第11話(表)この辺に、怖い心霊スポットがあるんすよ。じゃけん、夜行きましょうね
最近、学生たちの妙な悪戯が増えて困っている。何か、良い方法はないだろうか。
お由宇の神社にやってきて、すぐ。顔を見合わせて早々、お由宇の口から零れたお願い事に鬼姫が目を瞬かせたのは、7月に差しかかろうとしていた、湿気が漂う夜。もうすぐ、鬼姫がお由宇の神社にやってきて1年になろうか……という頃であった。
いくら幽霊とはいえ、こうも毎日雨ばかり見ていては気が滅入ってしまう。それは、風邪などとは無縁の存在である鬼姫も同じ。久方ぶりに見上げられた月を目にして、ご機嫌になるのも、生者と同じであった。
そんなわけだから、連日連夜続いていた雨が上がり、雲が晴れて。さて、月見の一杯を楽しもうと酒を(当然、お供え物である)片手にお由宇の神社を訪れたのも、いつもと言えばいつもな流れ……であった、のだが。
そこから先、何時になく困ったように眉をしかめているお由宇を見て、どうしたのかと尋ねてみて。そうして、悩みを打ち明けられた……その時にはもう、いつもと同じ流れではなくなっていた。
『何でかは知りんせんけれども、僅か前から躾の行き届いていない若造がやって来ることが増えて来ていんす……』
相も変わらず社の中には誰もいない、明かり一つ無い暗闇がある。そこに、これまた常人には認識することすら出来ない、目には見えない霊的存在が二人……いや、一柱と一人がいた。
冒頭の、どうしたらいいのか、と尋ねたのは、この神社の主であり『性愛の加護を司る神』である、何とも色気のある着物を身に纏った少女、お由宇。
『う~む……お由宇、お主はどうしたいのじゃ?』
それに対して答えたのは、この神社にほぼ週7の割合で御邪魔しまくっている、かつては時の帝すら恐れた、鬼姫と呼ばれている幽霊……その、一人と一柱であった。
一人と一柱は今、こうして会話をしている。けれども、この会話が外に漏れるようなことはない。それは、単に足元どころか手元すら確認出来ない程に閉じられた空間だから……ということ、だけではない。
仮にこの場を目にした者が居たとしても、まず、大半の者は気付かないし、気付くこともない。何故なら、この会話は……常人にはけして聞くことが出来ない、霊的な『力』を持つ者だけが聞くことが出来る代物だったから。
もちろん、その姿も大半の常人には確認出来ない。故に、膝枕されるという何時もの姿で、何時ものように酒を酌み交わしているという……何ともだらけた空気が露見されるような事態にはならなかった。
……例え露見していたとしても、だ。
傍目からみれば、うら若き乙女(と、言うには些か早い外見ではあるが)がいちゃついているだけだから、大して何かがあるわけでもないが……まあ、露見されないに越したことはないのは確かであった。
『どねぇしたい……と、言いんすと?』
膝に乗せた鬼姫の言葉に、お由宇は首を傾げた。『言いますと、では、なかろう』それを見て、鬼姫はちゅるりと蛇のように舌を伸ばし、ワンカップの中に残された清酒をちろりと舐めた。
『ここは、お主の神社じゃ。言うなれば、お主の城よ。城の主であるお主がどうしたいのか分からなければ、助言のしようがないじゃろうて』
『はあ、なるほど、なるほど……ぬし様の御指摘は最もでありんす』
『それで、お主はどうしたいのじゃ?』
『さあて……そこまでは考えていんせんした。とりあえず、ぬし様なら何かしらのお答えがありんしょうと思うていんしたから』
『お主はワシを仙人か何かだと勘違いして……待て、考えてみれば、何故ワシがそのことを知らんのじゃ? 少なくとも、ワシがおるうちはそのような覚えは……』
『ああ、そのことでありんすか』
それなら、私でもお答え出来ますよ。お由宇は鬼姫の疑問に、ふわりと……柔らかな笑みを向けると、皺が寄っている鬼姫の眉根を、そっと指先で撫でて。
『若造たちは何時も、ぬし様が寝入った後に来ていんしたから。ぬし様が気付かなかったのも、仕方ありんせん』
そう、答えを語ってくれた。『ならば、起こしてくれれば……』当然、知らなかった鬼姫が憤慨に目じりを釣り上げるが、『気持ちよさそうに寝入ってらしたので』お由宇は気にした様子もなく、その目じりをぬいぬいと指先で揉んでやると。
『それに、ぬし様の寝顔があまりに愛くるしいものでありんすから』
ぽつりと、本音を付け足した。『ほら、今も可愛らしいお顔になっておりんすよ』そうなれば、もう、鬼姫に言えることは何もなく、お由宇にされるがまま……憮然と、寝返りを打つ他なかった。
途端、お由宇は心底楽しそうに……うふふ、と笑みを零した。
それが、鬼姫には堪らなかった。こういうとき、鬼姫は己の根っこのそのまた奥底の部分が、『男』のままであることを自覚する。そして、お由宇が『神』であると同時に、脳天から爪先まで『女』であることを……強く痛感させられる。
やはり、姿かたちが変わろうとも『男』は『男』のままで、人であろうと神であろうと『女』は『女』、ということなのだろうか。
『男』であった己よりも、ずっと。己すら自覚していなかった『男』のことを理解しているように思えてならないお由宇の笑みが、どうしてか鬼姫は……直視出来なかった。
『うふふ、拗ねた顔。そねぇなんが、愛らしいでんすよ』
そんな、鬼姫の内心に気付いているのかいないのか。曖昧な笑みをお由宇は浮かべたまま、膝に乗せた鬼姫の頭をさらりと撫でる。次いで、さあて、それでは何から話しましょうか……と視線をさ迷わせた。それを横目で見て、鬼姫はもう一度酒に浸した舌をちゅるりと引っ込めると、ため息と共に身体の力を抜いて……耳を澄ませた。
そうして、困っているとは言いながらも、困っているようには思えない笑みを浮かべながら、子守唄のように語り出したお由宇の話では、だ。
最近……だいたい、6月初めの頃から、夜間に神社を訪れる若者たちの集団が後を絶たないと言う。
その若者たちの集団は一度に3人~7人ぐらいで、男たちだけの場合もあれば、女たちだけの場合もあり、時には男女混合の場合もある。風貌や雰囲気にもバラつきがあって、毎回訪れる顔ぶれが変わるらしい。
訪れる若者たちの年齢幅は、お由宇が見た限りでは、だいたい十代から二十代の、まだ幼い顔つき。神社の傍まで車で来ることもあれば、徒歩で来ることもあって、彼ら彼女らがどこから来ているかまでは分からない。
……ただ、たまたま立ち寄ったという風には見えなかった。
これまで見てきた光景を思い返しながら、お由宇は話を続けた。
それでお由宇の口にした『妙な悪戯』だが、ポツリポツリとこれを聞いた鬼姫は……それは妙な、というよりも、『奇妙な』、の方が正しいのではないかと目を瞬かせた。
と、言うのも、だ。
その若者たちは夜間の神社に訪れた際に、何故か全員で入ることをしないのだ。必ず、一人ずつ。鳥居入口から参道を通って、鈴を鳴らさずに三礼して……そのまま入口まで戻る。これを、集まった若者たち全員が一人ずつ行うのである。
何とも、奇妙な行為だ。
正式な所作など又聞きの又聞き程度にしか記憶していない鬼姫でも、『変な事をする』と思ったぐらいだ。けれども、この時、鬼姫が最も『奇妙である』と断言したのはその、戻る際の所作であった。
その所作を簡潔に言えば、『戻る者は頭を下げ、両手を頭の上で合わせたまま、振り返ることなく後ろ向きで戻る』、というもの。言葉だけを切り取っても、その不自然さが読み取れよう。
その上、その者は決まって参道の中ほどで立ち止まり、頭を上げてから、ある不思議な行動を取るのだと言う。それは、ゆっくりとした調子で手を叩きながら――。
『“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”……か』
――と、唱えるというものであった。しかも、それを何故か4回繰り返し、その様子を入口で待っている他の者たちが何かをするのだという……駄目だ、鬼姫は上手く想像が出来なかった。
『……ふむ』
『悪戯』の経緯を一通り聞き終えた鬼姫は、しばしの間目を瞑った。だいたい、1分程だろうか。お由宇に頭を撫でられるがまま、静かに考えを纏めていた鬼姫は……おもむろに、目を開けると。
『そやつら、阿片か何かやっておるのではなかろうな?』
そう、ポツリと呟いた。何とも酷い言い草だが、まだ、薬のせいであって、その者の性質がそうではないと言っている辺り、鬼姫的には優しめな判定であった。これにはお由宇も多少は怒りそうなもの――だが。
『いえいえ、紛らわしいでありんすが、そのような感じではありんせんよ』
お由宇の判定も似たようなものだった。まあ、年寄りの常識という点を差し引いても、その若者たちの行動は理解の範疇を大幅に超えるものだったから、仕方ないと言えば仕方ない話ではあるのだけども。
しかし、鬼さん……か。
若者たちが唱えていたという呪文を舌の上で転がしながら、はてさてどういうことなのかと、鬼姫は頭を掻いた。次いで、『のう、お由宇よ』ぐるりと寝返りを打って仰向けになった。
『言っておきんすけど、わちき、ぬし様がここに居る事をわざわざ言いふらしたりなんてしていんせん』
途端、お由宇は先手を打った。『そんなの言われずとも分かっておるのじゃ』けれども、鬼姫が聞きたかったのはそこではなかった。というか、むしろその点は全く心配していなかった。
何せ、鬼姫を封印なり仕留めようと考えたなら、『並みの霊能力者』が100人集まったところで意味はない。
1000年前の『霊能力者全盛期』ならともかく、『力』の程度が低い現代ならば、少なくとも霊能力者が1000人……いや、3000人は集めなければ、まともな勝負にならない。
しかも、あくまで勝負になるかどうかの話だ。確実に勝とうと思うのであれば、入念な準備を行った後、しかるべき機会にて、その10倍……いや、30倍を投入する必要があるだろう。
信じられない話だろうが過大評価ではなく、それが妥当な事実である。そんなわけだから、鬼姫はその件に関しては何の不安も抱いておらず、鬼姫が不安を抱いていたのは、自分の事ではなく――。
『そやつら、『力』を隠した陰陽師や祈祷師の類ではないのじゃな?』
――お由宇の事であった。
『あい、それはご安心をば。わちきの見た所、そのような者はおりんせん。皆がみな、何の『力』も持たない常人でありんす』
それは、間違いありません。そう続けたお由宇の言葉に、『それなら、良いのじゃ』鬼姫は安堵のため息を……零そうとして、お由宇に背中を向ける形で寝返りを打った。
……まあ、話は分かった。そのうえで、だ。
お由宇の話を疑う気持ちは微塵もないが、実際にこの目で見てみなければ、その若者たちが来なければ現時点ではどうしようもない。『来たら、起こせ』そう告げた鬼姫はおもむろに目を瞑ると……その時が来るまで、静かに寝息を立てるのであった。
『あい、お休みなさいませ』
さらりと髪を梳いてゆく、お由宇の指先を感じながら。
……。
……。
…………身体が揺さぶられる。その感覚に気付いた鬼姫は、最初、それが『揺さぶられる』という行為であることを認識出来なかった。
……し……ぬ…様……ぬし……ぬし様。
鬱陶しい、寝てしまおう。そんな考えが脳裏を過ったが、続けて聞こえてきた声に、おや、と鬼姫は首を傾げる。聞き覚えのある囁き声。あんまり心地よいモノだからと、揺さぶられるのも気にせずにそれに耳を傾け続け。
『――ぬし様、起きんなんし』
『ん、んん、んんん……?』
十数度目となる呼び声に、ようやく鬼姫は目を開けた。けれども、こみ上げてくる眠気によって、すぐに閉じられた。寝起きが悪いのではない、眠ければ寝て、起きたければ起きるという不規則な生活を数百年にも渡って来た弊害である。
『ほら、起きんなんし、目を開けるなんし。若造どもがおいでなんし』
『んん……もそっと寝かせておくれ』
『駄目でありんす。ぬし様は、そう言ってからが長いんすから』
とはいえ、それの百分の一に満たないまでも、四六時中鬼姫と共に過ごしてきたお由宇の前では、眠気もたじたじであった。『ほーら、ほーら』頬をむにむに、頭をくしゃくしゃ、身体をゆさゆさ。
鬼姫を知る者からすれば卒倒してしまうような行為を、お由宇は平気な顔で行う。『ああ~、分かった、ワシの負けじゃ』さすがにそうまでされては、鬼姫の目も覚める。ふわあ、と大欠伸を零しながら、鬼姫はよいしょと身体を起こした。
時刻は……分からない。元々この社に時計はないし、閉じきっているから外を見ることも出来ない。ただ、来たら起こせと言付けしておいたお由宇が己を起こしたのだから、今は夜なのだろう。大きく伸びをしながら鬼姫はぐるりと神社周辺の気配を――え?
思わず、眠気が飛んだ。何故かと言えば、神社の周辺……正確に言えば鳥居向こうの入口なわけだが、そこから感じ取れる気配が想定していたよりも多かったからだ。
ざっと感じ取った限りでも、おおよそ10人強。もう少し散らばってくれれば正確な数が分かるのだが、とにかく、それだけの人数が神社に入ることもなく、入口の前で屯しているのが分かった。
まあ、とにかく外に出てみるとするか。そう判断した鬼姫は、さて、と立ち上がり、気怠い雰囲気を隠しもせずに境内へ――向かおうとした。『――おう?』だが、キュッと引っ張られる感触に振り返った。
『今宵は、何時もと僅かば違いんす』
そこには、神妙な面持ちとなったお由宇が居た。『何がじゃ?』何時もと違うと言われても、入口前に集まっている若者たちから感じ取れる『力』はまさしく常人のそれ。
鬼姫が分かる範囲では、何かがあるようには思えない。いったい何が違うのかと鬼姫は首を傾げると、お由宇は何かを言いあぐねるかのように視線をさ迷わせた後……恐る恐る、その小さな唇を開いた。
『此度の若者共は、何とも珍妙な恰好をしておりんす』
『珍妙、とな?』
『あい、珍妙、でありんす。御免なんし、何と話せば良いのやら……こねぇなこと、初めてなんし』
『……まあ、良い。見てみた方が早いのじゃ』
何であれ、そうだ。安心しろと言わんばかりに鬼姫はお由宇の肩を叩くと、たん、と床を蹴って天井をすり抜け……屋根の上へと降り立った。まん丸に輝く月様が、鬼姫を出迎えた。
何故、屋根へと上がったのか。それは、上から見下ろした方が確認しやすいだろうという判断からである。ふわりとそよぐ夜風の静けさに軽く目を細め……さて、と。どんなやつらかと鬼姫は早速鳥居の向こうへと目を凝らし……うん、と目を瞬かせた。
ある者は日も落ちているというのに黒いマントを羽織り、黒いスーツに身を包んで、顔中を白粉で白く染め上げている。またある者はメイド服と呼ばれる衣装を身に纏い、ステンレス製のトレイを持っていた。
他にも、白い髪に赤い衣装を身に纏った、短刀と思わしき代物を持った男。青い服に槍……いや、あれは張りぼてか。それを肩に担いだ男に……学生服のようなものを着た者もいれば、箒を片手にどデカい尖がり黒帽子を被った者もいる。
極めつけは、鬼姫と同じように紅白の巫女服を身に纏った者までいた。ただ、少しばかり鬼姫が身に纏っているモノとは違っていて……何というか、その……派手な上に、脇の部分がなかった。
大道芸……いや、それにしては統一感がない。おまけに、その若者たちの大半は、手拭いのようなもので顔を隠している。鬼姫の位置からでは、目元ぐらいしか確認出来ないだけでなくて……ぶっちゃけ、怪し過ぎた。
『…………』
しばしの間、鬼姫は眼下の光景に言葉が出なかった。珍妙……そう、『珍妙』だ。お由宇の言った通り、確かに『珍妙』であった。鬼姫とお由宇の基準からすれば、『珍妙』としか言いようがない出で立ちの若者たちが、何やら楽しげな様子で何かをしていた。
『――ね、珍妙でありんしょう?』
ハッと、背中に掛けられた声に鬼姫は我に返る。振り返れば、それに合わせたかのように、ふわりと隣に膝を抱えて腰を下ろした。視線を戻せば、『それと、あれを見なんし、彼らが手に持っている、アレを』そう言ってお由宇が若者たちを指差すので、鬼姫は言われるがまま……入口付近にて固まっている若者たちが手に持っているそれらに、目を向けた。
『あれが、ぱちぱちと光るんでありす』
『光る? あれが? 懐中電灯にしては不思議な形をしておるのう』
記憶にある形と違うそれに、鬼姫は首を傾げる。
『いえ、違うんすぇ。あれが光るのは一瞬ばかりでありんす』
『一瞬?』
『あい、瞬きすれば見逃してしまうぐらいの、僅かにしか光りんせん……ああ、ほら、見てみなんし』
言われて目を凝らせば、若者たちの内の一人が境内に入って来るのが見える。事前に聞いていた通り、彼らは本坪鈴の傍まで参っても頭を下げて三礼しただけで、鈴を鳴らそうとはしなかった。
そして、これまたお由宇の話通り、例の『奇妙な体勢』のまま後ずさりを始める。転ばないのかと思ったが、その背中に向けられる幾つもの懐中電灯の光のおかげなのだろうか。次いで、中ほどまで戻った辺りでその若者は下げていた頭を上げると。
“鬼さんこちら、手の鳴る方へ!”
例の呪文……呪文と言っていいのかよく分からない言葉を4回続けた。『本当に言うのじゃな』傍から見れば滑稽を通り越して不気味であるその姿に、鬼姫は首を傾げながら眺めている……と。不意に、その若者へと光が照りつけられた。
見れば、懐中電灯ではない。光の出所は、入口にて固まっている彼ら彼女らが手に持っている『何か』であった。
何の意味があるのか鬼姫には分からなかったが、呪文を唱えた者に向けて光をパッ、パッ、パッ、と繰り返している。
それは若者が入口まで戻るまで続けられ、また、暗闇が戻ると同時に彼ら彼女らの内の一人が境内へと入って来て……同じことを繰り返す。閃光が生み出した若者の影が、社へ圧し掛かるように瞬いていた。
……。
……。
…………しばしの間、鬼姫は若者たちの奇行を眺めた。そして、ちょうど若者たちの半数が参拝と呼べるのかどうか分からない参拝を終えた頃……不意に、お由宇へと振り向いた。
『すまぬ、お由宇。ワシ、あやつらがいったい何をしようとしているのか、さっぱり見当が付かぬ』
『奇遇でありんすなあ。実は、わちきも同じでありんす……さて、どうしたら良いと思いんすかぇ?』
『それをワシに尋ねるのか?』
『それを聞きたいからこそ、相談したんでありんしょう?』
それも、そうか。お由宇の言葉に納得した鬼姫は若者たちへと視線を戻すと、さてと、どうしたものか……と頭を掻いた。
単純に、追い払うだけならば簡単だ。腹を下す程度の呪いを差し向ければ済む話で、たかだか十人かそこらを厠に引き籠らせるなんて、鬼姫にとっては朝飯前だ。
しかし……それでは駄目なのだろう、鬼姫は内心、首を横に振った。お由宇が望んでいるのは、『悪戯』と評したこの珍妙な振る舞いを辞めさせること。間違っても、訪れた参拝者に害を与えることではない。
でなければ、わざわざ『良い方法はないか』、と回りくどい助力の申し出などするはずもない。仮に排除を望んでいたとするなら、お由宇はそんな言い方はせず、率直に伝えるだろう。『無礼者を追い払ってくれ』、と……ん?
ふと、入り口付近に居る若者たちから歓声があがったことに、境内に入っていた若者を見ていた鬼姫の視線が、そちらへ向く。瞬間、鬼姫の目がクワっと見開かれた。見れば、先ほどまで誰も居なかったはずの場所に、人が集まっていた……いや、増えていた。
当然というか、やはりというか。集まって来た若者たちもまた、『珍妙』な出で立ちであった。髪を金色やら赤色やらに染めている者もいれば、中には黒いフードの付いた黒マントを纏っていて、元々集まっていた者たちよりもさらに怪しさを増した、よく分からない者までいたのだ。
『……どこからともなく、やってきんしたなぁ。あの様子ですと、あの人たちは御知り合いみたいですけれども、これで……16人でありんすか。いやあ……増えしんしたね』
『……し、しっかりするのじゃ。もしかすると、今日はあのような……恰好をする祭日か何かではないか? 何かワシ、そんな気がしてきたの――んん?』
乾いた笑みを浮かべながら、どこか現実逃避しているかのように呟いているお由宇を見ないように気を付けていた鬼姫の目が、ある所で止まった。『……ぬし様?』気づいたお由宇が、鬼姫を見やったが……当の鬼姫は振り向きもせず、ある一点へと視線を注いでいた。
その視線の先に居たのは……先ほど新たにやってきた若者たちの中に居た、『黒フードの付いたマントを羽織っている者』であった。
神社の境内には、おおよそ明かりと呼べる物はない。いくら若者たちが懐中電灯で参道を照らしているとはいえ、こんな夜更けだ。その若者がフードを外すのは当然のことであった。
『おやまあ……あれは、兜? でないとすんすれば、甲冑? いえ、これは……お面? 恰好に似合う、珍妙なモノを被っておりんすなぁ』
露わになった、その者の姿。鬼姫の視線の先を確認したお由宇の、正直な感想がそれであった。そしてそれは、その者が懐から取り出した『棒』が、突如『赤い光』を放ち、『光る棒』になっても、『……大道芸でありんすか?』大して評価は変わらなかった。
それも、致し方ない。なにせ、その若者が持っている『光る棒』は、本当にただ赤く光っているだけなのだ。しかも大して明るくはないうえに、そこに何の『力』も感じられないし、先端は丸く、真剣でもない。
加えて、例え仮面(?)を被っていたとしても、その立ち振る舞いから荒事とは無縁の生き方をしてきたのが手に取る様に分かる。珍妙な姿に対する警戒心はあるものの、お由宇にとってはそれだけのことでしかなかった。
『…………』
『…………』
『…………?』
『…………』
『……あの、ぬし様?』
『…………』
『ぬし様……あの、ぬし様、どうかしんしたかぇ?』
『…………』
――なのだが、それは鬼姫には当てはまらなかった。
白けた様子で大道芸と評したお由宇を他所に、鬼姫は心ここに有らずといった様子で呆けていた。それこそ、『ぬし様、ほんに、いかんしんした?』隣のお由宇が揺さぶっても反応しないぐらいに……と。
『……っ』
『え、なんす? どうしたんでありす?』
不意に、鬼姫が何かを呟いた……ような気がした。それはあまりに一瞬のことで、ほんの僅かに唇が動いた程度のこと。聞き取れなかったお由宇が、慌てて耳を澄ませるが、鬼姫は何も言ってくれない。焦れたお由宇が、もう一度鬼姫を揺さぶろうと手を――。
『……ダー』
――伸ばした辺りで、ピタリと止まった。
今、いったい何を口走ったのか。『ダー』とは、いったい何なのか。その部分が聞き取れなかったお由宇は、鬼姫の唇へとグイッと己が耳を寄せる。
何とか、これで聞き取れたなら。鬼姫の身に何が起こっているのかは皆目見当が付かない。だが、これなら少しは分かる。ほら、ここまで耳を近づければ、大きく鬼姫が息を吸っているのが……いや、待て。
……吸って?
ピタリと、お由宇の中で何かが止まった……これって、このまま耳を澄ませていたら大変な目に――。
『――ダァァァァァス、ベイダァァァァなのじゃぁぁぁぁああああ!!!!』
『――んぃぃぃぃぃぃ!!??』
――遭ってしまうのではないか。そう、思ったお由宇が身を引こうとした時にはもう、手遅れで。耳元数センチの所から放たれた、超音波染みた甲高い声に、お由宇は己の身に何が起こったのかを理解する間もなく、ぶるぶると頭の芯を揺らされた。
……お由宇は、知らなかっただけであった。鬼姫があえて語っていないからなのもそうだが、お由宇は……鬼姫の『男であった時の前世』を、知らなかった。ただ、それだけのことで……それが、不運の引き金であった。
……。
……。
…………女として生まれ、没するまでの数十年。それは、間違いなく『男』として過ごした月日よりも短いものであった。だが、鬼姫から『男』としての『何か』を奪い去るには、十分過ぎる年月であった。
……『女である自分』を受け入れるのは早かった。だが、男であった時の肉体的感覚は、5歳になった時にはもう思い出すことが出来なかった。けれども、当時の『彼』は……それを惜しむ余裕すらなかった。
まだ、生まれ変わって5歳だ。なまじ、『男』としての、『前世の記憶』が色濃く残っているせいで、『彼』は理解せざるを得なかったのだ。己の境遇と、後10年と経たず内に訪れるであろう……己の未来を。
とにかく、『彼』は頑張った。
誰が悲しくて、男のちんこをしゃぶらねばならぬのか。何が悲しくて、粗暴な村の連中の子供を孕まねばならぬのか。それだけは嫌だった『彼』は、思いつく限りを尽くし……鬼姫へと成り果てた。
そして、幽霊として過ごした1000年。気づけば、鬼姫は前世における日々はもちろんのこと、『女』として生きた生前のことすらほとんど思い出せなくなっていた。
『親』の名前はもちろん、自分の名前も、どこに住んでいたのかも、どうやって暮らしていたのかも、何が好きだったのかも、もう……思い出せない。
でも、それは仕方ないのだ。50年も前の出来事すら正確に覚えていないのに、そこからさらに1000年も前の事を覚えていろ……というのが、そもそも冗談みたいな話なのだ。
――だが、しかし。
それでも、消えないモノはあった。もはや『前世は男であった』という程度のことしか、昔の事を覚えていない頭でも、残されていたものがあった。
1000年の時を経てもなお、記憶の彼方に追いやられてしまってもなお、消えることなく刻まれていたモノ。それは、『彼』をオタクの道へと引きずり込み……オタクへの始まりとなったモノ。
それが――。
『本物の、本物の……ダァァァァァスベイダァァァァ!!!』
――目の前に、現れた。その瞬間……鬼姫は、叫んでいた。ただ一つだけ、思い出せた言葉を。ただ一つ、『彼』をその道へと引きずり込んだキャラクターの名を叫びながら、鬼姫は……境内へと飛び立っていた。
『……きゅう』
その隣で、目を回して気絶してしまったお由宇を置き去りにして。
素早く地に降り立った鬼姫は、素早く賽銭箱の陰に隠れた。次いで、そっと箱の縁から覗きこむように顔をあげ……間近で拝見する、『本物そっくりの暗黒卿』の姿に、鬼姫は瞳を輝かせた。
それはもう、ぴっかぴかであった。これほどの輝きを見せたのは、去年、数十年ぶりに参拝客が訪れた、あの時ぐらいである。具体的に言うなら、第1話の時だ……話を戻そう。
とにかく、鬼姫は興奮していた。興奮していると認識出来ないぐらいに興奮していた。
まあ、それも致し方ない。何せ、目の前に前世の『彼』をオタクの道に引っ張り込んだ始まりがいて、それが『当時の情熱』をも引き起こすのである。
1000年ぶりに思い出せた感慨深さと懐かしさが相まって、興奮するな、というのが無理な話で。
(ふぉぉぉぉ、ほ、本物じゃ……い、いや、有り得ぬ、本物がおるわけがない、あれは偽物で中身は別人……し、しかし、こうまで精巧な……いかん、いかんぞ、手が震える、震える!)
それが例え、そのキャラのことしか思い出せなかったとしても……全く問題のないことであった。というか、興奮しすぎてそんなこと、もう鬼姫の頭の中ではどうでもよいことに分類されていた。
「コーホー、コーホー」
そんな鬼姫の感動を他所に、暗黒卿は静々とした足取りで鬼姫へと近づいてくる。当然だ、鬼姫は賽銭箱に隠れているのだから。けれども、鬼姫の頭にはそんなことはなく、ただただ間近で見る暗黒卿の姿に感動し続け――そして。
(――欲しい! アレが、欲しいのじゃ!)
その感動が、物欲に変わるのは……ある意味、当然といえば当然の流れであった。お前、今の今まで記憶の片隅にすらそんなこと考えていなかっただろう……と、言われればそれまでだが、鬼姫には関係なかった。
既に、鬼姫の頭の中では、だ。暗黒卿のコスプレに身を包んだ己が、ライトセイバーを片手に『コーホー、コーホー』している光景が広がっていた。
何か、ブォンブォンとライトセイバーを振り回している。何か、フォースっぽいことして悦に浸っている。目に付いた悪霊をライトセイバー(もどき)で真っ二つにしている己の姿も想像し……うひひ、と思わず鬼姫は気色悪い笑みを浮かべた。
ちなみに、他のキャラクターはそこにはいない。あるのは、暗黒卿になった鬼姫だけ。その傍で、奇異の眼差しを向けるお由宇の姿を鬼姫は一瞬ばかりに夢想したが……もう、鬼姫は止まれなかった。
――いかん、この者が戻るまでに話をせねば!
すぐ傍まで暗黒卿が来た瞬間、我に返った鬼姫は社の中へと駆け出していた。そして、丁重に隠されている『名雪の亡骸』にスルリと憑依する。ぱきぱきと、その姿が自身と同じに変化するのを感じながら、御扉をすり抜けて……再び、賽銭箱の前に隠れた。
早着替えならぬ早憑依、この間、わずか4秒程。まだ、暗黒卿は三礼をする前で、姿を消している鬼姫に感づいた様子も見られない。それを確認した鬼姫は、深呼吸を4回してから気を落ち着かせ……常人にも見える様に姿を現すと、ひょい、と頭を見せた。
「ダースベイダー、じゃな?」
瞬間、タイミングよく三礼を済ませる直前。最後に顔を上げた暗黒卿の視線が……鬼姫を捉えた。
「コーほっ! ホッ、ほっ――えっ?」
途端、ごほっ、ぶほっ、と、暗黒卿は咽た。次いで、その面の向こうから聞こえて来たのは、思いのほか低い感じのダンディボイスであった。「子供……え、子供?」仮面越しに困惑しているのが分かったが、「単刀直入にお願いするのじゃ」鬼姫は構わず話を続けた。
「その身に纏っているやつを、ワシに譲ってくれ」
「え……え?」
「ただとは言わぬ。お主に何か危険が有った時、助けてやろうぞ。な、どうじゃ? 良い条件だと思わぬか?」
「え、え、え?」
突然の話に困惑しているのが、仮面越しでも鬼姫には分かった――イケる!
「頼む……ワシ、ダースベイダーになるのじゃ、なりたいのじゃ」
「え、いや、似合うも何も……そんな、急に言われても……」
「無理か? 駄目なのじゃな? なら、セイバーを、ライトセイバーだけでも……な、な、いいじゃろ? 」
「いや、だからセイバーとかそういう問題じゃあ……あの、お嬢ちゃん、こんなところで何をしているのかな?」
「譲ってくれ、頼む。こんな機会、二度と訪れぬはずじゃから……頼む!」
有無を言わせず、質問に答えず、鬼姫は畳み掛けるように暗黒卿へと懇願する。「こ、困ったなあ」声色からも困っているのが分かる暗黒卿に、鬼姫はこのまま押し切ろうと……思った、のだが。
――おーい、どうしたー?
暗黒卿の後ろ。神社入り口の方に集まっている若者たちから、声が上がった。どうやら、長く引き留めすぎたようだ。「あ~、その、ここに子供がいるんだ!」振り返った暗黒卿が若者たちに事情を説明している……その隙に、鬼姫は瞬時に己が『姿を消す』と、おもむろに立ち上がって……若者たちを見やった。
……邪魔が入ってしまったのじゃ。
さすがに、このまま交渉を続ければ、後ろに控えた若者たちが集まって来てしまう。鬼姫としては、参拝客には見えない彼ら彼女らを無暗に刺激させるつもりはない。居なくなった鬼姫に首を傾げながらも、例の珍妙な所作を行う暗黒卿を見ながら、そう思った。
出来ることなら穏便に済ませたいが、既に交渉は失敗してしまった。けれども、ライトセイバーを諦めるという選択肢は鬼姫にはない。
このまま次回に……いや、それは駄目だ。暗黒卿がまた来てくれる保証なんてないし、今回を逃せばこの先再会することも……ん?
ふと、彷徨わせた視線が、入り口付近に居る若者たちの後ろを捉える。そこには、不思議な何かを抱えた普通の恰好の者たちが居て、何かをこちらに向けているのが見えた。
はて、どこかで見た覚えが……あるような、ないような。
少なくとも、ここ最近のことで……記憶の片隅に引っかかる『何か』に、鬼姫は首を傾げた。それは、その男たちだけではなく、彼らが持っていた何かに対してでもあった。
……もし、一年前の鬼姫が今の鬼姫を見たら、だ。殴りつけることまではいかないまでも『それぐらい、すぐに思い出せ!』と、怒りを露わにして怒声を叩きつけていたことだろう。
と、言うのも、鬼姫はすっかり忘れてしまって気付かなかったが、その男たちに対して、鬼姫は初対面ではない。実はその男たち……1年ほど前、鬼姫の神社を撮影しにやってきた、あの『テレビクルー』だったのだ。
そう……もう察したと思うが、実はこの珍妙な若者たちの集団も、ただの一般人ではない。彼らの珍妙な恰好はいわゆる『コスプレ』というやつで、この若者たちの正体は、ネット上にて人気を勝ち取っている人たちで、今夜のコレは、『シュウロク』なのであった。
鬼姫(当然、お由宇も)が知る由もないことであったが、実は最近になってネット上にて囁かれ始めた、真偽不明の『都市伝説』が、そもそもの始まりであり、彼らがここを訪れた理由でもあった。
この『都市伝説』、何時からネットに流れたのかは諸説あるが、要は真偽不明の『怖い話』であるということ。今回のコレは、その怖い話の中で、視聴者から集めたアンケートの中で最も怖いと太鼓判を押された、『神社を利用した降霊術の怖い話』を、実際に再現していただけなのであった。
では何故、それをお由宇の神社で行っているのか……まあ、ただの偶然である。そして、ここしばらくの『悪戯』は、その『都市伝説』の中にある『降霊術』を面白半分で試していた一般人たちが仕出かしたこと。ここに居る『テレビクルー』たちは全く関与していない別件であった……と。
「……ん、お、おお! お主らか!」
ようやく『テレビクルー』の顔ぶれを思い出した鬼姫は、思わずといった調子で笑みを浮かべ……ふと、脳裏を過った嫌な予感に、待てよ、と不安気に顔色を変えた。
(あやつら……ワシの神社に来た時のように、また命知らずなことを仕出かすのではあるまいな? なーんか、嫌な感じがビンビン来るのじゃが……)
いやいや考え過ぎだろう……と、鬼姫の内心を聞いた者がいれば、そう鬼姫を笑い飛ばしたことだろう。しかし、現実は小説よりも奇なり。実の所、鬼姫が抱いたその直感は大正解であった。
これまた鬼姫は知る由もないことだが、『シュウロク』はココだけではない。ここが終われば、閉鎖されて久しいという『廃棄された小学校』へと向かう手筈となっている。言うなれば、ここでの撮影は前座みたいなもので、本命はそっちなのであった。
当然これも、鬼姫が知っているはずもない。しかし、知らなくとも……何となく分かるのだ。ここに集まっている者たちの『気』が……ここではない、どこかへ向いているということが。
(……一度だけじゃ。一度だけ、何かあったら手を貸してやるのじゃ)
まあ、何事もなさそうなら帰れば良い。こやつらの正体も分かったことじゃしな。少しばかり頭を悩ませた後、鬼姫は彼ら彼女らに付いて行くことに決めた。
それは、上手くいけばライトセイバーが手に入るとかそういった物欲から来るものではない。いや、ちょっとは物欲も混じっていたが、大部分は、前に御供えをくれたからという純粋な恩返しから来る厚意であった。
――パチ、パチ、パチ。
そんな鬼姫の気持ちに答えるかのように、吹き付けられる光の雨が、まるで瞬きするかのように点滅する。先ほど鬼姫とお由宇が『何か』と評したそれは、スマフォなりカメラなりのフラッシュ光なのだが、「……正面から見ると、けっこう眩しいのう」そんなこと分かるわけがない鬼姫からすれば、それは思いのほか強い光でしかなく……ぱちぱちと、目を瞬かせるばかりであった。
……初めて体感する『車』の(実は車ではなく、ロケバスなのだが)屋根に寝転がり、風を感じる事幾しばらく。
車は町中から離れ、どんどん寂れた方向へと向かって行く。国道を通り、高速に乗り継ぎ、そのまま進み進み、県外へ。時間にして30分程で高速を降りたが、そこからさらに走ること、幾しばらく。
都会から遠く離れて田舎へと景色が変わりゆく中、聞こえて来るのは自然の物音ばかり。はてさて、どこまで行くのやら、と鬼姫はうつらうつらしながら車が止まるのを待った。
そして、車が止まったのを感じ取った鬼姫は、にわかに騒がしくなった辺りの気配に目を覚ます。乗っていた人たちが降り始めたようで、大きく欠伸を零しながら、やれやれと車から飛び降りて……おや、と目を瞬かせた。
人知れず鬼姫を乗せた車が止まったのは、古ぼけた『小学校』の正門前。古ぼけたというよりも寂れたという言葉が実に似合う有様なそこは、緑に囲まれて……異様な雰囲気が漂っていた。
一目見た限りでは、だ。廃校になっただけでなく、管理も離れて長いのだろう。正門前から見える校庭には繁茂する雑草が点在していて、校舎の窓も、いくつかは割れている。クルーの人達が無造作にライトを校舎に向けるが……やはり、人の気配は全く感じられなかった。
無断侵入と悪戯防止を兼ねているのか、外から確認出来る正面玄関前には、塞ぐように小さい椅子やら机やらが詰まれているのが確認出来る。入るには少々手間が掛かる状態になっていて、いちおうは……ホームレス対策の意味合いもあるのだろう。
視線を戻せば、鬼姫とクルーたちの前、正門脇の門の部分に『 』という具合で名札の跡が残されているのが分かる。そこには赤いペンキで『立ち入り禁止』と書かれていて、その足元には、『――学校』といった具合で学校名が汚れて見えなくなっている、名札らしき物体が転がっていた。
……。
……。
…………静かだった。いつの間にか、辺りは虫の声すらなく静まり返っていた。コスプレ衣装に身を包んだ若者たちも、『テレビクルー』たちも、皆がみんな、静かになっていた。
雑談をすることもなく、仕事の準備に取り掛かるわけでもない。眼前の廃校舎から放たれる、不気味な雰囲気に呑まれたかのように……誰も彼もが魅入られたかのようにぼんやりとしていた……と。
「お前ら、ちょっとは学習――せいっ!」
気合一閃。並みの幽霊では触れただけで消滅する程の『力』を込めた鬼姫の蹴りが、地面を揺らした。途端、放射状に広がった『力』の衝撃波が、フッとその場に居た全員を呑み込んで……その場に居た者たち全員を我に返らせた。
一拍遅れてテレビクルーたちが慌ただしく動き出し、若者たちが一斉に騒ぎ立てる。おそらく彼ら彼女らは、今しがたの出来事をこう捉えただろう。思っていたよりも怖い雰囲気を放つ校舎に怖気づいてしまった……と。
事実、それは正しい認識であった。彼ら彼女らは、確かに呑まれていた。人の手が離れたことで形成された霊的地場、そこに渦巻いていた『力』によって、彼ら彼女らは一瞬ばかり完全に意識を消失していた。
それは、かなり危険な状態だったのではないだろうか。
『力』を持つ者ならそう考えていたことだろう……そう、実際、危険な状態であった。もし、鬼姫が周囲一帯に『力』を飛ばして露払いをしていなかったら……大惨事とはいかなくとも、面倒事に発展していたのは確実であった。
何故なら、霊的地場には悪霊と呼ばれる類の、そういった『面倒なやつ』が集まってくるからだ。まともな対抗措置を取っていないこの場の者たちが、そんなやつらに襲撃されていたら……結果は、考えるまでもないことであった。
(やはり、ワシが付いて来て正解じゃのう)
しかし、不幸中の幸いと言うべきか。それが分かるのは、ある程度の『力』を持っているものだけ。この場に居る、そんな状況になっていたとは知る由も無い者たちは、自らに課せられた仕事をこなす為に忙しなく動き回っているばかりで……そんな者たちを見やった鬼姫は、やれやれ、と肩をすくめる。
次いで鬼姫は、さて、これからどうしたものか、と腕を組んで唸った。
そもそも鬼姫の目的はクルーたちの無事であって、手伝いに来ているわけではない。いったい何をしようとしているのかは分からないが、このまま脅して引き返させる方が鬼姫的には楽である。
何故なら、この学校には、だ。
さすがに鬼姫の山に出没していたやつらよりは弱いが、それでも『面倒なやつ』に分類されるであろう気配を感じるからだ。安全を最優先に考えるのであれば、ケツを引っ叩いてでも帰らせるべきところである。
しかし……安易にそうして良いものなのだろうか。
クルーたちの目的は分からないが、以前、夜に鬼姫の神社へやってくるという暴挙に出た者たちだ。目的は分からないが、『そうせざるを得ない何か』が、この者たちにあるのだけは、鬼姫でもうかがい知れた……けれども、だ。
(これで二度目じゃしのう。多少なりとも痛みを覚えさせるのが、こいつらの為……かのう?)
ぶっちゃけ、それも鬼姫の本音である。御供えをくれた者とはいえ、あの時のお返しはあの時に済ませている。今回だって、半ば鬼姫の厚意によるものだし、さすがにそこまで面倒を見てやる義理もない。
今ので『一度だけ』は使ってしまったし、子供ならまだしも、この場にいるのは皆、大人だ。自業自得という言い方は厳しいのかもしれないが、鬼姫と手彼らの親というわけでも……ん?
――ふと、鬼姫の視線が……コスプレしている若者たちの内の一人である、黒い尖がり帽子を被った女性に向けられた。おや、と首を傾げた鬼姫は、するりするりと人の合間を抜けてその女性へと駆け寄ると、ジッと目を凝らした。
凝らして。
凝らして。
凝らして……ギョッと、鬼姫の目が大きく見開かれた。いや、これは何かの間違いで勘違いな不思議体験だろうと思った鬼姫は、再度目を凝らした。
凝らして。
凝らして。
凝らして……そこに感じ取れた『小さくも強い命』。確かに存在している、今にも消え入りそうなぐらいに『小さくも強い命』を感じ取った鬼姫は……思わず、頭を抱えて。
「そういうのは卑怯じゃろうが!!!」
そう、叫んでいた。ちなみに、鬼姫はあの時からずっと姿を消しているので、叫んだところでその場にいる誰の耳にもその声は届いていなかった。けれども、鬼姫は何度かその場で地団太を踏めば、さすがに違和感を覚えた何人かが辺りを見回していた……が。
こうなれば、先回りするしかない!
鬼姫は気付くことなく学校へと駆け出した。学校内から感じ取れる幽霊の中でも、特に『面倒なやつ』を片っ端から消し飛ばす為に……鬼姫は走った。
人の気配が遠ざかって久しい、廃校舎の中。放置されたカーテンや道具一式は例外なく雨と埃で薄汚れ、各教室の黒板に放置されたチョークのどれもが変色し、元の色が確認出来るものはない。
廊下側に設置された掲示板には、もう、何も張られていない。無造作に点在して押されているピンだけが残されていて、その足元には錆びた押しピンが幾つも転がっていた。
おそらく、窓ガラスが割れて虫なり鳥なりが入り込んだからだろう。建物の中だというのに、廊下の至る所に乾いた糞がこびり付いている。どこかに雨水が溜まっているのか、玄関から少し奥に進んだだけで何とも言えない異臭を嗅ぎ取ることが出来た……そんな、廃校舎の中で。
「どっせい! ようやく見つけたのじゃ!」
常人には聞こえない鬼姫の怒声が、埃だらけの教室の中から夜の廃校舎全体へと響き渡った。
特定の相手を仕留める。周囲一帯の敵を蹴散らす。
鬼姫にとって、それを成す為の一番効率的な方法は、『本気状態』(あるいは、大人状態)に変身する、である。
何故なら、『本気状態』になった鬼姫から放たれる『力』は、放射状に拡散される。並の悪霊ではそれに触れただけで消滅してしまう程の『力』が、何もしなくても周囲一帯を『洗浄』してくれるからだ。
特別動く必要もなければ、攻撃をする必要もない。どれだけ相手が強かろうが、素早かろうが、関係ない。ただ、ちょいと本気になった鬼姫が標的へと意識を向けるだけで、仕留めることが出来る。『本気状態』になるのは面倒だが、これ以上効率的で楽な方法はないだろう。鬼姫自身も、そう考えていた。
……しかし、だ。
そもそもの前提に目を向ければ、その二つを成し得る為には『本気状態になって良い状況』が絶対条件となる。
ただ変身するだけで、ただ存在するだけで、周囲に甚大な影響を与える『本気状態』になれる場所は、そう多くない。実際は、中々使い所がない効率的な方法なのである。
では、普通の状態での鬼姫が、だ。『本気状態』を除いて鬼姫が、その二つを成す為にはどうするのか……と、言うと、それは――。
「ええい、ちょこまか逃げ回りおって! 往生際の悪いやつよ――のう!」
――直接そいつへと接近し、ぶっ叩く、であった。
……分かっている。おそらくこれを見た者は一言か二言、口に出したいことが出来たと思う。だが、鬼姫にはそれしかないのだ。鬼姫の『力』は強大だが、加減が難しい。そして、万能ではない。
故に、廃校舎の中に突入してから、これまで。怖気づいて校舎内を逃げ回る『面倒な奴』を走って追いかけ、片っ端から消し飛ばすという作業を、鬼姫は延々と繰り返していたのであった。
「はあ、とりあえず、これぐらいで終いかのう。しかし後一体ぐらいは大物がいそうな気配がするのじゃが……どこかに潜んでおるようじゃな」
ちょうど今、8体目の『面倒なやつ』をドロップキックで消し飛ばしたところの鬼姫は、そういって息を付いて辺りを見回す。別に疲れているわけではない。ただ、逃げ回る相手を追いかけて潰すという作業に嫌気を覚えていただけであった。
とはいえ、こうして愚痴を吐いている暇はない。とりあえずは見付けられる範囲に『面倒なやつ』が居なくなったのを確認した鬼姫は、急いで教室を飛び出して外を確認……よし、間に合った。
間に合わない可能性も視野に入れていたが、ちょうど、コスプレ衣装の若者たちが正門から入って来るところであった。その後ろから、『テレビクルー』たちが付いて来ているのが見えた……のだが、おや、と鬼姫は首を傾げた。
若者たちは確かに校舎へ向かっているのが、全員ではない。見れば、若者たちの半数が車の方へと戻っている。理由は分からないが、どうやら……男女に分けてくるようだ。
一番手は男連中……か。
校舎から見た限りでは、若者たちの周囲はもちろん、クルーたちの周囲にも『面倒なやつ』はいない。念のため車の辺りへと、本当の本当に軽―く『力』を飛ばして辺り一帯への威嚇を済ませ……さて、と鬼姫は思考を切り替える。
下手に追い返してお終いにするのは簡単だが、それでは駄目だ。目的は分からないが、子を宿している女まで出向いて来ているのだ。よほどの覚悟があるのは推測するまでもないし、ここで追い返したとしても、また日を改めてしまうかもしれない。
「ならば、もう馬鹿な真似は頼まれてもしないと、やつらに理解してもらう他ない……か」
その為には、どうすれば良いか。
決まっている……鬼姫は、怨霊だ。つまり、鬼姫の専売特許である『恐怖』を、あの男たちに刻み込めば良い。『呪い』を掛けるようなことはしないが、それに準ずる恐怖を……だが、しかし。
「……この恰好でやつらは驚いてくれるかのう?」
ちらりと、己が恰好を確認した鬼姫は、暗黒卿扮する『コスプレ集団』の姿を思い出す。
……何故だろう。どうしてか、存在感が埋もれてしまう気がする。何というか鬼姫は、そんな気がしてならない。
日本中を放浪していた数百年前なら、姿を見せただけで阿鼻叫喚の地獄絵図を作りだせたのだが……今やっても、あまり効果がない気がしてならない。考え過ぎなのかもしれないが……何だろう、負ける気がする。
……しかし、どうしたものか。
さすがに『呪い』を掛けるのは不味いというか、下手に『呪い』を掛けるわけにもいかない。只でさえ、ここの霊的地場の影響を受けているのだから……『呪い』は、避けるべきだ。
(……案外、普通の恰好をした方が……恐れ慄いてくれるか?)
ひとまず、決める。ふう、と鬼姫は息を吐いて、『力』を抑える。途端、鬼姫の頭部に生えていた一対の角が、にゅにゅにゅう、と引っ込んで見えなくなる。それに合わせて、華奢な身体を包む巫女服がしゅるしゅると変化を起こし、シャツとスカートという有り触れた恰好になった。
うろ覚えもうろ覚えな、参拝客の女性の衣服を真似して再現したものだ。ちなみに、柄や模様といったものはない。シンプルにシャツは白、スカートは赤。靴は可愛らしい黒の皮靴。どことなくデザインが古臭いのは……まあ、御愛嬌というやつである。
「……いや、これ……怖いか? あやつら、怖がるのか?」
改めて自らの姿を自覚して、首を傾げつつも後悔。頭を掻いて、角がなくなっているのを確認。手足を見て、変なところがないかを確認。
……ええい、成る様に成れ!
もう色々と諦めた鬼姫は、ふわりと、床をすり抜けて一階へと降り立つと……男連中が入ろうとしている正面玄関へと向かった。
……。
……。
…………鬼姫が到着した時点ではまだ、男連中は立ち並ぶ下駄箱を少し入った辺りで立ち止まっていた。校舎の全体を真上から見た感じでは、凸の形になっている。丁度、男連中が立ち止まっているのは、左右へと伸びている廊下と、正面から最上階へと続いている中央階段の、ちょうど交差点の位置であった。
何をしているのか、懐中電灯の明かりを、ぐるぐると辺りに向けている。何でそんな場所でと思って見ていると……ああ、危険が無いかを調べているのかと鬼姫は納得した。
実際は、『絵』になる映像を撮影しつつ、トークを挟んでいるだけなのだが、鬼姫にそれが理解出来るわけもない。ちなみに、当の鬼姫は今、廊下の向こう。教室のドアの陰から、ひょこっと男連中の様子を伺っていた。姿は見えない状態にしているから、近づいても大丈夫なのだが……まあ、気分の問題である。
何故、合流しないのか。
それは、多少なりとも痛み(この場合は、恐怖も含めて)を伴わなければ覚えぬだろうという、鬼姫なりの考え。『何事も命あっての物種』というのを彼らに自覚させるという狙いがあったからだった。
もちろん、第二陣となるであろう女連中を来させないようにするつもりだが、だからといって手を抜くつもりはない。二度あることは三度あるというし、この調子で楽観的に三度目が来れば、その時こそ本当に命とり……ん?
……ふと、目が留まる。
鬼姫の視線が男連中のさらに向こう、反対側に当たる廊下の突き当りから出てきた……『上半身だけの女悪霊』を捉える。そいつはてけてけと肘だけを器用に使って、男連中の下へと向かっており、まだ男連中は彼女の接近に気付いていないようであった。
……とりあえず、視線を使って軽く威嚇する。気づいた『女悪霊』が、動きを止める。死した魚のように淀んだ瞳をぎょろりと鬼姫へと向けると……また、男連中へと接近を始めた。
「……ほう」
それを見た瞬間、鬼姫はほんの僅か……鬼姫基準における僅かだけ、抑えていた『力』を開放した。ほわっと膨れ上がった『力』を、視線に込める……途端、『女悪霊』が見せた反応は劇的であった。
その様子はまるで、曲がり角でいきなりヤクザと目を合わせてしまったかのよう。サーッと……ただでさえ血の気のない青白い顔をさらに青白くした『女悪霊』は、脱兎……という言葉が実に似合う勢いで、傍の教室の中へと入って行った。
……やれやれ、もう集まってきおったか。
『女悪霊』の気配が遠ざかったのを確認した鬼姫は、ため息を吐いた。次いで、改めて気配を探り……2階の方で集まり出しているのに気付き、またため息を零した。
大物だけは先に仕留めておいたが、出来たのはそれだけだ。なので、候補から零れた小物が多少なりとも出現してくるであろうことは予想していたが……想定していた以上に早い。
見れば、男連中も『やつら』の網というか誘いというか、それに引っ掛かったようで、誘導されているとも知らずに、ごく自然な様子で二階へと向かおうとしていた。
……仕方がない。
決めた傍から撤回するのも何だが、一旦、鬼姫は計画を中断することにした。このまま続けて、痛みを覚える前に死んでしまっては意味がないからだ。ひとまず二階へ行くのを止めさせて、一階で適当に怖い思いをさせ――
「ん?」
――よう、と思った瞬間。がしり、と肩を掴まれた感触に、鬼姫は振り返った。直後、鬼姫の目に飛び込んで来たのは、異様に『手足の長い老人』であった。
――誰だ、お前。
そう、鬼姫が思って口を開く前に、その『老人』のこれまた異様に大きな掌が、がしりと鬼姫の小さい頭を掴んだ――瞬間。
――いひひ。
不快感を覚える気持ち悪い笑い声と共に、ごっ、と、鬼姫の首が鈍い音を立てた。だらん、と垂れ下がった頭につられた身体が、どすん、とその場に尻餅を付かせた。それを見た『老人』は、また気持ち悪い笑い声をあげると、よたよたと死にかかった蛙のような動きで鬼姫へと――。
――いひひ、ひ?
――圧し掛かろうとして、動きが止まった。首を傾げた『老人』は、チラリと己が足を……鬼姫の身体からにゅるりと伸びた、自らの足首を掴んでいる『黒い手』を見て、目を見開いた。
その瞬間、『老人』の視点は上下反転した。単に、『黒い手』に引っ張りあげられて逆さづりになっただけなのだが、『老人』は何が起こったのか理解出来る暇もなかったのだろう……何故なら。
「この糞爺……よくも、『名雪』の身体に傷を付けおったな……!」
ごきりと、折れた首を無造作に元に戻した鬼姫が、立ち上がっていたからだ。その顔に、ダメージの色は全く見られない。今のがほぼ無意味であることを察した『老人』は、逆さづりのまま鬼姫の頭を掴んだ……が、無駄だった。
先ほどは折れたのに、今度はビクともしない。全く、1ミリも動かせる気配がない。その事実に、ようやく『絶望的な力の差』を悟った『老人』は逃げようとしたが、遅かった。逃げようと『老人』が顔を背けた時にはもう、鬼姫の両手が『老人』の首を掴み……ぶちり、と、千切り落した後だったからだ。
「ええい、余計な時間を食ってしまったではないか。あやつらは……ああ、もう上におるのじゃ!」
いかん、急いで向かわなくては。
転がった『老人』の頭を踏みつけて粉砕して跡形も無くすと、鬼姫は床を蹴って廊下へと飛び出した――瞬間。しゅるりと、暗がりから伸びてきた影が鬼姫の足に巻き付いた。
「あだっ!?」
すり抜ける間もなく、強かに顔面強打。びたーん、と砂埃満載の床にダイレクトキッスを果たした鬼姫が、いったい何だと身体を起こし――た直後、物凄い勢いでその身体が引っ張られ始める。「ぬおおおお!?」一拍遅れて気づいた鬼姫が抵抗するが、遅かった。瞬く間に人間モップと成り果てた鬼姫は、文字通り汚れを拭い去りながら廊下を滑り……比較的近くにあった女子トイレへと引きずり込まれた。
「うおああああ!? えんがちょ、えんがちょぉぉぉおおおお!!??」
当然、トイレの床が綺麗なわけがないし、下手に何かを掴むのも躊躇してしまう。おそらくここ数十年ぶりかもしれない大絶叫をあげながら、鬼姫の身体は一番奥の開かれた扉の中へと吸い込まれ――ばたん、と勢いよく閉じられた。
……。
……。
…………無音。無音であった。いったい、中で何が起こっているのか、何をされているのか……外からは、全くうかがい知ることが出来なかった。
……。
……。
…………と、思ったら。少しして、閉じられたはずの扉が叩きつけられる勢いで開かれる。同時に、そこから飛び出したのは、『老婆』であった。だが、普通の老婆ではない。顔だけが年老いて、首から下は少女と言っていい外見の、変わった外見の『老婆』であった。
顔を除けば相応の恰好をした『老婆』は、逃げる。年老いた顔を、かわいそうなぐらいに歪めて、手足を動かす。その足が、その手が、廊下へと続く扉へと――。
「どこへ、行くのじゃ?」
――届くことはなかった。ポツリとトイレ内に響いた鬼姫の呟きが、逃げ出そうとした『老婆』の動きを封じる。顔面の筋肉が引き千切れてしまいそうなぐらいに顔を引き攣らせた『老婆』が、ギリギリと床に十個の爪痕を作りながら、今しがた飛び出した個室の中へと独りでに引きずり込まれ……静かに、扉が閉められた。
……。
……。
…………そして、静かに扉は開かれ。
「今日は厄日か……何でワシ、急に狙われだしたのじゃ?」
中から……涙目となった鬼姫が出てきた。もし、ここへ来たのが肉体ではなかった(まあ、それならそもそもここには来られないが)なら。あの瞬間、すり抜けさえしておけば、こうはならなかったのだが……全ては、あとの祭りである。
ちなみに、何でこうも襲われるのかと言うと、それは鬼姫が『力』を抑えているからである。普段の鬼姫ならまだしも、今の鬼姫は『やつら』からすれば、生者と何ら変わりない存在。
皮肉な話だが、男連中の為を思ってした行為が、逆に『やつら』にとっては格好の餌として映ってしまっているのであった。
「……ああ、そうか。『力』を抑えておるから、今のワシはか弱い女子に見えて――おぅ?」
少しばかり考えて、ようやく鬼姫も原因を悟る。だが、それは遅かった。
何時の間に接近していたのか、トイレの窓。外からにゅるりと姿を見せた、異様なぐらいに胴の長い『胴長女』が、背後から鬼姫を抱き締め――あっ、と声を上げた時にはもう、鬼姫の身体は校舎の外であった。
物凄い勢いで、『胴長女』の胴が縮んでいく。遠ざかるトイレの窓を惜しみつつ、胡乱げな眼差しで振り返れば……真っ黒な眼孔が視界いっぱいに広がる。「顔を近づけるな、臭いのじゃ」鼻腔に広がる激臭に鬼姫は顔をしかめるが、『胴長女』は気にした様子もない。
はてさて、どこへ行くのやら。女の顔をずらして行き先を見やれば、そこにあるのは校舎裏の倉庫。入口は空けられており、その暗闇の中から……少なくとも、10を超える『無表情』が、鬼姫を見つめていた。
……こいつら、引きずり込むのが好きじゃのう。
またこの流れかと諦めの境地に達しかけている鬼姫を他所に、しばしの間夜空を舞った『胴長女』は、鬼姫を抱き締めたまま、校舎裏に残されていた倉庫へと引きずり込んだ。当然、トイレの時と同じように、二人が倉庫に入ると同時に扉は閉められ、錆びだらけの南京錠が独りでにカチリと嵌められた。
……。
……。
…………今度は、10秒程だった。ずばん、とトイレの時以上に、叩きつけられた倉庫の扉をさらに押しのけるようにして、『胴長女』が飛び出したのは。にゅ~~、と伸びていく身体に遅れて、三つほど『無表情』が倉庫を飛び出した。
だが、そこまで。それ以上の速さで後から飛び出した三又の黒蛇が、必死の形相で逃げていく『無表情』を捉え……一口で、ばくん、と飲み込んでしまった。それを目撃してしまった『胴長女』は、さらに遠くへ逃げようと身体を伸ばし……たのだが、出来なかった。
唐突に、がくん、と伸びていた『胴長女』の動きが止まる。ギョッと真っ黒な眼孔をさらに広げた『胴長女』が、慌てて両手を使って地面を掴む……が、無駄だった。
ずるりと、『胴長女』の身体が引っ張られた。その行き先は……今しがた飛び出した、倉庫の中。ひぃぃぃ……声なき声と共に顔を引き攣らせた『胴長女』は抵抗を始める。
けれども、それは無駄な抵抗でしかなく、ずるずる、ずるずる、ずるずるずるるるるるる、ずるるるるるるるる。伸ばしきった掃除機のコードのように引き戻された『胴長女』が、振り返る。そこで、『胴長女』が最後に目にしたのは――。
「逃げられると、思うたのか?」
――暗闇の中でも爛々と輝いているのが分かる、角を生やした鬼姫の笑み。己の最後を悟った『胴長女』は、命乞い(既に死んでいるが)をしようとしたが、そうするよりも前に倉庫の扉は閉められた。そして、ご丁寧に南京錠の鍵が掛けられ。
……。
……。
…………かちりと、また、開かれる。きぃ、と蝶番の嫌な音と共に中から出てきた鬼姫は、後ろ手で扉を閉めながら。
「……何だか今日は空回りばかりしておるのじゃ」
夜空を見上げて、しみじみと、それでいて心からの本音を零したのであった。
……まあ、本当に帰るわけではない。というか、ここで帰ってしまったら、もうまるっきり汚れ損である。いや、汚れ損って何だよと言われたらそれまでだが、とにかくこのまま帰れば、ただ遠出して汚れて帰ったというだけになってしまう。さすがに、それはあまりに情けなさ過ぎるし、鬼姫の矜持がそれを許さなかった。
いちおう、姿だけは見えないように消している。別に見られてもよかったが……こんな場所に子供が一人。余計な混乱を与えないがための、鬼姫なりの考えであった。
それと、角は生やした状態に留めている。おかげで、ここに来るまで楽であった。なにせ、襲い掛かられることが全くなくなったから……でも、下がったテンションまでは上がらない。
すっかりテンション下がりっぱなしの鬼姫は、たったかたったか二階へと向かい、気配を辿って廊下の端にある教室を、ひょい、と覗き込んだ。直後、その小さな口から……深々とため息が零れた。
(変装した意味がまるでないのう……本当に、今日のワシは空回りし続けておるのじゃ)
もう、何か叫び出したい気持ちであった。でも、鬼姫のそんな疲れた内心を他所に、教室内は地獄絵図……というよりも、異様という言葉が似合う不思議な光景が広がっていた。
まあ、鬼姫がそう思っても致し方ない。何せ、この場に居る者の大半が『コスプレ衣装』に身を包んでいて、傍目からみれば何の冗談だと言われてしまいそうなものであったから。
とはいえ、そう思う者も、恐怖に動けなくなっている男連中の視線の先にいる、腕が三本に顔が二つという明らかに異形だと分かる何か。それが、男連中が持つ幾つものライトによって照らされている。一人の男を捕まえたまま天井に張り付いているのを見れば、顔色を変えたことだろう。
その姿はまるで、貼り付けられた磁石のよう。天井に張り付いた『二つ顔』は、男を抱えたまま、ゴキブリのように天井を這い回っている。何とも気持ち悪いその姿に、只でさえ下がっていた鬼姫のテンションが余計に下がる。
悲鳴とどよめきが、捕まっている男はもちろんのこと、棒立ちしている他の男連中からあがる。さっさと逃げれば……いや、逃げられないのだ。目を離せばどうなるのか……それが恐ろしくて、彼らは動けなくなっている。それが、後ろからでも鬼姫には分かった。
――えひひひひ……ひひひ。
そんな緊張感に満ち溢れた中で、不意に。気持ち悪い笑みを浮かべている『二つ顔』の視線が、ちらりと、一瞬ばかり鬼姫へと向けられる。けれども、それだけだった。路傍の石のように興味を失くした『二つ顔』は、男連中の恐怖を味わうかのように、ずりずりと再び天井を這い回り始めた。
(……まあ、雑魚を退ける程度にしか『力』を出しておらんからのう)
見た所、先ほどまで相手をしてきた雑魚(間違っても、一般霊能力者の基準で考えてはいけない)よりは『力』があるようだ。けれども……おや、と鬼姫は首を傾げた。
(こいつかと思ったが、こいつではない……じゃが、気配を感じる。隠れておるが……様子見しておるのか?)
『力』はあるが、先ほど鬼姫が探していた『面倒なやつ』の最後の一体ではない。気になって気配を探ってみるが、『力』は感じ取れても、どこに居るのかが掴みきれない。
このまま最後まで様子見を続けるつもりなのだろうか。いまいち『そやつ』の意図が読めないが……今は、捨て置くべきだ。ひとまず、姿を見せない『そやつ』よりも、眼前の『二つ顔』をどうにかせなばと判断した鬼姫は、さて、と教室内を見回し……「ふむ、あれじゃな」ロッカーに目を向けた。
それは、掃除用具何かを入れておく教室に一つは付き物の、細長いアレであった。一見するばかりでは、ただ錆びだらけのロッカーでしかないのだが……当然、鬼姫が注目しているのだ。ただのロッカーではない。
言うなれば、そこは『二つ顔』の寝床である。あるいは、『二つ顔』の『巣』と表現した方が分かり易いだろうか。ロッカーから感じ取れる気配にため息を零した鬼姫は、さあ、どうしたものかと首を傾げる。
状況を見る限りでは、もう鬼姫がどうこうしなくても良さそうだ。これでもまだ馬鹿な事を繰り返すようなら、鬼姫が何をしても同じことだから。後は……こいつらをどのようにして助けるか、である。
(ひとまず、あの男を助けるのが先じゃが……下手に逃げられれば面倒じゃな……お、そうじゃ)
妙案が、思いついた。上手くいけば、これで終わるだろう。思わず笑みを浮かべた鬼姫は、恐怖に震えるばかりである男連中をしり目に、さっさとロッカーへと歩み寄る。次いで、ロッカーの中へするりとすり抜けると。
――ずどん、と。内側からロッカーを叩いた。
「ひっ!?」
男連中からすれば、その異音は突然響いたに等しい。びくん、と肩を震わせる男連中の悲鳴を他所に、ぎょろり、とロッカーを見やった『二つ顔』は、掴んでいた男を放り捨てた。ぎゃあ、と床に落とされて悲鳴をあげたが、『二つ顔』は目もくれない。
――えひひひひ。
そんなことよりも、だ。己が『巣』へと入り込んだ愚か者を……せっかく捨て置いてやったことにも気付けていない身の程知らずに、格の違いを見せつける方が先だ。のさのさのさ、と発情した蜘蛛のような動きで床に降り立つと、『二つ顔』はロッカーへと飛び掛かり、開けた。
――ようこそ。
――ひひ?
瞬間、『二つ顔』は目の前に起こった現実を……理解出来なかった。
何故なら、たった今己の『巣』に入った格下を捕らえようと己も『巣』に入ったら、出て来たのが格とかそういう次元では括れない存在だったから。
『二つ顔』が目にしたのは、何処にでもいそうな古臭い感じの少女……ではない。
ロッカーの中にいたのは、一対の角を生やし、巫女服に身を包んだ……全く別次元の、怪物。
その怪物の手が、ゆらりと『二つ顔』の腕を掴んだ……その、瞬間。
――お前らの大好きなことを、してやろうぞ。
『二つ顔』の身体が、ロッカーの中へと引きずり込まれた。直前、我に返った『二つ顔』の腕がロッカーの縁を掴んだが、遠慮するでない、と、直後に伸びた鬼姫の小さい手が、その腕をへし折って中へと引きずり込んで……ぱたん、と、静かに扉は閉められた。
……。
……。
…………そのまま、たっぷり一分程。
沈黙の中で緊張を余儀なくされていた男連中の肩が、不意に扉が開かれたことで、また一斉に震える。位置の関係で誰もが、ロッカーの中を確認出来なかった。散々、恐怖を味わったせいだろう。次に何が起こるのかを考えるがあまり、誰もが恐怖に動けなくなっていた。
けれども、その内の一人。『テレビクルー』の内の一人である、撮影機材を抱えたその男だけが気付いていた。いや、気付いていたというよりは……『力』を持っていたその男だけが、見ることが出来た。
――一対の角に巫女服という何時もの出で立ちとなった鬼姫が、ため息共にロッカーから出る、その瞬間を。
うっかりとはいえ視界に収めてしまったその男は、反射的に目を逸らした。そのせいで、垂直に壁に張り付いている『謎の両足』を見てしまったが、構わずその男は……鬼姫から目を逸らし続けた。
それは、致し方ないことであった。抑えているとはいえ、鬼姫から放たれる『力』は膨大だ。鬼姫を認識することすら出来ない程度の『力』なら大丈夫だが、認識出来てしまう者からすれば、鬼姫を長時間直視するのはよろしくない。
けれども、だからといって、だ。この男を体たらくと評してはいけない。むしろ、修行らしい修行をせずとも自力で目を逸らす。それだけでも、この男は大したものなのであった。
(……あやつ、ワシのことが見えるのか? しまったのう……確かに、弱いが『力』を感じるのじゃ)
当然、一人だけ違う反応を示している男に、鬼姫は気付かないはずもない。しかし、この状況で鬼姫にはどうすることも出来ず、やれることは彼らの即時退去を促すだけだ……と。
――不意に、鬼姫の視線が動く。
その視線の行き先はすぐに定まることはなく、右に左に揺れ動き……ふと、天井で止まった。だが、その視線は天井ではなく……その上、もっと向こうを見ているかのように焦点が合っていなかった。
「――っ!?」
「お、おい、急にどうした?」
一拍遅れて、鬼姫から視線を逸らしていた男も何かに気付いたかのように、慌てて辺りを見回し始める。気づいたクルーの一人が声を掛けるが、男は目もくれない。まるで何かを恐れるかのように……ハッと、目を見開いて鬼姫を見てから天井へと視線を移した。
それを見て、他のクルーたちも、コスプレ集団も、一斉に天井を見上げる。パッパッ、とライトが向けられた……のだが、彼らの目に映るのは埃と錆びとカビで汚れた真っ暗な天井だけであった。それ以外は……何も、ない。
何とも言えない緊張感が漂うが、とてもではないが注視するような何かを彼らは認識出来ない。誰が最初というわけでもなく、一人……また一人と首を傾げて訝しみながら視線を下ろし始めた――その、瞬間。
「――うわあああああ!!」
教室どころか校舎中に響き渡るであろう悲鳴を受けて、鬼姫の目の焦点が定まった。直後、勢いよく振り返った鬼姫の袖から飛び出したのは……幾重もの『黒蛇』。影絵のように蛇の輪郭を保ったそれが、しなる鞭の如く割れた窓をすり抜けて……『巨大な顔』の隣を掠めていった。
そう、窓の外に居たのは、『巨大な顔』であった。
首から上を切り出してそのまま巨大化させたかのような外観のそれが、教室内に居る男たちを見て、にやりと笑う。そして、方向転換して追尾を始めた黒蛇から逃れるように、スーッと……夜空の向こうへと消えてしまった。
「うわああ、あああ、あああああ!!!」
途端、我に返った男たちが一斉に悲鳴をあげた。誰も彼もが、正気を失っていた。それは、無理もないことであった。
霊的地場における影響と、『二つ顔』。そして、いまの『巨大な顔』と続いて起きた怪異によって、耐えに耐えてきた彼らの恐怖心が……ついに爆発したのだ。
――むん!
しかし、彼らは逃げることが出来なかった。何故なら、それよりも速く鬼姫が動いていたから。ぶん、と鬼姫が空気を払うように腕を振った直後、教室の扉が勢いよく閉まった。次いで、隅に纏められていた多数の机や椅子が動きだし、瞬く間に出入り口と窓を塞いでしまった。
「うわあああああああああああ!!!」
「嫌だ、出して、出してえええ!!!」
「ああああああ、ああああああ!!!」
そのせいで、彼らの恐怖は益々膨れ上がった……当然だ。鬼姫の姿が見えていない彼らからすれば、この状況は『巨大な顔によって閉じ込められた』にしか思えない。例え見えていたとしても、『鬼姫が閉じ込めた』という事実を認識してしまうから、彼らがパニックを起こすのは当たり前であった。錯乱した一人に至っては、拳にヒビが入るぐらいの勢いで、机を殴り始めている……けれども、だ。
(――今、出て行かれるのは不味い……これは罠じゃ!)
出せない理由が、鬼姫にはあった。
男たちが間違っても廊下に出られないのを確認した鬼姫は、素早く床に手を突く。次いで、念を込める。鬼姫の意志を受けて誕生した新たな黒蛇が、しゅるりと床に吸い込まれるように溶けて……舌打ちした。
――速いのじゃ。
気配を頼りに狙った一撃が、避けられた。思いのほか、やる。どうやらこいつは、頭が回るようだ。まともにやり合っては勝てない相手であると、理解しているのだろう。こういう相手は、ことさら時間が掛かるから面倒なのだ……けれども、鬼姫が最も面倒だと思っているのは、そこではなかった。
(やつめ……廊下の所でこやつらが飛び出してくるのを待っておるな)
そう、鬼姫は気付いていたのだ。今しがたの『巨大な顔』は、囮だ。例え『黒蛇』が命中していたとしても、あれは言うなれば触手の一本に過ぎない。仮に仕留めたとしても、また本体から出現してくるだろう。ひとまず、『巨大な顔』は後回しだ。
ちらりと、鬼姫は床から手を離して顔を上げる。
本体は……教室を出た、廊下の向こう。姿は確認出来ないが、そこに居るのは確かだ。しかも、鬼姫が感じ取れる範囲では……一つじゃない。おそらく、『核の役割を果たす本体』と、その本体に擬態している偽物が十数体。これまた、『とびっきり面倒なやつ』だ。
再び、鬼姫の袖から『黒蛇』が飛び出す。それは音もなくしゅるりるりと男たちの足元を通り過ぎ、『本体』へと向かう……が、駄目。『核』を捉えるどころか、蜘蛛の子を散らすかの如く気配が拡散するに従って、放った『黒蛇』からは何の手応えも伝わって来なかった。
(――ええい、あの時はワシの神社があったからどうにか出来たが……くそっ! 今日は本当に厄日じゃな!)
何度やっても手応えがないことに、鬼姫は舌打ちをした。ちらりと、半狂乱になり始めている幾人かを見やった鬼姫はもう一度、思わずといった様子で舌打ちを繰り返した。
鬼姫一人であれば、倒すのは容易い。ただ数が多くてすばしっこいだけの雑魚に過ぎないこいつらなら、いざとなれば『本気状態』になって周囲一帯ごと消滅させてしまえばお終いだ。それが出来なくとも、いくらでもやりようがある。
しかし、今はそれが無理だ。こんな至近距離で『本気状態』になったが最後、この場の全員が『力の余波』を受けて死ぬ。言うなれば、即死ビームを全方位に打ったも同じこと。
だからといって、『盾』を使うには『本気状態』にならねばならない。彼らに影響が出ないぐらいまで一旦ここを離れてから変身し、それから戻って……駄目だ、戻るまでに一人か二人は食われる。非常に、不味い事態である。
地の利は向こうにあり、状況も向こうの手の内。鬼姫が直接出向けば仕留めるのは容易いが、その間は男連中が無防備になる。それだけは、避けたい。
何故なら、それこそがやつらの狙いなのだから。
やつらも、ある意味では必死なのである。実際のところは鬼姫には不明だが、蜂の巣を突いたかのような、この異様な湧き方。おそらく、久方ぶりな獲物の到来であると判断して、間違いない。
だからこそ、やつらは鬼姫がこの場で唯一の生者である男連中を守ろうとしていることを利用している。正面からまともにやり合えば100%鬼姫に勝てないのを理解しているからこそ、やつらは待っているのだ。
鬼姫が、最低限の犠牲は止むなしという決断を下すのを。
初めから、少数だけを狙っているのだ。鬼姫の守りから零れてしまった一人、あるいは二人。それだけを狙っている。だからこそ、鬼姫は動けないでいるのだ……悔しいことに!
(何か……やつらの気を逸らす何か。それさえあれば、何でも良いのじゃ……!)
後手に回されているという事実に、ギリギリと、噛み締めた奥歯が軋む。ほんの、少しの間でいい。こいつらの注意が逸れてさえくれれば、それだけで良いのだ……ん?
それは、ただの偶然であった。たまたま……鬼姫の目に映ったのは、床に転がっていた……ライトセイバー。暗黒卿が持っていた、赤いライトが発光する玩具……それを目にした、その瞬間。
――鬼姫の脳裏に、閃きが過った。
そして、その直後……鬼姫は、セイバーを手に取っていた。考える猶予は、なかった。この後に起こる大惨事を覚悟した鬼姫は、急いでセイバーに『力』を込め始める。
それは、何とも強引で粗雑な『力』の込め方であった。以前、『モンスターボール』に行った時とは比べ物にならないぐらいの、雑なやり方だ。
しかも、『力』を込めるだけで術の指向性もろくに持たせていないから、不安定極まりない。鬼姫の手から離れれば、すぐに弾け飛ぶ……だが、今回ばかりはそれが正しいのである。
『力』を込めながら、鬼姫は錯乱している男連中を見やる。1人ずつ、状態を確認して……大丈夫であることを確信した鬼姫は、彼らに向かって一斉に『呪い』を放つ。
弾丸の如く放たれた不可視の『呪い』が、全員に等しく降りかかった。暴れ回っている男も、恐怖に腰を抜かしている男も、泣きわめいている男も、関係ない。
今はまだ錯乱しているから誰も気づいていないが……それも、すぐだ。
全員に、しっかりと『呪い』が発動しているのを見やった鬼姫は、次いで、セイバーに込めた『力』の具合を確認してから、手を離す。途端、それが独りでに宙を漂った……その、次の瞬間。
「――ぬん!」
鬼姫は、跳んだ。
天井をすり抜け、3階をすり抜け、屋上へと飛び出してもなお、上へと飛んだ。その勢いは衰えることなく、鬼姫の身体をぐんぐん上空へと運び……あっという間に、夜の闇に隠れて全く確認出来ない高さにまであがった……その瞬間。
鬼姫の意識が、捉えた。己が掛けた『術』の通りに外へと飛び出したセイバーが、弾け飛んだのを。米粒のように小さくなった学校の外で、教室内には影響が出ないようにして込めた『力』が拡散したのを感じ取った時にはもう、鬼姫は両手で印を結んでいた。
――変化は、一瞬であった。
瞬く間に成長を遂げて大人の身体になるにつれて、生えていた対の角がめきめきと巨大化する。合わせて伸びる巫女服の裾から飛び出したのは、左右三対の六本腕。そして、ぼう、と炎のように揺らめく光と共にその手に宿る……神魔の盾。
変身したことで放たれた『力』は、『盾』によって抑え込む。その出で立ちさえ除けば、誰しもが振り返ってしまう程の美貌へと成った鬼姫は……夜空に浮かぶ月の光に、ほう、とため息を零した。
「――っ!」
その、直後にはもう、鬼姫の身体は上昇の時とは比べ物にならない速度で下降していた。その姿はもはや流星のよう……屋上に到達し、三階を通り抜け、教室へと戻るまで。全所要時間は、二十秒も掛かっていなかった。
しかし、この二十秒……この二十秒こそが大事なのであった。このたった二十秒を稼ぐ為に、鬼姫はあの短い間に出来る限りの手を打った。セイバーを破裂させたのも、『呪い』を振りまいたのも、全てはその二十秒の為であった。
いったい、鬼姫は何をしたのか。
まず、鬼姫が行ったのはセイバーを用いた『目くらまし』だ。鬼姫もそうだが、『目に見えぬ存在』というのは、例え視界に映らなくても、目的となる生者や死者の位置を把握することが出来る。当然、これはある程度『力』を持つ相手に限るが……今回、鬼姫はそれを利用したのだ。
まず、『力』をセイバーに込めることで、鬼姫は自分の偽物を作った。
と、言うのも、やつらは鬼姫の視界に入るようなことをしなかった。万が一視界に入るまで接近してしまえば、鬼姫から逃げ切れないのを恐れるがあまりのことであったが……その慎重な行動が、いけなかった。
やつらも、鬼姫と同様である。視覚ではなく感覚で鬼姫を捕捉していた。だから、錯覚してしまった……セイバーに込められた『力』を感じ取って、さぞ混乱したことだろう。
なにせ、己よりも強大な『力』を持つ化け物が、突如二つに増えたのだから。一体ですらどうにもならない相手なのに、それが二体になれば……混乱するな、というのが無理な話であった。
しかも……その二つの片方が、狙っていた獲物たちに何かをした。
いったい何をしたのかは分からなかったが、獲物たちを包み込んだ鬼姫の『力』を感じ取って、とにかく『何かを行った』のは分かった。それが、やつらに戸惑いと迷いをもたらした。
そして、上空へと飛び去った、もう一体。その目的は分からないが、尋常ではない速度で離れていくのを感じ取ったからこそ、やつらは警戒した。何かを、するのではないか……と。だから、やつらは身構えた。
慎重なやつらの予測は的中した。教室内に残っていた一体が、突如外へと飛び出して……爆散したのだ。その勢いは凄まじく、死者である者たちはもちろんのこと、生者である獲物たちすらも動きを止めてしまう程の……『衝撃』であった。
そして、その瞬間。やつらは、はるか上空から降り注ぐ圧倒的な『力』を感じ取ってしまった。戦うとか逃げるとか、そういう次元で語れるレベルではない、とてつもない『力』だ。
もはや、それは災害である。逃れられない災厄と言っていいぐらいの強大な『力』が降りて来る。それを、この学校に住み着いていた者たち全てが、感じ取ってしまった……その時には、もう。
――実にもったいないことをしたが、おかげで誰も死んではおらんな。まあ、良しとしようぞ。
此度の戦い、鬼姫の勝利が確定した後であった。
呆けた様子の彼らを一人ひとり見やりながら、鬼姫は安堵する。今しがたの『衝撃』で、一種のショック状態に陥ってはいるが、それだけだ。時期に目が覚めるだろう……それよりも、だ。
――さて、まずは……。
鬼姫の視線が、教室の壁……の、そのまた向こうに居る、『巨大顔』へと向けられる。『本気状態』にもなれば、その両目は千里眼が如く遠くを見渡すことが可能で、あらゆるものを透過して相手を補足することが可能である。
故に、鬼姫はしかと『巨大顔』を捉えていた。とはいえ、『本体』の触手でしかない『巨大顔』を仕留めたところで、『本体』にとっては痛くも痒くもない。放っておいても良い相手なのだが……鬼姫の狙いは別にあった。
ふわりと、鬼姫から『力』が湧き起こる。当然、『盾』によって周囲への影響を抑えているので心配する必要はない。なので、鬼姫は遠慮することなく『巨大顔』へと……『力』を込めた視線を放った。
――直後、『巨大顔』の動きが止まった。音もなければ衝撃が走ることもなく、DVDの一時停止を押したかの如く、ピタリと止まった……と、思ったら。
今度は、硫酸を掛けられたかのように巨大な頬がただれ始めた。勢いは凄まじく、『巨大顔』は悲鳴すら上げるまもなく瞬く間に面影すら無くなって……見つけた。
――あれじゃな。
逃がさぬ、お前だけは。他のやつらは見逃してやってもいいが、ここまで苛立たせてもらったお礼をくれてやらねば気が済まぬ。鬼姫の唇が……自然と、弧を描いた。
ゆらりと上げられた腕の一つが、クイッと何かを抓む動作を見せた。途端、壁をすり抜け、転がっている椅子やら何やらをすり抜けて、何かが教室内に飛び込んで来た。がしりと、その腕が掴んだのは……擬態に隠れて逃げようとしていた、『本体』であった。
人の形をした『本体』は、けして大きくはなかった。せいぜいが、1メートルにも満たないだろう。だが、その身体から放たれている『力』はもちろんのこと、極端にバランスを欠いた身体を見れば……誰が見ても、その禍々しい外見に絶句したことだろう。
実際、壁をすり抜けて入って来た『本体』を見てしまった幾人かは、目に見えて狼狽した。残りも悲鳴こそあげなかったものの、『何もない空間に宙吊りになっている』その姿を見て、もはや逃げる動作すら出来なくなっていた。
――覚悟は、よいな?
だが、しかし。今日、この瞬間。絶句したのは、その『本体』自身も含まれた。己の最後を悟った『本体』は奇声をあげて暴れ回ろう……と、した。だが、『盾』によって抑え込まれた鬼姫の『力』の中は、言うなれば濃硫酸のプール。そんな中に引きずり込まれた『本体』は……奇声をあげる間もなくドロリと身体が崩れ落ち、ものの数秒で欠片すら残ることなく消滅した。
――ふん、歯ごたえのないやつよ。
ぱっぱと、手に残る名残を振り払う。次いで、『盾』によってしっかり『力』を抑え込めているのを確認した鬼姫は……視線を、部屋の隅にてへたり込んでいる男へと向ける。途端、目に見えて肩を震わせたその男を見て……鬼姫は、苦笑した。
その男は、この中で鬼姫を視認出来た唯一の者だ。当然というべきか、やはりというべきか、今しがた鬼姫が行ったことも全て目にしていたようだ。
『力』を抑えているのでそういった意味での恐怖は覚えていないし、鬼姫から放たれている『力』の影響は皆無だ。だが、それでも『本体』を軽々と仕留めた鬼姫に……本能的な恐怖を覚えているのは、想像するまでもない。
――まあ、落ち着け。取って食ったりはせぬ。
「ぁぁぁ……ぁぁぁ……」
――安心せい、お主らに何かをしようとは思わぬ。気を、ゆるりと落ち着けよ。
まん丸に見開いた男の目を見つめながら、鬼姫はそう言って笑みを浮かべる。その言葉と共に向けられた優しい微笑みに、男は多少なりとも平静を取り戻す。冷や汗を大量に掻いていたが、何とか……その目に、理性の色が戻り始めているのが、鬼姫の目にも分かった。
――ゆっくり、息を整えよ。大丈夫、ワシはそれ以上お主らには近寄らぬ。そして、今は襲われる心配もない。静かに、気を落ち着かせるのじゃ。
「ぁ……ぅぅぅ……」
――そう、それでよい。大丈夫、ワシはお主らを襲わぬ。襲うのであれば、当にお主らは襲われておるはずじゃぞ。
「ぅぅ、ぅぅ……ふぅ、ふぅ、ふぅ……」
――そうじゃ、その調子じゃ。無理に整えようとするでない。焦らず、身体が求めるがままに力を抜いて……ゆるりと、そう、そうじゃ。
助けてやったのに、この反応。けれども鬼姫は、今更機嫌を損ねることはない。生者が鬼姫を恐れるのは、ある意味自然現象なのだ。圧倒的な『力』を前に畏怖し、膝を付いてしまう。それが、普通なのだ。
気づいていないならまだしも、気付いてしまってもまだ……こうして、鬼姫の言葉に耳を傾けられる時点で。本当に、本当の本当に、大したものなのであった。
ちらりと、男から視線を周りに移す。教室の中は……先ほどとは打って変わって静まり返っていた。見れば、何人かは既に気が付いているようだが、現実をまだ処理しきれていないのだろう。呆然とした様子で教室内を見回していた……と。
――おお、あれは。
不意に、鬼姫の視線がコスプレ集団へと向けられる。正確に言い直すのであれば、その集団の中にてへたり込んでいた暗黒卿の……傍を転がっている、棒へ、であった。
それは、『ライトセイバーの柄』の部分であった。辺りを見た所、破片らしきものは何も見当たらない。どうやら、セイバー部分であるプラスチックが付いている物と、付いていない柄だけの物。その二つを持っていたのだろう。
妙な拘りではあるが、鬼姫にとっては喜ばしい限りである。クイッと指先で招けば、ふわりと地面を離れた柄が音もなく鬼姫の手に収まっていた。
……欲しいのう、これ。
マジマジと、鬼姫は手に持った『お宝』を見つめる。どことなく愛嬌すら感じられる、この独特なフォルム。やはり、これでないと駄目だ。
チラリと、鬼姫は尻餅をついたままの暗黒卿を見やる。次いで、また柄へと視線を戻し……また、暗黒卿へ。交互に、交互に……それで分かってくれと言わんばかりに、鬼姫は何度も暗黒卿に流し目を送る。それが、如何ほどな効果を発揮したのかは些か不明だが。
「お、おい、『差し上げます』って言え」
唯一、鬼姫を見ることが出来る男が、暗黒卿へ話しかけた。「……へ、え?」眼前の光景に目を瞬かせていた暗黒卿は、その呼び声にハッと我に返った。
「『差し上げます』って、言うんだ」
「え、あの……何で?」
「いいから、早く。機嫌を損ねない内に、早く……!」
「あ、ああ……さ、差し上げ、ます」
暗黒卿の言葉に、鬼姫はニッコリと笑みを浮かべた。まるで催促したみたいで悪いのじゃ、と頭を下げつつも、躊躇することなく懐に仕舞いこむ。そこには、鬼姫の本音が分かり易く見え隠れしていた。
――あっ。
ふと、その時、鬼姫の表情が曇った。途端、男の顔は強張り、わけが分からない暗黒卿は首を傾げていた。
――忘れておった。
そんな二人を他所に、鬼姫はポツリと誰に言うでもなく呟いた。「……?」青ざめていながらも訝しむ素振りを見せる男に、いや、大したことではないのじゃが、と、鬼姫は深々と吐いたため息と共に答えた。
――実はな、先ほどお主たちに『呪い』を掛けたのじゃがな。
「――っ!」
――いやいや、怯えるでない。命には別状ないし、そもそもお主らを助ける為の苦肉の策じゃ……が、のう。その、咄嗟のことだったとはいえ、何じゃ……明日の朝には解けるのじゃが、お主らに掛けた『呪い』というのはじゃな……実は。
「…………?」
言いよどむ鬼姫に、男は首を傾げた。今しがたの光景を見ていたからこその不安が過るが、助けてくれたのも鬼姫だ。命に別状はないと言われたから、最悪の事態になることはないだろう。
――糞便が……うん○が垂れ流しになる『呪い』でな。
「――っ!?」
――やつらの目を欺き、かつ、命に別状はない『呪い』が、咄嗟の間には思いつかなくてのう……その、済まぬのじゃ。
「――っ!!!???」
前言撤回、有る意味最悪を通り越していた。そして、それを認識した直後、男は耐えがたき腹痛を覚えた……いや、違う。覚えたのではない、気付いていなかっただけなのだ。
こうして多少なりとも落ち着いたことが仇と成り、自覚出来てしまった。とてもではないが、我慢できるものではない。早くひり出せと訴える便意を前に、男は慌てて腹を押さえる。頭の中の冷静な部分が、諦めろと囁いてくるが、そういう問題ではなかった。
見れば、腹を押さえているのはこの男だけではない。先ほど必死に椅子やら机やらを殴り蹴り続けた者、慌ててコスプレ衣装を脱ぎ捨て始めている者、生暖かい感触に青ざめている者。多種多様の光景が、ちらほらと見られ始めていた。
伴って、何とも言えない悪臭……よそう。はっきりと、糞便臭が教室内に充満し始める。地獄絵図とは、このことを言うのだろう。誰も彼もが涙すら零し始める中……鬼姫は、静かに頭を下げた。
――大丈夫……死にはしないのじゃ。
その言葉に、唯一姿を見ることが出来る男の顔色が悪くなった。しかし、早く戻らねば今度こそ命がないやもしれぬぞと、続けた鬼姫の言葉に、男は……必死の思いで立ち上がり。
みんな、早くここから出よう。今なら、出られるから。
『呪い』によって悪臭を立ち昇らせながら……涙と一緒に、皆を誘導し始めるのであった。
……。
……。
…………日が、昇る。どれだけ苦しくも苛立たせた夜も、いずれは明ける。それは時の帝を恐れさせた鬼姫であっても逃れられぬ定め……この星に住まう者に約束された、翌日の到来であった。
遠くの夜空が明るくなり始めたのを見やりながら、阿鼻叫喚の地獄が縮図された車内の悲鳴と呻き声に鬼姫は苦笑する。
その惨状を招いたのは鬼姫だが……まあ、鬼姫が何もしなかったら、今頃全員が無事に帰られなかったのだ。臭いで死ぬことはないし、それぐらいは我慢しろと、鬼姫は思った……と。
「……おっと、ここじゃな」
神社がある場所……からは、少しばかり離れた道路。そこまでなら、鬼姫も迷うことなく帰られる。「――ここで降りる。これに懲りたら馬鹿な真似はするなと、皆に伝えるのじゃぞ」降りる前にするりと顔だけを車内に突っ込み、唯一鬼姫の姿を確認出来る男へと伝言を残す。
頷いたか……確認を取る必要はない。
おそらく、もう会うことはないし、これで理解出来ないのなら、もう鬼姫に出来ることなどなにもない。自らの命でもって、落とし前が付けられるだけだ。
とん、と車の屋根を蹴って建物の屋根へと飛び移った鬼姫は、そのままの勢いを殺すことなく次の屋根へと続く。夜の静けさも過ぎ去り、遠くの空に見える青紫の眩しさ。
夜が明けるこの瞬間は、何とも言えない感慨深さを覚えるものだ。ゆっくりと目覚め始めようとしている街並みを見下ろしながら鬼姫は、とん、とん、とん、と神社へと向かい……ながら、手に入れた『ライトセイバー』に『力』を込めた。
「――いやあ、ええのう」
直後、鬼姫の顔は喜色でいっぱいになった。
「やはり、これじゃよ……この、感じ。これこそが、『ライトセイバー』なのじゃ」
ふぉん、ふぉん、ふぉん。鬼姫の『力』を注がれて形成された、不可視の刃。常人には触れることはおろか、見ることも叶わない。物理的な攻撃力は無いに等しい……この、光の刃。
けれども、そこには確かに存在している。気ままに振り回す度に、赤色に輝くセイバーの残影が、ふぉん、ふぉん。『実に、堪らない。常人には不可視のきらめきが、ふぉん、ふぉん、と瞬いていた。
鬼姫の機嫌、絶好調。まあ、当然だ。こんな展開を全く期待していなかったといえば嘘だし、そもそも遠まわしとはいえ譲ってもらえるよう誘導したのは鬼姫である。
例え周りから『催促したり、強請ったりしたからだろう』と言われても、鬼姫にとってはどうでもよいこと。貰えた、それこそが重要で、手元にある、それが全てなのであった。
とはいえ、一つばかり不満があるとすれば、だ。
ライトセイバーを手に入れただけでも良しとするべきなのだが……出来ることなら、『暗黒卿セット』も欲しかった。いや、欲張りだろうと言われそうだが、欲しいものは欲しいのだから、致し方ないことである。
まあ、それでも鬼姫は満足していた。まさに、御満悦であった。残照とも言うべき忘れ去っていた懐かしさを思い出せた感動も相まって、鬼姫の機嫌は留まることを知らなかった。それこそ、悪霊の一つや二つを見つけたならば、鬼姫は満面の笑みで試し切りをしていた事だろう。
そうして……ようやく。
ライトセイバーを懐に戻して、欠伸を一つ。相も変わらず穏やかな空気を醸し出しているお由宇の神社へと戻って来た鬼姫は、大きく伸びをした。「やれやれ、今日はほとほと疲れたのじゃ」こきり、こきり、と肩を鳴らしながら、「お由宇、どこじゃ~」我が物顔で御扉をすり抜けて社の中へと入っ……た、その瞬間。
「…………」
鬼姫は、無言のままに後ずさった。しばしの間、御扉の前で今しがたの光景を思い返しながら……一つ、頷く。また、足を踏み入れ――。
「…………」
――無言のままに、後ずさった。今度は、先ほどよりも一歩だけ距離を取って。そうしてから、鬼姫は顎に手を当てて虚空を眺めた後。
……ワシ、何かお由宇を怒らせるようなことをしたかのう?
原因の分からない事態を前に、鬼姫は首を傾げた。たまたま虫の居所が悪くなっているのか、あるいは女の日……いや、違うか。前者はともかく、『神』であるお由宇に、後者はありえない。
では、いったいどうしたと言うのだろうか。こちらに背を向けて正座しているから、その表情までは分からないが……何だろう、怒っているということだけは分かった。
そう、怒っているのだ。何に対してかは分からないが、お由宇は怒りを覚えている。静かに、それでいて激しく。それが、お由宇の背中からビンビンと伝わってくる。下手に首を突っ込めばこちらまで飛び火してしまいそうだ。
……少し、時間を空けよう。今は、そっとしておいた方が無難だろう。
そう結論付けた鬼姫は、お由宇に気付かれないように神社の外へと向かう。抜き足、差し足、忍び足。そろり、そろりと境内の半ばまで来た辺りで……そういえば、と鬼姫は振り返った。
(あやつらがやっていた、あのよく分からん儀式、結局何の意味があったのじゃろうか……しもうた、聞いておけば良かったのじゃ)
色々あって、すっかり忘れていた……が、まあ放っておいてもいいだろう。もしかしたらアレで何かの拍子に幽霊を引き寄せてしまうのかもしれないが、あんなので引き寄せる程度のモノなんぞ、気にするだけ無駄だ。
霊的な道具も使っていないし、『力』を持つ者が行うわけでもない。まあ、何百人に1人ぐらいは多少なりとも肝を冷やすことになるだろうが、所詮はそれだけの……あっ。
「あっ」
瞬間、脳裏を過ったある事に……鬼姫は、目を見開いた。次いで、いやまさか……と必死になって記憶を思い返し……目に見えて顔色が青ざめた。
……。
……。
…………再び、鬼姫は無言のままに抜き足、差し足、忍び足。けれども、その方向は外ではなく、内側。社へと舞い戻った鬼姫は、気付かれないようにゆっくりと中の様子を――見た瞬間、神速の如き勢いで鬼姫は退いた――のだが。
ごとん。
――運命は、残酷である。足元に響いた異音に、鬼姫は文字通り飛び上がった。慌てて視線を下ろせば、そこにあったのは先ほど懐に入れた『ライトセイバー(柄だけ)』であった。
……。
……。
…………ごくりと、鬼姫は唾を呑み込んだ。
今……逃げるのは簡単だ。だが、ここで逃げたら最期……待っているのは、さらに怒りを増大させたお由宇だ。例え苦しくとも、今ここで……お由宇の怒りを受けた方が、万倍もマシだろう。
(……今日のワシ、ほんと厄日じゃ。最後の最後まで、ほんと、空回りしっぱなしなのじゃ)
その気がなかったとはいえ、仕出かしてしまった報いを受けねばなるまい。ここは覚悟して……『罰』を受けるのみ。
しばしの間、鬼姫はうんうんと唸った後……覚悟を固めると、そっと……社の中へと入ったのであった。
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