第2話(表):鬼姫とよく分からない人たち
ちちち、ちちち、飛び交う鳥の声。草葉の陰から飛び出しては消えていく獣の影、その影すらも残さず這いずりまわる虫たちの蠢きと、それら全てをかき消さんばかりにけたたましく鳴り響く蝉の声。
寂れた神社とはいえ、朝日が昇るのは同じである。まあ、天候によっては多少なりとも違いはあるが、まずこの神社だけ例外というような超常的な減少が起こることはない。なので、この日も昨日と同じように朝日が神社を照らし、蒸せる熱気がむわりとあちこちから立ち昇り始めていた。
季節は、夏であった。梅雨が明けて数日が過ぎているが、それでも漂う湿気は如何ともし難い。さすがに記録的とまでは行かなくとも、連日の猛暑と連日の熱帯夜は、日本という狭い国土を例外なく覆っている。
ただ、神社を覆い隠すように立ち並ぶ木々がそうさせるのか、昼間でもどことなく感じられる鬱蒼とした雰囲気がそうさせるのか。不思議と、神社の中は夏とは思えない程に涼しい。どれぐらいかと問われれば、ここを訪れたほとんどの者が、あまりの気温の落差に身震いする程であった……のだが。
『…………』
例外が、その神社に居た。
それも、生者ではなく死者として。常人には見ることが出来ないが、死して長き時を過ごし、その力は神にも匹敵するまでに強大化した、この神社の主……『鬼姫』。彼女こそが、その例外であった。
この鬼姫、一見、巫女服を身にまとった愛らしい童女である。背丈は低く、服の上からでも分かる程度に華奢だ。目じりこそ若干鋭いものの、それでも美人であることが約束されているかのように整った顔立ちをしている。
もし、生きていたらさぞ男子たちの注目を集めていただろう。童女の姿を目にすることが出来たなら、おそらく大半の人はそんな評価を出すぐらいに、その童女は可愛らしかった……だが。
『…………』
それは、その中身が見た目通りであったなら、の話であった。
そう、この見た目巫女服童女のキャラを作ったかのような年寄りをイメージした口調。彼女と5分も共に過ごせば、まるでその道の好みを狙い澄ましたかのような振る舞いをする彼女に、ある種の違和感を覚える者は多いだろう。
実はそれが、正解である。事実は小説より奇なりとは誰の言葉だったか、その違和感の正体……そう、それは、この童女の中身が……『女』ではないということから起因していた。
『……久しぶりに焼いた蝉を食いたいのう』
辛うじて賽銭箱の名残を残している材木の上を漂いながら、鬼姫はポツリと呟く。横向きに横たわり、頬杖を突くようにして寝転がりながら、ぼりぼりとケツを掻く。ぼんやりと景色を眺めるその顔はつまらなそうに歪んでおり、その姿はまるでナイター中継を見る一昔前のオヤジそのものであった。
まあ、実際そうである。三つ子の魂百までとは、よく言ったものだ。おおよそ十分の一にも満たない男としての人生が作りだした所作が、女幽霊として過ごした千年という長き時を経てもなお、抜けていないのだから。
だから、なのか。彼女には、おおよそ女としての矜持などというものはない。さすがに人前で裸踊りをしろと言われれば嫌だと思うが、それでも一般的な基準よりも大幅に分厚い面の皮と、飄々とした精神を持ち合わせていた。
なまし、男として生きた期間が長いのがいけなかったのだろう。女として生きた期間はせいぜい十数年で、男の時のおおよそ6分の1。加えて、女として生まれた彼に待っていたのは、女としての所作よりも食い扶持が増えてしまったせいで起こった冷遇と、それを補う為の労働。
お世辞にも恵まれているとは言い難い境遇なのだから、浸みついた男の感性に、女の感性を上書きするなど出来るわけがなかった。というか、生き残ることに必死でそんなことを考える暇すらなかった。
元々(前世、というのも少し違うだろうが)、異性と触れ合えた回数すら数えるぐらいしかない。加えて、当時では普通でも、彼女にとっては劣悪としか思えない環境下で育ったのだ。
死後、女幽霊として長き時を過ごしたとしても、それが自然に習性されるわけがない。また、女として求められる前に神童として振る舞っていたし、そもそも当時の『女の役割』が嫌で覚える気もなかった。
結果、様々な要因が重なったことで彼女の所作は、どう贔屓目に見てもオヤジ臭い、の評価が成されてしまう程度のもので固定されてしまったのであった。
『……イナゴも食べたいのじゃ』
ミンミンミンミン、騒ぎ立てる蝉たちの声を見やりながら、鬼姫は再び零す。その声色は、あくまで平坦であった。つい先日、見た目以上に幼くジタバタと転げまわった者とは思えない、異様な落ち着きがそこにはあった。
まるで、夏の暑さに心どころか魂すら溶けだしてしまったかのようだ。けれども鬼姫はまるで堪えた様子はなく、ぼんやりとした目つきで、ぼんやりと小さな唇を開いたまま、ぬぼーっと同じ姿勢を続けていた。
なぜ、そんなことを続けているのか。それは別段、深い理由があるわけではない。かれこれ千年に渡って体感し続けていることで、その理由はしごく単純に――。
『……暇じゃのう』
――その、一言に尽きた。
そう、ぶっちゃけ、というか、はっきり言えば……鬼姫は暇を持て余していた。それはもう、これ以上ないぐらいに持て余していた。あまりに退屈過ぎて時折、先日のように暴走するぐらい、鬼姫は退屈していた。
と、いうのも、だ。
この神社を含めて、周囲には暇を潰せるものが何もない。まあ、それは誰が見ても分かるのだが、とにかく娯楽らしい娯楽がある場所まで行くとなると、片道でも数時間掛かるのであった。
もちろん、車といった移動手段はないので、徒歩である。別に時間が掛かってもいいじゃないか……と言われればそれまでだが、それが出来ないわけが鬼姫には二つあった。
まず、一つ。鬼姫はここから……正確に言えば『刀』から長時間離れることが出来ないのだ。以前は自由に動き回れたが、一度ここに封印されてしまったことで『繋がり』が出来てしまったせいだろう。一定時間以上離れると、距離に関係なく問答無用でここへ引きずり戻されてしまうのである。
しかも、引き戻される時は鬼姫であってもシャレにならないぐらいの体力(霊力とも言う)を消耗してしまう。さすがに消滅したりはしないが、退屈と天秤にかけてもなおそれを嫌がるのだから、どれだけ危険なのかがうかがい知れよう。
『……誰か、参拝に来てくれんかのう』
ポツリと、鬼姫の口から零れ出た。次いで、これまで何千回、何万回と繰り返した溜息を零す。それは、誰に向けたわけでもないため息であった。そして、これからもそれは続くだろう。
『……?』
そう、鬼姫も思っていた……のだが。
『……んんん?』
今日、この日は違った。それは、本当に不意であった。意識の端に引っかかった感覚に、鬼姫は数日ぶりにむくりと身体を起こし……はて、と首を傾げた。
『おかしいのう。頭がぶっ飛んでいたとはいえ、力の差が分からんようなやつには見えなかったのじゃが……』
鬼姫の脳裏を過ったのは、数週間前のこと。中々の力を持った悪霊(と、一般的に呼ばれる者たち)が何を血迷ったのか、鬼姫の住まうこの神社にやってきたときのことだ。
それ自体は、別に珍しい話ではない。死んでいるのに正気というのも変な話だが、正気を失った幽霊というやつは、他の幽霊を片っ端から取り込んで増強しようとする性質がある。
それを、鬼姫は長き時の中で知っていたし、今までにも何度か経験している。なので、その時も特に驚くようなことはなく、面倒な酔っ払いをあしらう警官のごとく、人睨みして追い払って終わりにした。実際、鬼姫からすればそれは面倒事以外の何者でもなかった。
とはいえ、また来るかもと思ってしばらくは警戒していた。だが、結局来る気配が無かったのですっかり記憶から忘れ去られていた。実際、この時のことを思いだすまで時間が掛かったぐらいである。
『……? あやつの気配とも違う。何じゃ、この気配は?』
けれども、だ。この神社に近づいてくる気配は、その時のものとは違う。あの時感じ取れた禍々しさが微塵も感じられないだけでなく、浮遊霊だとしたら力強く、精霊であったなら生々しく、悪霊だとしても清廉過ぎる。
しかも、その数は一つではない。悪霊のように一つの気配に複数が感じられるのではなく、一つの気配が点在している。それは、ここへ向かっている気配が複数であることを示していた。
『……獣にしては、動きが鈍い。だが、確かにこっちへ向かってきている……その意志が感じられるのじゃ』
獣では、ないだろう。ここら一帯の獣は、鬼姫から放たれる気配を本能的に察しているのか、滅多にここへは近づかない。そのうえ不思議なことに、気配はまっすぐこちらへ向かっているわけではない。くねくねと方向を変えて、こちらの方へと向かうという奇妙な動きをしていた。
『まあ、見た方が早いか』
このままあれこれと悩んだところで、埒が明くことはないだろう。
そう判断した鬼姫は数日ぶりに神社から降り立つ。次いで、ボロボロの鳥居から名残をうっすらと残す石段を見下ろすと……じいっと目を凝らす。鬼姫の目は特別で、近づいてくる気配の正体をあっさり捉え――。
――。
――。
―――――た、瞬間。鬼姫は視界に映された光景に、言葉を忘れた。蝉の声すら頭から消え、意識も彼方に飛び、時間にして数分程だが完全に記憶を飛ばした。
『――に』
仕方がない話であった。何故ならば。
『――に、人間なのじゃぁああああああ!!!!????』
おおよそ、数十年ぶりとなる人間の来訪であったのだから。
――そして、それから二時間後。
参拝が途切れて数十年ぶりとなるこの神社に足を踏み入れたのは、男が8人に女が3人、計11人だった。中高年というには若いが、青年というには少しばかり歳を召した、不可思議なグループであった……それが、鬼姫の初見の感想であった。
何故かと問われれば、不可思議だと判断されたそのグループの大半が、カメラなどの機材道具を抱えていたからだ。しかも、彼らは時折何かを呟きながらも終始無言に近く、何が面白いのか神社の至る所を撮影していたのだ。
……鬼姫が知る由もないことであったが、彼ら彼女らは、いわゆるテレビクルーと呼ばれる人たちであった。おそらく、彼らテレビクルーは寂れた神社を撮影しに来たのだろう。彼らが抱えたカメラのレンズは引っ切り無しに神社と、トークを交えながら神社内を練り歩く数人を撮り続けていた。
仮に、この時代を生きる者ならば、言われなくても見ただけで彼らがどういう人たちかを察せられただろう。だが、世間の認識が100年ぐらいずれている鬼姫に、それを察しろというのは無理な話であった……と、いうか。
『うぇひひひひひ、良いのう! 良いのう! やはり生者は肌も魂も瑞々しくて綺麗じゃのう!』
鬼姫にとっては、そんなことはどうでもよい事でしかなかった。
なにせ、数十年ぶりである。数十年ぶりの、生もの(言い方に誤解を招きそうだが)の登場である。鬼姫からすれば、興奮するなと言う方が無理な話であった。
すびびび、と唇から零れ落ちそうになった涎を啜る童女。見る者が見れば喜びそうな……いや、思わず引いてしまいそうな形相であったから、多分、誰も喜ばないだろうか。
『いやあ若いのう、すべすべじゃのう、元気じゃのう、生者はやはりこうでないとな。うん、やっぱり生者が一番じゃな!』
……当然、生者である彼ら彼女らに、鬼姫の声は聞こえない。だが、仮に聞こえたなら、一も二もなくこの場から逃げ出していただろう。それぐらい、鬼姫のご機嫌度は異常であった。
普通に考えれば、いくら人恋しかったとはいえ主に無断で、かつ我が物顔で撮影する者たちを前に、笑顔で迎えたりはしないだろう。そう、いくら人々の来訪を求めていたとしても、複雑な面持ちでテレビクルーの所業を見つめて……いるところなのだが、鬼姫はそうしなかった。
『うっひぇええ!! 御供えじゃ! 酒じゃ! 甘味じゃ! いやっほーい!!』
何故かと言えば、答えは単純。テレビクルーたちが、撮影を始める前に神社に御供えをしたからである。もう、それだけで鬼姫の機嫌は急上昇である。しかもそれが、鬼姫が何十年と求め続けた酒と甘味とツマミであったのだ。
それで、鬼姫には十分であった。供えた場所が賽銭箱の前とか、地べたに置いたとか、そんなのは関係なかった。御供えをした瞬間、鬼姫にとってテレビクルーたちは客であり、弁えれば何をしても良い相手となったのだった。
『――かぁぁあ! 酒気が腸に沁み込んでくるのう……おっほぉぉぉ、これこれこれこれ!! この喉から腹へと伝わる火照り! これじゃよ! これが欲しかったのじゃ!!』
マーブルチョコレートを片手に、鬼姫は一升瓶を傾けてグビグビと喉を鳴らす。月並みな言い方だが、涙が出てしまう程に美味いと鬼姫は思った。
ぱんぱんぱん、と興奮に膝を何度も叩きながら、何十年ぶりになる甘みと、酒気がもたらす喉の火照り。そして、舌をリフレッシュさせる裂きイカの辛み……至福の一時であった。
そう……実はこれこそが、鬼姫がここを離れない二つ目の理由。
霊的存在である鬼姫は、御神体のあるこの神社に御供えが奉納されて初めて、それを食べることが出来る。言い換えれば、生者と同じ方法では食物に触れることは出来ても、『味を感じることが出来ない』のである。
だからこそ、鬼姫は町に出ないでここにいるのだ。町に行けば暇は潰せるが、酒も甘味も取ることは出来ない。目の前にあるのに食べられない、目の前で美味そうに食べられていく……生殺しにも等しい状況に置かれてしまうのが耐えられないからこそ、鬼姫は神社を離れなかったのだ。
『ぬははははは!! 何をしとるか分からんが、好きなようにせい! 今なら腹踊りぐらいしてやるぞ!! あはははははは、うぇっほえっほ!! えほ、げほ!!』
だからこそ、鬼姫の心はかつてない程に寛大となっていた。これ以上ないぐらいに、ご機嫌喜色であった。
「――うわあ、カビ臭ぇ……入りたくねえ」
「うわあ、天井一面に蜘蛛の巣が凄い……」
『お、そこは板が腐っておるから気を付けるのじゃぞ! 百足もおるじゃろうから、不用意に手を伸ばすのではないぞ!』
だから、テレビクルーの一人が社の中に入ろうすれば、注意を促し。
「――これ、箪笥か? 中は……何だこれ、錆びて何が何だか分からんぞ」
『ああ、それか。それは何時ぞやに奉納された銭じゃよ。ワシが持っていても仕方がないから、欲しければ持って行ってもかまわんぞ』
半ば漁っているのと同じであってもテレビクルーの安否を気遣う。
「――あれ、確かここに御神体の刀があるって話だけど……やっぱりガセだったのか」
『ああ、あれは夜にならなければ姿は見せぬ。昼間は触れることも見ることも出来ないようにしておるのじゃ』
どうせ聞こえないのは分かっていたが、いちおうは探しても無駄だとクルーたちに声を掛ける。
その光景はまるで、悪戯坊主を見守る童女である。見た目だけを考えれば、仕事現場を見学する童女と言っても差し支えないが……鬼姫の主観的には、前者であった。
「――おい、御供えした酒の中身が無くなっているぞ!?」
「――チョコも中身だけ無くなっている!? なに、どうなっているの!?」
『そりゃあ、ワシが飲み食いしておるのじゃから無くなって当たり前じゃろうが。まあ、お主らからすれば突然中身だけが無くなったようにしか見えんから、驚くのも無理はないがのう』
だからまあ、テレビクルーの何人かが騒いでいたり、ざわざわと悲鳴をあげる者がいても、鬼姫は広い心で流す。酒と甘味の力は、それ程のゆとりをもたらすぐらいに偉大であった。
『……?』
ただし、例外はある。ちらりと、ざわついている奴らから、カメラを持っていない人たち……その中でも、ぽちゃっとした体型の女へと、鬼姫は目を向けた。
どでかい真珠のネックレスに、日焼け対策の装備。日焼け対策をしている者は他にもいるが……何というか、その女だけは、他の人達と比べて明らかに雰囲気が異なっていた。
一見、どこにでもいそうなオバちゃんである。お世辞にも、芸能人のようには見えない。なのに、汗を流している誰もが、ただ立っているだけの彼女を注意する素振りはない。
それどころか気遣って飲み物を持って行く者もいて、誰もそのことに疑問を抱いている者はいない。何故特別扱いされているのかは分からないが、特別視されているのは傍目からでも分かったことだろう。
『……ふむ』
当然、鬼姫もそれに気づいて、興味を抱いた。ぐびり、と喉を鳴らし、一升瓶から口を離した鬼姫はその女へと歩み寄る。女は気づいた様子もなく扇子を片手に気怠そうに他の者と談笑を続けている……のをしばし見やってから、『ほう、こやつ……』鬼姫は、なるほど、と納得した。
一言でいえば、女には『力』があったのだ。鬼姫のような霊的存在を視認し、感応し、祓う力……いわゆる、『霊能力』というやつが、女には備わっていたのだ。
確かに、それなら特別扱いされる理由は分かる。特に鬼姫が居る、こういう場所に来るとなれば、そういう力を持った者を同行させる。今よりもずっと霊的力を重視した時代から考えれば、当然な安全対策であると鬼姫は思った。
『……に、しては』
だが、しかし。
『ワシが言うのも何じゃが、随分と修行不足じゃのう。昼間とはいえ、ワシを感知することすら出来ぬのか?』
それにしては、女から感じ取れる『力』が弱すぎる。これでは、霊を払うことはおろか遠ざけることも出来ないのではないか……というか、もはや『力』が有るのか無いのか分からないぐらいじゃなかろうか。
そう、鬼姫が心配してしまう程、女から感じ取れる『力』は弱かった。道理で、傍まで近づかないと『力』の有無が分からなかったわけだが……まあ、辛うじて感応能力を有しているのは感じ取れるが、それだけだ。
護衛にしては、あまりに頼りない。というか、もしやこやつ、感応能力しか持ち合わせていないのだろうか……考えたくはない嫌な予感を鬼姫が覚えていると。
「――ところで藤崎さん。今は、『何か』を感じますか?」
ふと、その女と談笑していた男が辺りを見回してから、恐る恐ると言った調子で尋ねる。
「――寂れているとはいえ、ここが神社だからかしらね。あまり強いのは感じないわよ」
対して、尋ねられた女はしばし視線をさ迷わせた後、笑みを浮かべてそう答える。
『――お前は何を言うておるのじゃ?』
瞬間、呆れた鬼姫は思わずそう返していていた。けれども、仕方がない。女の発言は、鬼姫がそう返さざるを得ないぐらい理解しがたいものであったからだ。
神社だから、強いのは感じない。それは、確かだ。この神社に神様が居ないとはいえ、力量的には似たようなものである鬼姫が居るのだ。神聖とはいかないが、一般的な力場と比べて清浄であるのは事実である。
だが、それはあくまで『神』が住んでいる神社に限られる。ここは寂れているだけでなく、その『神』がいない偽物の神社である。とてもではないが、『神社だから』と言えるほどこの場は浄化されていないのである。
また、強いのは感じないというは間違いだ。怯えさせないように『力』を抑えているとはいえ、別格とも言える力を持つ鬼姫が、文字通り傍に居るのだ。
並みの感応能力者なら、それだけで影響を受け、鳥居から神社を覗くことすら嫌がっても不思議ではない。少なくとも『力』を持っている者なら、石段を上っている途中で鬼姫の存在を感じ取れているはずである。
もはや確信に近い嫌な予感が、再び鬼姫の脳裏を過る。
もしや、修行の経験どころか知識すら持ち合わせていない。それどころか、この女は己が持っている『力』がどういう類のものなのかも分かってはおらず、ただ『幽霊という存在に対応できる力』としか認識出来ていないのだろうか。
『……よ、良かったのじゃ』
そこまで考えた辺りで、鬼姫は……頬を引き攣らせた。
『こやつらが来たのが私のところで……下手な場所に行っていたら、全員が取り返しのつかない事態になっていたところじゃぞ』
本当に、危ない所であった。なにせ、命を取られる以上の事態に陥る可能性があったのだから。久方ぶりに噴き出た冷や汗(実際は出ていないが、感覚的にそう覚えるのだ)を、鬼姫は手で拭った――。
「――オッケー! それじゃあ収録準備を始めるぞ。夜までに終わらせるから、お前ら急げよ!」
「――急ぎますよ! もう、身体中虫刺されだらけですから!」
――のだが、それを見計らったかのように響いたクルーの声に、拭おうとした手が止まる。けれども、それはすぐに安堵の溜め息に変わった。
『シュウロク』というのが何を意味しているのかは分からないが、とにかく夜になる前に用事を終わらせようとしているのは分かる。そして、それが分かれば鬼姫には十分であった。
夜になる前に帰るのなら、日が暮れるまでに山を下りるであれば、問題はない。そう、例え、数週間前にやってきた、あの面倒臭そうなやつが再び姿を見せたとしても、昼間の内なら何があっても――。
「――それじゃあ、日が暮れたら収録始めるからな。今の内にルートを頭に叩き込んでおいてくださいよ!」
――こやつらを、無事に山を降りさせられるのは簡単だ。
そう思っていた鬼姫の願いは、無慈悲なその声にかき消され……しばしの間、鬼姫は思考を停止することとなった。
太陽の光というのは、生者に影響を与える。それは単純な温かみやビタミンDの生成といった肉体的なものだけではなく、人間が持つ霊的存在に対する防御力にも関係する、強い力であった。
というのも、人間に限らず生者は潜在的に、霊的存在に対する『抵抗力』というものが備わっている。これは、程度の差こそあれど誰しもが生まれつき持ち合わせている『力』であり、霊的存在から干渉を受けた時にのみ顔を出す類のものである。
ただ、ただそう言われても分かり難いだろう。なので、この『力』がどういうものなのか……『通い慣れた夜の帰り道』を、例にあげて考えてみる。
何時もは何の気もなく往復していた道。特に変わったところもないし、何か事件があったわけでもない。なのに、何の前触れもなく不意に悪寒が走ったり、嫌な感じを覚えたりして、何度も後ろ振り返る……そんな経験をした者は、おそらく知り合いに一人や二人ぐらいはいるのではなかろうか。
おそらく9割9分9厘の人は何事もなく家へと帰り、その後はそれがあったことすら忘れてしまっていることだろう。けれども、実はその『嫌な感じを覚えている時』こそが、『霊的存在から干渉を受けたことで、抵抗力が顔を出している』、その時なのである。
つまり、だ。この『悪寒』や『嫌な感じ』というのは、言い換えれば『抵抗力』が起こした『防御反応』の結果なのである。そして、この『抵抗力』が、霊的存在から無視できないレベルの干渉を受けた時に起こす反応のパターンは、三つある。
一つ目は、『悪寒』や『嫌な感じ』という形で主に心理的不快感を与え、少しでも早くその場から遠ざけようとするもの。これは、霊的存在の干渉を感じ取った『抵抗力』が、このままここに居るのは危険だと判断した場合に起こる現象であり、その力関係は抵抗力≦霊的存在である場合が多い。
二つ目は、そもそも『気紛れ』と言った形でそこへ向かわせないようにするというもの。これは全てがそうではないが、『抵抗力』が主の無意識に働きかけて主の安全を図る。その力関係は、抵抗力≧霊的存在である場合が多い。
そして、三つ目……そう、この三つ目こそが。
『いかん、いかんぞ! よりにもよって夜とは……あやつらは何を考えておるのじゃ!? 自殺願望でもあるのか、あやつらは!』
鬼姫が内心、心から願って夜を避けようとした理由、そのものであった。
鬼姫がそうまでして怒りと焦りを覚えるのは、無理もないことであった。なにせ、三つ目の反応は……『抵抗力が霊的存在に乗っ取られ、主を無意識に操られてしまう場合』、なのだから。
太陽の光は、生者に力を与える。だが、言い換えれば夜は『見えなき者たち』の時間でもある。いくら鬼姫の力が強いとはいえ、数に押されるばかりか、クルーたちが操られてしまうような状況になれば話は別だ。自ら危険地帯へと進もうとする者たち全員を何事もなく下山させるのは、鬼姫ですら至難の業であった。
だからあの後、鬼姫はなんとか『シュウロク』を止めさせ、彼らを下山させようとした。一つ目の反応を無理やり起こさせ、意図的に神社の一部を破損させたりして、例え彼らが二度と神社を訪れなくなったとしても構わないと思ってまで、山から遠ざけようと頑張った。
けれども鬼姫の健闘むなしく、日が落ちる前にスタッフたちが一旦下山してから、一時間ほどが過ぎた頃。この神社へと続いている道の入口辺りに、彼らが……しかも、昼間よりも人数が増えているのを感じ取った鬼姫が、思わず零した愚痴が冒頭のソレであった。
鬼姫が鳥居から外を見やった限りでは、少なくとも現時点では危惧すべき霊的存在は感じられない。クルーたちも、ひとまずは無事であることは確認できる。
『うぬぬ……あやつらには唾を付けておいたから小物ぐらいなら大丈夫じゃろうが、大物相手では……せめて、あやつらの誰かがワシの『刀』を持ってさえいれば、ここに居たままでも守れるのじゃが』
だが、それもいつまで続くかは分からない。昼間ならいざ知らず、夜の世界では、彼らはただの間抜けな獲物でしかない。だからこそ、鬼姫は焦りを隠せなかった。
山は、神社の有無の関係無く、良くも悪くもそういった存在を集めやすい。とりあえず、今の所は山の中にさえ入らなければ大丈夫だろうが……それも、時間の問題だろう。
チラリと、鬼姫は神社へと振り返る。夜の神社は、昼間とは打って変わって不気味であった。というか、昼間以上に無気味であった。けれども、それも仕方がない話であった。
この神社があるのは山中の一角。当然、明かりとなるのは月明かりぐらいであり、その月明かりも神社を囲うようにして生い茂る木々が邪魔をして、真っ暗だ。昼間ですら場所によっては薄暗いのだから、如何にこの神社が自然に塗れているかがうかがい知れる。
一見するだけでは、おそらく山中よりもよほどこの神社の方が恐ろしく思えることだろう。なにせ、鳥居から中に入った瞬間、虫の音色も、風の音も、明らかに静かになるのだから。
だが実際は、山の中では最も安全な場所がこの神社である。むしろ鬼姫が守っているから静かになっているのだが、それを伝えられないことが鬼姫は歯痒くて仕方がなかった。
『……まあ、起こってしまったことを悔いても意味はない』
けれども、何時までもここで腐っているわけにはいかない。登山の中止が叶わない今、鬼姫にやれることは、出来る限り彼らクルーたちを安全にこの神社の中に閉じ込めることだけであった。
『せめて、あの女ではなく、もう一人ぐらいは『力』を持ったやつがおれば良いのじゃが……さて、行くとするか』
そう言うと、鬼姫は一息に鳥居から飛び立つ。まるで鳥の羽のように緩やかに着地した鬼姫の身体が、ブレる。その瞬間、鬼姫の身体は弾丸のように石段を下って行き……後には、物言わぬ神社と、その神社を覆い隠す暗闇だけが残された。
――。
――。
――――と、いう具合に神社を飛び出した鬼姫であったが、その気合は麓を超え、彼らの元に辿り着いた時点で四散してしまった。いくら何でも早すぎる気がするが、それも鬼姫からすれば……致し方ないことであった。
『…………?』
巫女服を身に纏う童女が、大人の集団を前に心から困惑して首を傾げる。
仮にその姿が見えていたとしたら、そのように映っていたことだろう。実際、鬼姫は目の前の状況を何一つ理解出来ず、何度も何度も首を傾げていたから、その仮定は正しいものであった。
鬼姫がそこまで困惑したわけは、鬼姫の前にあった。それを一言でいえば、なんというか……そう、鬼姫からすれば『よく分からない掛け合い』をする、彼らの姿であった。
そう、彼らは何だか話し合っていた。夜の中だというのに、わざわざ照明を付けて、カメラを前にして、これ見よがしに会話を行っている。その会話は実にスムーズで、淀むこともなく、話が進んでいる。
「――それじゃあ、登りますよ!」、「――いやあ、怖いなあ」、「幽霊よりも、体力が持つか……」、「――あら、私は昼間も登ったわよ」、「――へえ、凄い体力ですね」
聞いている限りでは、別に変なところはない。だが、鬼姫はそう取らなかった。所々理解出来る部分からは怯えているとは少し違う、言葉には出来ない何かを感じて仕方がなかった。
いや、夜の山を前に怯えているのは確かだろう。それは、鬼姫も分かっていた。だが、大げさというか胡散臭いというか、不自然な嘘臭い空気を、鬼姫は感じ取ってならなかった。
『……こいつら、本当に何の為に登るつもりなのじゃ?』
昼間から話を盗み聞いて分かってはいたが、彼らは鬼姫の神社へと向かうようだ。昼間の内に昇ったのに、なぜわざわざ夜になって再び向かうのか。熱心な信者……というわけでもない。正直、今になっても鬼姫には全く見当がつかなかった。
けれども、それは仕方がない話である。『シュウロク』……つまり、『テレビ収録』といった近代の言葉は、鬼姫からすれば千年も前の言葉なのである。
いくらかつては彼らと同じ時代に生きたとはいえ、千年も経てば欠片すら思い浮かべられないのは当然。むしろ、前世が有ったということを覚えているだけでも大したものであった。
だから、鬼姫からすれば、だ。目の前にて繰り広げられている彼らの行動の意味が、全く読み取れない。『よく分からない』だけでなく、『理解しがたい』光景でしかないのであった。
『なんだか、もう放っておいた方が良い気がしてきたのじゃ』
……あ、でも御供えしてくれたんだよなあ。
『まあ、貰うものは貰ってしまったからのう』
帰ろうとしていた身体を反転させた鬼姫は、改めて昼間と同じ顔ぶれを見回す。多少なりとも違いはあったが、昼間と対して変わらない状況に、鬼姫は深々とため息を吐いた。
違いは、昼間にカメラなどの道具を持っていなかった人たちが、声を高らかに『掛け合い』をしているという点。そして、その『掛け合い』を続けている者たちの傍にはあの女が居て……その隣には、昼間にはいなかった顔が二つ増えていた点であった。
二人とも、男である。一人は背が高いものの小太りで、一人はひょろっと痩せた男だ。はた目から見れば共通点のない二人であったが、鬼姫には……この二人の共通点がすぐに分かった。
『どっちも大したことないのう。これでは戦力の足しにはならん』
それよりも、むしろ……鬼姫の視線が、慌ただしく『シュウロク』というやつをしている人たちの内の、歳若い女へと向けられる。その人は、昼間にも居たやつであり、故意か偶然か何かと鬼姫と目が合うことが多かった人物であった。
『……立場が逆のような気がするのじゃが……まあ、色々あるのじゃな』
鬼姫からの評価は、見えないフリをしているのか本当に見えていないのか、いまいち分からんやつ、というものである。実は昼間の内に、なんとか彼女を通じて退散してもらおうと頑張ったのであるが……いや、止めておこう。
――もう、『力』が有ろうが無かろうが、まとめて守ってやればいい。
結局は、それだろう。何だかもう考えるのが面倒になってきた鬼姫は、ため息と共に無理やり結論付ける。そして、そんな鬼姫の姿にも声にも気付きもしない一向は、鬼姫の心配を他所に、山の中へと足を踏み入れた。
……もう帰って寝てもいいよね。だって、御供え分は働いたのじゃから。
踏み入れて、三十分が過ぎた頃。鬼姫が最初に吐いた泣き言が、それであった。たった三十分と言われればそれまでだが、そのたった三十分の時間は、鬼姫は己が如何に事態を軽く考えていたのを自覚し、公開するには十分過ぎた。
『ええい、そっちに行くでない! ほれ、そうやってぶらぶらと引き寄せられるから、怨霊共が手招きを始めよったぞ……シッシッ! 去るがよい! 馬鹿者どもが!』
ある時は、無意識の内に列から離れようとする一人を足止めしつつ、待ち構えていた怨霊の群れへと気合の一撃を叩き込み、周囲一帯ごと浄化し。
『ちょ、ま、待つのじゃ! お主、何時の間に憑りつかれ……ええい! 大丈夫じゃからお主らも落ち着くのじゃ!! ふんぬぁああ! 悪霊ぉぉぉ退ぃぃさぁん!!』
ある時は、怯える者たちを怒鳴り(意味はないと分かっていても)落ち着かせながら、憑りつかれてしまった者の体内から、無理やり悪霊を引きずり出し。
『ほう、下りたいか!? だが、もう遅いのじゃ! このまま神社に向かった方が安全――って、だから一人ぐらい私の声を感知できるやつを連れて来いとあれ程――』
ある時は、見えざる者たちの干渉に耐えきれず、悲鳴をあげて逃げ出そうとする者を何とか引き留め、逆に神社へ強引に突っ走ろうとする者も引き留め。
『そいや! ふんぬぁ! どっせい! ええい次から次へと、油虫のように! 今までどこに隠れておったのじゃ!? ええい、疾く滅せよ、亡者どもが!』
ある時は、その小さい身体で濁流が如く押し寄せる悪霊どもを受け止め、投げ返し、叩き潰す。それでも減ることなく湧いてくる悪霊どもに舌打ちし。
『ああ、もう! 無駄じゃ無駄じゃ! そんな『力』で念仏を唱えたところで大した意味は……っていうか、お主らも念仏の一節ぐらいは覚えて――』
ある時は、顔中から冷や汗を垂れ流しながら念仏を唱える護衛もどきを一喝し、怯えて震えるばかりのクルーたちを叱咤し。
『――あああああああ!!!! ちょろちょろと鬱陶しいぃぃぃのおおおおお!!! 死者が何時までも生者に縋るな、この阿呆どもが!』
そして、苛立ちゲージが限界に達しかけたことで鬼姫から発せられた怒気によってか、あるいは別の理由か、理性を失った悪霊どもの猛攻にも陰りが見え始めた頃。昼間であれば神社の鳥居が確認出来る位置まで来た時……さすがの鬼姫も、すっかり苛立ちを隠せないぐらいになっていた。
何故、そこまで鬼姫が苛立つはめになっているのか。それは、とにかく想定していたよりもテレビクルーたちを狙う悪霊の数が多過ぎた……それに尽きた。
一匹見れば三十匹というレベルではない。一体見つけたら百体、百体祓ったらその後ろに二百体といった具合で、とにかく膨大過ぎた。そして、あまりに……異常過ぎた。
多少なりとも数が多いだろうことは予測していたが、これは異常だ。あまりに、多すぎる。いったい、何がここまで『やつら』の気を引いているのか……検討すらつかないから、余計に神経を研ぎ澄ませる必要がある。
だからこそ、鬼姫は苛立った。元々、こういう細かくも同じことをさせられるのが嫌いな性質なのも、そうだ。例え一体一体が鬼姫からすれば雑魚以下であったとしても、次から次へと押し合い圧し合いで迫って来られれば……苛立つのは当然なことなのであった。
『あれっぽっちの御供えでコレとは、何とも割に合わぬのじゃ……それにしても、ほんとお前らどこに隠れておったのじゃ? 今の今まで気配すら感じさせなかったというのに……』
自ら望んで乗りかかった船とはいえ、だ。思わず、大人げないとは分かっていながらも、鬼姫は苛立ちを込めてテレビクルーたちを睨みつけた。お節介を焼いているのは鬼姫の勝手だが、だからといって無視しておけというわけにはいかないのだから、鬼姫の怒りはある意味最もだろう。
『……やれやれ、ワシもまだまだ子供か』
けれども、鬼姫の怒りは長くは続かなかった。彼らクルーたちの顔が一様に涙と恐怖でくちゃくちゃになっているのを見て、鬼姫はため息を吐いて……胡乱げな眼差しを『やつら』に向けた。
……一見するばかりでは、鬼姫の眼前に広がっている光景は『闇』だけであった。実際、テレビクルーたちは怯えてそれらを見つめることはするものの、彼らは誰一人として『やつら』を見ている素振りは感じられない。
しかし、鬼姫には見えていた。その『闇』の中にいる、『やつら』の姿が。『力』を持つ者にしか見えない、夜の住人たちの姿を……はっきりと、鬼姫の目は捉えていた。
『……久方ぶりの獲物に、興奮しよったか?』
確信はないが、そうだろうと鬼姫は推測する。鬼姫が知るところではなかったが、その推測は実際の所、当たらずとも遠からずといった所であった。
古来より、人知の及ばぬ場所、人の目から遠ざかって久しい場所には霊的な何かが宿るとされている。おそらくは鬼姫が住まうこの山にも、似たような現象が起こっているのかもしれない。
言うなれば、縁まで満たされた桶の中に、人間という名の石を投げ入れたようなもの。あるいは、静まり返った蜂の巣を突いたような状態が近いのかもしれない……が、まあ、どちらにしても。鬼姫からすれば、面倒な話でしかないことであった。
『ワシの領域でもある神社が近いからか……妙に大人しいのう。それとも、数に任せてはワシに勝てぬと判断したからなのか……薄気味悪いが、まあよい』
逃げて行く様子は見られないが、先ほどとは打って変わって沈黙を保つ『やつら』の姿に、ひとまず鬼姫はそう結論付ける。次いで、テレビクルーたちの様子を順々に確認すると、改めて霊力を注入して『抵抗力』を回復させていく。
彼らの足を止めないまま、一人ひとり確実に。彼らクルーたちは気づいていないようだが、短時間とはいえこんな場所にいるからだろう。霊体の消耗が激しいだけでなく、精神的にもかなりまいっているのが見て取れた。
「――やだ、やだ、もう帰りたい、帰りたい、帰りたい」
『うんうん、これに懲りたら、もう夜の山に入ろうなどとは考えるのではないぞ。所詮は命あっての物種、死してから後悔しても遅いのじゃぞ』
「――南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!」
『うーん……害のない浮遊霊ぐらいなら効果はあるじゃろうが、あやつらの場合は耳を貸さぬからのう。というか、酷い顔になっておるのう、お主』
「――観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時・照見五蘊皆空・度一切苦役……」
『般若波羅蜜多心経か……うむ、この場合はそちらの方が良いのじゃが……耳障りゆえ、少々声を潜めて貰えると助かるのじゃが……無理か』
聞こえないとは分かっていても、鬼姫は話し掛ける。長年、幽霊としてこの世にしがみ付いていたせいだろう。言うなれば癖であったので、別に返事がなくとも鬼姫は気にしなかった。
そして、そのまま泣き言を零し続ける彼らの相手を一方的にしてやりながら、『やつら』へ注意を払うことは忘れず、幾しばらく。ゴールは、もう目の前……後、数分の距離。
鬼姫の尽力のおかげで、懐中電灯の明かりが鳥居の一部を捉えられるまで、クルーたちは近づいていた。後は、このまま何事もなく鳥居を潜りさえすれば一安心……これでようやく一息つけると、鬼姫は安堵のため息を――。
『むむ?』
――零そうとした、その時であった。鬼姫が張り巡らされた探知網の端に、何かが引っかかったのは。思わずその場に足を止め、クルーたちの後方……石段の下方へと目を向ける。
『――うわ、今頃になって面倒なやつがきおったのじゃ』
一拍の後、その何かの正体を悟った鬼姫は、思わず頬を引き攣らせた。クルーたちの後方、鬼姫の視線の先に居たのは、以前にもこの神社へと強襲を掛けてきて、鬼姫からあっさり追い払われた……例の悪霊であった。
そいつは、一言でいえば数十にもなる『腕』で構成されたボールに顔が付いたような姿であった。にゅいと飛び出した顔面を囲うように、ぐるぐると腕と腕がマリモのように絡み合う。そして、糸くずのように飛び出した数本の腕で、胴体(実際は腕の塊だが)らしき部分を支えている。
その姿は、まさしく異形とでしか言い表しようがないものであった。そして、鬼姫は数週間ぶりとなるそいつの『力』を感じ取った鬼姫は……『やつら』が大人しくなっている理由を悟った。
『やつら』は、大人しくなっていたのではなかった。彼ら彼女らと同じく、怯えていたのだ。『そいつ』からの視線に怯え、混乱し、『そいつ』から逃げる為に彼ら彼女らへと襲い掛かっていたのだ。『力』を付けて、そいつの捕食から逃れたい、その一心で。
鬼姫は、原因の答えを得た。道理で『やつら』が騒ぐわけだ。縁まで注いだコップとはいえ、たった十数人ぽっちが山に入っただけで、こうまで『やつら』が騒ぐ理由がない。
全ては、『そいつ』のせいなのだ。『そいつ』は、ずっと待っていたのだ。己が『力』を得ることが出来る、この瞬間を。鬼姫を取り込み更なる力を得る為に――息を潜めて、機会を狙っていたのだ。
結果、『そいつ』は『力』を得た。生者は鬼姫が守っていたので手出しは出来なかったが、代わりに『やつら』を取り込むことで代わりを果たした。そして、大幅に『力』を増した『そいつ』は……姿を見せた。
鬼姫を、その身に取り込む為に。それが出来ると確信したからこそ、もう恐れる必要はないと確信したからこそ、『そいつ』は姿を見せた――というのを、鬼姫は『そいつ』から伝わってきた思念から解読した。
『……ん?』
脳裏に響く『そいつ』の声に、鬼姫は目を細めた。
鬼姫が感じ取ったのは、おそらく、そいつが『そいつ』に成り果てる前……生前の記憶。『そいつ』がまだ人間として過ごしていた時の……記憶、思い出……人生。
時間にすれば、それはほんの一瞬の出来事であった。けれども、それらはまるでスライド写真のように鬼姫の脳裏に映し出され、鮮明な映像となって鬼姫の中を通り過ぎて行った……まさかそれが。
『――は?』
己の消滅を決定付ける分岐点になるとは、『そいつ』は考えもしなかったことだろう。
『――はあ!?』
溜めに溜め込んでいたストレスを起爆剤に、超新星爆発が如く弾けた憤怒。
『――はああ!!??』
もはや原型すら残っていなかった堪忍袋が、苛立ちと怒りに呑み込まれて塵となり。
『――はああああ!!!???』
後に残ったのは、最後の門。理性という名の鎖に守られた、鬼姫の中に宿る……強烈な凶暴性。
『――はあああああ!!!!????』
許しを乞うたとしても、全てが遅い。鬼姫の中にあった理性の鎖は慈悲もなくブチブチと切断されていき……そして。
『そんな――恵まれた人生を送っておいて、何をほざくか! この甘ったれの阿呆が!!』
その瞬間、確かに、鬼姫は何かがキレる音を聞いた。次いで、頭どころか全身が燃え上がるような感覚を覚え――た直後、鬼姫の身体は動いていた。背後で、ギャー、と悲鳴をあげて神社へと逃げて行く者たちの声が聞こえたが……もはや、鬼姫の耳には届かなかった。
『何が俺だけがこんな目に、じゃと!? そんなの知るか!! それを言うたらワシはどうなる!? 生まれてこの方女に好かれたことはなく、最後まで良縁にも恵まれず、一人ぼっちで死んだワシはどうなる!!!』
小さな手で、鬼姫は印を結んだ。直後、鬼姫の姿が変化した。めきめきと、鬼姫の身体が大きくなる。瞬く間に十台前半から後半へと歳を経て……その小さな頭から、ずくずくと飛び出したのは……二本の巨大な角であった。
『散々人生面白おかしく謳歌しておいて! ちょっと早死にした程度で俺は不幸だなどと――ぬかせ!! お前よりも不幸で不遇で不憫な扱いを受けたまま、見向きもされずに人生を終えた者なんぞ、数えきれんぐらいにおるわい!!!』
変化は、まだ終わらない。身体に合わせて大きくなった巫女服の袖からにゅるりと飛び出したのは、左右二対の腕。元の腕と合わせて、計六本。その腕の一つ一つに光が宿り……炎のように揺らめきながら、形作られてゆく。
『顔良し頭良し家柄良し、美人の幼馴染と年下相手に持てはやされ、年上の親戚から可愛がられ、当然のように周りから人が集まり、苦労のクの字すら知らない恵まれた坊ちゃんが……一丁前に不幸を語るでないわ!!!』
右側が握り締めるは、己を成仏させんが為に使わされた神から奪い取りし武器。右上腕が掴むは、神の力が宿る銅鏡。右中腕が掴むは、魔を貫き払う神の槍。右下腕が掴むは、冥府の瘴気をも防ぐ神の盾。
左側が握り締めるは、己を取り込んで力を付けようとした魔より奪い取りし武器。左上腕が掴むは、魔の力が灯る燭台。左中腕が掴むは、神をも堕落させる魔の斧。左下腕が掴むは、聖域すら干渉する魔の盾。
『ワシはお前のような恵まれた人生は歩まなかった……じゃが、見境なく誰かを恨みはせぬ! 女に見向きされなかったのも、良縁に恵まれなかったのも、一人で往生することになったのも、結局は誰のせいでもない! 全て、ワシの行いが原因じゃ!!!』
とてつもない規模の『力』が、鬼姫から放たれる。それは、『そいつ』から放たれているモノとは格が違った。いや、もはや格という言葉では言い表されられない……地平線の彼方まで続いているような、広大な断崖であった。
放出された『力』を前に、まず獣や鳥、虫といったモノが一斉に逃げ出した。その次に、『やつら』が一斉に飛び散った。いや、飛び散ったというよりも、消し飛んだ、と言う方が正しいのかもしれない。
『やつら』は力の差を認識しないまま、鬼姫へ近づき過ぎていたのだ。逃げる暇もなく迫る『力』の余波を受けただけで、『やつら』はただの一体の例外もなく四方八方へとその身を散り散りにされてしまった。
『何と羨ま――誰からも愛されて増長したガキが!!! ワシはお前みたいな甘ったれたガキは大嫌いじゃ! 帝すら恐れた『鬼姫』の由来――その身をもって教えてやるのじゃ!!!』
そんな中、『そいつ』は動かなかった……というよりも、動けなかった。鬼姫から放たれた『力』の重圧を受けて、逃げることも迎え撃つことも出来なくなっていたのだ。
その時点で、いや、その前から全ては遅かった。全てが、決定されてしまった。『そいつ』はもはや消滅の未来から逃れられない、哀れな愚者として最後の時を待つほかなかった。
『そいつ』は、理解していなかった。自分が、何に対して喧嘩を売っているのかを。
『そいつ』は、理解していなかった。自分が、如何に己が甘えた考えを持っていたのかを。
『そいつ』は、理解していなかった。自分が、どんな存在の虎の尾を踏んでしまったのかを。
『そいつ』は、生前から理由なく己を過信していた。生前から理由なく未来を甘く見ていた。生前から理由なく事態を軽く考えていた……結果、最後は己の業の報いを受けた。
そして、『そいつ』は死して異形へと成り果てた。
だが、異形に成り果ててもなお、そいつは最後まで成長出来なかった。己を過信し、未来を甘く見て、事態を軽く考える性分を悟れないまま……この瞬間まで来てしまった。
『つまり、ワシがお前に言いたいのは!!!』
ごう、と『力』が爆発する。石段を蹴って飛び出した鬼姫を前に……『そいつ』は、悲鳴一つあげる間もなく――。
『世の中なめるのも大概にしろってことなのじゃよ!!! この阿呆めが!!!』
――転生すら出来ない、永遠の消滅。霊体(身体)を失った『そいつ』は、『無』の世界へと呑み込まれ――消えた。
みんみん、みんみんみん、みんみんみんみん。
鳴り響く、蝉の声。けれども、さすがに全盛期を過ぎたのだろうか。以前よりは確実に小さくなっている。もうすぐ夏も終わるのだろう……けれども、五月蠅いのは変わらなかった。
連日に渡る猛暑と熱帯夜も、まだ終わりを見せていない。だからというべきか、神社を取り囲む木々からは昨日とそう変わらない大合唱が響き渡っていた。
そして、今日も神社は様変わり……することもなく、オンボロという世辞(これでも、まだ世辞に入る)の言葉が似合いそうな外観をそのままにしていた。
自然に塗れすぎて石段なのか山道なのかが分からなくなっている石段に、所々どころではない範囲の塗装が禿げた鳥居。雨風にさらされ過ぎた賽銭箱のような何かに、腐食が進み過ぎて穴だらけとなっている社。人々の記憶から忘れ去られた神社は、相も変わらず酷い有様のままであった。
当然だが、辺りに人の気配は微塵も感じられない。それも、当然であった。何せ、見どころがないのだ。汚くてオンボロで寂れて、おまけに神様すらいない。DJ(駄目な神社)どころか、DDJ(どうしようもないぐらいに駄目な神社)にまで足を踏み入れているこの神社を訪れる者なんて、先日の彼ら彼女らぐらいのものであった。
そんな、寂れた神社の賽銭箱モドキの上で、鬼姫は何時ものように横になっていた。そして、いつものように知性をどこかへ放り捨てたかのような呆けた顔で、いつものように涎を垂らしながら、いつものように賽銭箱の上を漂っていた。
……。
……。
…………はず、だったのだが。
『…………』
無言のままに、鬼姫は隣を見やった。
「ジュース一本150円、ペットボトル200円だよ!」「焼きそば安いよー! ねえ、焼きそば買ってかないかい?」「唐揚げ、唐揚げだよー」「綿あめもあるよー、隣ではベビーカステラもあるよー」
……賑やかだった。漂う様々な匂いは食欲を誘い、心地よい音を立てて煙を立ち昇らせている。見なくても、それらが美味い物であることをうかがい知れた。
『…………』
無言のままに、鬼姫は反対を見やる。
「うわー、凄いねえ」「まだ日本にこんな場所が残っていたんだ」「写真撮ろうぜ、写真!」「気味悪―い、本当に幽霊出てきそうじゃない?」「テレビで見たのよりもずっとオンボロだねー」
……やっぱり、賑やかだった。聞こえて来る声はどれも明るく、恐怖の二文字は微塵も感じられない。加えて、ここを観光地か何かと勘違いしているのか、誰も彼もの手にはカメラ(鬼姫にはそれが何かは分からなかったが)があった。
『…………』
もう一度、右を見る。鳥居から社へと続く道どころか、社を囲うように立ち並ぶ出店の数々。
『…………』
もう一度、左を見る。所狭しに設置された出店の隙間を縫うようにして、社を撮影する人々。
『…………』
そして、ごろりと寝返りを打って社を見上げる。そこにも、へらへらと笑いながら社の中を撮影する人たちがいた。汚いとしか言い様がない中を縦横無尽に歩き回り、中には罰当たりなことに物色している者すらいた。
まあ、別段、そこは問題ではない。盗まれて困る物などないし、唯一盗まれると面倒になる『刀』は、鬼姫の力によって『夜にしか出現しない』。なので、昼間の間はどれだけ探そうが鬼姫としては気にするところではない。
そもそも、この神社自体が『神』を装う為に建てた紛い物だ。さらに言えば、もう数百年も雨風にさらされてきたのだ。今更新たな穴の一つや二つ増えた所で大した違いはないから、御供えさえしてくれればむしろ上機嫌に……なるの……だが……。
『……なんぞこれ?』
思わず……そう、本当に思わず、ここ十数日毎日のように続けている言葉を、鬼姫は今日もまた零す。その鬼姫の横を通り過ぎて、また一人社へとカメラを向ける人々を見やりながら……鬼姫は、この現象の始まりを疑問符と共に思い浮かべた。
……そう、変化があったのは……あの夜からひと月が過ぎた頃であった。
すっかり彼らのことを忘れていたのに、ふと、そういえばあいつら死人のような顔して下りて行ったが大丈夫だったのだろうか、と欠伸交じりに思い出した、その日の昼ごろであった。
――お、ここがテレビでやっていた神社か?
その言葉と共に、あの時とは別の、数人の男たちが神社へとやってきたのは。当然、鬼姫は彼らの存在には気づいていた。だから、特に驚きはしなかった……けれども、心から鬼姫は喜んだ。
その男たちの目的は鬼姫の知るところではなかったが、鬼姫にとって気にするべき点はそこではない。男たちが長居しないことが会話から推測出来た以上は、その時は男たちが神社を後にしたことすら気づかず、御供えを貪り続けた。
その時の鬼姫は、単純に喜んでいただけであった。そして、特に気にも留めていなかった。せいぜいが、この調子で参拝客(御供え)が増えてくれたらいいなあ……と思っていたぐらいで、特別何かをしたわけでもないし、しようとも考えていなかった……だが、しかし。
――あー、ようやく着いた……うわあ、本当に雰囲気すげー!
――こわーい、何これー!
翌日になって、今度は男女混合の新たな参拝客が来たのを皮切りに。
――うわ、きったねえ! 地震が来たら一発で崩れるぞ、これ。
――思っていた以上に酷え、これで残っているとかマジすげえ。
続々と、これまで考えられなかった調子で参拝客が訪れるようになったのを見て。
――それじゃあ、俺たちはこっち側を使うから。
――来週は、俺たちがそっちだからな。それじゃあ、機材運ぶぞ。
――これで、観光客が来てくれるんですかね?
――来るさ。というか、今を逃せば来なくなるぞ
――ブームが続いている今の内に、全てを済ませるんだ。
……さすがの鬼姫も、これは異様なことだぞと疑問を覚えた。だが、疑問を覚えたところで鬼姫にどうこう出来るわけがなく……気づけば、まず、麓から神社へと続いている石段の雑草が除去され、登りやすくなっていた。
次に、繁茂しっぱなしであった雑草も根こそぎ刈り取られた。かと思えば幾つかの小石も取り除かれ、動物の糞やら何やらも掃除された。それから、ものの数日で自然と区別がつかなかった境内は、見違える程になっていた。
そして、そこからさらに数日。増える参拝客を呆然と眺めるしか出来ない鬼姫を他所に、出店が一つ、二つ、三つ……気づけば、境内の隅々にまで広がっている、出店の数々。そうしてひと月も過ぎた頃には……まるで、縁日のような賑わいが境内に広がっていた。
『…………』
そして今、神社はとても賑やかであった。とにかく、賑やかであった。とても、美味そうな匂いが漂っていた。とにかく、美味そうな匂いがいっぱいであった……その中で。
『……いったい、何が起こっておるのじゃ?』
ぼんやりしている合間も置かれていく御供え品を前に、鬼姫はそう首を傾げて……ただただ困惑するばかりであった。
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