第13話(表の上)劇場版おなババァ:もう一人の最強登場!? 異界ギリギリ超激戦 ぶっちぎりの凄いやつ!!
その年の夏が終わりを迎えるのは思っているより早く、秋の到来はそれよりも、もっと早かった。
例年なら9月末ぐらいまでは続いていたであろう残暑は9月半ばにはすっかり鳴りを潜め、10月に入った頃には昼間でも涼しさを感じられるようになった。そんな、年であった。
おかげで、例年ならそれなりに長く見頃を楽しめる
住宅街の至る所で紅と白の花びらの残骸が見受けられた。時には排水溝を詰まらせて住人を困らせ、ローカルニュースに取り扱われることになった。まあ、ニュースと言っても微妙に余った放送枠を埋めるという程度のもの。報道されたのも一度だけという、あらゆる方向から見ても微妙というぐらいでしかなかった。
これが千年も昔ならば、だ。さぞ、歌人たちは嘆いたことだろう。あるいは風水からの不吉と捉え、都の住人たちは恐れたことだろう。お祓いの一つや鎮魂の為に石碑を立て、凶兆が去るのを耐え忍んでいたかもしれない……のだが。
そんなもの、現代においては全くどうでもよいことであった。
何せ、陰陽道といった思想があらゆる学問の最先端を突っ走っていた千年も前ならいざ知らず、現代は機械工学を含めた理学の全盛期……いや、途上期である。
風水に基づいて考えられた建築法は、日光や風向きといった人体に与える影響を考慮するようになった。呪術における療法は、機械や薬液を用いた医学へと形を変えた。今は、不吉という感覚ですら脳が引き起こす電気信号の影響であると言われる、そんな時代なのである。
けれども、それはけして悪いことではない。
言い換えるのであれば、人間は止めたのである。ただ祈るばかりではなく、縋り付くだけを止めて、自らの知恵によって成長を続ける道を選んだ。今は、その努力の結果が表に出ているというだけのことなのだ。
かつては『雷神』として神格化し恐れられた天上から打ち下ろされる雷は、空気中の粒子の摩擦により発生した放電現象であると定められた。それもまた、積み重ねられた努力の結晶である。
そう、人々は試行錯誤を繰り返し、成長を続けてきたのである。
かつては何か月も掛けて行われた命がけの渡航も、わずか十数時間で往復が可能となった。天災であると思われていた不作も、地中の栄養バランスの欠如が原因と分かり改善され、人口は爆発的に増大した。
それに伴って、人々の生活圏は世界中へと広がった。そして、生活圏が広がるということは……すなわち、人々の行き交いが多くなるということ。
近年、それが最も表に出たと後に言われるのが、例年よりも涼しく過ごし易い季節となった、その年の10月であった。
例年よりも厳しい、蒸し暑く茹だるような梅雨を経て。観測史上最高温度を記録した、身体中が焼け爛れそうな日差しが降り注ぐ夏を過ぎ。
やってきたのは、それまでの暑さが嘘のように過ごし易い秋……反動が、出たのだろう。後に、当時の経済状況を語る者の大半は、口を揃えてそう言った。
実際、その年の10月といったら忙しないの一言であった。
ラストスパートに入った就職前線に加え、早々と内定を貰った学生たちの連日連夜のお祝いコンパ。片や、連日連夜の受験勉強に勤しむ者たちの姿が、合格祈願の御利益がある多数の神社にて見受けられ、溜まったストレスを全て吐き出すかのように暴れる者すら現れた。
各ショッピングモールでは食欲の秋を彩る『来秋セール』ののぼりが至る所に掲げられ、主要都市の近隣に建てられた大型デパートでは、一匹700円の脂ノリノリな秋刀魚が飛ぶように売れた。
各レジャー施設も好調な売り上げを記録し、家電、娯楽、種類を問わず、様々な商品が不思議なぐらいに売れた。その影響からか各都道府県における観光人数は近年において最高を記録し、寺や神社なども『観光施設かと思った』と言われる程の賑わいとなった。
そう、不思議な事に神社や寺院に大勢の客が来たのである。
それも、テレビを使って意図的に宣伝をしたわけではなく、ごく自然的に。それまでほとんど無名であった各都道府県の寺や神社に、参拝客が押し寄せたのである。
原因としては諸説あるが、最も有力なのは一斉に消費が動いたことによる、消費者側の、消極的な選択の結果であるとされた。要は、近年はホラーがブームで、他は混雑必至だから……ということである。
おかげで、それらの関係者たちは嬉しい悲鳴を上げっぱなしであった。例年なら一年を通して数十個売れればいいはずの数珠が数百個捌けたとか、御守りの製造が追いつかないだとかで、短期間ながら盛況はかなりのものであった。
それがどれぐらいのものなのか、それを分かり易く示すならば、だ。お由宇の住まう神社ですら、賽銭箱に小銭を入れれば、返ってくるのは小銭の音……と言えば、分かり易いだろうか。
そんなわけもあって、だ。その年の暮れを二か月前にして、早くも今年は安泰だなあという呟きが、各神社や寺院などで聞かれるようになっていた。
……。
……。
…………なっていた。そう、なっていた……のだが。
人々が多く住まう都会から離れ、山々に囲まれた中にひっそりと佇んでいる鬼姫の神社はと言えば、だ。お由宇の神社とは比べ物にならないぐらいの、自然に輝く美しい光景が広がっていた。
夏の熱気を吸って見事に広がった枝葉からこれでもかと零れた、大量の落ち葉。絨毯かと見間違う程に積もった落ち葉は境内の至る所を無造作に転がり、木枯らしの到来を予感させていた。
伴って、元気に緑の葉を芽吹かせた木々たちも、秋のそよ風を歓迎するかのように今も葉を落とし続けている。神社の境内には、人っ子一人いない、しん、と静まり返った境内の空気とも相まって、何とも言えない厳かな雰囲気を醸し出していた。
……。
……。
…………分かっている。
これだけ引っ張っておいて閑古鳥かと、以前は出店ぐらいあったのにもう寂れているのかとか、呆れる人が居るだろう。あるいは、憐れみを覚えていることだろう。それは、分かる。
だが、あえて言わねばならない。
そもそも、住宅街の傍にあるならいざ知らず、後利益どころか、この神社。そんな御立派な目玉なんて、鬼姫の神社にはねえよ、ということを。
だいたい、考えて見て欲しい。そんな見世物になるぐらいに御立派な何かがあるなら、鬼姫の神社はもう少し世間に知られていただろう。知られていないということは……つまり、そういうことなのだ。
悲しいかな、鬼姫の『御神体』がある神社の周辺にある木々は、観賞用として眺めるには些か味気がない。樹齢的な意味合いでは大変観察し甲斐があるのは確かだが、それが目的なら人々は別の山々に向かうだろう。特別、この山に物珍しい植生があるわけでもないのだから。
そして、話は戻る。季節は、秋。世間は、降って湧いた神仏バブル。さすがにかつてのような盛り上がりはないが、各地の寺院や神社は賑わっている。
それは良いことだ。だが、言い換えれば他所が盛り上がれば盛り上がる程、反比例して鬼姫の神社から人の気配は消えていくのである。
悲しいかな、それが現実であった。
まあでも、人の気配も糞も元々参拝客なんて一時期を除けば皆無も同然。誇張抜きで何十年と参拝客0をマークした神社の神モドキを務める鬼姫の忍耐は伊達ではなかった。
ここに閉じ込められていた以前ならまだしも、今はお由宇の神社になら自由に出入り出来るようになっている。その上、参拝客の有無に関わらず、定期的に御供えが行われるようになっているのである。なので、今更自分の神社から参拝客が途絶えるぐらいはどうってことない話であった。
『ふん、お由宇のやつめ。少しばかり付き合ってくれてもよいではないか』
だから、その日の昼間。
参拝客の相手をするので落ち着くまでは相手に出来ないということで、あっさり誘いを袖にされてしまった鬼姫の機嫌は、もう悪いを通り越して最悪に近い状態。さんさんと差し込む日差しすら恨めし気に見つめる程に、不機嫌であった。
おかげで、鬼姫から放たれる『力』は凄まじいの一言であった。
例年であれば虫たちや鳥たちのさえずりが五月蠅いはずなのに、その日は鳥の声はおろか、虫たちすら息を潜めているかのように、神社周辺は静まり返っていたのだから、迷惑極まりない話である。
『そっちがそのつもりならば、ワシも勝手にやらせてもらうのじゃ。お主と飲もうと思っていたコイツも、ワシ一人で楽しんでやるからのう……後悔しても遅いぞ』
締め切られた御扉の中、社内にて横になった鬼姫は、そのままの姿勢でぐびぐびと一升瓶を傾けていた。それは、御供えされた酒の中でも二番目に上等な大吟醸で、お由宇と一緒に呑もうと取って置いた代物であった。
没してからを含めて齢四ケタに達するハイパーロリババァ(in爺)にしては、些か……いや、滅茶苦茶大人気ない対応である。そのうえ、誰に言うでもなくブツブツと独り言を零している辺り……何というか、アレであった。
……ちなみに、お由宇は別に鬼姫を蔑ろにしたわけではない。ただ、お由宇は『神』である。やってくる参拝客を大事にしたいというだけの話であり、お由宇は大人の対応をしただけ。誘いを断ったのも、半ば断腸の思いであった。
だが、しかし。そんなお由宇の神対応を受け入れられず、我がままな子供のように癇癪を起こしたのが鬼姫であった。
なぜ、癇癪を起したのか。それは、鬼姫も理解出来ないことであった。ムシャクシャしていたというわけでもなく、ただ……あの時、何故か、お由宇の『御断りの言葉』に、カチン、と来てしまったのだ。
その結果、何度も頭を下げるお由宇に向かって鬼姫は『そうじゃな! ワシも、たまには自分の神社で目を光らせておかんとな!』という、八つ当たり100%の嫌味をぶつけたのである。
そうして肩を怒らせて己の神社に戻り、言い過ぎてしまったという罪悪感と、大人げなかった己の対応の馬鹿さ加減を誤魔化す為の憤怒が、瘴気となって辺りに放たれてから、もう3日。
当然、鬼姫とて分かっていた。
自分が間違っていて、相手が正しいということも。気軽に会いに行ける鬼姫と違って、参拝客たちはいわば一期一会になるかもしれない機会。『神』であるお由宇が、そんな彼ら彼女らを心から出迎えようとするのは、考えるまでもなく当たり前のことであった。
当然、それも鬼姫は分かっていた。
だから、鬼姫は謝りに行こうとはした。だが、出来なかった。その度に、忙しなく加護を与えるお由宇の姿が目に浮かぶからだ。悲しそうに俯くお由宇の姿が目に浮かんで、どんな言葉を掛ければ良いか分からなかったのだ。
そうして、何も出来ないまま、何もしないままに三日だ。
すっかり謝りに行くタイミングを見失い、気まずさで酒の味すら分からなくなっていた鬼姫は、今。何をするわけでもなく、こうして酒を食らって、ここにはいない謝りたい相手を想像しながら、情けなく愚痴を零し続けているのであった。
『……ん?』
――と、不意に。
むくりと、鬼姫は身体を起こした。御扉どころか光源一つ取り込む所がない、締め切った社の中は、手元すら見えない程に真っ暗だ。しかし、鬼姫には関係のないことであった。
静かに、鬼姫は気配を探る……何故、鬼姫が身体を起こしたのか。それは、しごく単純な話。鬼姫が住まうこの神社へと向かってくる、生者の気配を探知したからであった。
偶々山に立ち入って……というものではない。淀みなく突き進む足取りは、迷いなく確かだ。まっすぐ、鬼姫の住まうこの神社へと直進してくる。中々どうして、速い――いや、速すぎた。
『何者じゃ、こやつ?』
とん、と床を蹴って御扉をすり抜け、境内へと降り立った鬼姫は、てんてんと軽やかに鳥居の前に立つと、ジッと……麓まで続いている参道を見下ろした。
凄まじい速度だ。獣よりも早く昇ってくる気配に、鬼姫は目を細める。とてもではないが、人間が出せる速度ではない。以前に乗った『車』と同等……いや、それよりもはるかに速い。
信じられない話だが、このまま突き進んでくるのであれば、ものの数分でここに到着するだろう……だが、しかし。鬼姫は、緩やかに意識を切り替え……ふわりと、『力』を立ち昇らせた。
鬼姫が最も気に掛けたのは、そこではない。注意を引いたのは、その向かってくる気配から放たれる『力』。この神社に留まらず、この山一帯を覆い尽くしている鬼姫の瘴気を物ともせずに突き進む……強大な『力』であった。
しかも、この『力』。死者が放つ代物ではない。もっと温かく、眩しい程に煌めく、お由宇のような『神』とも少しばかり違う、生者だけが持つ『力』だ。そう、つまり、ここへと向かってくるのは……信じられないことに、生者だ。
――何時ぞや以来だろうか。
それが分かった瞬間、気付けば……鬼姫は身震いしていた。けれどもそれは、恐怖から来るものではないし、喜びから来るものでもない。鬼姫の脳裏を過ったのは、懐かしさであった。
と、言うのも、数百年前。
まだ、鬼姫がこの神社に縛られることなく、『鬼姫』として日本中を渡り歩いていた時。名声を求めた霊能力者たちが、幾度となく鬼姫へと戦いを挑んできた。
それら全てを返り討ちしたが、けれども、その『力』は今とは比べ物にならないぐらいに強かった。もはや顔も名前を思い出せないが、鬼姫にかすり傷を付けた者もいた。
だからこそ、懐かしいのだ。麓より参道を直進してくるこの気配は、かつての者たちを思い出させ……懐かしさを覚える程に、強大な『力』を放っている。それだけで、かつての日々を思い起こさせるには十分であった。
『……来おったか』
まもなく、到着する。既に、もうもうと立ち昇る土煙がはっきりと視認出来る程に近づいてくるのを見た鬼姫は、一つ、息を吐いた。途端、袖口から、しゅるしゅると腕を這うようにして伸びた『黒蛇』が、威嚇するようにちょろちょろと舌を出した――その、瞬間。
直線にして、100メートルとちょっと。立ち昇る土煙と、ソレを起こしている『力ある者』を鬼姫が直視した、その瞬間。ぼん、と日差しを遮る木々の枝葉をはね除けて、ひと際大きく土煙が立ち昇ると同時に、『力ある者』は鬼姫の眼前へと迫っていた。
何という、瞬発力か。瞬きが如き一瞬で、距離を0にした。
その、生者とは思えない超人技に鬼姫は軽く目を見開いた――その時にはもう、『力ある者』の小さな拳が鬼姫へと放たれていた――が。
『――なんと!?』
「――むむっ!?」
その拳が、鬼姫に届くことはなかった。事前に生み出していた黒蛇が、盾の役割を果たしたのである。しかし、繰り出された拳を受けた黒蛇が、黒い破片となって飛び散って、蒸発した。その事実に、鬼姫の方も驚きに飛び退いた。
何せ、鬼姫が放つ黒蛇に込められた『力』は、並のソレではない。例え鬼姫基準で考えれば大したモノでないとしても、一般的な基準では修行に修行を重ねた者で、ようやく、というものなのである。
それを知っているからこそ、鬼姫は驚いた。だが、鬼姫の驚きはそこで終わらなかった。互いに相手の力量を察した二人は、ぱん、と地を蹴って境内へと飛んで……対峙した。
『――娘っ子じゃと!?』
その、直後。鬼姫は状況を忘れて、ぽかん、と大口を開けた。こと、それは致命的とも言える大きな隙であった……が。
「――のじゃロリ、ですと!?」
それは、鬼姫に襲い掛かった者も同様であった。その者は……なんと、太陽よりも輝く黄金の髪をペールから零した、修道服を身に纏った碧眼の少女。ともすれば、鬼姫とそう変わらない背丈のその少女は、たん、と己が身に纏っている修道服の埃を叩くと、「リアルに存在していたのね」まん丸に見開かれた目を鬼姫に向け――すぐに、構えた。
それは、空手において受けに重点を置かれた前羽の構えであった。鬼姫を拒絶するように差し出した両手は、一見すると頼りない印象を覚える。だが、その頼りない構えを前にして鬼姫は……けして、それが見た目通りのソレではないことを一目で看破した。
『では、これでどうじゃ!』
ぐん、と鬼姫の胸と腹が風船のように膨らんだ、次の瞬間。ごほう、と吐かれたのは……ヘドロのように濃い瘴気。鬼姫から放たれているいつものソレとは根本から違う、一息吸うだけで絶命する程の呪いが込められていた。あらゆる防護を突き破り、かつては徒党を組んでやってきた陰陽師数十人を一瞬で死滅させた一息であった……が。
金髪少女に、堪えた様子はなかった。避けたのでもなければ、防いでいるわけでもない。むせ返る程の濃密な瘴気の中で、変わらず前羽の構えを保ち続けている。涼しい顔のまま、静かに鬼姫を見据えていた。
まどろっこしい攻撃は無意味。そう判断した鬼姫は、素早く黒蛇を少女へと放った。常人ならば触れただけで発狂する程の『力』が込められたソレは、黒い牙を見せて少女へと殺到する。
「そいやぁ!」
だが、驚いたことに。なんと、少女はそれを素手で振り払ったのだ。前方に構えた両椀が描いた円に振り飛ばされた黒蛇たちは、四方八方に飛び散って……少女から放たれた『力』によって、消滅した。
ならば、これで。そう思うと同時に、鬼姫の足元から鮮血の枝葉がするりと伸びる。まるで地面を這う蟻のように右に左に反転しながら突き進む呪いの刃が、金髪少女へと迫る――けれども。
「
少女が、一歩踏み込んだ。だが、それはただ踏み込んだわけではない。
「――
まるで地面が爆発したのかと錯覚する程の、爆音。あまりの威力に地面を陥没させるという荒業が、鬼姫の呪いをも跳ね除け、弾き飛ばしたのである。
『なんと!』
さすがの鬼姫も、これには驚いて手を止めた。
「
それが、隙となった。ハッと我に返った鬼姫が気付いた時にはもう、少女は鬼姫の懐へと迫った後で。辛うじて防御には回れたが、それがギリギリであった。
「――正拳突き!」
着弾の瞬間を視認出来ない程の、高速拳。それが、鬼姫の身体をくの字に曲げ、『ぬおお!?』地面を転がり、賽銭箱をすり抜け、御扉の向こうへと消えた。たん、と地面を蹴って反転し、体勢を立て直した金髪少女は……さて、と再び構え直した。
「――んん!?」
途端、少女はその場に踏ん張った。それは、着地に失敗した……というわけではない。己が身体を突き抜ける様にしてこの山一帯へ爆発的に広がった、とてつもない『力』に押されたからであった。
そして、一拍おいて。放流が納まったのを感じ取った少女は、油断なく構え直す。その視線が見据えるのは、今しがた鬼姫が飛び込んでいった社。その、御扉の奥から、のそりと姿を見せた。
『娘っ子め……中々やるではないか』
『本気状態』に成った、鬼姫であった。
六本の腕が武器と防具をゆらゆらと揺らしながら、鬼姫が境内へと降り立つ。たったそれだけの所作で、ミシミシと社が、鳥居が、軋む。『数百年ぶりじゃのう、歯ごたえのあるやつが来たのは』構わず、鬼姫は少女へと歩み寄る……十数メートル手前で、立ち止まった。
――鬼姫は、あえて語ろうとはしなかった。そして、それだけで少女には十分であった。
金髪少女は、大きく深呼吸をした。こおっ、と放たれた『力』が、鬼姫の瘴気を中和する。しかし、『力』の桁が違い過ぎるせいだろう。先ほどとは違い、少女は幾らか眉根をしかめる。
少女は、前羽の構えを解いて腕を組んだ。次いで、片手を臍に当て、片手は彼方を指差すように伸ばす。何をするつもりかと目を細める鬼姫を他所に、少女は彼方へと伸ばした手をゆっくり下げると……その手で、少女は己が胸を叩き。
「――変身!」
少女は、叫んだ。次の瞬間、少女の身体が光に包まれた。あまりの眩しさに思わず盾を構えた鬼姫であったが、その輝きは瞬きが如き一瞬のことであった。あっ、と思った時にはもう光は消えていて……その時にはもう、少女の姿は様変わりしていた。
まず、少女は少女ではなくなっていた。本気状態になった鬼姫よりも少しばかり低い程度の背丈に、それに見合う見事なスタイル。そして、何よりも、恰好が修道服のソレではなくなっていた。
簡潔かつ、そのままに述べるのであれば、『レオタードとマントを身に纏った、仮面を被った女性』であろうか。膝下まであるブーツをカツン、と鳴らしたその仮面女は、ふわさ、とマントを羽ばたかせると……どこからともなく取り出したサーベルを構えた。
合わせて、仮面女から立ち昇っている『力』が、少女であった時よりも数段強まっていた。それは、常人が持てるソレを大きく超えていた。時代が時代なら、その『力』でもって財産を築き、後世に名を残す程であろう強大なものであった。
だが……それでもなお、鬼姫に敵う程ではなかった。
言うなれば、犬と恐竜。仮面女から放たれる『力』は相当なものであったが、それでも純粋な力比べでは、現時点ですら本気になる前の鬼姫の方が上。それなのに本気状態になった鬼姫と比べたら、もはや比べることすらおこがましい大きな差であった。
「来なさい、名も知らぬ怨霊よ」
けれども、仮面を被ったその女は一歩も引かなかった。きらりと、蝶をモチーフにした仮面が日差しを受けてきらめいて。
「戦を引き起こしたのは、貴女だ。故に、私の剣はあなたを切り裂く。何の慈悲もなく、何の憂慮もなく。幾度の転生を経て得たこの力……お見舞いしてやりましょう」
呆気に取られている鬼姫に、そう告げた。
……。
……。
…………告げたのだが。
『何の、話じゃ?』
心から、鬼姫は首を傾げていた。「とぼけても無駄です」その反応に怒りを露わにする少女……いや、女性を前に、鬼姫は知らんものは知らんと声を荒げた。
『本当に心当たりがないのじゃが……戦とは、何の事じゃ?』
「忘れたのですか!? 私の憩いの場を滅茶苦茶にしておいて、忘れたのですか!」
怒り心頭。だんだんと地団太を踏む仮面女に、『そう、怒鳴られてものう』鬼姫は困ったように頬を掻いた。
『ワシ、ここから動けぬのじゃが』
「え?」
『というか、そもそも……それ、本当にワシがやったことなのかのう?』
鬼姫からすれば当然の疑問。首を傾げつつ尋ねられたその言葉に……辺りに、沈黙が降り立った。
『……』
「……」
『……おい』
「……いや、違います、違うのです!」
いったい、何を思い出したのか。
もしかして私ってば、やっちまった……という感情が見事なぐらいに表情に現れた仮面女に、思わず鬼姫の声質が低くなる。対して、先ほどとは逆に声色を上ずらせた仮面女は、謝るかのようにその場にて正座した。
「確かに、思い返してみれば、ですよ! 直接的にあなたには関係ないのかもしれませんが、去年のあなたが原因であるのは確かなのです。それは本当です!」
その言葉と共に仮面女が語り出した話に……鬼姫は、あんぐりと大口を開けて固まった。
凄まじいことに、この仮面女。どうやら二年前からちょくちょくこの山に入り込んでいるのだと言う。その時は今の仮面の姿ではなく、少女の姿。今よりも2年若い彼女は、なんと、その時から鬼姫の索敵からも逃れて山の中をうろちょろしていたと言うのだから、驚きである。
2年前と言えば、まだまだ『面倒なやつ』がうようよしていた時期である。
そんな時に、どうして少女は平気で居られたのかと鬼姫が問えば、返ってきたのは「私、こうみえて精神年齢三桁の転生者なのです!」というものであった。
正確に言い直すのであれば『転生』ではなく『憑依』に近いらしい。
それだけでは納得しきれない部分というか、聞きたいことが幾つかあったが、とりあえず鬼姫はそれで納得することにして……確信となる、『去年の事』を尋ねた。
だが、仮面女はすぐには答えなかった。
いや、そこが一番重要なのだから、そこを隠されるとどうしようもないし、それで全てを丸く収めろというわけにはいかない。そう、鬼姫が続けると……仮面女は、観念したかのように語り出した。
「去年、私はこの神社から離れて、山中の中にいたのです」
『ほう、そんな夜更けに何をしておったのじゃ?』
「生まれたままの姿になって、露出を楽しんでおりました」
『……は?』
思わず、は、である。
心から、ここ数百年の間では初めてとなる、心から呆気に取られるという事態に陥っている鬼姫を前に、「だって、仕方ないじゃないですか!」堪らずといった調子で吠えた仮面女は、零れた涙を指で拭った。
「後腐れなく面倒事もなく、程よく瘴気があるおかげで虫刺されの心配もなく、獣を警戒する必要もなく、安心して露出を楽しめる場所なんて、あそこぐらいだったんですよ!」
『…………』
「本当に、憩いの場だったのです。生者にはない、死者たちのぎらついた視線。前後左右あらゆる方向から突き刺さるあの視線のおかげで、それはもう捗って捗って……あなたが、貴女がそれを奪ったんですからね!」
『知るか阿呆』
渾身の、平手打ち。『本気状態』になっている鬼姫の攻撃は例えガードしていても、常人なら即死。幽霊であれば消滅の一撃であったが、「――ぶへぇ!」仮面女は地面に顔の跡を付けるだけで終わった。
……。
……。
…………そうして、しばらく。
目覚めた仮面女は、すぐに状況を思い出して鬼姫に頭を下げ。対して、鬼姫もひとまず置いといて……ということで話を切り上げて。
お互いに変身を解き、片や巫女服を着た黒髪少女と、片や修道服を着た金髪少女。片方は常人には見えないとしても、どこのコミックマーケットだという状態で、二人は改めて互いに自己紹介をしたのであった。
ただし、鬼姫は前世の記憶がある生まれ変わりである……という部分は語らなかった。理由は、そこらへんを説明するのが面倒であったからだ。
――秋永・ソフィア・スタッカード。
話は、ソフィアの方へ戻る。それが、金髪碧眼の修道服を着た少女の名前であった。
ソフィアは、イングランド人の父と日本人の母の間から生まれたハーフである。年齢は、13歳。この神社から県二つ分は離れた場所に住んでいる中学1年生。遺伝子と遺伝子の掛け合いが上手い事いったのか、その見た目はお互いの人種の良い所だけを抜き出したみたいに美しく、学校でも評判な美少女である。
そのうえ、ソフィアは普通の女子中学生ではない。奇しくも、その精神は鬼姫と似ていた。なんと、ソフィアは数百年以上も前から死体に魂を乗り移ることで精神が生き長らえている、云わば転生者なのであった。
しかも、ただ転生するわけではない。
ソフィア曰く、ここではない別の世界。いわゆるファンタジーちっくな世界で生を受ける時もあれば、スペースオペラみたいな世界で生を受ける時もあり、先ほどの身のこなしは、それらの世界で得た『力』なのだと言う。
そして、共通しているのが、鬼姫と同じく、『何故、そうなったのかが分からない』ということ。最初の時も、気づけば別の誰か(大抵の場合は、死産するはずだった赤子らしい)に転生していたらしく、本人も原理はさっぱりである……と、本人の口からそう説明されたが、鬼姫が目を向けたのは、そんな部分ではなかった。
『それで、お主はどうしたいのじゃ? ワシで良ければ力を貸そうぞ』
結局のところ、そこであった。鬼姫からすれば、眼前の少女……ソフィアの内情など知ったことではない。いや、そもそも知りたくもないが、結局の所、何をしたいのか……という問題に尽きた。
確かに、ソフィアが持つ異様な『力』の正体は分かった。幾度の転生を重ね、その都度こことは違う世界で得た知識と力。それが今の『力』へと繋がっている。それは分かったが……それだけであった。
と言うのも、鬼姫の推測では、だ。
露出……は、おそらく転生から来る精神への負担から身を守る為にソフィアが編み出した、防衛反応。傍目からはドン引き間違いなしの行動でも、本人にとっては無くしてはならないことなのである。
故に、それが行えなくなった今。ソフィアは自覚出来ないまま、かなりの鬱憤を溜めているのは考えるまでもない。
言ってしまえば、一時的な色狂いの状態に陥っていて、正常な判断が付かなくなっている。それが、鬼姫なりの推測であった。
出なければ、あんな馬鹿な理由で鬼姫に戦いを挑もうとはしないだろう。しかも、鬼姫に諭されるまでまともに頭が動いていなかったのだ。
いくら転生するとはいえ、それでも『死』は相当な苦痛と恐怖である。それを誰よりも理解しているはずなのに、死ぬかもしれない相手に自ら突っ込んできた……それを自覚していないところに、鬼姫はソフィアの危うさを感じ取った。
「い、いえ、そこまでしてくれなくても……これは、私の問題です。鬼姫さんには、本当に、本当にご迷惑をお掛けしました!」
過程が違うとはいえ、自らと同じく長き時を過ごした者が困っている。そのうえ、自覚しないまま色狂いに成り掛けているのだ。
どうすればいいかはさっぱり分からないが、何とか出来るものならば何とかしてやりたいなあ……というのが、鬼姫の正直な気持ちであった。
まあ、放っておいて完全な色狂いになられても目覚めが悪い。実質、非はないのだが、だからといってそうなるのを見過ごすのもなあ……というのもまた、鬼姫の正直な気持ちであった。
『これこれ、頭を上げよ。間違いは誰にでもある、幸い、何事も無く終わったのじゃから、その件はもう終わりじゃと先ほど言うたじゃろうが』
地面に額を擦り付けんばかりに頭を頭を下げるソフィアに、『気にするでないぞ』鬼姫は苦笑して頭を掻いた。次いで……『それで、じゃな』フッと表情を引き締めた鬼姫は、おもむろにソフィアと視線を合わせた。
『知らなかったこととはいえ、この山から粗方『やつら』を消し飛ばしてしまったのはワシじゃ。その事から起きた責任は、ワシが取らねばならぬ』
「い、いや、それは!」
『言っておくが、この山は別にワシの物というわけではないのじゃ。たまたまこの山にワシの神社を作ったというだけで、ワシは一度として自分の山じゃと宣伝した覚えはない』
――じゃから、何かワシに出来ることはないかのう。
そう続けた鬼姫の言葉に、ソフィアは目を見開いた。そのまま、呆気に取られたかのように鬼姫を見つめた後……大きく息を吐いて俯いた。そして、ようやく肩の力が抜けたのか、満面の笑みで顔をあげて。
「それでは、これから一日三回私の露出――」
『それ以外で何か出来ることはないかのう?』
「――が、出来そうな場所を一緒に探して貰えますか?」
『お安い御用じゃ』
そう、提案したのであった。
とはいえ、すぐに出発……というわけにはいかなかった。というのも、肉体を持つソフィアと違い、鬼姫は霊体である。しかも、御神体のある神社から離れられぬ身。
それゆえに、鬼姫が外を出歩く為には『名雪の亡骸』という、類まれな『器』を持つ肉体が絶対に必要なのであった。
だが、しかし。
現在、鬼姫はお由宇の神社に戻れない状況にある。いや、戻ろうと思えば戻ることは簡単である。結界が張ってあるわけでもないし……それが出来ないのは、単に鬼姫の気持ちがそうさせていたからに他ならなかった。
そう、ソフィアとのやり取りで一時的に頭から忘れ去られていたが、鬼姫は今、
それが、どうしても鬼姫には出来なかった。だから、首を傾げるばかりのソフィアに見つめられたまま、鬼姫は『刀』を前に正座していた。お由宇の神社へと通じるソレに手を伸ばせば、すぐにでも『鏡』へとワープする……しかし、身体が動いてくれない。
良し行くぞ、やれ行くぞ、さあ行くぞ、と。
心の中で幾度となく発破を掛けるが、それだけだ。一向に、鬼姫が動く気配はなかった。ヘタレ、というなかれ。事情を知る者からすればそう見えても、鬼姫にとっては心の底から真剣なのである……と。
「あの~……ま~だ時間掛かりそうですかね?」
事情を知らない者の一人であるソフィアが、御扉と社との境目。ごろりと亜向けになっていたソフィアは、堪らず、といった調子で鬼姫を見やった。汗で濡れた裸体にへばり付く十字架が、からん、と床を叩いた。
『ま、待てと言うたであろう。精神集中じゃ、精神の、な』
「はあ、それはいいのですが……私の目から見ても、精神集中が必要な類のソレではないですよね? 系統が違うとはいえ、大本の『力』は同じですからね。それぐらい分かりますよ、私でも」
『時間はあると言うたじゃろ! 若いんじゃから、それぐらい待つのじゃ!』
「はあ……まあ、別に徹夜は余裕ですが……大丈夫ですか、もう日が暮れましたよ」
『夜こそがワシの時間よ。暇ならば、先ほどのように素っ裸になって山の中を駆け回れば良いじゃろうが』
「刺激があってこその露出です。ただ、裸になるだけでは開放感はあっても、快感は薄いのです。具体的に言い直せば、物足りないのです」
その言葉と共に夜空を見上げたソフィアは、深々とため息を吐いた。彼女がこれ見よがしに心配するのも、当然であった。
何せ、鬼姫はかれこれ6時間も『刀』を前に正座しっぱなしなのである。「
しかも、ソフィアは個々の事情に踏み込むべからずと言って、何も聞かずに察して待ち続けているのだ。それで怒り出さないだけ、ソフィアもかなり心が広い方である。
日はすっかり落ちて、空には大粒の星々が浮かんでいる。さわさわと揺れる木々の枝葉が、耳に心地よい。虫の音色は聞こえないが……それは、本気状態になった鬼姫の『力の余波』が原因だろう。
明日には元に戻るだろうが、今夜は無理そうだ。仕方がないこととはいえ、それは寂しいことだ。
ぼんやりと夜空を眺めながら、静かな森の囁きに耳を澄ませていたソフィアは「あの、鬼姫さん」畳んで置いた修道服を片手に鬼姫の背後に駆け寄った。
「このままだと埒が明かないです」
『安心せい、すぐに明けるのじゃ』
「それは聞き飽きました。なので、ちょっと実力行使に出ますよ」
『――なぬ?』
不穏な言葉に鬼姫が振り返った時にはもう、遅かった。「御免!」気づいた時にはもう、背後から圧し掛かる様にソフィアにもたれ掛かられていて。あっ、と声を上げた時にはもう、ソフィアの手に捕まれた鬼姫の手が、『刀』に触れていた。
おい、待て。
そう思った時、既に鬼姫の身体は『鬼姫の神社』から消えていた。ならば、何処へ……決まっている。『刀』のワープ先である、『鏡』がある『お由宇の神社』であった。
くるん、と視界が切り替わる。途端、鬼姫の眼前に広がったのは……ある意味、自分の神社よりも見慣れた光景。週6.8日ぐらいの割合で寝泊まりしている、お由宇の住まう社の中であった。
心の準備が全く出来ていなかった鬼姫は、どてん、と床を転がった。普通の家々とは違い、『力』が込められている社の床だ。何もしなかったら、当然すり抜けることも出来ない。結果、しこたま強力に後頭部を打ちつけた鬼姫は、痛みを堪えて身体を起こし――。
『…………』
――絶句した。
何故なら、顔を上げた先。鬼姫の眼前に、お由宇が正座していたからだ。それも、ただ正座しているわけではない。氷のように冷たい眼差しを携えて、静かに……無言で、鬼姫を見下ろしていたのである。
これには、鬼姫も心臓が止まる思いであった。元々そんなもの無いとか、第一止まっているだとか、そういう問題ではない。数百年ぶりに覚える強烈な悪寒を前に、鬼姫はとにかく謝ろうと唇を開けた。
『そこな小娘、何なんし?』
だが、鬼姫が声を出すよりも早く、お由宇がポツリと呟いた。その、極寒が如き声色に、『え?』慌てて振り返った鬼姫は――サーッと血の気が引いて行く感覚と共に、声なき悲鳴をあげた。
「あ~、痛ったぁ~。強引に転移なんてするもんじゃないわ~、足元ふらっふらだわ~」
そこには、お由宇に尻を向ける形で四つん這いになっているソフィアが、金髪をふわふわと靡かせながら頭を摩っていた。鬼姫と同じく頭を打ったのだろうが……問題なのはそこではない。問題なのは、ソフィアの恰好であった。
ナチュラル・ボディ。言い換えれば、生まれたままの姿。加えて、ここにワープする直前まで一人で遊んでいたからだろう。神聖な社の中には似合わない臭いを立ち昇らせていた。
『……ずいぶんと、お楽しみの御様子でありんしんしたな』
ふぁさ、と。懐から取り出した扇子で顔を隠したお由宇は、ちらりと流し目を向けた……ような気がしたのを鬼姫は感じた。声は平坦で冷たいままなのに、ぷるぷると、扇子を持つ手が震えているのが心から恐ろしかった。
『心配しんしたわちきを放って……異国の、それも異教に従事する者と、乳繰り合っていた……そういうことでありんすなぁ』
『い、いや、違うのじゃ、お由宇よ! これには訳が……そう、誤解なのじゃ!』
『五回、なんす!? 五回も楽しんだんかぇな!?』
瞬間、バッと広げられた扇子が鬼姫の頭を叩いた。慌てて鬼姫は頭を守ったが、お由宇は構わず鬼姫の頭を広げた扇子で叩いた。何度も、何度も、叩いた。
『五回も致しんしたかぇ!? 次は六回なんしかぇ!? そねぇな、そねぇなまでに南蛮の御味が良いんかぇ!?』
『誤解じゃ、それこそ誤解なのじゃ! ワシは何もしとらん! 本当じゃ、信じておくれ、お由宇!』
『そねぇなまでに小娘の臭いを浸みつかせておいて、言い訳なんし!? そねぇな小便臭い小娘の肌が、そねぇな程に具合がよろしいなんし!?』
『違うのじゃ! 違うのじゃ、お由宇! 落ち着くのじゃ! ワシはなんもしておらぬ! 誓って、ワシはお主の思っているようなことはしておらぬ!』
『浮気もん! 浮気もん! わちきだって寂しかったんに、何時来るか、何時来て下さるか、ずっと待っておわしんしたんに……それなんに……でも……』
そこまでが、限界だった。幾度となく鬼姫の頭を叩いていた扇子が、お由宇の手からポロリと零れ落ちる。ふわっ、と、音もなく扇子は溶けるように消えた。
ハッと顔を上げた鬼姫が見たのは、涙で濡れた顔。それを両手で拭ったお由宇は、『そねぇなこと、わちきが言えた義理ではありんせんけど……!』自らに言い聞かせるかのように呟いた後――カッと見開いた眼で鬼姫を睨みつけると。
『ぬし様の――』
どこからともなく神具やら何やらを、出現させると。
『――ばかぁぁ!!!』
それらを手当り次第、ぶん投げた。その勢い、加減は全くない。あのお由宇が、そんなことを仕出かした……これには鬼姫も超ビビった。
『うおおお、待て、待つのじゃ、落ち着くのじゃお由宇ぅぅぅ!!』
『力』が込められているので壊れることはないし、鬼姫自身が負傷することはない。だが、記憶に有る限りでは初めてとなる、『女の大爆発』に、鬼姫の腰はすっかり引けていた。
そんな鬼姫が取ったのは……戦略的撤退。すなわち、ほとぼりが冷めるまで離れておこうという、何とも情けない方法であった。
幸い……というか、どさくさに紛れて飛んできた名雪の亡骸に憑依した鬼姫は、そのままの勢いで神社を脱出した。背後からひんひんと泣き喚くお由宇の声が聞こえたが、鬼姫はあえて無視して逃げ出した。
「あれ、放っておいていいんぐふぉ」
いったい、何時の間に着替えたのか。傍から見れば飛び退いて悲鳴をあげる速度で走る鬼姫から遅れることなく、修道服のまま恐ろしい速度で併走するソフィアに、一発拳を叩き込んで黙らせる。
そもそも、余計に拗れたのはソフィアが原因である。自ら乗りかかった船とはいえ、何でこうなるのかと苛立つのは致し方ない。
というか、考えてみれば、だ。ふと、鬼姫は思った。
こういった分野の問題は、それこそお由宇の専売特許なのではなかろうか。多少勝手が違うのかもしれないが、性愛の一つとして対処してくれたかも……そう考えたが、鬼姫は頭を振った。全ては、後の祭りであった。
「い、いきなりは止めてください。肉体的には無傷とはいえ、アストラル体には相当なおぶぇ――こ、堪えますから……!」
……かつての平安、殿上人として都に君臨していた者たちが今の鬼姫を見れば、さぞ度肝を抜いたことだろう。
今はいない、顔すら思い出せないそいつらのことを思い返しながら……鬼姫は、ただただ走り続ける他なかった。人、それを現実逃避と言う。
……さて、そんな経緯もあって、神社を勢いよく飛び出した精神年齢四桁の
それは道に迷ったとか以前の問題ではあるが、根本から事態を考え直さなければならない程の重大な問題であった。つまり、分かり易く言い直すと、だ。
「ところで鬼姫さん、候補になりそうな場所に心当たりは?」
「ワシが知るわけなかろう」
そもそもの目的地が、まだ決まっていなかったのであった。
――たかたかたか、と。神社を離れて、かれこれ一時間。二人は走り続けていた……どこかって、それは高速道路である。
主要道路を通り過ぎ、国道へと曲がり、ソフィアに促されるがまま高速道路を伝って移動し続けている。実はソフィアも姿を消せることが発覚してから、これまで。誰にも見止められない二人は、高速道路の路側帯を違反確実な速さで走り続けていた。
その速度は、あまりの回転サイクルのせいで二人の足がブレて確認出来ず、飛ばしている自動車を何台も追い越す程だ。既に二人は県を二つも超えて、まだ走り続けている。なのに、息切れ一つ起こさず、まったく体勢を崩す様子すらない二人。鬼姫は当然の事、ソフィアも大概の化物であった。
けれども、体力的に平気とはいえ、気持ち的にはそうでもない。いくら気が長いとはいえ、目的地も決めないまま延々と走り続けるのは飽きてくる。ソフィアと違い、鬼姫は気が短いのである。
ただ、それを責めるのは酷だ。見慣れぬ景色を眺めるのは乙なものだが、既に鬼姫たちの周囲に広がっているのは暗闇に包まれた山々ばかり。そんなもんは、鬼姫からすれば常日頃幾らでも見られる程度のものである。
欠伸が出る程に瑞々しい自然の美しさの中で過ごした鬼姫にとって、それらの光景なんて、公衆便所裏に書かれた意味不明な落書き並みに有り触れたものでしかなかった。
「先ほどから何をしておるのかは知らぬが、目星は付いておるのじゃろうな?」
当てもなく走り続けて、幾しばらく経っている。いい加減焦れてきた鬼姫が、ソフィアを睨む。「当然、幾つか『候補』は見付けましたよ」対して、常人なら風圧で目すら開けられない中、平気な顔でスマフォの画面に視線を落としていたソフィアが、笑みと共に顔をあげた。
……そもそも、今回の目的は、ソフィアの欲求不満を解決する為に必要となる憩いの場を見つけるということ。
すなわち、鬼姫の住まう山に匹敵する程に霊的地場が不安定で、ソフィア曰く『視線がぎんぎらぎんな奴が大勢いる』ということが絶対条件である。
ソフィアの満足する基準は分からないが、けっこう面倒な気がしてならない。率直に、鬼姫は思う。
何せ、鬼姫に及ばないとはいえ、ソフィアの『力』も相当なものだ。しかも、鬼姫とは違い、お由宇と同じ『正の力』。悪霊に対しては非常に強力な効果を発揮するので、その分だけ余計に『憩いの場』を厳選しなければならない。
果たして、そんな条件に見合う場所が見つかるのだろうか?
気になって鬼姫が尋ねれば、先ほどから現在地と、ネット(ちなみに、鬼姫はネットの言葉に首を傾げていた)を通じて心霊スポットを改めて確認していたようだ。どうやら候補の内の一つが、この近くにある山道にあるとのことである。
そこは、夜になれば『ここではない何処かへ移動する』という、使われなくなって久しいという曰くつきのトンネル。何でも夜中にそこを通れば不思議なことも起こるということだが、場所が悪いせいか、未だにそこへ入った者はいない……という怪しさMAXな場所であった。
「……ここではない何処かへ、か」
何故だろう、嫌な予感がする。出来るのならば、 別の候補が良い。ソフィアの話を聞いた鬼姫は、直感的にそう思った。
「まあ、真偽はどうあれ、近いのがそこですので、最初はそこにしましょう」
だが、そう決めて爆音を立てながら方向転換するソフィアを見て、鬼姫は異を唱えるタイミングを逃してしまった。仕方なくソフィアの後を追いかけると、たん、と夜空を滑空して高速道路を下りた二人は、猛烈な速度で山を駆け抜けてトンネルへと向かった。
「――あっ」
「どうした?」
「何か今、目の前を何かが通り過ぎようとしていました」
「ほう、それで?」
「思わず蹴散らしてしまいました!」
「捨て置け、どうせ碌なことはせんじゃろうからな」
途中、そんな会話を挟みながら。蹴散らされた哀れな幽霊にとっては、堪った話ではないだろうが。
……そうして、山中を駆け抜ける事、幾しばらく。途中、何度か道を間違えたり、ガセではないだろうなと言い合いになったりしたものの、二人は無事に『ここではない何処かへ移動する』という曰くつきのトンネルへとたどり着いた。
そのトンネルは、ネットで記された通りの酷い有様であった。
入口周辺のコンクリートには幾つものヒビが入り、苔が繁茂している。地面も雑草だらけで足の踏み場がなく、奥の方からカビ臭い湿り気が漂って来ていて、不快感を覚える程の悪臭であった。
当然、灯りなんて上等なものは何一つない。おそらく、昼間でも中の様子を伺うことは出来ないだろう。山道から少しばかり外れた場所にあるせいか、辺りに伸びる木々はどれも大きく、降り注ぐ月明かりすらも覆い隠すように生い茂っているのだから。
一目で、整備しなくなってから、かなりの年月が経っているのが分かる状態である。それに伴って、トンネルから漂って来るのは……霊的地場が不安定な場所、特有の気配。常人が入ればまず間違いなく命の心配をしなければならない、危険な場所であった……のだが。
「小汚いトンネルですね、これは期待が大で色々とビンビンですよ」
「……まあ、お主が満足であれば、それで良い」
二人の前では、結局のところその程度の問題でしかなかった。まあ、それも致し方ないことである。
片や、時の帝すらも震え上がらせた、千年もの時を経た怨霊。
片や、その怨霊に劣るものの、中々やると言わせた変態少女。
……文字にすれば片方があまりにも酷いが、とにかく二人の前では所詮、『たかがトンネル』である。例え常人にとっては命の危険があろうとも、二人からすれば……まあまあ刺激的かな、という話でしかなかった。
なので、二人はさっさと中に入った。途中、すえた臭いが鼻についたが……我慢する。正直、もうこれぐらいでいいのではと鬼姫は思ったが、「いえいえ、ちゃんと確かめましょう!」鼻息荒く先を進むソフィアの姿に、鬼姫は肩を落としながら後に続く。
トンネルの中は、外から見た通りの有様であった。虫やら何やらが蠢いているのは当然の事、水分が蒸発しきれずに溜まり続けているせいだろうか。奥の方へ行けば行くほど、悪臭の度合いが強まっていった。
――と、不意に。
何かが、起こる。予感にも似た直感に、興奮で顔を赤らめていたソフィアは真顔に戻り、鬼姫は辺りを見回した。しかし、その時にはもう起こった後であった。
がくん、と。
何かが切り替わったのを、二人は感じ取った。とはいえ、攻撃を受けたわけではない。しばし辺りを見回した二人は、おもむろに顔を見合わせた時にはもう、冷静に現状を認識していた。
「面倒なことになったのう。どうやらワシら、『神隠し』にあったようじゃぞ」
「あ、これ『神隠し』って言うんですか?」
「うむ、こういった場所ではな、極々稀にこういうことが起こるのじゃ」
けれども、ソフィアは知らないようだったので、「まあ、今ではまず見られるものではなくなったがのう」鬼姫は一言述べてから、説明を始める。
そうして鬼姫の口から語られた『神隠し』というのは……古来より霊的地場が不安定な場所に自然発生する『異界』への転移現象のこと……であった。
滅多に起きることではないが、長年人の手が入らずに放置され、凝縮し、破裂寸前まで高まった霊的地場には時折、そこから外部へと放出された『力』が一定の場所に留まることがある。
それ自体は珍しいことではあるが、特別気に掛けるようなことはない。だが、問題となるのは、その溜まってしまった『力』がそこから外に発散されることなく、その場所に留まり続けた場合だ。
本来であれば、その場所に溜まった『力』がある一定のラインに達した瞬間、沸かしたヤカンのように四方八方へと放出される。これはごく自然的な現象で、溢れた『力』が、近くにある別の霊的地場に引っ張られることでそうなるのだ。
しかし、何らかの要因でそれが行われなかった場合。あるいは、地形や地脈の関係から、放出した『力』がまた元の場所に戻ってしまった場合。
発散されることなく『力』が長らく飽和状態を維持し続けていると、『力』は形を変えることがある。それは大方、霊石などの『力を宿した物質』になるが、時に、『異界』とも呼べる場所へと通じる『入口』を形成することがある。
この『異界』とは、鬼姫が名付けた造語であった。何時から、どのようにしてその世界が誕生したのかは、鬼姫も知らない事である。
今から数百年前も前、神社へと封じられる前の話。鬼姫を打ち滅ぼさん為にと集められた霊能力者たちとの戦いの際、偶発的に『異界』へと入り込んだことがあると、鬼姫はソフィアに語った。
この世でもなく、あの
つまり、『神隠し』というのは、だ。
この『入口』を通って『異界』へと入ってしまうということ。現世でもあの世でもない、『異界』と鬼姫が名付けている世界へと転移してしまう現象なのであった。
「はあ、なるほど。ところで、先ほど“面倒なこと”と仰っていましたが、それはいったいどういう意味なのでしょうか?」
そこは、ソフィア的に非常に気になる点である。例え身の丈三桁メートルのドラゴンが出て来たとしても倒せる自信があるソフィアだが、万が一はある。それに、元々はソフィアの問題なのだ。
最悪、自らの命で持って脱出させる。密かにそう決意するソフィア……の顔を見て、何となく内心を悟ったのだろう。「あ~、お主の考えているようなことではないのじゃ」鬼姫は違う違うと手を振ってソフィアをなだめた。
「言うたであろう、『異界』へと通じる『入口』じゃとな。『出口』はまた別にあってのう。鬱陶しい『異界』の者どもよりも、これを探すのに骨が折れるのじゃ」
「え……ああ、だから引き返さずに先へ行こうと言ったのですか。と、いうことは、引き返しても既に……」
「そう、道は塞がっておるのじゃ。まあ、安心せい。『異界』において、ワシらは言うなれば異物。適当に歩いておれば、おそらくは勝手にこの世界が『出口』へと導いてくれるのじゃ」
二人は今、トンネルの中を突き進んでいる。撤退した方が良いと判断して引き返そうとしたソフィアを引き留めた鬼姫が、先へ進むよう指示したからである。疑問を覚えていたソフィアであったが、続けられた鬼姫の説明に納得し、進むことに賛成した。
……そうして明かり一つない、闇の中を歩くこと、幾しばらく。不思議な事に、トンネルの奥へと進み始めてから、おそらく十数分が過ぎた頃だろうか。臭いが、薄まって来ているような気がした。
最初は気のせいかと思ったが、薄らとトンネルの出口らしき光が確認出来るところまで来た時にはもう、そんな臭いがあったのかすら分からなくなるぐらいになっていた。
おそらく、『異界』に入ったからだろうと、鬼姫は言った。まあ、虫やら苔やらはそのままなのだが……特に苦手というわけではない二人は、気にすることなくトンネルを……出ようとする前に、おや、とソフィアは声をあげた。
何故かと言えば、トンネルの出口だと思っていた場所が出口ではなかったからである。一言でいえば、そこにあったのは、おおよそ3メートル四方というスペースが設けられた空間であった。
その空間にあるのは、探せば幾らでも見掛けそうなスチールと擦りガラスで作られた扉。四方の壁へ無造作に張られたチラシの数々。そして、広間の隅に設置されている排水溝と、その排水溝へ向かって壁からにゅうっと伸びた蛇口であった。
いったい、この部屋は何なのだろうか。どことなく廃退的な雰囲気を感じるそれらは、これまた小さい蛍光灯一つで照らされている。しかも、接触が悪いのだろう。かち、かち、と、不安を覚えそうな調子で唯一の光源は点滅を繰り返していた。
「ふむ……以前とはかなり趣が異なるようじゃな」
「と、言いますと――うぁ、酷いですね、これ」
蛇口を捻り、出てきた錆びだらけの水を見て慌てるソフィアの言葉に、鬼姫は大した問題ではない、と続けた。
「あの時は立派な門じゃった、ただそれだけのことよ。まあ、ここは全てにおいて現世とは違うからのう。そういうものじゃと思っておくのが楽じゃぞ」
「難しいことは考えるな、ですね。肝に銘じておきます」
そう言うと、ソフィアは狭い辺りを見回した。
「……何て、書いてあるんでしょうかね?」
ちらりと、ソフィアの興味が、広場の四方に張られた紙切れに向けられる。そこには、日本語とも英語とも違う、不可思議な文字と絵が描かれていた。
おそらくは誰かの人相、なのだろう。人間の女性っぽい感じはするが、まるで幼稚園児が記憶を頼りにして描いたかのように線がぐちゃぐちゃだ。文字は名前なのだろうが、これも何と言うか……解読出来そうな文字ではなかった。
「たぶん、ワシのことじゃな」
「――うぇ!?」
思わず、ソフィアは変な声を出した。
「言うたであろう、以前にもここへ来たとな。いやあ、あの時は今よりも尖っておってな。こんな世界に閉じ込めおってと、怒り狂っておってなあ……ここのやつらは鈍いから、ちょっとやそっと脅しても気づきすらせぬ。おかげで、ワシもついつい本気になって暴れてしまってのう」
いやあ、あの時はワシも若かったのじゃ。かんらかんらと笑いながら昔を懐かしむように語る鬼姫の姿に……今更ながら、ソフィアは乾いた笑みを零した。
――鬼姫さんが一歩立ち止まれる性格で良かった。
心の底から、ソフィアはそう思った。何せ、未遂に終わったとはいえ、だ。一度は殺し合いをしようとしていたことを考えれば、ソフィアがそう思うのも当然の話であった。
扉を開けた瞬間に差し込んできた真っ赤な光に、鬼姫もソフィアも反射的に目を瞑る。
それが夕陽であると気づくのに数秒ほど時を有した後。二人はさっさと扉の向こうへと足を踏み入れる。そうして、改めて拝見する『異界』の世界は……何というか、『不思議』という言葉が実に似合う光景が広がっていた。
まず、二人が出たのは、商店街……らしき建物が立ち並ぶ中にある一つの店の、非常口からであった。らしき、と称したのは、あくまで雰囲気が昭和のソレに近いだけで、果たしてそれが店なのかと首を傾げる有様だったからである。
というのも、だ。
爛々と空を真っ赤に染める夕陽と、長く伸びた影。それは、いい。だが、その夕陽に照らされた、立ち並ぶ大半の店。そこらかしこに張られたポスターに描かれた、漢字とも英語とも付かない不思議な文字と絵の数々。
はっきり言って、店なのかすら判別しにくい。そのうえ、店の前には商品らしきものが置かれ、値札らしきタグが括られているのだが、その商品が……何というか、用途不明なものばかりであったのだ。
一見、駄菓子屋っぽい外観の店。中を覗けば、大量のカブトムシが詰められたプラスチックのボトルが、棚という棚の全てを占領している。しかも、このカブトムシ。よく見れば、例外なく足が全て切断されており、角を擦り合わせる嫌な音が店の至る所から聞こえて来ていた。
一見、家電屋っぽい雰囲気の店。中を覗けば、所狭しに鎮座した商品が置かれていたが……形が、変だ。卍の形をしたテレビや、Σの形をした冷蔵庫といったように、まともな形をしているものがない。しかも、店員の姿はなく、店の奥にて稼働しているテレビには、一本足の爺がぐるぐると回転するだけの映像が映し出されていた。
全部が全部そうではないが、目に映る店の大半がそんな感じなのである。ならば店を離れて外に出てみれば……やはり、そこもおかしい。
通りの至る所に舗装されている部分が見受けられるも、歪だ。まるで半紙に向かって筆を振って落としたかのように、舗装している部分が点々としている。
継ぎ接ぎというレベルではなく、規則性というものがまるで感じられない。しかも、舗装に使われているのはコンクリートでもアスファルトでもなく、畳であった。
大小様々な形をした畳が、地面に埋め込まれるようにして設置されている。いったい、何の意味があるのだろう。それがない剥き出しになっている地面からは、雑草が無造作に繁茂している。手入れは長らくされていないようで、若草の下には枯れた雑草がパラパラと散らばっていた。
また、商店街の通りを等間隔で照らしている街灯も変だ。そのどれもが、細い木の中から突き出したようにランプが飛び出ている。ほかにも、鬼姫の腰あたりまである用途不明な柱が、ぽつん、と店に突き刺さっているのもあった。
「なるほど、考えるだけ無駄ですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう。ところで、ここはお主的にはどうじゃ? 憩いの場になりそうかのう?」
「いやあ、駄目です。哀れに思うぐらいに私の琴線には触れませんよ」
「ほう、そうか。それは残念じゃったな。では、『出口』を探すことを第一としようかのう」
その
――と、不意に。立ち並ぶ店の隙間から、細長い人影が姿を見せた。
それは、文字通り『細長かった』。高さにして、二人の身長を足して腕を伸ばしてもなお、届かないぐらいだ。なのに、横幅はあまりにない。細い身体に見合う細長いスーツを着たその姿を真正面からみれば、まるで立てた物差しのようだ。
二人の腰よりも細いその人影……物差し人間は、ぬるん、と縦に伸びた目を開けると、のしのしと二人へと近づく。そして、蟻の行列を眺める子供のように四つん這いになると、ジッと……二人へと顔を近づけた。
「ところで、仮にこの世界の者たちが襲ってきたらどうしたらよいのでしょうか?」
「叩き伏せればよい。面倒であれば、逃げればよい。どちらを取るか勝手に判断するのじゃ」
けれども、二人は気にも留めなかった。そこには、怯えも何もない。路傍の石ころを眺めるかの如く物差し人間を一瞥しただけで、二人はとてとてと傍を通り過ぎた。
……。
……。
…………?
それを見て、物差し人間は何度か目を瞬かせる。のるん、のるん、細長い瞼が細長い目を覆い隠す。しばし、物差し人間は二人の背中を見つめた後……おもむろに、ソフィアの方へと手を――。
「あっ?」
――伸ばそうとして、ビクッと手を止めた。
何故なら、鳥骨のように細長い指先がソフィアを掴もうとする直前。振り返ったソフィアから、とてつもない『力』が込められた眼光を向けられたからだ。
関わっては、駄目だ。戦っても、駄目だ。問答無用で殺される。
第六感にも似た直感が、物差し人間の背筋を走る。それは、物差し人間にとって初めてとなる、捕食者を目の前にした恐怖だったのかもしれない。気づいた時にはもう、物差し人間は手を引っ込めていた。
…………。
けれども、物差し人間は諦めが悪いようであった。修道服を身に纏った金髪少女が駄目なら、その隣を歩く小娘。すなわち、巫女服を身に纏っている鬼姫へと、ぬるりと手を――
「おっ?」
――伸ばした、瞬間。振り返った鬼姫から向けられた、意味深な眼差し。それをまともに受けた物差し人間は……その時、己の消滅を強く想像した。いや、させられた、という方が正しかった。
巣を突かれた鼠の如き素早さで、物差し人間は手を引っ込める。けれども、今度は引っ込めるだけではない。仰け反るように身体を丸めて飛び退いた物差し人間は……そのまま、へなへなと座り込んでしまった。
何だコイツは。いや、コイツ等は。
そう、物差し人間が思ったかは、定かではない。しかし、腰が抜けてしまったのか、あるいは気圧されたのか、物差し人間がその場から動けなくなっているのは確かであった。
のそのそと、じたばたと。女子よりも細い手足を振り動かして逃げようとするが、力が入らないのだろう。かすかすと地面を削るばかりで、二人から数十センチと離れていなかった。
「こういうやつのあれって、やっぱり細長いんですかね?」
「知らん。というか、ワシに聞くな」
なのに、恐ろしい事に。一刻も早く距離を取ろうとしている相手方から、近づいてくる。「……見た方が早いですね!」しかも、なんか凄い事を考えている。これには物差し人間もビビったのか、『きぃぃぃぃぃ』何とも言い表し難い奇声をあげた。
それは、常人であれば聞くだけで精神に強い不安を与える怪音であった。
実際、今しがたまで静かであった商店街の至る所から、がたがたと異音が鳴り響く。離れた遠くの空にて、一斉に鳥たちが飛び立つ。おそらく、今の声を聞いてしまったのだろう。鳥達の様子は尋常ではなく、共食いを始めんばかりに互いを攻撃しあっていた……のだが。
「暴れるな……暴れては駄目ですよ……!」
「お前……薄々察しておったが、中々業の深いやつじゃな」
肝心の二人には全くのノーダメージであった。というよりも、ソフィアに愛しては逆効果であった。どうやら、抵抗という行為がソフィアの興奮を無駄に煽ったようで、鼻息荒く物差し人間のスーツに手を伸ばしていた。
『きぃぃぃぃ』
物差し人偏は必死になって抵抗するが、それがスパイスになってしまっているようで、「先っちょ、先っちょだけですから!」さらに興奮したソフィアの手が、無残にもスーツを破り捨ててゆく。
傍から見れば、まんま暴行わいせつ現場である。まあ、これが生者なら鬼姫も止めているところだが、幸いにも(幸いと呼べる話ではないが)相手は悪霊というか、そもそも人間ではない。
それならば、問題ないか。
そう判断した鬼姫は、ズボンへと手を掛けたソフィアに、抵抗する物差し人間。そのどちらにも加勢をしなかった……が、何とも饒舌にし難い光景であった。
止めるのも面倒だ。そうも判断した鬼姫は、深々と吐いたため息と共に、「程々に、のう」一言だけ忠告すると、何気なしに辺りを見回した。
「――ん?」
そうして、ふと。何やら視線を感じ取った鬼姫は、目を瞬かせる。それらしいものがないかと視線をさ迷わせるが、見当たらない。それじゃあ……と、顔をあげた鬼姫は……おっ、と目を見開いた。
立ち並ぶ店の屋根の上。そこに、巨大な顔……というか、人。コーヒーに垂らしたミルクのように、顔のパーツが渦状に変形している人らしき物体が鬼姫たちを見下ろしていた。
夕陽に照らされているせいか、その顔の異様さが特に際立っているように見えるのは、見上げているからだろうか。にんまりと……ぐちゃぐちゃになったソレが僅かに笑みを形作ったのを感じ取った鬼姫は、何だ何だと首を傾げた。
だが、すぐにその疑問は解消された。
何故なら、今しがた通り過ぎていた店の中から、異形の者たちが一斉に姿を見せ始めたからである。
頭が三角形の、ひし形を思わせる異様な体型の女性。
巨大な頭から伸びた何本もの手が生えた、毛玉のような化け物。
身体は男性のソレなのに、頭が異様に長くて縦に連なる4組の目が付いた者。
互いを鎖で繋いだ、五人組ののっぺらぼう。
誰一人、普通の人間はそこにいなかった。
それらが、のそのそ、と。あるいは、どたどた、と。鬼姫たちの方へと向かって来ている。先ほどの奇声に呼ばれたのか……いや、違う。その足取りに、迷いは全く感じられなかった。
――おそらく、呼んだのはコイツだろう。
未だ見下ろし続けている渦巻巨人を睨みつけながら、鬼姫はため息を零す。
そうしてふと、そういえば数百年前もこんな感じで片っ端から相手をしてやっていたな……と、かつてを思い出す。
こんなことで思い出したくなかった。やるせなさに鬼姫は、再び深々とため息を零して……背後から飛び掛かってきた人面犬の首を掴み取った。
『lwぼL、Oさ偽め』
途端、人面犬は鬼姫へと叫んだ。しかし、鬼姫には全く通じなかった。何故なら、それが意味不明の聞いたことがない言語であったからだ。
何かを話しているということだけは鬼姫でも察せられたが、その中身までを鬼姫が理解するのは不可能であった。
「……まあ、ワシが来たのは数百年も前のこと。お前が知らぬのも不思議ではない……が」
けれども、それで十分であった。
「きゃんきゃんと、喧しい――まだ、滅びたくはなかろう?」
嘲られている。
人面犬から感じ取った気配に、鬼姫は……久方ぶりに滲み出た怒気を、人面犬へとぶつけた。それは、一年前……自らの神社周辺の悪霊を消し飛ばした時にも見せたものに匹敵する程の怒気が、鬼姫の髪をふわりと舞い上げた。
そして、その瞬間――人面犬は悲鳴一つ上げる間もなく絶命した。次いで、その身体からは間欠泉のように黒い蒸気が噴き出して……跡形もなくなってしまった。
当然の、結果であった。
本気状態にならなくとも、鬼姫から放たれる『力』は強大凶悪である。同じく尋常ではないソフィアだからこそ傍に居られるものの、本来、ただそこに居るというだけで周囲の生者に対して被害を与える存在なのである。
そんな存在から放たれた怒気と言う名の猛毒を、何の予防もすることなく真正面から受け止めてしまった。例えそれが、『異界の住人』であったとしても、耐えられる道理はなかった。
「やれやれ……お前らも、来るか?」
どうせ、言葉など通じぬじゃろうがな。そう思いつつ鬼姫が胡乱げに振り向けば、異形の者たちは一斉に足を止めた。
その顔……というには些かの変化も見られなかったが、その奥に、どうしようもない『恐怖』が生まれているのを……鬼姫は把握していた。それが、鬼姫の目的であった。
(全く、初めからそうしておれ。いちいち相手にしていたら、時間がいくらあっても足りぬではないか)
触れる者みな傷つけ尖っていたかつての時代ならいざ知らず、今ではすっかり丸くなってしまった鬼姫さん四桁歳。必要ならば戦うが、必要でないのならばやりたくない。それが、鬼姫の正直な気持ちであった。
それに、だ。この世界では、鬼姫たちの方が異物であり異常なのだ。だから、襲ってこない限りは争い事を起こすつもりはないから、さっさとどこかへ消えろ……そう思って、鬼姫は異形の者たちを見つめた。
「――ええい、先ほどから鬱陶しいやつですね!」
だが、しかし。絶望的に空気を読めないやつが、鬼姫の気遣いを台無しにした。考えるまでもなく、金髪碧眼の変態シスターであった。
その傍には、哀れな姿にされた物差し人間の姿があった。言葉は分からないが、何か呟きながら顔を覆って震えている。事は済んだのだろう……鉛筆のように細長く垂れ下がったソコが、鬼姫の目に留まった。
「この私にそんなのが効くと思う、その浅はかさに腹が立ちますよ!」
そんな哀れな被害者を他所に、人面犬に襲われた鬼姫と同じく、ソフィアの方も何かしらの攻撃はされていたようだ。何をされたのかは分からないが、ぷんすかぷんすか、怒りを露わに地団太を踏んでいる。ソフィアは腹の虫が治まらないのか、懐から取り出した十字架を天高く掲げた。
――あ、こいつ。
それを見たと同時に、鬼姫は反射的に己を守る障壁を張った。過る直感のままに行ったことであったが、それが良かった。時間にすればコンマ何秒の後、ふわっとソフィアの身体から光が溢れた――次の瞬間。
溢れた光が弾けて、まるで花火のように爆散した。
それは、まさに光のレーザービームであった。ソフィアの身体から放たれた閃光は、パッと辺りを照らして四方八方へと飛び散った。
鬼姫が張った障壁に着弾した光が、パチパチと弾ける。物理的に建物などを破壊することはなかったが、瞬く間に周囲を光溢れる阿鼻叫喚の地獄絵図に変えた。
まず、ソフィアの傍に居た物差し人間は、消滅した。蜂の巣以上に全身を風穴だらけにされ、絶命の悲鳴すら上げる間もなく塵となって……この世界からも消えてなくなった。
しかし、そこで終わらない。放たれたレーザーは距離を物ともせず、二人の下へと向かおうとしていた異形の者たちへと殺到し、赤い空に『異界の住人』たちの悲鳴が木霊する。当然、屋根の上から高みの見物を気取っていた渦巻巨人も、その例外ではなく。
ぽぽぽ、ぽん。
気の抜ける異音と共に、渦巻巨人の顔にいくつもの穴が開く。反射的に、その巨体に見合う巨大な腕で身を守ろうとしたようだが、無駄であった。
ソフィアから放たれた光のレーザーは、太い腕を容易く貫通する。あっという間に原形を失くした腕の一部が弾けて千切れ、手首から先が宙を舞って……店の一つを破壊した。
『あ∥Ю具∨堕――っ!?』
伴って、悲鳴らしき声を渦巻巨人はあげるが、何を言っているのかは二人には分からなかった。はたしてそれが、負傷による悲鳴なのか、店が壊れたことによるものなのか、それも二人には分からない。
何故なら、スーッ、と。二人に背を向ける形で、渦巻人間は音もなく夕暮れの中へと溶け込む様に消えてしまったことで、謎のままに終わってしまったからだ。
後に残されたのは、今にも息絶えそうな異形の者たち。「はあ、スッキリしました!」何やら誇らし気に胸を張っているソフィア。呆れ果てている無傷の鬼姫だけであった。
……。
……。
…………と、鬼姫は急に辺りの薄暗さが増したような気がして、空を見上げた。一拍遅れて気づいたソフィアも、空を見上げる。
見れば、遠くの空に浮かんでいた夕陽が、
あっ、と声を上げたのは、二人の内のどちらが先だったか。気づいた時にはもう夕陽は姿を隠し、その夕陽を追いかけるように外灯が点灯を始め、それに合わせて立ち並ぶ店から明かりが消える。
まるで、部隊の幕が下りるように全ての店から明かりが消えた頃、世界はすっかり闇に呑まれていた。辛うじて残っていた異形の者たちもいつの間にか姿を消し、後には異物である二人だけが、ぽつん、と佇むこととなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます