第6話(表):鬼姫、復活するってよ! やっぱ生身ないと駄目だな!

 


 季節は冬、真っ盛りであった。今年は、例年よりも気温が低い。いわゆる、寒冷前線の影響というやつだ。湿った低気圧が日本連投の頭上を通過しているようで、毎日の気温はマイナスを余裕に下回り、大粒の雪が豪雨の如く降り続いていた。


 鬼姫の神社がある○○山にはあまり雪は降らないが、それでもある程度は白色に染まる。お由宇の神社がある町においては、もはや一面が銀世界。例年からは考えられなかった異常気象に、誰も彼もが困惑しっぱなしであった。


 その光景はまるで、町全体に発泡スチロールを被せたかのよう。解ける間もなく降り注ぐ雪はうず高く積もり、暦が本格的な冬の真っただ中に差し掛かった時にはもう、子供の背丈よりも高い雪壁が街の至る所にいくつも形成されていた。


 当然、それはお由宇が住まう神社も例外ではない。降り積もる雪は只でさえ人目に付きにくい位置にある神社を覆い隠し、鳥居はもちろんのこと、神社そのものを押し潰さんばかりに雪の束が圧し掛かっていた。


 このままいけば、いずれ雪の重みに耐えきれずに神社は倒壊する……のだが、万が一にもこの倒壊のせいで管理責任が問われる事態にもなれば、さすがに捨て置かれた神社とはいえ、潰れるのを黙って見過ごすわけもない。


 この時ばかりは依頼を受けた業者の者たちが雪下ろしを行い、雪が凍らないように様々な処置を既に行っていた。しかし、それでも相手は自然現象だ。人間がいくら手を掛けたところで、こちらは無尽蔵だと言わんばかりに雪は振り続ける。


 神様の住居なのにと言われそうだが、業者も慈善事業というわけではない。ある程度はサービスしてくれたものの、支払われる予算の都合も相まって、屋根から下ろした雪は境内へと捨て置かれるだけで、自然に溶けるまで放置されることとなった。


 まあ、どこもかしこも雪だらけなのだから仕方がないのかもしれない。結果、辛うじてお参りが出来るだけの処置は常に取られたものの、お由宇の住まう社は雪壁に覆われたまま、まるで牢獄のような閉塞感の中で何事もなく年明けを迎えることに――。


『のう、お由宇よ。一つ聞いていいかのう?』


 ――なる、はずだった。そうなるはずだったのだが……違った。太陽光を含めて光源が入り込まない本殿の中は、昼間でもかなり暗い。おまけに本殿を囲うように放置された雪のせいで、只でさえ光がほとんど入り込まない本殿の中は、暗黒という言葉が似合う程に真っ暗で、静まり返っていた。


 その日は、ことさら強い寒気が日本列島を襲った日であった。昼間ですら、ジャケットを着ていても芯から凍えてしまいそうに思える程に寒い。観測史上から見ても、歴史的な寒波と断言されてしまう程に冷え込んだ日であった。


『何だぇ?』


 そんな日の、夜。誰も居ないはずの社の中で、ポツリと……『常人には聞こえない声』が、静かに響いた。しかも、数は一つではなく、二つ。どちらの声も、声だけを聞けば、まだ年若い……少女と思えるぐらいの軽やかな声色であった。


『今日、ワシがここに来たのは昼過ぎじゃが、それからどれほど経っておるかのう?』


 片方の声の主は、かつては神童と称えられ、没してからは鬼姫(おにひめ)と呼ばれるようになった少女。いわゆる巫女服と呼ばれる衣服を身に纏っているいつもの恰好の鬼姫は、綺麗な顔立ちに似合わない酒臭いため息を零して、そう言った。


『さあて、如何ほどになるかは分かりんせんが、おおよそ半日は経つんではないでありんしょうかね』


 対して、首を傾げながらも答えたのは、一目で高値が付くと分かる豪華な着物に身を包んだ少女、お由宇(お・ゆう)。彼女は、この神社に祭られた『性愛を司る神』である。何の因果か時の帝すらも恐れた鬼姫と交流を持ち、今では気の置けない間柄となっている、その人であった。


『半日……そうか、もう、それぐらい経ったのか』


 しみじみと、鬼姫はそう言ってワンカップを傾ける。『そうですよ、もうそれぐらいになります』そんな鬼姫の反応にお由宇もそう言って頷くと、同じようにワンカップを傾けた。


 お由宇の言葉から察する通り、時刻は既に深夜と言っていい時間帯である。時計がない上に日差しが全く入らなかったせいで、鬼姫が気付かないのも無理はなかった。


 ……だが、お由宇が気に留めたのはそこではない。ぐびり、ぐびり、と喉を鳴らして一気飲みする鬼姫を他所に、お由宇は早々に傾けた酒を戻し、チラリと鬼姫を横目で見やると。


『それが、どうかしんしたかぇ?』


 しっとりと湿り気を帯びた声で、そう尋ねた。その声色に、少しばかり棘が見え隠れしたのは、果たして気のせいか……いや、気のせいではない。その声色には、小さく短くはあったが……確かに、棘が生えていた。


 と、いうのも、だ。鬼姫もお由宇も時間とは無縁な存在。お互いに朝か夜かの違いぐらいは目を向けることはあっても、所詮はそれだけのことでしかない。


 それなのに、わざわざ自分と居る時に時間を気にする。それも、お酒を飲んで楽しんでいる時に、用があるわけでもなければ、酔い潰れたわけでもないのに、だ。


 まるで、自分といるのは退屈だと言っているみたいではないか。早くここを出たいと言っているに等しいことではないか。さっさと帰ってひと眠りしたいと、言っているに等しいではないか。


 被害妄想と言われればそれまでだが、鬼姫から暗に時間を尋ねられたと思ったお由宇は、この時本気でそう思った。『神』の威信にかけて平静を取り繕ったものの、お由宇の視線はまるでねめつけるように鋭かった。


『お帰りになるんでありんしたら、お見送り致しんすよ』


 そう言って、お由宇はどこか散漫な所作で腰を上げ――。


『何じゃ、もうお開きか? ワシはもう少しお前と酒を酌み交わしたいのじゃが』


 ――た、直後。嘆くようにして呟かれた鬼姫の言葉に、お由宇は浮かびかけた笑みを顔ごと逸らして誤魔化す。『寂しいが、一人酒としゃれ込もうかのう』次いで、立ち上がろうとする鬼姫の裾を掴んで『まあ、待ちなんし。どなたも嫌とは言ってないでありんしょう』軽く引っ張ると、上げ始めた鬼姫の腰を無理やり下ろさせながら、自らも腰を下ろした。


『そう、逸らすに。わちきも、ぬし様とこうして飲み明かす夜を心地よいと思ってありんすから』

『んん、そうか? もしや、ワシに気を使ってそのようなことを言うておるわけではあるまいな?』

『なんと、わちきが、そのような薄情者に見えると……分かりんした。そこまでお嫌とおっしゃるぬし様をこれ以上引き留めるわけにもいきんせんね』


 そう言って、お由宇は再び腰を上げ『いやいや、待て待て。そう意地悪を言うでないわ』る前に、鬼姫が慌ててお由宇の袖を掴んで止めた。『さあ、飲み交わそうではないか』そのまま、縋り付くようにしてお由宇の肩に腕を回すと、残っていた己のワンカップをグビリと飲み干した。


 と、同時に。やれやれと、これ見よがしにお由宇はため息を吐くと、傍に置かれていた酒瓶の口を、そっと鬼姫に差し向ける。気づいた鬼姫が空になったワンカップを差し出せば、お由宇は実に手慣れた様子でそこに清酒を注ぐ。それを、鬼姫は喉を鳴らしてあっという間に飲み干す。


『まあまあ、相変わらずの飲みっぷりですこと』


 わちきもそれなりに自信はありんしたが、ぬし様には敵いんせんね。

 呆れた様子ながらもお由宇は笑みを浮かべてそう呟くと、再び鬼姫のカップに清酒を注いだ……と。


『ところで、先ほどは何故時間を気にしていたんでありんすか?』


 不意に、思い出した体を装ってお由宇は話を切り出した。当然、素面の時でさえ機微に疎いのに、強かに酔っている今の状態でそれを察せられる鬼姫ではない。『ああ、それはな』尋ねられたから、尋ねられたままに鬼姫は、素直に答えるだけであった。


『ほれ、あの子じゃよ。あの子は、ワシがここに戻って来たからずっとあそこに置かれている。いったい、どうするつもりなのじゃろうなあ……と、思ってな』


 あの子、と鬼姫が指差した先を見て……ああ、とお由宇は納得した。


 鬼姫が指差した先には……一言でいえば、物言わぬ物体と成り果てた『少女』。死後、半日以上は確実に経過しているであろう、『少女の遺体』が、布を被せられた状態で置かれていた。


 どう贔屓目に見ても、冬空の下に出るべきではない薄手の恰好。表情こそ穏やかであるものの、身体を丸める様にして静かに息絶えていたその姿は……憐れみを誘った。


 生前は温かったはずのその身体は今、氷と同じくらいに冷たくなっている。全身の肌は青白く、薄く閉じられた瞳はガラス玉のように無機質。そんな、少女の遺体を気の毒そうに見やった『まだ、歳若いのに哀れじゃのう』鬼姫は、初めてその子を見た時と同じように、もう一度手を合わせた。


 合わせて、お由宇ももう一度手を合わせる。かたり、かたり、障子を叩いているのは風の音か、雪の重みか。あるいは、哀れにも死を遂げてしまった少女の無念が今も残されているのか……それは、二人にも分からない事であった。


 ……。


 ……。


 …………亡骸として横たわっている少女の名は、名雪(なゆき)と言った。名雪がこの神社にやってきた時刻は、自分の神社の様子を見に行っていた鬼姫が戻る前の、今朝方。お由宇がその気配を感知し、その姿を捉えた時にはもう、手の施しようがない状態であった。


 名雪が居た場所は、境内に積まれた雪山の、偶発的に出来た窪みの中であった。身体を丸め、まるで外界を拒絶するかのように身を滑り込ませるような形でその窪みに身体を押し込んでいた。そして、お由宇に見守られるまま、そのままの姿勢で凍死したのであった。


 享年、11歳。お由宇の住まう神社から幾らか離れた場所にある小学校に通っており、もう4か月ほどで12歳になるはずの、命であった。


 言っては何だが、名雪そのものは探せばどこにでもいそうな内向的で素直な少女である。私が(魂となった名雪と)話をした限りでは、そのような印象を受けた。そう、誰に言うでもなくお由宇が呟いたのは、鬼姫がこの神社に戻って来てすぐのことであった。


『まだ、気にしておるのか?』

『いちおうは、『神』を名乗ってありんすから。看取ってやることしか出来なかった己が、情けなくてなりんせん』


 いや、世には看取られることなく独りで旅立つ者が大勢おるのじゃが……その言葉を、鬼姫はあえて言おうとは思わなかった。


 何故かと言えば、お由宇の苦しみを晴らせられるのは、その何もしてやれなかった少女、名雪のみ。だが、既に少女の魂はここにない。ゆえに、お由宇が自ら折り合いを付けるしか、ないのである。


 ……ちなみに、名雪の魂がここにないのは、お由宇の手で極楽浄土へ運ばれた(お由宇曰く、『神』であるならば何者でも出来ることであります)からである。間違っても鬼姫から放たれる『力』の余波を受けたからではないので、そのつもりで。


『それで? そろそろ、あの子の亡骸をここに隠した理由を知りたいのじゃが?』

『……そうでありんすね。何時までも黙っていては話が進みんせん。そろそろ、お話になるお時間でありんしょうか』


 湿っぽい空気を振り払うかのように、鬼姫は居住まいを正す。当然、お由宇も同様に居住まいを正し、露わになっていた胸元をしゅるりと着物の中に隠す。次いで、お由宇は唇を湿らせるように清酒を一口含み飲むと……おもむろに、鬼姫へと手をついて頭を下げた。


 これには、鬼姫も面食らった。だが、お由宇の頭を上げさせようとはしなかった。それよりも、鬼姫は気を引き締める。『神』であるお由宇が、挨拶とは別の理由で頭を下げるのだ……それだけの何かがあると、鬼姫は判断した。


『鬼姫様、どうか、お由宇の……名雪の、残念無念を晴らしてやってくんなまし』

『無念……とな?』


 ただ、物騒な言葉がお由宇の口から飛び出したことには多少、目を瞬かせた。それでも、あい、とお由宇が頭を上げた頃には澄ました顔になっていた。


『ワシで良ければ力は貸すが、しかし、お前は『神』であろう?』


 何を頼むのかは分からないが、何を頼むにしても何かを害することにはなるだろう。そう、暗に尋ねたつもりであったが、『『神』であるからこそ、ですよ』お由宇は厳しい面持ちで虚空を見つめた。


『わちきが守るのは人間様でありんす。無謀無鉄砲の愚か者であろうとも、わちきが見守るは人でございんす。畜生にすら至りんせん下劣外道の獣は、その範疇ではございんせん』

『……よほどの、ことなのか?』


 慈悲深いお由宇の口から飛び出した苛烈な言葉に、鬼姫は目を瞬かせた。だが、お由宇は撤回する気はないのか、『よほど、でありんす』むしろまだまだ言い足りないと言わんばかりに目じりを釣り上げた。


『これは、名雪が終いの力を振り絞ってわちきに伝えた声なき声。終いの終いにわちきへと願った怨念……聞けば、わちきが如何に怒りに打ち震えてありすかが分かりんしょう』


 それから、幾しばらく。ぽつり、ぽつり、思い出しながらお由宇が語った名雪の11年の生涯は……一言でいえば不遇の二文字。幸せとは言い難い生前を送った鬼姫から見ても、何とも気の毒で、何とも怒りを覚えるものであった。


 名雪は、ごく普通とは言い難い母親の中にて生を受けた。父親は、いない。正確に言えば、逃げ出してどこかへ行ったのだが、今は話を戻す。この母親だがまた、碌でもない母親であったのだ。


 おそらく名雪は、不義の子か、あるいは望まれぬ子供であったのかもしれない。辛うじて死ぬことなく幼少期を過ごした名雪にとって、母親は恐怖の対象でしかなく、毎日暴力と罵声に怯えてその日を過ごしていた。


 名雪には、友達がいなかった。幼稚園などの施設に入ったことがないのもそうだが、肌に痣を作り、冬でも薄汚れた衣服に身を包んでいる名雪と、友達になろうとする者がいなかったらだ。それも、単に母親と……名雪が6歳の時に、その母親が連れて来た新しい『カレシ』のせいであった。


 この『カレシ』だが……語るたびに唾を吐きつけたくなるほどの、極悪非道の者であった。そして、この『カレシ』が名雪の義理の父となったときから、名雪の本当の意味での地獄は始まった。


 何故なら、この『カレシ』は名雪に手を出していたのだ。まだ、頑是ない齢の名雪を押さえつけ、無理やり行為に及んだ。しかも、それを……本来、守るべき母親が自ら率先して協力したのである。


 嫉妬か、あるいは道具として使おうと思ったかは定かではないが、まさしく極悪非道。幼き時から続けられた虐待の記憶に縛られた名雪の頭に、誰かに助けを求めるといった考えなど、なかった。


 そして、ついにその時は来た。来る日も来る日も行われるその行為に、名雪の精神は完全に崩壊し……衝動に駆られるがまま暴れ回り、着の身着のままで地獄から飛び出した。そして、彷徨いながら逃げ続けた後、お由宇のいるこの神社に辿り着いた……というわけであった。


『まことに恐ろしきは生きた人間……よく言ったものじゃな』


 すっかり不味くなった酒を、鬼姫はぐびりと飲み干す。次いで、腰を上げて物言わぬ亡骸へと歩み寄り……おもむろに、名雪の身体を覆い隠している布を取り去ると、泥と垢で薄汚れた洋服を捲り上げ……静かに、元に戻した。


『わちきが見た所、3歳そこらからでありんすぇ。長年かけて慰み者にされてきたせいで、わずか11歳にして子を孕めない身体に……お労しい限りですぇ』


 思い出したように話を補足してくれたが、そんなこと、言われるまでもなく鬼姫には分かっていた。


 ……これで、11歳の子供の身体か。よく、この身体で11まで生きられたものよ。


 その言葉を、鬼姫は口には出さなかった。とても言葉には言い表せられないぐらい酷いものになっているその亡骸に、鬼姫はただただ安らかな眠りを願ってもう一度手を合わし……お由宇へと振り返った。


『それで、ワシにどうしろと?』

『協力、してくれるのでありんすか?』


『お主の頼みとあらば、な。それに、そのような下劣がのうのうと生きていること自体……虫唾が走るのじゃ』


 その言葉に、お由宇は心から安堵のため息を零した。と、いうのも、お由宇は『神』ではあるが、その『力』は神々の中では強くはない。加えて、霊的存在に対抗する術は心得ても、生者に何かを……害する術は心得ていなかったのだ。


 そもそも、お由宇はそういった『害を与える術』に関しては対極と言ってもいい存在で、言うなれば水と油。根本的に向いていないため、とてもではないが名雪の最後の恨みを晴らすだけの事は不可能であった……だが、しかし。


『それにしても、生き物相手に呪いを掛けるのは幾百年ぶりじゃろうか……神社を破壊しようとした者どもを打ち払う時以来じゃな』


 鬼姫がやるとなれば、話は別だ。ぐい、ぐい、と背筋を伸ばした鬼姫は、さて、と立ち上がって……亡骸を見下ろした。


 今でこそ鬼姫は丸くなって落ち着いてはいるものの、そもそもが恨みを抱いて『鬼』へと成り果てた存在。その気こそないものの、本質はお由宇とは対照的で、『害を与える術』に至っては、火に油……いや、火にガソリン並みに相性が良いのだ。


『それで、如何ほどがお望みかのう? 呪殺と一口に言っても様々じゃからな……まあ、気長に苦しめるのであれば、これが一番じゃぞ』


 しゅるりと、鬼姫の袖から黒い蛇が突如這い出る。それは数百年前、『鬼姫』の名を語って悪さを働こうとした愚か者(いつの時代も、信じられない愚行を仕出かす者はいるのだ)に対して鬼姫が放った術。説明すれば長くなるが、要は蛇の形を取った『呪殺の力』であり、言い換えれば『呪い』である。


 この蛇はまず、対象となる相手の心臓に絡み付く。それから、長い時間を掛けてゆっくりと、対象となった相手を死に至らしめない程度に苦しめ続ける。少しずつ、少しずつ、少しずつ、だ。


 最後、これ以上はどうあがいても対象者は死ぬ。呪いがそう判断するその時まで、対象者は心臓を締め上げられる激痛にもだえ苦しむ。死に至らしめない程度の力で、徐々に、徐々に、徐々に、だ。


 この呪いの恐ろしい点は、『とにかくゆっくりと苦しませながらも、けして対象となった相手を殺さない』というところだ。つまり、この呪いを受けた者は最後、この呪いに殺されるその時まで……死ぬことが出来ないのである。


 刃物等で自殺を図ろうとすれば、七転八倒する程の激痛の後に失神させられる。首を吊ろうとしても同様で、自殺の意志を少しでも感知した瞬間、呪いは対象者に激痛を与えて命を救おうとするだけでなく、呪い自らが表に出て対象者の身体を守るのである。


 獣やら何やらを使って外部の者に殺させようとしても、無駄だ。この呪いから放たれる『力』が、そういうことが出来る者たちを無意識に遠ざけてしまうからで……かつて、時の帝すら震え上がらせた理由の一つが、これであった。


『この娘が苦しみ抜いた11年間……までは続かぬじゃろうが、2,3年はもだえ苦しませることは出来るが……どうかのう?』

『別に方法は何でもいいんでありんすが、ぬし様、それだけでは駄目なんでありんすぇ。 あの子の、名雪の願いは、ただ苦しませることだけが目的ではありんせん』


 けれども、意外な事に。それでは不足だとお由宇の方から注文された。『ふむ、そうか』ちょっと自信はあったが、鬼姫は特に気にすることなく蛇を引っ込める。しかし、苦しませるだけではないとはいったい?


『あの子は、恨み抜いて命を落としたいわすことを、あの獣どもに知らしめたいんでありす』

『ふむ、つまり?』

『つまるところ、あの子の姿で事に当たって欲しいんでありんすぇ。身体なら如何様に使っても構いんせんからと、あの子が……』


 そう言うと、お由宇はそっと……名雪の亡骸を指差した。




 ――。


 ――。


 ――――夜の闇に、悲鳴と苦痛の呻き声が木霊した。その声は男のものと女のもので、腹の底から吐き出された苦悶の声に、静まり返っていた住宅街がにわかに騒がしくなった。


 悲鳴は、一度では収まらなかった。男が悲鳴をあげれば女の悲鳴が、女が悲鳴をあげれば、男の悲鳴が。まるで競い合っているかのように、二人の悲鳴がうわんうわんと夜の住宅街にエコーを響かせた。


 ぱっ、ぱっ、ぱっ。次々に点灯し、悲鳴の主を探そうと開け放たれていく窓と玄関。そして、そこから外を、廊下を、夜空を覗く人々。彼ら彼女らの顔は一様に不安に覆われ、いったい何事かと言わんばかりに近隣住民と顔を見合わせていた。


 ――その中で、一つだけ。


 蹴り破らん勢いで玄関を飛び出し、雪の上を転がった二人の男女がいた。二人は共に、生まれたままの姿であった。それだけを見れば注目を集めそうだが……今回に限り、二人が注目を集めた理由が異なっていた。


 2人の様子が、どう見ても尋常な様子ではなかった。顔色は街灯しかない暗がりの中でもはっきり分かる程に青白く、全身から湯気が立ちのぼるほどに汗を掻き、唇の端から泡を吹いてのた打ち回っていたのだ。


 しかも、二人が転がっているのは雪の上だ。踏み荒らされているそこは、もはや石のように固く、うっすらと汚れて変色している。だというのに、二人はそんなこと気にした素振りもなく、己が胸を握りつぶさんばかりに力強く、肉に食い込むぐらいに押さえて雪の上を転がり続けていた。


 悲鳴が、あがった。ざわめきが、広がっていく。悲鳴もざわめきも、その二人に気付いた誰かのもの。「――救急車だ!」どよめきから飛び出した、誰かの声が指示を仰ぐ。遅れて聞こえて来る、サイレンの音。あまりの苦痛に胃液を吐き出す二人を前に、何も出来ないでいる人々。


 現場は、混乱の極みにあった。けれども、そんな中であっても苦しみ抜いている二人にはどうでもよいことであった。集まり出した野次馬たちの視線を他所に、二人は生きていることすら嫌に思えるほどの激痛の中で、芯まで凍りついてしまいそうな寒さを感じながら、ただ、ひたすらに二人は悶え苦しんでいた。


 誰もが、二人に近寄れなかった。それは救護する自信と勇気を野次馬たちが持てなかったから……なのも理由の一つだが、一番の理由は他でもない。二人のあまりに『異様な姿』に、怖気づいてしまったからであった。


 それぐらい、二人の反応は異様で凄まじいものであり、仕方ないものであった。なにせ、激痛によって失禁し、痛みに耐えるせいで糞便どころか脱腸まで起こしただけに留まらない。


 おそらくは舌を噛んでしまったか、あるいは内臓が破裂したのか。げえげえと嘔吐し始めた胃液の中には鮮血が混じっており、素人である野次馬たちが怖気づくのも当然のことであった……と。


「――ぎぃえええええ、許してくれーー!!!」


 不意に、男の方が叫んだ。あまりに突然のことに、ギョッと目を見開く野次馬たち。その視線の先にいる男は、「いだいいだいいでぇいででででいでええええよおおおおお!!!!」唾を飛ばしてじたばたと転がる。


「――ごめんなさい! ごめんなさい! 私が悪かったから! 悪かったから!」


 つられたのか、女の方も悲鳴をあげた。よほどの激痛に襲われているのだろう。「○×~~!! ○×~~!!」苦痛の悲鳴の合間に何かを叫んでいるようにも聞こえたが、その場にいる誰もがそのことに気付くことはなく、もだえ苦しむ二人をただ見守るしか出来なかった。


 ……。


 ……。


 …………そう、野次馬たちは気付かなかった。


 2人を中心として、次々に円形に集まっていく人だかりの中から、一人だけ。この寒空の下、薄手のシャツを着た少女が、特に寒さを覚える様子もなく颯爽とその場を離れていくのを。


 よくよく見ればその手足は傷だらけであり、両足に至っては裸足。そんな状態で氷のように固くなった道路を歩けば、凍傷どころではない。


 皮膚が道路に張り付いて酷い事になりそうなものなのに、その少女は気にした様子はなく……その姿が、街灯がもたらす光の間に隠れた、その瞬間。


 それを目撃した者がいたなら、まず己の目を疑い、恐怖に震えたことだろう。なにせ、そのまま行けば街灯の下に出るはずの少女が、こつ然と姿を消したからだ。


 まるで、幽霊を見たかのよう。それを怖がるな、という方が無理な話である。幸いにもそれを目撃した者はいなかったので、騒ぎになるようなことはなかった……だが、しかし。


 幻であったかのように姿を消した少女がまさか、幽霊でも何でもない実在する存在であるということなど。


 姿を消した少女が再び現れたのが、現場から幾らか離れた場所にひっそりと佇む、神社の境内の中であるということなど。


 その時にはもう、その少女の出で立ちは薄汚れた恰好のそれではなく、真新しい巫女服になっていたということなど。


 月の光に照らされたその身体がぐにゃりと崩れたと思ったら、その次には左右一対の角を生やした美少女になったということなど。


 角を生やした美少女がそのまま、鍵が掛けられた社の扉をすり抜けて中に入った瞬間、迎えるかの様に社が一度だけ軋んだということなど。


 仮に少女の姿を目撃していたとしても、まさかその少女がそのようなことになっているとは……その者たちは思いもよらなかったことだろう。


 ましてや、明かり一つない暗闇の中。その角を生やした美少女の正体が、かつては時の帝すら震え上がらせた、かの悪名高き――。


「あれで、あの子は満足したかのう? 恨みは晴れたか?」

『あいな。先ほど様子を見に行きんしたが、積年の恨みが晴れて清々しい顔になっておりんしたよ』

「それは重畳じゃな。さて、気分も晴れやかじゃから酒でも飲むとするかのう」

『そのお身体で? いちおうは忠告しておきんすが、『鬼姫』とて今は11歳の子供だといわすことをお忘れでは?』

「ワシが乗り移った瞬間から、この身体は人のソレではないのじゃ。見た目だけが変わったわけではないのじゃ」


 ――『鬼姫』であるなどと。その『鬼姫』が、常人には見ることも触れることも出来ない、この神社の主である『神』と親しいとは……夢にも思うまいことであった。





 ――何故、死者である『鬼姫』が生身の身体を得ているのか。


 それは、単に名雪のおかげであると同時に、名雪の悲願の結果。文字通り、名雪はその身を鬼姫に捧げることで鬼姫に肉体を与え、再び生者としてこの世界に誕生させたのだ。


 名雪が望んだのは、『名雪の姿』で復讐すること。『名雪は恨みを抱いていた』ということを、名雪の両親に知らしめる為に、鬼姫は名雪の身体に乗り移った。そして、そのまま名雪の姿を借りた上であの両親に復讐を遂げたのである。


 もちろん、そんなことが出来たのは鬼姫だからである。並みの霊であれば、例え乗り移ったとしても霊体の時のような芸当は出来ない。


 せいぜいが肉体を食らって『力』を付けるか、その持ち主の運動能力をそのまま流用するぐらいだ。とてもではないが、肉体を自由自在に操って他者を呪い殺すなんていう回りくどいことは出来ないし、やらない。


 神々すら恐れるほどの『力』を持つ鬼姫だからこそ、出来たこと。鬼姫だからこそ、肉体を持ったまま他者を呪うなんて芸当が可能なのであった。


 ……なのだが、実は、復讐を遂げることが出来た要因は、それだけではない。


 実は、もう一つ、今回の復讐を行うに当たって重要となる要因があった。言い換えれば、それが解決したからこそ鬼姫は名雪の悲願を妥協することなく叶えられたわけであり、その要因とは、すなわち――。


「しかし、この名雪から譲り受けた肉体……」


 喉を鳴らして飲み干したワンカップを下ろした鬼姫が、誰に言うでもなく呟く。『名雪のお身体が、どうかしんしたかぇ?』注がれた清酒に「おっとっと」鬼姫は笑みを浮かべて受けると、「――ワシも、この身体に乗り移った時に分かったことなのじゃがな」そう言って己が身体を見下ろした。


「名雪の身体……やはり、普通の身体ではないのじゃ」

『……と、言いんすと?』

「言ってしまえば、『器』が大きいのじゃ。はてしなく巨大で、はてしなく底が深い。ワシが乗り移っても壊れないどころか、まだ余裕を残す『器』なんぞ、初めてのことじゃぞ」


 ――そう。それこそが、今回の復讐を遂げるうえで非常に重要なことであった、もう一つの要因。それは、『鬼姫』という強大で膨大な『力』を乗せても壊れない、『稀有な器』を名雪が持っていたという点であった。


 何故それが重要なのかといえば、だ。鬼姫は神社から離れることが出来ないからだ。まあ、絶対に離れられないというわけではないが、それでも長時間離れるのは不可能だ。


 ならば、どうするか?


 答えは簡単、生者に憑りつけばいい。憑りついている間は、例え鬼姫を抑える『刀』が離れていても鬼姫は平穏無事。自由気ままに外界を出歩けるのだ。


 ……何だ、簡単なことではないか。というか、だったら今までだって自由に神社から離れられたではないか。

 ……これを聞いた者はおそらく、そう呆れたことだろう。だが、そこで少し立ち止まって、考え直してほしい。


 仮に、仮にだ。他の幽霊がやるのと同じように、鬼姫が、『神をも恐れる鬼姫』が、そこらの幽霊がやるのと同じように生者に憑りついて、果たして無事に事が運ぶだろうか。


 答えは、否、この一文字である。何故かと問われれば、それも単純明快……耐えられないのだ。生者の脆弱な『器』では、鬼姫という超巨大な『力』を流し込んだ瞬間、『器』ごと生者の肉体が崩壊してしまうのである。


 分かり易く言い換えるならそれは、大型旅客機に装着するサイズのジェットエンジンを一輪車に取り付けるようなものだ。壊れずに原形を保っているだけでも奇跡なのに、それで点火しようものなら……ということなのである。


 だからこそ、名雪が持っていた『器』は稀有なのだ。おそらく、これから数百年先にまでは現れないであろうぐらいの……それぐらい稀な『器』だったのである。


 時折、そういうことがある。本来なら同じ割合で保たれている『力』と『器』の均衡が、どちらか一方に著しく傾いて失われている者が。


 本来であれば、そういった者は短命であるか、成長していくに従って徐々に傾きも水平に戻ってゆくのだが……名雪は、その傾きがあまりに極端すぎた。


 言うなれば、名雪の『器』は『底なし』なのである。しかもその『器』自体が、お由宇も鬼姫も『名雪に憑りついていた数万にも達する面倒なやつ』に気付けなかったぐらいに、その『器』が巨大だったのだ。


 何とも、事実をこの目にした後でも信じがたい話である。しかも、あまりに名雪の『器』が巨大過ぎて、憑りついた霊たちが何も出来ないままでいた(ちなみに、その霊たちは鬼姫が纏めて消し飛ばした)だけでなく、鬼姫ですら実際に憑りつくまで、『器の大きさ』を正確に把握出来なかったのだから驚きである。


「ワシはこの身体の持ち主、名雪が不憫でならぬのじゃ」


 だからこそ、それが分かったからこそ、鬼姫はそう言わずにはいられなかった。


「生まれる所と時代が違えば、稀代の『神降ろしの巫女』として歴史に名を残していただろうに……何と、哀れな運命よの」


 鬼姫の嘆きに、『ほんに、ほんに』お由宇も深々と頷いた。


 単に、名雪は運が悪かったのだ。もう少しマシな両親の下で生まれていたら、周囲に助けを求められる誰かが居たなら、名雪が男として生まれていたなら……また、結果は違っていたのかもしれない。


『そう言いますれば、その名雪の身体……いえ、もうぬし様の身体になっておりんすが、今後はそれをどうするおつもりでありんすか?』


 しんみりとした空気を切り替えたいのか、お由宇は思い出したように顔をあげた。「ああ、これか?」鬼姫も、同じ気持ちであったのだろう。グイッと喉を鳴らして清酒を流し込むと、改めて己が身体を見下ろした。


「果てさて、どうしたものかのう。この身体が男であったならばしばらく楽しめたのじゃが。さすがにもう、女の身体は飽きたのじゃ」

『……なんと、わちきは驚きんした。吃驚仰天でありんす 。女でありながら、男でいたいとおっしゃるとは……ぬし様を知る者が聞けば、さぞ驚きになられるでありんしょうぇ』


 と、言いつつもお由宇は軽く目を瞬かせただけで、大して驚いた様子には見られなかった。


「お由宇、酒が零れておるのじゃ」

『……あ、失礼。わちきとしたことが、とんだ失礼をば』


 いや、訂正。どうやら、かなり驚いていたようだ。


「気色悪いと思うか?」

『いいえ、いいえ。男が男らしく、女が女らしくを求めるのが当然のように、男が女に、女が男に、そうなりたいと求めるのもまた、自然なことなんでございんす』


 けれども、それを気味が悪い事だとは口にせず、また本当に心にもそう考えていないのは、『性愛』を司る『神』だからこそ、なのかもしれない。


『しかし、成りたいんでありすなら、そう成ればよろしいんでは? 今のぬし 様なら、容易くとはいかずとも手数(でず)ことじゃあありんせんと思いんすが……』


 お由宇からすれば、それはごく当たり前の疑問であった。


 なにせ、今の姿かたちですら元々の……つまり、名雪の面影は全くない。鬼姫から放たれている『力』の余波によって、意識して名雪の姿になろうとしなければ、鬼姫自身の意志に関係なく今の(鬼姫の)姿になってしまうからである。


 そこから考えれば、だ。何もしなくても姿かたちが変わるぐらいなのだから、その気になれば性別はもちろんのこと、大人にも子供にもなれるのではないか……というのが、お由宇の率直な推測であった。


「……まあ、お前が思っている通り、ワシにとっては確かに難しいことではないのじゃ」


 ――実際、お由宇の推測は当たっていた。


 鬼姫はあえてそれを言おうとは思わなかったが、その気になれば鬼姫は何時でも男に成れた。しかし、鬼姫は姿かたちが自然に変わるのは仕方がないことだとしても、必要でもないのにそうしようとは思わなかった。


『では、何故?』

「それは、ワシが女として生まれたからじゃ」

『……と、おっしゃると?』

「そのまんまじゃよ。ワシは、『女として生まれてしまった』。だから、『女のままに死ぬ』。ただ、それだけのことよ」

『…………』

「望もうが、望まなかろうが、女として生まれたのであれば、女として成さねばならない宿命がある……それは、『神』であるお主にも分かるじゃろ?」

『あい』

「男として生まれたならば、男としての宿命があるように。女として生まれたならば、女としての宿命がある。ワシは……その宿命から逃げたのじゃ」


 そこで、鬼姫は清酒を一口。それが、話を切り上げる合図だったのだろう。清酒で唇を薄らと湿らせた鬼姫は、「まあ、昔々のお話じゃがな」そう言ってワンカップを傍に置くと、そのままごろりと仰向けになった。はしたない恰好だが、鬼姫はもちろんのこと、慣れたお由宇も特に何かを言うことはなかった。


「少々はしゃぎ疲れた、ワシは寝る。この身体は……とりあえず、目処が立つまではワシが預かろう。下手に放り出せば騒ぎになるだけじゃし、既にワシが一度憑りついたから、腐ることもないじゃろうからな」

『ぬし様がそう決めたのなら、わちきはそれで……しかし、今のぬし様は生身。せめて何かを掛けんせんと、お身体に障りんすよ』

「言うたであろう、今のワシは、人のソレではないとな。安心せい、風邪なんぞ引きはせぬよ」


 そう言うと、鬼姫は一つ、二つ、三つ。大きく深呼吸を繰り返すと……静かに、寝息を立て始めた。どこぞの少年並みの寝入りの速さであった。


 ……。


 ……。


 …………少しの間、お由宇は鬼姫の寝顔を眺めていた。時間にして、おそらく十分程だろうか。『お疲れ様でありんした』その言葉と共にお由宇は両手を突いて、深々と頭を下げた。


 次いで、よいしょ、と立ち上がったお由宇は、掛けられそうな物はないかと踵を翻す。どれもこれも埃被っているが、記憶が確かなら、封を切っていない新品の、神具を包む為の毛布か何かが社のどこかに仕舞われていたはず。


 まあ、鬼姫なら名雪に被せていたアレで十分だとか言い出しそうだが……いくら何でも、それを使うわけにはいくまい。さてと、どこに仕舞われていたのやら……と。


 ――んっ?


 不意に、お由宇は足を止めて、視線を社の外である境内の方へと向けた。


『こな時間に参拝客とは……酔いどれすぇ……いんや、これは……『訳あり』なんしかぇ』


 まだそれは、境内には入って来ていない。だがしかし、確かに気配は近づいてくる。人数まではまだ分からないが、感じ取れる気配から……お由宇は、深々とため息を吐いた。吐かずには、いられなかった。


 ここ、しばらく。こういうことが続いている。


 『物の怪』や『魑魅魍魎』といったやつらに憑りつかれた者たちが、朝も夜も関係なく尋ねてくるようになった。現状、この神社にいる『神』はお由宇ただ一柱のみ。


 元々『力』のある『神』ではないから、こうも次々に来られるのは……正直、疲れるし、こっちが持たない。しかも、その大半がお由宇の手におえない『面倒なやつら』で、その都度鬼姫の助力を借りているとなれば……申し訳ない気持ちで一杯である。


 ――以前はこなこと、なかったんに。


 お由宇は思わず頭に手を当てた……原因は、今もはっきりしていない。ただし、おそらくは、鬼姫がこの神社に来たからなのかもしれない……と、お由宇は推測していた。


 そのせいか、最近の鬼姫は少しばかり居心地悪そうにしていることが多い。その証拠に、神社の様子を見に行くとかでここを離れることが以前よりも増えた……気がする。多分、鬼姫自身も己と似たような結論に至っているのだろうと、お由宇は思う。


 そなぁの、気にしなくても良いんに。


 面と向かってそう言えたら楽なのになあ、とお由宇は再びため息を吐く。一拍おいて、いつまでもこうしているわけにもいかない、と気持ちを切り替えて、ようやく境内へと入って来た気配を探り……ああ、と今度は別の理由からため息を吐いた。


 ……気配から感じ取れる『力』の強さは案の定、どう甘く見積もってもお由宇よりも上だ。加えて、おそらくこれは一体ではなく、大小様々な怨念やら何やらが凝り固まって一つとなっている、複合的なタイプの『面倒なやつ』だ。


 とてもではないが、お由宇では祓うことはおろか静めるだけでも難しい。普段ならば、すぐにでも鬼姫の手を借りるべき相手であるが……チラリと、お由宇は鬼姫の寝顔を見やると。


『……わちきの力が、どこまで通用するかは分かりんせんが……やってみんしょう』


 せめて、命だけは奪わんせんように出来んしたら。


 そう決断したお由宇は、鬼姫を起こさないように気を使い――その、瞬間だった。


 ――からん、からん。


 そんなお由宇の判断を嘲笑うかのように、異音が神社に鳴り響いたのは。聞こえてきた異音に、お由宇は思わず頬を強張らせた。

 普段のお由宇なら異音がしたぐらいで足を止めるようなことはないが、その異音だけは話が違う。何故なら、その異音の正体が他でもない……この社に取り付けられている本坪鈴の音色であったからだ。


 ――からん、からん、からん。


 再び鳴り響く、鈴の音。誰が鳴らしたなんて考えるまでも、探る必要もない。この神社にやってきた者たちが鳴らしているのだ。辺りの迷惑も考えず、力いっぱい鈴緒を振り回しているのが目に浮かぶ――。


「……客か? 面倒な気配がびんびん伝わってくるのじゃ」


 ――ようだ。


 そう思った直後に聞こえた微かな声に、お由宇はわけもなく肩をびくつかせた。そうなってほしくはないと思いながらも振り返ったお由宇は……しっかり身体を起こしている鬼姫を見て、深々とため息を吐いたのであった。


「ん、なんじゃ? 人の顔を見て溜め息なんぞ吐いて」

『気を悪くさせたんならお許しなんし。起こしてしまいんしたことが申し訳ないんすよぅ』

「ふむ、そうか。さて、それじゃあ行くとするかのう」

『行くって、どこへ?』


 聞くまでもないことだとは分かっていたが、お由宇はあえて尋ねる。けれども、それは鬼姫も同様であった。鬼姫は何も言わずにお由宇に笑みを向けると、その足でふわりと床を蹴った……言うまでもなく、その行き先は外。


 ――からん、からん、からん、からん。


 途端、早く来いと言わんばかりに鳴り響く鈴の音。「はいはい、年寄りを急かすでないのじゃ」そう鬼姫は言い残して、ふわりと屋根の上へと消えた。


 たぶん、正面から行って下手に刺激させないようにと考えたのだろう。尋ねてくる『訳あり』はけっこうな割合で、鬼姫から放たれる『力』の影響を受け――って、あっ!


『ぬし様、今は生身の身体では……?』


 今更ながらに思い出した事実に、お由宇はハッと顔をあげる。けれども、その時には既に鬼姫が参拝客たちの元に到着した後だった。


 ……まあ、当然、鬼姫も分かって何かしらの対策をしているだろう。何だかんだ言いつつも、鬼姫の『力』は己よりもはるかに強大だし、こういった荒事には慣れているだろうし。


 そう判断したお由宇は、邪魔にならないようにこっそり鬼姫の後を追い掛けることにした。何も出来ないとしても、見守るぐらいはしなければ……その、一心で。





 そして、まさかお由宇からそんな心配をされていることに気付いてすらいない、鬼姫は、というと。


 意気揚々と社の屋根へと跳び上がった鬼姫は、一蹴りで鳥居へと飛び移る。雪一粒すら飛び散らず、足跡も残らない……はずなのだが、「あれ、今何か……?」その音に辺りを見回す参拝客……いや、若者たちの様子を確認した瞬間。


(――し、しまった! 生身の身体でいたことをすっかり忘れておったのじゃ!)


 ようやく、鬼姫はそのことに気付いたのであった。案の定というか、何というか。お由宇の考えていた通り、当然、鬼姫は自らが生身であることを分かって……いるわけがなかったのだ。


(今、この身体から抜けると名雪の身体が地面に真っ逆さま……しかし、今更戻るのはワシの面子が……ううむ、このままやるしかないのう)


 ひとまず、動くのは中止。一旦止まることにした鬼姫はその場に胡坐を掻いた。生身とはいえ、鬼姫に寒さや雪などは無用の心配である。そのまま、若者たちに気付かれないように気を付けながら……静かに、彼ら彼女らの状態を探った。


 人数は、4人だ。男が二人に女が二人。霊気の意図が男女同士で繋がっているのが確認出来る辺り……おそらく、恋人が二組、といったところか。鳴らしている男が一人、様子のおかしい女を押さえつける男が一人に、3人の後ろから明かりを向けている女が一人……計、4人。


 しんしんと、緩やかではあるが今も降り続けている雪が、4人の衣服に張り付いていくのが見て取れる。雪かきされていたとはいえ、鳥居から社へと続く参道も、膝の辺りにまで雪が積もっている。それでもなお参拝した辺り……よほどの火急の用事なのだろう。


 まあ、傘も差さず、こんな夜更けに、近所の迷惑を顧みずに、がんしゃらがんしゃらと、苛立ちを覚えるぐらいにしつこく鈴の音を響かせ続けているのだ。


 医者ではどうにもならない事態に陥ったのを自覚して来たであろうことは、考えるまでもなく明白。そしてそれは4人の内の一人、二十代半ばだと思われる女性を見れば一目瞭然であった。


(てん、そう、めつ……ふむ、転・葬・滅、か。正確な意味は分からぬが、呪術的な言霊の一種であると見て、まず間違いないみたいじゃのう……というか、鈴が煩いのう。そんなに鳴らさんでも聞こえておるのじゃ)


 生身を得た鬼姫の前では、例え距離のある場所で呟いているだけだとしても、耳元で囁かれるも同じこと。ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべて正気を失っている女の様子から、鬼姫は女に憑りついているモノの正体を探る。


(海の……いや、違う。この臭いは山じゃな。それも、川や木々ではなく、もっと奥深いところ、何とも淀んだ臭いを放つやつじゃな……ああ、もう。もう分かったから鈴を鳴らすのは止めよ)


 元々(女として転生を果たしてからもそうだが)、そういった方面への造詣は深く、鬼姫が『鬼姫』として再誕してから、時間だけは掃いて捨てたくなるほどにあった。


 さすがに記録にすら残っていないやつは鬼姫にも分からないが、それでも気配からソレのおおよそが分かる。なので、例え憑りついているソレが女性の中に隠れていたとしても、鬼姫にはソレがどういう類のモノなのかが推測出来た……だが、しかし。


(今のワシ、生身じゃしなあ。下手に騒ぎを起こすのもなあ)


 そこで、鬼姫のはうーん、と首を傾げた。


(ここの主はお由宇じゃから、ワシが出張るわけにも……神の真似事で誤魔化すか……というか、お主ら本当に煩いのう)


 推測出来たからといって、どうにもならないこともある。そして、どうにもならないことをどうにかしようとしている時に、さっさとどうにかしてくれと急き立てられれば……チクリと怒りも湧き起こる。


(考えてみれば、今はもう夜更けもよいところじゃぞ。それをお前ら、お由宇の迷惑も考えぬばかりか、がしゃがしゃらと鈴を鳴らしおって……!)


 例えそれが、止む負えない事情であったとしても、鬼姫からすれば知ったことではない話。そして、今も絶えずがんしゃらがんしゃら鈴を鳴らし続ける若者たちの姿を前にして、沸々と湧き起こっていた怒りが……ぶちん、と何かをキレさせるのは、思いのほか容易かった。


「ああ、もう、喧しいのじゃ! そう何度も鳴らさなくとも聞こえておるわい!」


 只でさえ我慢ということが大嫌いな鬼姫の堪忍袋の緒を切らすには、十分な行為であった。「――えっ!?」鬼姫の声に気付いた若者たちが一斉に顔をあげ……鬼姫に気づく。


(ええい、もう自棄じゃ!)


 けれども、もう色々と面倒になった鬼姫には関係なかった。というか、もう見つかってしまった以上はグダグダ悩んでいたところで今更止められない。やると決めたら、もうやるしかないのだ。


 頭の中の冷静な部分が“後でお由宇に怒られても知らんぞ”と忠告してくれたが、構わず鬼姫は鳥居から飛ぶ。ふわり、と、若者たちの前に降り立つと、ふんす、と腕を組んで若者たちを睨みつけた。


「お月様も凍える真冬の夜更けに何用じゃ」

「……え?」

「答えよ。汝らは、何用があって、何を求めてここへ参った?」

「え……え、え、ええ?」

「そこな娘のことか?」

「――え、あ、わ、わ、分かるんですか!?」


 いや、分からないわけがなかろう。


 そう反射的に言い掛けた鬼姫だったが、寸でのところで呑み込む。姿を見られてしまった以上、さすがに普段の調子を出すわけにはいかない。けれども、今の神様の振る舞いなど鬼姫が知るわけもなく……辛うじて『生前の調子に乗っていた時の口調』を出せただけでも、鬼姫にとっては上出来であった。


「お、お願いします、助けてください! 俺たち、山の中で変なモノを見たせいで、美保が、美保だけがおかしくなって!」

「お寺に連れて行っても、「うちではどうにもできない」って言われて。ここなら、もしかしたらって場所だけ教えられて、何とか連れて来たんだ!」

「お願いします、美保を、美保を助けてください! そいつに出会ってから、ずっと、ずっと美保は、美保は……ふえええ、えええええん」


 ――ええい、一度に喋るな。何を言っているのかさっぱり分からんのじゃ。


 喉まで出かけた言葉をもう一度、鬼姫は唾と共に飲み込む。「ふむ、事情は察した」とりあえずは、それで誤魔化したが……さて、どうしよう。


 改めて女性の容態……というか、状態か。それを確認した鬼姫は、はてさてどうしたものかと首を傾げた。当然、それを表に出すようなヘマはしなかった。


(こいつは厄介じゃな……亀のように女の中に閉じこもっておる。このまま仕留めるのは容易いが、それではこの女も無事では済まぬのう)


 いつもなら適当に消し飛ばしてお終いだが、今回はそうはいかない。憑りついているモノが女性の体内に完全に隠れてしまっているからで、現時点で鬼姫が安全に行えるのは何もない。


 なまじ、鬼姫の『力』が強すぎるせいだ。無理やり引きずり出すことは可能だが、それでは女の身に後遺症が残る。下手に強行すれば、この女性……最悪、二度と子を産めない身体になってしまうだろう。


 ……それだけは、避けてやりたい。何としても、それだけは避けてやらねばなるまい。


 強く、そう強く、鬼姫は思った。運命のめぐり合わせというべきか、この身体の持ち主であった名雪もそうだった。不運な星の下で生まれ、不運な人生を送り、非業の死で幕を閉じた。


 わずか一日の間に二人も、子を産めなくなった女を見るのは忍びない。そう思った鬼姫は、ここ近年で一番といえるぐらいに頭を悩ませ……と。


(……お由宇?)


 何気なく社を見やった鬼姫は、目を見張った。何故なら、社の中で待っているはずのお由宇が、若者たちの後ろ。階段の上の御扉の前にて、ジッとこちらを伺うかのように立っていたからだ。


 いったい、何をしに出て来たのだろう。自分が事に当たる時は邪魔にならないように社の中に居るか、出て来ても顔だけ覗かせるぐらいしかしないのに……何故?


 お由宇の思惑が分からずに鬼姫が内心首を傾げていると、お由宇は鬼姫に向かって軽く頭を下げた。つられて頭を下げそうになったがギリギリのところで堪える鬼姫を他所に、お由宇は手慣れた様子で社の御扉を開くと、再び頭を下げ……何も言わずに手招きをした。


 一拍遅れて我に返った鬼姫は、促されるがままお由宇の下へ向かう。そして、社の中を見やった鬼姫は……らしくもなく、ぽかん、と呆けてしまった。


 何故なら、そこに広がっていたのは、いつもの閑散として昼間でも真っ暗な場所ではなかったからだ。


 埃が被らないように被せてあった布は全て取り払われ、神具の一つ一つがきちんと、定められた場所に置かれていた。並べられた燭台の一つ一つにも明かりが灯り、御灯明が供えられ、社の中はある種の幻想的な光景が広がっているだけでない。季節は真冬で、暖房機など置かれていない社の中は痛みを覚えるほど冷え切っているはず……なのに、今は春を思わせるぐらいの温もりで満たされていたのだ。


 加えて、床一面に広がっているのは、端から端まで大きく使って神代文字で描かれた円陣。そして、その円陣に合わせて正しく製図された、五芒星。これも神代文字で描かれており、よくよく見れば文字の一つ一つが淡い光を帯びているのが見て取れる。


 あの一瞬の間にこれだけの……お由宇が見せた『神』としての『力』の一端に、鬼姫は目を瞬かせる。名のある『神』ではないとはいえ、それでもやはり、お由宇も『神』の一柱、ということなのだろう。


(ふむ、これは結界の術式か。よし、この中でならば女に憑りついた『山の怪』も、身動きが取れなくなるのじゃ)


 一目で、鬼姫は結界の性質を理解する。


(しかし、これではワシも中に入れんのう。下手に入れば、ワシの『力』と干渉し合って、最悪結界が弾け飛ぶやもしれぬ)


 そして、理解したからこそ鬼姫は中に入ることを躊躇した。言うなれば、この結界の中は『正の力』に満ちた聖域。普段ならまだしも、今は『正の力』が飽和せんばかりに充満している。そんな状態で、本質的には『負の力』に属する鬼姫が中に入れば最後、せっかく用意した結界を無に帰してしまう可能性があったからだ。


『御安心くんなまし今のぬし様は生身ゆえに、ただ入るだけならば平気でありんすぇ。ただ、不用意に『力』を出したりや、ぬし様自身が身体から出ようとしんせん事には……の、話でありんすが』

「なんと、まことか?」


 けれども、そんな鬼姫の不安を見透かしていたかのように、『はい、まことに』傍にいたお由宇が鬼姫の手を引く。けれども、「まあ、待て」鬼姫は中に入ろうとはしなかった。


 ただ、中に入れただけでは意味がない。例え動きを封じたところで、鬼姫の『力』が強すぎるのは同じこと。多少なりともマシになるとはいえ、それでも女に相応のダメージを覚悟しなければならない。


『わちきに、良案がありんす。どうか、わちきを信じて中へ』

「……それは、お主の身に危険が及ばぬ上での良案じゃな?」

『もちろん、そうでなければ良案ではありんせん』


 それならば、と、中に足を踏み入れる。直後、ぴりぴりと全身に刺激が走ったが、お由宇の言う通りそれだけであった。結界も、壊れる気配は見えない。


 ひとまず安堵した鬼姫は、驚愕してまごついている若者たちを急かして中に招き入れる。「な、何でこんなに温か――と、扉が勝手に!?」次いで、急いで扉を閉めたお由宇が鬼姫の下へ駆け寄ってくると、そっと鬼姫の袖を掴んだ。


『今から、ぬし様の中に入りんす』

「なに?」

『正確に言いますれば、ぬし様が憑りついてありんす『名雪』の身体に憑りつき、『器』に入りんす。そうしてから、ぬし様の御力をわちきが借りて、わちきが祓いんす』

「何を馬鹿な事を言うておる。お主、ワシの力を軽く見ておるな」

『逆でありんすぇ。ぬし様の『力』をどなたよりも知ってありんすからこそ、こなたの方法しかないんでございんすよぅ……まあ、つまるところ――』


 つまるところは、だ。


 女に憑りついている『山の怪』を、力技で引きずり出すことは出来ない。けれども、お由宇ならば、祓い清める手法に長けているお由宇ならば、女に後遺症を残すことなく『山の怪』を引きずり出すことが出来る。


 しかし、問題が一つ。引きずり出す術は心得ているが、女に憑りついている『山の怪』はお由宇よりも『力』が上で、お由宇一柱の『力』だけでは太刀打ちできないということだ。


 その問題を解決出来るのが、お由宇が鬼姫(名雪の身体、『器』に、だが)に憑りつくということ。名雪が持つ『器』は、鬼姫が入ってもまだ余裕があるぐらいに広大だ。


 その為、不用意に鬼姫へ近づき過ぎさえしなければ、鬼姫から受ける影響もないに等しい……ということらしい。


 何とも大胆不敵の怖い物知らず。『神』とはいえ、お由宇が間借りしたところで破裂するようなことがない、『稀有な器』だからこそ成せる荒業だ。


 そして、鬼姫から垂れ流される『力』を自らへと流用し、それでもって除霊に当たる。そうすれば、女の身を傷つけることなく『山の怪』を祓うことが出来る……というのが、お由宇の言う良案の中身であった。


「待て、それをすればお主は……」


 当然、鬼姫は反対した。

 先述したが、鬼姫から放たれる『力』はお由宇とは対照的。下手に『力』を取り込めば最後、お由宇も鬼姫と同じく悪霊……いや、邪神になる危険性があるからだ。


『大丈夫、わちきは『善』として生まれた神々の一柱。例えぬし様が全力を持ってわちきを邪神に変えようとしたところで、その本質を変えることは出来んせん』

「しかし!」

『どうか、わちきを信じて御身を委ねてくんなまし。ぬし様を悲しませるようなことはしんせん から』


 そう言うと、お由宇は頭を下げた。『神』であるお由宇にそこまで言われれば、鬼姫としても無下には出来ない。それに、方法がそれしかないのは事実であって……鬼姫が折れるのに、そう時間は掛からなかった。


「……出来うる限り早く終わらせるのじゃぞ」

『はい、お任せあれ』

「いいか、無理をするでないぞ」


 にっこり、とお由宇は可愛らしい笑みを浮かべた。けれども、それは一瞬のことで、お由宇はすぐに厳しい眼差しに戻ると、『――いきんす』スルリと鬼姫の身体に身を預け……そのまま、吸い込まれるようにして姿を消した。


 ……瞬間、耳元でぽかりと熱が灯るのを鬼姫は実感した。頭の中ではない、耳元だ。それが、お由宇から伝わってくる『力』であると同時に、お由宇そのものであることは、言われずとも分かった。


 ――なかなか、思っていたよりも住み心地は良さそうでありんすね。


 耳元から伝わってくる囁き声に、鬼姫は思わず苦笑する。憑りついた経験は何度かあるが、憑りつかれた経験は初めてだ。無事か、と念じれば、あい、と返事が伝わってきた。


 ――ぬし様を強く、まことに強く感じんす。まるでお天道様のように、わちきを照らしておりんすぇ。


(ははは、お天道様ときたか……不快か?)

 ――いいえ、ちっとも。でも、あんまりわちきを照らすんすから、何だか火照ってしまいそうですぇ。

(ふふふ、あまり無理はするなよ。さて、それではまずワシは何をしたら良いのじゃ?)

 ――まず、祝詞を用いて『山の怪』の『力』を削ぎつつ、こなたを清めんしょう。その為にはその子のお召し物を脱がせた後、五芒星の中心に寝かせてくんなまし。


 お由宇からの指示を、鬼姫はそのまま若者たちに伝える。「ぬ、脱がすの!?」さすがに全裸にすることには抵抗があるようだったが、それでも若者たちは大人しく鬼姫の言うことに従った。


 ――そいでは、始めんす。


 お由宇から指示された鬼姫は、身体の主導権をその分だけ明け渡す。直後、鬼姫の意志から離れた身体は勝手に両手で印を組み、おもむろに祝詞をあげ始めた。




 ……。


 ……。


 …………お祓いの儀式は、時間にすればそう長くは掛からなかった。傍で呆然とするほかない若者たちからすれば、気付けば終わっていた……と思えてしまうぐらいに短かったのかもしれない。まあそれは鬼姫も同様なのだが……とにかく、準備は終わった。


 いよいよ、だ。


 つつがなく全ての工程を終えた鬼姫(inお由宇)は、ピクリとも反応しなくなった女の腹に手を宛がい……ずぶり、と手首まで手を沈めた。「ああっ――!?」驚愕に目を見開く若者たちの視線を他所に、鬼姫はしばしそのままの体勢で静かにした後……おもむろに、手を引き上げた。


 瞬間、若者たちは目を見開き――瞬いた。


 何故なら、彼ら彼女らは確かに見たのだ。今しがた、確かに手首から先が女の身体の中に潜り込むのが……目の錯覚や、トリックでは断じてない……はずなのだ。


 なのに、握り締められた鬼姫の手は全く汚れていなかった。血の跡も、何もない。それは、美保という名の横たわっている女の肌にも同様で、肌の上にも痕跡らしい痕跡は何も残っていなかった。


「…………」

「…………」

「…………」


 彼ら彼女らの誰もが、何も言えなかった。言葉を失くし、ただただ目の前の光景を見つめる他なく。けれども、それは致し方ないことであった。

 たかだか二十年強しか生きていない彼ら彼女らにとっては、だ。眼前に広がっているソレらはもはや、幻想……いや、奇跡に等しい。むしろ、呆然自失とはいえ、まだ意識を保っているだけでも大したもんであった。


「――うっ」


 ただ、それも、その時点で限界であった。おそらく、何をしているかは分からなくとも、女から『良くないモノ』が祓われたことだけは理解して、気が抜けたのだろう。


 まるで申し合わせたかのように、彼ら彼女らは一斉にその場に尻餅を付き、そのまま気絶してしまった。気づいた鬼姫が駆け寄る間もないぐらいの、一瞬の事であった。


「……まあ、手間が省けて助かるのじゃ」


 我に返って騒がれても面倒じゃし。そう鬼姫はぼやきつつも、若者たちが怪我をしていないかを順々に見やった後……さて、と握り締めていた指先に力を込めた。


 途端、その手の中から小さな悲鳴が上がった。「――黙れ」幸いにも若者たちが目を覚ますこともなく、押し黙ったソレの様子を確認した鬼姫は、お仕置きを兼ねて力を込めた。


 ――どうする、おつもりでありんすか?


 既に肉体の主導権は鬼姫に戻されている。なので、女から取り出した『山の怪』を握り締めているのは鬼姫自身である。


 ――まさか、食らうおつもり、でありす?

(こんな不味そうなモノ、頼まれても食らいたくないのじゃ)


 だがしかし、無慈悲に消滅させるのは忍びない。そう、鬼姫は続けて……にたり、と意地の悪い笑みを浮かべた。


(こやつ、女の胎に巣食うのがよほどの好みのようじゃな。それならば、せめて極楽の中で終わらせてやるのもまた、慈悲というものよ)

 ――と、言い……んす、と?

(こうするのじゃ……っ)


 ちゅるり、と蛇のように伸びた舌が、握り締められていたソレを絡め取る。ソレは抜け出そうと必死にもがくが、全ては無駄で、遅かった。


 団子のようにソレを包み込んだ舌が、ちゅるちゅると引っ込み……ごくん、と小さな塊のようなものが、小さい喉を通って腹の中へと下っていった。ふう、とこれ見よがしにため息を吐いた鬼姫は……いひひひ、とわざとらしく己の腹を叩いた。


(うひひひ、暴れておる、もがいておる。どうじゃ、どうじゃ、お前の大好きな女の、おぼこの腹の具合は格別じゃろうて)

 ――格別、でありんしょうぇ。まるで灼熱の……っ、う、海に放り投げられた鮎みたいに……なっておりんすよ。

(ぬははは、千年近く大切に守られた、処女の腹の中じゃからな。歓喜のあまり涙の一つでも流しておるじゃろうな)

 ――ええ、感激のあま、あまり、声すらあげらりんせん……っ、よ、ようです、よ。

(そうじゃろう、そうじゃろう。ぬふふふ、このままワシの中でもだえ苦しみながら消滅するがよい……ところで、お由宇よ)

 ――あ、あい……っ。

(先ほどから、少々気になってはおったのじゃが)


 チラリと、鬼姫はお由宇がいるであろう部分に意識を向ける。


(妙に声が掠れておるというか、舌がもつれておるというか……何ぞあったのか?)

 ――い、いえ、何も、何もありんせ……んあっ!


 突然であった。鬼姫の中に、お由宇の甲高い声が響いたのは。サーッと、鬼姫は千年ぶりに血の気が引いていく感覚を思い出した。


(お、おい、何かあったのじゃ!? どうしたのじゃ!?)

 ――な、何でも……くぅ、あ、ありんせんから……ああっ!


 否定した直後、ひと際強く響いてきた声と共に、お由宇から感じ取れる『力』が波打つように不安定になった。(ええい、じゃから無理をするなと言うたのに!)鬼姫は急いでお由宇を弾き出そうと試みる。しかし、寸でのところで止めた。


 鬼姫(名雪)の中にいるお由宇を追い出すということは、お由宇に干渉……すなわち、何かが起こっていると思われるお由宇に、近づかなければならない。


 それは、危険だ。ただ単純に、霊的存在同士が触れ合うのとはわけが違う。同じ肉体(器)を共有している以上、この状態で下手に鬼姫から接触するわけにはいかないのだ。


 感じ取れる限りでは、お由宇に対して何かが攻撃をしているということはない。しかし、お由宇から感じ取れる『力』が、不安定になったことを考えれば、何かが起こっているのは確実である。


 ――だ、大事、ありんせん、から、はぁ、はぁ、わちきは、無事ぃ……ひっ、ひぃ……ですぇ……んふぅ。


 だが、このまま放っておいても事態が好転する気配は微塵も感じられない。現に、幾度となく離れろと念じても、伝わってくるのは荒く熱の籠った吐息だけ。既に、鬼姫の中から自力で脱出する力が残っていないのは明白であった。


 どうにかして、お由宇を自らの中から出さねばならない。


 しかし、どうすればいい?


 鬼姫は焦る。心から、焦る。鬼姫自身が手を伸ばせばお由宇の身が危ないし、外部を頼ろうにも、そんな芸当が出来る知り合いなんて鬼姫にはいない。何か使えそうな物はと目に映る神具を片っ端から手に取っていくが、「くそったれめ!」使い物になりそうなものは何一つなかった。


(何か、ないのか! 何でもいい、何か、使えそうなものがあるはずじゃ!)


 無意味と分かっていながらも、鬼姫は社の中をぐるぐると見回す。こうしている今も、伝わってくるお由宇の呼吸は激しさを増していく。声も、もはや喋っているというよりは呼吸の合間に漏れてしまったという程度の、不明瞭なものになってきている。


 万事休すとは、このことを言うのか。


 何でもいい、何でもいいんだ。お由宇を引っ張り出さなくてもいい、とにかく、鬼姫(名雪)の中から出してしまえば、それでいいのだ。その為ならこの際、手段など選んでいる場合では……場合では……いや、待て。


 その瞬間、鬼姫の脳裏に閃きが走った。まるで、立ちこめた煙の中に一筋の光が差し込み、出口が見えたかのような感覚。それがどういう結果をもたらすかを考える猶予など、なかった。


 ええい、南無三!


 覚悟を決めた鬼姫は、名雪の身体からフワリと上半身を飛び出した。


 ――――――っ!!


 その瞬間、鬼姫は聞いた。ぎしり、と空間が歪む音を。みしり、と社が悲鳴を上げる音を。ぱきり、と結界に亀裂が入る音を……鬼姫の耳が、それらを拾い上げた、その瞬間。


 ――ばちん!


 擬音にすればそんな音が、社中に響いた。直後、社の中を照らしていた明かりは全て暗闇に呑み込まれ、描かれていた文字も全てかき消された。ビリビリと、霊的存在にしか感じ取れない『力の爆発』に鬼姫はグッと踏み止まる――その時であった。


『――ああっ』


 上半身だけ飛び出した名雪の身体から、すぽん、と勢いよくお由宇が飛び出したのは。意識を失っているのか、ひゅう、と小さな身体はそのまま並べられた神具へと――。


『お由宇!』


 ――叩きつけられるよりも前に、鬼姫が間に入るのが早かった。中身を失った身体が、どたん、と床に転がったが、気にする余裕などない。鬼姫は己が『力』を極力抑えながら、素早くお由宇を抱え直して床に寝転がらせると、顔を覗き込み……絶句した。


 お由宇の顔は、まるで高熱を出したかのように真っ赤になっていた。いや、よく見れば顔だけではない。着物から伸びる首筋や手足までもが火照っていて、呼吸は目に見えて荒く、はあはあ、ああ、はあはあ、と不規則になっていた。


 手を着物の中に差し入れてみれば、(霊的存在なので、実際は汗ではなく、エクトプラズムの一種)手首まで汗で濡れる。その程度の刺激でも辛いのか、『はあ、ああっ』びくり、と身体を震わせたお由宇に、『す、すまぬ!』鬼姫は慌てて手を引っ込め……ガリガリと、己が頭を掻き毟った。


『くそ、弱った『神』を回復させる術など専門外じゃぞ』


 いちおう、やり方というか手段は鬼姫も知っている。その『神』を象徴する物、あるいは者を供物として捧げるか、あるいは対象の『神』に対して信仰を捧げる。この、二つだ。


 後者の方が確実に回復させられるが、とにかく数と時間が必要なので鬼姫には無理。ならば、前者の方はというと……それも、鬼姫には難しいことであった。


 なにせ、『神を象徴するモノ』というのは、言うなればその『神』を表す看板のようなもので、代用したものでは効果が薄い。似たような系統ではなく、ずばり、『それ、そのもの』を捧げなければならないのだ。


 例えるなら、Aという武神の象徴するモノが『○○山の鉄鉱石を用いて作られた小刀』なら、『小刀』だけではほとんど回復しない。『○○山の鉄鉱石を用いて作られた小刀』であることが重要なのだ。


 『性愛の加護』を司るお由宇の場合は、おそらくそれ関係のモノだということまでは想像が出来る。しかし、『性愛』と言っても、それに関わる物、それに使われてもいたモノを全て含めれば、その数はそれこそ百や二百では収まらない。


 とてもではないが、用意している猶予はない。しかし、何か手を打たねば、このままではお由宇は……とにかく、目に映るモノ全てをお由宇の御神体である鏡に供えて、試す――。


『……ぬし、様』

『おお、気が付いたか?』


 ――ほか、ない。そう決断して動き出そうとした鬼姫であったが、寸でのところで目を開けたお由宇に、腰を下ろす。見れば、苦しそうに息を荒げながらも、お由宇は涙で潤んだ瞳をまっすぐ鬼姫へと向けていた。


『安心せい、すぐにワシがお前を治してやるのじゃ』

『ぬし様……』

『ほれ、不安なのは分かるが手を離すのじゃ』

『ぬし様……!』

『大丈夫、ワシに全てを任せよ。必ずお前を助けて――』

『ぬし様っ!』


 鬼姫の労わりを遮る様に、お由宇が声を荒げた。初めて会った時に聞くソレに、鬼姫は口を噤む。はあはあと、気だるそうにしながらも小さな舌で唇をちろりと舐め……え?


 唇を……舐める?


 その所作に、思わず鬼姫は目を瞬かせる。けれども、動きを止めた鬼姫を他所に、お由宇はちろりちろりと己の唇を舐めた後。何かを確かめる様に数回瞬きをして……おもむろに、お由宇の両手が鬼姫の首後ろへ、ふわりと回された。


 ――嫌な予感が、ぞくりと背筋を走った。と、同時に、鬼姫は何というか……既視感にも似た、何かを思い出し掛けた……時にはもう、遅かった。避ける間も、なかった。


 あっ、と鬼姫が気付いた時にはもう、薄らと濡れたお由宇の唇と、己の唇が合わさっていて。

 えっ、と鬼姫が目を見開いた時にはもう、お由宇の小さな舌がぬるりと鬼姫の口内に滑り込んでいて。

 おっ、と鬼姫が硬直して思考を停止した時にはもう、歯茎の裏までにゅるりにゅるりとお由宇の舌先が這い回った後で。


『――っ!?』


 我に返った鬼姫が、無理やりお由宇を引き離す。途端、互いの熱が籠った唾液がぷつりと糸を引く。お由宇以上に赤らんだまま、声なき声で唇を震わせる鬼姫を前に、お由宇は潤んだ目を妖艶に……それはもう妖艶に細め、己の唇に纏わり付いた唾液を舐めとると、再び鬼姫の唇へと――。


『ええ、止めぬか!』


 ――届く前に、我に返った鬼姫が再びお由宇を引き剥がした。今度は、先ほどよりも力を込める。目に見えて不満そうに目じりを釣り上げるお由宇に、『いきなり何をするのじゃ!』鬼姫は怒鳴りつけた。


『ぬし様が、悪いんす』

『ワシが!?』

『ええ、そうです。ぬし様が悪いんすよ』


 だが、お由宇は堪えなかった。『全て、ぬし様のせい』それどころか、なんと、押さえつける鬼姫の腕を押し返し始めた。これにはギョッと目を見開く鬼姫であったが……すぐに、その理由が分かった。


 お由宇に負担を掛けないように、意識して限界ぎりぎりまで『力』を抑えているせいだ。そのせいで、今だけはお由宇の方が『力』が上になってしまい、押し返すことが出来なくなっているのだ。


『何のつもりじゃ、お由宇。気でも狂ったのか!?』


 振り払うわけには、いかない。下手に『力』を出せば、お由宇がどうなるかが分からない。お由宇を傷つけたくない、その恐れが、自然と鬼姫にブレーキを掛けた。


『いいえ、わちきは冷静でありんすぇ。冷静に、ぬし様を求めていんすよ』

『お前、自分が何を口にしておるのか分かっておるのか!』

『分かっておりんす。でも、そいで、そうさせたんは、紛れもなくぬし様ざんす』

『な、なぬ!?』


 あまりにそれが当然だと言わんばかりの物言いに、『わ、ワシのせいか?』逆に鬼姫の腰が引けてしまった。『さあ、ぬし様、ゆるりと力を抜いて……』当然、その瞬間を逃すお由宇ではなかった。


『言いんしたよね……ぬし様がまるで、お天道様のように温かいと。ぬし様を感じていたあん中は……ほんに、温かかった』

『そ、それが何だというのじゃ!』

『温かったんでありんす。ほんに、芯まで火照る程に温かいぬし様が、次から次へとわちきの中に流れ込んで来て……火が、点いてしまいんした』


 いつの間にか、二人の頭の高さは同じになっている。何とか踏ん張ろうとするが、無理だった。


『ひ、火じゃと、気は確かか!? ワシもお前も、同じ女子ではないか!』

『性愛に男も女も関係ありんせん。言いんしたよね、火が点いてしまいんしたと』


 い、いかん、こやつ、完全に正気と理性を飛ばしておる。鬼姫の頬を、エクトプラズムの汗が伝った。


『じゃ、じゃが、無理やりとはいくら何でも非道だとは思わぬのか! そ、それに、事が済んだあとお主も絶対に後悔するぞ!』

『堪忍なんは分かっておりんす。絶対に後悔することも分かっておりんす。でも、もう駄目なんでありんすぇ。あと僅かで気をやる所を放り出されて平気で居られる程、己を律することが出来る程……わちきは、初心の寝んねではありんせん』


 にんまりと舌なめずりするお由宇の笑みに、頬を引き攣らせる鬼姫の焦りが高まると共に、ゆっくりと、鬼姫の背中が床へと近づく。


『わちきだって、辛抱しんした。あの者を助けん為に、ぬし様の信頼に報いん為に、必死になって辛抱しんした。すぐにでも火照りを冷んしたい邪念を堪え、懸命に祝詞をあげんした』

『そ、そのまま我慢しておけば良かったではないか……』

『ええ、辛抱しんしたぇ。でも、それを台無しにしたんは、他でもないぬし様でありんすぇ。事が無事に終わって、気が緩んだ瞬間を見計らっていたかのように……ぬし様は、お笑いになられんした』


 ぐぐぐぐぐ、と、押され続けた鬼姫の背中が、ついに床へとぶつかる。途端、するりと外されて空ぶる両腕が、するりと巻き付いた帯によって固定された。


 いつの間に外したのか、それはお由宇の帯であった。今の鬼姫には、まず脱出は不可能。ろくな抵抗も出来ないまま、鬼姫は万歳の姿勢で仰向けにされてしまった。


『わちきも、ぬし様と同じ『器』に入り、ぬし様を間近に感じんしたあん時まで、気付きもしんせんでした。多分、そうしないと気づけんせんことなんしょう。お笑いになられた時……ぬし様の傍では、凄まじくも柔らかな『力』が一気に放出されだんすよ』

『そ、れが、どうしたと言うのじゃ……!』

『ほんに、憎らしいお人。火照って我慢の限界に達していたわちきにとって、その『力』の放流はもはや、まぐわいの愛撫に等しいんでありす……あの時は、ほんに素敵でありんした。夢心地とは、アレを言うんすね』

『そ、そうか、それは分かったから、手を離すのじゃ。ほれ、あの小僧たちも、このままでは寒さに凍え――』


 最後まで、鬼姫は言えなかった。何故なら、きらりとお由宇の目が光った直後、それまで気絶していた若者たちが一斉に立ち上がったからだ。その中に、何時の間に衣服を身に纏ったのか、件の女も含まれていた。


 ぞろぞろと、若者たちは声一つ発することなく社を出て行く。そして、ぱたりと閉じられた御扉の鍵が独りでに閉まったのを最後に……彼ら彼女らの足音すら、もう聞こえなくなった。


『さあ、無粋者はいなくなりんしたよ……後生ですぇ、ぬし様』


 呆然と若者たちの後ろ姿を見送った鬼姫の肩が、目に見えて震えた。

『大丈夫、お優しく、うんと、お優しくしんすがら。どうか、わちきに御身を預けてくんなまし……極楽へと誘いんすから、どうか力を抜いて……』

 おそるおそる、お由宇へと振り向いた鬼姫は、『ひぃ!』思わず喉を引き攣らせ、そして――。


 ひあぁぁぁぁぁ……あああ、あああ、あああ……ひぇぇぇぇ……。


 しんしんと降り続ける粉雪の中。常人には聞こえない、声なき声。それが、社に積もった雪を震わせ、滑り落すという奇跡を起こした……のだが、それに気づく者なんて当然ながら……一人も、いなかった。



 ……。


 ……。


 …………夜が、明けた。伴って、しんしんと降り続けた雪もすっかり止み、積もったそれらは朝の陽ざしを受けてプラチナのように輝いている。身震いするほどに冷え切った朝の空気に、ぽさり、とどこかで雪が滑り落ちた。


 眠りから目覚めた住宅街が、動き出す。遠くから聞こえる除雪車のエンジン音に釣られるように、ぞろぞろと出て来る大人たち。彼ら彼女らの手には、一様にスコップが握り締められていた。


 観測史上でも稀となる大寒波も、今日で終わる。雪も今後は思い出したように降るぐらいで、年が明けるまでは昨日のことはないだろうと天気予報は伝えた。


 しかし、降り積もった雪は爪痕のように街並みを白く染め、気温そのものが冷え込んでいるのも相まって、まだしばらくは雪が解ける気配はない。少なくとも、年が明けるまでは。


 仕方がないとはいえ、眼前に積もっている雪を前に、大人たちは一様にため息を零した。けれども、その程度の溜め息で雪が解けてくれるわけもなく……雪かきという名の強制労働に駆り出された大人たちは、会社に行くために、えっちらおっちら作業を始めた。


 そんな……愚痴交じりに行われる朝の風物詩の中で、ただ一つ。住宅街の中でもひと際人通りの少ない、一角。うず高く積まれて山のようになった雪に囲まれていながらも、どこか荘厳な雰囲気を保っている神社の中では。


『…………』

『…………』


 清廉された朝の空気など、どこ吹く風。そう言わんばかりに重苦しく、清浄なる社の中とは思えない、緊張感を孕んだ嫌な空気が満ちていた。


 鬼姫も、お由宇も、無言であった。お互いに少しばかり衣服を着崩し、お互いに背を向ける形で押し黙っている。二人が目覚めてから、かれこれ一時間が立とうとしていた。


『…………』

『…………』

『…………あの』

『…………あの』


 ほぼ、同時に。ポツリと互いに投げた言葉が、ぶつかり合う。かれこれ、一時間ぶりとなる発言であった。


『そちらが、先に』

『どうぞ、お先に』


 そして、互いに譲ったのも、ほぼ同時であった。まるで図ったかのように同じことを口にした二人は、これまた図ったかのように互いに口を閉じて……また、何とも言えない沈黙が社の中に広がった。


『…………』

『…………』

『…………』

『…………』

『…………』

『…………御免なんし』


 とはいえ、いつまでも黙っているわけにはいかない。今度こそはと言わんばかりに口火を先に切ったのは、お由宇の方からであった。


『我を失っていたとはいえ、わちきは取り返しのつかない事を……』

『い、いや、気にするな。アレは、その……事故みたいなものじゃ』

『こならば、侘びとしてわちきの首を差し出しんす。そんで許して貰えるとは思うておりんせんが、せめてそれだけを……』

『いや、いやいやいや、いやいやいやいやいやいや、首などいらぬ。そ、それよりも、身体の調子はどうじゃ? もう、大事ないか?』


 慌てて、鬼姫は自分の事よりもお由宇を気遣う。しかし、それが良くなかったのだろう。『ぬし様を穢してしまいんしたわちきを、まだ案じて……っ!』ぽろぽろと、大粒の涙を零し始めたお由宇に、『あ、いや、そのな!』鬼姫は目に見えて狼狽した。


『事故じゃ! あれは、不運が重なっただけのこと! お主が気にする道理はない。そう、ワシが決めたのじゃから納得するのじゃ!』


 そう言いつつ、振り返った鬼姫はお由宇の肩をもみもみ、もみもみ。『罪深いわちきに、まだ触れて……なんと情け深い……っ!』鬼姫からすればそれはいつものスキンシップのつもりだが、今は逆効果にしかならなず、


『いや、罪深くないのじゃ! あと、あれは事故じゃから!』さらにお由宇の涙を増やす結果となった。

『しかし……しかし、そうだとしても、それに甘えるわけには……どう、お詫びしたら良いのか……』

『甘えているわけでもないし、詫びなんぞいらぬ。アレは、気付くのに遅れたワシも悪かったのじゃ。つまり、互いに落ち度があったのじゃ』

『けれども、そいではあまりにぬし様が……せめて、首だけでも受け取って――御身に与えた屈辱を晴らして貰わねば――』

『あーはいはい止め止め! この話はここでお終い! 既に結論は付いた。な、な、それでこの件は一見落着! はい、今、ワシが決めた、そう決めた!』


 増していく涙と物騒な提案を露骨に打ち切りながら、鬼姫は袖口に嗚咽を零し始めたお由宇を見て。


(やれやれ、お由宇もこれで中々頑固で古臭い頭をしておるからのう)


 長丁場になる。確実にそうなるであろう未来を前に、鬼姫は覚悟したのであった。


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