第7話(裏):あそこに近づくのは死亡フラグだと『彼ら彼女ら』の中ではもっぱらの噂です
就活慰労の旅行。それを俺たちがやれたのは、年が明ける少し前の事だった。本格的にシーズンに突入していたこともあって予約を取るには難儀したが、奇跡的にホテルの予約が取れたのは、これまた幸運にも全員が内定を貰えた後だった。
さすがにスキー場の近場とまではいかなかったが、まあ、当然だろう。むしろ、自宅から向かえば片道3~4時間は掛かる距離を、30分程に出来ただけでも幸運以外の何物でもないのだから。
メンバーは、いつもの。サークルというわけでもないが、まあ高校からの付き合いの延長から自然と連れ合うようになった俺と、親友の友成。そして、俺の彼女である泰恵(やすえ)(胸がデカい)と、友成の彼女である友子(ともこ)(背が小さい)の計4人で楽しくワイワイしながらスキー場に向かったのは、まだ夜明けすぐのことだった。
就活から解放されたのと、卒論が順調だったのも合わさって、俺たちのテンションは常に高かった。まあ、自分で言うのもなんだが楽しいのは好きだしね。元々スポーツ好きな俺たちは、友成の運転する車に乗って、スキー場へと向かった。
スキー場は混んでこそいたが、まあまあ辟易する程ではなかった。むしろ、シーズンであることを考えれば空いているぐらいで、実際に現地に到着した俺たちは喜んだぐらいであった。
そして、夢中のまま遊び終えた翌日。しっかり観光を済ませ、名残惜しさを感じながらも俺たちが岐路に付いたのは、薄ら空が暗がり始めた頃であった。
冬は只でさえ日が暮れるのが早いのに、山道(とは言っても、ちゃんと整備されているから、『国道』と表現した方が正しいのだろうけど)はそれ以上に暗くなるのが早い。でも、俺たちは旅行のテンションをそのままに、全然気にしていなかった。
むしろ、暗くなれば暗くなるほど俺たちのテンションは上がっていった。まるで小学生と言われれば否定しないが、まあ、今にして思う。多分、俺もそうだが、みんな寂しかったんだと思う。
社会人になれば、今後は今日みたいに遊び回れる回数も激減する。仕事の都合で会えなくなるかもしれないし、もしかしたら今日で最後になるのかもしれない。みんな、心のどこかでそう思っていたから、あれだけはしゃいだのだと思う。
「高速、渋滞しているってよ」
「ええ、マジ? 明日バイトがあんのに~」
「それじゃあ、下道から行ってみる?」
「え、でも、道なんて知らねえぞ」
「大丈夫、ナビさえあれば時間は掛かっても帰れるから……どうする?」
だから、運転する友成がそう提案した時……俺もそうだけど、泰恵も友子も反対しなかった。少しでも今が長く続いてくれるように、みんな、心のどこかで、この日だけの『特別な何か』、一生に残る『思い出』が欲しかったのだと思う。
対向車がないのと、ラジオの電波が入らないからCD掛けていたからなのかもしれないが、窓の外は本当に静かだった。いや、もしかしたら何か有ったのかもしれないが、あんまりにも同じ景色が続いているから、俺にはそうとしか思えなかった。
それだから、俺も泰恵も友子も人気のない下道を通って周り全部が真っ暗になっても、特別怖がることはなかったし、危険だとも感じなかったし、苛立つようなこともなかった。
途中、タイヤが溝にはまって俺が雪だるまになったが、それでも俺は楽しかった。たぶん、みんな同じ気持ちだったと思う。それどころか、それがむしろ『特別』に思えてならず、何ていうか……良い雰囲気だった。
ここが車の中でなければ、そのまま……行けそうなぐらいには、そういう雰囲気だったと思う。実際、キスぐらいまでは俺も泰恵もしていたし、友成の太ももに友子の手が伸びているのが横目で見られたし……まあ、そういう感じになって。
「――あれ?」
その、時であった。
「なあ、あれ、何だと思う?」
何の前触れもなく、ポツリと友成が呟いたのは。その時、俺はもちろん、泰恵や友子も我に返り、友成を見つめた。それまで社会人としての今後とか、卒論がどうだのとか、実家に一度は帰省しないとだのとか、色々と『どうでもよい』ことばかり話していたから、余計に友成のその言葉が耳に残った。
正直、お前こんな良い雰囲気になっているのをぶち壊すなよ……と、思わないこともなかった。けれども、運転しっぱなしでお預け(ちょっと下品か?)になっている友成のことを考えれば少し可哀想でもある。
ぶっちゃけ、それが口から出まかせであったとしても、まあ仕方がないかな。そう思っていた俺(泰恵も)は、不満を表には出さずに「あれって、何だよ?」友成の話しに乗っかった。
「ほら、アレだよ、アレ。山の中に、白いのが見えるだろ?」
「白いってお前、それはどう見ても雪の見間違いだろ」
「いや、違う。ほら、見えねえの?」
友成に指し示されるがまま、そちらへ俺は目を向けるが、友成の言う『アレ』が何なのかが分からない。隣に座る泰恵もそうだが、助手席に座る友子も『アレ』が分からないのだろう。お互いに首を傾げながら、「ねえ、どれのこと?」俺たちは友成の言う『アレ』が何なのかを探し続けた。
けれども、どれだけ探しても見つからない。「だから、アレだってば!」終いには友成は車を止めて山中のどこかを指差したが……やっぱり何も見えない。
とにかく、白いのがある、その一点張り。その大きさも、白いのがどういう形なのかも何も教えてくれない。何時まで経ってもそれなもんだから、いい加減嫌気が差した俺は、「もう、いいだろ。早く車を――」友成にそう声を――。
「あっ!」
――掛けた瞬間、助手席に座っていた友子が声を荒げた。そのあまりの声を大きさに思わず肩をビクつかせた俺(と、泰恵)を他所に、友子は「いた、あそこ!」山中を指差す。本当かよ……と俺と泰恵は互いに顔を見合わせながらも、これが最後だぞと言わんばかりに友子が指差した方へと目を――。
「あっ!」
――向けた瞬間、俺も泰恵も声を荒げた。不思議なことに、俺と泰恵が『アレ』を見つけたのはほぼ同時だった。『アレ』が何なのかを考えるよりも前に、友成の言う『アレ』が本当にあったことが驚きだった。
『アレ』は、友成の言う通り真っ暗な山中の中にぽつんと有った。姿かたちは……遠いから、よく分からない。どれだけ目を凝らしても、それが何なのかが全く確認出来ない。
ただ、友成の言う通り、確かにそれは白かった。ゆらゆら、ゆらゆら、真っ暗なのに、まるでそこだけ白い絵の具を垂らしたみたいに、ぽつん、とそれを確認することが出来た。
「なに、あれ?」
俺と同じく目を凝らしていた泰恵が、俺と同じように首を傾げる。けれども、その疑問に答える者はこの場には誰も居なかった。俺はもちろん、最初に『アレ』を見つけた友成だって、それが何なのかは分かっていなかった……と。
不意に。本当に、突然、それの姿が見えなくなった。まるで照明のスイッチを切ったかのように、突然それは暗闇の中に消えた。俺たちは思わずと言った調子でそこに目を凝らす……すると。
また、それが姿を見せた。先ほどと同じく白い点にしか見えないそれは、先ほどと同じように、白い絵の具を垂らしたみたいに山中の斜面にその姿を見せた。
「何だあれ? 案山子か?」
「こんな場所に案山子なんてあるわけないでしょ。それに、案山子だったらあんなふうには揺れないわよ」
「だよなあ……でもさ。それじゃあ、あれは何なんだ?」
結局、疑念はそこに行き着く。幾ら目を凝らしても『アレ』が何なのかが分からないし、そもそも視力が2.0(前に自慢された)ある泰恵ですら「見えそうで見えない」と言うぐらいだ。それよりも目が悪い俺たちに、それの正体を見極めろという方が無茶であった。
おまけに、時刻が時刻だ。見慣れぬ物珍しさがあったとはいえ、たかが『白い点』に何時までも興味は引かれない。自然と、車内には白けた空気が漂い始める。さすがにこれ以上はと判断したのか、車を止めた張本人である友成も、「すまん、動くぞ」そう言って再びアクセルを踏んだ――途端。
「あっ!!」
タイミングを見計らったかのように大声をあげた泰恵に、がくん、と車が揺れた。エンストしたわけではない。驚いた友成が、反射的にブレーキを踏んだからだ。
危険なタイミングであった。速度は出ていないからスリップしたところで大したことにはならないが、それでも路肩に突っ込めば動けなくなるかもしれない。それが分かっているからこそ、「――危ねえだろ! いきなり大声出すな!」友成は怒りを露わに声を荒げた……のだが。
「…………」
泰恵は、何の反応も示さなかった。ただただ、大きく目を見開いて山中を……白い点へと視線を注いでいた。今しがた事故を起こし掛けたことはおろか、友成の怒声にすら気づいていないようで、呆然と窓の外を見つめ……ながら、今度は目に見えて身体を震わせ始めた。
あまりに異様なその姿に、友成の威勢も一気に鎮火する。当然、横で見ている俺はもちろん、友子も同じ。何とも言い難いが、とにかく不快としか言いようがない嫌な空気が車内を漂い始める。誰も彼もが言葉を失くし、どう声を掛ければいいかも分からずに泰恵を見つめるしかなくて。
「……て」
だから、ポツリと泰恵が何かを口走った時。俺たち3人は、情けない話だが、ぎくりと肩を震わせてしまった。「な、なんだって?」辛うじて、隣にいた俺だけが話し掛けられた。
「……て、……て」
「なに、聞こえないって」
「……て、……てよ、はや……て」
けれども、相変わらず泰恵は俺を見ていなかった。ただ、がたがたと身体を震わせるばかり。本当に、何が起こっているのだろう。得体のしれない怖さを感じ始めていた俺は、泰恵の視線をこちらに向けようと半ば強引に肩を掴んだ――その、瞬間。
「はや――早く逃げてよ! あいつ、こっち見てるから!」
耳鳴りを覚える程の大声……いや、悲鳴を泰恵はあげた。きーん、と嫌な感覚が背筋を走ったが……俺は、気にならなかった。
あいつ、と泰恵が叫んだ直後、俺は……俺たちは、一斉にそちらへ目を向け――一斉に、痛みを覚える程に、顔を引き攣らせた。
そこには、あいつが……白い絵の具を垂らしたかのような、『アレ』がいた。けれども、先ほどとは少し違っていた。先ほどは、風に煽られていたのかゆらゆらと揺れているのが確認出来たが……今は、全く揺れていなかった。
本当に、ピクリとも揺れていない。まるで、地面に差した看板のようにピクリとも動かない。それだけなら案山子に見えなくもないが……違った。俺は……俺たちは、見た。何故か、分かってしまった。
白い点のようにしか見えないそいつが……確かに、こちらを見ているということが。そして、そいつが確かに……こちらに笑い掛けたのを、俺たちは理解した。
――直後、そいつは動き出した。だが、先ほどのゆらゆらとした揺れとは違う。一言でいえば、落下。木々やら何やらがあるはずなのに、その白い点は意に介した様子も斜面を下り――え。
まさか……こっちに――来る!?
「ロック掛けろ! 窓の方も――っ!!」
それを理解した瞬間、俺は声を友成にそう言った……だが言えたのは、そこまでだった。カチャン、と扉のロックが掛かるのと、暗闇の向こうから物凄いスピードで迫って来たそいつの手が、ばん、とガラスを叩いたのは、ほぼ同時。そして、初めて俺は『アレ』の姿を間近で見つめ……息を止めた。
何者なのかは分からないが、そいつは人間じゃなかった。人間っぽい形をしているだけの、全くの別物で……本当に恐ろしいモノに遭遇したとき、悲鳴すら出ないってことを俺はこの時初めて知った。
そいつの外見は、『首なしの裸人間』だろうか。でも、ただ無いだけじゃない。首から上にあるはずの部位は全て、そいつの白い胸……まるでボンドでくっ付けたみたいに張り付いており、それがニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながら。
……てん……そう……めつ……。
ただ、それだけを繰り返し呟いていた。何故か、それだけは不思議と俺の耳に届いた。それが、俺にはたまらなく怖かった。だって、外は薄らと雪が降っている。車内にはこの前買ったばかりのお気に入りが流れていて、車内にいる俺たちですら、少し声を張り上げないと互いの声が聞き取り辛いぐらいなのに、何故かそいつの『声』がはっきりと聞き取れるのだ。
まるで、耳元で囁かれているみたいに。位置的に、俺が一番そいつから離れていたからだろう。辛うじてではあるけど、友成、友子、泰恵、3人の様子が確認出来て……俺は、泣きたくなった。
だって、全員が俺と同じように顔を引き攣らせていたから。これが、夢じゃない。俺だけが見ている幻覚じゃなくて、目の前で確かに起こっている現実だってことを……教えられてしまったから。
早く車を出せ。
そう友成に言いたかったが、駄目だった。顔が強張り過ぎて、唇が動いてくれない。いや、唇だけじゃない。まるで金縛りにあったかのように俺は指先一本動かすことすら難しくて……俺たちは、ガラス一枚越しに化け物と見つめ合うしかなかった。
……てん……そう……めつ……。
……てん……そう……めつ……。
……てん……そう……めつ……。
……てん……そう……めつ……。
……てん……そう……めつ……。
いったい、そのままどれぐらいそうしていたかは分からない。感覚では一時間以上そうしていたように思えるけど……たぶん、実際は数分も経っていなかったと思う。
現れたのが突然なら、そいつが俺たちの前から姿を消したのも突然だった。前触れもなくそいつは満面の……それはもう、気持ち悪さしか感じないぐらいの満面の笑みを浮かべると、現れた時とは逆の手順……物凄い勢いで俺たちの前から遠ざかり、暗闇の山中へと遠ざかってゆき……見えなくなった。
でも、俺たちはその場から動けなかった。ただ、呆然と消え去った辺りを見つめるばかりで、オーディオから流れる音楽すら全く耳に入らなかった。
けれども、その音楽が俺たちを我に返させてくれた。突如、鳴り響いた大音量……それは、収録されている曲の中では一番派手でノレる曲。俺的には一番のお気に入りであったそれのメロディが、俺たちを正気に戻してくれた。
そうなれば、俺もそうだが、運転している友成の反応は早かった。がくん、と車が揺れる程の急発進をさせた友成は、無言のままにハンドルを切る。それはお世辞にも安全運転とは言い難いものだったが……俺は、咎めようとは思わなかった。
多分、助手席に座っている友子も同じ気持ちなのだろうと思う。友成の太ももを掴む指が白くなっているぐらいなのだから、むしろもっと飛ばせとすら思っているのかもしれない。
「――はああぁぁぁ……」
自然と遠ざかっていく先ほどの場所を振り返り、そこに何もないことを確認した俺は……深々と、それはもう深々とため息を吐いた。「――い、居たか?」途端、友成が俺に尋ねてきたから、俺は「いない、大丈夫だ」そう言って隣の泰恵を見やり。
「――っ」
開きかけた唇が、引き攣った。
……泰恵は、笑っていた。でも、普通の笑い方じゃない。無表情のままに笑う……ってやつだろうか。上半分だけを見れば、能面というか無表情だ。でも、下半分が違う。
綺麗に、唇が弧を描いていた。でも、俺が知っているそれとは全然違う。まるで、指で思いっきり唇を引っ張っているかのようで、それは笑みというよりはもっと別の、おぞましい何かに見えてならなかった。
よくよく見れば、あまりに唇を釣り上げ過ぎているせいで、盛り上がった頬の線がピクピクと痙攣しているのが分かる。傍目にもそれが分かるぐらいなのだから、おそらく相当な痛みがあるはずなのに……。
「……や、泰恵?」
様子が、あまりにおかしい。異様……そう、とにかく異様としか言いようがない泰恵の雰囲気に、俺は情けなくも声が震えてしまった。「え、え?」そんな俺の声に不穏な気配を感じた2人が、泰恵の様子に気づいて動揺しているが……泰恵は、そんな二人に目もくれずに。
「……はい、れた」
ポツリと、そう呟いた。はい、れた……はいれた……入れた。そう、俺が頭の中で泰恵の呟きを整理した……直後だった。
「はいれた」
泰恵が、再び同じことを呟いたのは。
「はいれた、はいれた、はいれた」
そして、今度は一言だけでは終わらなかった。
「はいれた、はいれた、はいれた、はいれた、はいれた、はいれた」
「はいれた、はいれた、はいれた、はいれたはいれたはいれたはいれた」
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれはいれはいれはいれいれいれたはいれいれたいれたいれたはいれたはいれたはいれた」
……気づいたとき、俺は口から唾を飛ばし、涎を撒き散らし、舌をもつれさせながら『はいれた』とくり返し呟き続ける泰恵を取り押さえながら、運転する友成に怒鳴りつけていた。
とにかく、神社か寺のどちらかに行け、と。
何故かは分からないけど、この時の俺は……医者に見せた所でどうにかなるだなんて微塵も思わなかった。
多分それは、先ほど見た『アレ』のせいで……泰恵の様子がおかしくなったのも、おそらく『アレ』のせいだと思ったからだった。
……。
……。
…………でも、現実はそう簡単に上手く事は運ばなかった。
後になって、事故を起こさずに山道を通り越せたのが奇跡だったと思える程に車を飛ばして、しばらく。
ナビを使って最も近い寺に辿り着いた俺たちは、怒声と共に出て来てくれた住職に何度も頭を下げた。そして、文句を言いながらも泰恵を見た住職の顔色が目に見えて変わったのを見て……。
……残念だけど、その子はもう二度と普通の生活を送ることは出来ないよ。既に察していると思うけど、医者に見せたって一緒だよ。お医者さんがどうするかは私にも分からないけど、どうせ精神病扱いされて入院させられて終わりだろうから。
……うん、そう。その子はね、憑りつかれているんだ。え、何って……分かるでしょ、幽霊ってやつだよ。それも、その人に憑りついているのはそんじゃそこらの悪霊じゃなくてね……なんて言うか、かなり性質の悪いやつなんだ。
……幽霊なんて、信じられないって……気持ちは分かるけど、現実なんだよ。普通の人には見えないし触れられないけど、居るんだよ。この世には、そういうやつが実際に存在して、彼女に憑りついているんだ……悲しいけど、それが現実なんだよ
……君たちが見たのは、いわゆる『山の怪』ってやつでね。あ、いや、妖怪とはまた違うんだ。由来は古くてはっきりしていないけど、かなり昔から存在するやつでね……どんな、姿をしていた?
……そう、そうだね。うん、私が知っている『山の怪』とは少し違うけど、だいたい似たようなものだ。まず間違いなく、『山の怪』の一種だと思っていいよ。
……『山の怪』は、女性にだけ憑りつく悪霊なんだ。そう、女性。女なら、年齢は関係ない。寝たきりのお婆ちゃんでも、赤ちゃんでも、女なら関係ないんだ。そいつは、男には全くの無害なんだけど……ん、そういえば、君は無事なようだけど……ああ、なるほど。
……こんなこと言うのも何だけど、運が良かったね。普通、『山の怪』は複数で現れるんだ。でも、どうやら君たちの前に現れたのは一体だけのようだね。もし、もう一体『山の怪』が来ていたら、おそらく君も彼女と同じ状態になっていたはずだよ。
……残念だけど、私には無理だ。君たちの期待には応えられない。すまないけど、諦めて他を当たってくれ。
……先ほども言ったけど、『山の怪』は性質の悪いやつでね。女性にだけ憑りつくけど、一度でも憑りつくと……除霊するのは一筋縄ではいかないんだよ。
……そうだ。情けない話だけど、とても私の『力』では『山の怪』を祓うことは出来ないんだ。『山の怪』は、それ程厄介なやつでね……本当に申し訳ないけど、私には無理なんだ。
……いちおう、清めて周囲に影響を与えないようにある程度は抑えることは出来るし、親御さんの許可さえ頂ければ預かることも出来る。でも、祓うわけじゃないからね。
……彼女はもう、下手に人のいるところに居ない方がいい。折りを見て、私が彼女を山に放す……かわいそうだけど、『山の怪』に憑りつかれた者はそうした方が良いんだ。本当にかわいそうだけど、もう彼女は、人の世界では暮らせられないんだよ。
……いや、それだけだよ。私では、彼女の中から『山の怪』を祓うのに……そうだね、少なく見積もっても20年以上は掛かると思ってくれ。それも、憑りついた『山の怪』が気紛れを起こして離れてくれるまで、それぐらいって意味だから、そのつもりでいてほしい。
……いや、祓えたとしても、もう彼女は以前の彼女じゃない。いわゆる、廃人みたいになっているのは覚悟してくれ。気の毒だけど、『山の怪』に憑りつかれるっていうのは、そういうことなんだ。
……すまない、本当に私では駄目なんだ……いや、無理だよ。私以外でも、おそらく彼女を助けられる人はいないよ。私が知る限り、『山の怪』を無事に祓えたという話は聞いたことがない。
……いや、祓えたっていう話は知っている。でも、それはね、長い道のりだよ。憑りつかれた者を霊山のふもとに住まわせて十年以上身を清め続けた後、修行を重ねた高名な僧侶が数人掛りで三日三晩、御経を唱え続けてようやく……て話らしいから。
……本当に、気の毒に思う。でも、私にはどうすることも出来ないんだ。納得できないなら紹介状を書くし、連絡も付ける。気の済むまで他を当たって見るといい……たぶん、私と同じことを言うと思うから。
……。
……。
…………君たちは、その人を助けたいかい?
……あ、いや、別に馬鹿にしたわけじゃないよ。すまない、気に障る発言だった、それは謝る。ただ、どうしても聞いておきたかったんだ。君たちは、例え自分たちも同じく危険な目に合うとしても……彼女を、助けたいかい?
……。
……。
……そうか。
……。
……。
…………危険だけど、方法がないわけじゃない。実は一つだけ……『山の怪』を祓えるかもしれない方法があるんだ。
……言っただろ、危険だって。言っておくけど、これは自己責任だよ。はっきり言ってこれは、毒を持って毒を制すると言っても過言ではないぐらいの危険な賭けだ。
……しかも、それに私は……いや、私たちは手を貸せないし、そこで何かをしろとも言えない。何故なのかは、聞かないでくれ。そういう決まりでね……あそこは、色々と訳ありなんだ。
……とにかく、私を含めて、私のような者たちはあそこに近づくことすら難しいことでね。悪いけど、清めの塩も持たせてやれないんだ。下手に刺激してどうなるかが分からないから……場所は教える。だから、後は君たちが決めてくれ。
……分かった。それじゃあ、一度しか言わないぞ。本当は、外部には絶対に漏らしてはいけないことなんだから……いくよ、そこは、○○県の○○市にある神社で、その神社の名前は……。
「本当に、ここなのかよ!」
「ナビだと、ここを差しているんだよ!」
教えてもらった住所にあった神社は、はっきり言って……小さかった。住宅街の合間にひっそりと取り残されたっていうぐらいの、何ていうか……そう、寂れている、という言葉がぴったりな神社だった。
降り積もった雪は境内の至る所に無造作に放り投げられ、鳥居もどこか薄汚れて見える。辛うじて参道だけは除雪されているようだが、それでも既に膝の少し下ぐらいまで雪が降り積もっており、神社の中には……人の気配は全く感じられなかった。
……不気味だった。
夜の神社自体、立ち入ったことがないからそう思うのだろう。あるいは、ここを教えてくれた住職の『危険』という話と、『アレ』と出会ったからなのかもしれないが……一人では絶対に入りたくないのは確かだった。
「ど、どうするの? 誰も居ないみたいだよ」
俺たちの後ろから付いて来ている友子が、ポツリと俺たちに問いかける。でも、俺たちが答えられるわけがない。とにかく俺と友成は、「てん……そう……めつ……」今ではそれだけしか呟かなくなった泰恵を引っ張って、神社の中に入った。
「うわ、な、何だ!?」
途端、それまで異様ではあるものの大人しかった泰恵が暴れ出した。「いや、いやあ!」それに恐怖した友子が尻餅をついたが、気にしている暇などない。急に何でと疑問に思う余裕もない。
まるで駄々っ子のように両手を振り回して神社から遠ざかろうとする泰恵を、俺と友成の二人掛りで押さえ付ける。けれども、泰恵はかまわず両手を振り回して暴れ続けるから、俺と友成は強引に鳥居の向こうへと引っ張り込んだ。
「えっ」
すると、不思議なことに。それまで四方八方に手足を振り回して暴れていた泰恵が、いきなり大人しくなった。「てん……そう……めつ……」まだブツブツと呟いているのは変わらないが、それでもあまりに急な変化だ。
いったい、何が起こったのだろう。まるで、スイッチが切り替わったかのようだ。
そんな印象を覚えながらも、俺と友成は尻餅を付いた友子が立ち上がるのを確認してから、静かになった泰恵を引っ張る。今度は、先ほどと違って抵抗する素振りは見られないが……何故だろう。どこか、泰恵から感じ取れる雰囲気に……ぎこちなさ、みたいなものが感じられた。
……もしかすると、ここが神社だからだろうか。
気になって友成を見やれば、友成も俺と同じことを考えていたようだ。引き攣った顔をしながらも、力強く頷いてくれた。現金なものだが、たったそれだけのことで俺は……元気が湧いてくるのを実感した。
「……どうする、やっぱり誰もいないぞ」
けれども、元気だけでどうにかなるわけではない。辺りを見回しながら、ポツリとそう呟いた友成の言葉に、俺は唇を噛み締めた。友成の言うことは、最もだったから。
漠然と、神社に行けば何とかなる……そう思っていたことを、俺は自覚する。友成も、友子も、俺と同じように感じていたのだろう。見れば、その顔は神社に入る前よりもずっと……暗くなっていた。
どうすれば……いいのだろう。
大人しくはなったものの、依然として泰恵はおかしくなったままだ。会話すらまともに出来ない。助けを呼ぼうにも神社には人の気配は全く感じられないし、そもそも……ここから、泰恵を助ける為に何をすればいいのかが全く分からない。
「……鈴、鳴らしてみる?」
そんな時だ。立ち尽くしている俺たちに、後ろから明かりで(住職から、せめてこれだけは持って行けと渡された)照らしていた友子が提案したのは。
「鈴……鈴って、あの鈴か?」
俺たちの視線が、賽銭箱(雪が上に積もっているから分かり難かったけど)の向こう、垂れ下がった鈴のアレに向けられた。
「うん、神社の鈴って邪気を払って身を清める意味もあるって、子供の頃にお爺ちゃんから……」
この際、真偽の程はどうでもいい。このまま何もしないまま事態が好転することはないし、例え効果が無かったとしても……何もしないよりはマシだ。
そう判断した俺たちは、半ばもつれ込むようにしながら参道を進んで賽銭箱の傍へと歩み寄ると、そのまま力いっぱい鈴を鳴らした。近所迷惑だとか、そんなの……悪いことだけど、考えている余裕なんてなかった。
とにかく、精一杯に鈴を鳴らした。少しでも大きく鳴らせば、泰恵に憑りついたやつが出て行くんじゃないかっていう願望も、少しあったんだと思う。
時々は友成の方へと振り返って、泰恵に何か変化がないかと確認してから、再び鈴を鳴らす。ここで止めたら、いよいよどうにもならなくなるって思えてならなかったから、俺の頭には止めようなんて考えは全くなかった。
「ああ、もう、喧しいのう。そう何度も鳴らさなくとも聞こえておるわ」
「――え?」
多分、声を掛けられなかったら、腕が動かなくなるまで鈴を鳴らし続けたと思う。驚いた俺たちが振り返れば、誰もいない。そのまま、友子の向ける明かりが忙しなく動き、そこに俺たちの視線が注がれ……俺たちは、絶句した。
そこに、居た。そこ、鳥居の上に、女の子が居た。でも、普通の女の子じゃない。いや、女の子どころか……人間ではない。それだけは、一目で分かった。たぶん、友成と友子も……分かったと思う。
だって、その子の身体が……薄らと、光っていたのだ。後光っていうわけじゃないけど、輪郭にそって薄らと……光の帯みたいなのが見えるんだ。神社の中は真っ暗で、俺たちだって明かりがなければ互いの顔も分からない。だから、余計にソレがよく分かった。
しかも、恰好も普通じゃない。巫女さんとかが着ている……あの、赤と白のやつ。その子が身に纏っているのは、それだった。これだけ雪が降って、気温は氷点下になっているのに……その子は、まるで寒さなど感じていないかのように鳥居から俺たちの前に降り立った。
「お月様も凍える真冬の夜更けに何用じゃ」
「……え?」
「答えよ。汝らは、何用があって、何を求めてここへ参った?」
「え……え、え、ええ?」
「そこな娘のことか?」
「――え、あ、わ、わ、分かるんですか!?」
当たり前だろう。
そう言わんばかりに頷いたその子に……気づけば、俺たちは泣いてその子に縋っていた。俺たちの胸の辺りまでしかない小さいその子に頭を下げて、懇願し続けていた。
何で、その子に頭を下げたのか……たぶん、俺たちは言われるまでもなく分かったんだと思う。この子が、あの住職が話していた『たった一つの方法』なのだということが。感じ取れる雰囲気とか、そういうのを無意識に察していたのかもしれない。
「……ふむ、事情は察した」
だから、その子がそう言って俺たちの間を通り抜け。
「付いてまいれ」
そう、言ってくれた時……情けないことだが、俺は腰が抜けかけた程に安堵してしまった。まだ、何も解決したわけではないのに。
そのことを思い出した俺は、俺と同じくその場にへたり込みかけている友成の肩を叩いて、泰恵を引っ張る。友成も、我に返って一緒に引っ張ってくれた。
「ねえ、見た? あの子、頭に角が……」
「ああ、そうだな。角が生えていたな」
「ねえ、やっぱりあの子、普通の人間じゃないよ」
「普通じゃないから、ここを紹介されたんだろ」
友成の言葉に、俺は心の中で頷く。そうだ、そんなの関係ない。あの子が何であれ、どうにか出来るのはあの子しかいない。とにかく、何とかしてもらえる……そう思って、その子の後に続くしか、俺たちには方法はないのだ。
そして……そこからは、まるでファンタジーな世界だった。
独りでに開く扉に、床一面に描かれた……文字っていうか、魔法陣みたいなもの。暖房なんて全く見当たらないのに、まるで別世界かと思える程の温かい空間。それに伴って、いくら数があるとはいえ、蝋燭だけでは不自然に思えるぐらいに明るい室内。
「そこな娘をここへ乗せ、召し物を全て脱がすのじゃ」
「ぬ、脱がすの!?」
「早うせい。汝らは、そこな娘を助けたいのであろう?」
言われるがまま、泰恵の服を脱がす。ジャケットはもちろん、上下の下着も。友子に任せてとか、友成は見るなとか、言える雰囲気じゃなかった。こんなことでこの子の機嫌を損なって追い出されでもしたら、本末転倒もいいところだったから。
「ぬしらは離れておれ。けして、陣に入ることなかれ」
全部脱がし終えると、今度はそう指示された。言われるがまま、俺たちは魔法陣から出て隅の方に立つ。俺たちがちゃんと魔法陣の外に出たのを確認したその子は、ほう、と大きく息を吐いて静かに両手を胸の前で合掌し、頭を下げ……顔を上げた、その直後。
祓(はら)い給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 守(まも)り給(たま)へ 幸(さき)はへ給(たま)へ
高天原(たかあまはら)に神留座(かむづまりま)す。神魯伎神魯美(かむろぎかむろみ)の詔以(みこともち)て。
皇御祖神伊邪那岐大神(すめみおやかむいざなぎのおおかみ)
筑紫(つくし)の日向(ひむが)の橘(たちばな)の小戸(をと)の阿波岐原(あわぎはら)に
御禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時に生座(あれませ)る祓戸(はらひと)の大神達(おおかみたち)
諸々の枉事罪穢(まがごとつみけが)れを拂(はら)ひ賜(たま)へ清め賜(たま)へと申す事の由を
天津神国津神(あまつかみくにつかみ)
八百萬(やおよろず)の神達共(かみたちとも)に聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)み申す
祓(はら)い給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 守(まも)り給(たま)へ 幸(さき)はへ給(たま)へ
天清浄(てんしょうじょう) 地清浄(ちしょうじょう) 内外清浄(ないげしょうじょう) 六根清浄(ろっこんしょうじょう)と 祓給(はらいたま)う
天清浄(てんしょうじょう)とは 天(てん)の七曜九曜(しちようくよう) 二十八宿(にじゅうはっしゅく)を清め
地清浄(ちしょうじょう)とは 地の神三十六神(ち・の・かみ・さんじゅうろくじん)を 清め
内外清浄(ないげしょうじょう)とは 家内三寳大荒神(かないさんぽうだいこうじん)を 清め
六根清浄(ろっこんしょうじょう)とは 其身其體(そのみそのたい)の穢(けが)れを
祓給(はらいたまえ) 清め給ふ事の由を
八百万(やおよろず)の神等(かみたち) 諸共に
小男鹿(さおしか)の 八(やつ)の御耳(おんみみ)を 振立て聞(きこ)し食(めせ)と申す
祓(はら)い給(たま)へ 清(きよ)め給(たま)へ 守(まも)り給(たま)へ 幸(さき)はへ給(たま)へ
……その子が、呪文……祝詞ってやつなのかもしれないけど、それを唱え始めた。初めて間近で見る……お祓いってやつに、俺は言葉を失くした。友成も、友子も、たぶん、俺と同じく目の前の光景に何も言えなくなっていたと思う。
でも、俺たちがそれ以上に、本当に驚き過ぎて言葉を失くしたのは……その、後。裸にされていることにすら気づいていないのか、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべながらブツブツと呟き続けるだけだった泰恵の様子が、一変したからであった。
まず、顔色が変わった。比喩じゃない。青白かった顔が、目に見えて分かるぐらいに紅潮したのだ。次に、ビクビクと身体を痙攣させ始めた。気を付けの姿勢を崩さないまま、まるで電気ショックを受けたみたいに泰恵は身体を痙攣させ始めたのだ。
異様……そう、はっきり言って、異様な光景だった。でも、不思議と……怖いとは思わなかった。それに、不安も感じなかった。ただ、これで助かるのだという思いと、神聖な……そう、神聖なモノを見ているのだという思いが同時に湧き起こって来て、俺は、俺たちは、ただただ眼前の光景を見つめる他なかった。
そして、そのままその子がどれ程呪文を唱え続けたのかは分からない。ただ、不意に呪文を唱えるのを止めたその子は、片手を泰恵の体内に差し込み……確かに差し込んだ後。何かを掴んだかのように握り締められたその手が引かれた後。
――フッと、意識が遠のいた。
次に目が覚めた時にはもう、俺たちはパーキングに止めたはずの車の中にいた。友成も、友子も、前の席にいて、たった今俺がそうだったように、座席にもたれかかった状態で寝息を立てていた。
どうやって、俺たちがここまで戻って来たのか。それは、全く分からなかった。でも、肩に感じる泰恵の体温と、その寝顔に浮かぶ……俺の、俺のよく知っている泰恵の寝顔であるのが分かった俺は……もう、それだけで十分だった。
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