごと吹っ飛ばしてくれたら良かったのに)


 チラリとフロント越しに空を見れば、空には雲一つなかった。昨日確認した時では曇りって言っていたのに……ほんと、こういう時は何から何まで俺の気持ちとは逆に動きやがる。


 局を出発してから、早二時間。グーグルマップとナビで確認した限りでは、件の××神社は○○県の端っこにあるらしい。らしい、というのは、そもそもその××神社が地図に載っていないからで、途中から大野さんの案内に変わるからだ。


 正直、運転する側からすれば不安でしかない。何故なら、こういう時に道に迷ったとかで矛先を向けられるのが運転する俺だからだ。理不尽な話だが、これも、もう慣れた。


 それに……俺は思わず苦笑してしまう。理不尽でしかないが、この時ばかりはその理不尽を歓迎している自分に気づき……少し、皆に申し訳ない気持ちもあった。


 バックミラー越しに、後部座席を見やる。


 そこに居るのは、現場指揮である大野さんと、俺を含めたADとカメラマンが数名ずつ。そして、『霊能力者』だとかいうタレントの……えっと……おばさんが、一番後ろの方に乗っているのが見えた。


 オカルトブームが実際にブームとして世間に認知されるようになって、しばらく。今回のロケに関してもそうだが、こういう『胡散臭いやつ』をタレントとして紹介する番組が増えた。


 だからという言い訳も何だが、俺が名前を覚えられないのはそのせいでもある。なにせ、ブームが来てから、これで5人目なのだ。霊能力者と自称するやつが、ロケに参加するのは。


 別に、不幸が重なったとかそういうわけではない。ただ、オカルトにはこういうやつが付き物なだけだ。信憑性を増して、より数値(視聴率)を取る為に……説得力というやつを得る為である。


(ほんと、胡散臭い婆さんだ。こういうやつがいるから、俺みたいに『見える』やつが割を食うんだよなあ……)


 失礼だとは思うが、俺の婆さんに対する気持ちはそんなもんだった。ていうか、それぐらい許してくれ。どうしてかは分からないが、この『おばさん』が……俺は好きになれないのだ。だからといって嫌いというわけでもないが……何だろう、俺とこのオバサンはどうしても、そう……馬というやつが合わなかった。


(俺みたいに、本当の本当に見えていたら……いや、止めとこう。多分、この人は俺みたいに見えるだけじゃないから、平気なんだろう)


 理由なんて特に思いつかないけど、強いて理由を付けるとすれば、多分それは……嫉妬なんだろう。俺は『見える』だけで何も出来ないのに、あのオバサンは違う。俺は『見える』せいで苦労してきたのに、あのオバサンは違う。


 それが、堪らなく腹が立ってしまう。只でさえ気分は悪いのに、見ているだけで苛立ちが込み上げてきているのを自覚した俺は、慌てて運転に集中することにした。


 ……。


 ……。


 …………俺は、ガキの頃から常人には見ることが出来ない……幽霊というやつを見ることが出来た。本当は幽霊ではないのかもしれないが、とにかく、物心が付いた時にはもう、俺は『やつら』の姿を確認出来ていた。


 だからといって、俺がその件で得をしたことは一度もない。いや、もしかしたら数えるぐらいはあるかもしれないけど、それ以上に不利益を被る方が多いので、実質『無い』と言っても過言ではないだろう。


 そんな俺だから、見える俺だから、断言する。見えない方が幸せだってことを、さ。


 とにかく、『やつら』は……こう、加減というやつを知らない。そして、善悪の区別もない。もしかしたら違うやつがいるのかもしれないが、少なくとも俺が見てきた『やつら』は何時だって自分たちのことばかりを考えていた。


 自分たちの欲求を通す為に、とんでもないことを平気で仕出かす。自分たちの願い(我が儘)が叶えられて当然だと思っている。だから、時に『やつら』は俺たち生きているやつらの平穏をぶち壊すのも平気でやる。


 実際、俺は幼い時から何度も見てきた。霊に憑りつかれて精神に病を抱えたやつとか、それが原因で自殺したやつも知っている。そんな俺が編み出した、『やつら』に対する処世術……とにかく、『やつら』の目に留まらない。それが、何よりも重要なのだ。


 それを知っているから、俺は極力『やつら』の視界に入らないように努めてきた。絶対に、そう、はっきり言って、俺が親以外の誰にも『見える』ことを秘密にしているのも、オカルト関係のロケで憂鬱になるのも、だ。


 気取っているつもりは毛頭ない。俺はただ、『見える』ことで余計なトラブルを背負い込みたくない。ただ、それだけだった。


「お前、何だその御守りの数は? うちの娘のストラップよりも多いぞ。それに、そこの酒やらチョコやらは何だ? もしかして、御供えするつもりか?」

「転ばぬ先の杖ってやつですよ」

「――に、しては杖の数が多過ぎて転びそうだな。只でさえ蒸し暑いっていうのに、ますます暑苦しいだろ、それじゃあ?」

「まあ、願掛けみたいな気持ちもありますからね。それに、忘れ去られたって言っても神社に行くんだし、御供え物も持って行かないと」

「お前、若いのに変に年寄り臭い考えしているよな。ああ、話は変わるが、とりあえずアングルとFSの位置を決めておくから、持って行く機材は最小限でいいぞ」


 誰だって、命は惜しい。俺だって、当たり前だが命は惜しい。大野さんを含めた皆からのからかう声を背中に受けながら、俺はひいひい汗水垂らしながら準備を進める中、御守りを一つ一つ確認していく。


 どれが効くかなんて、俺には分からない。だが、数撃てば当たるという格言があるぐらいだ。どれか一つでも効いてくれれば御の字、祓う力はなくても、身代わりにでもなってくれれば。


(大丈夫、『予感』はすぐに終わる。どうせ、足を滑らせて軽い怪我をするとかそんな程度。大丈夫、やれる、俺は大丈夫。今までだって大丈夫だったんだから、今回も大丈夫だ)


 そう、俺は強く心に念じながら……一番金が掛かった御守りを首に掛ける。次いで、御守りの束と御供え品を鞄に押し込み、バッテリーと機材道具を持つと、皆に続いて××神社へと続く参道へと向かう。





 ……山中は、思っていたように辛く苦しい道のりだった。だが、それは俺が危惧したソレではなく、もっと現実的なもの。言ってしまえば、夏の暑さだとか、虫刺されだとか、ヘビとか蜂とか、そういう類。


 ぶっちゃけ、それ自体は予測していたからそうでもなかった。まあ、キツイのは嫌だけど……正直、気楽だった。山に入る時は『嫌な予感』がしたけど、神社に近づくにつれて楽になるっていうか……とにかく、楽になれた。


 もしかしたら、山を登るのが大変だから気にする余裕がないだけなのかもしれない。けれども、理由は何であれ楽になっているのは事実だ。


 ××神社に神様がいるのかどうかは分からないが、このまま何事もなく終わってくれたらそれでいい。俺はただただそれだけを願っていた……のだが。


(……嘘だろ、おい)

 ――甘かった。はっきり言おう、甘かった。


 そして、俺は思い知った。勘違いしていることを思い知らされた。楽になったのではない、俺の中のアンテナみたいなものが振り切れてしまったことで……楽になったと錯覚しただけなのだということを。


 二度あることは三度あるっていうけど、そんなレベルの話じゃなかった。まさか……俺が想定していた以上の斜め上どころか、上過ぎて確認出来ない上方になるとは思わなかった。


(ははは……嫌な予感、大的中……)


 大野さんから教えられた××神社は、はっきり言えば廃墟であった。塗装がすっかり剥げ落ちた鳥居に、雑草だらけの境内。賽銭箱らしき箱に、オンボロを通り越している社。仕事以外では頼まれたって中に入りたくはない……××神社に対する俺の感想は、そんなものだった。


 先に境内を確認していた皆が、口々に愚痴を零しながら社の中を確認しているのが、声だけでも分かる。ADの辛い所だが、だからといって一人嫌だと駄々を捏ねるわけにはいかない。何時もの俺なら、皆に遅れることなく中へと入るだろう……そう、何時もの俺ならば、だ。


(やべえよ……マジでやべえよ……)


 それが出来ないわけは、俺が社に近づきたくないからである。それどころか、神社の敷地内へと足を踏み入れた瞬間、その社を目にした俺は素早く社から視線を逸らした。何故かと言えば、そこに……視界にすら収めたくないやつがいるからだ。


 今のところは、誤魔化せている。けれども、それも時間の問題だろう。表向きは大野さんの指示で適当な位置の雑草を抜き取ったり、機材を運ぶのを手伝ったりして誤魔化しているが、それもいつまで持つか。


 さすがにこんなことで評価が下がったりはしないだろうが、印象が悪くなるのは避けたい。けれども、我慢する期間が伸ばされる可能性は高い。それを天秤に掛けた俺は……本当に、本当の本当に気付かれないよう細心の注意を払いながら、賽銭箱へと目を向ける。


 瞬間、俺は……ゴクリと唾を呑み込んだ。


 ――そこに、その子は居た。やはり、見間違いではない。確かに、その子はそこに居た。『俺にしか見えていないであろう女の子』が、そこに居た。


 その子は、いわゆる巫女服っぽい恰好をしていた。年は、中学生……いや、小学生ぐらいだろうか。少なくとも高校生には絶対に見えない風貌のその子は、ニヤニヤと口元を歪めながら……ジッと、社の中に入った同僚たちを見つめていた。


 一見すれば、気色悪い笑みを浮かべているだけ(それはそれで気持ち悪いけど)の子供がいるだけだ。その子が『俺にしか見えない』のと、その子が『宙を漂っている』という点を除けば……まあ、誰が見ても可愛らしいという評価が付く女の子であった。


(何だアレ……何だよアレ……あんなの、見たことねえよ)


 けれども、俺はその女の子を前にして不覚にも泣きそうになっていた。幸いにも夏の日差しと汗のせいで誰も気づいてはいないが……ぶっちゃけ、俺は半ばパニックになっていた。


 想像してほしい。


 不良が居るかもしれない路地裏に嫌々入ったら、背中どころか体中にタトゥーを掘った男が出てきた光景を。しかも、その男の手は真っ赤に濡れて、分厚いナイフが握り締められている。


 あるいは、曲がり角を曲がったら銃口が……それも、百丁を超える銃器が、俺を捉えている。それで、俺がどれぐらい動揺しているかが分かってくれるだろうか。


 ヤバい、なんてものじゃない。あれは……『見る』だけでも危険なタイプだ。それも、視界に収めただけで影響を受けてしまうぐらいの……超ヤバいタイプ。間違っても『神様』とか、そういう清浄なやつではない。


 たぶん、俺の中の本能的な部分が理解しているんだと思う。あの子を見たその瞬間、考えるよりも前に目を逸らして、冷や汗が一気に噴き出たんだから……理解、しているんだと思う。


 だって、あの女の子は特別俺たちに敵意を向けているわけではない。それは、俺にだって分かる。だって、大野さんたちに全く影響がないのだ。その時点で、あの女の子は俺たちに敵意を向けていないのは分かる。


 なのに……『ヤバい』ってのが分かるんだ。あの子が何をしたわけでもないのに、『ヤバい』ってのが分かってしまう。それが、俺は何よりも……恐ろしかった。


 それが、どれだけ恐ろしいことなのか。たぶん、これは俺みたいに『見える』やつにしか分からない事なんだろうと思う。でも、分かってしまうからこそ……見て見ぬ振りが出来る程、俺は図太くなかった。


(御供え……して、気に入られたら嫌だけど……でも、このまま皆に取り返しのつかないことになるのは……)


 覚悟を決めるしか、なかった。「寂れているとはいえ神社ですし、御供えしてきます」。俺はそう言って大野さんたちから離れると、リュックから御供え品一式を取り出す――ひぃ、こっち見た!?


(ち、ちびりそう……!)


 それまで社の方を見ていた女の子が、物凄い勢いで俺の方へと振り返った。気持ち悪いぐらいに見開かれたその目が、異様過ぎて怖い。でも、俺は震える身体に鞭打って……そっと、精一杯さりげなく、気付いていないフリをしながら、それらを賽銭箱の前に並べた。


『――ほう――ておる――じゃな』


 途端、女の子の声が聞こえた。よく聞き取れなかったうえに、聞いているだけで背筋に震えが走った……だが、反応は劇的だった。何かを呟いて俺を見つめた後、スルリと女の子の手が御供えへと伸びて……伸びて、何を掴むこともなく、その手が引かれた……なのに。


(――っ!?)


 気づけば、女の子の手は今しがた御供えした品と、全く同じ物を掴んでいた。まるで、初めから同じ物を二つ用意していたかのよう……驚いて絶句している俺を他所に、女の子は覚束ない手付きで『俺にしか見えない酒瓶』の蓋を開けると、それをラッパ飲みし始めた。


 ……とりあえず、ご機嫌を取ることには成功したのかもしれない。


 効果があるのかは分からないけど、俺がやれることはやった……もう、十分だ。そう判断した俺は、震える足を動かして女の子から離れた。


 ――うわあ、カビ臭ぇ……入りたくねえ!

 ――うわあ、天井一面に蜘蛛の巣が凄い。

『――、――、――――、――』


 社から聞こえて来るみんなの声に、背後で女の子が何か反応しているのは分かったが、もう俺には関係ない。その女の子が移動して例のオバサンの所へ向かっていくのが見えたが、それも俺には関係ない。


 とにかく、早く仕事を終わらせて帰ろう。今日の夜……このロケさえ終えたら、帰られる。それまで耐えれば……俺が思うは、それだけだった。





 ……そう思って、覚悟を決めていたけど……甘かった。今日一日だけで何度その言葉を思い浮かべたかは覚えていないけど、とにかく考えが甘かった。あの女の子にだけ気を付けていれば良いだろうと思っていたけど、それが如何に甘い考えなのかを……俺は夜になってから、改めて自覚させられた。


 夜の山は、昼間よりもずっと酷い有様だった。道順は既に頭の中に叩き込んでいるから分かっているが、それでも全く確認出来ない。真っ黒で、まるで山全部が影になっているかのようにのっぺりとしている。ライトを照らしたら……いや、止めておこう。下手なものを見てしまいそうだ。


(考えて見たら、夜の山に入るって……中々命知らずなことしているんだよなあ、俺らってば)


 思い返してみて、自分の感覚が人知れずズレていることを今更ながら自覚する。芸人さんたちの無茶を間近で見て来たからだろうか……我ながら、よくもまあ疑問を抱かず続けられているものだ。


 いちおう視聴率が取れているとはいえ、今回のやつは深夜に使われるものだ。だからゴールデンでは出来ない過激なこととかやったり、スタッフも相応に大変だったり、ディレクターである大野さんも身体を張ったりするのだが……まあ、何だ。


(御守り一杯持って来たし、大丈夫だよな……うん、大丈夫)


 撮影されるタレントさんたちを眺めながら、俺はライトをタレントさんたち足元へと向ける。大野さんたちを含めて、全員の視線が前方へと向けられている……のを横目に、俺は背後へと振り返る。


(居るよ……来ているよ、やっぱり、ここってヤバい場所なんだな)


 そこには……男が居た。満面の笑みを浮かべた初老の男が、大きく手を振っているのが見える。文字にすればただそれだけのことなんだが……本当に、ただそれだけのことなんだが。


(足元どころか手元すら明りなしだと見えないのに……なんで、あの人だけはっきり見えるんだろうな。俺にしか見えないうえに、こんな時間に一人でいるとか……はは、絶対罠だよ)


 場所が、場所である。加えて、その初老の男……俺たちが山を登ってすぐに(俺だけが)見掛けてからずっと、同じ距離を保ったままだ。近づくこともなければ、遠ざかることもない。しかも何時振り返っても笑顔のまま、大きく手を振り続けている……いったい、何が目的なんだろう。


 多分、俺たちの誰かに憑りつこうとしているのだろう。ていうか、それ以外でこうもしつこく俺たちを追いかける理由が思いつかない……なので、理由はだいたい分かるのだが……どうして何時までも追いついて来ないのか。


 ――それは多分、この子が居るからなんだろうなあ。


 大野さんの隣……カメラマンの後ろを付いて行く、小さな存在。神社で見た、あの女の子を視界の端で確認した。


 そう、あの子である。夜になって山に登る前に、この子を大野さんの背後で見掛けた時は腰を抜かし掛けた。誰にも言うつもりはないが、あの時はマジで走馬灯が脳裏を過った……死ぬ間際って、あんな感じなんだろうか。


(まさか、この子が守護霊みたいなことをしてくれるなんて……御供えしたから、気に入られたのかな)


 あの時、恐れずに御供えして良かった。この子と一緒に山を登り始めてから十回目となる感謝の念を、俺は心の中で送った……いや、現金なやつとか言うなよ?


(だって、この子がいなかったらマジで危なかったんだから……ヤバいやつなのは確かだけど、そのおかげで俺たちが無事なのは事実なんだよなあ)


 過程は何であれ、それでも今はこの子がいて良かったと本気で思っている。あのオッサンも俺たちをストーキングしているだけで済ませているのが、その証拠だ。それどころか、俺たちが未だ何事もなく無事でいられるのは……まぎれも無く、この子のおかげなのだろう。


 多分、幽霊としての格(実力と、言い換えた方がいいかもしれないが)は、この子の方が圧倒的に上なんだと思う。それが清浄か邪悪かは置いといて、とにかくそうなのだろうと俺は推測している。


 言ってしまえば、不特定多数のチンピラたちから身を守る為にヤクザを用心棒にしているようなものだろうか。大野さんたちは気づいていないが、今の俺たちはまさしくそんな状態になっているのだ……と。


「――きょえええええ!!!」


 不意に、奇声が暗闇の中に響いた。その声はまるで黒板を掻き毟ったかのように耳障りで、「きゃああああ!!??」同期の恵子さんが上げた悲鳴よりも酷く嫌な気分にさせられるものだった。


「きょへへ、きょえ、きへへへええええ!!!!」

「ちょ、ちょっと藤井さん、ど、どうしたんですか!?」


 見れば、先ほどまでカメラの前に広がっていた和気あいあいとした雰囲気は一変していた。芸人として名前が売れ始めた芸人の一人が、一目で異常だと分かる形相で奇声をあげていたのだ。


 しかも、奇行はそれだけに留まらなかった。なんと、彼はそのまま道を外れて、明かり一つない山中へと入ろうとしたのである。「――あぶ、危ないですって! そっちに行っちゃ駄目ですってば!」我に返った皆が慌てて取り押さえに入るが……俺は、俺だけは、特に慌ててはいなかった。


 何故ならば――。


『――、――』


 ――この子がいるからだ。ただ突っ立っているしかない俺を他所に、その子は軽快な足取りで彼に近寄ると……ぱん、とその背中を叩いた。


「きぇ、きええ、きっ……あ、あれ?」


 途端、変化は劇的であった。先ほどまで騒いでいたのが別人だったかのように、その人は不思議そうな顔で辺りを見回していた。


 おそらく、今しがたの出来事は記憶していないのだろう。「馬鹿野郎! 何やってんだ!」大野さんからお叱りを受けているが、彼は謝りながらも理解していないようであった……まあ、当然だろう。


(普通の人には幽霊なんて見えないし、感じることだって中々出来ないもんなあ……ん?)


 ゾクゾクと、悪寒が背筋を走る。この感覚は何というか幽霊が傍を通った時のアレに似ていて……それってつまり――あ!


 気づいた俺が振り返った時には、もう遅かった。何時の間に近づいて来たのか、あのオッサンは俺のすぐ後ろにまで接近していたのだ。しかも、それだけではない。先ほど見た時には浮かべていた満面の笑みは消え、まるで目玉をくり抜いたかのような黒い眼孔で俺を見つめていたのだ。


 ――あ、ヤバい、逃げないと。


 そう思って逃げようとしたが、間に合わなかった。男は信じられない素早さで俺の腕を掴むと同時に、引っ張り始めたのだ。その行き先は森の中……って、ヤバえじゃねえか!


 慌てて踏ん張るが、無理だった。引っ張る男の力は物凄く、俺はあっという間に地面を引き倒された。それだけに留まらず、そのまま引きずられて森の中へ――引きずり込まれるよりも前に、あの子が動いてくれた。


『――!』


 回し蹴り、一発。たったそれだけで、その男は悲鳴をあげる間もなく胴体を両断された。「――ってぇ!?」その反動で俺も地面を転がったが……まあ、命が助かるのなら安い対価だ。痛みと泥で酷い有様だがなんとか立ち上がると……撮影そっちのけで神社へと急ぎ始めた皆に、慌てて俺も追い掛けた。


 ……なんで下りようとしないんだろう。ていうか、霊能力者のオバサンは何で止めないんだよ。


 疑問に思った俺は振り返って……納得した。さっきのオッサンなんて、アレと比べるのが間違いだ。アレは、ヤバい。いや、ヤバいのはあの子も一緒だけど、アレのヤバさはあの子とは全く方向性が違う。歩く毒物……周囲に死を撒き散らす最悪なタイプだ。


『――っ! ――っ! ――、――、――っ!』


 俺のすぐ隣を駆け抜けたあの子が、何やらアレに向かって叫んでいるようだったが、そんなの気にしている余裕はない。えぐみのあるひでぇ味を、唾と共に吐き出して、みんなの後を追いかける。本当に、嫌な予感はよく当たる。本当に、嫌なぐらいに……そう思いながら俺は、首に掛けた御守りを握り締めた。


 ――帰りたい。心から、俺はそう思った。





 ――。


 ――。


 ――――ふと、顔をあげる。一瞬、自分がどこに居るのか分からなかったが、天井に広がる蛍光灯の明かりを見て、そこが局の一室であることを思い出した。


 いかん、こんなところを見られたら大野さんに怒鳴られる。そう思って俺は慣れ親しんだ(慣れたくはなかった)椅子から腰をあげ、大きく伸びをする。


「――ようやく起きたか。この後、皆を連れてお祓いに行くぞ、それまでにシャキっとしとけよ」


 直後、背後から掛けられた言葉に俺は思わず変な声を出した。慌てて振り返れば……そこには、新聞に目を通している大野さんの姿があった。


 どうやら、とっくにバレていたようだ。「すんません、寝てました」今更取り繕ったところで仕方がないから、俺はそう言って再び腰を下ろす。次いで、寝る前に用意しておいた缶コーヒーに手を付けて……おもむろに、大野さんに向き直った


「ねえ、大野さん」

「なんだ?」


 大野さんは、新聞から顔を上げなかった。けれども俺は構わず話を続けた。


「あれ、本当にそのまま流すんですか?」

「あれって、何だ。具体的に言え」


 いつものように、大野さんは怒る。だが、俺が引かないことが分かったのだろう。「――冗談だよ」大野さんに気にした様子はなく、「――さすがに、洒落にならない部分はカットするけどな」あっさり教えてくれた。


「俺、何が起こっても知らないですからね。あんなの、流していいんですか?」

「そう言うな。まさかあんなことになるなんて誰が思う? 神様だって思わなかっただろうよ」


 いや、俺は思いましたよ。その言葉を、俺はギリギリのところで呑み込んだ。


「祟られても、知らないですからね」


 脳裏に、あの女の子の姿が過った。結局、あの女の子がどういう類の幽霊かは分からず仕舞いだが……大丈夫だよな?


「心配そうな顔をするな……俺だって嫌なんだが、お蔵入りするには金が掛かり過ぎているんだ」

「……祟られても、本当に知らないですから」

「安心しろ、道連れだ。それに、お祓いするから大丈夫だろ」

「……まさか」

「安心しろ、あのババアじゃねえから。あいつは首になった……ああ、それと――」


 そこで、大野さんは一旦言葉を切った。その瞬間、俺は……また、『嫌な予感』を覚えた。だが……俺に出来ることなんて何もなく。


「――明日、幽霊が出るっていうネットで噂の○○病院に行くから。そのつもりで準備しておけよ」


 ……この仕事、止めようかな。


 大野さんの話を聞きながら……俺は、転職を本気で意識した。

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