第9話(裏):この世には目には見えない汚い忍者のような闇の住人たちがいるが、目には見えない心優しくも強くて頼もしいナイトのような住人たちもいるってことを肝に銘じておくべきそうすべき

 ……。


 ……さん。


 ……さん、お……さん、おき……さん。


「――お客さん!」

「――うぉ!?」


 頭の中に鳴り響いた声に、俺は飛び起きる。真っ暗だった世界が、晴れた。途端、目の前に広がった世界に、俺は呆けたままぼんやりと目を瞬かせた。


 俺の眼前に広がっていたのは、見慣れた天井でもなければ景色でもなかった。等間隔で並べられた座席と、かたん、かたん、と規則的に伝わってくる振動音。小さな窓から見える、物凄い速度で通り過ぎてゆく景色たち。


 統一された雰囲気が漂う空間に見合った、心地よい涼しさ。しばしの間……まあ、1分も経ってはいないだろう。ぼんやりとした頭のまま辺りを見回した俺は、たっぷり欠伸を2回してからようやく、そこが『新幹線の中』でいることを思い出したのであった。


「切符を拝見させて頂いても?」

「……ああ、うん」


 その声に、俺は寝ぼけていることを自覚する。何せ、声を掛けられてから、俺は座席で寝こけていたことを思い返し、俺の顔を覗き込むようにしている人が駅員であることを思い出したからであった。


 まあ、幸いにも切符の居所が分からなくなるほど寝ぼけてはいない。思いのほかあっさりとそれを思い出した俺は、駅員へと切符を見せる。受け取った駅員は手慣れた様子でそれを機械(駅員の腰にぶら下がっている、小さい弁当箱サイズの機械)に差し込み、「ご協力、ありがとうございます。良い旅を」不正が無い事を確認してから切符を返してくれた。


 頭を下げてから遠ざかってゆく駅員の後ろ姿を、何となく見つめる。俺以外にもけっこうな人が座席に座っているのが見えたが、駅員は一度として止まることなくドアまでたどり着くと、そのまま向こうへと行ってしまった。


 ……どうやら、気を利かせて後回しにしてくれたようだ。


 寝ているところを起こされて少しばかり不機嫌になっていた頭が、スーッと澄み渡る。自分勝手なのは、俺だ……それが分かった俺は、心の中で駅員に頭を下げる。


 次いで、時刻を確認……どうやら、新幹線に乗ってすぐに眠ってしまったようだ。深呼吸をして、身体の節々に残っている眠気を吹き散らしながら……ため息と共に、外を見やった。


 さすがに小一時間も寝こけていたら、ビルの群れしか見えなかった景色も一変している。夕焼けで真っ赤に染まった景色を眺めていると、懐かしいような、寂しいような、不思議な感覚を覚えるのは俺だけだろうか。


「――いっ、つ」


 ……と、不意に。


 チクリと、額から後頭部に掛けて走った『痛み』に、俺は顔をしかめた。慌てて窓から顔を離し、目を瞑って堪える。ずきん、と脈動する痛みは慣れたものだが、それでも突然襲ってきたこの時だけは、未だに慣れない。


 痛み自体は何時起こるかは予測できないが、『適切な対処』さえ取れば、すぐに大人しくなる。つまり、目を瞑って深呼吸。これさえ守れば、痛みはすぐに……ほら、治まった。


 あっという間に名残すら感じ取れなくなった頭を軽く振って、息をつく。毎度のことながら、いい加減嫌になってくる。沸々と湧き起こってくる苛立ちを堪えながら、俺は……もう一度、景色を眺める。


(……一生、コレと付き合っていかなきゃならねーのかな)


 脳裏を過るのは、つい先日医者から突き付けられた言葉。ぐるぐるとその言葉が頭の中を渦巻いている中で、俺は……この『痛み』との日々を思い浮かべていた。




 ――俺が最初に『痛み』を覚えたのは、中学に上がってすぐのことだった。


 切っ掛けが何だったのかは、覚えていない。ただ、覚えていて分かっているのが、前触れがなかったということと、野球の練習中だったということだけ。


 何時ものように友達が投げてくれたボールをキャッチした、その次の瞬間。凄い痛みが脳裏を走って、気づけば俺はベッドの上にいて、消毒液の臭いを感じながら見慣れない天井を眺めていた。


 正直、その時は何が起こったのか分からなかった。だって、いきなり景色が変わって、いきなりベッドに寝ているのだ。しかも、着ていたはずのユニフォームから、病院服になっていた。


 わけが分からず混乱していた俺は、多分、その後すぐに医者が出て来てくれなかった、大声で友達に助けを呼んでいたと思う。実際、その時はスマフォがどこにあるのかを探そうと思っていたから。


 俺は、とにかく医者に話した。ここは何処だとか、今は何時だとか、あんたたちは誰だとか……何を尋ねたのかは、今も思い出せない。ただ、医者は俺の質問に一つ一つ答えてくれた。そして、俺の前に出てきたドクターは……『原因不明の頭痛』だと、診断した。


 ……その時のことは、今も上手く思い出せない。とにかく、怖かったのだけは覚えているけど……多分、記憶するのを俺の頭が拒否したんだと思う。


 今になって分かることだけど、人間、本当に理解し難い問題を前にしたとき……考えることや、記憶するのを放棄するのだと思う。


 退院は、すぐに出来た。検査の結果は全て正常で、治療法が何も無かったからだ。他人から見れば、何で入院したのか首を傾げるぐらいの健康体で退院した俺は、さぞかし不思議なやつに見えたことだろう。


 ……でも。退院した俺を待っていたのは……以前の俺とは、以前の健康な俺とは、違っていた。


 『原因不明の頭痛から併発した視覚障害』


 病名すらない、医者ですら何が何だか分からないコレが、俺のその後の生活を変えた……いや、生活だけじゃない。俺の生活の一部であった、『野球』から遠ざける原因となった。




 ……。


 ……。


 …………新幹線を下車して外に出た頃にはもう、辺りは薄暗くなっていた。まあ、いくら日が長い季節といったって、中で晩飯を食べた後になれば、そうもなるだろう。


 それに、この時期にいきなり新幹線の予約が取れただけでも、運が良い方だ。最悪、もっと出発が遅くなって到着が夜になっていた可能性もあるし……そう考えれば、飯を食える余裕があっただけでもマシだろう。


 そのまま、俺はメモを片手に目当てのバスを見付ける。乗り込み、座り心地の悪い椅子に腰を下ろし、バスが動き出して……もう、30分ぐらい経っていた。


 ぷしゅう、とバスの車体が傾く。俺が乗り込んでから、これで3度目だ。喧しいとすら思える程の笑い声と共にバスを降りて行く野球帽を被った少年たちを、車内から見下ろす。


 たぶん、練習試合の帰りか何かで、勝ったのだろう。ただの練習の帰りにしては荷物が多いし、みんなの顔には笑顔が満ち溢れている。それが、心から羨ましいと思ってしまう自分を、俺は抑えられなかった。


(情けねぇ……まーだ未練抱えているよ……)


 見慣れない景色の中、歩道へと降り立ったユニフォームを着た子供たちの背中が、どんどん離れていく。ぷしゅう、と傾いていた車体が戻ると同時にバスが走り出す。小さくなっていく背中たちを見送りながら、俺は深々とため息を吐いて……また、ぼんやりと景色を眺めた。


(せっかくの夏休みだから、家に来て気分転換でもしたらどうかな……か)


 脳裏に過ったのは、俺がここに来る切っ掛けとなった言葉。夏休みに入ってすぐ。中学卒業を期に、続けていた野球を止めて、すっかり時間を持て余していた俺の元に掛かってきた電話の内容が、それだった。


 電話してきたのは、父方の爺ちゃんだ。子供の頃から良くして貰っている記憶があって、野球を止めることになった時、俺の親よりも心配して電話をくれた人でもある。


 正直、電話を受けた時の俺は、誰にも会いたい気分ではなかった。何をしても頭の中から『野球』が消えてくれないから、もう目に映る全てが煩わしくて堪らなかったからだ。


 だから、最初は断った。とてもではないけど、誰かと会える気分ではないと分かっていたからだ。特に、心配してくれている爺ちゃんと顔を会わせること自体……何だか申し訳ない気持ちで、会いたくないと思っていた。


(さすがに、毎日毎日電話を掛けられるとなあ……心配かけたのは、事実だしな)


 けれども、爺ちゃんはしつこかった。何時もなら一歩引いてくれる爺ちゃんだが、今回ばかりは引いてくれなかった。


 多分……ここで引いてはならない、と思ってくれていたのだろう。俺も、おそらく心の中では同じことを思っていたのかもしれない。


 実際、こうやって外に出て幾らか気が紛れたおかげで、家に居た時の俺が如何にヤバい状態になっていたかがよく分かる。


 きっと、俺が気付いていない、俺の中の何かが俺を突き動かしたんだろう。気付けば俺は嫌々言いながらも、こうして貴重な夏休みに何もない爺ちゃんの所へ向かっている辺り、そんな気がしてならなかった……と。


(そういえば、小学生の時にもここを通った覚えがあったっけ……あれは確か……試合前の合宿だったか?)


 いくら辺りは薄暗く、視界が悪くなっているとはいえ、だ。年に1回は通る道で、去年も来ただけあってか、窓の外に見える風景は、どこか、見覚えがあるものばかりだった。


 あそこに見えるのは……たしか、子供の頃に一度だけ利用した合宿所だ。懐かしい……と思えるほど、ここには住んではいない。でも、何故だろう。ここを通る度に、思い出せないけど……懐かしい気持ちになって仕方がない。


 どうしても、ソレが何なのかが思い出せない。小中学生の時は、ここら辺を通るたびにそれが気になって仕方がなかったが……まあ、今は良いだろう。


 それよりも……眠い。僕は、大きな欠伸を零した。


 腹が膨れたからか、眠くて眠くて堪らず……僕は、何度も欠伸を零す。次いで、時間を確認してから、ボストンバックを枕代わりにして……静かに、目を瞑った。


 爺ちゃん家は、この路線バスでは終点まで行かなくてはいけない。だから、ボタンを押さなくても終点に着いたら起こして貰えるだろう。


 そう思った瞬間、俺は何かを考えるよりも前に……フッと下りてきた眠気に、また意識を飛ばした。




 ……。


 ……てん……。


 ……しゅう……てん…。


 ……しゅうてん……しゅうてん……。


 『終点~、終点~』


 ――その声に、俺はハッと目が覚めた。不思議と、眠気は全く感じなかった。一瞬、その声が何なのか分からなかった俺は、何度も目を瞬かせて……車内を見回した。


 車内には、俺以外にも4人が座席に腰を下ろしていた。みんなが皆、俯いているのが見える。赤茶色の座席に、薄黄色に汚れたつり革。『終点~、終点~』運転手のアナウンスだけが延々と続けられているのを聞いて……あれ、と俺は杭を傾げた。


 はて……車内って、こんな感じだったか。言う程綺麗ってわけじゃないけど、もうちょっと綺麗っていうか、こんだけ古ぼけた感じじゃなかった気が……?


 ひと眠りしてスッキリしたから、余計に気になっているだけなのだろうか。そんな疑問が脳裏を過ったけれども、続けられている『終点』の言葉を遅れて理解した瞬間、俺はバックを掴んで席を立っていた。


 『終点~、終点~』


「降ります、降りますか――あっと、御免なさい!」


 途中、ボストンバックが座席に座っているおばちゃんの肩にぶつかった。でも、気にしている余裕はない。後ろ手で謝っただけで急いで支払いを終えた俺は、一息にバスを飛び降りた。


 爺ちゃん家にほど近い『終点』のバス停の外見は、言うなれば屋根と椅子と、申し訳ない程度に風が入らないように囲いがされているだけの、簡素なもの。そのバス停を照らす小さな外灯が、ぼんやりと辺りを照らしていた。


 数える程度とはいえ、記憶にあるソレと変わらないそこを見て、自然と俺は安堵する……と。ぷしゅう、と生暖かい空気が背中に吹き付けられた。振り返れば、俺が出るのを見計らったかのようにバスの扉が閉まった……ギリギリセーフ。


 いや、気付いた運転手が待っていてくれたのかもしれない。噴出した嫌な汗を拭っていると、そのままバスは走り出した。途中、先ほどぶつかったお婆さんが目に留まったので、俺はもう一度頭を下げて……ゴロゴロと異音を立てて走って行くバスを見送った……って、あれ?


(降りたの、俺だけか?)


 周囲に誰もいないことに気付いた俺は、首を傾げた。なぜなら、ここは終点だ。よほどの理由がない限り、運転手が乗客全員を下ろすはずだ。


 あのバスにはまだ、人が乗っている。少なくとも、俺が出た後には4人の乗客が乗っていた。なのに、バスは行ってしまった。まだ、乗客を乗せたまま。


 バス会社の関係者には、見えなかった。特に、出る時にぶつかったお婆さんなんて、どこから見ても関係者という恰好ではなかった。終点の後は、そのまま車庫に向かうのだろうが……まさか、全員が全員、車庫に向かうわけではあるまい。


 ……まあ、田舎だし。そこらへんはけっこう融通が利くんだろう。


 何であれ、俺が考えても仕方がないことだ。そう結論付けた俺は、バックを背負い直して一つ息を付くと、まずは爺ちゃん家への目印になる看板へ……ん?


 不意に、視界の端に映った『何か』に、俺の足は止まった。そこは、バス停の脇。気になった俺は、スマフォのライトをそちらへと向けて……ああ、とため息をついた。


 『何か』の正体は、満面の笑みを浮かべた地蔵だった。雨風にすり減ったのか、片目は削れて境目が分からなくなっている。苔のへばり付いたその地蔵の大きさは、俺の膝ぐらいか。


 ……夜に見る地蔵って……何か、不気味だな。


 あまり俺が住んでいる所では見掛けないのもあって少し気味が悪いと思ったが、とりあえず手を合わせて拝んでおく。願掛けのつもりはないが、まあせっかくだから……あれ、でも、待てよ。


「ここに、地蔵なんてあったっけ?」


 軽く思い返してみるが……地蔵なんてものは何も見つからない。と、いうか、記憶が正しければ、バス停の隣にあるのは、放置されてボロボロになった掲示板だったはずだ。


 しかし、辺りに掲示板らしきものは見当たらない。反対側かとそちらを見ても、何もない。もしかして、撤去されてしまったのかと思ったが、だとしても、地蔵がここにあることぐらいは覚えているはずだ。


 少なくとも、去年ここに来た時は地蔵なんて……不思議に思った俺は、そのまま何気なしにライトを地蔵の後ろへと向け「――ひっ!?」た、瞬間。思わず、その場を飛び退いた。


 そこには……地蔵があった。でも、俺が驚いた理由はそこではない。俺の前にあるそれと同じく、満面の笑みを浮かべた地蔵がずらりと……パッと見た限りでも、20体以上の地蔵があったのである。


「な、何だこれ……」


 声が震えるのが、自分でも分かった。薄気味悪いとか、そういうレベルの話じゃない。1体や2体ならまだしも、それが20を超えれば誰だってそう思う。おまけに、そこに置かれた全部が長年放置されているのか、苔だらけ……しかも、しかもだ。


 その地蔵の全てが……同じなのだ。満面の笑みを浮かべて、片目が削れて輪郭が無くなっている。まるで、初めからそう作られたかのように、そこに置かれた地蔵全てがそうなっていた。


(ち、違う……ここ、俺が知っているバス停じゃないぞ!)


 何でか分からないけど、俺はその瞬間……それを確信した。ぞわぞわと、背筋に怖気が走るのを実感した。とにかく、一刻もココを離れたい。その一心で外灯に照らされたポールへと戻り、時刻表を見やる。


 もし、まだバスが残っているのなら、そこで駅に戻ろう。


 最悪、駅で野宿することになっても構わない。このままここに居るよりはずっとマシだと思った……でも、駄目だった。今さっき俺が乗っていたバスが最後で、次のバスは一番早くても明日の10時まで待たなければならなかった。


(……そうだ、電話!)


 ぞわぞわ来る寒気に、ポールを蹴飛ばし掛けた足が止まった。次いで、俺は慌ててスマフォを見やって……良かった、電波がギリギリある。俺は急いで電話帳を探り……爺ちゃんへと電話を掛けた。


『――もしもし、○○ですが?』


 思いのほか、電話が繋がるのは早かった。多分、心細くなっていたのだろう。訛りのある爺ちゃんの声を聞いてその場にへたり込みそうになったけど、俺は震える足腰に力を入れて踏ん張った。


「あ、俺だよ、爺ちゃん! ○○だけど、分かる?」

『ん、おお、○○か? どんした、何時にねっても来ねえから心配しとったんだや……何かあったんか?』

「いや、どうも乗るバスを間違えたみたいでさ。おまけにバスの中で寝過ごしちゃって、慌てて降りたんだけど、ここが何処だか分からなくって……」

『何だ、そうだったんか。○○も高校生にねって立派にねったと思っちったっけ、まだまだ子供だにゃあ』

「うっせぇ……それでさ、こんな夜遅くに悪いんだけど、迎えに来てもらえることって、出来る? 戻ろうにも、戻りのバスが来るのが明日になるんだ」

『あーあー、分かっち。まだ飲んでねえけえ、迎えにいっとうやあ。んだや、バス停の名前は分かるけえ?』

「あ、ちょっと待って。今、確認するから」


 言われて、ポールを見やる……が、不思議なことに、ポールにはバス停の名前と思わしき部分が見当たらない。昼間のように明るいわけではないとはいえ、外灯の明かりがあるからすぐ見つけられると思ったのに……どこを見ても、バス停の名前が見つからなかった。


 おまけに時刻表も薄汚れているせいか、前の駅名がよく分からない。せめて、目印になりそうな建物があるかと辺りを見回すが……それも、駄目。有るのは、夜空へと突き出している幾つもの木々と、延々と続いている道路だけであった。


「ごめん、爺ちゃん。バス停のポールはあるんだけど、名前が見当たらん。おまけに、時刻表も汚れているせいで読み取れん」

『そうけ……んでも、それじゃあ迎えんけねえよ? いくら俺でも、それじゃあ○○が何処にいるんけぇ分からんだにゃあ』


 スマフォ片手に、状況を説明する。爺ちゃんの言い分も、最もだ。いくら長年住んでいるとはいえ、何一つ手がかりも無しに探し出せっていう方が無茶だろう。


 せめて、何か目印があれば……ここにしかない目印があれば、爺ちゃんならすぐに見つけ出して――。


「もし、そこの方?」

「ひっ!?」


 ――くれる。そう思った瞬間、背後から掛けられた声に、俺は誇張抜きで飛び上がった。


 振り返ればそこには、夜なのに赤いから傘を広げて肩にかけている、着物姿の女が立っていた。もう片方の手には……本でしか見たことないような、火の点いたランプを持っていた。


 年齢は……俺よりも確実に上だ。だが、おばちゃんというにはかなり若い。多分、30歳前後か……よくよく見れば美人顔だが、何だろう……俺は、違和感を覚えた。


 その違和感が何なのかは、分からなかった。でも、何故だろう……不思議と俺は、その人が怖いと思ってしまった。どうしてか、その人から離れたいと思ってしまった。


「あなた、ここらの子じゃないわよね?」

「え、あ、はい。そうですけど、あなたは……?」

「あいにく、私には名前がないの。もう何十年も前に失くしてしまって……思い出せないの」

「は?」

「私は、迎えて、お伝えし、見送るだけ……ごめんなさい、意味が分からないわよね。あなた、ここには里帰りで?」


 でも、離れられなかった。その前に謝られた上に、こちらを伺うようにして話し掛けられたから。薄気味悪いとはいえ、この人、地元の人っぽい。


 田舎の人は人間関係が濃密って聞くし、無愛想な態度を取ってから後で爺ちゃんに迷惑が掛かると嫌だし……「はあ、まあ、そうですけど」仕方なく俺はその人に向き直った。


「あなたは、ここに居ては駄目」

「は?」


 でも、直後に嫌になった。何だよこの人……。


「あなたは、ここに居ては駄目なの」

「……えっと」

「良く聞いて、あなたは、ここに居ては駄目。早く家に帰りなさい」

「あの……帰りたいのは山々なんですけど、バスが……」

「――バスに乗っては駄目」


 瞬間、女の人の声色が一段低くなった。表情は全く変わらないまま声だけ変わったからなのか、ぞくりと、背筋に震えが走るのを俺は実感した。


「いい、バスに乗っては駄目。絶対に、乗ってはいけないわ」

「へ、あ、あの……」

「あなたがここで降りられたのは、幸運なの。あのままバスから降りずに乗り続けていたら……とにかく、どんなことがあってもバスに乗っては駄目」

(……な、何を言っているんだろう、この人)


 無表情のまま、目だけが力強く俺に向けられる。自然と、俺の中にあった警戒心が強くなっていくのが分かる。もう、このまま背を向けて逃げようか……そんな考えが脳裏を過った。


「約束よ、はい、指切りげんまん」


 でも、抵抗する間もなく手を取られ小指をからめられ、指切りさせられた。こんな状況だけど、年上で美人な女の人と指を絡めるなんて経験、俺にはない。


 だからか、小指から伝わる女の人の体温と、ふんわりと嗅ぎ取れる安心するような匂いに、そうするタイミングではなくなってしまった。


「――あなた」

「は、はい」


 しかも、グッと顔を近づけられた。目の前に、女の人の瞳があって、鼻先があって、唇が……ある。後数センチ顔を近づければ……キスが出来るぐらいに。暗がりとはいえ、今にも鼻先が触れ合う寸前にまで近づき、ふう、と女の人の吐息を感じ取れた俺は……ぎくり、と身体が固くなってしまった。


「……いえ、何でもないわ。忘れて」

「え、あ、あの……」


 だから、そう言われて、目の前からその人の瞳が離れた瞬間……俺は、何というかその場に尻餅を突きそうになった。


「なに?」

「あ……いや、何でも有りません」


 そりゃあちょっとだけ期待しちゃったけどさ……俺、けっこうヘタレな性格していたんだな。大きなチャンスを逃してしまったかのような名残惜しさを感じながら、俺はその人の言葉に頷いた。


「たぶん、あなたがバスから降りられたのはコレのおかげよ」

「――え、あ、それ!?」


 でも、さすがに女の人が持っている物。『モンスターボールの玩具』を見て、俺は慌てて自分のバッグの中を漁り……思わず、「返してください!」声を荒げた。


 手癖が早いとか、そういう問題じゃない。いったい、どのタイミングでバッグから抜き取ったのか。「別に、盗りはしないわよ」あっさり返してくれたけれども、今のでもう、この人に対する印象は最悪になっていた。


「それ、けして手放さないようにしなさい。『良い力』ではないし、だいぶ力が衰えているけれども、『力』は『力』。もしかしたら、あなたを守ってくれるかもしれない」


 その人が続けて俺に言うが、もう、俺は聞く気はなかった。四の五の言わずにこの人から離れよう。本気でそう思った俺は、その人から一歩退いた。


「あなた、子供の頃に『怖い思い』をしたことあるでしょ」

「え?」

「とぼけたフリなんて、しなくてもいいわよ。あなたを見たら、何となく分かるから」


 けれでも、俺の足は止まった。「あるいは、思い出さないようにしているのかしら?」そう言われた瞬間、ヒヤリと、嫌な予感を俺は覚えて。


「何であれ、今、その時と同じようなことが起きている。そう、考えて貰ったら分かり易いかしら」


 俺の脳裏に、あの時の……子供の時に経験した、あの『人形』の姿が蘇った。瞬間、俺の中にあった怒りは消えて、足元がフッと消え去ったと錯覚してしまう程の……怖気が、背筋を走って行くのを実感した。


「……小指が痛くなったら注意しなさい。『あなたに害意を持った、良くないモノ』があなたに近づいている証拠だから」


 反射的に、俺は自分の小指を見た。何の変哲もない、見慣れた自分の小指だった。


「よ、良くないモノって、何ですか?」

「良くないモノは、良くないモノよ。いいわね、痛くなったら、注意しなさい。これも、あなたにあげるわ。何も無いよりはマシでしょう」


 そう言うと、その人は持っていたランプを差し出して来た。断ろうかと思ったが、気付けばもう受け取った後で……注意しろって、いったい何をどうやって……何とも不明瞭なことを。


 そう思う俺を他所に、その人は俺から視線を外し、バス停の向こうを指差す。ちょうどその方向は、俺が向かってきた方向で……つまり、俺が向かおうとしていた方向からは、逆方向であった。


「このまま、この道をまっすぐ進みなさい。けして、ここに戻ろうと考えてはいけない。ずっと、ずっと、虫の声が聞こえるようになるまで、歩き続けなさい」


 虫の声……言われて、俺は辺りを見回す。そういえば、虫の声がしない。俺が住んでいる場所ならともかく、こんなに緑がある場所で虫の声が全くしないって……いったい?


「さっきも言ったけど、バスはもちろん、途中、車でも何でも、乗り物に乗ってはいけないわ。親切に乗せて行ってあげると言われても、絶対に断りなさい」

「いや、だから何で……」

「いいわね、絶対に、絶対に断りなさい……分かったなら、返事!」

「は、はい!」


 でも、疑問を尋ねる余地はなかった。無表情ながらも声色だけは怖くなっている女の人に背中を叩かれた。けっこうな痛みに思わずたたらを踏んで、つんのめる。


 ――かちん、と来た。


 恐怖がそうさせたのか、怒りが湧いてくるのが分かる。女の人に手を上げるつもりはないけど、それでも一言ぐらい言わねば気が済まない。そう思った俺は、「あの、さっきから――」女の人へと振り返った――。


「何なんですか――って、あれ?」


 ――のだが、その時にはもう、そこには誰もいなかった。あるのは、外灯に照らされたバス停のポールだけ。影も形も、気配や足音すら、そこには何も残っていなかった。


「…………」


 言葉が、出なかった。ああ、『いつもの幻覚』かと錯覚しかけたが、手に持ったランプを見れば……今しがたのそれが、現実であることを教えてくれる。けれども、それ以外は何もなく……ふと、その人から奪い返した『モンスターボール』に、意識が向いた。


 ……脳裏を過ったのは、あの日の夜のこと。あの日、俺だけが知っている……あの人のこと。


 あの人のおかげで俺は……俺たちは、あの『人形』から逃れられた。そのお礼を言いたくて、アレから幾度となくあの人を呼んだ。どうしても、もう一度会いたいと思って。


 ……でも、結局は無駄だった。


 このモンスターボールの玩具が開かれたのも、あの時が最後。あの後は、まるで内側から接着剤で固められたかのように開くことが出来なかった。俺はどうしてもあの人に会いたくて、ペンチでこじ開けようとしたり、火で炙ったり、溶剤で溶かそうとしたりと、思いつく限りを徹底的に尽くしたが、結局開けることは出来なかった。そのせいか、あの人とも再会することはなかった……と。


「あ、電話……」


 ふと、今になって。俺は、握りしめていたスマフォのことを思い出した。


 そういえば、急に声を掛けられてそのままだったけど、爺ちゃん、通話を切ってしまっただろうか。まあ、切れているだろうなあ……ポケットに入れたボールを確かめつつ、「もしもし、爺ちゃん?」いちおうは確認した。


『おー、やっと繋げえたか』


 意外な事に、爺ちゃんはまだ通話を切っていなかった。そう長い時間ではなかったとはいえ、けっこう気が短いことがある爺ちゃんが……俺は軽く驚きを覚えた。『急になんも言わんくなったから、何かあったと思ったでねえか』でも、爺ちゃんの言葉を聞いて、「ごめん、ちょっと野良犬が出て驚いたから」俺は慌てて言い訳して……そこから、悩んだ。


 だって、あの女の人は、乗り物には乗るなと強く俺に言ったのだ。どんなことがあっても乗り物は使わず、歩いて行けと何度も念押ししたのだ。


 果たして、ここで爺ちゃんに助けを呼んで良いのか。爺ちゃんがここに来ると言うことは、車に乗ってくると言うこと……それはつまり、あの女の人の忠告を無視することになってしまう。


(信じて……いいのだろうか?)


 考えてみればあの女の人の名前も知らない……不安が、過る。けれども、ポケットに入れたボールに目を向ければ……信じた方が良いかもしれない、と、思えて来てしまう。


『おーい、○○、どんした? また黙っとるんけぇ、犬さ出てきたんだか?』

「え、あ、うん、そう。でも、もう大丈夫、追い払ったから」

『そうけぇ、そんならええんだが……んで、迎えさどうすっけぇ?』

「あー、それなんだけどさ……」


 でもまあ、どちらにしても、だ。ここが何処だか分からない以上、迎えに来てもらうなんて出来ないし、土地勘もない。結局は、あの女の人の言葉に従う他ない。


『ほんじゃあ迎えに行くけぇ、待っとうよお』

「は? どうやって?」

『んなもん、車に決まっとうよお』

「いや、そうじゃなくてさ」


 ――その、はずなんだけど。俺は、爺ちゃんの言葉に思わず目を瞬かせた。迎えに来るって、だからさあ爺ちゃん……俺の話を聞いていないだろ。


「ここが何処だか分からんって、さっき言ったじゃん。どうやってこっちに――」

『地蔵がいっぱいあるバス停だろ』

「――来る、って、え?」

『地蔵があるバス停なんてぇ、『終点』しかねんだにゃあ』

「……え?」


 一瞬、俺は通話口から聞こえてきた爺ちゃんの言葉を、理解出来なかった。ぽかん、と自分でもそうだと分かるぐらいに大口を開けたまま、俺は呆然と仁ちゃんの言葉を頭の中で反芻し。


『迎えに行くけぇ、待っとうよお』


 その言葉を最後に、プツリと電話が切れた。と、同時に、ハッと我に返った俺は、呆然と今しがた通話がキレたスマフォを見つめた。


(俺、爺ちゃんに地蔵の話なんてしたっけ? それに、終点まで来たなんて一言も……)


 何故だろう……俺は、その瞬間、嫌な予感を覚えた。何故だろう、心臓が、これまでそうなったことがないと分かるぐらいに激しく高鳴っているのが分かる。それが、何故なのかは自分でも説明は出来ない。


 けれども俺は、とりあえず爺ちゃんに断りの電話を入れようと思った。早くしなければと、スマフォの着信履歴へと操作し「え!?」て、画面を確認した瞬間……声をあげた。


 何故ならば、その画面に映った着信時間は……今から、10分前。つまり、このスマフォは10分前に通話が切られていたということを示していたからだ。


 それは、あまりに可笑しい話であった。だって、爺ちゃんとはつい今しがた、話をしていたのだ。だから、スマフォの経歴は今と同じ時刻……遅くとも、1分か2分前で表示され……と。


「……?」


 不意に……聞こえてきた『音』に、俺は顔をあげた。『音』は、女の人が指し示した方向とは逆の……バスが向かって行った先の方から聞こえて来る。明かり一つ見えない暗闇の向こうから、薄らと……本当に、耳を済ませなければ聞こえないぐらいに小さい『音』であった。


 ……何だろうか?


 俺は、背筋を走る怖気に耐えながら、そちらにランプを向ける。感覚的な話だけど、『音』が少しずつ大きくなっていくような……いや、待て、これって……あっ!


「――車だ!」


 『音』の正体に気付いた俺は、走った。もちろん、行き先はさっきの女の人が指差した先。全速力で……千切れんばかりに両足を動かして、俺は走った。


 距離にして、せいぜい500メートルだろうか。野球を辞めたとはいえ、まだまだ体力には自信があった。けれども、それでも気づけば一歩も動けないぐらいに身体中が重く、頭が焼けそうに火照り、破けそうな程に高鳴っている心臓の鼓動の音が、嫌に気に障った。


 足を止めてはいけない。そう、俺の頭の中でその言葉が警報のように何度も鳴り響いたけど、無理だった。気づけば俺の足は動くのを止め、眩暈を覚える程に大きく息を荒げ……ゆっくりと、振り返って――絶句した。


 そこに……俺が今しがた居たバス停に、一台の『車』が止まっていた。それは、見覚えがあった。爺ちゃんの愛車の白のセダンだ。


 ――もしかして、本当に爺ちゃんが来たのか。


 そんな事を考えたと同時に、運転席の扉が開かれた。グッと目を凝らした俺は……中から出てきた爺ちゃんの姿に……思わず、はあ、とため息が零れた。


 ……。


 ……。


 …………深々と、それはもう深々と。息が苦しいことすら忘れてしまう程に心から、大きくため息をついた。何だか……自分がとても、馬鹿をやっていた気分であった。


(何だよ、俺の気のせいかよ……爺ちゃん、地元だけあってどの路線のバスに乗ったか見当が付けられたんだな)


 来るのが随分早かったけど……もう、いいや。どうせ、運転しながらこっちに来たんだろう。爺ちゃんが来たんなら、後は帰るだけだ。


 そう思った俺は手を上げて、大きく息を吸って……爺ちゃんを呼ぼうと大きく口を開い――。


「いっ、つう!?」


 ――た、瞬間。声をあげる直前に走った指先からの強い痛みに、俺の声は止まった。あまりの痛みに、「――んだよ!」俺は舌打ちして小指を見て――小指を、見て?


(小指に痛みが来た時は……俺にとって『良くないモノ』が来ている……って)


 ハッと、何かが俺の中を過った。改めて爺ちゃんを見つめる……一見するばかりでは、記憶にある爺ちゃんそのまんまの姿だ。どこも、おかしいところは……いや、待て。


(あれ……ちょっと……なんか、等身が……デカい?)


 そう、違和感を覚えれば、もう俺はソレを爺ちゃんとは思えなくなっていた。傍に止められた車と比べて、外灯に照らされた爺ちゃんの身体が大きいような……いや、違う!


(頭が……デカいんだ!?)


 気づいた瞬間、俺はその異様さに足が震えるのを実感した。まるでバランスボールのように大きな頭を忙しなく動かしながら、バス停の辺りを見回しているソレ。よく見てみれば、その動きもどことなく変だ。


 いったい、何を探して……考えるまでもない。ソレは、俺を探しているんだ。バス停に待っているはずの俺を、そいつは探しているんだ……逃げなくては。


「――ひっ!」


 そう、思った瞬間、ソレがこちらを向いた。俺は、情けないが……失禁しかけた。と、言うのも、こちらを向いたソレの顔が……爺ちゃんのソレではなく、人間のソレでもなかったからだ。


 ソレが、こちらを……俺の方を見て、ニヤリと笑った。暗くて、はっきりとは見えなかったけど、それだけは不思議と分かった。


 小指からの痛みがどんどん強くなっていくのを感じながら、俺は地面に両足を張りつけられてしまったかのようにその場を動けないでいる。


 逃げなくては、早くソレから逃げなくては……と思いつつも、どうしても俺はその場から動けなかった……と。


 不意に、ソレが頭を下げた。いったい何だ、と思ったが、疑問はすぐに解けた。小さい身体はそのままに、少しずつ大きくなっていく黒い丸……それはつまり――頭だけが……こっちに、向かって来ている!?


「――っ、――っ!!」


 それを理解した瞬間、気付けば俺は、走っていた。少しでも遠くに、ソレから逃げる為に……悲鳴をあげて、滅茶苦茶に手足を振り回して逃げ出していた。


 後ろを確認する余裕なんて、全く無かった。いや、むしろ、振り返ろうという考えすら頭になかった。とにかく、逃げなくては命が危ない。死にたくない、死にたくない、死にたくない、ただ、それだけを頭の中で叫びながら、俺は走り続けた。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 でも……後ろから聞こえてきた声に、俺は泣いた。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 近づいて来ている。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 少しずつ、確実に。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 俺のすぐ後ろにまで。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 ――迎えに行くけぇ、待っとうよお


 嫌だ、やだ、やだやだやだやだやだやだやだやだ!


 走った。俺は、とにかく走った。そして、願った。とにかく、全てに願った。誰でもいい、助けてくれ、俺は死にたくない、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、たすけ――。


「迎えに行くけぇ……待っとうよお」


 すぐ、耳元から聞こえてきた声。視界の端に映った、巨大な頭に。


「――あ、うあ、うああああああああああ!!!!!」


 心のどこかで、『ああ、俺は死ぬんだ』と悟った瞬間。俺は、かつてないぐらいの大きな悲鳴を上げていた。


 ――。


 ――。


 ――――だから、俺は、その瞬間にて目の前で起こった光景を理解出来なかった。


『やろーぶっ殺してやる』


 ふわりと、俺を庇うように立ち塞がった『小さい何か』。俺がそれに目を向ける前に、その『小さい何か』が迫る巨大な頭を何と、苦もなく蹴り飛ばした。


 ――ぎゃぁあああああ。


 反射的に耳を塞ぎたくなるほどの、大きな悲鳴。それは、確かに爺ちゃんの声だったが、爺ちゃんではなくて。


『のじゃー』


 対して、気の抜けた可愛らしい声と共に、ふわりと俺の前を漂ったのは、『小さな何か』。その姿は、俺が依然あの人から貰ったボールに入っていた、あの小さな……ああ、まさか。


 何が起こったかなんて、考える余裕なんてなかった。ただ、何かが起こったのだと分かる光景に、俺はわけが分からなくなっていた。そして、あっ、と両足が絡まったのを認識した時にはもう、俺は強かに地面を転がっていた。


 スライディングの痛みは、慣れている。でも、こんな薄着で、しかも整備されていない砂利道を滑る痛みは……かなりキツイものだった。


「――っ、いっつぅ……」


 無意識に、ランプを壊さないように庇ったせいだろう。バットで殴られたみたいに体中が痛んだが、ランプは無事で、まだ日も消えていない。何とか、身体を起こす。ぐらぐらと揺らぐ頭を振って……振り返った。


『のじゃー』

「お前、あの時の……」

『のじゃ、のじゃ』


 そこには、見覚えのある顔があった。かつて、あの人から貰ったボールに入っていた、『小さいあの人』が、ようよう元気そうだな、と言わんばかりに俺の眼前をふわふわと漂っていた。


「お前が、助けてくれたのか?」

『のじゃー』

「さっきの……アレは、お前が何とかしてくれたのか?」

『のじゃー』


 ……YesなのかNoなのか、分かり難い。とりあえず辺りにランプの明かりを差し向けるが、巨大頭は見当たらない。見れば、遠くに見えるバス停の傍にはもう、車は居なくなっていた。


「……ありがとう、これで、助けて貰ったのは二度目だな」

『のじゃ!』


 えっへん、と胸を張る小さいそいつの姿に、思わず笑みが零れる。次いで、もしやと思って手さぐりにボールを探る……やはり、そうだ。これまで何をしても開かなかったボールが、開かれていた……と。



 りんりん、きんきん、りゃんりゃん、きぃきぃ、りーりー、きーきー。

 りんりん、きんきん、りゃんりゃん、きぃきぃ、りーりー、きーきー。

 りんりん、きんきん、りゃんりゃん、きぃきぃ、りーりー、きーきー。



「――うぉ!?」


 前触れもなく。本当に、何の予兆もなく鳴り響いた大音量に、思わず俺は肩をビクつかせて背中を丸めた。さっきのこともあって、思わずまた駆け出しそうになったが、『のじゃー』小さいそいつの声で我に返った俺は、ゆっくりと顔をあげ……え、と目を瞬かせた。


 何故ならば、俺の前には先ほど俺が見ていたバス停とは打って変わって、だ。風よけの屋根に小さい座席、ポールと外灯があるだけの簡易な作りではあるが、全体的に真新しいバス停が、あったからだ。


 ……今しがたまで、目の前には何も無かったはずなのに。虫の声も聞こえず、真っ暗な闇がずっと続いていた……ん、虫の声……あ。


 聞こえてきた大音量の正体が、あの女の人が話していた『虫の声』であることをようやく察する。それに思い至れば、ゲームセンターよりもずっと騒がしい音色が、喧しくそこら中から鳴り響いているのが分かった。


「ここ……さっきと、違う? 俺、戻って来られた……?」


 言葉には出来ないが……何だろう。雰囲気というか、気配というか……何か、目に見えない何かが無くなっていると、俺は感じた。気になってバス停へと振り返ってみれば……そこには、何も無くなっていた。


 そう、何も無い。バス停どころか、そこには小屋すら見当たらず、外灯一つ見当たらない。真っ暗な道が続いているばかりで、今しがた俺が見ていたはずの光景は……全部、消え去っていた。


「…………」

『のじゃー』

「あ、ごめん」


 ぐいぐいと手を引っ張られる感覚に、俺は歩き出す。そのまま、真新しいバス停へとたどり着いた俺は、外灯に照らされたポールを見て……深々とため息を吐くと。


「すまん、ちょっと休憩していっていいか?」

『のじゃ?』

「何か、どっと疲れが出てきて……いいかな?」

『のじゃー……のじゃー』

「ん、何だ、急に顔を近づけて」

『……のじゃ』

「そして、離れる……あの女の人もそうだけど、俺の顔に何か付いてんのか? もう、疲れたから座るぞ」


 そう、俺は小さいそいつにお願いした。幸いにも、そいつは嫌がることなく俺の言葉を聞き入れてくれたが、今の行為は何の意味があったのか。まあ、何でもいい……俺は有り難くそのバス停の座席に腰を下ろす。


 いちおうは、気を付けて火が点いたままのランプを隣に置いて……さっきとは別の理由で深々とため息を吐くと、夜空を見上げる。


 そこには、俺が住んでいる場所では絶対に見ることが出来ない、凄い光景が広がっていた。まるで、宝石をちりばめたかのような世界を前に、俺はしばしの間見入っていた。


 見入っていた。


 見入って……


 見て……。


 み……。


 ……。


 ……。





 ……。


 ……。


 …………ふと、目が覚めた。


「……?」


 ぼんやりとした頭で、時間を確認する……どうやら、数分ばかり眠っていたようだ。辺りを見回せば、真新しくも薄汚れた屋根に壁。視線を前に向ければ、外灯に照らされたポールが目に留まった。


 こんな時間まで点いていることに意味があるのだろうか。そんな疑問が脳裏を過ったが、多分、目印の役割もあるのだろう。


 ここら辺は外灯なんて数える程度しかないし、どこへ移動するにしても基本となる足は車だし……一つ欠伸を零した俺は、傍に置いたランプを手に取ろう――として、おや、と俺は首を傾げた。


「……ん?」


 出かけていた欠伸も、止まった。見れば、先ほど確かに点いていたはずのランプの灯が、消えている。もしや落としたかと思って席の下を見るが、それらしい跡はない。誰かに消された……いや、こんな時間に、こんな場所に居るなんて俺ぐらいだ。


 まあ、無くても外灯の光が届いているから大丈夫だけど……あれ、そういえば。


 俺は、バス停の中を見回した。さっきは気付かなかったが、『小さいあの人』が居なくなっている。もしかしてボールの中に戻った……そう思った俺はボールを確認するが、開かれたままだった。まさか……眠っている間に消えてしま――って!


「――っでぇぇええええええ!!!!????」


 突然だった。小指に、激痛が走ったのは。いや、激痛なんてものじゃない。それは、激痛なんて生易しい言葉に収まるようなものじゃなかった。


 まるで、ペンチで爪先から1mmずつ挟み潰された後に塩水をぶっかけられたかのような、耐えがたい痛み。あまりの痛みに、俺は腹の底から声を張り上げて、それでも誤魔化しきれずにその場に蹲った。


 ――おっと、済まぬ。どうやら、いつもよりもっと『力』を押さえねばならぬようじゃな。


 ……その、時であった。俺の耳に、どこかで聞いたことがある女の声が届いたのは。途端、あれほど強烈だった痛みが、ピタリと止まった。


 あまりの変化に、えっ、と声がした方に顔をあげる……が、そこには誰もいなかった。ただ、夜の闇だけが、虫の声と共に広がっているばかりであった。


 ――話はあいつから聞いておったのじゃが、これで押さえていても反応するか。いちおう、これは邪魔になりそうじゃから、術は解いておくのじゃ。


 けれども声は確かに、何もない夜の闇から聞こえて来ていた……と。不意に、手が何かに掴まれた。すると、あっ、と俺が抵抗する間もなく小指にチクリと痛みが走った……次の瞬間にはもう、引っ張られる感触がなくなっていた。


 ――さて、立ち話もなんじゃ。もう、痛みもないじゃろう、お前もこちらへ座るがよい。


 その言葉と共に、今しがた俺が座っていた席の隣が、ぎしり、と軋んだ。


 誰かが……座ったのだ。目に見えない、『何か』が。そう、俺は直感した。でも、俺の目には何も映っていなかった。席の上には空間だけが有って……俺は、どうしたものかと悩んだ。


 ――待て、先ほどからお前……もしや、ワシの姿が見えておらぬな? そうであろう?


 多分、俺が黙っていた時間は、時間にしてそう経ってはいないと思う。けれども、ジッと大人しくしている俺の耳にそんな声が聞こえてきた……と、思ったら、腕を掴まれた。そして、またもや抵抗する間もなく引っ張り上げられると、席へと座らされた。


 強引ではあるけど、痛くはない。そして、不思議と怖さは感じなかった。展開に付いて行けずに呆然としている俺を他所に、こつん、と額に何かが当たったのが分かった。


 ――良いと言うまで、目を瞑れ。


 言われて、俺は素直に目を瞑った。逃げようとか、そういうことは考えなかった。


 ――なんと……まさか……これは悪い事をしてしまったようじゃな


 悪い事って、何だろう。そう思っていると、ふわりと、何か温かいものが両目を覆うように被せられた感覚が伝わってきた。直後、パチリ、と、目の奥で何かが火花のように弾けた……ような、気がして、するりと、目を覆っていた温かいものと、額に触れていた何かが離れたのを感じた。


 ――よし、もう良いぞ。目を開けよ。


 言われて、俺は目を開けた……瞬間、俺は……俺は、目の前の光景が信じられなかった。


「あ……あ、あなたは……!」

『久しいな、童よ。元気そうで何よりじゃ』


 何故なら、俺の目の前には……『あの人』が居たから。あの時、あの『人形』から俺たちを守るボールを与えてくれた……あの、不思議な出で立ちの、何時かお礼を伝えたいと思っていた『あの人』が、立っていたからだった。


「あ、あの、お、俺、あの時の、助けてくれた――あの、あの時は本当に――」


 こんなチャンス、二度とない。気づけば俺は、『あの人』である『彼女』にお礼を伝えようとしていた。舌がもつれて上手く言えないことを歯痒いと思いながらも、何とか頑張った。


『落ち着け。あの時とは違い、すぐに消えたりはせぬのじゃ』

「あ――す、すみません。でも、俺……いつか、お礼を言いたいとずっと考えていて……」

『分かっておる、安心せい。ワシも、まっすぐ育ったお前を見て、嬉しい限りじゃぞ』


 そう彼女は笑みを浮かべると、あの時と同じように6本の腕(正確には、盾を持っていない4本の腕だけど)を巧みに使って暴走する俺を押さえると、そっと俺を席に座らせた。


 ああ、そういえば、あの時もこんなふうにされたんだっけ。でも、あの時は寝起きにコレだったから、何が何だか分からなかったなあ。


 何気ない行為に、懐かしさを覚える。あの時は布団の上で、今はバス停の席。場所は変わっても、記憶の中の『あの人』と、目の前に居る彼女に、全く違いが見つからない。


 それを、俺は……特別、不思議には思わなかった。


 たぶん、この人は『そういう人』で、『そういうモノ』なのだろう。それが、何となく……言われなくても分かっていたから、なのかもしれない。


「あの、そういえば俺、まだ名前を聞いていな――んむ」

『名を口にしてはならぬ。面倒じゃから理由は省くが、ワシに名を伝えるのも、尋ねるのもしてはならぬ』


 だから俺は、彼女の隣に腰を下ろし、そっと口を彼女の手に塞がれて。『分かったな? 分かったなら、お互いに名を尋ねるのも名乗るのも駄目じゃぞ』そうやって改めて挨拶を交わした後でも、彼女に対して何ら恐怖を覚えなかった。


「でも、どうして?」

『ん、何がじゃ?』


 けれども、疑問はあった。果たして尋ねても良いものなのか不安を覚えたが、『気にせず話せ、若い内の黙秘は損じゃぞ』そう促してくれたので、俺は、それじゃあ、と彼女に尋ねた。


「今まで一度だって俺の前に現れなかったのに、どうして今になって来てくれたんですか?」

『ああ……そのことか。ほれ、以前の時に言うたじゃろ。『心から強くワシに何かを頼みたいと願った時、力を貸す』とな。じゃから、ワシが来たわけじゃ』

「でも、それなら……」


 今までだって、何度も会いたいと願っていたのに。


 その言葉を、俺は口には出さなかった。でも、『心から強く願うというのはな、童よ』彼女が続けた言葉に、俺は納得した。


『相手の迷惑など考えない程の、強い想いじゃよ。ほんの一片の混じり気も、そこには許されぬ。お前がワシに会いたいと願ったとしても、その願いの中にほんの少しでも躊躇が混じっていれば、それはもはや強い願いではない』

「躊躇って、そんな……」

『誤解するでない。お前が持っていた躊躇とは、すなわち『優しさ』よ。ワシを呼ぶこと、その願いが、ワシに対する負担になるのではないか……少しでもそう考えた時点で、例え百万回願ったとしてもワシには届かぬ』

「そうなんですか……え、でも、それじゃあ今は?」

『死を意識して、とにかく助けて欲しいと願ったじゃろ? そこに、躊躇はない。じゃから、ボールに封じ込めていた『力』が再び形を作り、お前を守った。そして、ワシが様子を見にここへ来た……そういうことじゃよ』

「なるほど……って、そういえば!」


 ボール、の言葉に、俺はあいつのことを思い出した。彼女がいるのだから、あいつも傍にいるはず……と思ってバス停内を見回すが、そこにあいつの姿はなかった。


『あの『式』ならば、ワシの中に戻したぞ』

「え?」


 彼女の言葉に、俺は目を瞬かせた。どういうことだろうと首を傾げると、『分かり易く言うとだな』彼女は続けて説明してくれた。


『姿かたちは人の成りをしておるが、アレの中身はワシの一部。じゃから、心配せんでも良いぞ。放っておいても、いずれはワシの中に戻ってくるようにしておいたからのう……それよりも、問題なのは――お前じゃ』

「え、俺……ですか?」

『うむ、もっと正確に言うなら、お前の……その、『目』じゃ』

「え?」


 瞬間、俺は……ひゅう、と喉を鳴らした。脳裏を過ったのは、例の病気のこと。「俺の『目』が、ど、どうかしたんですか?」俺は、家族以外には誰にも話していないのに。


『……ワシもこうしてお前と再会して初めて分かったことなのじゃが、ワシはお前に謝らなければならぬことがある』


 疑問を覚えていると、彼女はそう言った。


 いったい、何なのだろう……その、謝らなければならないということは。気になって尋ねてみるが、よほど言い難い内容なのか、彼女はしばしの間唸るばかりであった。


『……実はな、お前が持っているそのボールなのじゃが、あれは一度でも使った後は、頃合いを見てワシの下に戻るよう術をかけておってな。本来ならば、とっくの昔にワシの下へ戻っているはずなのじゃ』

「え?」

『これは憶測に過ぎぬのじゃが……ワシ自身を呼び寄せることが叶わぬ儚い願いとはいえ、願いは願い。ワシとの繋がりを断ちたくないと願ったゆえに、あのボールはワシの下へ戻らずにお前の下に留まり続けていた。『式』の懐き様を見る限り、よほど純粋な願いだったようじゃな』

「……そ、それがいったい?」

『まさか、このような形で影響が出るとは思わなんだ。どうも、あのボールにワシが込めていた『力』の一部が漏れてしまっておったようでな。おそらく、こじ開けようとしたか何かしらされたせいだと思うのじゃが……いや、これは言い訳じゃな』


「……え?」


 少しの間、俺は彼女の言葉を理解出来なかった。


『お前はそれをこれまで常に傍に置いておったのじゃろう? それこそ、肌身離さずずっと……そのせいで、おそらくお前の身に何かしらの影響が出ていると思うのじゃが……心当たりはあるかのう?』

「――っ!?」


 そう言われた、その瞬間。脳裏を過った『例の病気』に、俺は……言葉が出なかった。どうか、外れていてほしい。そう願いながら、「ぐ、具体的には、どういう影響が出るんですか?」辛うじて俺はそれだけを尋ねていた。


『ふむ、具体的には、ワシのようなものが見えるようになってしまうと言ったところかのう。場合によっては、『幻覚』と勘違いしてしまうやもしれぬがな』

「……あ、の、頭痛とか、そういうことは?」

『頭痛か、それは分からぬ。じゃが、確証を持って断言は出来ぬが、場合によっては肉体への影響も起こりうるじゃろうな……どうじゃ?』

「……さ、さあ、どうでしょう」


 だが、現実は……非情であった。そして、そんな現実を前に俺は……俺は……完全に、言葉を失くしていた。いや、だって……そうだろう。


 これまで俺を苦しめ、野球を辞める理由となった、この『病気』のあんまりな原因が、まさか彼女だったなんて。よりにもよって、俺の命の恩人でもある彼女のせいだなんて……俺は、夢にも思っていなかったんだ。


 俺がこの病気……『原因不明の頭痛から併発した視覚障害』という強引で無理やり名付けられた病気を発症してから……かれこれ、3年とちょっと。


 その間、俺は本当に苦しんだ。意識を失うこと事態はごく稀だったが、それでも周囲に感づかれないようにするのにはいつも苦心した。


 試合中に『痛み』を覚えた時には、周りを誤魔化す為に歯を食いしばり過ぎて、歯にヒビを入れたこともあった。腕を抓って『痛み』を誤魔化した時には、力を入れすぎて腕から出血してしまい、大事になったこともあった。


 はっきり言って、俺はこの『病気』を恨んでいた。心の底から、憎んでいた。もし、この『病気』が形となって現れたら、俺は間違いなくそれを殺していたぐらいに……俺は、この『病気』を嫌悪していた。


 けれども、ああ、なんてこった。まさか、その『病気』を引き起こしたのが彼女から貰ったボールだったなんて。しかも、そのボールを留めさせたのは俺で、無理にこじ開けようとしたのも俺で、それが原因で……それはつまり、ああ、つまり……俺じゃないか。


(……ああ、何だよ、マジ何なんだよ……こんなんアリかよ)


 何だか……急に、肩の力が抜けた。いや、これはもう肩の力とか、そういうレベルじゃない。まるで魂が抜けたかのように身体から力が抜けて……気づけば俺は地面にへたり込んでいて、『お、おい、どうしたのじゃ?』また彼女に引っ張り上げられて、席に横たわっていた。


 心配してくれているのだろう。それが、よく分かる。きりっとした目じりを垂れ下げた彼女の視線が、俺の全身を行き来する。途中、彼女の温かい手が額に当てられて……俺は、もう誰とも顔を会わせたくなかった。


『……済まぬ。どうやら、ワシはお前に長い苦しみを与えてしまったようじゃな』

「……っ」

『ワシはただ、お前に何か報いてやりたかっただけじゃ。けして、お前を苦しませようなどとは思って……いや、これも、今ではただの言い訳か』

「……っ」


 彼女の言葉が、グサリと俺の中を貫いた。分かっている、彼女にそんなつもりが無かったことぐらい!


 そう、俺は言いたかった。でも、俺はどうしてもそれが言えなかった。だから、俺は両手で顔を隠して、せっかく会いに来てくれた彼女から顔を背けるしか出来なかった。




 ……。


 ……。


 …………そのまま、どれぐらい俺はそうしていたのかは分からない。


『本当に、済まぬ。今更な話じゃが、お前の『目』を治そうと思うが……良いか?』


 ただ、ようやく頭が動く程度に俺が落ち着いた頃。それを見計らったかのように提案してきた彼女の言葉に、俺はようやく身体を起こした。


「……治るんですか? これが?」


 それは、俺がこの『病気』を発症してからこれまで、幾度となく聞きたいと思っていた言葉だった。


『うむ、治る。じゃが、治すのはワシではない。かつてお前から『ぽけもん』を譲り受けた、ワシの友人よ。あやつなら一晩で治せると、先ほど思念を受けたのじゃ』


 ポケモン……ああ、もしかして、あの時のゲームか。


 懐かしい単語に、俺は思わず笑みを零した。


(何だか今日は昔のことを思い出したり、変な化け物に襲われたり、あの人に再会出来たり、色々あった一日だったな)


 でも、最後にこうして『病気』が治るのなら、むしろ今日は幸せな一日だ。


 涙で彼女の顔色は伺えなかったが、それでも声色から、彼女が俺を気遣っているのが……痛い程よく分かった。


『これからお前の『目』を治療する為に、一時的に場所を移そうと思う。そこは……まあ、友人の隠れ家みたいなものでな。先ほど、もう準備を終えたとワシに念が送られてきおった……良いか?』


 俺は、頷いた。


『処置は、明日の朝まで掛かる。もちろん、終わったら、お前を元のこの場所に戻す。それまで、少々苦い薬を飲んでもらうし、処置が終わるまで耐えてもらう必要があるが……良いか?』


 俺は、頷いた。とにかく、この『病気』が治るのなら、また野球を始められるのなら、苦い薬だろうが何だろうが耐えてやる。いや、耐えられる……俺は、自分から彼女の手を取った。


 思っていたよりも小さい……初めて握った彼女の手は、温かかった。『覚悟が出来たなら、目を瞑れ』でも、それに意識を向ける前にそう言われて、俺は目を瞑った。


 途端、ぐらりと、足元が揺れた……ような気がした。


 あまりに一瞬のことで、俺がふらついたからなのか、あるいは地面が揺れたからなのか、判別できなかった。


 ――。


 ――。


 ―――――そして。


(……臭いが、変わった?)


 古い建物の中にいるような、甘ったるいような、くん、と鼻先に感じた臭いに違和感を覚えた、その直後。


『よし、目を開けても良いぞ』


 彼女の言葉に、俺は恐る恐る目を開けた。体感だけど、たぶん、10秒も目を瞑っていなかったと思う。だからと言えば変かもしれないけど、本当に場所が移っているのだろうか、と心配になった。


「お、おお……」


 でも、その心配は憂鬱であった。俺の目の前に広がっていたのは、長閑な田舎の風景でもなければ、バス停でもない。壁や床に設置された燭台のローソクに照らされた、和風……に近いイメージが漂う、ほんのり薄暗い部屋の中であった。


 振り返れば、そこには……爺ちゃん家にあるような引き戸がある。たぶん、あれが出入り口というか、玄関だ。そう、俺は直感した。


 視線を戻せば、俺が立っている玄関から一段上がって、畳が敷き詰められた部屋の向こう、4枚の襖で遮られた壁。その奥にも部屋が続いているのが、分かった。


『靴を脱いで上がるのじゃ。なあに、緊張せんでもよい……全部、あやつがやってくれるからのう』

「あやつ……?」

『先ほども言うた、ワシの友人よ。改めて言うておくが、名を伝えてはならぬし、尋ねてもならぬし、呼んでもならぬ。やり難いかもしれぬが、そこは我慢するのじゃ』


 彼女からそう言われて、俺は、ああそうだった、と思い出す。理由は分からないが、そういうものだ、と納得した俺は、促されるがまま靴を脱いで上がる。『そのまま向こうの部屋に行くのじゃ』一つ頷いて、俺は襖へと手を掛け……気配が付いてこないことに、あれ、と振り返った。


『ワシが行けるのは、ここまでじゃ』


 見れば、彼女はその場所から一歩も動いていなかった。


『そこから先は、あやつの『結界』によって生み出された『領域』でな。下手にワシが入ることは出来ぬのよ』

「え、あ、あの……」

『そう、不安になるでない。ワシは外からこの空間を維持しておるから、どうしても嫌になったり辛くなったりしたら、何時でもそこから出てくればよい』


 そう言うと、彼女はあっさり出入り口らしき玄関から、その先に続いている暗闇の向こうへと出た。そして、ばいばい、という感じで最後に俺へと手を振ると、後ろ手で戸を閉めてしまった。


 ……静かに、なった。


 いや、先ほどからずっと静かだけど、今の静けさは……ちょっと違う。少しばかり心細くなったけど、俺は襖の取っ手に指を掛け……えい、と一思いに開けた。


「――ようこそ、おいでくんなまし」


 その、直後。畳で敷き詰められた部屋の中央。そこに正座していた、頭に色々な簪を挿して豪華な着物を着ている女の人が、俺と目が合うなり、俺に向かって深々と頭を下げた。




 ……。


 ……。


 …………え、なに……これ……。


 想像していたのとは全く違う光景に、言葉が出なかった。いや、だって、まさか頭に(正確には、髪に、だろうけど)簪がいっぱい刺さった女の人が出て来るなんて、誰が想像するよ。


 おまけに……この部屋の内装も、何だか変だった。明かりが壁やら部屋の隅やらに設置された燭台の蝋燭だけっていうのもそうだけど、俺が最初に目に留まったのはそこではない。


 女の人の後ろに敷かれた……3段重ねの大きな布団、それだ。その傍に置かれている大量のタオルと、部屋の端にある棚に並べられた飲み物。そして、掛け軸やら屏風(と、言うのだろうか?)やらがあって……いったい何をする部屋なのだろうか。


 加えて、気になったのはそれだけではない。部屋の右側に見える、ガラス戸。その、ガラス戸の傍にはタオルが入った大きな籠が置かれ、ガラス戸の向こう。点々と道標のように続いている石段と蝋燭の向こうに、ポツリと設置されているのは……勘違いでなければ、風呂だ。


 そう、風呂だ。何か、爺ちゃんが見ている時代劇に出てきそうな、古めかしい風呂。そこには乳白色の湯が張られていて、不思議だけど部屋の中からでも、ほんのりと湯気が立っているのが確認出来た……と。


「もし、そねぇなところで突っ立っていないで、こちに来てくんなましな」

「――あ、は、はい!」


 ボーっとしていた俺は、急いで襖を閉めると、その人の言葉に慌てて駆け寄る。「さあ、遠慮せず腰を下ろして」変な口調だなと思いつつも、とりあえず、言われるがままその人の前に腰を下ろし……て、俺はその人から目を逸らした。


(び、美人だなあ、この人。あの人も美人だったけど、この人……すげえ色っぽい)


 理由は単純。着崩した感じで着物を着ているその人は、肩口どころか肩まで肌が露わになっているせいで、見るのが恥ずかしかったからだ。


 しかもこの人、凄い美人だ。彼女も美人だったけど、この人は……何というか、正統派な美女だ。顔も小さく首も細いのに、着物を押し上げる胸の膨らみは……グラビアアイドルのように大きかった。


 ていうか、そもそも、だ。この人……胸が……上半分の膨らみが見えているんですけど。なのに、その、乳首の辺りから下が見えないって……わ、わざとなのか?


「お飲み物は、何になんしんすかぇ?」


 すると、まるでタイミングを見計らったかのように、その人から話し掛けられた。まさか、胸を見ていたことが……で、でも、それだったら隠すはずなのに、この人、隠す素振りがないぞ。


「ご安心を、お金など取りんせん。事情はあの人から聞いておりんすによりて……さあ、遠慮なく」

「え、あ、それじゃあ……そこの、カルピスを」


 気付いていないのなら、誤魔化そう。そう思って、俺はとりあえず目についたジュースを指差した。それは、何度かスーパーとかで見たことがある、原液になっている瓶のアレであった。


「はいな、僅かばかりお待ちをば」

「あ、ありがとうござ――っ!?」


 ち、乳首がちょっと見えた……!


 着物だからか、立ち上がる時に前のめりになった拍子であった。どたぷん、と重そうにぶら下がる膨らみに、俺は思わず……目を凝らした。


「……ふふふ」

「――っ!?」


 途端、その人から向けられた意味深な笑みに……俺は、引き攣った笑みを浮かべて視線を逸らした。


 カッと頬が熱くなるのを実感している俺を他所に、その人はさっさと棚の方へと向かうと、どこか手慣れた様子で用意を始める。恐る恐る、視線を戻した俺は……手を使わずに浮いている瓶やらコップやら氷やらを見て、ああ、この人も……と安心――。


「『ぽけもん』、譲っていただきありがたくございんす。あれのおかげで、えらい楽しいしと時を過ごしんした」


 ――したと同時に話し掛けられて、俺は咳き込みそうになった。


「何時かはお礼をしたいと思っておりんした。此度はこなたのような形になりんしたが、その思いは今も変わらず抱いておりんすよ」

「そ、そんな大そうな……アレだって、元は兄ちゃんから貰ったものだから、お礼を言うのなら兄ちゃんに……」

「だとしても、あの時の所有者は、お前様。そいで、わちきはお前様に……あの人を通じて、わちきに譲ってくださったぇ。それは、けして変わりんせん事実でありんす」

「そこまで言われると、ちょっとくすぐったいです……あ、どうも」


 そっと、差し出されたカルピスを受け取った俺は、一気に喉へと流し込む。見た目に反して薄味にしているのか、甘さは控えめ。でも、そこで初めて、俺は自分が水分を求めていたことが分かった。気づけば最後の一滴まで飲み干した俺は、深々とため息を吐いてコップを畳に置いた。


「うふふ、やはり男の子の飲みっぷりは惚れ惚れしんすね」

「あ、ど、どうも、ありがとうございます」


 すると、何時の間に作っていたのか、2杯目のカルピスが目の前に置かれた。図々しいかもと思ったけど、我慢出来なかった俺はそれもあっという間に飲み干した。

「おかわりは、如何いたしんしょう?」

「いえ、もう大丈夫です。御馳走様です……あの、いいですか?」

「あい、何でございんしょう?」


 ぱちん、とその人が指を弾くと同時に、コップがフウッと消えた。その事に軽く俺は目を瞬かせたが、「その、急かしているわけじゃないんですけど」気持ちを切り替えて、本題を切り出した。


「俺の『目』……っていうか、この『病気』って、結局何なんですか?」

「と、言いんすと?」

「あの、病院では『原因不明の頭痛から併発した視覚障害』って病名が付けられていたんです。でも、あの人の口ぶりだと、何か『病気』ってわけじゃなさそうで……ちょっと、気になって……」


 ふむ……その人は顎に手を当てて考える素振りを見せると、「お察しの通り、これはお前様の知る『病気』とは、僅かばかり違いんす」そう言って、俺にも分かる様に詳しく説明してくれた。


 その人曰く、だ。


 俺のこの『病気』は、『霊的な力』を長期に渡って受け続けた結果、発症してしまった状態。いわゆる『霊症』というやつらしく、これを肉体的に言い換えれば……『疲労困憊』という状態らしい。


 正直、それを聞いて俺は気が抜けた。でも、すぐに注意された。『疲労困憊』と言っても、けして軽く見ていいわけではなく、分かる人からすれば、かなり危険な状態に陥っているということだった。


 と、言うのも、『霊症』は肉体的な病気と違って自然治癒することはない。何故なら、あまりに疲労が蓄積され過ぎたから。もはや自然治癒するだけの余力すら残っておらず、回復する機能が失われてしまっているとのことなのだ。


 『霊症』とは、その者が持っている霊的な防御能力が壊滅的な状態に陥った状態。本当に、力尽きる寸前ギリギリ一歩手前で、大変危険な状態である。俺は、その手前の状態で何とか持ちこたえているようなものらしい。


 頭痛や幻覚が起こるのも、霊的な防御機能が一切働いていないから起こることらしい。外部からの干渉を無防備に受けてしまうことで、本来は『悪寒』程度で済むところが、より酷い形で肉体へ反映されてしまった……というのが、俺の症状の正体であった。


 今は頭痛や幻覚程度に収まっているが、それも時間の問題だ。いずれは、現実と幻覚の区別すら付けることが出来なくなり、苦痛に苛まれながら廃人同然になってしまうだろう……ということらしかった。


「――けれども、治す手段はございんす。それは一時的に外部の者の手を借りて、霊的機能を洗浄するといわすもの。言うなれば、心の臓を他所から借りて、その間に御自身の心の臓を休ませる……と、言ったところでありんしょうか」

「な、なるほど……で、でも、それって痛くはないんですか?」


 その人……いや、『その人』っていうのも失礼か。『お姉さん』の説明に納得した俺は、予てより気になっていたことを尋ねた。


「短時間で済ませようとするんなら、相応の苦痛を伴うでありんしょうぇ。で、ありんすが、此度行う処置は、そのような強引なやり方はしんせん。お前様には、恩がございんす。なんで、古来より伝わってありす、由緒正しき治療法を用いんすので、ご安心を」

「良かった……それで、一晩で終わるって、あの人から聞いていたんですが……本当ですか?」


 俺の質問に、「あい、まことでありんす」お姉さんは笑みを浮かべて頷いた。それを見て、俺は安堵のため息を零した……だが、しかし。


「ただし、それはあくまで外の時間の話。ここでの時間に直すなら、おおよそ一ヵ月程になりんしょうか」

「えっ!?」

「そう驚くこともないでありんしょう。若いとはいえ、一晩寝たぐらいで治るような状態でないことは、先ほどの説明で分かりんしたでしょう?」


 その安堵は、すぐに気のせいとなった。上げて、落とす……なにそれ、詐欺だろう。思わず言い掛けた言葉を、俺は寸でのところで呑み込んだ。


「ご安心を。ここで一ヵ月過ごしたとしても、お前様の肉体は外と同じように一晩しか経ちませぬ。言うなれば、こなたのしと月は、一夜の夢も同じ。色々ありんしたようですし、此度は長き休みをごゆるりと過ごされる程度の気持ちで臨めば良いんでありすよ」


 そう言うと、お姉さんはおもむろに立ち上がった。その際、また谷間と先端が見えたけど、今度は俺に笑い掛けるようなことはしなかった。


 静々、という言葉が似合う緩やかな動きで風呂へと続いているガラス戸へと向かうと、そっと、タオルが入った籠を手に取って……俺へと笑みを向けた。


「さあて、無粋な説明もココまで。早速、処置に取り掛かりんすによりて、御召し物をみなここへ」

「あ、はい。それじゃあ、ちょっと……って、あの?」


 俺は室内を見回して隠れられそうな場所を探しながら、お姉さんの手から籠を受け取った。けれども、お姉さんは手を放さなかった。何でかは分からないけれども、俺とお姉さんは籠の縁を互いに引っ張り合う形で立ち止まった。


 思わず、俺はお姉さんを訝しんだ目で見た。お姉さんは相も変わらず笑みを浮かべていた。しかし、その手は籠から離れることはなく、黙って俺を見ていた……何だ、いったい何だ?


「あの……手を放して貰えませんか?」

「はて、どうして?」

「いや、どうしてって……これじゃあ服が脱げないですってば」

「脱いだらいいでありんすか」

「……え?」

 ……え?


 その瞬間、俺は心の中に思った言葉をそのまま口走っていた。


 いったい、この人は何を言っているのだろう。お姉さんの言葉を何度も頭の中で繰り返していると、「おやまあ、思っていたよりもお早いでありんすね」不意に、お姉さんの視線が下がった。つられて、俺もその視線を追いかけて頭を下げ――うをぉ!?


「動いては、なりんせんよ――手で隠してもなりんせん。もう、治療は始まっておりんす。ほら……両手を、ぶらーん、ぶらん。力を抜いて……腰も、引いてはなりんせんよ」


 反射的に背中を向き掛けたが、その直前に止められてしまった。なので、両手で隠そうとしたけど、それもお姉さんの手で止められてしまった。加えて、腰を引くことも禁止されてしまったから、結果的に俺は……その、お姉さんに見せびらかす形になってしまった。


「うふふ……よござんす、術はしかと効いておりんすようで安心しんした」

「じゅ、術ぅ!? あの、もしかしてさっきのカルピスに何か――いひっ、ちょ、あ、ヤバい! なに、何だコレ!? どういう状況なんだ!?」


「怖がらなくてもいいんすえ。これは、治療でありんす。治療の為に行うことでありんすから、なーんも怖―いことはありんせん。なーんも尻込みすることもありんせん。さ、さ、ごゆるりと気を抜いて楽になりんすよ」

「楽って、いや、楽っていったい何がどう治療に――あの、ズボンが、それ以上はズボンが脱げ、え、脱げた!? パンツも!? あれ!? 今のどうやって脱がしたの!?」


「わちき、こう見えて性愛には寛容で、昔々は子宝の御利益もあるとして拝まれたもんでありんすよ。その為か、例え相手がどんな出で立ちであろうとも、何となく諸々が分かってしまうんすよ」

「な、何がですか!? 何が分かるんですか!? 何をするんですか!?」


「おやまあ、わちきに言わせんすんかぇ? ここまで来んしたら、お前様もお察ししていんすでありんしょうに……それとも、こなに元気よくおっ立たせておいて、わちきではお嫌でありんすか?」

「え、い、いや、それは……その……嫌じゃ……あひっ! ちょ、いきなりそれはヤバい! ヤバいんですってば! 俺、まだ経験が……!」


「淀んで穢れてしまってありんすお前様の『御身』を、清めるだけ。なーんも気にする必要はありんせん。なーんも難しく思うこともありんせん……ほら、こなぁなふうに……んっ」

「ひえ――いひ、ぬるっときた!? 凄いぬるっとした!? ぬるっとしてんのに――待って! お願い! ちょっと待ってください! 汗掻いていますから! 俺、走ったり何なりで汗掻いていますから!」


「――ん、うふふ、そねえなこと、気にしていたんでありすか。言いんしたでありしょう、ごゆるりと楽に、と。わちきの事は気にしなくていいでんでありすよ……うふふ、若草に包まれた、青臭い聞かん棒だこと……んっ」

「うひ、うひい、うひひひ――ま、まって! もう我慢出来ませんから、ほんとにヤバいって、あ、ヤバ――うっ」


 その瞬間……室内に静寂が訪れた。





 ……。


 ……。


 …………りんりん、りんりん、りんりん……鳴り響く虫の音を、鬼姫は見つめる。人工物だらけの町中とはいえ、夏にもなれば虫の声の一つや二つは聞こえて来る。


 それは、『鬼姫の神社』がある山々であっても、鬼姫が寝泊まりしている『お由宇の神社』がある町中であっても、同じこと。違いは虫の音色の種類と、その喧しさぐらいなもの。


 さすがに車の行き交いが激しい中心部ならともかく、ここなら別だ。住宅街の一角にあるお由宇の神社では、耳を澄ませれば虫の音色を楽しめる程度に、虫の数と種類は豊富であった。


 そのお由宇の神社の境内……正確には、社と境内の境目となる御扉の前。そこに、社を囲うようにして張られた結界の調整維持兼番人役をお由宇から仰せつかっている鬼姫は……さてと、と手元にある『ランプ』を見つめた。


 それは、彼がバス停の女から譲ってもらったランプである。このランプが彼に渡る経緯は己の一部に戻った『ちび鬼姫』と、このランプに残された想いからある程度は分かっている。


 そのうえで、今、鬼姫は頭を悩ませていた。彼はお由宇との取っ組み合いに忙しいから、彼に話を聞くのは明日になるだろうが……はてさて、どうしたものか、と鬼姫は頭を掻いた。


 単純にこのランプをあの女に返すのは、簡単である。あの『バス停』は少しばかり厄介な空間にあるようだが、そんなものは鬼姫にとっては問題ない。


 場所さえ分かれば何時でも出入り出来る程度の話である。だが、鬼姫が問題だとしているのは、『ただ、そのまま返して良いものかどうか』、であった。


 おそらく……あくまで仮定の話だが、あのバス停の女は、あの空間に囚われてしまって、あの場から動けなくなった存在ではないか、と、鬼姫は考えていた。


 何故ならば、もしも、あの女が彼を襲ったやつらと同じ存在であるならば、だ。わざわざ彼を逃がそうとしないし、ただの通りすがりと考えるにはあまりに不自然であり偶然的であり過ぎる。


 そもそも、偶然の出会いだとしても、こんな……『守護の力』が込められたランプを、見ず知らずの人に渡したりはしないだろう。


 鬼姫の基準から考えればランプに込められた『力』は弱小も同然だが、それでも一般のレベルから考えればそれなりに強い部類に入る。


 単に『霊症』となっている彼が無事に鬼姫と再会出来たのも、このランプを持っていたからであろうことは、推測するまでもない。


 もし、これを彼が持っていなかったら、彼は無事では済んでいなかっただろう。例え『ちび鬼姫』が彼を守ったとしても、鬼姫がその後に駆け付けていたとしても、あの空間に迷い込んでしまった時点で彼は、致命的な後遺症が残っただろう……だから、鬼姫はバス停の女をどうにかしてやりたいと考えていた。


 バス停の女が、あの場所に留まりたいと望むのであれば、それで良い。ただ、ランプを返すだけだから。けれども、そこから出たいと望むならば……それが、彼を守ってくれたことに対する、鬼姫が出来る感謝の印だと思った……だが、しかし。


「まあ、何をするにしても明日になってからじゃが……せめて、自力で立てる程度には手加減してくれれば良いのじゃがな……」


 チラリと、御扉の向こう、社の中で繰り広げられている光景を想像した鬼姫は、ぶるりとその背中を震わせると、「耐えるのじゃぞ、少年よ」深々とため息を吐いた。


 ……何故、鬼姫はそうまで彼を心配するのか。それは、単純に『霊症』云々の話ではなく……もっと、生臭い話である。まあ、それはつまり、何だと問われれば……だ。


「あの目、思いっきり火が点いておったのう」


 それであった。しかも、それだけではなかった。


「相手はお由宇が欲しいと思っていた『ぽけもん』を譲ってくれたかつての少年……か」


 性愛の加護を司るお由宇にとって、性愛を持って加護を与えて穢れを祓うのは、ごく自然の行為である。言うなれば、喉が渇けば水を飲み、腹が空けば食べ物を求め、眠くなれば眠るのと同じことで、そこに世間的常識における『いやらしさ』というものは微塵もない。


 普段のお由宇は恥ずかしがり屋で同性の肌ですら顔を赤らめるが、それはあくまで平時の話。ひとたび『神』としてのスイッチが入ってソレが必要になれば、淑女のようにさりげなく、情婦のように激しく、淫魔のように妖しくなってしまうのだ。


 つまり、だ。それを司る『神』であるお由宇が、その『力』を持って邪気を払い、御身を癒し、汚れてしまった霊的能力を回復させる為には、だ。最も効率的かつ最大限にその『力』を引き出す手段が……まあ、そういうことなのである。


「せめて、あの少年が童貞でないことを祈ろう。下手にお由宇を止めようとしたら、ワシも引きずり込まねかねないしな」


 ――これで童貞であったなら、お由宇のやつ絶対に暴走する。助平とはまた違うが、性愛を司る者からすれば、身体も出来上がっていない『若人の初物』なんて、三度の酒よりも好物なはずじゃしな。


 その言葉は、鬼姫の口から出ることはなく……ただ、虫の音色だけが、りんりんと境内に響いていた。


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