第12話(裏):悪夢の再来

 第5話(裏):悪夢の再来




 ――嫌な予感というか、碌でもない何かは、少し前から感じていた。


 何が切っ掛けだとか、何時からなのかは俺にも分からない。ただ、何となく……本当に気づいた時にはもう、その嫌な感じが胸の奥で疼いてしかたがなかった。


 この『嫌な予感』という名の不快感は、俺のことなど何も考えてはくれない。前触れもなく俺の前にやってきては、不安を俺の中に残していき……そしてまた、前触れもなく俺の中から出て行ってしまう。


 そして、通り過ぎる前に大抵、ろくでもないことが起こる。昔から、そうだった。小学生の時も、中学生の時も、高校生の時も、そうだった。この『嫌な予感』を覚えた時は程度の差こそあるが、俺にとっては嫌なことが起こる。


 ただ嫌な思いをするだけなら、まだいい。


 だが、これを無視して事故に遭ったこともある。だから俺はこれまで、『嫌な予感』を覚えた時は出来うる限り病欠なり何なりで家に閉じこもり、過ぎ去ってくれるのを待つという対処法を取って来た……んだけど。


「――明日の夜、□□県の△△神社ってところにロケに行くぞ。今回は雨天でも決行だし、素人さんを使うから、そのつもりで準備しておけよ」


 俺がAD(アシスタント・ディレクター)として働くようになってから、もうすぐ6年。さすがに新人扱いされることはなくなったが、それでも若輩者としか見られていない俺に、ディレクターである大野さんが投げ捨てるように言い放った言葉が、それだった。


 必要を、簡潔に。その言葉を座右の銘にしている(口癖らしい)大野さんの報告は、いつも突然で最小限だ。初めの頃は『報・連・相』を習わなかったのかこのオッサンはとか思っていたが、今では不満に思わない程度に慣れた。


 というか、慣れるしかなかった。この程度のことでいちいち不満を覚えていたらキリが無いし、気にしていたらこっちが潰れる。この業界、一に体力、二に図太さ、三に面の皮だし。


 まあ、気に入られた方が早くADを卒業出来るものだと早々に割り切っていた俺は、いちおうは直属の上司みたいなものである大野さんの言葉には、何時でも答えられるようにどんな時でも意識を向けていた。


「――へ?」


 ……はずなのだが、さすがに今回ばかりは俺の切り返しもこんな程度だった。


「なんだ、聞こえなかったか? 夏バテか? 塩飴舐めとけよ」


「あ、いや、あの、△△神社って、住宅街の一角にあるやつですよね? 何でそんなところにわざわざロケに行くのかな……って思いまして」


 途端、言葉にこそ出さないものの不機嫌を顔に出した大野さんを前に、俺も表にこそ出さなかったが、凄く慌てた。必要を、簡潔に。その言葉を座右の銘にしている大野さんは、それを当たり前のように周囲に強要する。


 当然だが、俺に対しても例外ではない。というか、むしろ俺に対しては他よりも基準が厳しい。正直鬱陶しいことこの上ないが、その分だけ目を掛けて貰えるということなのだろう。


 多分、それは当たっていると思う。だからこそ、部下みたいなものである俺がアホみたいな返事をしたのが癇に障ったのだと思う。それに気づいた俺は、慌ててそれっぽい言い訳を述べる。勝率は五分と言ったところだが……。


「何だ、知っているのか。お前、けっこう物知りだな」


「はあ、まあ、今って『ホラーブーム』ですし、知っておいて損はないですから……それで、あの……もしかして、また?」


「その通り、ご当地ネタってやつだよ。しかも、今回は流行の都市伝説も加えるぞ」


 ――よし、誤魔化せた。


 その言葉を唾と一緒に呑み込む。悪い人ではないのだが、ちょっと人とは歓声が違う点が面倒だが……ところで、ご当地ネタってそれは……。


「大丈夫なんですか、それ?」


 ――あ、しまった。


 思わず尋ねてしまったことに、思わず頬が引き攣ってしまうのを自覚する。ディレクター同士ならいざ知らず、所詮はADの俺が口を挟むことではないし、余計なお世話なのである。


 例え、『ご当地ネタ』が『河童の住まう池』の話だとか、『夜中に現れる六本腕の女』の話とか、結局蓋を開けてみればガセ&デタラメで、落ちも糞もない結果に終わってしまっていたとしても。


 怨霊の呻き声の正体がゲイカップル同士の喘ぎ声というオチで、とてもではないが放映出来るものではないという、苦い経験があったとしても……所詮、俺はAD。口出し出来る権利はもちろんのこと、出過ぎた真似でしかないのである。


「……さすがに、あんときは俺もお前の忠告を聞いておけば良かったって思ったよ」


 ――よかった、大丈夫だ。あと、思い出させないでください、今でも50過ぎのオッサン同士の強烈なディープ……いや、止めよう。


 けれども、今回は大野さん自身も思うところがあるようだ。失言と言ってもいい俺の発言を聞き流してくれた。「それじゃあ、俺はちょっと打ち合わせに行くから。メンバーには伝えておけよ」大野さんは気怠そうに頭を掻くと、そう言って俺の前から去って行ってしまった。


 いちおう、俺は大野さんが見えなくなるまで見送る。意味がないことだとは分かっているが、こういう部分を評価する人がいる以上、しないわけにはいかないのだ……まあ、それはいいとして、だ。


「△△神社って、確か性病とか性愛とか、そういう系の神様を祭っている神社だったよな?」


 俺は、首を傾げた。前回のロケが失敗したから、そのうちまた来るだろうと覚悟はしていたが……いまいち、その神社とホラーが結び付かない。それに、そういう系の『都市伝説』……そんなの、有っただろうか?


 美容整形に失敗して自殺した女の話とか、男(あるいは女)に捨てられた者が、ストーカーとなって相手を殺すとか、そういう(真偽不明の)話なら幾らでもある。


 でも、基本的に性愛とかそっち系の神様は、子宝とか安産とか、そういうのを兼ねている場合が多い。ホラーの題材に使うには、些か無理があるような気がしなくもない……が。


 ……まあ、俺が考えたところでしょうがないか。


 どうせ、大野さんが俺に話したことは、既に全部決まったことなのだから。今更俺がどうこう考えた所で結果は変わらん。そう結論付けてから深々とため息を吐いた。いや、別に疲れている(だからといって、疲れていないということはない)わけではない。


 俺の溜め息は、もっと別の理由である。他人が聞けば鼻で笑いそうな理由で、間違っても人に言えるものではない。ずばり、それは――。


「幽霊、いなければいいんだけどな」


 ――つまり、そういう理由であった。


 そう、俺は、親兄弟以外には誰にも話していないし、誰にも話すつもりもないけど、そういうのが『見える性質』なので……ん?


 ……。


 ……。


 …………あれ、何だろう。


 魚の骨のように引っ掛かる違和感に、俺は首を傾げた。


 何か、前にも似たようなこと……気のせいだろうか?


 そう思った俺は、しばしの間、その違和感の正体を思い出そうと一生懸命頭を使った。でも、「――あ、皆に伝えておかなきゃ」時計を見てすぐに仕事の事を思い浮かべてしまった俺はもう、その時には違和感のことなんてすっかり忘れてしまった。






 俺がこの業界に入ったのは、今から六年前。じわじわと広まっていたオカルト人気が爆発し、日本全国がオカルト一色に染まって、早三年が過ぎた。まだまだ冷める兆しすら見えないオカルト人気にあやかって、心霊特集が組まれるようになったのは……もう、結構前からだ。


 別に、それ自体をどうこう言うつもりはない。オカルトに限らず、SFも、ラブロマンスも、戦記物も、一定のサイクルごとにブームというやつはやってくる。所詮、流行なんてそんなものだ。


 ただ、俺が問題だと思っているのは……取材というか、ロケ。特に、秘所の突撃取材……いわゆる、怪談スポットへの取材。色々な仕事をしてきたけど、この手のロケに関してだけは……今でも、正直憂鬱でしかない。


(……何でだ?)


 それらを踏まえた上で、だ。スタッフの皆の声を背中に受けながら俺は、件の△△神社へとロケバスを走らせている道中……何故か、異様な胸騒ぎというか、今すぐにでも帰りたい気持ちで一杯であった。


(ただの……神社に、向かっているんだよな? 何で俺、こんなに嫌な気持ちになっているんだろう?)


 吐き気を覚えてしまう程の、嫌な感じだ。これがプライベートならすぐさまUターンしているところだが、そんなわけがないので走らせるしかない。


 せめて、事故が起こって行けなくなったら……と俺は思ったが、そんな俺の気持ちを嘲笑うかの如く軽快であった。


 先日、すり減ったタイヤと一緒にオイルとか色々を新品に変えたからだろうか。気のせいなのかもしれないが、エンジンペダルは心もち軽いように思えた。


 加えて、ロケバスの運転自体は慣れている。山道はもちろん、首都高速の渋滞から雪道、大雨に水没しかけた道路に至るまで走って来た。もちろん、後ろには大野さんを始め、同期のやつらも乗せているから緊張することも多かった……けれども。


(嫌な感じ、強くなってきている。前にも似たようなことはあったけど……でも、行き先は全く違うしなあ)


 今回ばかりは、それが理由ではない。俺の脳裏を過っているのは、今から一年ほど前に経験した……あの、神社での出来事。今日は、どうしてかそれを何度も思い返してしまい……自然と、俺の気分は落ち込んでいた。


 あの時からしばらくは、本当に大変だった。夜の闇が怖くて、部屋の照明だけはずっと点けっぱなしにしていたぐらいだ。おかげで、その月の電気代は見るのが恐ろしかった。


(いっそ、ハリケーンでも起こってその△△神社ごと吹っ飛ばしてくれたら良かったのに……あるいは、もう一台の方が軽い事故を起こしてくれれば……)


 今回、二台のロケバスを使っている。一台は、俺が運転するバス。大野さんを始めとした、俺たち『テレビスタッフ』を中心とした人たちが乗車している。


 そして、もう一台。俺が運転する車から少し後方を付いて来ているそれは、大野さん曰く『素人さん』を乗せたバスで、今回のロケに出演する……いわば、主役みたいなものである。


 ……主役なのに『素人さん』と呼ぶのも酷いものだが、致し方ない。なにせ、そのバスに乗っているのは、最近ネット上で大人気の『実況者』とか、『歌い手』とか言われる人たちだ。おまけに、今日はその『素人さん』たち……もれなく『コスプレ』をしているのだ。


 俺ぐらいの年代なら、ああ、あの人か、あのコスプレか……って思うけど、大野さんぐらいの年代になると……ねえ。思わず零れ出た苦笑を、俺は隠せなかった。


 彼らには悪いけど、ネットに顔を出している素人さん、ていうのが、大野さん側が彼らに対して抱いている印象なのであった。まあ、この業界では大野さんも若い内に入るけど、世間一般的には中年だしね。


(そういう企画とはいえ、大野さんの世代では絶対に元ネタが分からないコスプレして来ているからなんだろうけど……それにしても、ハリケーンは見えねえや)


 チラリとフロント越しに夜空を見れば、星が見える空には雲一つなかった。昨日確認した時では曇りって言っていたのに……ほんと、こういう時は何から何まで俺の気持ちとは逆に動きやがる。


 局を出発してから、早二時間。グーグルマップとナビで確認した限りでは、件の△△神社はもうすぐだ。住宅街にあるだけあって、今回は迷うことなく着いてしまうのが堪らなかった。


(……呑気だよなあ、皆は)


 バックミラー越しに、後部座席を見やる。


 そこに居るのは、現場指揮である大野さんと、俺を含めたADとカメラマンが数名ずつ。そして、視線を横へ。そこには、大野さんがわざわざ連れて来た、『霊能力者』だとかいう……えっと……お爺さんが、腕を組んだまま目を瞑って黙り込んでいた。


 なんで、助手席に座っているのか。それは、この人が無言のまま助手席に乗り込んで、動かなかったからである。非常識というか、何というか……分かるだろうか、俺の気持ち。


 その時、そのことに誰も文句は言わなかった。何故なら、このお爺さんは大野さんが連れて来た人だからだ。曰く『伝手の伝手を頼って連れて来た』ということらしく、何とも怪しい人物である。ADでしかない俺が文句を口に出すつもりはないが……やりにくい。それが、俺の正直な気持ちであった。


 だってこの人、本当に何も話さないのだ。無口とか、そういうレベルじゃない。必要最低限どころか挨拶すら会釈するだけで、一度も口を開かないのである。大野さんから『無口な人だから』と説明されるまでは俺、この人のこと……障害か何かで声を出せないのかと思っていたぐらいだ。


(名前だって『私たちにとって、名前を教えるのは危険な事なのだ』とか言って教えてくれなかったし、大野さんも大野さんで何も言わないし……)


 ……黙っていてくれるからまだ楽だけど、何だろう。この人、見た目は何処にでもいるお爺ちゃんなのに、妙な威圧感というか、不思議な雰囲気がある。多分、俺がこの人に対して苦手意識を抱いている理由の大半は、その雰囲気のせいだと思う。


 ……いっそのこと、後ろの座席に座ってくれたら楽なのに。


 そう言ったら、さすがにこの人も顔色を変えるだろうか。いや、この人が顔色を変える前に、大野さんにぶん殴られるだろう。何故かは知らないけど、大野さん、この人に対して妙に低姿勢だったし……本当、何者なんだろうか?


(まあ……何であれ、余計なことさえしなければいいんだけど)


 そう結論付けた俺は、内心、深々とため息を吐いた。


 ……オカルトブームが実際にブームとして世間に認知されるようになって、しばらく。今回のロケに関してもそうだが、こういう『胡散臭いやつ』をタレントと称して紹介する番組が増えた。


 だからという言い訳も何だが、俺が名前を覚えられないのはそのせいでもある。なにせ、ブームが来てから、これで11人目なのだ。霊能力者と自称するやつが、ロケに参加するのは。


 別に、不幸が重なったとかそういうわけではない。ただ、オカルトにはこういうやつが付き物なだけで、反響が無かったら次の人……というだけなのである。信憑性を増して、より数値(視聴率)を取る為に……説得力というやつを得る為だ。


(それにしても、大野さんも変な人脈というか、よく分からん人脈があるよな……どっから連れて来たんだろう)


 その点を考えれば、このお爺さんを見付けて来た大野さんは凄い。そして、このお爺さんも何か凄い。まだまだ駆け出しに過ぎない俺の目ですら、このお爺さんを見ていると、『何か有りそう』と思ってしまうからだ。


 変な爺だけど、その点に関しては……俺は、この爺を認めていた。失礼なことだとは思うが、俺の爺さんに対する気持ちはそんなもんだった。ていうか、それぐらい許してくれ。


 だって、実際に霊を『見ることが出来る』俺からしたら……今まで見てきた『霊能力者』なんて、インチキもいいところだったのだから。






 ……。


 ……。


 …………俺は、ガキの頃から常人には見ることが出来ない……幽霊というやつを見ることが出来た。本当は幽霊ではないのかもしれないが、とにかく、物心が付いた時にはもう、俺は『やつら』の姿を確認出来ていた。


 だからといって、俺がその件で得をしたことは一度もない。いや、もしかしたら数えるぐらいはあるかもしれないけど、それ以上に不利益を被る方が多いので、実質『無い』と言っても過言ではないだろう。


 そんな俺だから、見える俺だから、断言する。見えない方が幸せだってことを、さ。


 とにかく、『やつら』は……こう、加減というやつを知らない。そして、善悪の区別もない。もしかしたら違うやつがいるのかもしれないが、少なくとも俺が見てきた『やつら』は何時だって自分たちのことばかりを考えていた。


 自分たちの欲求を通す為に、とんでもないことを平気で仕出かす。自分たちの願い(我が儘)が叶えられて当然だと思っている。だから、時に『やつら』は俺たち生きているやつらの平穏をぶち壊すのも平気でやる。


 実際、俺は幼い時から何度も見てきた。霊に憑りつかれて精神に病を抱えたやつとか、それが原因で自殺したやつも知っている。そんな俺が編み出した、『やつら』に対する処世術……とにかく、『やつら』の目に留まらない。それが、何よりも重要なのだ。


 それを知っているから、俺は極力『やつら』の視界に入らないように努めてきた。絶対に、そう、はっきり言って、俺が親以外の誰にも『見える』ことを秘密にしているのも、オカルト関係のロケで憂鬱になるのも、だ。


 気取っているつもりは毛頭ない。俺はただ、『見える』ことで余計なトラブルを背負い込みたくない。ただ、それだけだった。


「――お前、何だその御守りの数は? うちの娘のストラップよりも多いぞ……っていうか、何か前よりも増えてねえか?」


「……まあ、無いよりはましでしょう」


 ふと、背後から大野さんにそう声を掛けられた俺は、前を見たままそう答えた。大野さんも、否定するつもりはないのだろうが、「そりゃあそうだけど、多過ぎだろ」どこか、からかいの意味を込められた声色に、俺は自然と仏頂面になった。


「いいじゃないですか。だいたいそれを言うんだったら、大野さんだって御守りは持ち歩いているの、知っていますよ」


「いやいや、だからってこんなに大量に持ってきちゃあいねえよ」


「当たったら儲け物みたいなところがありますからね、御守りって」


 ああ、そういうものか。前を見ているから分からなかったが、何となくその声色から、大野さんが俺の言葉に感心したのが分かった。


「話は変わるが、とりあえず持って行く機材は最小限でいいぞ。管理者からの話だと、撮影は鳥居の外からならOKだってことだからな」


「ええ? 鳥居の外からはOKなのに、中は駄目なんですか? 何でまた、そんな変な事を言って来ているんですか?」


「俺が知るかよ。まあ、神社ってのは神様の家みたいなもんだからな。たぶん、神様の家を我が物顔で撮影するなってことなんだろうよ」


 運転している俺を他所に、大野さんはそう言うとまた、皆との談笑を再開した。


 にわかに騒がしくなる車内の声に、俺は深々と……それはもう、深々とため息を吐くと、今度こそ運転にだけ気持ちを集中させた……と。




「――見えるだけか?」


「……え?」




 唐突だった。まるで俺の意識の不意を狙って突いたかのように、お爺さんから話し掛けられた俺は、「前を見ろ」そう言われて慌てて運転に意識を戻した。


 ……。


 ……。


 …………あ、あれ、今、俺ってば……話し掛けられた?


「声は、聞こえるのか?」


 そのことに何とも言えない感覚を抱いていると、また、話し掛けられた。何だ、見えるとか聞こえるかとか、いったい何を言っているのだろうか。


 いまいち、お爺さんの言わんとしていることが分からない。聞こえなかったフリで誤魔化そうかと頭を悩ませていると、お爺さんはこれ見よがしにため息を零した。


 ……何だ、この人。


 ちょっと、カチンと来た。


「尋ねるのなら、主語を入れてくれませんか?」


 だから、俺は思わず挑発するような口ぶりをしてしまった。言った瞬間、大野さんに怒られることを想像して血の気が引いたが……口に出したものは仕方がない。成る様に成れだと、俺は横目で軽くお爺さんを睨んだ。


「幽霊……見えているんだろ?」


「……へ?」


 けれども、お爺さんは特に気分を害した様子もなければ、睨み返してくることもなく。俺以上に前方を見つめたまま、低い声色でそう尋ねられた俺は……ぽかん、と大口を開ける他なかった。「前を、見ろ」再度、お爺さんから注意されていなかったら多分、事故を起こしていたと思う。それぐらい、俺は……お爺さんの言葉に、驚いていた。


 ホラーブームが到来してからこれまで、他人から霊感の有無ぐらいは尋ねられたことがある。もっぱら雑談の最中に……という感じだったけど、見えることを前提に尋ねられたのは、これが初めてだった。


 今まで、俺は家族以外には誰にも自分が『見える』ことを話した覚えはない。酒の席でも何でもポロッと零したこともないし、見えている素振りも見せたことはない。極力、誰にも気付かれないように隠し通してきたつもりだ。


 なのに、気付かれた。どうして、分かったのか。当てずっぽう……いや、違う。お爺さんは、確信を持って俺に尋ねている。でなければ、あんな問い方はしないだろう。


「な、なんで?」


 辛うじて聞き返した俺の返事は、お爺さんの問い掛けに対する否定ではなかった。と言うかそれは最早、肯定といって差し支えないものであっただろう。


「俺も、この世界に首を突っ込んで長い。何となくだが、顔を見れば分かるんだ。相手に俺みたいな『力』があるかどうか……ってぐらいはね」


「…………」


「見た所お前さんは、後天的というよりは先天的。けっこう、それで苦労してきただろう?」


「は、はい、まあ、そうですね」


「見えるだけか? それとも、声も聞くことが出来るのか?」


「えっと、見えるだけです。ただ、時々ですけど……声が聞こえたりすることもあります」


「そうか。それなら話は早い……いざとなった時、君はまず自分が助かる方法だけを考えなさい」


「――は、はい」


 そう返事をしたときにはもう、気づいた時にはもう、俺はお爺さんに抱いていた嫌悪感がすっぱり無くなっていた。何でだろうと俺は内心首を傾げたが……答えは、すぐに出た。


 たぶん、俺はこの時……初めて『本物の霊能力者』と呼ばれる人を見たと思ったから。大野さんが連れて来た件は別として、俺はお爺さんに対して……何だろう、畏敬にも似た感覚を覚えたのかもしれない。


(この人の忠告だけは、聞いておいた方が……いいかな?)


 お爺さん的にはもう、言うべきことは話した、ということなのだろう。先ほどの言葉を最後に、お爺さんはまた黙り込んでしまった。俺は、そんなお爺さんを横目で見やりながら……俺は、後部座席の賑わいを耳にしながら、ウインカーを点灯させた。






 ……件の△△神社は、(いちおう、少しは事前に調べ直した)記憶にある通り住宅街の一角にあった。現地に到着したのは……だいたい、9時を回った辺りだろうか。


 さすがにこの時間にもなれば駐禁も来ないけど、念には念を入れて神社から少しばかり離れた場所に車を止める。そこは片側二車線の道路だが、車の往来は少なかった。


 本当は機材の関係(けっこう、重いのだ)からすぐ近くに止めたかったのだが、神社近くの道路は道が狭く、車を止めると交通の邪魔になってしまう。それに、下手に苦情が出てしまうのはちょっと……という大野さんの判断の下、そうなった。


 まあ、それに関しては誰も文句は言わなかった。離れているとはいえ、せいぜい100メートルぐらいだ。台車も持ってきているし、コスプレさんたちは皆、俺たちよりも若いのが大半だ。蒸し暑さは感じていたけど、これぐらいどうってことはないって感じで、俺たちは△△神社へと目指していた。


 ……そんな中、ちょっとだけ気恥ずかしいと俺は思っていた。


 と言うのも、何時もと違って今回はメンバーの大半がコスプレ衣装だ。夜とはいえ、住宅街の中を歩くのには少しばかり勇気がいる。下手に騒いで通報されたら堪らないから私語は慎んでいるのが、余計にそんな気持ちにさせるのだろう。


 いちおうカメラを担いでテレビの撮影であることを見せてはいるが……正直、ちょっと彼らとは距離を置きたい気分であった。いや、別に彼らを軽蔑しているとか、そういうことじゃない。そうじゃ、ないんだが。


 さすがに……なあ。コスプレもそうだが、10歳近く年が離れていると、彼らが醸し出す空気に付いていけないというか……俺もオッサンになったということなのだろう。まあ、俺は荷物を担いでいるから必然的に一番後方になるから、単純に嫌だというだけの理由じゃないけどな……ん?


(え、この感じ……)


 不意に、背筋をゾクゾクと怖気が走った。それは、言うなれば俺の身体が発した危険信号。俺にしか見えないやつが現れた時の……あるいは、現れる前兆であった。


 この近くに……いる?


 慌てて視線を下げ……大きく、深呼吸。何であれ、対処法は決まっている。こういう時、目を合わせてはならないし、見てはならないということだ。


 何故かは分からない。けれども、それが経験則から俺なりに編み出したやつらへの対応法だ。不思議なことに、やつらは『見られている』ということには敏感なのである。


 けれども、どうしてだろう。俺は、おや、と疑問を覚えずにはいられなかった。


 何故なら、やつらの視線を感じないからだ。経験上、『やつら』が傍に来た時、程度の差こそあるが例外なく強い視線を感じる。


 なのに、今回はそれがない。傍まで来ているのは感じるのに、視線を感じない。こんなこと、初めてだ。


 ……嫌な予感が、強くなる。俺は、転ばないように注意しながら御守りを服の上から握り締める。期待はしていないが、それでもそうせずにはいられない。


 とにかく、何でもいいから離れてくれ。


 そう念じながら、俺は周囲に意識を向ける。そんな時に限って、周囲から聞こえてくるのは気楽そうな談笑ばかり。何で俺だけ……何度目か分からない苛立ちをひっそり覚えていると、「顔を、上げるな」その声が俺の耳に届いた。


 いつの間に、隣に来ていたのだろう。「だから、顔を上げるな」お爺さんの忠告に俺は上げかけた頭を下ろす。「しばらく、俺の足でも見ておけ」そう言われたので、俺はお爺さんの足を横目で見やりながら……深々と、安堵のため息を零した。


「残念だが、俺の手に余る。最悪、死人が出る」


「え?」


「噂には聞いていたが……もしや、ここがそうなのか」


「え?」


「独り言だ、気にするな……やれやれ、嫌な予感の正体は、コレか」


 けれども、そのため息は、お爺さんの言葉によって途中で止められた。幸いにも、俺とお爺さんは一番後方を歩いている。だから、お爺さんの独り言は俺以外の誰にも聞こえていないようであった……のだが。


 出来ることなら、俺以外にもそれを口にして欲しかった。何で俺だけにそんな重大な話を打ち明けるのかと思ったが、良く考えてみれば、だ。『見える』のはお爺さんを除けば俺だけなんだから、俺にだけ話すのはまあ……諦めるしかないんだろう。


 ……と、いうか。


 死人が出る、とか、もしや、とか、ここ、とか、不吉を覚える単語がチラホラと混じっていたのは……いったい、どういうことなんだろう。いや、説明しなくても何となく想像は付いたけど……え、俺たちが向かうのって、神社だよな。全国探せばけっこう見つかる、寂れた神社の内の一つ……ですよね?


「あいにく、今は違う」


 けれども、お爺さんはまるで心を読んだかのように己の内心を否定した。


「な、何が違うんですか?」


 そこを知りたかったが、お爺さんはそれ以上のことは何も語らなかった。かわりに、「いいか、よく聞けよ」忠告とも言うべき助言を俺に話してくれた。


「俺が聞いた限りでは、だ。奴(やっこ)さんはこちらから悪さをしない限りは、何もしてこない……可能性は高い。様子を見に出ては来るだろうが、こちらから仕掛けない限りは……おそらくは、大丈夫だろう」


「これっぽっちも安心できる要素がないんですが、それ」


「不幸中の幸いというべきか、今日は『仮装』をしているやつらが大勢いる。祭りか何かと勘違いしてくれれば良し、機嫌を損ねてしまえば……」


「……しまえば?」


 そこから先を、お爺さんは答えなかった。


「とにかく、平気なフリをしろ。しばらくは奴さんの目に映り難くはしてやる。大した効果は得られないだろうが、『護り』も掛けておいてやるから」


 そう言うと、お爺さんはブツブツと小さな声で何事かを呟き始めた。お経とは違う、呪文のようなものをしばし唱えた後……「汝が姿、見えぬ者となれ」俺にだけ聞こえる程度に囁くと、ぽん、と俺の背中を叩いた。


 途端、俺は背筋を震わせ続けていた悪寒が消えたのを自覚した。身体に降りかかっていた重圧が、消えている。えっ、と驚きに顔を上げた俺に、「言っておくが、気休めにしかならんぞ」お爺さんはそう言って釘を刺した。


 たぶん、それは謙遜でもなく本当のことなのだろう。ようやく見られたお爺さんの強張った顔を見て、俺はゴクリと唾を呑み込んだ。途端、喉に痛みが走ったが……気にしている余裕なんてなかった。


「こっから先は、俺もお前に話し掛けたりはしないし、『力』を隠す。下手に動くと、奴さんに気付かれるからな。お前はあくまで『何も見えない・感じない人』のフリに勤めろ……いいな?」


 何という無茶難題だが、頷く他ない。そして恐ろしいことに、お爺さんはそれ以上を語らなかった。肝心なところを誤魔化されると余計に怖いんですが……と思った。しかし、そう思った時にはもう、先頭が神社に到着した。


 ……。


 ……。


 …………住宅街の中だというのに、△△神社は……何というか、俺が持ち得ていた情報よりもずっと、寂れた雰囲気を醸し出していた。あるいは住宅街の中、神社周辺の道路に散らばった落ち葉や、ぽつりぽつりと放置されたままの空き缶や菓子袋のゴミ。それらがあるせいで、余計にそう感じてしまうのかもしれない。


 また、境内の中が真っ暗なのも、寂れた雰囲気の一因になっているのだろう。神社の外、道路側には幾つか外灯が見当たるが、さすがに境内にはそのようなものはないようだ。外から見える範囲では、明かり一つ無い境内の中は真っ暗闇もいいところ。足を踏み入れれば最後、二度と出て来られないのではなかろうかと考えてしまう程に静まり返っていた。


 ああ、こういうの嫌だな。絶対に、この神社……凄いのがいるよ。


 言われた通り、ごく自然な様子を装って……出来ているのかは分からないが、とにかくそう装う。そんな俺が、外から神社を拝見した率直な感想が、それであった。


 今になって、何となく分かってくる。さっきは浮遊霊か何かに反応したかと思っていたが、違う。先ほど俺が感じた悪寒の正体は……たぶん、この神社が原因。虫の声が不思議と境内の中からは聞こえてこないのも、おそらくはそのせいだ。


 もしかしたら、虫たちすら、ここを嫌がっているかのかもしれない。果たして虫にソレを理解出来る頭があるのかは分からないが……虫たちすら避ける何かが、ここに居る。俺は、どうしてもそんな考えを捨てきれなかった。


(大丈夫、大丈夫だ、俺! 今日は本物の霊能力者も来ているんだ! 大丈夫、何とかなる!)


 そう、自分に言い聞かせる俺は、傍から見たら滑稽なのかもしれない。でも、考えてみて欲しい。あれだけ騒いでいた『素人さん』たちですら鳥居の前に立った瞬間、事前に申し合わせたかのように一斉に押し黙ったのだ。


 気になって皆の顔を見回せば、誰もが例外なく、暗がりのこの中でも顔を強張らせているのが見える。神社が醸し出す『何か』に威圧されているのか、あるいは別の理由があるからなのか。強張った顔に呼応するかのように、静けさがもたらす異様な耳鳴りが俺の頭を揺らした。


 それが、俺にどれだけ恐怖を与えているか……『見える』人にしか分からないことだと思う。


 お爺さんだって、一見平静を装っているが、俺には分かる。『何か』に対して緊張しているのが、手に取るように。


 暑いなあとボヤク度に噴き出している汗は、はたして本当に暑さのせいか。汗を拭う動作が妙にぎこちないと思えるのは、ただの気のせいなのか……俺自身、よく分からなかった。


 ――けれども、だ。


 だからといって、ここまで来て怖いから撮影出来ません、では終われない。ひとまず俺は(皆も)、大野さんの指示の下、さっさと撮影準備に取り掛かる。途中、『素人さん』たちを邪魔にならない場所に待機するよう指示しておくのも忘れない。


 撮影という行為そのものには慣れているだろうが、番組収録という行為は初めてなのだろう。どことなく緊張している様子の『素人さん』たちを見やりながら、俺は……改めて、お爺さんへと目を向けた。


 先ほど話していた通り、お爺さんはあれっきり俺に話しかけるようなことはしていない。けれども、仕事を放棄したわけではないようで、大野さんに対してあれこれ何か指示をしているのが見える。「――必要以上に照明は炊くな」そのお爺さんを通して告げられる大野さんの指示を受けて、俺たちは言われるがまま準備を進める。


 ……今回の番組企画は、ずばり、『都市伝説』だ。


 ネット上に転がっている(真偽はどうでもよい)怖い話から厳選された幾つかのエピソードを実際に行ってみよう。というのが、今回の企画のだいたいの全容である。


 今回選ばれたのは、最もアンケート結果が良かった、『神社にまつわる怖い話』と、『廃棄された小学校の怖い話』。その中でも特に評判が良かったのが、『神社を利用した降霊術』というやつと、『○年○組の教室で行う呼び声』……この、二つであった。


 正直、最初にその企画の話を聞いたとき……俺は半ば本気で病欠を考えた。実際に呼び出せるか否かの問題じゃなくて、なんでよりにもよってそんな危険そうなやつを選ぶのかと、大野さんに食って掛かりたい思いすらあった。


 でも、そんなこと俺に出来るわけがない。所詮、俺はただのADだし、替えはいくらでもいるのだ。それに、大野さんも嫌がっていたと聞いていたから……怒るに、怒れなかった。


 実際、聞いた話ではコレの為に既に放送枠が用意されているらしいしな。既に、大野さん一人の判断でどうこう出来る段階ではないのだろう。さすがに、それが分からない程俺も馬鹿じゃない。


(兎にも角にも、仕事は仕事。嫌なことが起こる前に終わらせてしまうに限るってことか)


 結局、どれだけ悪態付いたところで結果はコレだ。ため息と共に色々と諦めた俺は、機材の充電が成されているのを確認しつつ……ふと、神社を横目に見やった。


 ――瞬間、俺は自分の心臓一瞬ばかり止まったのを自覚した。


 身体が、爆発したかと思った。そう思ってしまうぐらいに、身体中から汗が一斉に拭き出した。お爺さんの忠告が頭を過ったが、俺は痛みすら覚える程に高鳴る鼓動に引っ張られるがまま、ごく自然な……つもりで、神社に背を向ける。何故、背を向けたかと言えば、だ。


(何で……)


 脳裏に浮かぶのは、1年前のこと。あの神社で俺たちを助けてくれた……あの、幽霊の存在。


(何で、お前が居るんだよ!?)


 巫女服っぽい衣装に身を包んだ女の子。その子が、今しがた背を向けた神社の屋根にいた。俺が神社に背を向けた理由は、ソレであった。一瞬、その隣にもう一人いたように見えたが……問題は、そこじゃない!


 もしかして、お爺さんが話していた『奴さん』とは……あっ。


 ――ヤバい。


 その三文字が、グワッと頭の中を埋め尽くす。辛うじて作業だけは中断出来ずにいるのは、すっかり手慣れている作業だからだろう。偶然とはいえ、それの準備に取り掛かっている時で良かった……けれども、だ。


 今の今まで、気付けなかった。何故かは、分からない。あんだけヤバい雰囲気出しているやつが、あそこまで近くに来ているのに、どうして俺は気付けなかったのだろう。もしかしたら、俺の中に有る本能が、あの子を認識することすら拒んでいたから……ちくしょう。そのおかげで、逃げることすら出来ない事態だ。


 想定していたよりも、100倍ヤバい。これなら、ただの悪霊に囲まれた方が幾らかマシだ。まさか気付かれていないよな、と願いつつ、お爺さんを探し……ても、見当たらない。


 どこだ、と俺は視線だけをぎょろぎょろと動かして……『素人さん』たちの中に紛れつつも、車のある方へと離れていくのを見て、思わず――


(だ、駄目だ! 今は不味い!)


 ――上げかけた呼び声を、ギリギリのところで抑える。大きく……それでいて、出来る限り静かに、深呼吸をする。震える手足を何とか動かして、準備を終えた俺は……おもむろに、首に巻いたタオルで汗を拭った。


 呼んだところでどうするんだ、俺。


 そう己に問いかけながら、気持ちを落ち着かせる。


 言っていたではないか、手に余ると。お爺さん自身が動くと感付かれるから、あのようにして人混みに紛れ、距離を取っただけ。そうだ、ただ、それだけのことなんだ。


 落ち着け、俺。大丈夫だ、俺。こちらから手出しさえしなければ、大丈夫。


 そう、自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫だ。確かに、あの子は存在するだけで周囲に影響を与える存在だが、『無差別に周囲を攻撃するようなやつではない』。現に、あの時俺たちを助けてくれたのは……紛れもなく、あの子だ。


 少なくとも、こちらから不用意に機嫌を損ねるようなことさえしなければ、あの子は危害を加えたりはしないだろう。確信なんて全くないけど、俺は何度も何度も己に言い聞かせるように念じる。


 ――そうしていると、「それじゃあ、始めっぞ」大野さんの声が辺りに響く。それは、けして大きくはない音量だ。周囲の苦情が出ない程度に、俺たちにだけ聞こえる程度のものだったが……その瞬間、俺は大野さんに怒鳴り掛けた唇を寸でのところで噛み締める。


 大野さんは見えないだけ、大野さんは分からないだけ、大野さんは気付けないだけ。


 そう、己に何度も言い聞かせて怒りを呑み込んでいる内に、撮影が始まる。


 照明は、弱い。声も、集音マイクがなければ絶対に聞き取れないぐらいの小さな声。何とも初々しい挨拶と説明を行う『素人さん』たちは、次に、誰が最初に神社に入るかのくじ引きを始めた。


 ……のを、見やりながら。俺は、出来うる限りさりげなさ装いながら、そっと、社の屋根上と目を向け――て、すぐに視線を戻した。ドッと噴き出した汗が目に入ったが、気にしている余裕はない。


 ……見ている。


 ごくりと、カラカラに乾いた喉に唾を送った。


 ……はっきりと、こっちを見ている。しかも、二人居た。やはり、二人だ。あの子だけじゃなく、あの子の隣にもう一人……いる。まるで時代劇に出て来る女の子みたいな恰好をした子だ。


(でも、何だろう……そっちは、嫌な感じが全くしない)


 状況が、理解出来ない。あの子がこんな場所にいるのもそうだが、隣の子……見た所、普通の幽霊とは違う。何というか、俺がこれまで相対してきた『嫌な感じ』がしない……こんなの、初めてだ。それが、ますます俺を混乱させる。


 そうして一人、頭を悩ませている俺をしり目に、本格的に撮影が始まる。


 今回の俺の役目は、本当に裏方の裏方だ。この神社の撮影に限り、あまりすることはない。だから、余計に見てしまう。『素人さん』が境内へと入って行く後ろ姿が俺にはまるで、死刑台へと登って行く後ろ姿に見えてならなかった……と。


 ――ァァァァァアアアアアアア!!!


 途端、夜を切り裂くが如き鋭い雄叫びが、俺の身体を震わせた。どこから、と考えるまでもなかった。反射的に見上げた俺の視線が捉えたのは……爛々と目を輝かせているあの子が、意気揚々と屋根から飛び降りた、まさにその瞬間であった。


 ひ、ひぃぃいいい!!!???


 自分でもはっきり自覚するぐらいに、身体が痙攣した。そして、次の瞬間にはもう……俺は、踵を翻していた。「――お、おい!?」背後から同僚の声が聞こえたが、構う余裕はなかった。


 がむしゃらに、手足を動かす。ぐらんぐらんと、世界が揺れる。分かるのは、身体の芯まで響く寒気と、ガチガチに縮こまる手足の感覚。爆発するかと思わんばかりに高鳴る鼓動が少しずつ収まる。そうしてようやく俺が自分を認識した時……俺は、ロケバスの後部座席の、端っこにて蹲るように身体を丸めていた。


 エンジンの稼働音が、聞こえる。ふわりとそよぐエアコンの風、車内灯は点いているおかげか、手元が確認出来る。力を込め過ぎて感覚すら無くなった手から、力が抜ける……いや、違う。痙攣のあまり、弾みで抜けただけであった。


 み、皆は……恐る恐る顔をあげて車内を見回す。そうして初めて、出入り口にはお爺さんと大野さんが立っているのを認識した。会話の内容までは聞き取れないが、何やら二人とも難しい顔をしている。


 いったい、何をしているのか。そう思ってもう少し身体を起こした直後、大野さんは頭を掻きながら車を離れていった。その後ろ姿を溜め息と共に見送ったお爺さんは、俺の耳にも届くぐらいに大きなため息を深々と吐く。次いで、苛立ちを隠さずに振り返って……俺を見て、大きく目を見開いた。


「……まだ、寝ておけ。とりあえず、今はお前が居なくても大丈夫だそうだ」


 けれども、お爺さんが俺に対して反応を見せたのはそれだけであった。また、すぐに元の仏頂面に戻ると、面倒くさそうに俺のひとつ前の席に腰を下ろし……また、深々とため息を零した。


 そのまま、ゆっくりと。お爺さんは俺が事の顛末を語ってくれた。その口調は最初の時よりもずっと優しく、俺を気遣ってくれているのがよく分かった。


 お爺さんの話では、だ。どうやら俺は……神社から逃げ出した後、ロケバスまで走って戻ると、そのままこの場所に蹲って動かなくなったらしい。


 曰く、『尋常でない』ということらしい。尋常でないとはどういうことなのかと不安を覚えたが、憑りつかれたわけではない。


 神社に居た『あの子』から放たれた霊気に感応してしまったことで、肉体が防御反応を取っただけ……とのことだ。何が何だか分からなかったが、とにかく無事で済んだことだけが分かった俺は、ひとまず安心した。


 ……。


 ……。


 …………そうして、少しばかり間を置いた後。


「あれはな、怨霊だ。それも、ただの怨霊じゃない。一説によれば、千年も前から存在し続けている化け物みたいな怨霊だ」


 ポツリと、お爺さんは呟いた。ともすれば聞き逃してしまいそうなぐらいに唐突なことに、俺は目を瞬かせて顔をあげる。その瞬間、様々な疑問がフッと湧いて出た。

 けれども、お爺さんは俺に構わず「又聞きの又聞きだから、真偽は定かじゃないが」そう話を終えると、「それを踏まえて、お前に聞くぞ」続けて内心を覗き込むように俺の目をジッと見つめてきた。


「奴さん、既に俺たちに興味を抱いてしまったようだ。今はまだ若いやつらの傍をうろちょろしているが、おそらく付いてくるだろうな」


 ――思わず零れかけた悲鳴を、俺は寸でのところで呑み込んだ。いや、これは呑み込んだというより、喉が引き攣って声が出なかっただけなのかもしれない。


 あれが……あの子が、付いてくる?


 そう考えた途端、俺は身体が震えた。息が苦しくなって、目の前がカッカと赤くなった。直後、ぱん、と頬に痛みが走ると同時に視界が暗転した。「男だろ、気をしっかり持て」目を向ければ、お爺さんは痛そうに手を振っていた。


 どうする、とも、どうしたい、とも、お爺さんは言わなかった。


 ただ、黙って言葉を待っている。俺の決断を、待っている。選択によっては、俺だけでも助けようと思っているのかもしれない。


 何となく、俺はお爺さんの沈黙をそう受け取る。寡黙なお爺さんだが、悪人ではない。それをこの短い間に察せられた俺は、しばしの間視線をさ迷わせた後。


「すみません、俺、このまま行きます」


 そう、俺はお爺さんの暗黙の申し出を断った。お爺さんは、しばしの間俺の内心を見ようとジッと俺を見つめて来ていたが……そうか、と一言だけ返事をした。


「言っておくが、俺はここまでだ。先ほど大野君にも話したが、命あっての物種だからな……次に行く場所は、危険だぞ」


「はい、分かっています」


「分かっているなら、何故だ? 俺の言葉が冗談や脅しだと思うか? これでも霊視には自信があるつもりだ……今なら、何とか逃げられるぞ」


 お爺さんの言葉に、俺は静かに首を横に振った。


 ……誇張でも何でもなく、だ。今なら体調不良なり何なりの理由を付けて今回のロケを抜け出すことは出来たのだろう。タクシー代は自腹になるだろうが、それでも無事にココから逃げられるのは、これ以上ないぐらいに魅力的だ。


 でもそれは、あくまで俺だけは……の話だ。


 大野さん(達は)は、『見えない』のだ。そして、存在を感じることも出来ない。だから、分からないのだ。今が、どれだけ危険な状況に身を置いているのかを。自分たちが、どれほど命知らずなことをしているのか……まるで、理解出来ていない。


 だからこそ……だからこそ、だ。そんな大野さんたちを見捨てて一人逃げることなんて、俺には出来ない。仮に逃げたとしても俺は……この先ずっと、この日の事を悩み続けるだろう。 


 それが分かっていたからこそ、俺はお爺さんに頭を下げた。それを見て、お爺さんも説得は無理だと判断したのだろう。「……そうか」また、一言だけぶっきら棒に呟くと、さっさと車を降りた。


 けれども、そこで何度も俺と外とに視線を行き来させた後……そこから、お爺さんは動かなかった。


 ……行かないのか、と。訝しむ俺を他所に、お爺さんは名残惜しむ(俺の気持ちがそう思わせているのかもしれないが)かのように視線をさ迷わせている。


 そのまま、しばらく。黙って見ていると、んふー、と。溜めに溜めた何かを吐き出すかのようにお爺さんは大きく鼻息を吹くと、がりがりと頭を掻き毟ると、「……俺も焼きが回ったか」そう呟いて再び車の中に乗って来た。


 もしや、気が変わって付いて来てくれるのだろうか。


 それなら、何と心強いのだろう。そう思ってお爺さんを見やれば、「違う、勘違いするな」お爺さんはそう言って首を横に振ると、傍の席に腰を下ろした。


 それじゃあどうして……そう尋ねようとする前に、「若者(わけぇやつ)が意地見せているからな」またお爺さんは俺の心を読んだかのように、さらに言葉を続けた。


「いいか、俺は今、奴さんに見つからないように術を自分に掛けている。これはあくまで見つからないようにするというだけで、霊的な防御力は皆無に等しいものだ」


 お爺さん曰く、奴さんは自然災害にも匹敵する強大な『力』を持つ怨霊だが、だからこそ付け入る隙があるらしい。付け入る隙とはと尋ねれば、お爺さんは、大き過ぎる力が邪魔になるのだと言った。


 人間が、視界の外にある羽虫にいちいち気を向けないのと同じ。奴さんもまた、取るに足らない有象無象に気を払うことはしないし、せいぜい蟻か羽虫か、その程度の認識だろう。だが、それが隙へと繋がる。


 奴さんにとって『力』を持っているかどうかなんて大した違いはない。見方を変えれば、不用意に奴さんの注意を引かない限りは、ある程度は何をしても気付かれないのが重要なのだということを話してくれた。


「この際だから言うが、お前さんに掛けた『護り』は既に無くなっている。俺も相応の修行を重ねた身だが、それでも奴さんの前では障子紙程度の役目も果たせなかったようだ。全力を出して『護り』を掛けたとしても、結果は変わらないだろう」


 『護り』……確かそれは、神社に近づく前にお爺さんが俺に掛けてくれたやつだ。霊的な攻撃から身を守ってくれる術らしいが、どうやらそれもあの子の前では無意味だったらしく、軽く興味を持って見られただけで『護り』が耐え切れずに弾け飛んでしまったらしい。


 俺は(おそらく、俺以外の全員も)気付いていなかったが、お爺さん曰く、実はここに来る前に俺を含めた全員に一度は『護り』を掛けていたらしい。過去形なのは、あの子が出現した時点で全員に掛けられた『護り』が耐え切れず、全員の『護り』が今は失われているからだということだ。


「先ほども言ったが、奴さんはこのまま付いてくるだろう。だから、今後はお前さんを含めた誰にも『護り』は掛けない。掛けた傍から奴さんに壊されちゃあ、何の意味もないからな」


「……何とか、出来ないんですか?」


「出来ない。言っただろう、奴さんは言わば、自然災害だ。個人の力で災害を止めることが出来ないのと同じように、奴さんをどうこうしようとするのが間違いなんだよ」


 自分でも情けなく思えるぐらいに震えた問い掛けだったが、お爺さんはきっぱり藁にも縋ろうとする俺の手を、きっぱりと一蹴した。けれども、何もしないというわけではないのか、ポケットから薬包紙を取り出して、俺に見せた。


 それは、一見すれば風邪薬かと見間違う造形であった。紙の中には、錠剤と思わしき粒が幾つか入っているのが分かる。それは何だと尋ねれば、門外不出の秘薬だと教えられた。


「本来であれば内と外とを清めた上で服用するものだが……この際、四の五の言っている場合ではないな」


 そっと、掌に落とされた錠剤の数は、三粒。酷い臭いをしていたが、言われるがまま呑み込めば……何だろう。フッと、身体が軽くなったような気がした。見れば、お爺さんは俺を見て、二度三度頷いていた。


「お前さん、自分が危険な状態になっていることは分かっているか?」


「え?」


「……分かっていない、か。それなら、簡潔に言おう、今のお前は、俺たちのような奴らの専門語で言う、『霊症』というやつになり掛けている状態だ」


 れいしょう……霊症。漢字を教えたお爺さんは次いで、それがどんなものなのかを教えてくれた。専門的な言い回しというやつのせいでいまいち分かり難かったが、要は霊的な炎症を起こし掛けている……ような状態らしい。


 症状としてはまだ初期段階なので自覚症状はほとんど出ないらしいが、霊的な存在に対する反応が過敏になるのだという。言われてみれば、前よりもやつらから受ける影響が酷くなった気が……血の気が引いて行くのが、自分でも分かった。


 お爺さん曰く、知識も技術もないうえに、霊的な存在と接する機会が多い仕事(不動産関係など)に就く、俺みたいなタイプがなりやすい病気らしい。

 自然治癒はせず、知らず知らずの内に病状を悪化させてしまう事が多く、俺がまさにその典型なのだと、お爺さんはため息交じりに言い切った。


「今しがた飲んでもらった秘薬は、言うなれば『霊症』に効く薬だ。だが、過信はするなよ。あくまで一時的に症状を抑えるだけであって、治す薬ではないからな」


 本気で治そうと思うのなら、年単位の治療がいる。「治そうと決めたのなら、ここへ電話しろ」お爺さんはそう言うと、俺に電話番号が書かれたメモを手渡した。


「……いいか、若造。俺が出来るのは、ここまでだ。そして、俺が言えることはただ一つ……とにかく、危険だと思ったら四の五の言わずにその場から離れろ。恥を恐れて命を落とすなんざ、一番周りから馬鹿にされることだ」


「…………」


「奴さんだけじゃない。この世には、お前さんが思っている以上に恐ろしいやつら……悪霊と呼ばれているやつがうようよしている。お前には、そんなやつらを前にして身を守る術がない。それは、重々承知しているな?」


 ……俺は、頷いた。いや、それは頷いたというよりは、項垂れたというのが正しいのかもしれない。今更ながら、残らずにお爺さんの忠告を受け入れて逃げれば良かったかもしれないという思いがふつふつと湧き起こってくるのを、抑えられなかった。


 けれども、今更の話であった。今度こそ、お爺さんはさっと車を降りると、「いいか、命を粗末に考えるんじゃないぞ」その言葉を最後に暗闇の向こうへと溶けて行った。振り返ることもなく、あっという間に俺の目から……お爺さんの背中が見えなくなった。











  そうした経緯の後……俺は、後悔していた。


 ――多分、俺は少しばかり心臓を止めていたのかもしれない。


 奇声をあげて廃校へと飛び込んでゆくあの子の気配に、俺はようやく息をつく。途端、爆発したかのような胸の痛みに、思わず俺は咳き込んだ。大丈夫かと、周囲から心配の声が向けられのを聞いた、その瞬間。俺は、自分が生きているということを実感した。


 俺の様子に気づいた大野さんから、撮影が始まるまで休めと声が掛けられる。離職率の高いこの業界、それなりに生き残っているADとはいえ、体調不良というそれだけで休ませて貰えるのは異例なことだからだ。


 しかし、その異例を許可されるぐらいに今の俺の顔色は悪くなっているのだろう。そして、今の俺にはそれが何よりも有り難い。震える声で何とかお礼を伝えてから、俺は耐え難い吐き気を堪えながらロケバスへと向かい……倒れ込むように、座席に身体を沈めた。


 ……これが『霊症』ってやつなのだろう。気付かなかったから大丈夫だった部分を自覚したせいで、余計に圧し掛かる倦怠感を無視出来なくなってきているのが、自分でも分かってしまった。


 身体が、震える。上手く、息が出来ない。痛みを覚える程に五月蠅い心臓の鼓動を、上から押さえる。ばくん、ばくん、張り裂けてもおかしくないと思える程に伝わってくる鼓動が、何故か今だけは恐怖を安らげてくれた。


 恐怖……そう、恐怖だ。有り得ない、恐怖。そんな言葉では収まらない、本当の恐怖というやつを俺は初めて思い知り、自然災害だと断じたお爺さんの言葉を……俺は今更になって、強く実感していた。


 脳裏に浮かぶのは、つい今しがたの出来事。たった一度だけ、地面を蹴飛ばした。ただそれだけで、周囲に集まっていた奴らが消し飛ばされる……信じ難い光景であった。


 舐めていた……軽く考えていた。今になって、俺は分かった。あの時と同じようになるだろうと、何かがあっても、あの時と同じようにあの子が何とかしてくれるかもしれないと、心のどこかで甘く考えていたのかもしれない。


 そんなわけが、ない。そんなわけが、なかったのだ。それを、俺は今になって思い知らされた。


 助ける助けないの問題ではない。あの子にとって、俺たちの命なんてのは些事なのだ。俺たちが普段、地を這う虫たちを気に留めていないように、あの子にとって俺たちは地を這う虫も同然なのだ。


 殺さないように気を使いはするが、死んだら死んだで仕方がない。きっと、そいつは運が悪かったのだ……と。


 おそらく、あの子にとっての俺たちは、その程度の存在でしかない。誤って死なせても仕方ない程度の存在でしかない……その事実を、俺は恐ろしくも受け入れるしかなかった……と。


「――おう、体調はどうだ?」


 お爺さんから貰ったあの秘薬のおかげか、それとも単純に時間のおかげか。ようやく震えが止まったと自覚出来る程度に頭が動くようになってきた辺りで、大野さんが俺の様子を見に戻ってきた。


 反射的に身体を起こし掛けた俺を、「あー、動かなくていい。そのまま聞け」大野さんは制して傍の席に腰を下ろした。こうまで優しくしてくれることに不穏さを覚えながらも、俺は有り難く身体の力を抜いた。


「……止めるにしても、上は理由がないと納得してくれねえんだよ。何せ、ホラーってだけで視聴率が取れるからな。ディレクターって言ったって、結局のところは雇われの身だよ」


 すると、それを見計らったかのように大野さんは告げた。「――えっ?」いきなりなことに目を瞬かせる俺を見て、大野さんは言葉を続けた。


「……爺さんから色々と聞いたぞ」


「――っ!?」


 瞬間、俺は言葉を失った。何が、とは尋ねなかった。そんなことを聞かなくても、大野さんの言わんとしていることは嫌でも分かったからだ。


「前から気にはなっていたんだ。どんなにキツイ収録でも、お前は不満を表に出さない。なのに、今回みたいなホラー系の収録に関してだけは、露骨に嫌そうな顔をする」


「……隠していた、つもりだったんですけどね」


「あいにく、こんな仕事に就いているからな。プロと比べたら、お前のポーカーフェイスなんて露骨もいいとこだ」


 そう言って、大野さんは人の悪い笑みを浮かべた。しかし、すぐにそれを引っ込めると、「だから、単刀直入に聞く」真剣な眼差しを俺に向けて来た。


「今回は、相当にヤバいのか?」


 ……隠す理由はない。そう判断した俺は、素直に答えた。


「分かりません。ですが、ヤバいやつがこの廃校に居るのは確かです」


「そうか……それなら、玄関入ってすぐを撮影したら終了(引き返せ)だ。とりあえず、怖そうな絵面が撮れたらそれでいい。後は適当な理由をこっちで作っておくから」


 しばし考え込んだ大野さんは、そう結論を出した。それが落としどころだと思った俺は、頷いて了承する。「他に、何かしておくことはあるか?」次いで、尋ねられた俺は少しばかり考えてから、「それじゃあ、俺の指示に従うように皆に言ってください」方針を伝えた。


 見えない人たちには分からないことだが、こういう場所に居ると気付かぬ内に、幽霊によって思考を誘導されてしまうことが多い。俺みたいに見えて聞こえるのなら大丈夫だが、それが出来ない人はそのまま奴らの下へと……というのは、冗談抜きで起こりえることだ。


 そうなったらもう、俺にはどうすることも出来ない。お爺さんにも指摘された通り、俺にはやつらをどうこうするのは出来ないからだ。けれども、害意を持って近づいて来るのを察知することは出来る。言い換えれば、俺が出来るのはそれだけだ。


 やつらが近づいて来たら逃げるようにと、俺が全員へと指示を出す。


 皆は俺の指示にいちいち不思議がらずに全力で外へ逃げるようにする。


 それさえ徹底してくれるなら、なんとかなる。そう思った俺は、座席から身体を起こした。もう少し休むかと大野さんから気遣われたが、一刻も早くこの場を離れたいのが本音だ。素直にそれを伝えると、大野さんは心配そうな顔をしつつも先に車を降りて――。


 「        」


 ――そして。


 「        」


 ……そして。


 …………。


 ………。


 ……。


 …。










 ――そこまで思い出した辺りでフッと我に返った俺は最初、そこが何処だったのかを度忘れしてしまった。


 ……。


 ……。


 …………重ねられた紙コップに、所狭しに散らばる書類や筆記用具の数々。メモやら何やらで汚いデスクの上、どかりと無造作に置かれたノートパソコンの隣に、『今の俺の気持ち』を認めた封筒を置く。表題に書かれた文字をジロリと見やった大野さんは、何かを考え込むかのように頬杖を突いた。


 ブーン、と響く、空調の音。大野さんのデスクがあるフロアは、何時もからは考えられないぐらいに静かだ。まあそれは、俺がその時間を狙って来たからなのだが……と。


「本気か?」


 唐突……というよりは、タメを作ってから。おもむろに切り出された大野さんの問い掛けに、俺は……はっきりと頷く。それを見て、大野さんは大きくため息を零すと、デスクに置かれた『辞表届』の文字を、指先で数回叩いた。


 それっきり、大野さんは黙ってしまった。惜しくて留めるわけでもなく、素っ気なくするわけでもない。ただ、その封筒に書かれた三文字をしばらくの間睨みつけた後、「俺は、な」ポツリと俺を見上げた。


「こう見えて、けっこう、お前のことは気に入っていたんだ」


「…………」


「最近のやつにしてはガッツというか、根性がある。機転も利くし、良い意味で厚顔なところもある。贔屓ってのは嫌いだが、お前なら後何年か頑張ればD(ディレクター)になれるだろうと思っていたよ」


 そう言うと、大野さんは静かに俺を見上げた。


「…………」


「…………」


「…………」


「……そうか、気持ちは変わらねえか」


 深々と、大野さんは苦笑と共にため息を零した。「とりあえず、規定通り2週間は頑張ってくれ」次いで、引き出しから取り出したクリアファイルに封筒を入れると、「一つ、教えてくれねえか」不意に俺を見上げた。


「あの廃校の中で、お前は何を見たんだ?」


 瞬間、俺は何も答えられなかった。『覚えていないと答えればいいじゃないか』という言葉が脳裏を過ったが、俺はそうしなかった。色々と理不尽な経験もあるけど、この仕事を始めてから誰よりも世話になったのは、この人だ。この人にだけは、俺の口から伝えておきたい……そう、俺は思った。


 けれども、答えるには少しばかり勇気が必要だった。だって、そのことを思い出したくなかったから。そしてそれは、大野さんも同じはずだから。でも、怖さはまだ俺の中にある。思い出すだけで、身体が震えて止まらなくなるぐらいの恐怖がまだ、俺の中にはある。


「恐ろしいものを見ました」


「……どういう意味だ?」


「本当に恐ろしいものを、です」


 だから……それが、今の俺に言える精一杯であった。でも、それだけでも大野さんは察してくれたようで、その表情が凍りついたのを俺は見た。


 何だか最近、こんな反応をしょっちゅう見ている気がする。そう思っていると、大野さんはデスクの端に置かれていたタオルで顔をグイッと拭う。そして、幾分か青ざめた顔で視線をさ迷わせた後。


「……そうか」


 ただ、それだけを零した。だから俺は。


「次は、ないですよ」


 これで義理を果たした。そのつもりで、忠告した。


「次は、ない。3度目は……きっと、助からない。死にたくなければ、この手の仕事は受けない方がいいですよ」


 辞表には書かれていない、俺の本音と一緒に。


「……そうか」


 そして、それが良かったのかもしれない。大野さんはそれっきり押し黙ってしまった。「2週間、よろしくお願いします」もう良いだろうと判断した俺は大野さんに頭を下げて……大野さんに背を向けた。


 ――と。


 不意に、他のDのデスクに置かれた鏡に目が留まる。そこに映し出された、皺が確認出来る顔を見て、俺は。


 ――髪、染めないと駄目だな。


 そう己に言い聞かせると、そっとポケットの中に入れた御守りを握り締めた。




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