第15話(裏)「常識が崩壊する日」
時刻は、昼。さんさんと昇る太陽の下は、見事なまでの行楽日和であった。
どこもかしこも込み合い押し合いの大混雑。苛立ちと不満が吹き荒れる国道を通って、高速道路へと続き、降りた後。
辛うじて渋滞に遭うことなく高速道路を抜けることに成功した一台のキャンピングカーは、軽快にエンジンを高鳴らせながら、キャンプ場へと向かっていた。
このキャンピングカー、中は意外と快適である。日本に出回っている中では、どちらかと言えば大き目な方で、シャワー設備こそ取り外されているものの、お湯は使えて、テレビや冷蔵庫といった細々としたものを搭載していた。
そんな贅沢な車内にいるのは、4人の中年男性であった。
体質的に無精ひげが少しばかり目立つ、
小太りだが体格も良い、
4人の中では最もアウトドアに詳しい
運転手を務めている背の高い痩せた男の、
高齢者というには少しばかり早いぐらいの年代と見た目を持つ、この4人であった。
車内には、落ち着いた空気で満ちていた。騒がしいわけではないが、静かなわけでもない。ラジオから流れるニュースやら家族やらの愚痴を題材にして、男たちはつかの間の休息を楽しんでいた。
……。
……。
…………。
「……飲むかい?」
私は、出発からこれまで運転を続けている常田に声を掛けた。振り返った常田は、私が持っている麒麟の絵が描かれたそれを見て、僅かばかり頬を緩めた後……静かに、首を横に振った。
「いや、止めておくよ。最近は厳しいし、運転を楽しむのに酒は邪魔だ」
気取っているわけではない。高校からの長い付き合いから、常田の言葉が冗談ではないということが私にはすぐに分かった。
まあ、何となくそう言うのではないかと分かっていた私は、特に気を悪くしたりはしなかった。「じゃあ、私は呑むからな」けれども、いちおう声掛けだけはしておく。
「爽健美茶はあるか?」
「あるよ」
だから、次に常田が何を言うのかも何となく分かっていた。なので、言われると同時にソレを常田に渡す。そうしてから私は遠慮なく助手席にと腰を下ろし、冷えたビールに手を付けながら美しい景色に目を細めた。
本当に、今日は行楽日和という言葉が実に似合う天気だ。山道という程ではないが、些か道路の舗装に難有りなのが、余計に雰囲気を盛り上げてくれる。
こればっかりは、実際に体感しないと分からない楽しさだ。既に何十回と繰り返してきたが、何度体験しても良い物だな。時折ことん、と伝わってくる道路の振動に、私はビールに口づけた。
「――ああ、まただよ」
と、不意に。それまで背後から聞こえてきていたモノとは少しばかり違う声色に、振り返る。一般車で言えば後部座席に当たる場所。この車においてはソファーが設置されているのだが、そこに、須藤と飯高の二人が腰を下ろしている。
声を上げたのは、須藤だった。焼き鳥を片手に今しがたまで飯高と雑談をしていた須藤が、やる気をなくしたかのようにすっかり毛髪が薄くなった頭を掻いていた。隣に座っている飯高も、須藤と同じように白けた眼差しを……備え付けられている車内テレビに向けていた。
いったい、何だろうか。
電波状況が悪くなりそうな場所でもないのだが……状況が分からず、私は首を傾げた。そんな私の視線に気づいたのか、須藤は「ああ、いや、テレビを見ていたんだけどな」やるせないと言いたげな様子で、私の位置からは画面が確認出来ないテレビを指差した。
「また、心霊特集なんだよ。全く、利益が出たってその大半は自分たちの給料に回す癖に……もっと現場に回して良い番組を作れってんだ」
「この心霊映像なんて、この前も見たからな。何回も使い回して製作費をケチっているわけだから、そういう所を見透かされると後々に響くっていうのに」
何やら憤慨している須藤と飯高を見て、ああなるほど、と私は納得した。
昔から私は専らニュース以外ではテレビを見ないのだが、須藤と飯高はバラエティ問わず何でも見る。だからなのか、こうしたプライベートにおいての雑談では、自然とテレビ番組に関することを話題にすることが多い。
少なくとも、雑談にて真っ先に話題に上るような何かが無い時は、大概テレビに関することを口にする。多分、今回も何時もと同じなのだろう。見れば、ワンパターンがどうとか、捻りのないコメントがどうとか、ブツブツとテレビ画面に愚痴を零していた。
よくもまあそんなに不満を溜めているものだ。二人の姿を見て、私はそんな感想を抱く。しかし、以前『それは、お前がもうテレビを見限っているからだよ』と二人から言われたことを思い返し……なるほどなあ、と私はもう一度納得した。
まあ、そんな感じでテレビに対して中々の情熱を抱いている二人だが、そんな二人にも苦手としているというか、不愉快に思っている番組がある。それが今、不満たらたらで文句を言いまくっている、『心霊関係の番組』である。
実は、私もその手の番組は嫌いな方である。
私は単純に信じていないからなのだが、須藤と飯高は特にその手の番組を嫌う。曰く、『視聴率が取れる今の内に取ろうとする根性が特に気に入らない』ということらしい。
(まあ、分からないでもないんだがな)
憤慨している二人をみて、私は内心ため息を零す。所詮、テレビなどは商売の一つの形に過ぎない。仕事柄、社会正義だとか政治の監視役を自認している勘違いした人を時折見かけることはあるが……いや、論点が違うか。
(幽霊なんかよりも、生きている人間の方がよっぽど厄介だし鬱陶しいことは二人とも知っているはずなんだがなあ)
まあ、一口に恐怖と言っても方向性が違うのだろう。愚痴を零しながらチャンネルを変える二人から視線を戻した私は……ふと、前方にて広がり始めた光景に目を瞬かせた。
「何だか、霧が出て来てないか?」
天気予報では、霧に関する注意報など出ていなかったはずなのに。
そう思いつつ横を見やれば、「そうだな。でも、これぐらいなら大丈夫だ」常田は慣れた様子で速度を落とすと、ライトを付けて徐行運転に移った。
以前にも、似たようなことがあった。その時は常田の運転テクニックのおかげか、何のアクシデントに見舞わられることもなく、無事に霧を抜けることが出来た。
その記憶があるおかげで、私は特に不安を抱いていなかった。背後の二人も私と同じ気持ちのようで、特に気にした様子もなく雑談を続けている。車内の空気は、実に落ち着いていた。
……けれども、だ。
霧の中に入って少しして、車は停車することとなった。何故なら、すぐに突き抜けられるであろうと思っていた楽観的な予測が、大外れとなってしまったからだった。
「これでは、進むことも戻ることも出来ないね」
ポツリと、車内に常田の愚痴が零れる。どんどん濃くなる霧によって、既に数メートル先すら確認出来ない状況となっていた。当然、どこを見ても一面真っ白。日光を遮っているせいで、昼間だというのに薄暗さすら感じられた。
霧の中では、例えエアコンを使用していても車内側の窓が曇る場合がある。安全な走行が出来ないと分かっている以上、路肩に寄せて停車するのは当然の判断であった。
「いいんじゃないの、べつに。たまにはこういうこともあるでしょ」
「そうだけどさあ……気持ちよく運転するなら、やっぱり晴れて視界良好が大前提だよ」
そう言って常田は煙草に火をつけて……つまらなそうに、紫煙を吐き出した。
……あくせく考えないのも楽しむコツだろうと私は思ったが、常田が愚痴を零すのも無理はないな、とも思った。私はただこうして助手席に座る御身分だからだろうが、さすがに30分も霧の中で待たされれば苛立ちを覚えても仕方ないことだとは思う。
おまけに、こうして立ち往生している間も霧は刻一刻と強まってきている。霧中に突っ込んですぐであれば引き返せたかもしれないが、もう無理だ。それが余計に苛立ちを増長させているのは、考えるまでもないことだろう。
だからといって、車を走らせるわけにはいかない。つい30分前、どうせ晴れるだろうと油断してけっこう車を走らせたせいで、現在、どの位置で車が止まっているかが分からなくなっているからだ。
何とか路肩の白線は確認出来たから寄せるぐらいは出来たものの、それが精一杯。辛うじて平坦な位置で止めていることだけは分かったが、それがカーブなのかすら確認出来ない状態であった。
霧の影響からか電波も悪く、車のラジオは通じない。当然、テレビもだ。いちおうCDを数枚ぐらい用意しているようだが、そんな気分でもない。いくら酒やつまみがあるとはいえ、ただただ飲み続けるのも……何とも、退屈な時間であった。
その時にならなければ分からないのが、山の天気。それは重々承知の上だが、渋滞を避けてここまで来られて、まさかこうなるとは。想像すらしていなかった足止めに、車内にいた誰もが退屈な様子を隠しもしていなかった……と。
『……が……りょ……』
唐突に、その音が響いた。思わず、私は何の音かと車内を見回す。皆も音は聞き取っていたのか、私と同じように車内を見回している。その音の正体が、車内ラジオから響く音声であることに気付くのに、少しばかり時間を要した。
もしかしたら何かの拍子に電波が入るかもしれない。大した期待もせず、音だけは最低限拾える程度にしてはいたが……それが、良かったのだろう。
この際、内容はどうでも良かった。民放であれ何であれ、退屈さえ紛らわせれば。
そう思ったのは、どうやら私だけでないようだ。「音を上げてくれよ」車内にいる皆が同じことを考えていたのか、すぐに急かされた。なので、私は「分かっているよ」それだけを言うと、音量を上げた。
(……何だ? 英語……中国語でもない?)
そうしてすぐ、私は首を傾げた。最初はノイズが酷いからそう聞こえるだけかと思ったが、ラジオから聞こえて来る音声に違和感を覚え、すぐにそうじゃないことに気付いた。
息継ぎらしき一瞬の間に、独特のイントネーション。それが、どこの国の言葉なのかは分からないが、『言語』であることを教えてくれる。だが、いったいどこの言語なのかが分からない。
英語でないのは確かだ。さすがにネイティブほど上手いと自惚れるつもりはないが、それぐらいは分かる。「広東……いや、違うな」この場で唯一、アジア系の言語にも精通している飯高が首を横に振ったのを見て、私を含めた全員がもう一度首を傾げ……ふと、私は表示されている周波数の番号に目を向けた。
そこに表示されているのは、見覚えのある周波数だ。一つ気になった私は、好奇心の赴くままにチャンネルを変える……が、不思議な事に、登録しているどの局に合わせても流れてくるのが同じであった。
実に、不可解なことだ。FMにしても、AMにしても同じ。英語でもなければ中国語でもなく、延々と理解不能な『言語』ばかりが聞こえて来るだけだ。国内放送なのに、日本語の『に』の影すら見られなかった。
「混線、しているのかな?」
そんなこと、あり得るのだろうか。反射的に投げかけられた言が、私の胸に突き刺さる。こみ上げてくる不気味さと共に、わたしはその言葉を飲み込んだ。
「だとしても、こんな場所で?」
「私に聞かれたって分かるわけないだろ」
そう呟きながら、チャンネルを操作する。しかし、何度やっても理解出来る言葉が流れてくる気配はなく、スピーカーから聞こえて来るのは意味不明な放送だけだ。
表示されている放送局は見覚えのあるソレなのに、どうして肝心の中身がコレなのだろう。無線機を使って無作為に拾っているわけではないし、混線するような場所でもない。どちらかと言えば、電波そのものが届きにくい場所だと言うのに。
ラジオが繋がったこと事態は僥倖だが、期待を持っていた分だけ落胆も大きかった。1人、また1人、ため息と共に、皆が後部のソファーへと戻ってゆく。興味を失くしたのか、常田もシートを倒して大きく欠伸を零した。どうやら、ひと眠りするようだ。
(身動きできないのだから、起きていようが寝ていようが同じ……か)
不用心と言えばそれまでだが、まあ仕方がない。対向車や後続車だって、この霧の中だ。こちらと同じく身動きが取れずに立ち往生しているだろうし、動いていたとしても徐行ぐらいの速度だ。そこまで警戒することはあるまい。
そう結論付けた私は何気なしに操作パネルを弄り続ける。さっきは全員に聞こえるようにしたが、今度は自分だけが聞き取れればいい。なので、音量を下げたままの作業となる。
まあ、下げた所でスピーカーは後部座席の方にも取り付けてあるらしいから、意味はないのだが……まあ、いい。どうせ、皆は耳を傾けてすらいないだろうから。
そうして、耳を澄ませれば、だ。聞こえるのは相変わらず意味不明な何かと、ノイズだけ。何か変化が現れればいいなあ……と願いつつも、受信できる周波数を片っ端から合わせ続け――。
『こっちにおいで』
――た、その時であった。
唐突に、聞き覚えのある言葉……『日本語』がスピーカーから聞こえてきた。その声は、まるで子供のように甲高く、それが日本語であることを頭が理解した瞬間、あっ、と私は声を上げた――のだが。
『もう、逃げられないよ』
その時にはもう、遅かった。いったい何だと身を乗り出した途端、ただそれだけの言葉を最後に……また、意味不明な言語の中へと紛れ込んでしまった。聞き間違いかと己を疑ってしまうぐらいの、一瞬の出来事であった。
……何だ、今の?
ようやく頭の処理が追いついてから、慌てて音量を上げる。だが、「ちょっと、音量を落としてくれないか」目を瞑っている常田から注意された。仕方なく、私は音量を下げた……皆には、聞こえなかったのだろうか?
(聞き取ったのは、私だけなのか?)
気になって皆を見やれば、誰も気にした素振りは見られない。演技をしているといった様子もなく、今しがたの出来事など、まるで存在していなかったかのようで……うすら寒い感覚を覚えた私は、思わず腕を摩った。
「お、霧が晴れてきたみたいだね」
……と、不意に、それまで後部にいた須藤から身を乗り出すようにして声を掛けられた。
タイミングが、タイミングである。声こそ上げなかったものの、私はみっともないぐらいに仰け反ってしまった。それを誤魔化すつもりで私も身を乗り出せば……須藤の言う通りであった。
まるで、巨大な扇風機で散らされたかのように視界が晴れ渡り始めていた。噛めば味がしそうなぐらいに充満していた濃霧は、瞬く間にその姿を失くしていた。
その事に皆は歓声をあげた……当然だ。アクシデントを楽しむのもまた、旅行の醍醐味だが、だからといって好き好んでいるわけではない。私だって、何時までも立ち往生はしたくない。
山の天気は変わりやすいと言うし、動けるうちに動いた方が良い。運転手である常田はそう独り言を呟くと、そろそろと車を走らせ始める。
もちろん、異を唱える者はその場にいるはずもない。どんどん良好になっていく視界に合わせて、車の速度も上がっていく。気づけば、霧に呑まれる前と同じぐらいの速度となっていた。
その頃になれば、木々の向こうから差し込む光は、すっかり赤黒くなっていた。フロントガラスの向こう、枝葉の合間から零れる光の向こうに目を凝らせば、濃霧に包まれる前は確かに青色であった空が、夕焼け色へと姿を変えているのが分かった。
もう、そんな時間なのだろうか。
時計を見れば、既におやつ時をとうに過ぎていた。はて、こんな時間でもう……夕陽が山を染めるには早い時間帯には思えたが、三人は気に留めなかった。
というか、山の中だからそのように見えるだけなのだろうという程度にしか考えていなかったのかもしれない。その中でただ一人、私を除いてはの話だが。
(……気にし過ぎ、か?)
おそらく私だけが、差し込む赤黒い日差しに首を傾げ、幾度となく外の景色を見つめていたことだろう。濃霧に包まれる前とほとんど変わらない……ようにしか思えない景色を、幾度となく振り返る。
その度に、どうしてか私は……胸騒ぎを覚えてならなかった。
何故かは、分からない。ただ、何だろう……酷い胸騒ぎを覚えて仕方がない。動悸とはまた違う、不思議な感覚。不安……もしかしたらこれは、不安というやつなのだろうか。
私は……晴れて行く濃霧への名残惜しさを、強く感じていた。哀愁とも、また違う。そう、何というか……本当にこれで良いのかという、奇妙な違和感が私の胸中にて渦巻いている……そんな気がしてならなかった。
――そして、案の定、私の予感は的中した。いや、してしまった。
身動きが取れなくなるほどの濃霧が晴れてから、早一時間。枝葉の隙間から差し込む夕日に注意しながらではあったが、目的地への行路は快適そのものであった。
野生動物が飛び出してくることもなければ、土砂にタイヤを取られることもなく、細々としたアクシデントに見舞われることもない。私たちを乗せたキャンピングカーは、一本道となっている山道を順調に走り続けていた……だが、しかし。
「変だな……もうそろそろ、付いても良い頃なのだけれども」
ガラス越しに見える外の景色を幾度となく確認していた常田が、そう言って首を傾げた。常田の言うことは、最もであった。
たしかに、車自体は順調に走り続けている。パンクといったアクシデントに見舞われることもなく、車内の状況は快適だ。けれども、それに乗っている皆の顔色は……順調とは言い難いものとなっていた。
と、言うのも、だ。私は、時計を見た。
本来であれば、霧で立ち往生していた時間を差し引いても、そろそろ目的地に到着しても良い頃合いなのである。なのに、一向にその気配が見られない。記憶にあるキャンプ場の看板も、景色も、何も出てこないのである。
そのうえ不思議なことに、対向車と全くすれ違わない。昔にアウトドアブームが起きた時と比べて人気が下火になっているとはいえ、今は天気の良い10月だ。
暑さや蚊といったものに悩まされる可能性が低くなったこの時期に、全くの無人ということはないだろう。去年、似たような時期に同じ場所へと向かった時には、けっこうな賑わいを見せていた覚えがあったから、余計にそう思える。
もしかしたら別の道が出来たのかもしれないが、少なくとも地図に載っているのは今、私たちが通っているこの道だけだ。だから、この辺の土地勘がある者ならばいざ知らず、一般車すらすれ違わないのはおかしい。
しかも、そうこう走らせている内に、上へと向かっていのが、徐々に下向きになる回数が増えて来ている。最初は木々に囲まれているせいで気付かなかったが、気付いた時にはもう、5分近く下向きに車を走らせていた後であった。
「……道を間違えたんじゃないか? この調子で下って行くと、麓どころか平地にまで降りてしまうぞ」
誰もが思い始めていた疑問を、私が改めて尋ねる。「いや、一本道だから間違いようが……」やはり、その疑問はすぐに否定された。老眼鏡を取り出して地図を確認している須藤と飯高が、何度も首を傾げているのを見やった私は、運転している常田へと意見を求め――。
「……あれは、町か?」
――ようとしたが、出来なかった。それよりも前に、何かを見つけた様子の常田が、ガラス向こうの彼方を指差す。走っている今の道が直線で、山中から見下ろせる形になっていたおかげで、常田が指し示した先が私たちにもすぐに確認出来た。
夕陽に照らされて確認出来たそこを一言で言い表すのであれば、『町』であった。『村』というには大きく、都市というには寂れているのが遠目にも分かった。
いわゆる、盆地というやつなのだろう。周囲を山々に囲まれたその町は、まるですり鉢に入れられたゴマ粒を思わせる。景気や開発から取り残された、古ぼけた町……私が抱いた率直な印象が、それであった。
こんな場所に町なんてあっただろうか。気になった私は、後ろの二人に尋ねて地図を見直してもらうが、載っていないと言われた。最新のものじゃないからと誰かが口にしたが、すぐに全員が違うと口を揃えた。
車に搭載しているナビにしろ、私たちが使っている地図にしろ、載っていないのは信号や建物といった、『つい最近変えられた物』の場合だ。百年以上も前ならまだしも、現在になって町一つ分が記載漏れなんてあるわけがない。
(じゃあ、あの町はいったい何なのだろうか?)
そう考えた瞬間、私は言葉には言い表せられない薄ら寒さを覚えた。そうししてふと、私は今、この車が進んでいる山道の先を思い描き……背筋を震わせた。
(このまま進めば、あの町に到着してしまう)
そんな、気がする。地図がないので確証はないけれども、私はそんな予感を覚えた。おそらく、全員が同じことを思ったのだろう。皆の顔色を見て確信した私は、ぞわぞわと這い上がってくる嫌な感覚に言葉を失くした。
……。
……。
…………そんな重苦しい沈黙の中で。
「何であれ、一度はGS(ガソリンスタンド)に寄っておきたいな」
最初に沈黙を破ったのは、運転を務める常田であった。「引き返すにしても、最寄りのGSまでは遠いしね」その、努めて明るい声色に、私はフッと心が軽くなるような気がして……同時に、自身が抱いていた不安が、するりと姿を消したのを実感した。
――馬鹿馬鹿しい。あれは、たまたま地図に載っていないだけの町じゃないか。
私は心の中で、己に対して苦笑した。
何を、恐れる必要があるのだろうか。ここは、日本だ。常識の通じない部族が住まう森の奥地でもなければ、モラルが壊れたスラム街でもない。司法が行き届いた、日本だ。
最近、心霊番組ばかりがテレビを通じて垂れ流されるからだろうか。心霊番組などと冷めた目で見ていた私だが、どうやら知らず知らずのうちに影響を受けていたのかもしれない。
それに……私は、出発する前に常田から聞いた話を思い出す。
車には予備の燃料である軽油タンクを二つ積んでいる。何故そんなものを言えば、以前、似たような状況で道に迷ってしまい、何とかなると高をくくっていたせいで結局はガス欠となり、立ち往生をした経験があるから、らしい。
その二つだけでも、ここから戻ってもまだ余裕な量が入っている。燃料メーターを見れば、まだまだ残量は余裕だ。二つを合わせれば、夜までノンストップで走り続けることが出来るだろう。そう、例え、もしもの事態に陥ったとしても。
「もしもの事態……か」
何故、その言葉を呟いてしまったのか。私自身、さっぱり分からなかった。思わず、という他あるまい。直後に気付いた私は心の中で己を叱咤し、首を竦めた。
失言であった。はっきりと、私はそう自覚した。どうか誰の耳にも届いていませんように……恐る恐る全員の顔色を伺えば……魔の悪いことに、誰もが気落ちした様子であった。
――すまん。
私は、心の中で頭を下げた。下手に口に出すわけにもいかないから、そうする他、私には思いつかなかった。
……。
……。
…………当たり前と言うか、何の問題も起こることもなく、私たちを乗せたキャンピングカーは山道を下りた。そのまま麓を通り過ぎ、周囲一帯が畑になっている道路を進む。
町が近づいているというのに、車内には……何とも言えない重苦しい沈黙が降りていた。降りているというをの、私ははっきりと認識していた。
その原因は、遠目からでも分かっていた不自然さではあったが、近くまで来たところで改めて分かってしまったこと。『町』だけでなく、その周辺を含めて生まれている異質さに気づき、警戒心をもたらしたからであった。
まず、目を引いたのは山を降りるまでに確認出来た、『町の形』であった。
というのも、人々が暮らす場所(市町村という区切りに限らず)というのは、規則というかある程度の法則がある。それは、中心となる場所から離れれば離れる程、建物との感覚が開き、通行に使われる道路に沿う形で建物が点在するようになっているというものである。
つまり、中心部に近づくに従って建物がポツポツと目に留まるようになる、ということである。建物は、何でも良い。工場でも倉庫でも、ホテルでも何でも、ポツポツとその数を増していく。それが普通であり、徐々に密集していくものなのである。
だが、『町』はそんな言葉で当てはまるものではなかった。
山道から見下ろした時に思ったことは、まるで境界線だ。塀があるわけでも、堀があるわけでもない。なのに、『町』全体が綺麗な円形になるように建物が建てられているのだ。境界線に面した建物に至っては、滑らかな円形を作る為に建物が扇形にすらなっていた。
自然とそうなったのではなく、意図的にそうしている。町全体を円形にする為に家の形すら変えている。いったいそれに何の意味があるのか、皆目見当がつかない。
(何かの実験施設……いや、違うか)
どうかしている。何と馬鹿馬鹿しいことかと、脳裏を過ったその考えに私は失笑を零した。けれども、その笑みがどこか引き攣ったものであることを、自覚していた。
常識からすれば、異様としか言い表しようがない光景であるのは事実だ。夕暮れ時の畑ばかり、何とも言えない寂しい光景に照らし出されたその町を見て、私のみならず、皆が不安を覚えるのも致し方ないことであった。
実際、麓を下りてからこれまで、誰一人言葉を発していない。後ろの二人に至っては、座っていれば良いものを、『町』が気になるのか、ずーっと立ちっぱなしである。
(一度落ちたら、もう私たちだけでは車を引っ張りあげるのは無理だな。道も狭いし、Uターンは……無理か)
チラリと、背後の二人から、左右に広がっている畑へと意識を向ける。周囲の畑との段差は、一度入れば自力では登れない程に深い。
とてもではないが、もうすぐ還暦を迎える私たちに車を押し上げる体力などない。だから、行くしかない。少なくとも、どこかでUターン出来る場所を見つけるまで、進むしかない。
(……何事も起きなければいいが)
木原の脳裏を過ったのは、つい数時間前のこと。ラジオから響いた、不吉な言葉であったが……今更、考えた所で仕方がない。木原たちを乗せた車は、恐る恐る……と言った調子で、『町』の中へ車を進め……そして。
(なんだ……これ)
私は、絶句した。と言うのも、外からでは確認出来なかった『町の内部』が、あまりにも常識から掛け離れた作りをしていたからである。
まず、変わらず続いている道路の一本道。入口からずっと彼方の奥、目視では確認出来ない遠くまで、まっすぐ道路が続いていた。
こんな不自然な道路の造りは、初めて見る。そして、道路の幅は思っていたよりもかなり狭い。軽でもギリギリ……長いキャンピングカーでは不可能な幅である。
何とも、変な作りだ。路地裏ならまだしも、表通りであろうこの道で、この幅。これでは、どちらか一方からしか車が入れないだけでなく、最悪どちらか片方がバックし続けなければならなくなる。
それに、変なのは道だけではない。未知の左右に連なる照明らしき外観の異様さもそうだが、左右に立ち並ぶ店は、そのどれもが商店のようで、住宅と呼べそうな外観の建物は一つも見当たらない。本当に、ずっとずーっと奥の方まで、お店が連なっていた。
「……おい、ここ、本当に日本なのか?」
思わず……と言った様子でポツリと零した私の言葉に、皆は……否定の言葉を吐けなかった。中に入ってからも、不気味さは変わらなかった……いや、さらに不気味さを増していた。
と言うのも、その立ち並ぶ商店だが……一つの例外もなく古臭いのである。良い方に捉えれば、『レトロ』さが満ち溢れた商店街、と言ったところだろうか。
所々見え隠れする解読不能な文字やら絵やらが描かれた看板やらを除けば、まさに昔ながらの商店街そのもの。一見するばかりでは、気味の悪さこそ覚えはするものの、怯える程までには至らないだろう。
だが、私たちが不気味さを覚えずにはいられないのは、その昔ながらの光景ではなかった。思い出の景色と似通っている、その光景には付き物の……人の気配が全く感じられない点であった。
『町』に入ってから、未だに一人も住人を見ていない。これだけ長い道路に比例して商店が立ち並んでいるのだから、相応の数の住人が居るはずである。しかし、道路には影も形もない。外から見える商店のどれにも、人の影が見られない。
営業しているのは、外から見て取れることだけでも何となく察せられる。
なのに、どうしてだろうか。深夜ならまだしも、こんな夕暮れ時で誰一人姿を見せないとは……この『町』の異様さに、私たちは自然と身体を硬直させていた。
途中、幾度かUターン出来そうな商店の合間の通路を見つけた。だが、そのどれもが細く、車で抜けるのは不可能だったのが、余計に気落ちさせるのだろう。気づけば、私たちは山中を走っていた時以上に静まり返っていた……と。
「あれ、GS(ガソリンスタンド)じゃないか?」
「え……アレがか? 妙に小さいな……1台ずつしか給油出来ないぞ」
「こんな場所だから、二つもいらないんだろ。それに見ろ、車があるぞ!」
前を見ていた常田が、立ち並ぶ商店街の先を指差す。記憶にある看板は何もないし寂れた雰囲気を漂わせていたが、確かにそれらしい設備と……ワゴン車が止まっていた。
しかも、止まっていたのは車だけではなかった。ワゴン車の周囲には5人の女性がいて、何やら給油スタンドの前で何かをしていた。「もしかして、同じように迷い込んだのかな?」人が居たことに車内の空気が和らぎ、女性たちも私たちを乗せた車に気づく。手を振って合図を送ってくるのを見て、常田はハンドルを切って、GS(の、ような施設)へと車を入れた。
途端、女性たちが一斉に駆け寄って来る。「大学生くらいかな?」遠目で見た時よりも、ずっと若々しい感じすると零した飯高の言葉に、私を含めた全員が首を縦に振った。
(さて、何故駆け寄って来るのか……美人局、なわけないか)
私だけでなく、皆が似たようなことを考えたのだと思う。振り返って皆の顔色を見やれば、誰もが私と同じように……困った様子であった。
年齢と自らの容姿を自覚しているから、もしかして、と期待する気すら起きない。けれども、気にはなる。見捨てるのは忍びないし、そもそもやっと会えた他人だし……そう、顔に書いてあった。
「どうする?」
「どちらにしても、あのワゴン車が退かないとUターンは出来ないぞ」
その言葉に、私は頭を掻いた。遠目からでも分かっていて、近づいて見てから改めて分かったことが、このGSは常識からは考えられない程に敷地面積が小さかった。
まるで消しゴムみたいな広さしかないスタンドである。給油機と隣の商店にて挟まれた隙間は、軽自動車でも手狭に覚える程に小さい。一般宅程度の敷地面積に、むりやりGSを建設したらこうなるのだろうという窮屈さであった。
一つしかない給油スペースに一台が止まれば、もうUターンは出来ない。それぐらいに、このGSは狭いのである。しかも、只でさえ狭い敷地を圧迫しているのが……ワゴン車と給油機の後方にてポツンと建てられている小屋であった。
おそらくそれが、店員などが待機する所なのだろう…小屋という言い方は失礼かもしれないが、そう思ってしまうのは致し方ないだろう。
何せ、塗装は剥がれ、扉のガラスにはヒビが入り、隅の方では蜘蛛が巣を張っている。ガラスの向こうは厚手のカーテンで仕切られ、中の様子は確認出来なかった。
もしかしたら、ここは廃棄されたGSなのだろうか。
それぐらいに酷い外観であった。思わずその可能性を疑ったが、それにしては変だ。建物は汚いしオンボロだが、不思議な事にゴミ一つも落ちていないし、雑草一つない。手入れが行われているのは明白であって……廃棄はされていないのが分かる。
「……とりあえず、力になれそうなら力になろうか」
全会一致で下された判断に頷いた常田は、適当な位置で車を止める。窓を下ろせば、「あの、急にこんなこと言って申し訳ないんですけど……操作を代わりにやってもらえないでしょうか?」女性たちの内の一人、茶髪の女性が代表するかのように話を切り出した。
代わりに操作……はて、どういうことなのだろう。
思わず、私は皆と顔を見合わせて首を傾げた。まあ、まずは事情を聞いてみてからと判断した私たちは、どこか疲れた様子を見せる茶髪女性の話をじっくり聞いてみれば……だ。
どうやら彼女たちは、ここに来てから30分程、給油作業が出来ずに手こずっているとのことだ。彼女たちが知っているソレとは形が違うせいで操作が分からないらしく、下手に違うのを入れて車を壊しても……ということで、今まで他の車が通りかかるのを待っていたのだという。
「だったら、店員を呼べばいいんじゃ……」
「私たちも、そうしようと思ったんだけど……」
当然と言えば当然な疑問を受けて、茶髪女性は苦笑した。次いで、茶髪女性が指差したのは……例の、廃屋と見間違いそうな小屋であった。
曰く、最初は店員に聞こうとしたらしい。けれども、インターホンを何度押しても、何度ガラス扉を叩いても反応がなかったのだと言う。皆はワゴン車と給油機の方へと向かったので、余った私は茶髪女性と共に小屋へと向かう。
(……こんなところにも、こういう落書きはあるんだな)
英語なのか、日本語なのか。扉のすぐ傍にて書かれた意味不明な何かの落書きに妙な安心感を抱きつつ、インターホンを確認し、押す……反応がない。扉のノブを掴むが、鍵が閉まっている。
首を傾げつつ、押す。同時に、ノック。もう一度、押す。押す、押す、押して押して押して押して……押す。ノック、ノック、ノックノックノック。しかし、反応はない。
造形は見知ったものとほとんど変わらなかったので、押し間違いはないだろうが……私は「こりゃあ駄目だ、壊れているよ」首を竦めて彼女へと振り返った――のだが。
(……ん?)
彼女は、私の方を見ていなかった。両手で口元を覆い、まん丸に見開かれた両目を私の後方……少し斜めへと向けていた。何だと思った瞬間、私は背筋に……ビリビリと嫌な感覚が走るのを実感して――急いで振り返った。
――そこには、茶髪女性よりも少しばかり歳を経ていそうな男がいた。厚手のカーテンを手でまくるようにして、顔だけをカーテンの中から突き出している男が、ガラスの向こうにあった。
「――うっ、お……!」
水路に流れず引っかかった落ち葉のような声が、出た。彼女は、この男に驚いたのか。反射的に飛び退いていたら、転んでいたかもしれない。ジッとこちらを見つめてくる男の視線を何とか持ちこたえた私は、居住まいを正して、ガラスを叩いて反応を待った……のだが。
「……あの?」
男からは、何の反応も帰って来なかった。表情一つ変えることなく、無表情のままこちらを見つめてくるだけ。声が聞こえないにしても、姿は見えているのだ。
こちらが呼んでいることぐらいは分かっているはずなのに、どうして何の反応も見せないのだろう。「あの、もう行きましょう」茶髪の彼女は、そんな男の様子を見て気味悪そうに後ずさっていた。
私も、男の様子に薄気味悪さを覚えていた。精気がない……というやつなのか。妙に青白い顔色に、離れたい気持ちが湧いてくる……だが、この時ばかりは苛立ちの方が少しばかり勝っていた。
インターホンを連打したり、ガラスを叩いたりして気を害したのかもしれない。しかし、だからといってその態度はよくない。超能力者じゃないのだから、何かしらアナウンスをしてくれなければ、こちらとしてもどうしたらいいかが分からない。
止めろでも、他を当たれ、でもいい。せめて、一言ぐらいは反応を返すべきところじゃないだろうか……少々、気が済まない。そんな思いで、私はガラスを叩こうと再度手を振り上げた――。
「うわ、何だこれ!?」
――途端、背後から響いた声に、私は思わず肩を震わせた。振り返れば、給油スタンドの辺りが騒がしい。ただ事ではない何が起こったのかと思った私は、急いで皆の下へ駆け寄った。
目に留まったのは、仰け反るような体勢で出来うる限りノズルを身体から離している、常田の姿。そして、ワゴン車と給油スタンドの合間に広がっている、赤黒い液体。何だこれと思って近づいた途端、鼻に付いたのは、何とも表現し難い悪臭であった。
鉄臭く、生臭い。雑菌が繁殖して悪臭を放っている溶液に、生ごみを混ぜ合わせたかのような、ツンと痛みを覚える程の激臭。あまりに酷い臭いに思わず、私は顔を背けた。見れば、皆も私と同様に顔を背けて液体を見つめていた。
「何をしたんだ?」
「表示が掠れて分からないから、どれがガソリンなのかを調べる為に……」
「……ってことは、これってガソリンなのか?」
何て危険なことを、一歩間違えれば引火の危険性があるのに……と、私は思った。
「……いや、これ、本当にガソリンなのか?」
だが、すぐに私は考えを改めた。と言うのも、床に広がっているガソリンと思わしきこの液体。どう贔屓目に見ても、私の知っているガソリンのものではなかった。
ガソリンも、腐ったりするのだろうか。いや、この場合は劣化か。灯油だって劣化するし、実際に見たことはないが、ガソリンも例外ではないのかもしれない。
「それが分からなかったから、試しにちょっとだけ床に垂らしてみようってことになったんです」
「分からないって、液晶パネルも何もないの? それがなくても、何かしら分かるように印字されていたりするでしょ」
「古いタイプなのか付いていないんですよ、パネル。それに、文字も掠れて全然読めなくて……」
尋ねてみれば、私と同じく顔をしかめている別の女性が説明をしてくれた。そんな馬鹿なと思って確認してみれば、先ほどは気付かなかったけれども、本当だった。
今では当たり前の液晶パネルは、付いていない。ガソリン・ハイオク・軽油のものらしき給油ノズルが三つ付いているが、見分けが付かない。塗装が剥げ落ち、印字も消えて、汚らしくなっているせいだ。
よく見れば、機械そのものにも、至る所に埃が被っている。オイル汚れと思わしき黒い跡も付いている。やはりそちらも塗装が剥げていて、剥き出しになっている金属部分は例外なく赤錆びで覆われている。オンボロ小屋とそう変わらないぐらいの月日を感じさせる、酷い状態であった。
……なるほど、心配になるわけだ。
仮に私が給油機の方を触っていたら、おそらく常田と同じ行動を取っただろう。いや、もしかしたら気にせず給油作業をして……車のエンジンを壊していたかもしれない。
(しかし、使えないのなら使えないと、何で教えてくれなかったんだ?)
そうして考えてみて、私は沸々とした怒りが湧いてくるのを実感した。脳裏を過るのは、先ほどの男。おそらく……いや、確実にあの男は、このGSが使用出来ない物であると知っていたはずだ。
何を考えているのか分からなかったあの無表情が、途端に憎らしく思えてくる。内心、ほくそ笑んでいたのかもしれない。そう思うと居ても経ってもいられなくなった私は、一言怒鳴りつけてやろうと小屋へと振り返り――。
「……あれ?」
――ふと、茶髪の彼女が居なくなっていることに気付いた。そして、『小屋』のガラス越しに見えたあの男の姿もなくなっていた。
――スポイトで垂らされたかのように、私の中で不安が湧き起こった。
先ほど、小屋の前にいたはずなのだが……辺りを見回してみても、見当たらない。気になって、女性陣の一人に尋ねてみたが。
「さあ、トイレにでも行っているんじゃないですかね?」
あっけらかんとした様子で、そう返された。
いやいや、だとしても一声ぐらいは掛けて行くだろう。先ほどの男の件もあるし、いくらなんでもそこまで不用心な行動は……と続けたが、彼女たちは気にも留めずに常田たちへの雑談に興じ始めた。
その姿に、私はしばしの間呆気に取られた。
(何だ、この人たち……友達がいなくなったのに、心配一つしないのか?)
今時の子は、こうまでドライな考え方をしているのだろうか。私の若い時には考えられないことだ。皆の様子も見やるが、誰も気にした様子は……いや、違う。『私の友人たち』は、私の言葉を聞いて心配そうに辺りを見回していた。
だが、肝心の『彼女の友人たち』は、本当に気にも留めていない様子であった。「いや、でも一人で動き回るのは……」気を利かした須藤が、話をそちらに持って行こうとする。
「さあ、トイレにでも行っているんじゃないですかね?」
だが、無駄だった。先ほどと一言一句変わらずに口を揃えた彼女たちは、「ところで――」雑談を再開する。ここまで来ると、さすがに変だと私は思った。
まるで、意地でもその話題に触れてほしくないかのようにすら感じ取れる。そして、どうやら不審に思ったのは私だけではない。状況の危険性に気付いた皆も、彼女の安否を口にし始める。
けれども、それでも、『彼女の友人たち』は誰一人耳を貸さない。私からも、不審な男を見たからと説得しても、「大丈夫ですから」の一点張りで考えを変えない。頑なを通り越して、異常なまでに彼女たちは大丈夫だと繰り返した。
(この人たちは……)
異常だと、私は思った。どこか普通じゃないと、私は思った――その瞬間。
(この人たちと、一緒に行動するのは良くないかもしれないな)
私の中に……彼女たちに対する不信感が芽生えた。と、同時に、私ははっきりと……足元から這い上がってくる恐怖を実感していた。
何に例えればいいのか、何が近しいのか、何を考えてしまったのか。想像しがたい異質な感覚に、私はいても立っていられなくなってしまいそうだった。
それは、皆も同様のようであった。若い子に囲まれて少しばかり良い気になっていた須藤も、「えっと、それじゃあ僕たち、もう行くね」尻ごみした様子で私たちの車に戻って行った。釣られて、皆も口々に理由を告げて車へと踵を翻し始めた。
本当なら、私もそうしたい。小走りで掛けて行く須藤の背中を思わず睨む。しかし、私は皆のようにさっさと戻れない理由……というか、心残りがあった。
それは、彼女と最後に会話を交わしたのが私だということだ。つまり、茶髪彼女の最後を見たのは、私だ。その事実が、チクチクと私の心に突き刺さって堪らなかった。
(せめて、無事が確認出来るだけでもいいんだが……)
例え彼女たちが『普通ではない』と分かっていても、こんな……よく分からない場所に放置して帰るのは、かなり後を引く。せめて、それさえ確認出来たら私は、心置きなく彼女たちから離れられるのだ。
……そう、思ったのがいけなかったのかもしれない。
「――あ、いましたよ」
真後ろから声を掛けられた私は、思わず肩をビクつかせた。振り返れば、先ほど皆の下へ行っていた彼女たちが……全員、私の傍へと来ていた。その向こうの車の方で、何をやっているんだと顔をしかめている皆と目が合った。
いったい、何時の間に?
そう思うと同時に、ショートカットの女性に「ほら、○○ちゃんだ」手を取られた。自分にはない、すべすべとして柔らかい温かさ。それに意識を向ける間もなく、背中に、傍に、女性陣が集まって、何とも言えない独特な匂いがした。香水の匂い、だろうか。
(な、なんだ急に……)
服越しとはいえ身体に触れる異性の柔らかさに、私はドギマギしてしまった。だが、それは喜びから来るものではない。今までそんな流れでも雰囲気でもなかったのに、どうしたことだろう。
唐突かつ大胆な触れ合いに目を白黒させる私を他所に、私の手を取った彼女は、グイッと私の手を引っ張る……その子が指で指し示した行き先は、先ほど不審な男が居た、あの『小屋』で――。
「きゃっ、どうしたんですか?」
「あ、い、いや、ごめん。いきなり手を掴まれたから、吃驚しちゃって」
――思い至った瞬間、私は反射的に彼女の手を振り払っていた。驚いて悲鳴をあげた彼女には悪いと思ったが、気にしている余裕が私にはなかった。何故なら……
「おじさん、○○ちゃんがいました……ほら、呼んでいますよ」
「○○ちゃん、おじさんのこと気に入ったみたいですね」
……振り払ったばかりの私の腕は、また別の女性によって捕まえられたからだ。しかも、今度は手を取る所ではない。自らの両腕を使い、谷間の中に挟み込まんばかりに抱え込んだのである。
今しがた出会ったばかりなのに。倍以上は齢が離れているだろう男の腕を、抱え込むように抱き締めて、そのままもたれ掛かるようにして自らの胸の中に引き込んだ。それを、両方共だ。そのうえ、最後の一人が私の背中に身を寄せて来た。
温もりが、全身を包み込む。状況が状況なら、鼻の下どころかかなり締まりの悪い顔をしていたことだろう。けれども、この時ばかりは違っていた。私の顔に浮かんでいるのは……焦燥感。はっきりと、それを自覚出来た。
――まるで、女の檻。
そんな言葉が脳裏を過ると同時に、気付けば私の身体は『小屋』へと向かっていた……いや、そうじゃない。がっちりと掴まれた両腕と、身体をぶつけるように背中を押す彼女が、私を小屋へと押しやろうとしている。
(は、放せ!)
それを理解した瞬間、私は叫んで……いや、叫ぼうとしていた。だが、出来なかった。どうしてか、私の唇は動いてくれない。そこだけが神経が取り除かれたかのように感覚がなかった。
唇だけじゃない。手も足も、言うことを聞かない。頭の中ではアラートが鳴っているのに、身体が答えてくれない。彼女たちに促されるがまま、私の足は強引に『小屋』へと向けられる。
辛うじて言うことを聞いてくれる首を動かして、彼女たちを見やる。彼女たちは、不安そうな顔をしていた。お化け屋敷に入る直前、このような顔になるのだろうという、見本そのものの表情をしていた。
――それが、私にはたまらなく不気味に思えた。
あまりに、その表情が『出来過ぎていた』からだ。恐怖を覚えた時に浮かべる顔をそのまま型に取って、はめ込んだかのよう。顔立ちは全員別々なのに、一人ひとりの顔に浮かぶソレは異様なまでにそっくりであった。
そうこうしている間に、どんどん『小屋』へと近づく。「おい、何をしているんだ、こっちに戻れ!」背後の方で、皆が私を呼ぶ声がする。返事をしたいところだが、接着剤で張り付けられたかのように喉が動かない。
――このままでは危険だ。
そう思ったが、何も出来ない。体格にモノを言わせて彼女たちの拘束をはね除け――られない。彼女たちの力が強いのではない……私が今、力が出せ……うっ!
そこまで考えた瞬間、ごつ、と脳天に痛みが走って、一瞬ばかり目の前で火花が散った。
何だと思うと同時に、ごかん、と何かが転がった音がした。そちらに目をやれば……目に留まったのは、ジュースの缶であった。
「木原! 早くこっちに来い!」
聞き覚えのあるその声が耳に届いた瞬間、私はハッと目が覚める感覚を覚えた。あれは確か、車に積んであったやつだ。気づけば、靄が掛かっていたかのように不明瞭であった身体の感覚も、戻っていた。
「――うあ、うああああ!!」
今を逃したら、もう次はない。
その言葉が脳裏を過った途端、私は叫んで、暴れていた。体格差にものを言わせて、取り囲んでいた彼女たちを跳ね除ける。視界の端で彼女たちが悲鳴をあげて転がったのが見えたが、構うことはない。
誰かを助けようなどと言っている場合ではない。自らの命には、代えられない。
純粋な危機感が、私を突き動かした。背後から私を呼ぶ声がしたが、私は振り返ることはせず、一目散に車へと走って……飛び乗るように車内に転がり込んだ。
一拍遅れて、扉が閉まる音がした。息を荒げつつも振り返れば、待ち構えていた須藤が扉を閉めていた。「窓のロックも掛けろ!」誰が叫んだのか、その声と共に、カチリ、とロックが掛かった音が車内に響いた……と。
がくん、と私は背中を引かれて尻餅をついた。常田が、アクセルを踏んだのだ。それも、かなりの勢いで踏み込んでいる。私がそれを理解した時にはもう、フロントガラス越しに見える景色が後ろへと流れていた。
その速さは、かなりのものだ。国道ならまだしも、左右に店が連なる商店街で出して良い速度ではない。「お、おい、いくら何でも出し過ぎだぞ」眼鏡を落とし掛けた飯高のやつも、常田に苦言を漏らした。
「――お前ら、気付いていないのか!?」
だが、常田から返されたのは……悲鳴染みた怒声であった。
「な、何がだよ」
「――化物だよ! 後ろの方に、化け物がいるんだよ!」
あまりの剣幕に怯んだ飯高に畳み掛けるようにして、常田が叫んだ。その言葉に、私はもちろん、須藤と飯高もビクリと肩を震わせた。必然的に、私たちは遠ざかって行く景色へと振り返り……一様に、言葉を失くした。
立ち並ぶ建物の、後ろ。そこに、そいつはいた。その姿を一言で言い表すのであれば、巨人だ。
だが、ただデカいだけではない。顔のパーツが、ぐちゃぐちゃと幼児の手でかき混ぜたみたいに渦状になっている。私の常識の中に有る『生物』というカテゴリーから外れたそいつは、渦状になった顔を私たちに……確かに、私たちに向けると……ニヤリと、気味の悪い笑みを浮かべていた。
「そっちじゃない! いや、そっちもだけど、俺が言っているのは、GSの方だ!」
しかも、しかもだ。ほとんど悲鳴に近い叫び声に、私は遠ざかって行くGSへと目をやり……一瞬、自分の頭から現実感が消えた。ふわふわと身体が浮く感覚……何だ、私は何を見ているのだ?
先ほどまで、そこには女性たちがいたじゃないか。女性たちしか、いなかったじゃないか。なのに、何だ? 何で、彼女たちは気付いていないんだ? どうして、振り返らないんだ?
いるじゃないか。君たちの後ろに、居るんだぞ。『小屋』から出てきたじゃないか。さっきのアイツが顔を見せているじゃないか。ぶよぶよと、人間の顔が飛び出している肉の塊が、出て来ているじゃないか。
肉が、ぶよぶよだ。ぬめっている、汁を垂れ流している。いるじゃないか、化け物が。いるんだぞ、化け物が。なんであんな……ナメクジのような化け物が後ろにいるのに――あ、気付いた。
――ギャァァァァアアアア!!!!
悲鳴だ。みんな、悲鳴をあげている。車内なのに、はっきりと彼女たちの悲鳴が聞こえた。ようやく気付いた彼女たちは、こちらが震え立つ程の凄まじい悲鳴をあげると、彼女たちがワゴン車へと飛び込んで――あっ。
肉塊も、動いた。ぶよぶよと、遠目からでも醜悪なそいつの腕が、車の中に入って――入って――飛び出したのは、悲鳴だった。
ギャアアアア、とか、ヒアアアアア、とか。もう、何て表現したらいいか分からない。人間が、そんな声を出せるのか。それが、人間の声なのか。そう思ってしまう程の……おぞましい叫び声が、ビリビリと私の……私たちの下へと届いた。
「――飛ばせ! 早く、もっと出せ! 行け! 行け行け行けぇぇええ!!!」
気づけば、私はそう叫んでいた。カタカタと、震えている。車が揺れているのか、それとも私が揺れているのか、分からない。ぐらぐらと、目の前が揺れていた。
これは夢なのか? そうだ、これは夢だ。夢に決まっている。でなければ、おかしいじゃないか。あんな化け物が、存在しているわけがない。平成だぞ、平成なんだぞ――あっ。
『何か』が、黒い影が、視界の端を横切った。反射的に振り返ったが、それに私が反応するよりも早く、その影はどん、と車の後部にぶつかった。
けれども、そのぶつかった影は車体から弾かれ……るようなことはなかった。まるで、飛び交う蝿のように車に平行して飛行している。羽も持たないそいつは、ぶつかったそいつは、私を見つめていた。
そいつは正方形の、顔の塊だ。サイコロの各面にそれぞれ顔を張りつけたかのような外見のそいつが、ジッと私を見つめている。6面の内の一つが……ガラス越しに私を見つめ、ニヤリと……気味の悪い笑みを浮かべた。
「あ、ああああ――」
誰かが、叫んでいる。振り返れば、力なくへたり込んで動けなくなっている須藤がいた。呆然とした様子ながら、その顔は……はっきりと、青ざめている。
「あああ、ああああ――」
誰かが、叫んでいる。振り返れば、傍目にも分かる程に総身を震わせている飯高がいた。もはやそれは痙攣という方が正しいと思えてしまうぐらいであった。
「ああ、ああああ、ああああ――」
誰かが、叫んでいる。誰かが、叫んでいる。誰かが、だれかが……いや、違う。誰か、ではない。叫んでいるのは、喚いているのは……。
「うああああ、うあああああ――」
目の前の、コイツだ。まるで私を……私たちを嘲笑うかのように各面に張り付いた顔が、一斉に叫んでいる。ニヤニヤと、気色悪い笑みを浮かべて、こちらを眺め――あっ。
と、思った瞬間。屋根の向こうから、そいつは来た。放物線を描き、砲弾のように飛び出してきたそいつは、びたん、と私たちの車を揺らし、張り付いた。そいつは、首から上が老人の……蜘蛛であった。
気付いてから、注意を促す余裕なんてなかった。ギャリギャリギャリ、と車が左右にぶれる。加速中に横からぶつかったのだ。あっ、と声を上げた時にはもう、私は何かに強く強かに頭を打ちつけた後であった。
意識の片隅で、みんなの悲鳴も聞こえた。ぎゃあ、とか、うわあ、とか。多分、私と同じように車内を転がったのだろう。
大丈夫だろうか、怪我はしていないだろうか。そんな言葉が、脳裏を過った……でも、それだけだった。そんなこと、気にしている場合ではないことに、私は気付いてしまった。
何故ならば、扉が僅かに開いていたのだ。どうやってかは知らないし、先ほどの衝撃で開いたのか、それともはずみでロック解除を押してしまったのかは分からない。
車に張り付いている蜘蛛の化物の腕が、車内に入って来た。猿の足を思わせる、毛深い足だ。それが、隙間に差し込んだモップのようにわさわさと動き、車内に滑り込もうと身体を蠢かせて――。
「うああああああ!!!」
――そこまで見ていた時点で、気付けば私の身体は動いていた。カッと、頭の中で爆発が起こった。早く、こいつを叩き出さなければ……それだけが何度も頭の中を反響する。私は、生まれて初めて何の手加減もせず……骨ごと砕くつもりで、入り込もうとしている毛深い脚に蹴りを放っていた。
――ぐぎゃあああ!?
蜘蛛の化物が、苦悶に顔を歪めた。
ぐにゃり、ぐにゃり。靴の裏から伝わってくる生暖かい弾力に、怖気が走る。見た目と違って思いのほか柔らかいのか、一蹴りするたびに芯が折れる感触と共に一本、また一本と、化物の身体が車外へと出て行く……そして。
最後の一本が車外へと出た瞬間、べりっと蜘蛛の化物が車体から剥がれ落ちたのが見えた。一拍遅れて、隙間の出来た扉を壊さんばかりの勢いで閉め、ロックを掛ける。間一髪、顔の塊が、どん、とガラスにぶつかった。
目が、合った。幾つもの目が、私を見つめていた。顔の塊は、何も言わなかった。笑い声もあげず、怒りを見せることもなく、ただ、ニヤニヤと。喜色の悪い、怖気が走る笑みを浮かべ続けたそいつは……静かに、後方へと下がって行った。
車の加速に、追いつけなくなったのか。あるいは、仲間……の身を案じたのか。
急いで確認した私の目に映ったのは、仰向けになって地面を横たわっている蜘蛛の化物。その周囲を飛び交う頭の塊に、そのはるか後方からこちらを見つめている巨人。そしてどこからかぞろぞろと姿を見せ始めている……異形の化物たちであった。
……化物だ。誰一人、何1人、人間の形をしているやつがいない。まるで映画の1セット。着ぐるみなのかと目を疑いそうな光景であった……だが、そう思える程、私は楽天的ではなかった。
誰も……何も言えなかった。私も、須藤も、飯高も、運転している常田も。ゴォォオ、と高速回転しているエンジン音が響く車内には、振動音だけがビリビリと肌を痺れさせている中で……私は、気付けばその場に尻餅をついていた。
(……彼女たちは、どうなったのだろうか)
ふと、私はそのことを思い出した。だが、今の私に確認する気力はなかったし……彼女たちの末路を想像したくなかった。そう思った途端、手足が重く、まるで水に浸かっているかのような感覚が、ドッと頭の中に入ってきて――。
……。
……。
…………名前を、呼ばれた。その声に、ふと、我に返った私は自らがソファーに横になっていることに気づき……顔を上げれば、そこには心配そうに私を見つめる……皆の姿があった。
「良かった、やっと目が覚めた」
「え?」
反射的に聞き返せば「……やっぱり、気絶していたのか」と、返された。
「座り込んだまま、動かなくなったんだよ。瞬きはするけど返事をしないから、あの時に頭でも打ったのかと心配していたんだ」
皆して私を見て、どうした。そう思うと同時に、飯高からお茶のペットボトルを渡された。「少し、飲んでいた方がいい」促されるがまま私はそれを一口飲んで……思わず、咳き込んだ。
別に、喉に引っかかったからではない。何気なく外を見て、先ほどまで夕陽が降り注いでいた外の景色が一変して……『夜になっている』ことに驚いたからだ。
いったい、どれぐらい私は気を失っていたのだろうか。気を失う前が夕暮れ時であったとはいえ、1時間やそこらではないだろう。
「えほ、えっほ……今、何時だ? 私は、どれぐらいこうしていたんだ?」
「たぶん、30分ぐらいだと思う」
「30分!? そんなはずは……」
「信じられないだろうけど、一時間は経っていないよ。急に、夜になったんだ」
飯高の話では、どうやらいきなり太陽が沈んで夜になったらしい。何を言っているのかよく分からなかったが、飯高の隣にいた須藤が青ざめた顔で肯いているのを見て……私は、言葉通りに受け取った。
「時刻は……分からないんだ。どうしてか、持っている時計の全部の時刻がズレているんだ」
言われて、私はポケットに入れていた携帯と腕にはめている時計を見比べる。確かに……時刻がズレている。5分10分所ではなく、数時間も違う。外の暗さを考えれば、おそらく両方とも違う。
それじゃあ、最も近しいと思われる時刻を指し示している時計ならば……とも思ったが、すぐに首を横に振られた。「たぶん、ここは時間の流れが普通と違うんだ」はっきりとは語らなかったが、その言葉で私は察した。どうやら……他の時計も、信用に値するものではないようだ。
重い身体を何とか起こして、立ち上がる。大丈夫かと手を貸そうとしてくれる二人に手を振ると、私は改めて外を見つめる。すっかり辺りは真っ暗になっていたが、点々と設置されている照明(明かりが点いていなければ、照明には見えない外観だが)のおかげで、ある程度街並みを確認することは出来た。
見た所、車が走っている場所は先ほどの商店街らしき場所ではない。色々と気味の悪い物があったりするが、もしかすると住宅街か何かなのだろうか。それにしては人通りが全くないことに――いや、止めよう。
脳裏を過った異形な者たちの姿に、私は慌てて首を横に振った。
ここは、私たちが住んでいた世界ではないのかもしれない。漠然と……そんな言葉が脳裏を過った。振り返れば……たぶん、似たようなことを思い浮かべている。そんな顔を、皆はしていた。
……自然と、ため息が零れた。
ああ、疲れているなあ。そう、自覚する。持っているお茶を一口飲んで、助手席へ。運転の邪魔をしないように気を付けながら席に腰を下ろし……「帰られそうか?」常田へと、話し掛けた。
「……正直、分からんとしか言いようがない」
常田の返事は、私以上に疲れ切っているように思えた。そんな、声色をしていた。
「進んでも進んでも、町の外に出られない。外から見下ろした時、この町はそれほど大きなものじゃなかった。あの時見た光景が本当なら、俺たちはとっくに町の端に到着して……そのまま、外へ出ているはずなんだ」
「と、言うと?」
「さっき冗談みたいなものが見えたが、それ以外は同じ光景が続いている。山から見下ろした光景と比べて、明らかに町の中が広い。まるで、町そのものが変形しているかのようだ」
「……そうか」
冗談みたいなものとは、何だろうか。気になったが、苦笑どころか失笑すら見せている常田の様子を見て、尋ねるのは止めた。本当に、『冗談みたいなもの』なのだろう。
黙っていると、そのまま常田は私が気を失っている間のことを教えてくれた。
どうやら、あの後一度だけ化け物どもに襲われそうになったらしい。その時はどうも『明かりが点いている建物』で、『人間が中に入ってゆく』のを見たから車を止めたらしい。
けれども、『いくら何でも怪しくないか?』という疑念が皆の中に湧いたらしい。なので、一旦車を止めて様子を伺おうと決めて……ほんの数分の間に、どこからともなく化け物が集まって来たのだと言う。
その時はすぐに車を発進させたので何事も無く済んだらしいが……その時から、全く車を止めていないと常田は続けた。
それを聞いた私は密かに安堵する。とりあえずは、車を走らせている限りは今の所安全なのだという事が分かったからだ。と、同時に、気になった点を尋ねた。
「後、どれぐらい持つ?」
「さあな、時間がはっきりとしないから何とも言えないが……少なくとも、後数時間も走れば、今タンクに入っている燃料は空だ」
その事実に、私は……しばしの間、何も言えなかった。現状、あのGSは使えない。他にもGSがあるのかもしれないが……とてもではないが、立ち寄れる状況ではない。というか、立ち寄れたとしても下手に給油できるのだろうか。
(このまま走り続ければ、いずれは動けなくなる……か)
走り続けている、というところで薄々感付いてはいたが、やはり、そうなのだと……改めて突き付けられたような気がした。少しでも気を紛らわそうと反射的にラジオスイッチへと伸びた手が、寸でのところで止まる。
脳裏を過ったのは……ここに来る直前に聞いた、あの時の謎の声。それを思い出した時点で気持ちが萎えた。「ラジオは、今は止めてくれ。少しでも外の音を拾えるようにしておきたい」常田からの忠告もあって、私は外へと視線を向ける。今の所、私が確認出来る範囲には化け物の影は見えなかった。
(予備は二つ……か)
燃料の予備タンクは、俯いている須藤と飯高の、その後ろ。シャワールーム(実際に、シャワー設備は無いが)の隅に並べられている。それを足せば、さらに数時間は走れるだろう。
しかし……それをする為には、一度外に出る必要がある。加えて、エンジンを一度切らねばならない。それは……あまりにも危険な行為だと、私は率直に思った。
あの異形な化け物の目的や、行動の意味は分からない。だが、強引に車内に入ろうとしたことや、走行中の車に飛び掛かってきた辺り、好意的かつ友好的なものでないのは明らかだろう。
しかし、このまま行けば一度は車を止める必要が出て来るだろう。少なくとも、この『町』を出るまでは車を止められないのだから、いずれ燃料切れを起こすのは確実だ。
武器は……調理用の包丁が数本ぐらいか。後は傘が人数分だが、そんなものは数に入れられない。防具になりそうなものは……雑誌が数冊、それしか思いつかない。
(……そういえば、彼女たちはあの後どうしたのだろうか?)
最悪の時を考えていると、ふと、その事が脳裏を過る。何だか、女のことばかり考えてしまうなあと、思わず苦笑が零れた。
皆に尋ねようと思ったが……止めた。想像したくもない光景を想像してしまったのと、それをみんなに尋ねるのは……あまりに酷いことだと思ったからだ。少なくとも、私が尋ねられた側なら……大なり小なり気分を害していただろうから。
(……無事でいてくれればいいんだが)
下心抜きで、切に願う。彼女たちは明らかに普通ではなかったが、それでも死んでほしいとは思わない。今も耳にこびり付いている彼女たちの悲鳴が、彼女たちの最後の言葉だとは、想像したくなか――。
「――っ!?」
瞬間、私は……言葉には出来ない、強烈な悪寒が背筋を走って行くのを感じ取った。思わず、振り返る。「ど、どうした?」急に動いた私に驚いたのか、後部にいる須藤と飯高もそうだが、運転している常田からも不穏の眼差しを向けられた。
車内に、緊張感が満ち始めたのが自分でも分かった。皆が、ちらちらと車外の様子を確認し始め、私に何かを見たのかと尋ねて来る。けれども、私は……皆からの質問に答えることなく……後ろを見つめ続けた。
(何だ……?)
不思議としか、言い様がない気分であった。何故か、急に『怖くなった』のだ。『恐ろしくて』、振り返ってしまった。
何かが見えたわけでもないし、聞こえたわけでもない。だが、どうしてか……『何かを恐れている自分』を自覚する。今にも身体が震え出しそうな感覚を、私は覚えていた……と。
ぞくぞくぞくぞく……と。これまで以上の悪寒が背筋を走った。一気に冷や汗が噴き出るのが分かった。あまりに激しく訴えかけるソレは最早痙攣という程で、背筋が吊ったのか鈍い痛みがピリリと……その、直後。
(……悪寒が、消えた?)
今度は、ソレが消えた。初めからそんなものは無かったのさと疑いを持ってしまうぐらいに突然、ソレがなくなった。いったい何だったのか……あまりの急激な感覚の変化に、私は目を瞬かせた。
――途端、がちゃり、と異音が車内に響いた。
その音に、私はもちろん、皆が一斉に目を見開き、一斉に……開錠された扉へと目を向けた。確かに、閉められていたはずなのに……瞬間、須藤と飯高が声なき悲鳴をあげて私のすぐ傍まで退いて来た。
何だ、と警戒する間も無かった。あっ、と思った時にはもう扉は開かれて――車内に、影が入り込んだ。「ひっ!」その悲鳴を上げたのが誰かは分からない。だが、その悲鳴に釣られて私も悲鳴を――あげようとしたが、それが表に出ることはなかった。
(こ、子供……?)
何故なら、鍵を開けて車内に侵入してきた者の出で立ちが……巫女服らしきモノを身に纏った年若い女の子であったから。加えて、その子は物珍しく車内を見回している。その姿がまるで、初めて都会に出てきた子供のように見えて……少しばかり、気持ちが落ち着いて行くのが自分でも分かった。
「そこの。これ、そこのお主ら、そんなところで震えていないで、こっちに来い。ちと、お主らに頼み事があるのじゃ」
途端、ソレを見計らっていたかのように女の子から話し掛けられた。たったそれだけのことなのに、どこか安堵している自分が情けない。いつの間にか握り締めていた座席から、手を離した。
「あ、あんた……人間、なのか?」
けれども、私の身体はまだまだ固まっていた。何とか絞り出した声は、それが自分の声とは思えない程に頼りなかった。
「ん? ワシがただの人間に見えるかのう? まあ、この身体は人のそれじゃがな」
「え、あ……ああ……」
人間じゃない。そう暗に言われた瞬間、『何が目的なのか』と続けようとした喉が引き攣った。どうしてこう、私はすぐに気を抜いてしまうのか。安堵した自分を、罵倒したく――。
「ところで……酒はあるかのう?」
「……へ、え?」
――なった瞬間、その子から続けられた言葉に……私は、何を言われたのかしばし呑み込めなかった。
そうしてから、新たに姿を見せた(裸で現れたのには驚いたが)少女が乗り込んできて。言われるがまま車を止めて(最初は車を止めることに私はもちろん、皆も反対した)、幾しばらくの時間が経った。
不安は、当然ながらあった。だが、『絶対に大丈夫だから』と強く言われ、実際に化け物たちが遠巻きにしながらも近寄って来ないことが分かり……私たちは、彼女たちの指示に従うことを決めた。
そうして、車内には素っ裸で身体を洗う金髪の外人の女の子の鼻歌と、美味そうに酒とツマミを堪能している黒髪巫女服の女の子。そして、注意深く車外を監視している私たちという……何とも奇妙な状況が生まれていた。
けれども、嫌な感じはない。そして、先ほど……この子たちが現れるまでに車内に満ちていた緊張感が、解れてきている気がする。何故かは分からないが、この子たちを見ていると……自然と、私はそう思えた。
大きく息を吐いた私は、強張った肩を回して解す。見れば、皆も同じように考えていたのだろう。思い思いに身体の力を抜き、リラックスしているようであった。
(この子たちは何者なのだろうか)
ふと、今更な疑問が頭を過る。少なくとも、『普通の女の子』ではないのは確かだ。
その恰好も(巫女服の子に至っては、よく見れば角が生えている)そうだが、立ち振る舞いが子供のそれではない。落ち着き払っていて、こんな場所にいるというのに余裕が見て取れる。あまりに、堂々としている。
走行中の車に乗ってくるのもそうだが、この子たちもまた、私達の常識の外にいる存在なのだろう。それだけは、何となく分かる。化け物たちに感じた、あの異質な感覚を二人からは感じ取れないから……警戒しなくても大丈夫か。
……そうして考えてみれば、だ。
私たちは彼女たちの名前を知らない。互いの自己紹介すらしていない。それに思い至った私は、「ちょっと、いいかな?」車を止めてから初めて、自分から声を掛けた。
「その、私たち……いや、僕たちはまだ自己紹介をしていないよね。とりあえず、名を名乗ってもいいかな?」
私にも子供が二人いる。だが、2人とも男だ。女の子……それも、年頃の女の子とまともに会話をしたことなんて、子供の時以来だ。少々、緊張してしまった。
「それでは、ワシは耳を塞ぐ。終わったらワシに合図をするのじゃ」
「え、あの……」
でも、まさか。そんな返事をされるとは思っても見なかった。
「そういうものじゃ。ワシに名を伝えるのも、尋ねることもしてはならぬ。そして、ワシに向かって名乗るのも教えるのも駄目じゃ」
とはいえ、そう言い切られてしまえば……もう、それ以上を尋ねることは出来なかった。皆も私と同じように首を傾げていたが、それだけだ。ここは勇気を持って尋ねてみるべきかとも考えたが、何やら言い争い(というより、じゃれ合い?)を二人が始めたので……止めた。
そうこうしている内に、言い争いの決着は付いたようだ。どちらが勝ったのかは、会話を聞いていなかったので分からないが、「良いぞ」耳を塞いだ巫女服の子に促された私は……ひとまず、自分の名を伝えた。私に続いて、皆も自己紹介をし始めた。
「秋永・ソフィア・スタッカードと言います。見ての通り人間ですので、そんなに怖がらなくても大丈夫ですからね」
そして、一通り私達が自己紹介を終えると。今度は金髪の子……ソフィアちゃんが自己紹介をしてくれた。自己紹介をする前に、恰好をどうにかしてほしいんだけど……恥ずかしくないんだろうか?
(なあ、あれぐらいの歳の子って、まだ羞恥心は薄いのか?)
(いやいやいやいや、そんなわけがあるか)
私たちの中で娘を持つ須藤と常田に尋ねれば、二人は勢いよく首を横に振った。やはり、あの金髪……ソフィアちゃんが特別そうであるようだ。納得して振り返れば、耳を塞いでいた方の子が再びビールに手を伸ばしていた。
……黙っていれば、二人は気にした様子も無い。どうやら、こちらから話し掛けない限り、二人は特別私達と交流を図ろうとは思っていないようだ。
「えっと、二人は……その……」
とりあえず、何か話をしなくては。その一心で、私は二人に再び声を掛ける……が、言葉が出てこない。何か話題はないかと私は皆へと振り返ったが、返されたのは、私と同じぐらいに頼りない視線だけであった……と。
「露出スポットを探す為に走り回っていたら、ここに来ちゃいました!」
私たちが何かを言う前に、ソフィアちゃんがココに来るまでの経緯を簡単に教えてくれた。
……。
……。
…………え!?
思わず、私達はソフィアちゃんを見つめた――直後、彼女の恰好に慌てて巫女服の子に視線を向ける。冗談だろ、と思って見つめていると、その子は……深々と、ため息を零した。
「ほ、本当なのかい?」
「そやつ、中々の好き者でのう」
好き者……あ、ああ、そうなのか。
正直、掛ける言葉が思い浮かばなかった。
「ところで、お主らはどうしてココへ?」
すると、その子はそう言って話題を変えてくれた。私たちはこれ幸いにと、これまでの経緯をその子に伝えた。途中、『きゃんぷ?』だとか、『きゃんぴ……きゃんぴんぐかー?』だとか、説明に齟齬が生まれ掛けた。
でも、何とか納得して貰えるような説明を終えることが出来たのか、その子は唸り声を上げつつも、幾度となく頷いて……不意に、口を開いた。
「お主ら、帰りたいか?」
「――帰られるんですか!?」
瞬間、私は声を荒げていた。その直後、こんな少女に声を荒げてしまったことに気付いた私はもちろん、皆が思わず口元を手で覆う。「ここで会ったのも何かの縁じゃ」幸いにも、その子は気分を害した様子はなく、落ち着くよう逆に促されてしまった……ああ、恥ずかしい。
そうしてから、その子から語ってもらった話では、だ。
どうやら、私たちが居るこの場所は、『異界』と呼ばれる、私達が暮らしていた世界とは全く別の世界であるらしい。
そして、この世界を脱出するには、『出口』を見付ける他ないらしく、とにかくそこを見付けなければどうにもならないのだと話を続けた。
「ここまで来る途中に、『出口』と書かれた看板か何かを見掛けなかったかのう? あるいは、それに近しい言葉か、それを連想させる何かを目にしたか?」
尋ねられて、私は皆と顔を見合わせた。少なくとも、私の記憶にはそれらしいモノは何もない。誰かが見ているだろうと思って期待したが……皆も、似たような面持ちであった。
「心当たりはあるか? 」
「有ったら、すぐに話しているよ」
藁にも縋る思いで尋ねてみれば、返ってきた答えがそれであった。そりゃあそうだ、と私は皆の顔を見てため息を零し……ふと、神妙な面持ちとなっている常田を見やった。気づいた皆が常田に視線を向ければ、当の常田は「そういえば……いや、でもなあ」言い難そうに頭を掻いた。
「――そうだ。確かお前、冗談みたいなものを見たって言っていたな」
それを見て思い出した私は、常田に尋ねた。そういえば、何を見たのかは常田の口からは聞いていない。けれども、何で黙っているのか……そのことを、私は改めて問い質した。
「いや、だってさ。『現実』って文字と矢印が書かれている建物を見たってだけだぞ」
すると、常田はそう答えた。
……冗談みたいなもの、か。こんな状況でそんなもの見ていたら、まあそう思うだろう。けれども、私の言葉に飯高と須藤の目の色が変わった。
「おいおい、黙っていたって事態は好転しないよ。少しでも思い当たるモノがあるなら、言ってみればいいじゃないか」
「そうだよ。駄目で元々、外れて元々。黙っているよりは、ずっといいよ」
「……それもそうだな。黙っていたって、何も始まらないか」
私はもちろん、飯高と須藤の言葉に勇気が出たのか、常田はそう言い残してその子の傍へと歩み寄る。次いで、その子にぽそぽそと話しかけ――て、すぐ。
「それじゃ、それが『出口』じゃ! 何じゃお主ら、もう『出口』を見付けておったではないか!」
その子は、笑みを浮かべて幾度となく頷いた。その喜びように、私達は喜ぶ前に思わず驚いてしまった。いち早く我に返った常田が、自身無く話を続けた……のだが。
「落ち着いて、よく考えい。お主ら、ここへ来てから……読める文字を一度でも目にしたか?」
その言葉に、常田はもちろんのこと、後ろで話を聞いていた私たちは納得した。言われてみれば、そうだ。この町に来てから、『日本語』を一度も見掛けていない。
「そういうことじゃ。それに、他に手掛かりがない以上そこへ向かうしかあるまい……そこへの道は覚えておるかのう?」
「――あ、ああ、大丈夫だ!」
はっきりと、常田が頷いた。その力強い応答に、私は……その場にへたり込みそうになった。けれども、寸でのところで持ち堪える。さすがに、これ以上情けない姿は見せたくない。
何か、私に出来ることはないだろうか。
振り返れば、須藤と飯高の二人が、何処からか取り出した紙切れを広げていた。気になって覗いてみれば、そこには地図らしき何かが描かれていた。
即席らしく、線はヨレヨレ、最低限目印になる物と、通り過ぎて来た交差点の数ぐらいしか書かれていない。何時の間にそんなものを作ったのかと聞いてみれば、どうやら私が気絶している間に作った物らしかった……と。
「――燃料が、足りないかもしれない」
地図を見ていた飯高と須藤が、口を揃えてそう言った。その声は、傍目にも分かる程に震えていた。私も、その事実を認識した瞬間、背筋に震えが走るのを抑えられなかった。
「ど、どういうことだ? そんなに距離があるのか?」
思わず、私は問い質す勢いで二人に尋ねれば、「予備のタンクを使えれば、大丈夫なんだ」泣きそうな顔で須藤が答えてくれた。それを聞いて私は、「何だ、足りるのか」何を大げさなと安堵のため息を零し……ある事実に思い至り、ひゅっ、と喉を鳴らしてしまった。
「……どういうことじゃ?」
私達の会話を聞いたのか、巫女服のその子は首を傾げて尋ねてくる。私以上に青ざめた様子の二人は、互いに顔を見合わせる。そして、自らを落ち着かせるかのように二人は何度も深呼吸をすると、その子に理由を話した。
「はあ、そうか。ソレは……大変、なのじゃのう?」
分かっているのか、いないのか。その子の反応は、そんなものだった。
(とにかく、何とか出来ないものか……!)
そう尋ねてみれば、無茶を言うな、と返された。常田に聞いてみたが、省エネ運転でどうにかなる距離ではないらしい。と、なると、やはり一人は車外に出て作業をしなくてはならない、ということか。
(……危険すぎる)
本気で、私は頭を抱えたくなった……と、思ったら。「埒が明かんのじゃ」巫女服のその子は、懸念をあっさり切り捨てると、いつの間にか身体を洗い終えて髪を拭いている……ソフィアちゃんの下で、何やら話し合いを始めた。
……何やら、『加護』だとか『壊す』だとか物騒な会話が聞こえるが、いちおう、対応を考えていると思っても良いのだろうか。迂闊に口を挟んでよいものかどうかすら分からないから、黙って見守るほかなかった。
「はあ、やれやれ……面倒じゃな」
話し合いは、すぐに終わった。深々とため息を零したその子は、私達を見てもう一度ため息を吐いた。次いで、その子が出した提案に……私たちは驚きに一瞬言葉を失くした。
どうやら、巫女服のその子が給油作業をすると言うのである。いくら『普通の女の子ではない』とはいえ、私は強く反対した。もちろん、皆も反対した。あまりに危険すぎる行為であるからだ。
けれども、その子は私たちの意見に耳を貸さなかった。何時の間に見つけ出したのか、ソフィアちゃんが持ちだしてきたタンクを受け取ると、私達の制止を聞かずにさっさと車を降りてしまった。
「それじゃあ、エンジンを切ってください」
「え、あ、あの」
「早く、無駄に燃料を使う余裕はないんでしょう?」
あまつさえ、ソフィアちゃんからそう指示されてしまった。私たちの視線までもを一身に受けた常田が、困ったように……心から困惑した様子で私たちを見つめてくる。
(……切るしかない)
言葉には、出さなかった。けれども、それで通じたのだろう。覚悟を決めた様子の常田は、エンジンキーを掴んだまま深呼吸を2回した後……静かに、エンジンを切った。そして、給油口を開けた。
かこん、とロックが外れた音を最後に、シン、と静寂が車内に広がった。既にライトは落としていたから明るさそのものは変わらないが、気分の問題なのだろう。まるで、真っ暗闇の中に取り残されたかのような感覚を覚えた……いや、違う。
車から少し離れた所に、やつらがいた。アイドリングすら停止したのを見て、好機と思ったのか。瞬く間に姿を見せた数十にも達した化け物たちの視線が、まっすぐ私たちの方へと向けられていた。
「うっ、おっ、おう……」
位置的に化け物たちから一番近い場所(とはいえ、たった少しの違いだが)にいた常田が、驚いて運転席に尻餅を付いた。私たちも、思わず身構える……と。
「あ、考えてみたら、あの人給油作業なんてしたことないんじゃ……しょうがないですね」
「えっ」
「言っておきますけど、絶対に外に出ないでくださいよ。今、外に出たら後悔する間もなく即死してしまいますからね」
待て、と呼びとめる暇はなく、そう思った時にはもう扉は閉められ、ソフィアちゃんは特に気負いする様子もなく車を降りてしまった。後に残されたのは、この場では無力でしかない私達だけ。しかし、だからと言って、二人を危険に晒す言い訳には――。
ぐぎゃぁぁあああ!!
――ならない、そう思った瞬間。今しがた閉められた扉の向こうから、野太い閃光が迸った。それはまるで、四方八方に広がる光の花火。あまりの力強さに思わず顔を背けた私の目に映ったのは……レーザーが如き閃光を浴びて弾け飛ぶ、化け物たちの姿であった。
誰がやったのか。その答えは、レーザーが消えると同時に、弾丸のように飛び出してゆくソフィアちゃんの姿が現していた。立ち尽くす私達を他所に、ソフィアちゃんは阿鼻叫喚(たぶん、そんな感じになっているのだろう)の化物たちへと迫ると……一方的な虐殺を始めた。
……。
……。
…………言葉が出ないとは、こういう心境を差すのだろうか。呆然と……呆然としているということが何故か分かる、不思議な感覚の中で、私は……化け物たちを文字通り瞬殺していくソフィアちゃんの姿を見ていた。
「……本当に、人間……なんだよね?」
ポツリと、そんな感想をブツブツと零しているのは、誰だろう。考えることが出来なくなっている私を他所に、区切りを付けたらしいソフィアちゃんは、一蹴りで私たちがいる車の上に飛び乗ると。
『それじゃあ結界を強めますんで、外に出ないようにしてくださいよ!』
それだけを告げた。次いで、『なあ、これで合っておるのか?』外からあの子の声が響いた。『万事宜しい、そのまま溢れない程度に少しずつ入れてください』大して、ソフィアちゃんの声も響いた。その二人の声に、遠巻きからこちらを見て来ている化け物たちが……ビクビクと痙攣しているのが、私達の目からでもはっきりと分かった。
……。
……。
…………えっと、これは。
「と、とりあえず……私たちが出来ることをしようか」
振り返れば、私と似たような表情を皆が浮かべている。そんな皆の顔を見て、私は漠然と、それでいて確信めいた予感を覚えずにはいられなかった。
(私たちは……助かる)
そして、その予感は……的中した。
……。
……。
…………照明を少しばかり残したまま、ベッドに倒れ込む。真っ暗は、思い出してしまうから辛い。特に口に出したわけではないが、同部屋となった常田も同じ気持ちなのだろう。私より少し早くベッドに入ったのだが、照明を落とそうとはしなかった。
(……夢では、ないんだよな?)
枕に顔を埋めたまま、ぼんやりとこれまでの半日を振り返る。そう、時間にして、半日。私たちがあの世界にいたのは、たった半日のこと。しかし、確かに私たちはあの場所にいたと言う事を理解させられる。
……とてもではないが、半日の感覚ではない。3日はさ迷ったかのような気分で、手足が重い。でも、どうしてか、妙に目が冴えて仕方がなかった。
疲れすぎているせいだろうか。眠たいという感覚は、はっきりと分かる。だが、見えないダムでせき止められているかのように、眠気が一定のラインを超えない。
……。
……。
…………ぼんやりと天井を眺めていると、ふと、思い出すのは……『あの世界』に囚われてしまっている、彼女たちのことであった。
あの時、どうして私は扉を開けようとしたのだろうか。ソフィアちゃんは『そう思わされただけですよ』と、私のせいではないと話していたが……果たして、本当にそうなのだろうか。
あの時……私は、何を思って扉を開けようとしたのだろう?
思い返そうとするが、どうしてもその瞬間のことをはっきりとは思い出せない。ただ、『開けなければならない』という思いだけで動いていた……思い出せるのは、それだけだ。
あの子たちの話を信じるのであれば、私は彼女たちによって『あの世界』に引き込まれようとしていたのだろう。そして、引き込まれた私は、彼女たちと同じように『あの世界』に囚われて……囚われて?
……。
……。
…………もしかしたら、逆ではないのだろうか。
考えてみたら、だ。どうして彼女たちは……あの子たちを恐れなかったのだろうか。化け物たちは、あの二人を恐れて……そう、恐れていた。だから、あの二人がいたおかげで、私たちは無事に『あの世界』を脱出することが出来た。
しかし、彼女たちは違った。他の化物たちとは違い、遠巻きに見つめることすらせず近づいてきた。それは、何故だろう。
既にそんな自我すらなく、プログラミング通りに動く肉人形でしかなくなっていたからなのか。あるいは、化け物たちとも違う、全く別の存在へと成り果てていたからなのか。
あるいは……例えあの二人に殺されたとしても、彼女たちは『あの世界』から逃れようとしていたのではないだろうか。彼女たちの中に残された彼女たち自身が、延々と同じことを繰り返すことを止めて貰おうとしていたのか。
そんな、気がしてならなかった。
……。
……。
…………でも、もう遅い。私に出来ることは何もないし、あの子たちも『あの世界』から去った。全ては過ぎ去ったことで、もうどうにも出来ないことだ。
――そう結論付けた途端、強い眠気が襲ってきた。
私は大きく欠伸を零すと、静かに目を閉じた。
……。
……。
…………仕方がないことだ。そう、私は己に言い聞かせる。
だが、命が助かったのだ。それから、短い間に様々なことが起こったが、私たちは無事に、私達の世界へと帰ることが出来た。
(――生きて、帰って来られた。それで、いいじゃないか)
それ以上を望んだところで、どうにもできないのだ。そう、私は何度も呟いて……呟い……。
……。
……。
…………スーッと、意識が遠のいていく。眠りに付く直前の、身体が浮き上がるような感覚。それに身を任せた私は、大きく息を吐いて――身を任せた。
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