第18話(表の下)口から入れた物は尻から出る。悪い事したやつも口から入れて尻から出す。上から流し込めば……神様だって、泣いて土下座するよね?
※最初に言っておきます。話のオチはかなり汚いです。比喩ではなく汚いです。
……。
……。
…………それから、さらに時間が進むこと、一時間ほど。
あっちでもない、こっちでもない。地味にズラされる方向感覚を修正しつつ、山を登り続けていると……不意に、周囲の景色に変化が現れた。
まず、雲一つない晴天が一気に暗くなった。山の天気は変わりやすいとはいえ、時刻はまだ昼を少しばかり回った所だ。日が落ちるには、あまりに早すぎる。
次いで、周囲の積雪が目に見えて少なくなり始めた。ここだけ雪が積もっていないというよりは、始めから雪など降っていないという方がしっくりくるぐらいに、白色の割合が減った。
周囲に広がる樹木の枝葉も、おかしい。ここに来るまでに見掛けた木々の大半は、葉が落ち切っていた。にょきっと伸びた枝にこびりつく雪が、何かの拍子に落ちるのを横目にしていたが……それもない。
そう、どの樹木にもしっかり葉が根付いていて、落ちる気配がない。それでいて、その枝葉のどこにも雪がこびり付いておらず……気付けば、鬼姫の周囲からは雪が消えていた。
……スサノヲの気配が、強くなっている。
それを強く実感した時、登りっぱなしであった道なりが、下りへと変わっていた。山頂へはまだ到着していなかったはずだが、これも箱から漏れだしている『力』の影響なのだろう。
ここはもう、鬼姫が昇っていた山ではない。箱より漏れだした『力』によって生み出された特殊な空間……『異界』とは違うが、ある種の閉じられた結界の中であるのを、鬼姫は感覚的に気付いていた。
(ふざけてはいても、三貴神の一柱か……月詠の苦労が察せられるのじゃ)
とすとすと剥き出しになった地面を踏み締めつつ、斜面を下る。途中、箱の影響を受けたと思わしき浮遊霊が、呻き声を上げながらぬるりと姿を見せたので……錫杖でぶっ飛ばしておく。
普段の鬼姫であれば『黒蛇』を放っているところだが、今の鬼姫は仮初とはいえ『正の力』を持つ『神』である。『負の力』をこれでもかと凝縮した『黒蛇』は、使う事が出来ない。
というか、下手に普段通りに術を使って元の状態に戻ってしまえば最後、箱と共鳴して……という事態に成りかねない。なので、面倒ではあるがいちいち錫杖でぶっ叩くぐらいしか出来ないのであった。
まあ……『正の力』を込めただけの一撃とはいえ、その威力は霊的存在に対しては一撃必殺。霊的存在でなくとも致命傷になりかねない威力なので、火力が足りないという事態にはなっていなかった。
(次から次へと、よくもまあ……どこに隠れておったのじゃ?)
だが、しかし。万の物量を持って押し寄せて来たとしても涼しい顔で跳ね除ける実力差があるとはいえ、だ。精神的な疲労……すなわち、苛立ちを覚えないかといえば、そうではない。
浮遊霊は次から次へと、何処からともなく姿を見せては鬼姫の元へと向かって来る。軽く舌打ちを零した鬼姫は、右に左に錫杖を振るって霊たちを薙ぎ払いつつ……先へと急ぐ。
この負幽霊たちは、『厄介なやつ』ではない。おそらくは箱に引き寄せられた、本来であれば無害な存在なのだろうが……箱と共鳴してしまっているせいで、その姿はおぞましいの一言となっていた。
人型を保っているのは、まだマシだ。
手足の数が増えていようが、目玉が片手に収まらない数になっていようが、身体中に顔が張り付いていようが、まだマシ。集まって来ている大半が、もはや原形が分からない有様となっている。
強いてその姿を言葉にするなら……無造作に人の手足が突き刺さったナメクジ、といったところだろうか。
箱より漏れだした『スサノヲの力』は、『正の力』でもなければ『負の力』でもない純粋無垢な『力』だ。それ故に、よほど強い自意識を保っていないと容易くその影響を受けてしまう。
霊感の有無に限らず、肉体を持つ人間ですらそうなのだ。肉体を持たない、剥き出しの霊魂でもある霊的存在が、そんな『力』を浴びれば最後……待っているのは破滅しかない。
(こやつらも、元は自然成仏を待つばかりの浮遊霊だったのじゃろうなあ……)
最初は、些細な願いだったのだろう。だが、欲望というものには限りというものがない。一つ叶えられれば二つを願い、二つが叶えば三つを願い……気付けば『力』に自我を飲み込まれ、姿形を保てなくなった。
おそらく、ここの浮遊霊どもは、そうやって今の姿(化け物)になってしまったのだろう。
結局は欲望に抗えなかった自身が悪いのだろうが……それでも、同情を禁じ得ない。数多の神々がスサノヲを恐れる所以を肌身に感じつつ、立ち止まることなく山を下り続け……唐突に、足を止めた。
「……? 変じゃな、ここに村があるとは地図に記されてはおらぬのじゃ」
何故かといえば、だ。樹木と樹木の隙間より見下ろした先に、集落というには些か規模が大きい、『村』と思わしき建物の数々や、田畑らしきものを幾つか見つけたからであった。
――まさか、人がいる? こんな場所に?
そんな馬鹿なと思いつつ、目を凝らしてみる。そのまま、しばしの間見つめた後……鬼姫は、ふう、と安堵のため息を零した。
建てられている家屋のどれもが、相当な年月を経ているのが分かる。どうやら、眼下の村は廃村になって久しいようだ……なるほど、木を隠すなら森の中、物を隠すのであれば物が点在する村の中。
廃村になるには、廃村になるだけの理由がある。交通の利便性もそうだが、ここに来るまでの労力を考えれば……箱を隠すには、これ以上ないぐらいに打って付けの場所だ。
……しかし、覚悟はしていたが、酷い臭いだ。
すんすん、と鼻を鳴らした鬼姫は軽く眉根をしかめた。眼下の廃村から、強烈な臭いが立ち昇っている。それは物理的なモノではない。箱より漏れだした『力』に引き寄せられた、欲望の臭いである。
普段の鬼姫ならまだしも、今の鬼姫には酷く堪えてしまう。とはいえ、そのおかげで……あの廃村のどこかに、『箱』が隠されているのが分かるのだ。仕方ないこととはいえ、お由宇がスサノヲをあそこまで嫌がる理由が……何となく分かるような気がした。
――やれやれ、さっさと事を済ませるとしよう。
はっきり言って、あまり長居したくない場所だ。そう思った鬼姫は、えいやと地を蹴って斜面を駆け下り……村へと向かった。
――中から見る廃村の風景は、やはり廃村という言葉以外は何も思い浮かばなかった。それは純粋に寂れているというのもそうだが、何よりも建物自体が酷い有様であったからだ。
まず、無事に屋根が残っている建物が一つとしてない。残っているようには見えても大穴が空いているのが大半で、中には完全に屋根藁が腐って屋台骨しか残っていない家もある。
また、吹きさらしというには些か言い過ぎだが、家屋の壁そのものが破損しているのもちらほらと。雨風を遮るにはあまりに頼りなく、カビやらが生えて真っ黒に染まっている家もある。
そのせいで、家屋として使われていたであろう建物と、家畜小屋として使用されていたであろう建物との判別が付かないのもある。まあ、全てがそうであるわけではないのだが、野宿するよりはマシだろうという建物ばかりであった。
その村の中を、鬼姫はえっちらおっちら練り歩く。
目的は、『スサノヲの箱』だ。外より見た時から想定していたが、やはり簡単には見つからない。箱より漏れだした『力』が、空間全てを埋め尽くさんばかりに村全体に広がっているせいだ。
言うなれば、探知能力を阻害する妨害電波で満たされているようなものだ。
面倒ではあるが目視による散策を行い、肉眼で箱を見つけ出さねばならない。故に、鬼姫はスキマだらけのおんぼろ家屋に足を踏み入れては、風化してぼろぼろの家具やら何やらを漁って探す他ないのであった。
手作業かつ一人作業なので、当然だが時間は掛かる。そのうえ、この廃村の中にも……どうやら、箱の『力』に感化されてしまった存在が、ちらほらといる。
此処が、外よりも『スサノヲの力』が濃いせいだろうか。現れるそれらの大半は理性も糞もない化け物(もはや、悪霊ですらない)と化しており、一部は肉体を形成し、鬼姫を目にした瞬間、襲い掛かってくる。
当然、鬼姫は撃退する。
肉体を形成していようが、霊的存在ですらない化け物と化していようが、鬼姫の前では大した違いはない……正直、箱よりもそれらの対処の方が面倒だと鬼姫は思っているのだが……まあ、いい。
いっそのこと、箱そのものが巨大であるならば楽なのだが、これまた腹の立つことに、箱そのものはけして大きくはないらしい。それこそ、箪笥の奥に転がっていても何ら不思議でもない、小さな箱だ。
下手に壊してお終いに出来ない以上、鬼姫の『力』はこの場においてはあまり有利には働かない。不本意だがソフィアを連れて来るべきだったかと後悔しつつ、作業を進め……気付けば、時刻は夜になっていた。
(やれやれ、半日近く探し回ってハズレてしもうたのじゃ)
村に足を踏み入れてから全く変化がない夜空を見上げた鬼姫は、ごきりと腰の骨を鳴らし、ため息を零す。時計を持っていないので正確な時刻は分からないが、感覚的にはもう夜だ。
夜ということはすなわち、腹が減るということ。いや、正確には空腹というより、何かを食べたいという欲求なのだが……まあ、とにかく休憩したくなってきた。
……考えてみれば、スサノヲが現れてから何だかんだと弾丸登山。体力的には平気ではあるが、精神的には一休みしたくなっても、何ら不思議なことではない。
ひとまず、休めるところを探そう。
そう判断した鬼姫は、箱の捜索を一端切り上げて休憩場所の探索を探すことにした。まあ、探すといってもおんぼろ家屋ばかりのこの廃村……どれを選んでも、そう違いはない。
……その中で、一軒だけ。村の中を歩き回っている鬼姫の目に止まったのは、他の家屋と比べればまだ破損具合がマシな、二階建ての家屋であった。
おそらくは、村の中での有力者の住まいだったのだろう。玄関扉……の引き戸を掴んだ瞬間、ばきりと板が少し割れてしまったが、作り自体は他の家屋と比べて上等なのは分かる。
しかし、入ってすぐのかまど(今でいう、台所)は、外観と同じく酷い有様であった。かまどの上部の壁に穴が開いている……雨風が(ここで雨が降るのかは不明だが)入り込んでいたのだろう。
放置されている、元は釜と思わしき赤黒い物体からは、何とも言い表し難い悪臭が嗅ぎ取れる。軽く錫杖で突いてやれば、ぼきんと端っこが欠けた……見なかったことにしよう。
室内は広く、他と比べて一回り……いや、二回りは確実に広い。土間の至る所に雑草が繁茂しているのは別として、屋根も小さな穴がぽつぽつと開いてはいるが……うん、良いなと鬼姫は思った。
土間を登って板の間……床へと上がる。ぎい、と軋む音に反応したのかどうかは不明だが、部屋の暗がり(まあ、部屋全体が真っ暗なのだけれども)より姿を見せる……蜘蛛と人間の融合体。
明らかに、そいつはまともな生物(霊的存在でもない)ではなかった。しかし、鬼姫は気にも留めずに部屋の中央……囲炉裏が有ったであろう場所に手をかざした。
途端、光が鬼姫の手より発せられた……一拍後。ごう、と炎が立ち昇った。「……まあ、燃えれば何でも良いのじゃ」ほのかに明るく照らされた鬼姫の頬が、ゆらりゆらりと揺らいでいた―ー瞬間。
蜘蛛人間が、動いた。本物の蜘蛛を思わせる動きで地を蹴って駆け出したかと思えば、子供の手で植えられたかのような不揃いな歯をむき出しにして、鬼姫へと迫った――が、しかし。
「向こうから薪が来てくれると、手間が省けて助かるのじゃ」
その歯が、鬼姫を噛み砕くことはなかった。何故ならば、にゅいっと何気なく伸ばされた鬼姫の腕が、突進してくる蜘蛛人間の頭を一瞬で砕いたからである。
次いで、断末魔一つ上げる間もなく絶命した蜘蛛人間の身体が青白く燃え上がる。その勢いは凄まじく、瞬く間に炎は拳大にまで縮まると……それを、鬼姫は囲炉裏の中へと放り込んだ。
……生物でもなく霊的存在でもない化け物となってしまった存在だ。
村の外にいたやつらならまだしも、此処の化け物たちはもう戻れない。長く、スサノヲの影響を受け過ぎた。絶命させたとしても、いずれこの村の何処かで別の姿形を得て復活してしまうだろう。
魂魄が、もはや魂魄の体を成していないのだ。もう成仏することも出来ず、『厄介な奴』になることすら出来ない。こうして燃料なり何なりにしてやる方が、まだ慈悲があるというものだ。
「しかし、この村の何処に箱があるんじゃろうなあ……」
先ほどよりも明るさを増した焚き火を前に、鬼姫はごろりと横になる。その際、軽く錫杖で床を叩く。瞬間、鬼姫を中心にして家全体に結界が正常に張られたのを感知した鬼姫は……大きく、欠伸を零した。
……ごそごそ、と。
懐を漁って鬼姫が取り出したのは、竹の皮に包まれた握り飯と竹筒であった。出発の際、お由宇がこさえてくれた一品である。真新しくはないが、何処となく優しさを感じる味わいに、鬼姫は軽く目を細めた。
――ここが景色の良い山間で、傍にお由宇がいたら味も格別なのじゃろうなあ。
そう思いつつ、一口。ほんのり塩を利かせた塩むすび。食わなくても平気であるとはいえ、食べる楽しみは神も人も同じ。愛しい御方が握ってくれた味に舌鼓を打ちつつ、くぴりと竹筒を傾け……ん?
何かが、近づいてくる。というか、声が聞こえる。
そう鬼姫が気付いて目線を向けるのと、壊れかけていた扉がけたたましく開かれたのは、ほぼ同時であった。
何じゃ何じゃと目を瞬かせる鬼姫を他所に、室内に雪崩れ込むようにして入って来たのは……男が二人に女が二人の計4人であった。
鬼姫は分からなかったが、この4人の恰好はいわゆる『登山服(防寒着)』というやつで、全員が防寒用の帽子を被っていた。
顔ぶれには、共通点は見られない。50代と思わしき男性と、30代と思わしき男性。40代と思わしき女性と、20代と思わしき女性の……何ともちぐはぐな4人であった。
いったい、何があったのか。
もそもそと握り飯を食べ続ける鬼姫を他所に、四人は顔中に冷や汗を浮かべている。「――閉めろ! 早く!」何を焦っているのか、彼ら彼女らは大慌てで強引に扉を閉めた。
直後、どん、と。扉の向こうで何かがぶつかった……考えるまでもない、化け物だ。彼ら彼女らもそれは分かっているのか、短く悲鳴を上げて扉から後ずさった。
扉を破って侵入してくる光景を、想像してしまったのだろう。炎に照らされた彼ら彼女らの顔色は一様に青ざめていて、一番若い女性に至っては涙を零して怯えていた。
……まあ、鬼姫の結界がある以上、邪な気配の塊でもある化け物たちが、例え千体集まろうが破られはしないのだけれども。
そんなことを知る由もない4人は、しばしの間、震える事しか出来なかった。そして、扉を叩く音が止み、諦めた化け物が遠ざかっていった後……そこで初めて、「――子供?」4人は先客である鬼姫に気付いたようであった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
事態を呑み込めていないのか、それとも危機が去って気が抜けたのか。土間から上がることもせず呆然と鬼姫を見つめるだけの4人と、その4人を眺めるだけの鬼姫。
4人が何を考えているのか、それは鬼姫には分からない。というか、正直興味がない。何やら大変な目に遭っているようじゃなあ、という程度の認識であり、今すぐ外へ飛び出しても放っておく程度の話でしかなかった。
(……たまたま、というわけではなさそうじゃな)
今まで何度か『厄介な奴』に絡まれたやつを助けてはきたが、それは不可抗力、あるいは、恩を受けた相手だからだ。分かっていて、望んで危険な場所に飛び込んだ馬鹿を助けようと思うほど、鬼姫は慈愛に満ちてはいない。
そりゃあ、腹の中に子がいるとか、仕事の為にどうこう……ぐらいなら、気が乗れば助けてやらんこともない。鬼の姫ではあるが、その性根事態は『鬼』ではないからだ。
けれども、今の鬼姫にはその気がない。正直、さっさと面倒を終わらせて帰りたいだけではない。眼前の4人を見やった鬼姫は、面倒くさげに竹筒の水をこくりと飲んだ……と。
「嬢ちゃん、まさか、ここに住んでいるのか?」
「阿呆、こんな場所に住めるわけがなかろう」
ようやく我に返った4人の中で、一番年上のオヤジが話しかけてきた。以前はこの家よりもずっとおんぼろな神社で一人封印されていたことを棚上げしつつ、「野暮用で参っただけじゃ」ごっくんと握り飯を呑み込んだ鬼姫は、お返しにと4人を見やった。
「お主らこそ、如何な野暮用で参ったのじゃ? ずいぶんと、御大層な姿のようじゃが?」
「それは――」
答えようとしたのは、一番若い女であった。「――馬鹿、言うな」だが、その前にオヤジが遮るように女を制した。どうしてと言わんばかりに見やる女を他所に、オヤジは「俺たちも、野暮用さ」そう言って話を切り替えた。
「身内事だからあまり詳しくは言えないが、大事な用があって来たんだ……ところで、嬢ちゃんは、その……」
「外のやつらとは別モノと思うてよい。まあ、見ての通り『お嬢ちゃん』で一括りされるようなモノでもないがな」
巫女服の裾より片腕を上げる。露わになった二本の左腕を見やった4人は、一瞬ばかり言葉を失くした……ようではあったが、取り乱すようなことはなかった。
肝が据わっているのか鈍感なのかはさておき、次いで、オヤジは土間を上がって……囲炉裏の前に腰を下ろした。別に独り占めする気など毛頭ない鬼姫は、好きにせいと胸中にて呟くと、緩やかに目を瞬かせる。
着込んだ登山服(防寒着)の襟元を緩め、ぱたぱたと仰いでいる。さっきの化け物からどれ程逃げ続けていたのかは知らないが、露わになった首元が汗だくになっているのが鬼姫の目に見えた……ん?
「お主らは何をしておるのじゃ?」
「――えっ?」
「疲れておるのじゃろう? そこで突っ立っていても余計に疲れるだけじゃ。遠慮せず、火に当たるがよい」
どうしたらいいか分からず立ち尽くす残りの3人を、呼んでやる。二本の片腕で手招きされるという事態に、3人は互いの顔を見合わせた後……静かに、オヤジの隣に腰を下ろしていった。
傍目から見れば、その光景はシュールを通り越して異様という他なかった。
焚き火が灯る囲炉裏を境にして、片側には頬杖を突いて横になっている、角を生やした四本腕の巫女服少女(属性過多)。もう片側には、防寒に特化した登山用の装備一式に身を包んだ大人が4人。
何処となく居心地が悪そうに互いに視線を目配せしている大人たちと、大欠伸を零して今にも寝入りそうな少女。対照的というには余りに違いがあり過ぎるこの二つの間に流れている沈黙を破ったのは……意外にも、鬼姫の方からであった。
「――煙草は、ワシの前では吸うな」
おそらく、オヤジは緊張を解そうとしたのだろう。内側のポケットより取り出した煙草を口に加えた瞬間、瞑っていた目を開けた鬼姫は、そういってオヤジを制止した。
「吸いたければ外で吸え。それが嫌ならば、ここでは吸うな」
「……少しぐらい、いいだろ?」
「駄目じゃ。火を点けた瞬間、叩き出してやろうぞ」
きっぱりと、鬼姫は断った。有無を言わさないその口調に、オヤジは少しばかり気分を害したかのように咥えた煙草を見つめた後……小さく零した舌打ちと共にポケットに戻した。
……鬼姫を相手にして、舌打ちを零す。
時の帝をも震え上がらせ、神々すら恐れ慄く鬼姫を知る者がその場に居合わせたなら、あまりの命知らずなオヤジの行動に絶句した挙句に気絶していただろう。
何故なら、鬼姫というのは存在そのものが周囲に死をもたらす大怨霊であるからだ。
鬼姫自身がむやみやたらに周囲を祟るわけではなく、むしろ周囲に悪影響を与えないように気を使っているからこそ、この4人は平然としていられる……いや、生きていられるのだ。
彼ら彼女らは知る由もない(鬼姫も、あえてそれを口にはしない)ことではあるが、例えるならこの状況。巨象の足元に迷い込んだ子鼠、獅子の前に出てきてしまった蟻も同然なのであった。
「……その、お名前を伺ってもいいかな?」
次に言葉を発したのは、30代の男……お兄さんであった。幾らか悪く成りかけた雰囲気を払拭するかのように、お兄さんは先に名乗ろうとした……が。
「名乗るな」
それを遮って、鬼姫はお兄さんの言葉を一言で封じた。「えっ、と……?」強い制止の言葉に面食らう御兄さんたちを他所に、鬼姫はジロリと4人の顔を順々に見やった。
「ワシに名を伝えるのも、尋ねることもしてはならぬ。不可抗力でワシに名を知られても、ワシは名をけして呼ばぬ。お前らも、ワシを呼ぼうとしてはならぬ……よいな?」
「え、あの……どうして?」
「どうしてもじゃ。下手にワシに名を知られると、ワシと繋がりが出来てしまうからのう」
それで、納得しろ。そう言わんばかりにシッシと木っ端を払うかのように手を振る鬼姫を前に、4人の大人は沈黙を持って答えた。ただ、その沈黙は好意的とは言い難く、傍目にも機嫌を損ねているのが分かった。
「……とはいえ、あれも駄目、これも駄目ならばお主らも気分が悪かろう? お主らの目的には何ら興味はないのじゃが、ワシがここにいる理由ぐらいは教えてやろう」
それは、彼ら彼女らの視線を一身に浴びる鬼姫にも分かった。だから、鬼姫は大人たちの気を逸らす意味も兼ねて、嘘偽りなく教えてやることにした。
「ワシはな、この地に『箱』を探しに来たのじゃ」
「箱?」
「ワシも『箱』がどのような姿かたちを成しているのかをはっきりは知らぬ。じゃが、その『箱』は普通の箱ではなくてな……願いを叶えてくれる、破滅の箱なのじゃ」
「――何だって?」
鬼姫の言葉に、大人たち全員が一斉に反応を示した。それは鬼姫の話をせせら笑う……といったものではない。自分たちだけが抱えている秘密を知る第三者が現れたかのような……些か剣呑さすら混じる、驚きようであった。
……なるほど、こやつらも『箱』を求めて来たのじゃな。
それを見て、鬼姫は4人の目的を察した。あえて言葉に出すようなことはしなかったが、内心では呆れ果てていた。何故なら、眼前の4人が求めるその先に待っているのが、紛れもない破滅でしかないことを鬼姫は知っているからだ。
(スサノヲのやつめ……隠すのであれば本当に分からぬように隠せ。半端なことをしてしもうたから、こやつらのような馬鹿者が来てしまったではないか……)
そう、ここにはいないスサノヲに吐き捨てる。どうせ、軽い調子で頭を下げるだけのやつの顔を思い浮かべつつ……さて、と鬼姫は4人を見やった。
「お主らも、『箱』を探しておるのじゃな?」
「い、いや、違うよ。俺たちは、その……」
「あの『箱』を求めるのは止めておけ。碌な結果にはならぬのじゃ」
鬼姫はお兄さんに……いや、彼だけじゃない。「よいな、命が惜しければ諦めて帰るのじゃ」4人全員に強く忠告をした。一瞬、4人は顔をしかめたが……構わず、諦めて引き返せと鬼姫は再三の忠告をした。
それは、『箱』が初期に作られた試作品であるので全てが徒労に終わるだろうから……等という優しさではない。むしろ、その逆。願いを叶えてしまうからこそ、探すのは止めろと鬼姫は忠告しているのであった。
……経緯は何であれ、だ。
三貴神の一柱であるスサノヲの『力』は本物だ。元々が願いを叶える為という思いを込めて作られただけあって、どんな荒唐無稽な願いだって叶えてしまうだろう。
……だが、しかし。忘れてはならないのが、この『力』の大本が、あのスサノヲであるということだ。
確かに、願いは叶えてくれるだろう。けれども、無限に願いを叶えるわけではない。いくら三貴神の一柱とはいえ、限度はある。『力』を使えばその分だけ消耗し、回復には浸かった分だけの時を必要とするのだ。
そこに、許容量以上の願いを注ぎ込み続けると、どうなるか?
大体の場合においては、『何も起こらない』が正解である。電池切れを起こした電池はどう頑張っても新たな電気を絞り出せないように、無い袖は振れないのである。
……だが、スサノヲの性格を知る鬼姫は、内心にてため息を零した。
無い袖が触れないのであれば、袖を作ってやればいい。袖を作る生地が無いのであれば、代わりを宛がえば良い。皮でも、肉でも、臓器でも、使える物なら何でも使えば良い。
――願いを叶える為なら、少しぐらいの不便は我慢出来るよね? 足りない部分は願う者から補えば良い。それで願いが叶うのであれば、安いものでしょう?
それが……スサノヲの考え方なのである。
恐ろしいことに、そこに(スサノヲに)は悪意がない。一から百まで全くの曇りがない、善意なのだ。
そのうえ、厄介なのはこの足りない分……代償なのだが、代償を支払っているという自覚を本人に与えないということ。つまり、願いを叶えれば叶えるほど、相応の代償を支払っていることに本人は気付けないのだ。
苦しみがないからこそ、歯止めがない。歯止めがないからこそ、際限なく願い(欲望)、『箱』はそれに応えようとしてしまう。応えてしまうからこそ……蟻地獄のように、一度嵌ればもう抜け出せない。
地獄への道は善意で作られているとは言うが、『スサノヲの箱』は、正しく地獄へと続く善意の片道切符なのだろう。
何やらこちらの思惑を探るかのように互いに視線を目配せしている4人を見やった鬼姫は、後は勝手にしなさいと言わんばかりにごろりと寝返りを打って、彼ら彼女らに背を向けた。
(言うだけは言うた。それでもなお行くのであれば、もうワシは何も言わぬのじゃ)
わざわざ、こんな場所に来るぐらいなのだ。どうせ、ここで無理やり止めた所で、時期を改めて来るだろう。結局、決めるのは4人なのだから。それが、鬼姫の考えであった。
……。
……。
…………そうして、少しばかりの間を置いて。
(……ワシの結界を素通り出来たということは、まだ完全に囚われてしまっているのではない。となれば、魅入られているだけならば、まだ助けてやれるかもしれんのう)
ふと、鬼姫はそう思い至ってむくりと身体を起こした。途端、彼ら彼女らの視線が一斉に向けられたが、構うことなく鬼姫は傍に置いた竹筒の蓋を開けると……その穴に、舌先を向ける。
……たらり、と。
舌先を伝って垂れた滴が竹筒の中へと降りて、ぷつりと透明な糸が切れた。何をしているのかと目を瞬かせる4人を他所に、ちゃぽちゃぽと竹筒を振った鬼姫は……だん、と錫杖で床を叩いた。
――直後、4人の動きが文字通り静止した。瞬き一つ、唇一つ、指先一つ微動すらしないその様は、まるで一時停止ボタンを押された映像のようであった。
「これで駄目なら、もうどうにもならぬ。汚いじゃろうが、我慢するのじゃな」
くいっと己が指を曲げれば、それに合わせて4人は少しばかり顎を上げて口を開ける。立ち上がった鬼姫は、とりあえず目に止まった……一番若い女の顎を掴むと、そこに傾けた竹筒を差し込む。
「飲め」
短い一言と共に流れ出した鬼姫汁が、女の口内を通り越して胃へと落ちる。そっと鬼姫の手が離れれば、女は無言のままに口を閉じる。無事に体内へと入ったのを確認した鬼姫は、そのまま残りの3人にも同様に行う。
……全員が鬼姫汁を飲んでから、五分程が過ぎた。
その間、四人は一切の反応を見せなかった……当然だ、鬼姫が術で一切の身動きを封じているからだ。どうして鬼姫が術を解かずにいるのかといえば、流し込んだ鬼姫汁を吐き出させない為である。
「……ふむ、もう良いな」
水に混ぜ合わせた鬼姫の力……強力な『正の力』を帯びたソレが、全身へと十分に浸透したのを確認した鬼姫は、だ。次いで、ぱちん、と指を鳴らした――その、瞬間。
――4人は、一斉に下を向いて咳き込んだ。まあ、身体が動かないだけで意識はそのままなのだから、そうなって当然である。
げほ、げほ、げほ。男も女も年齢も関係ない。胃に入った鬼姫汁を吐き出さんと懸命に咳き込むが、そう上手くはいかない。水が腐っていたならまだしも、飲んだ鬼姫汁そのものは無味無臭。
加えて4人はこの寒空の下、ここに来るまで化け物たちに追いかけられていた。一番年上の男が汗を掻いているのだから、それよりも新陳代謝がある残りの3人が汗を掻いていないはずもない。
嫌悪感が有ったとしても、肉体が相応に水分を欲しているのだ。どれだけ咳き込んだ所でせっかくの水分を肉体が逃すわけもなく、咳き込むばかりで一滴も吐き出せない様子であった……のだが。
「――げほっ、げっ、げっ、ご、おごっ、おえええ!?」
4人の内の、一人だけ。
最初に鬼姫汁を飲んだ若い女だけが、違う反応を見せた。具体的には、この女だけが流し込まれた鬼姫汁を吐き出せたのだが……その色が、異なっていた。
色が、黒かったのだ。それは、出血した血液が酸化した色合いとは違っていた。そのうえ量も異常であった。明らかに、鬼姫が飲ました量の倍以上であった。
しかも、胃液特有の臭いとは異なる、悪臭。どう形容すればよいのか分からぬ特有の悪臭と共に、ヘドロのようにどろどろとしたそれを、若女はげえげえと吐いたのだ。
「げっ、ごほっ、うっ、ごほっ!?」
「お、おい、大丈夫か!?」
三人の中でひと際早く気づいたお兄さんが、若女の異変に目を剥いた。「――お前、何をしたんだ!」次いで、諸悪の元凶……だと傍目から見られても仕方がない鬼姫へと、お兄さんは腕を伸ばしてきた。
見た目が少女(角が生えていたり腕が四本であったりしても)であるからこそ、心のどこかで下に見ていたのだろう。けれども、その余裕は……掴み返された鬼姫の腕によって、粉々にされた。
「うっ、えっ、えええっ……!?」
がっちりと指と指とを噛み合わせた、力比べ。その比べ合いは、大人と赤子であった。歯を食いしばって全身で踏ん張るお兄さんは、鬱陶しそうに見やる鬼姫の腕によって、ゆっくりと地面に押し倒されてしまった。
――遅れて、オヤジが飛び掛かってきた。手袋に覆われたその手が掴んでいるのは、赤黒く錆びている鉄の棒であった。
どうやら、囲炉裏の中に紛れ込んでいたのだろう。年月を経てボロボロになっているとはいえ、鉄は鉄。熱を帯びたそれは、まともに触れれば大火傷は必至の武器であった。
「――あっ!」
だが、所詮はただの鉄の棒であり、常人相手なら立派な凶器でも、鬼姫を相手では玩具と同じであった。焼けた部分を素手で掴んで止められたオヤジは、お兄さんと同じく強引に床へと押し倒されてしまった。
「――落ち着け、毒なんぞ飲ませておらぬのじゃ」
男二人を無力化させてから、ようやく。事態を呑み込めず混乱する残った年上女を黙らせるかのように鬼姫は吐き捨てると、次いで、呼吸を整えている若女へと視線を向けた。
「気分はどうじゃ? まだ吐き気はあるじゃろうが、時期に収まる。それまでは我慢するのじゃ」
「……何を、飲ませたの? ものすご、うぉえ……気持ち悪い……」
「キツイ虫下しみたいなものじゃ。尻から垂れ流しになるようなことはないから、安心するのじゃ」
顔を上げた若女の顔は、けして明るいとは言い難いこの場においてもはっきりと分かるぐらいに青ざめていた。けれども、鬼姫はふんと鼻を鳴らしただけで、特に気に留めてはいなかった。
「――で、お主らはどうじゃ?」
「な、何が、だ!」
「吐き気は有るか? そのまま、げえっと吐き出せそうか?」
「気色悪い物飲まされて、無いわけないだろ!」
「ワシが聞いておるのはそういうことではない。こやつのように、実際に吐き出せそうかと聞いておるのじゃ」
「吐き出せたら、苦労しねえよ!」
片腕だけで押さえ込まれている二人は、そう言って鬼姫を睨んだ。まあ、唾液入りの水を無理やり飲まされて吐き気はあるかと聞かれ、無いと答えるやつはそういないだろう。
「……そうか、吐き出せぬか。ならば、ワシに出来ることはもうないのじゃ」
しかし、鬼姫にとって、それさえ分かれば十分であった。振り払うかのように手を離してやれば、「うわあ!?」男二人はごろんと尻餅をついて床を転がった。
その二人の傍に、年上女が駆け寄る。けれども、鬼姫はもうその3人には目もくれなかった。「女、お主は今よりワシの傍を離れるでないぞ」それよりもと言わんばかりに、若女の黒い吐瀉物を踏みつけた。
途端、どしゅう、と。
黒い吐瀉物は一気に蒸発し、影も形も無くなってしまった。「え、えっ?」あまりに突然の事に面食らう若女ではあったが、構うことなくその襟首を掴んで己が元に引きずり寄せ……己の背に庇うようにして座らせた。
些か……いや、かなり強引である。
普段の鬼姫を知るお由宇やソフィアが見れば、いったいどうしたのだと小首を傾げたことだろう。「あ、あの……」引きずられた痛みに顔をしかめる若女を、「よいな、ワシの傍を離れるでないぞ」鬼姫はそう言って黙らせると……その場に腰を下ろし、胡坐を掻いた。
「今より、この女に近づくことをワシが許さぬ。命惜しくば、余計を働かせるでないぞ」
「な、何だよいきなり……」
「そのかわり、余計な事をしなければワシは何もせぬ。この家の中に居る限りは安全じゃから、休める時に休むがよい」
有無を言わせず宣言した鬼姫の視線は、3人に向けられていた。それはつまり、黒い液体を吐かなかった、オヤジ、お兄さん、年上女の3人であった。
「ひと眠りした後に、もう一度先ほどのを飲ませる。良いか、全ては命あっての物種なのじゃ」
そう言い終えると、鬼姫は黙ってしまった。けれども、先ほどのように目を瞑るようなことはしなかった。まるで、監視するかのような眼差しを3人に向け、一挙一動を逃さぬと言わんばかりの眼光であった。
それに対して、オヤジたちは一斉に文句を零した。
まあ、当たり前だ。唾液入りの水を無理やり飲ませた挙句、怒りを見せれば力技で黙らされたのだ。怒らない方が不自然であり、事実だけを見れば3人の怒りは正当であった。
だが、鬼姫は何も答えなかった。言われるがまま何も答えず……黙ったまま、3人を見据えていた。その眼光は、言い疲れた3人が自然に寝入るまで、変わらなかった。
……ただし、若女に対してだけは違った。
「さあ、お主は、もう寝るのじゃ」
「あの、どうして私だけ?」
「ワシが教えても意味はない。あやつらが自分で気付かなければならぬことなのじゃ」
「気付かなければ……それって、どういうこと?」
「全てが終わったら話してやるのじゃ。さあ、もう休め。どの道、答えはすぐに出るのじゃ」
状況を呑み込めずに目を白黒させる若女を強引に横にさせる。寝ろ寝ろと若女の頭を撫でるその顔には、お由宇たちに見せる時と同じ優しい笑みが浮かんでいた。
納得出来ない状況にある若女だが、彼女もまた疲れ切っていたのだろう。困惑した様子ではあったが、気が抜けてしまったようで、目を瞑ってすぐに寝息を立て始めた。
それを見やった鬼姫が、ふうっと囲炉裏の炎に息を吹き付ければ、炎はごうっと勢いを増した。先ほどよりもずっと強くなった熱気が、室内を温かくして……ふと、鬼姫の視線が3人へと向けられた。
……音を立てないように、鬼姫は3人の元へと歩み寄る。寝息を立てている3人の額に、そっと指先を押し当てる。しばしの沈黙の後、鬼姫は深々とため息を零すと
「お由宇がいれば何とかなったかもしれぬが……いや、こやつらが自ら望んだことじゃ。ワシがどうこうしてやる話ではあるまい」
その言葉を最後に、また元に位置に戻って胡坐を掻き……もう、何も言わなかった。
……。
……。
…………翌朝。といっても、空は変わらず真っ暗で、外の景色には何の変化も見られない。体内時計が有るのかはさておき、長年の経験から今が朝であることに気付いた鬼姫は、座りっぱなしであった身体を起こし……ばきばきと、全身の骨を鳴らした。
囲炉裏の炎を強めていたおかげで、室内は変わらず温かった。さすがに部屋着で寝られる程ではないが、防寒着を着ているのであれば十分に休息を取ることが出来る室温であった。
その中で、3人は変わらず寝息を立てていた。いや、3人だけでなく、若女も同様に寝息を立てていた。それらを見やった鬼姫は、「……好都合じゃな」誰に言うでもなくそう呟くと、昨夜と同じ手順で鬼姫汁を作ると――。
「さあ、飲め」
――これまた昨夜と同じ手段にて、3人の胃袋に流し込んでやった。叩き起こされた直後に加え、術で動きを封じているせいか、3人は何とも間抜けな形相であった。
そして、昨夜と同じく5分程そのままにさせた後、術を解く。また、3人は蹲ってげえげえと水を吐こうとしたが……出なかった。一滴も出ないことを確認した鬼姫は溜め息を零し……さてと、と3人を見下ろした。
「お主ら、今後はどうするつもりじゃ?」
「ぜえ、ぜえ……どうって、何が?」
「どうせ『箱』を探すのじゃろうから、改めて言うておく。お主らの願いが何なのかは知らぬが、碌な結果にはならんのじゃ」
「――は?」
「ワシからの忠告は、今度こそ終いなのじゃ。さあ、ワシらはワシらで勝手に行く……お主らはお主らで、勝手にするのじゃ」
3人の中では一番若いだけあって復帰が早いお兄さんは、呆気に取られた様子で鬼姫の言葉に目を瞬かせた。
「……気付けた時には、これを飲め。手遅れでなければ、まだ引き返せるかもしれぬのじゃ」
けれども、鬼姫は構うことなく鬼姫汁入りの竹筒を囲炉裏の傍に置くと、若女の手を強引に引っ張って、家の外へと出る。後ろ髪を引かれているのか、若女は何度か振り返ったが……それを、無理やり引っ張ってゆく。
そうして半日ぶりに見た外の景色は、相変わらず酷いものであった。
ある意味、かつての鬼姫の神社並みに酷い。加えて、一晩掛けて焦らしてしまったからだろうか。早速、ナメクジなのかカマキリなのかよく分からない化け物が、何処からともなく姿を見せ始めた。
村の外よりも箱より漏れだした『力』が濃密な分だけ、肉体を得てしまうやつが多いのだろう。その結果、一般人でしかない若女でも戦える相手にはなったが、物理的な意味で死の危険が増えているのは……皮肉であった。
「ちょ、あの――っ!?」
見えない方が恐ろしいのか、見えている方が恐ろしいのかはさておき、若女の表情が目に見えて引き攣った。まあ、化け物たちの外見は正しく化け物だし、襲い掛かってくるからその反応は当然であった。
「次から次へと鬱陶しいのじゃ」
だが、伸ばされる化け物たちの腕が若女に届くことはなかった。何故なら、それよりも早く前に出た鬼姫が、錫杖の一振りによって瞬時に蹴散らしてゆくからだ。
赤子十人が束になっても大人には勝てないように、例え化け物たちが千体集まったところで鬼姫には敵わない。敵に回せばこれ以上ないぐらいに恐ろしいが、味方になればこれ以上……まあ、心強いやつはいないだろう。
それ故に、最初は化け物が姿を見せるたびに悲鳴を上げていた若女も、風に舞う落ち葉のように蹴散らされてゆく化け物の数が増えて行くに連れて……徐々に、落ち着きを見せるようになった。
「あの、どうして私だけを特別扱いするの?」
そうして、不意に。恐る恐るといった様子で、若女が尋ねてきた。あの家を出て、早一時間ほどが経っている。今、鬼姫と若女はあの家からそれなりに距離のある……位置的には村の端にある家屋の中で、休憩を取っていた。
何故、そんな場所に居るのか。それは単に鬼姫が、あの時若女が吐いた黒い液体から立ち昇る悪臭と同じ臭いがする場所を求めて歩き続けた結果であった。
家屋の中に入ったのは、外で待っているといちいち化け物が集まって来て面倒だったから。若女は気付いていなかったが、既に結界が張られたこの家屋は、化け物たちにとっては堅牢で強固な城にも等しい状態になっていた。
「やはり、気にはなるかのう?」
囲炉裏がないので、若女が背負っていたリュックの中から取り出した懐中電灯に照らされた、室内。
「気になりますよ……どうして、私だけなんですか?」
その、見た目は酷い堅牢強固な城の中で。何をするでもなく辛うじて残されている床に並んで腰を下ろしていた鬼姫は、ふむ、と若女の問い掛けに頭を掻いた。
「理由は幾つかあるが、一番の理由はお主が黒い水を吐き出したからじゃな」
「黒い水って、あの……私が吐いたやつですか?」
「そうじゃ。アレは……言うなれば、この地に満ちている『気』のようなものでな。この地に足を踏み入れたその瞬間から、知らず知らずのうちに身体の中に溜め込んでゆくのじゃ」
「『気』って、そんな……」
「ソレ自体は、そう悪さはせぬ。村の外に出れば、勝手に抜けてゆく程度の代物なのじゃ。じゃが、強い欲望を持った者がソレに触れると、途端に厄介な代物になる性質でな。言ってしまえば……その者が本当に望む欲望を剥き出しにするのじゃ」
「欲望?」
「お主も、何かしらの願いを叶える為にここに来たのじゃろう? じゃが、ここに来て……その願いとは別に、叶えたい願い……アレが欲しいコレが欲しいと次々に欲望が湧いてはこなんだか?」
言われて、そういえばと若女は軽く目を見開いた。「それを自覚させないのが、この『気』の厄介なところでな」それを見て、鬼姫は深々とため息を零した。
「願いを叶える『箱』は、文字通りどんな願いも叶える。じゃが、時に人は自身の願いすら誤魔化してしまう……『箱』は、その者の本心からの願いを知る為に、欲望のタガを取り外そうとするのじゃ」
「でも、そうなると……」
「察しの通り、本心からの願いは何も一つに限らない。豪華絢爛な家に住みたい、目も眩むような黄金を手にしたい、これ以上ないぐらいの理想の美女とまぐわいたい、数多の女を虜にする美男を独り占めしたい……全て、紛れもない本心なのじゃ」
そして、『箱』はそれら全てを叶えようとする。どんな犠牲を払ってでも、願いを叶える為に……そう、鬼姫は言葉を続ける。
「お主がアレを吐き出せたのは、単にお主が『願いが叶うよりも助かりたい』と本心から望んでいたからじゃな。事実、お主はもう『箱』には全く興味もないし、出来るなら一刻も早くここを離れたいと思っておるじゃろう?」
「……うん」
「困惑しつつもワシの言う事を素直に聞いているのが、その証拠じゃ。無意識にワシと一緒の方が助かると思っておるから、お主は文句一つ言わずにワシの傍を離れようとしないのじゃ」
「そ、そうなの?」
「でなければ、こんな角を生やした胡散臭い童に素直に従うわけもなかろう。それに、『箱』そのものを無意識に拒絶していたからこそ、切っ掛けさえ与えてやればそれで良かったのじゃ」
――じゃが、な。
「命は惜しいが諦めきれないと無意識に考えている奴ほど、危ないのじゃ。特に、化け物に襲われてもまだ諦め切れずにいる奴ほど……強く、魅入られてしまうのじゃ」
「魅入られて……?」
「魅入られた者は厄介じゃぞ。話を聞いているようで聞いてはおらぬし、どれだけ約束を交わした所で平気で裏切る。ワシは平気じゃが、頭を叩かれればお主は平気ではないからろう」
……もはや、心が強いか弱いかでどうにかなる段階を超えておるのじゃ。
「ワシも、その気持ちは分かるのじゃ。いざとなれば自分一人は逃げ切れる、自分だけは何とか助かる、他を犠牲にすればどうにか……ワシがやったことなど、所詮は切っ掛けに過ぎぬ。鬱陶しいと払い除けられてしまえば、もうワシにはどうにも……っと、来たのじゃ」
気配を察した鬼姫は若女へと手招きしつつ、壁に空けた穴から一緒に外を覗く。「おそらく、あやつらもここに引き寄せられるとは思っておったのじゃ」という言葉通り、3人は来た。
鬼姫の読みは、寸分の狂いもなく的中していた。
この村の何処かにある『箱』は、鬼姫の探知能力を持ってしても見つけられない。若女が吐き出した『スサノヲの力』の臭いから『箱』の位置におおよその検討は付いたが、それでもまだ手掛かりが足りない。
なので、鬼姫はあの3人を囮にして使うことにした。
化け物たちに襲われはするだろうが、『箱』に魅入られている以上は最悪の事態にはならないだろう。そんなことを、『箱』は……いや、『箱』を作ったスサノヲが許したりはしないはずだからだ。
あの3人が『箱』を求める限り、いずれは『箱』へと辿り着く。下手にそれを邪魔すると、下手すれば『箱』の妨害を受けかねない。若女の安全もそうだが、そういった打算もあって鬼姫はあの3人から離れたのである。
……とはいえ、だ。
ドヤァと内心にて反り返っている鬼姫を他所に、若女は首を傾げていた。何故なら、真っ暗闇の向こう。右に左に動く懐中電灯の明かり越しに見える3人は、遠目からでもはっきり分かるぐらいに様子がおかしかったからだ。
具体的にいえば、3人はバラバラに動いていた。いちおうは襲われないよう一か所に固まってはいるものの、3人の視線は常に違う方向を向いていて、互いを気遣う様子が全く感じ取れない。
――あの家から此処に来るまでに、明らかに何かが起こったのだ。
それは、化け物に襲われたからという単純な理由ではなく、もっと根深くて……それでいて見え隠れしていたもの。それが露わになってしまった結果がアレなのだと……若女は反射的に察してしまった。
「……言っておくが、昨日のお主も似たような有様じゃったぞ。違和感を覚えていられるのは、お主が正気に戻れているからなのじゃ」
えっ、と振り向いた若女に、鬼姫は吐き捨てるように答えた。
「一度外されたタガは、自力では中々戻せぬ。しかも、タガが外れているという自覚すら与えないから、余計にな。大方、誰が『箱』を手にするかで揉めたのじゃろうな」
「で、でも、願いは全部叶えてくれるんですよね?」
「そう、全部叶えるのじゃ。じゃがな、言ったところであやつらはもう聞かぬ。剥き出しになった欲望を、もはや一片たりとも抑えられぬ。ワシとしては、殺し合いが起こっていないだけまだ理性的と思うところじゃな」
殺し合い……その言葉に、若女はギョッと目を見開いた。「何を驚いておる、それぐらいは起こって当たり前じゃぞ」だが、鬼姫はさらに言葉を重ね……見ろ、と穴から3人を指差した。
キョロキョロと辺りを見回していた3人は、まるで申し合わせたかのように……とある一点を見つめた。
そこには、何も無い。家屋もなければ祭壇もなく、畑すらない……ただの地面だ。強いて適当な名称を付けるとするなら、草むらの一角といったところだろうか。
そこに何が……そう思って見つめる鬼姫と若女の視線を他所に、3人はその草むらへと歩を進めた……直後。
視線の先にある草むらが突然、隆起した。それはまるで大地が怒髪天を突くかのような有様で、「うおっ!?」さしものの鬼姫も想定外の光景に、思わず肩をびくつかせた。
幸いにも、その声は隆起する大地の脈動音によってかき消され、3人に気付かれることはなかった。不覚じゃ、と一人恥じる鬼姫を他所に、ぼこぼこと捲れ上がった大地から飛び出したのは……『井戸』であった。
その井戸には、屋根がなかった。屋根が無いということは釣瓶(つるべ)落としもないその井戸は、鬼姫の位置からでも分かるぐらいに……仄暗い光を放っている。削って形を整えた石で作られた穴から、ごふう、と土砂が天へと噴き出された。
それが、一回、二回、三回。
まるで井戸そのものが呼吸しているかのように噴き出された土砂が、周囲に飛び散る。その量は相当なもので、一瞬ばかり井戸の光が見えなくなるばかりか、近くにいる3人は堪らず屈んでしまう程であった。
――そして、五回目の噴射が行われた、直後。
音もなく井戸から放り出されたのは……木製の、小さい箱であった。カビの色か、あるいは別の色か。青白い光を放つその『箱』は、女の黒髪を思わせる艶やな輝きを放ちながら、地面を転がり……3人の前で止まった。
「――いかん、それに触るでない!」
その瞬間、3人が我に返るよりも前に、気付けば鬼姫は叫んでいた。
「ひゃい!?」
突然の叫びに肩どころか全身をビクつかせる若女を跳ね飛ばして外へと飛び出した鬼姫は――大きく振りかぶって、手にしていた錫杖を箱へと投げた。
それは最早、ライフル弾であった。『正の力』を込めた錫杖は強い閃光となって暗闇を突き抜け、『箱』を打ち砕かんと迫った――が、しかし。その先端が『箱』へと着弾するよりも早く……『箱』を、掴んだ者がいた。
「――はは、本当にあった」
掴んだのは、お兄さんであった。3人の中で一番早く我に返った、3人の中で一番年若い彼であった。一拍遅れて、彼の背後にいたオヤジと年上女が、『箱』を奪おうと駆け――寄ろうとした。
だが、出来なかった。何故なら、ごがん――と。
迫る錫杖が、まるで見えないコンクリートに突き刺さったかのような打突音とともに、空中で静止したのだ。突然のことに思わずたたらを踏んで尻餅をつく二人を他所に、『箱』を手にしたお兄さんは……いや、『彼』は、笑みを浮かべた。
「すっげぇ……マジですっげぇ! 何だこれ、持っているだけで何か――何でも出来そうだ! はは、ははは、はははははは!!!!」
彼は、笑った。プレゼントを前にした子供のような笑い声を高らかにあげた。その様は異様という他なく、彼の笑みを間近で見ることとなったオヤジと年上女はその不気味さに腰を抜かし、ひいひいと呻き声をあげて地面を蹴っていた。
「ははは、はははは、ははははは――金だ! 金だ!! 金だ!!!」
彼は叫んだ、その直後。隙間一つ見当たらない『箱』から、白煙が滲み出るように吹き上がれば――その煙の中から、大量の紙幣が舞い落ちる。いや、紙幣だけではない。一目で高額だと分かる宝石やら貴金属やらが、噴水のように噴き出して辺りに散らばった。
その次に噴き出したのは、食べ物であった。肉、魚、野菜、果物、酒……無秩序に飛び出したそれらは、傍目からでも高級品だと分かる見た目をしていた。「ね、年代ものだ!」傍に転がっている酒瓶を手に取ったオヤジが、顔を真っ赤にしていた。
金に食べ物ときて、三番目に飛び出したのは家電を始めとした物品であった。冷蔵庫に電子レンジにテレビ、パソコンやゲーム機やスマートフォンなど。「こ、これ、数十万はする最新の美容機器じゃないの!」気づいた年上女が、全身を震わせていた。
そして――最後に煙の中から飛び出したのは、人間であった。だが、ただの人間ではない。タイプこそ違うが、十人中十人が美人だと太鼓判を押されるであろう美男美女、美男子美少女であったのだ。
彼ら彼女らは多種多様の制服を着ていた。彼ら彼女らは多種多様の水着を着ていた。彼ら彼女らは多種多様の下着に身を包み、彼ら彼女らは生まれたままの姿であった。
ある者は逞しく、ある者は瑞々しく、ある者はまだ蕾で、ある者は豊満で。そんな者たちが、心から愛しい者を前にしたかのように頬を赤らめて、3人の傍に立ったのだ。
これには――オヤジも、年上女も、思わず鼻の下を伸ばした。無理もないことであった。
何せ、現れた彼ら彼女らは一人の例外もなく、モデルとして第一線で活躍できる風貌なのだ。容姿としては人並みでしかない二人が、平気でいられるわけがない。
頬にキスをされ、服を脱がされ、濡れた肌で抱き着かれ、愛の言葉を囁かれる。美しい彼ら彼女らに囲まれて埋もれてゆく二人の甲高い嬌声が、辺りに響く。けれども、その嬌声すら、瞬く間に広がってゆく『箱』の煙によって飲み込まれ……見えなくなった。
「――はは、ははは……すげえ、すげえよ。体中から力が湧いてくるようだ……こんなに清々しい気分は生まれて初めてだ」
その、横で。『箱』を手にして立ち尽くしている彼の傍にも、美男美女や美男子美少女が寄ってきた。「うっ――と、ととっ」己の首元までしかない美少女から飛び付かれるようにして口づけされた彼は、締りのない笑みを浮かべた後……不意に、空中で静止している錫杖を見やった。
……錫杖から放たれていた光は、既に消えている。
――舌打ちを零した彼は、ソレを強く睨みつける。途端、化け物たちをこれでもかと蹴散らしていた錫杖にヒビが入り……ばきん、と音を立てて砕け、散らばって地面に紛れてしまった。
「そういえば、あの糞ガキは偉そうに説教してきやがったよなあ」
彼の視線が、飛んできた錫杖の先へと……向けられた。
湿り気が、何処からともなく漂っている。雨など降った形跡が見られないのに、まるで霧中に飛び込んだかのよう。合わせて嗅ぎ取れる悪臭に顔をしかめながらも鬼姫は、若女を抱えたまま走っていた。
その速さ、韋駄天が如し。草木の間をすり抜け、跳び出してくる化け物たちを眼光一つで押さえ付け、右に左に身体をずらし……石のように硬直している若女を宥めつつ、全力で走り続ける。
いったい何処へ向かっているのかと言えば、だ。若女がこの村に足を踏み入れる時に通って来た道……つまり、若女がこの村に入る時に使った入口へと向かっているのだ。
――どうしてわざわざそこへ行くのか?
それは、『箱の力』が使われてしまったから。おそらく、月読等にバレないようにする為なのだろう。入る時はほぼ素通りに近かった、この村を囲っている結界が、刻一刻と強固さを増していっているのだ。
つまり、鬼姫は今、強固さを増してゆく結界の中で、辛うじて壁が薄いであろうそこへと向かっているわけだ。
鬼姫一人ならば分厚かろうが何だろうが突破は可能だが、若女がそれに耐えられない。見捨ててはおけない以上、鬼姫はそこを通る以外の手段を選べないのであった。
(――気配が強まったのじゃ!)
振り返らずとも、鬼姫には分かった。まるで、村全体が息を吹き返したかのようであった。常人には変化を認識することは難しいが、鬼姫には分かる。『願い』を、『欲望』を叶える為に、空間そのものが脈動しているのだ。
どくり、どくり、どくり。
むせ返る程に濃密な気配が、己が後を追いかけてくるのを鬼姫は知覚する。その内の一つがぬるりと腕を伸ばし……鬼姫の足を掴まんとする。「もう少しじゃ、頑張れ!」後ろ足でそれを祓った鬼姫は、そのまま逃走を続ける。
……想定していたよりもはるかに危険な状況であったことを知った鬼姫が取った手段は……逃走の一択であった。
いったい、何が起こったのか。いや、鬼姫は何を見て、どのような判断を下したのか。その答えは、ただ一つ……『箱』が、もはや『箱』の体を成していなかったという点が全てであった。
鬼姫が、いや、月読が想定していた最悪の事態は、『箱が壊れて中の『力』が漏れている』という状態であった。言うなれば、蓋が空いたままになっている状態であると考えていた。
実際、『箱』を直視するまで、鬼姫はそう考えていた。
村全体が、あれだけ『スサノヲの力』で汚染されていたのだ。鬼姫でなくとも、『箱』は壊れてしまって中の『力』が漏れ出していると考えるだろう。事実、『箱』は確かに壊れていた。
……壊れていたが、まさか『願い』によって『箱』が復元されているとは思わなかった。
そう、『箱』は壊れていた。何時頃に壊れたのかは定かではないが、確かに壊れていた。だが、復元されていたのだ。『箱』に込められた『力』によって、新たな『箱』が作られていたのだ。
にわかには信じ難い話だが、事実である。だが、しかし……いくらスサノヲが作ったモノとはいえ、スサノヲの助力無しで、スサノヲと同じことを『箱』が出来るわけが……ない。
あの『箱』は、出来損ないなのだ。それも、酷い出来損ないだ。鬼姫の目から見ても、いったいどのような願いや欲望を込めればソレが生まれるのか、皆目見当もつかないぐらいの……おぞましいナニカでしかなかった。
鬼姫がしようとしていたのは、『スサノヲの箱』の無力化だ。依頼した月詠も、そのように想定していたはずだ。
だからこそ、『箱』と共鳴しないように『名雪の亡骸』に月詠自らが手を加え、『正の力』を発揮出来るようにしてくれた。実際、ここに来るまでは非常にスムーズに事が運んでいた。
だが……最後の最後で、それが裏目に出てしまった。
アレはもはや、『スサノヲの箱』ではない。底なしの欲望を吸って凝縮し生み出された蠱毒そのものだ。この村全体が、蠱毒を作る為の箱なのだ。鬼姫は、その箱に入り込んでしまっていたのだ。
――アレの対処をするには、制限が掛けられている今の状態では分が悪い。
少なくとも、ここでやり合うのは不味い。若女を、庇い切れない。錫杖を止められたのを見て事態を悟った鬼姫は、迷う事なく逃走することを選んだのであった。
リュックを下ろす暇すらない。一人だけ事態が呑み込めず目を白黒させる若女を強引に抱き上げ、鬼姫は走る。
そうして……若女がこの村に入るときに通ったトンネルに到着したのは、『箱の力』が開放されてから、4分後のことであった。
――けれども、トンネルを見やった鬼姫は……堪らず、舌打ちを零した。
何故なら、これまた想定していた以上に結界が分厚くなっていたからだ。他の部分よりも薄くはなっているが、それでも分厚い。今の状態でこじ開けるには、少々時間を要する程の強度であった。
とはいえ、泣き言を零している場合ではない。
とにかく突破して外に出なければ、若女は終わる。『箱』に取り込まれ……いや、あの男の手で玩具にされて、終わる。最悪、この女だけでも外に出せれば、後は幾らでもやりようがある。
そう決断した鬼姫は、若女を背中に担ぎ直し……トンネル前に存在している不可視の壁に手を当てると、そこに指を突き立て……出せる限りの渾身の『力』を込めて、左右に引っ張った。
「んぎぎぎぎ、ぐぐぐぐう、おおお、おおおおお……!」
見た目とは裏腹の野太い雄叫びが、鬼姫の喉から立ち昇る。突き立てた四本の腕の全てに血管が浮き上がり、筋肉の筋が盛り上がる。食いしばった鬼姫の顔は赤くなる中……少しずつ、少しずつではあるが、ぐぐぐっと不可視の壁が開かれた。
直後、ばちばち、と。青白い火花が、四本腕に囲まれた中心部分より、放たれる。それは、力技でこじ開けられようとしている結界が見せた、悲鳴であった。
……『正の力』を発揮する為に制限が掛けられているとはいえ、時の帝はおろか、神々すら恐れた大怨霊、『鬼姫』。元々は『スサノヲの力』とはいえ、紛い物で鬼姫の行動を止められるわけがなかった――が。
「みーつけた」
「んんん――っん、ぬう!?」
「そんじゃまあ、かるーいお仕置き!」
紛い物であるとはいえ、鬼姫の注意を引き付けるには十分であった。おかげで、『箱の力』を用いて空を飛び……背後より接近していた『彼』への反応が遅れた。
――攻撃される瞬間、鬼姫は若女を守る為に身を反転させる。
反射的に防御結界を張れはしたが、無駄だった。鬼姫の結界を物ともせず貫通したその一発は、若女を庇う為に伸ばした腕の一本……その掌に、『矢』となって突き刺さっていた。
「ぐうっ!?」
その瞬間、貫通した掌から伝わるあまりの激痛に、思わず鬼姫は顔をしかめた。それは、驚愕に値する話であった。
何故なら、鬼姫は死者だ。『名雪の亡骸』に憑依することで肉体を得ているとはいえ、その本質は霊体。鬼姫自身が強大凶悪であることも相まって、首を折られても顔色一つ変えないぐらいに痛みには強い(あるいは、鈍いのかもしれない)。
言い換えれば、傷をつけるだけならまだしも、鬼姫に痛みを与えるのは生半可なことではないのだ。そして、その鬼姫の顔色を一変させる程の代物となると……己が掌に突き刺さっている『矢』を見やった鬼姫は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
(生弓矢(いくゆみや)か……紛い物とはいえ、痛いわけじゃ……!)
生弓矢……それは、日本神話において『生命が宿る弓矢』だとも、『生き生きとした弓矢』だとも言われている、スサノヲの武力の象徴とも言われている武器の一つである。
生命とはすなわち、『正の力』。つまり、本質は『負の力』である鬼姫とは対極に位置する力である。にやにやと勝ち誇った笑みを浮かべている『彼』を前に、鬼姫は矢を抜こうと……して、手を止めた。
「女、お主が矢を抜くのじゃ。おそらく、この矢を持っていれば何事もなく出られるのじゃ」
「――え?」
「抜いた矢を持って先にゆけ。けして、振り返るでないぞ。立ち止まることなく、戻るようなこともせず、通り抜けるまで走れ……よいな?」
有無を言わせず、グイッと若女に掌を近づける。傷口より噴き出している鮮血が滴り落ちている。「……っ!」一瞬、若女は躊躇う素振りを見せたが、矢を掴んでから抜き取るまでの動作は、早かった。
……女は度胸とは、誰の言葉だったか。
思っていた以上にズバッと抜き取られた痛みに悶絶する鬼姫を他所に、「御免なさい、先に行きます!」若女は走った。鬼姫の言葉通り、振り返ることなく全力で。
……そうして、トンネルの暗闇の中へと若女の姿は消えた。
しっかりと、気配が結界の外へと出たのを確認した鬼姫は、顔をしかめつつも……改めて、『彼』へと向き直った。余裕からか、あるいは『箱』の影響からか、『彼』は悠然とこちらを眺めていた。
果たして、数時間前の彼と、今の『彼』。百人中何人が、彼と『彼』を同一人物であることに気付けるだろうか。それぐらいに、『彼』から放たれている雰囲気が、彼とは異なっていた。
恰好は、変わっていない。他の者たちと同じく防寒着に身を包んでいる。髪やひげの長さも同じ、目の色や顔色だって変わらない。その風貌は、さして珍しくもない日本人そのままだ。
けれども、『彼』はもう昨夜言葉を交わした彼ではなかった。
『彼』の気配はもう、人のそれではないのだ。鬼姫のような霊的存在でもなければ、お由宇のような神の気質でもない。そして、ソフィアのような気配とも違う。
ああ……手遅れだ。こいつはもう、全く別の存在になってしまったのだ。その事実に気付いた鬼姫は……憐れむように、目を細めた。
「――気に入らねえなあ、その目はよ」
おそらく、『彼』は鬼姫が命乞いをするなり怯えるなりの反応を期待していたのだろう。そのどちらとも違う、憐れみの目で見られるという上から目線に……タガが外れた『彼』が、我慢出来るはずもなかった。
その身に宿る欲望を引き出す『箱』に呑まれてしまっている『彼』には、もはや善悪の基準はない。有るのは、己が善でそれ以外が悪、すなわち、思い通りに行かないこと、全てが唾棄されて当然の邪悪でしかない。
――だから、『鬼姫への攻撃を願う』ことに、『彼』は微塵の躊躇もしなかった。
『箱』より漏れだした白煙から音もなく飛び出したのは、一本の矢であった。それは、先ほど鬼姫へと放った生弓矢と全く同じ物であった。鬼姫にも明確な手傷を負わせられるその一閃は、まっすぐ鬼姫へと向かい――。
「無駄じゃ、もう『箱』には大した『力』は残ってはおらぬ」
――それを、鬼姫はあっさり捕まえた。
それは、『箱』によってもたらされた全能感を堪能している『彼』にとって、信じ難い瞬間であった。「な、ああ!?」驚愕に目を見開いた『彼』は、幾分か焦りを露わに第二、第三の矢を放った……が。
「無駄と言うたじゃろう」
その2発も、鬼姫の脳天を打ち抜くことはなかった。「――何で! 何でだ!?」思い通りにいかない事態に顔を紅潮させた『彼』は、そのまま第四、第五、第六と放ち続ける。
「最初の一発で、もはや『箱』に残された『力』はほとんどない。搾りかすとなった果物から、さらに搾り取ろうとするようなものじゃ」
「くそ! くそ! くそ! 何でだ!? 何で!? くそったれ!」
「紛い物とはいえ、生弓矢なんぞ複製して放った結果じゃ。どれだけの代償を捧げて『力』を維持しているのかは知らぬが、人の身で使えるモノではないのじゃ……さて、と」
――上手く行けば代償をうやむやにしてやれるかもしれぬ。
誰に言うでもなく鬼姫が呟いた、その直後。ふうっと、鬼姫はその場に倒れた……いや、違う。倒れたのではなく、憑依していた『名雪の亡骸』から鬼姫自身が抜け出たのだ。もちろん、その身体には外部からの影響を受けないように防御している。
「――な、なんだ?」
『ワシが抜け出ただけなのじゃ』
「た、倒れた? 何で? どうして? も、もしかして、願いが叶った?」
『阿呆、もうその『箱』にお主の願いを叶える『力』なんぞ残ってはおらぬのじゃ』
角は治まり、腕は二本に戻り、元の人間の少女となった亡骸を前に、思わず『彼』は一歩退いた。まあ、無理もない。今の今まで会話していた相手が、いきなり倒れて動かなくなったのだ。
例え『彼』でなくとも、思わず言葉を失くすぐらいには驚いただろう……でも、気にすることはない。
何故なら、すぐに『彼』はそんなことを考える必要がなくなるからだ。元々が常人でしかない『彼』にはもう、鬼姫を視認することが出来ない。ほとんどハリボテとなった『箱』では、もはや逃げることは出来ない。
『自業自得とはいえ、ここで黄泉へと行ければ万々歳なのじゃが……さて、やるとするか……!』
決断した鬼姫は、ふわりと空を舞って、『彼』の背後に降り立つと、すぐさま準備に取り掛かった。この術は、準備に時間を要する。印を組んだ鬼姫は、内に秘めている『力』を練り上げ――変化が、訪れた。
それはまるで、黒いヘドロのようであった。どろり、と、音も無く鬼姫の眼球そのものが黒く濁り……少しの間を置いてから黒い涙を滴り始めたのが変化の始まりであった。
夜の闇よりも黒くなった眼球に、血の赤が浮かぶ。それに一拍遅れて、組み合わせていた鬼姫の両腕が瞳と同じく真っ黒に染まり始め、二の腕の辺りまでその境目は止まった。
……もし仮に、今の鬼姫を目にした者がいたなら、鬼姫の居る辺りを見て驚きに声を上げていたことだろう。何故なら、何もない空間に真っ黒な腕が浮いていて、その下には黒い何かが広がってゆくのが見えるからだ。
足元の黒い何かは、頬を伝って顎先より滴り落ちた黒い液体である。当然だが、それは涙ではない。秒を得るたびに増大してゆく『呪いの力』が、形となって具現化したもの。
そして、鬼姫が『黒い涙』を流し始める時、それは、とある術が発動する前触れでもあった。
『――受けよ、かつて時の帝が恐れ、幾千の陰陽師共が恐れ、幾万の民草たちが恐れた、ワシの抱擁を』
状況が呑み込めず動くことが出来ない『彼』は、鬼姫にとって……これ以上ないぐらいの好都合であった。ふわりと舞い上がる、鬼姫の腕。術の完成と共に伸ばされたその両手が……背後から『彼』を、静かに抱き留めた。
『死手(して)の――』
瞬間、鬼姫の『呪い』が発動した。
『――誘(いざな)い』
直後の変化は、微細なものであった。黒い眼の中に浮かぶ赤い光が『彼』を捕らえ、鬼姫の黒い腕が抱き留める。文字にすればたったそれだけのことだが……効果は劇的であった。
『彼』は、抵抗らしい抵抗をしなかった。
しばしの間、『彼』は何か恐ろしいモノを見たかのように激しくその身を震わせた後。そっと、抱き留める鬼姫の腕が外されれば、その身体は崩れ落ちる様に、その場に倒れてしまった。
……。
……。
…………静かであった。物音一つ、しない。『彼』はもう、声一つ出さない。手元から零れた『箱』を拾おうとも、鬼姫へと襲い掛かろうともしない。ただただ静かに……物言わぬ物体となっていた。
『……、ふぅぅぅぅ』
その中で、唯一。常人には聞こえない音を発したのは鬼姫であった。深々と、それはもう大きくため息を吐くと共に、力を抜く。途端、変化はすぐに現れる。身体から滴り落ちた『黒い涙』は瞬く間に蒸発して跡形もなく消え、黒い腕も徐々に元に戻ってゆく。
『死手の誘い』
それは、鬼姫が『本気状態になっていない時にだけ』放てる術。鬼姫が持つ数々の術の中でも、最強最悪の殺傷能力を誇る『呪い』である。
その威力は本気状態の時でも出せない程に強く、直撃すればどんな結界や防壁をも貫通し、名の知れた神々すら一撃で仕留める、まさしく最凶の術であった。
その原理は説明すると長くなるが、要約すれば『初めから相手を死した後にする』というもの。つまり、相手を殺すのではない。相手が既に死んでいる状態に因果そのものを捻じ曲げ、消滅させるという反則的な術なのである。
当然、この術を発動させるには様々な制約……というか、弱点を抱えている。今回、『彼』に使用したのはこの術でなければどうにもならないと判断したからであり、普段は選択肢の一つにすら上がらない、面倒な必殺技なのであった。
「……う、うう、な、何だ……?」
だからこそ……ああ、だからこそ。この術に関しては絶対的な信頼を寄せていた鬼姫は、この術を持ってしても死なないという事実を前に……溜息すら、零せなかった。
(憐れじゃな。自らが招いてしまった事とはいえ、本当に……憐れなのじゃ)
しかしそれは、己の自信に対してではない。この後に待ち受けているであろう……いや、違う。待ち受けている代償を『彼』が理解した時のことを思い……鬼姫は、何も言えなかったのだ。
……『彼』に背を向けた鬼姫は、振り返らなかった。
時期に回復するだろうが、今はまだ術の影響からか身動きが取れないようだ。それを見なくとも察した鬼姫は、仰向けになった『名雪の亡骸』に憑依して身体を起こし……トンネルの向こうへと歩き出す。
内と外とを隔てていた結界の壁は、若女が所持していた生弓矢によって穴が開いている。すぐに閉じてしまうだろうが、鬼姫が外に出るまでの猶予は十分にある。
……背後より、『彼』の呼ぶ声が聞こえる。
だが、鬼姫はもう何かをしようとは思わなかった。したところで意味がないと分かっていたし、下手に刺激して『箱』を使わせれば……それ故に、鬼姫はけして振り返ることをしなかった。
そうして……『彼』の声が途絶え、トンネルの向こうにて待っている若女の姿を見て。
鬼姫は……我知らず張り詰めていた肩の力を、溜め息と共に抜いたのであった。
※ 汚いので注意
月詠の依頼を終えてから、早三日の時が流れた頃。お由宇の神社ではなく、鬼姫の神社にその日、一人の大怨霊と、一柱の神と、一人の人間が集まっていた。
いや、正確に言えば集まったのではなく、集められたという方が正しかった。集めたのは鬼姫であり、集められたのは三貴神の一柱であるスサノヲと、たまたま場に居合わせたソフィア(非常に嫌そうな顔をしていた)の、計3人であった。
3人と、人の数で表したのは、その場に集まった全員が肉体があるからだ。つまり、鬼姫は『名雪の亡骸』に憑依した何時もの状態であり、スサノヲは例の少年の姿であり、ソフィアは……まあ、いつも通りの修道服であった。
そんな、何ともちぐはぐな3人が集まるこの場の空気は……贔屓目に見ても最悪であった。
その理由は、兎にも角にも鬼姫の機嫌がすこぶる悪かったからだ。
表面上こそ無表情ではあるが、纏う雰囲気が酷かった。今にも爆発せんばかり張り詰めた風船のようであり、抑えようとしても抑えきれない怒りが『呪い』となって、ぎしぎしと社を軋ませる程であった。
……さて、どう言葉を選んでも最悪としか言い表しようがないこの場において一人だけ、普段とは言い難い恰好になっている者がいた。それは……スサノヲである。
見た目をありのままに表すのであれば、スサノヲの頬は気の毒に思える程に腫れていた。それはもう赤黒く膨れ上がっており、外部より思い切り殴られたというのがしっくりくる有様であった。
実際、スサノヲは殴られたのである。誰にって、それは鬼姫より詳細を報告された月詠に、である。
天照曰く『あそこまでキレた月詠を見るのは、私が天岩戸に引き籠った時以来だわ』ということらしい。ちなみに、その天照の頬もスサノヲ並みに赤黒く腫れて……話を戻そう。
さすがに、天照とスサノヲも不味い事をしてしまった自覚はあったのだろう。月詠の叱責を素直に受けた後、鬼姫の沙汰を受ける為にここに来ている辺り……まあ、反省の気持ちはあるのだと思う。
けれども、鬼姫は欠片も許す気はなかった。
その内心が表に現れているのか、胡坐を掻いてスサノヲを見やる視線は背筋が凍りつくほどに冷たく、視線を向けられたスサノヲは申し訳なさそうに俯くばかりであった。
さすがのスサノヲも、同じ三貴神である月詠に殴られた傷は、普通に負った傷とは違うようだ。相当に頬が痛いようで、摩ることすら出来ずに目尻に涙を浮かべている。
何とも、痛々しい姿だ。小麦色の肌をした健康的な美少年という点を差し引いても、同情を誘う。事情を知らない第三者が見れば、いったいどうしたのかと引っ切り無しに声を掛けられているところだ……が。
「さて、スサノヲよ。沙汰を受ける覚悟は出来ておるな?」
「…………」
「言うておくが、此度の仕置きは月詠からも是非にと依頼されたものでな。内容こそワシに一任はされたが、ワシの一存でどうこうという話ではないのじゃ」
時刻は、草木も眠る丑三つ時。お由宇の神社と比べて人通りなど皆無どころか絶望的ともいっていいこの地に他人の気配などあるわけもなく、例えこの場の3人が大声を出したとしても……絶対に聞かれることはない状況であった。
だから、なのか。社の中は、虫のざわめきすら届かない程に静かであった。いや、正確には、余計な茶々は入れさせぬと威圧感を出している鬼姫以外は、静かであった。
ここで下手したら、今度は月詠まで一緒になって出張って来るから黙るしかないスサノヲ。そして、藪を突いで蛇どころか鬼を出したくないソフィアは、黙って空気を読んで鬼姫のお手伝いをするしかなかった……と。
「ソフィア、スサノヲの動きを止めよ」
「……止めますから、そんな怖い顔しないでくださいよ」
静かに怒髪天を突いている鬼姫の視線から目を逸らし、「それじゃあ、やりますよ」ソフィアはスサノヲの背後に立って手を組み合わせ、祈る。
直後、ソフィアの身体から放たれた幾つもの光線が、舐めるようにスサノヲに絡み付く。それは形を変えて光の鎖となり、ぎちり……と音を立てて、スサノヲを中心にしてピンと伸びて張り詰めたのであった。
本来のスサノヲであれば、ソフィアであっても動きを止めるのは非常に厳しい(一瞬だけなら、何とか出来る)。
しかし、今のスサノヲは、お忍び用の身体を使っている為に制限だらけ。封じ込めることは無理でも、動きを止めるだけならソフィアでも可能であった。
……自力では身動き出来なくなっているのを見やった鬼姫は、次いで、ソフィアに指示を出す。
「はいはい、分かりましたよ」
言われるがまま、ソフィアが室内の隅より持って来たのは……大きなタライが一つと、小さな箱が一つ。それがスサノヲの前に置かれると、さて、と鬼姫は口を開いた。
「お前がばら撒いた『箱』は全部で129個と月詠より聞いておるのじゃが、間違いはないな?」
「……うん」
「その中で確認出来ただけでも、500人近い者たちが『箱』に憑りつかれ、欲望の果てに破滅してしまった……間違いないな?」
「で、でも、それはただ幸せになってほしくて――」
「誰もがそれで幸せに終われるのであれば、ワシは鬼になんぞ成ってはおらぬ。誰もがそこで終われぬから、誰もが幸せを求めてワシを鬼に成り果てさせたのじゃ」
それで、話はお終いだ。
そう言わんばかりに立ち上がった鬼姫は、するりと巫女服を脱ぎ捨てる。露わになったのは、見た目相応の真っ白な肌……と、妊婦かと見間違うほどに膨らんだ下っ腹であった。
……妊娠、いや、そんなわけがない。当たり前だが、鬼姫は妊娠しているわけではないし、そもそも妊娠することは不可能だ。スサノヲとソフィアが思わず目を瞬かせるのも、無理はなかった。
そんな二人を他所に、パンパンに膨らんだ腹部もそうだが、シミ一つない白い裸体を隠すこともせず鬼姫は床に置かれたタライの中に入ると……中心に置かれた『箱』に向かって、お尻を下ろした。
「この『箱』は月詠に頼んだ特注品でな。お前の作った『箱』と同調しておる。箱一個分を浄化すれば、お前の作った『箱』の一つが浄化され、同時に、新たな『箱』へと同調し直してくれるのじゃ」
ぶるりと、鬼姫の尻が震えた……直後。ぷしゅう、と噴き出した滴が滝のように流れ落ち、じょぼじょぼと箱へと注がれる。それは、お由宇の前で見せた『箱』の無力化であった。
「……まあ、つまりじゃな」
ぽたぽた、と。太ももを伝う滴を気にも留めずに『箱』を手に取った鬼姫は、それをスサノヲの口元に近づける。ぷん、と立ち昇る臭いは紛れもなくアレの臭いであり、さすがのスサノヲも顔をしかめ……次いで、青ざめた。
「この『箱』を129回分浄化すれば、お前がばら撒いた全ての箱を無害なモノにすることが出来るわけじゃ」
「ま、待って! ちょっと待って、お願い待っ――」
「さあ、たんと味わえ。この世に129杯しかない、おぼこの、それも鬼の姫の命水なのじゃ……最初の一杯、グイッとゆけ」
仕置きの内容を察したスサノヲは悲鳴をあげたが、その程度で止まる鬼姫ではない。顎を掴んで無理やりこじ開けたそこへ、鬼姫は……無慈悲の流し込みを行った。
がぼがぼがぼ、と。
音だけで距離を置きたくなる、苦悶の悲鳴。言葉にならないソレは、流し込まれる黄色い液体によって押し流されてゆく。「う、うわあ……」離れた所でドン引きしているソフィアに助けを求める余裕すらないようであった。
……というか、助けを求められてもソフィアは欠片も助けようとは思っていないので、結果は同じであったのは……まあ、スサノヲには知る由もない話であった。
ちなみに、何故ソフィアが助けようとしないのかといえば、だ。それは、キレた鬼姫が怖いのも理由の一つだが、一番はやはり鬼姫より詳細を聞いていたからである。
ぶっちゃけ、自分が鬼姫の立場だったら間違いなくキレていただろうなあ、というのがソフィアの本音なわけだ。
何せ、此度の騒動は後味が悪いなんてものじゃない。そりゃあ、欲望に流されたのは当人たちだが、そうさせたのは間違いなく『箱』であり、それを作ったスサノヲである。
伊達に長生き(転生する前を含めて)していないソフィアですら、あまりのえげつなさに言葉を失くしたぐらいだ。短い一時とはいえ、犠牲になった者たちと対面した鬼姫のやるせなさを考えたら……怒るのも仕方ないことである。
なので、鬼姫を止めようとは全く思っていなかった。それどころか、仕置き内容にドン引きはするものの、致し方なしと思う程度には鬼姫の側なのであった。
(……でも、それにしたって腹が膨れすぎやしませんかね?)
とはいえ、だ。鬼姫の仕置きが終わるまで何もすることがないソフィアは、退屈凌ぎにしばしの間鬼姫を眺めた後……はて、と小首を傾げた。
何故かと言えば、鬼姫の腹部があまりに膨れているからだ。いや、中に納まっているのが残り128杯……あ、127杯の小水であるというのは分かる。だが、何故わざわざ溜め込んでいるのかがソフィアには分からない。
その気になればソフィアにも可能なのだが、小水程度ならば臓腑の機能を操作して生成する程度、簡単な事。鬼姫も術なり何なりを用いて行えるだろうし、わざわざ溜め込まなくとも、その都度作る方が色々と楽なはずなのだが……?
(……そういえば、スサノヲって日本神話に出てくるってことしか知らないんですよね)
何だろうか、嫌な予感がする。けれども、疼いた好奇心には逆らえない。怖い物見たさと気分転換も相まって、ソフィアは特に気負うこともなくスマフォを取り出し、検索を始め……その指先が、ピタリと止まった。ついでに、表情も凍りついた。
それは、神話におけるスサノヲの悪逆非道(というより、残虐非道か?)に驚いた……というわけではない。いや、それも少しはあるが、ソフィアの気を引いたのはそこではなく、その先の――。
(……嫌がらせの為に、神殿の前に大便をした?)
――言うなれば、一番やんちゃしていた時のスサノヲが起こした悪事の一つであった。
…………ごくり、と。
自然と、ソフィアの視線が鬼姫の膨らんだ腹部へと向けられる。医者でないソフィアには分からないが、それでも、尿水を溜め込んでいるにしては些か違うのではないかと思ってしまう膨らみ方だ。
(ま、まさか……あの中身の大半は尿水じゃなくて……)
……。
……。
…………いや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや……そんな、いや、まさか。
いくら鬼姫とはいえ、ガチギレしているとはいえ、まさかそんな……そこまでやることはないだろう。そりゃあ、仮に己が鬼姫の立場に置かれていたら……でも、さすがにそれは。
(……落ち着け、落ち着きなさい)
我知らず震え始めた掌から、スマフォが零れ落ちる。「――っと、とと」床に衝突する寸前で捕まえることは出来たが、そのせいで体勢を崩した。思わずといった調子で、ととと、とたたらを踏んで鬼姫の傍へと寄った……その瞬間。
――ぐぎゅるるるる。
……。
……。
…………言っておくが、ソフィアの腹の音ではない。身体どころか精神まで硬直させたソフィアは、どうか嘘だと言ってくれと願いつつ……そっと、鬼姫を見やった。
「……げふっ」
鬼姫は、特に変わった反応は示さなかった。ただ、4杯目の命水をスサノヲの胃袋へと流し込みながら、小さくゲップを吐き……どことなく苦しそうに己が腹を摩っていただけであった。
……。
……。
…………後年。
この後に起こった結末をけして語ろうとはしなかったソフィアだが、たった一言だけ。
『最上位の神が泣いて鼻水垂らした挙句に自ら失禁し、絶望に呻きながら慈悲を懇願する光景を目に出来た私は、ある意味では幸運なのかもしれませんね』
と、周囲に零していたとか、いなかったとか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます