第21話 (表) 何か色々有ったように思えるけど、よくよく考えたら神社から一歩も出ていなかったという要は新キャラな話




 ――春である。今年の春は、見事としか言いようがないぐらいに見事な桃桜を咲かせるという、素晴らしい景色から季節が始まった。




 暑くもなく、寒くもない。二日間の晴天が続いた後、一日掛けて雨が降る。いわゆる三寒四温(というには、些かサイクルが早いが)というのがニュースで呼ばれるようになってから、もう二週間が経っている。


 社会には、様々な人たちが新たになっていた。


 ある者は小学生から中学生へ、ある者は中学生から高校生へ、ある者は高校生から大学生へ、あるいは専門学生へ。


 所属が変わらなくとも一つ齢を経て学年を上げた者たちが、少しばかり顔ぶれを変え、あるいは同じ顔ぶれで新たな日常へと歩を進めている。


 それは、学生と呼ばれる者たちばかりではない。庇護される学生という身分から、社会人という身分へと移り変わった者。そういった者たちもまた、歩を進めていた。


 ある者は作業服に、ある者はスーツに、ある者はカジュアルに、ある者は私服に、ある者は制服に。多大な不安と僅かな希望を胸に、彼ら彼女らはフレッシュな空気を身に纏い、社会へと足を踏み入れていた。


 当然、新たな空気を身に纏った者たちが混ざれば、空気の質も変わる。特に目立った変化を見せるようになったのは、夜であった。


 全く未知の空気の中に混じる。それは、あらゆる生物にとって多大なストレスを与える。当たり前だが、人間とて例外では……いや、むしろ逆だ。


 他の生物よりも知性と理性と感情を発達させてしまった人間だからこそ、新たな環境に対してより強いストレスを覚える。例外はあるが、ある意味では人間が持つ固有の弱点であった。


 そして、そんな弱点をある程度緩和させ、軽減させる為に古来より人々が用いてきた道具が……『酒』と呼ばれる代物である。具体的には、酒に含まれているアルコールなのだが……まあ、そうなのであった。


 酒は、良い意味でも悪い意味でも人々の暮らしの中では欠かせない代物である。


 新たなコミュニティを上手く築けない者、不平不満を溜め込んでしまいがちな者、純粋に味が好きである者。そんな、様々な思惑を抱えた者たちが利用したり好んだりする者が、酒なのである。


 そんな酒が使用される場面は多岐に渡るのだが、この季節……暦に直せば、4月半ば。社会人としての挨拶回りを行い、まずは社会の空気に慣れた頃……歓迎会という名目で飲み会が開かれるのは、ある意味日本社会の通例であった。


 それ故に、この時期の居酒屋を始めとしたアルコール飲料を提供する店は、大忙しであった。


 自主的な駆けつけ三杯が暗黙の了解として認知されていた昭和とは違い、平成の真っただ中。体質的にアルコールを受け付けない者が居るというのが認知されるようになったおかげで、かつてより騒がしさはマシになったけれども、それでも騒がしいことには変わりない。


 常連ばかりが集う小さな個人店を除けば、大手のチェーン店はだいたいが団体客で埋まっていた。何処の店でも『乾杯!』という言葉が響き、何処の店でも様々なアルコール飲料が消費され、ある種の緩衝材の役目を果たしていた。


 ある者たちは無理に呑み過ぎて路上で吐いて、ある者たちは呑むことよりも名前を憶えて貰える事に尽力し、ある者たちは酔いに任せてホテルへと……そんな、風物詩とも言える光景が街中で、住宅街で、様々な場所で見受けられた。







 ……。


 ……。


 …………だが、しかし。そんな陽気な空気が満ちている季節だというのに。夜とはいえ、気温とは異なる温かさがちらほらと見られるようになった、住宅街の片隅……にて、ひっそりと佇む、大きくもなく小さくもない神社の社の中では。



「……はい、それでは第5回目となる反省会を始めます」



 春の陽気とは裏腹の淀んだ空気が、どんよりと満ちていた。ぽつりと零れた呟き……それは、傍目から見れば奇妙や異様を通り越した、不気味な光景であった。


 まず、その社の中は薄暗かった。窓やら何やらを全て閉ざし、外からの光(まあ、今は夜だけれども)が一切入らない。その中で、ぽつんと設置されている唯一の明かりは、野太い蝋燭が三つだけ。


 その蝋燭は、特別強い炎を出す物ではない。探せば幾らでも見つかる蝋燭の中で、一番大きなサイズ。当然、火を点けたところで得られる光の強さなんて、高が知れている。


 けれども、ここにはそれ以外に明かりになる物が無い。たった三つだけとはいえ、頼りないその明かりによって暗闇の中より姿を露わにしている者が、『一つ』と『一人』いた。



 一つは、人形である。



 線で繋げば正三角形になる位置に置かれた三つの蝋燭の、中心。そこに置かれているのは、昔ながらという形容詞が付きそうな、着物姿のおかっぱ頭な人形である。



 そして、一人は……その者は、13……だいたい、中学生ぐらいの体格をした、少女であった。


 だが、その少女は只の少女ではなかった。ここらでは珍しい天然の金髪碧眼に加え、恰好が……修道服である。さらに付け加えるならば、その顔立ちは10人に聞けば9人が『美人』であると答えるぐらいに整っていた。


 少女の名は、秋永・ソフィア・スタッカード。傍目には分からないが、彼女は前世の記憶を持ち、幾度の転生を経て様々な能力を習得している転生者である。


 事情を知らない者からすれば修道服のコスプレをした少女、あるいは信心深い少女だとしか思われない所だが……そんな子が、どうしてこんな場所に一人でいるのだろうか。


 おそらく、この場を目撃した者の大半が、そう思うだろう……だが、しかし。


 実の所、彼女は一人ではなかった。一見する限りでは、蝋燭にてこの場に照らし出された者は、正座をするソフィア、ただ一人だけ。よく目を凝らしたところで、彼女以外には誰もいない。



 ――けれども、いるのだ。



 常人にはその姿を目視することはおろか、気配すら感じ取れないが……確かに、いる。


 ソフィアの前に置かれた蝋燭とは別の、ぽつんと空いている二つの蝋燭の前に、蝋燭の光が素通りする見えざる存在……言うなれば、霊的存在に分類される者がいた。



 一つは、存在を知る者からは『鬼姫』と呼ばれている少女である。頭部より伸びた一対の角に、巫女服。ソフィアよりも小柄なその姿は、まあ……鬼と呼ばれているにしては、可愛らしい風貌ではある。


 だが、その見た目に騙されてはいけない。何故なら、この鬼姫と呼ばれている少女……かつては時の帝すら恐れ慄いて討伐隊を組まれたこともある、知る人ぞ知る伝説の大怨霊(あるいは、大悪霊)なのである。



 そして、もう一つ。蝋燭の明かりによってぽかんと開かれたその空間には、この神社の主であり神々の一柱である、『お由宇』と呼ばれている、少女の姿をした神様である。


 その見た目は花魁のような派手な恰好をした美少女だが、その本質もまた鬼姫と同様に騙されてはいけない。彼女は『性愛の加護』を司る神であるが故に、そういうことに関しては……話を戻そう。



 とにかくは、だ。



 常人には分からないが、この場には一癖も二癖もある人間と怨霊と神様が集まっている。そして、どうしてこの一人と一体と一柱がこんな暗がりの中で膝を突き合わせているのかといえば……だ。


 ……ちらりと、ソフィアとお由宇の視線が動く。


 二つの視線が向けられた先は、居心地悪そうに正座をしている鬼姫。知る人が知れば卒倒するであろうその光景の中で……しばし無言を貫いていた鬼姫は、絞り出すようにぽつりと呟いた。



『良かれと思って……』



 その声は、常人には聞こえない。当然だ、何故なら鬼姫は霊的存在……つまり、幽霊であるからだ……が、しかし。



「私、言いましたよね? どう足掻いても無理なモノは無理だから、心を無にして待っていて……と」

『そ、それは、そうなのじゃが……』

「聞いていましたよね? 返事をしていましたよね? なのに、どうして手を出しちゃったんですか?」

『よ、良かれと……思って……』



 この場に置いて、鬼姫の声が聞こえない者はいなかった。いや、それどころか、ソフィアもお由宇も、鬼姫の頬を張る(鬼姫自身が『力』を抑えているとはいえ)ことが出来るぐらいの『力』を有していた。


 なので、非常に弱弱しく聞き取り辛い鬼姫の言い訳も、彼女たちは一言一句聞き逃すことなく理解することが出来た。


 それは、鬼姫自身も理解している。だからこそ、鬼姫は居心地悪そうに総身を縮めるように肩を落とし、しょんぼりとした様子でソフィアより怒られていた。



 ……何ゆえ、ソフィアは怒っているのか。



 その原因が鬼姫であるわけだが、その原因の原因になっている物が、三人の前に置かれている人形であった。


 実はこの人形、『最近、日本人形がブームみたいですし、それっぽいの作って小金を稼ぎましょう』というソフィアの提案から作られた、五月人形における『お雛様』をモデルにしたものである。



 ――今時は幾らでも売れる場所がありますし、試しに一個売ってみましょう。



 そんな感じで発案者の、だいたいのことは出来るソフィアと、人形作りの知識が実はあったお由宇と、素人同然の知識しかない鬼姫とが協力して作ることとなったのだ……その製造過程にて問題が生じていた。


 それは別に、如何わしい材料を使ったというわけではない。酷い腕前の為に人形そのものの出来が悪いわけでもない。むしろ、その逆だ。鬼姫を除いて、ソフィアもお由宇も相当に腕が良い方であった。


 一通りの材料を用意して、集まったのはお由宇の神社。蝋燭だけとはいえ、その程度でどうにかなる二人ではないので、作業は滞りなく……いや、実に順調に進んでいた。


 職人技と呼んで差し支えない手付きで人形の身体を木材から掘り出し、トゲ一つ残さず上手に削り、効率良く組み立てて行くソフィア。


 これまた職人技だと見間違う程に滑らかな手捌きで人形に着せる衣服を様々な布から切り取り、縫い合わせて、形を整えていくお由宇。


 二人の手付きは、見ているだけで惚れ惚れとするレベルであった。


 木材を抉る刃が、飛び出たトゲを削るヤスリが、布を縫い合わせてゆく針が、単調な生地に彩る筆が、何一つの迷いを見せることなく、するするするりと止まらない。


 正しくそれは、分担作業というやつである。お互いがお互いの邪魔をすることなく、淀みなくスムーズに作業を進め、一つの完成品を作り出す伝統工芸であった。



 ……けれども、だ。



 二人が鮮やかな手捌きを見せ始めてから、小一時間。二人(正確には、一人と一柱だが)とは裏腹に、一人蚊帳の外に置かれることになった鬼姫だけは……それを違う目で見ていた。



 はっきり言えば、退屈で寂しかった事に加えて、嫉妬したのだ。



 というのも、だ。この人形作りにおいては鬼姫が手出し出来る要素が欠片もない。二人の手際があまりに良すぎるせいで、平均的な素人レベルの鬼姫の腕では返って邪魔になってしまうからだ。


 それを理解してからこそ、鬼姫も黙って二人の作業を見つめるだけに留まっていた。しかし、仲良く作業を進める二人を見て……何も思わないわけではない。いや、むしろ思う所ばかりであった。



 ――のう、ちょいとワシにもやらせてほしいのじゃ。



 元々、鬼姫は我慢強い方ではない。そして、我慢強い性格をしていないことは、お由宇もソフィアも知っていたし、そろそろ寂しがって来るだろうなあ、とは思っていた。


 だから、『はいな、それではこねぇをこうして……』お由宇の方から、鬼姫でも出来ると判断した作業を分担させた。鬼姫も、特に気にすることなく渡された布鋏(ぬのばさみ)で、布を切り分けていった。


 ……霊体(要は、幽霊)である鬼姫がどうやって布を切るのかといえば、それは『名雪の亡骸』に憑依して、である。


 同じく霊的存在(神様ではあるけど)であるお由宇に比べて、鬼姫の能力は他者を害する攻撃的なモノが多い。限定的な空間においてある程度は実体化出来るお由宇とは異なり、鬼姫はソレが出来ない。


 なので、鬼姫が作業に参加する為には、『名雪の亡骸』に憑依して肉体を得たうえで……というワンクッションが必要になるわけだ。


 まあ、肉体を得た所でお由宇ほど複雑な動きは無理だが、そこはそれ。子供のようにモタモタした手付きではあったが、鬼姫は真剣になって言われた通りにやっていった。



 けれども……ああ、けれども、だ。



 寂しくなった鬼姫が手を出してくるところまでは想定していたお由宇とソフィアだが、全ての結果を想定するなんて、不可能だ。そしてそれは、鬼姫の手で切り分けた布をお由宇が手に取った時に、発覚した。



 ……あのう、ぬし様?

 ……何じゃ、お由宇よ。

 ……切り分けてくださった布が全て、呪われてしまっておりんすぇ。

 ……なんと?

 


 そんな会話の後に改めて分かった事。率直に言えば、鬼姫の『負の力』を間近で浴びてしまった只の布きれが、触れる者の命を蝕む『呪いの布きれ』になってしまっていたのだ。


 これは鬼姫のみならず、ソフィアとお由宇にとっても想定外であった……のだが、考えてみればコレは、起こるべくして起こった当然の結果であった。


 何故なら、鬼姫は怨霊だ。それも、只の怨霊ではない。名のある神々すら恐れる程の、大怨霊だ。


 お由宇の膝枕でうたた寝したり、酒飲んで昼寝したり、月夜の下で大の字になって爆睡したりと、その姿は一見する限りでは怠け者にしか見えないが、その本質は紛れもなく危険なのだ。


 いくら鬼姫自身が他所に悪影響を与えないように『力』を抑えているとはいえ、完全ではない。(完全に抑え込むと、鬼姫自身に負担が大きい)目に見えない僅かな隙間からガスが抜けて縮む風船のように、鬼姫からは僅かな『負の力』が漏れてしまう。


 普通の悪霊であったならその程度は何の問題にもならないが、鬼姫の場合は違う。ただ、意識して何かをしただけでも災いをもたらしてしまう。半端に見える者が直視しただけで寿命を削ってしまう存在……それが、鬼姫なのであった。



「写真や映像に撮られるのが駄目で、ここに来て触れるのも駄目って、あなた……よく今まで生きて来られましたね」

「生きられなんだから、色々あってこの様なのじゃ……すまぬ、ワシが手を出すべきではなかったのじゃ……」



 布が駄目になったことよりも、そちらに対して唖然としているソフィアを他所に、鬼姫はするりと『名雪の亡骸』から抜け出た。次いで、その亡骸を所定の位置に戻すと……すまなそうに元の場所にて腰を下ろす。



 ――それで、この一件はお終いであった。



 鬼姫自身が反省していたのもそうだが、何よりもソフィアたちも想定していなかった事態だ。これで鬼姫を責めるのは、酷というものである。


 それに、幸いにも材料が足りなくなったわけではない。故に、ソフィアもお由宇も特に怒るようなことはせず、むしろ『早めに済ませるから』と気遣いの言葉すら掛けた。


 ……だが、しかし。その余裕も、そう長くは続かなかった。


 二度目の異変は、それから数分後。することもないので暇潰しがてら、転がっていた糸玉を鬼姫が掌の中で転がしている時であった。



 ……あ、ぬし様、その糸玉をこちらへ。

 ……ああ、済まぬ。どうも、見ているばかりではな。

 ……構いんせん、ただ見ておりんすんも退屈でありん……ぬし様。

 ……ん、どうしたのじゃ?

 ……心苦しいんでありすが、こねぇもまた『呪いの糸玉』に……。

 ……ああ!?



 憐れにも、呪い、再び。


 先ほどは意識を集中させていたが、今度は触れる時間が長過ぎた。


 無意識にやっていても、鬼姫の身体は全身が呪毒そのもの。今度の場合は鬼姫が迂闊であった為、もう何もしないし触らないという御触れがソフィアより出てしまう結果となった。


 ある意味では存在そのものが害悪となり得てしまう鬼姫も、触れもせず写りもしなければ無害である。それ故に、鬼姫は作業を進める二人から少しばかり距離を取り、遠目から眺める程度にしていた。


 ……だが、しかし。


 三度目の異変は、これまたさらに数分後。二度の反省を経て行われた三度目の作業だが、それを止めたのは……またもや、鬼姫であった。



 ……あの、鬼姫さん。大変、大変申し訳ないのですが……。

 ……待て、ソフィアよ、待て。ワシは何もしておらぬのじゃ。

 ……はい、何もしておりません……ですが、その……視線が。

 ……ああ、済まぬ。見ている分には鮮やかで面白くてのう。

 ……あ、いえ、そういう意味ではなく、視線を受けた道具の一つが呪われてしまって……。

 ……おい、待て、待つのじゃ。さすがにそこまで責任は持てぬのじゃ。



 残念なことに、呪い、ザ・サード。


 まさかの、視線による『負の力』の伝達。どうやら、その気が無くても集中して一点を見つめ続けたのが悪かったのかもしれない。さすがにこれは不本意過ぎると判断された為、鬼姫は無罪となった。


 けれども、視線ですら呪いを付加させてしまうのまでは見過ごせない。第3回目となる反省会にて、『作業中は社の外で待っているように』という御達しを出されてしまった鬼姫は、仕方なく外での待機となった。



 ……二度あることは三度あるというが、まさかの四度目。



 それが起こったのは、気落ちしつつも少しばかり不機嫌になった鬼姫が社の外に出た後。特にすることもなかったので、屋根の上で一人お月様を眺めていた……そんな時であった。


 酒を飲むには些か興が乗らないし、かといって、ぼんやり何をするでもなく眺めるのは退屈だ。時刻は夜だし、参拝客の姿を見て時間を潰すことも叶わない。


 ――あと、どれぐらい待てばいいのか。


 そう思って、仰向けになって夜空を眺めていると……不意に、視界の端から顔を覗かせた者がいた。もう終わったのかと思いながら、鬼姫はこちらを覗きこむ……ソフィアを見やった……のだが。



 ……鬼姫さん、四回目の反省会です。

 ……先に言うておく、ワシは無実なのじゃ

 ……残念ですが……ここに居る間、私たちの事を考えていましたよね?

 ……そりゃあ、退屈じゃから……待て、まさかそんなことでか?

 ……簡易な物とはいえ、『人形(ひとがた)』を作っているせいでしょうかねえ。

 ……い、いちおう聞いておきたいのじゃが、どのような具合になったのじゃ?

 ……簡潔に述べるのであれば、『傍にいる相手を無差別に呪い殺す人形』でしょうか。まあ、そうなる前に壊したので、本当のところは分かりかねます。

 ……もう一度言う、ワシは無実なのじゃ。



 そんなわけで、五回目の作業再開。しかし、今度はすんなりとはいかなかった。


 作業に参加しても駄目だし、使用する部品に触れても駄目だし、見つめても駄目だし、考えても駄目。ならば瞑想……いや、それはそれで『負の力』を強化させてしまうので、迂闊にはさせられない。


 なので、ソフィアとお由宇は鬼姫を一旦、社の中に戻すことにした……が、それで事態は何も好転などしない。


 さすがに五回目ともなると、材料の在庫に不安が生じるようになる。けれども、下手に鬼姫を遠ざければ(具体的には、鬼姫の神社に)、それはそれで間違いなく悪影響が人形に及んでしまうだろう。


 というか、それ以前に鬼姫の機嫌が悪くなる。


 鬼姫自身は気付かぬ様子で、少しでも影響が出ないよう心をあえて他所へと飛ばしていたりしていたが、そんな鬼姫を見てソフィアは気付いていた……というか、影響が出る理由はだいたい見当が付いていた。


 有り体にいえば、嫉妬だ。


 只でさえ己は参加出来ないのに、だ。ソフィアとお由宇が仲睦まじく共同作業を行うという状況を、指を咥えて見る事しか出来ない……その状況に、鬼姫は強い不満を抱いている。


 それが失敗の原因であると、ソフィアは思っていた。


 そんな状態で、鬼姫を一人蚊帳の外に放り出したら……超不機嫌になる。間違いなく、五度目も失敗する。


 それが分かっていたからこそ、ソフィアは考えた。


 お由宇は……鬼姫より『餅が焼かれる』という状況に、にまにまと気持ち悪い笑みを浮かべていたから役に立たないと判断したソフィアは、一人で考え続け……答えを出した。



 それは、『人形制作を一人でやる』というものであった。





 ……。


 ……。


 …………いや、まあ、何だ。


 それを言ってしまえば色々とお終いというか本末転倒だろうという話だが、とりあえず現時点での最良の選択肢がそれしか思いつかなかったソフィアは、鬼姫の影響が出ないように結界を張った状態で、一人頑張った。


 もちろん、途中でお由宇から幾つか助言は頂いた。


 だが、あくまで助言だけ。実質は一人作業であり、ぶっちゃけこれなら一人でやった方が良かったかな……と思ったりもしたが、とにかくソフィアは頑張った。

 そして……ついに、人形は完成した。


 その道の匠の品物と比べれば見劣りはするが、それでもその人形は着物の細部にまで情熱が注がれた一品であった。


 何せ、お由宇の口から『お見事でありんす』とお褒めの言葉を掛けられたぐらいなのだ……すぐ売り飛ばす物だとは分かっていたが、愛着が湧くのをソフィアは感じていた。



 ――まさに、その時であった。何気ない……本当に何気ない、注意していなければ誰もが見逃してしまうような、一瞬の出来事であった。



 本人曰く、『人形の頭に木屑が付いていたから取ろうと思った』、ということらしい。


 けれども、それが駄目であった。悲しい事に、それでも駄目なのであった。


 ただ、頭に付いた木屑を取ろうと伸ばした指先が、触れた。たったそれだけのことだが、たったそれだけであっても、『情熱を込めた一体』は、『呪いを込めた一体』になってしまった。


 そうして……場面は最初に戻る。これが、お説教を受けて居心地悪そうにするという珍しい光景を作り出した、経緯であった。



「……まあ、いいでしょう。悪気が無かったのは分かっていますし、過ぎたことです。とりあえず、この人形の使い道を探るとしましょうか」

『あら、まあ、そねぇでよろしんす? もう、新たには作りんせんでありんしょう?』



 これまで、成り行きを見守っていたお由宇が尋ねてきた。そのお由宇の視線は、半ば忘れ去れ掛けようとしている『呪いの人形』へと向けられていた。



 ……その人形は、パッと見た限りでは美しい日本人形である。



 肩口にて揃えられたおかっぱには艶があり、整えられた衣装も一つ一つに糊が淡く効いていて、パリッとしている。僅かばかり出来立ての臭いがしているが、出来栄えは世辞抜きで大したものであった。


 だが……よくよく見てみれば、何処かおかしい。雰囲気というか、寒々しさというか、……人形から感じ取れる気配が、確かに普通ではなかった。


 ……それも、当然だ。


 先述の通り、この人形は呪われて……というか、よく見るとガラスの目玉とか裾から伸びる手足が、微妙に動いているのが分かる。もしかしたら、自我に近しい何かを会得してしまっているのかもしれない。


 その証拠に、ガラスの目玉は変わらずあらぬ方向へと向いたままだが……視線を感じる。誰にというわけではないが、見られているという感じを、この場の誰もが感じていた。


 ……しかし、それだけだ。


 この人形は確かに呪われてはいるが、鬼姫が接触したのは一瞬のことだ。意図してそうしたならいざ知らず、不可抗力で成ってしまったものだから、人形に宿る『力』自体はそう大したものではない。


 なので、所持しただけで即死するようなことはないのであった……が、長く所持すればするほど、何かしらの悪影響をもたらす程度には危険な代物である。


 幸いにも、この場に影響を受ける者はいないし、何かしてきても返り討ちにすることが出来る者しかいないが……売り飛ばすには、些か無視できない問題であった。



「いいんですよ、もう。私だって、分かっていても間違いを犯す時はありますもの。それに、あんまり鬼姫さんを怒ると、怒り出す神様がおりますからね」

『あらまあ、口の上手い人なんし。あんまりからかうんではありんせん』



 5回目となる反省会(という名のお説教)を終えたソフィアは、「ははは、心に留めておきますよ」そう言って、やれやれとため息を零す……が、それだけ。


 実際、鬼姫に悪気がないのは事実であるのが分かっていたソフィアは、さてと、と話を次に移したのであった。


 ソフィアもそうだが、この場にいる誰もが、まさかあんな一瞬の接触で駄目になるとまでは思っていなかった。こればっかりはもう、此処を選んだソフィアにも落ち度があった。


 ……とはいえ、だ。


 ソフィアに落ち度が有るからといって、鬼姫自身に落ち度が無いわけでもない。要は、互いに落ち度が有るというだけのこと。それ故に、場の空気は思いのほかあっさりと切り替わったのであった。



『……ワシが言うのも何じゃが、使い道なんぞ無いのではないか?』



 居住まいを正した鬼姫の言葉に、「まあ、そりゃあそうなんですけどね……」ソフィアは苦笑しつつ……ぴん、と。『力』を込めた指先で人形の頭を軽く弾いた……が、おや、とソフィアは目を瞬かせた。


 ソフィア程の『力』があれば、並の呪い程度ならこれだけで解呪が可能だが……どうにも、手応えが固い。何処となく勝ち誇った雰囲気を漂わせている人形の頭を何度か指で弾いた後……おもむろに、ソフィアは鬼姫を見やった。



「親に似て、ずいぶんとしぶとい」

『誰が親じゃ、ワシは子供を産んだ覚えは一度として無いのじゃ』

「貴女の『力』を帯びて生まれたのですから、親みたいなものでしょ……さて、少しばかり真面目にやりますかな」



 そう言うと、ソフィアは修道服のポケットより、掌に収まる程度の小瓶を取り出した。その中に入っているのは、ソフィアが製作した、『聖砂(せいさ)』と呼ばれる特別な砂である。


 これは、海辺より集めた細かい砂を聖水(『正の力』を帯びた水のこと)にて清めた後、改めて太陽の光を用いて乾燥させた物に、秘伝の術を用いて作り出したものだ。


 その効力は退魔というよりは解呪に特化している。つまり、生き物なり物体なりに沁みついてしまった『呪い』の拘束を瓦解することを目的とした道具である。



「お由宇さん、新聞紙かそれに近しいものは有りますか? この砂は細かいので、床に巻くと後片付けが大変なんですよ」



 ソフィアの言葉に、お由宇は軽く視線をさ迷わせ……首を横に振った。



『あいにく、新聞紙はありんせん。神具に使う掛け布でありんしたら……』

「いや、そんな罰当たりなこと出来ませんよ……そうですね、タライとか、そういうのでもいいですよ。要は、砂が床に零れさえしなければいいわけですから」

『それなら、とある『箱』を浄化する際に使いんしたタライなら、ありんす』

「ああ、それでも別に――え、いや、待ってください。それってもしかしなくとも、小便塗れになっていたりしていないやつですよね?」



 つい先日のスサノヲの事を思い出したソフィアは、背筋を走る悪寒に押されるがまま、思わずといった様子で声を荒げた。


 ――と、同時に、(え、何それそんなの聞いていないよ!?)と言わんばかりに、沈黙を保っている人形の眼がくわっと見開かれた。


 付け加えるなら、そのガラスの目玉はソフィアと、『洗ったから、ご安心をば』小首を傾げているお由宇へと向けられていた。



「いや、洗ったって、何でそんな事に……いや、いやいや、他には無いんですか? 埃塗れになっていようが、全く構いませんから」

『あいにく、それ以外には……』

「えぇ……まあ、無いのであれば、仕方ありません」



 その言葉に、お由宇はぱんと手を叩いた。


 途端、暗闇の中からふわりと姿を見せたのは、何時ぞやのタライ。鬼姫汁を浴びたり諸々を乗せられたりと色々と散々な目にあっているそれが、ことり、と床に置かれた。


 ……見た目は、何の変哲もない普通のタライだ。


 カビ一つ見当たらないし、タライを囲う針金にだって錆びはない。「……止めぬか」恐る恐る臭いを嗅いで確認するソフィアの脳天に、鬼姫の手刀が下ろされ……ちらりと、その視線が人形へと向けられる。



 ――途端、傍目にもはっきり分かる程度に、人形の肩が震えた。



 ガラスの目玉が、鬼姫へと向けられる。対して、鬼姫の赤い瞳が人形へと向けられる。それは、言葉には言い表し難い不思議な沈黙。そして、その沈黙は……背中を向けて全速力で駆けだす、人形の逃走という形で破られることとなった。



『往生際の悪いやつじゃな』



 だが、相手が悪かった。人形が逃走しようとした相手は、かの大怨霊。不意を突いた所でどうにかなるわけもなく、あっという間に捉えられた人形は、鬼姫の手でタライへと押し込められ……押し込め……られない。


 じたばた、じたばた、じたばた。


 人形の抵抗は、正しく必死であった。よほど(まあ、当たり前だが)嫌なのだろう。人形とは思えぬしぶとさを持って右に左に総身をくねらせ、鬼姫の腕から逃れようともがいている。


 その様はまるで、シャワーから逃れようとする猫……そこまで可愛げはないか。


 とにかく、だ。呪いを解く為とはいえ、力づくでやって壊してしまうわけにもいかない。必然的に何度か脱出されそうになった鬼姫は、クイッと目じりを吊り上げた。



『ええい、大人しくせぬか!』

 ――イヤダー、ヤメロー、ヤメロー。

『おやまあ、言葉を話せるなんし?』

 ――ヤメロー、エンガチョー、エンガチョー。

『ワシの手から少しばかり『力』を吸い取っただけじゃ』

 ――イヤダ―、セメテ、アタラシイ、タライデー。

『なるほど、そねぇなんしから、ぬし様の声色でありんすぇ』

 ――ヤメロー、ハナセ―、ハナセ―、イヤダー。

『嫌がる気持ちは分かるのじゃがな……ああもう、無駄な抵抗は止めるのじゃ!』



 怒鳴る鬼姫、抵抗する人形。かつて、これ程までに鬼姫を手こずらせた相手がいただろうか……いや、いない。本当の本当に、嫌なのだろう。


 まあ、当たり前だ。誰だって、糞便塗れになったタライに身を置きたくはない。例えそれが洗浄済みであったとしても、嫌がって当然だ。


 だが、それならしょうがないというのでは話が始まらない。


 嫌がる人形をあの手この手で押さえようとするが、人形も必死だ。何が何でも脱出するという気概を見せているおかげで、未だその身体はタライに触れていなかった。



 ……さすがに、埒が明かない。



 そう思ったのは、まさかの鬼姫の方からであった。要は、面倒くさくなったのだ。タライ行きから見事逃れた人形は、大の字になってぜえぜえと息を荒げていた……妙に人間臭い。


 しかし、人間臭いといっても呪われている事実は変わらない。


 成り行きを見守っていたソフィアも集まって、どうしたものかと考える3人。もう失敗作として壊してしまおうか……そんな案も出たが、これにはソフィアだけでなく、お由宇からも待ったが掛かった。


 呪いはどうあれ、人形そのものの出来が良いのは事実。売り物にはならないが、せっかく手間暇掛けて作ったのだ。壊してしまうのはどうにも……そう、二人は思ったのだ。


 ならば、他所で改めて解呪する……これは、ソフィアの方から待ったが掛かった。理由は、そこまでするのは面倒臭いから、であった。


 ならば、ここに(お由宇の神社)置いておく……今度は、鬼姫の方から待ったが掛かる。理由は、何だかこいつが傍にいると腹が立つから、らしい。


 鬼姫の神社は、問答無用でアウト。あそこに下手に放置すると、どんどん『負の力』を吸収して面倒臭い事になるから……である。



 ……はてさて、いったいどうしたものか。三人はう~むと唸った。



 解呪出来ないから売りに出せないし、他所で解呪するのは面倒。ここに置くのは鬼姫が嫌がり、鬼姫の神社にも置けない。かといって、捨てるのも……中々に扱い辛い。


 ……そうして訪れる、些か居心地の悪い沈黙。不本意ではあるが、惜しむ気持ちはあるが、やっぱり壊すしかないのかなあ……という考えが、ちらほらと三人の脳裏に過り始めた……そんな時。



『せめて、周囲には無害な呪いであれば……』



 何気なく呟いたのは、お由宇であった。


 お由宇自身には、何か考えがあっての発言ではない。ただ、そうであったら良かったのにという程度の、淡い願望でしかなかった。



「無害な……」


 だが、それは。


『呪い、とな?』


 停滞しかけた思考を動かす、閃光のようなきらめきでもあって。


「――それです」

『――それじゃ』


 二人が、同時に手を叩いた切っ掛けでもあった。







 ……。


 ……。


 …………とまあ、誰にも知られることのない、そんなドタバタを終えて、一ヵ月ほどが過ぎた。その頃にはもう、お由宇も鬼姫もすっかり人形の事を記憶の彼方に置き去っていた。


 元々、ソフィアの一方的な提案(作って売り飛ばす)から始まったことだ。壊すのは嫌だが、当初の予定通り売られるのであれば口を挟むつもりはなかったし、実際に鬼姫たちは何も言わなかった。



 それに、売れようが売れまいが鬼姫とお由宇にとってはどちらでも良いことで……そして、そんな時であった。


 何時ものようにだらだらと酒を楽しんでいた鬼姫とお由宇の元に、幾度の転生を果たした金髪碧眼修道服少女、秋永・ソフィア・スタッカードがやってきたのは。時刻はだいたい、夜の8時手前であった。


 つい先日誕生日を迎えたらしい彼女が、一人でこんな時間に……まさか、自分の娘が某忍者よろしく分身して夜間に外出しているなんて、彼女の両親は夢にも思っていないだろう。


 社会的には優秀であり、家庭的には立派な両親であるとはいえ、だ。


 一般人でしかない父と母の目を誤魔化してどこかへ出かけるなんぞ、彼女にとっては余裕も余裕である。というか、まさか自分の娘が分身出来るなんて考えすらしないだろうけど。


 そうして、酒やらツマミやらを抱えて来たソフィアが酒飲みに参加して、幾しばらく。


 ソフィアの能力の一つである『ワープですよ、ワープ!』の応用によって持ち込んだラジオを話題の種にしつつ、同じく持ち込んだ煎餅と酒でお喋りをすること、幾しばらく。


 ツマミの煎餅も残り少なくなり、持ち込んだ酒もあと僅か。まだまだイケる鬼姫、酔いが回ってうとうとし始めているお由宇、ソフィアの頬が赤らんできた……そんな頃。



『――そういえば、ほれ。ひと月ほど前の、あの人形はどうなったのじゃ?』



 何気なく……本当に何気なく、一ヵ月前の『人形』の件が話題に上ったのは、酒気によって引き起こされた偶然であった。



「ああ、あの人形ですか? けっこう高く売れましたよ。おかげでほら、随分と豪勢になったでしょう?」

『何じゃ、お前にしてはずいぶんと気の利く土産ばかりと思うとったが、そういうわけか』

「宝石なんて貰ったって、貴女達は嬉しくないでしょ」



 クイッと、カップ酒を傾ける鬼姫に、ソフィアはそう答えた。


 実際、嬉しいことには変わりないが扱いに困る物の第一位が宝石であるのは鬼姫もお由宇も同様なので、ソフィアの判断は正解であった。


 ちなみに、そのソフィアの手に有るのは酒……ではなく、ウーロン茶の缶だ。伊達に長く生きている(精神的な意味で)だけあって、ソフィアは己の限界を理解していた……と。



 ――ふわり、と。



 鬼姫の隣で眠気が限界に達していたお由宇の頭が、崩れ落ちるように鬼姫の膝に落ちた。その顔は幸せそうで、普段とは違う、見た目相応の寝顔と共に、安らかな寝息を立てていた。


 鬼姫よりも酒が弱いソフィアよりも、さらに酒に弱いお由宇が、ここまで意識を保てただけで十分である。ほんのりと肌に張り付いたお由宇の解れ髪を指で払いつつ、鬼姫はお由宇が寝やすいようにと少しばかり膝を崩した。


 ……言っておくが、二人よりもお由宇が酒に弱いのは事実だが、勘違いしてはいけない。単純にソフィアもそうだが、鬼姫がザル過ぎるというか、強過ぎるだけなのである。



「ははは……それにしても、今日はずいぶんと飲んじゃいましたなあ。発散云々とは別に、自由気ままに飲める場所があるってのは色々と良いものです」

『何じゃ、家では飲まぬのか?』

「飲めるわけないじゃないですか。わたくし、こう見えて花の女子中学生、学年一の美少女と名高いソフィアちゃんですよ!」



 ぶふう、と。


 思わずといった様子で吹き出したソフィアは、そのまま、けらけらと腹を抱えて笑い転げた。すっかり酒が回っているようで、普段よりも数段機嫌が良く、先ほどからちょっとしたことで笑い出している。


 人間レベルならザルと称されるであろうソフィアとはいえ、空になった酒瓶は既に8本を超えている。常人ならアルコール中毒に陥っている量を摂取している辺り、彼女も大概の呑兵衛だろう。


 そうして、ひとしきり笑い続けたソフィアは、ひいひいと脇腹を摩りながら身体を起こす。一拍置いて、ウーロン茶を一口……何かを思い出したのか、ぷふうとまた笑って腹を抱えた。


 ……面倒な酔っ払いじゃなあ。


 必然的に一人だけ素面とそう変わらない状態の鬼姫は、膝より伝わる重みに目を細めながら、幾らか疲れた様子でコップを傾け……と。



「――ああ、そうだ、人形で思い出しました」



 不意に、ソフィアは笑い声を止めた。訪れた静寂によって、鬼姫の視線がそこへ向けられた、その瞬間。


 まるでタイミングを見計らったかのようにソフィアはむくりと身体を起こすと、修道服の懐より時計を取り出し……ふむ、と頷いた。


 ソフィアは、虚空へと手を伸ばす。途端、その手首から先が空間へと沈み込む。空間に浮かぶ波紋という不可思議な現象と共に、音も無くそこから手を引けば……白い、ポータブルTV(と、付属器一式)を掴んでいた。


 それがテレビの一種であることをソフィアから説明された鬼姫は目を瞬かせた。ここ最近になってようやく家電なるものがあることをソフィアより仕入れていた鬼姫ではあったが、それでもその驚きは相当なものである。


 どれぐらい驚いたかといえば、寝入っていたお由宇を思わず起こそうとしてしまった(結果的には起きなかったが)ぐらいに、である。


 前世での記憶なんてほとんど覚えていない鬼姫にとって、最も近しい記憶にある『テレビ』というのは、白黒で分厚くて持ち運びが出来ない、というものだ。


 以前にも『ぽけぇもん』なる『げーむ』とやらを使ったことがある鬼姫だが、それとこれとは違う。鬼姫にとって、『テレビ』というのはそれだけ凄いものなのだ。



 故に、鬼姫は思わずといった様子で居住まいを正し、ポータブルTVの前に正座をした。



 その姿に一人ツボに入って悶絶しかけている金髪美少女の姿があったが、急かされたことで気を取り直したソフィアは、さっさと準備を済ませると電源を付けた。



 ――おおっ。



 映し出された映像に、鬼姫は堪らず声をあげた。『ぽけぇもん』で現代の機械に触れたとはいえ、視聴者としてテレビを見るのは実の所、これが(テレビの撮影に同行したことはある)初めてであった。



「まだ終わっていなければいいんですけれども……えっと、見て貰いたいのはこのチャンネルです」



 しかし、感動している鬼姫を他所にソフィアは冷静であった。酒気混じりの吐息と共にぽちぽちと切り替えられた画面に映ったのは、『生放送・ホラースペシャル』というロゴが右上に目立つ、生放送のホラー番組であった。


 それは、二週間に一度は目にする程度の、何の変哲もないホラー系の特番であった。他と違いがあるとすれば、今回は生放送である、ということぐらいだろうか。


 当然な話だが、映し出されているゲストの顔触れに関して、鬼姫には見覚えがない。加えて、何ら不審な点もなく、番組内容にも何か不穏なことが起きているようには見えなかった。


 ……少なくとも、だ。


 カラーで映るテレビに感動こそ覚えたが、そこだけだ。それ以外では、『ただただ派手で喧しい』という程度の感想しか出せない感じの番組で、それをわざわざ見せようとするソフィアの意図が鬼姫には読めなかった。


 これが、いったい何だというのか。


 そうソフィアに問うが、「まあまあ、もう少し見ていてください」と言われてしまえば、それまでで。どうせすることもないのだからと、鬼姫はカップ酒を傾けつつ、ぼんやりと眺め――ん?



 おや、と鬼姫は目を瞬かせた。



 眺めていて、十数分程が過ぎた頃だろうか。それまでは『心霊写真』をテーマにトークを続けていたが、突如番組内容が変わった。今度は、呪われた土地や物に焦点を当て始めたようだ。


 些か派手過ぎるせいで鬼姫の好みからは外れてはいたが、人々に知られているメジャーな場所からマイナーな場所、呪われた道具から呪われた武器といった具合に、様々なホラーが紹介されていた。


 さすがに、鬼姫とて全知というわけではない。中には鬼姫も知らなかった『曰く付き』もあり、スタジオに用意されている幾つかの実物の中には『本当に呪われている一品』まである。



 ――これはまた、ずいぶんと身体を張っておるのじゃ。



 しばし見ていた鬼姫は、正直に感心する。そういう点に関しては中々に興味を引き付けられ、気づけば、鬼姫はけっこう楽しげに番組を見ていた……のだが。



“――これが、視聴者より投稿された最強最悪の曰く付き。ネットを介して様々な人々から巡り巡って来たという、呪いの人形……『禍々人形(まがまがにんぎょう)』です!”


『――ぶふへっ!?』



 それも、どこか……というか、かなり見覚えのある日本人形が姿を見せる、その時まではの話であった。


 思わず、それはもう盛大に含んでいた清酒を霧状に噴き出した鬼姫は、「――うわっ、きったな!」悲鳴をあげて仰け反るソフィアを他所に、げほげほと咳き込んだ。

 幽霊のくせに咳き込むのか……いや、今はいい、重要なことじゃない。


 重要なのは、何故、鬼姫がそこまで驚いたのか。それは、単にテレビの向こうに姿を見せたその人形……紛れもなく、ソフィアが何処かへ売りとばしたはずの人形であったからだ。


 ……見間違うはずが、ない。


 なにせ、人形から漂う気質は間違いなく『負の力』であり、その性質は見慣れた……というか、鬼姫のそれだ。映像越しとはいえ、一目で鬼姫はソレを看破したのであった。


 ……ちなみに、少しばかり清酒を浴びたお由宇は、目覚めることなくすやすやと寝息を立てて……まあいい。


 とにかく、だ。これは何かの冗談かと思ってソフィアに尋ねるも、「何で私がこんな手の込んだ事をする必要が?」見ての通りだとしか言われなかった。ならば、どうしてあの人形がこうなったのかと尋ねれば、だ。



「さあ、人から人へと渡り歩いて、今はそこにあるってことなんじゃないですかね?」



 という事であった。いやお前……そう言い掛けた鬼姫ではあったが。



「まあまあ、落ち着いて。私の施した術はそう簡単に破られるものではありませんから」



 赤ら顔のソフィアに宥められた鬼姫は、『そりゃあ、そうじゃがのう……』何だか納得いかないと言わんばかりに大きくため息を零した。けれども、そんな鬼姫のため息を他所に、テレビの向こうではそのまま番組が続けられている。



 ……テレビ(要は、ナレーター)の説明では、こうだ。


 その人形(禍々人形のこと)自体は、おおよそ一ヵ月前にとあるネットの片隅で売られていたものである。販売した者が作ったのか、それとも渡り歩いてきた物なのかは不明だが、確認が取れている最初の購入者は、人形を10万円で購入したのだという。


 商品の説明欄には、『色々あって今は呪われている人形。夜中に動き回ったりするので、ジョークグッズとしてどうぞ!』とあったらしく、最初の購入者もそのつもりで購入したんだそうな。


 その後、本当に夜中に動き回って色々し始めたことを怖がった購入者は、販売元へと連絡を取ろうとしたらしい。だが、その時にはもう既にサイトを退会されていたらしく、一切の連絡が取れなくなってしまったのだとか。


 捨てるのも怖くなった購入者は、商品売買アプリを使ってそれを転売した。番組が調べた限りでは、最長でも4日間、短ければ翌日には売りに出されたのだという。そうして、人から人へと渡り歩く内に……というのが人形の経緯であるというのが、番組の説明であった。



 ……テレビの向こうにいる人々からは、悲鳴やらどよめきやらを上げている。



 けれども、番組は止まらない。続けて、番組が独自に調べたらしい『禍々人形の由来と、その正体』が語られ始めている。まあ、正体といっても、その内容の10割はデタラメである。



 だって、人形を作ったのはソフィアとお由宇だし。断じて、戦争の時代がどうとか、差別を受けた者たちがどうとか、そんな大事な理由ではない。というか、生まれてまだひと月ぐらいである。



 ……そもそも、だ。ソフィアが施した術とはどういう事かといえば、だ。


 大雑把に言えば、『元々あった呪いを別の呪いへと変換する』というものだ。つまり、あの日、あの時、鬼姫とソフィアの両名がやったことは、人形が持つ呪いを無害な呪いに変えたというわけなのだ。


 その無害な呪いとは、『人形の髪が延々と伸び続ける』というものと、『夜中に耳元でささやき声を送る』というものと、『夜中に理由なく歩き回る』というものの、合計三つ。


 何故そうなったのかといえば、元々ある呪いを三つに分散させることで一つ一つの影響力を失くし、結果的には(生命を害しない意味では)無害なモノにする……というわけだ。


 ぶっちゃけてしまえば、『禍々人形』などという名前は大げさなのだ。そりゃあ、安眠を妨害されることはあるだろうが、それだけだ。


 襲ってくることはないし、万が一それに近しい行動を取れば、人形の背中に施したソフィアの術が感知するようにもなっているからだ……が、今はそんなことよりも、だ。



『……人形のやつは、何をそんなに怯えておるのじゃ?』



 鬼姫が気になったのは、人形そのものよりも、人形の態度であった。


 常人には分からないが、鬼姫のような『力』を持つ者なら分かる。あの人形は、怯えている。まるで、より強力な存在に対して少しでも距離を取ろうとしているかのようで……というか、よく見れば僅かばかり距離を取っている。


 ……いったい、何に怯えているのか。


 人形の視線を頼りに探してみるが、画面越し故にそれが上手く確認出来ない。正直、苛立ちのあまりテレビを壊しそうになったが、我慢して目を凝らし続け……ついに、見付けた。



 ――それは、四角い箱であった。



 黒色が隙間なく塗られたそれは観音開きで、閂によって内側から勝手に開かないようになっている。一見すれば仰向けに倒した厨子(ずし:仏像等を安置する、仏具の一種)のように見えるが……そうじゃない。


 映像越しではあるが、鬼姫には分かった。それは厨子でもなければ小さな物入れでもない。大人には使えないミニチュアサイズのそれは、紛れもなく棺桶であった。


 おそらくは子供よりもさらに年若い、水子(胎児、あるいは稚児など)供養の為に作られた物なのだろう。所々塗装が剥げていて年期を感じさせるが、大事に扱われていたのが映像越しにも見て取れた。



(……なんと、惨い有様なのじゃ。囚われたままの赤子共が泣き喚いておるのじゃ)



 だが、しかし……鬼姫の顔は晴れやかとは言い難く、曇っていた。憐れな事に、大事に扱われていたのは外側(棺桶)だけで、肝心の中身については粗末な扱いをされていたようだ。


 閂によって蓋が閉じられているから中がどうなっているかは分からないが、足元もおぼつかない稚児の霊が棺桶から離れようともがいているのが見える。


 それも、一人や二人ではない。軽く見ただけでも十人近い稚児の霊が、親を求めて棺桶から出ようとしている。誰も彼もが泣き喚いており、顔を歪ませていた。



 けれども、いったいそれがどうしてあの人形を怖がらせるのか……その答えは、すぐに鬼姫の前に映し出された。



 現れたのは、女の腕であった。病的と称されるぐらいに青ざめた不可視の腕が、棺桶の扉をすり抜けて伸びている。一瞬、まさか母親の腕かと鬼姫は思ったが……すぐに、違うと分かった。


 何故なら、腕が棺桶より飛び出した途端、離れようとしている赤子たちの様子が一変したからだ。まるで、一斉に癇癪を起こしたかのようで……あまりに突然の変化に、思わず鬼姫の方が面食らったぐらいだ。


 呆気に取られる鬼姫を他所に、するりと伸びた腕が……近くにいた赤子を掴んだ。直後、腕は赤子の悲鳴を気にすることなく棺桶の中へと引きずり込んでゆく。


 そこに、愛情の色はまるで感じ取れない。いや、それどころか、離れようとした赤子に向ける怒りすら感じ取れる。そうして、全ての稚児の霊を棺桶に戻した腕も元に戻り……箱は、沈黙してしまった。







 ……。


 ……。


 …………なるほど、あの人形が怖がるわけだ。



 棺桶が見せた(というより、中にいる女の靈が見せた)一連の行動を見やった鬼姫は、納得した。次いで、さて、と居住まいを正し……どうしたものかと考える。


 あの棺桶が、もはや水子供養の役目を果たしていないのは今ので分かった。ついでに、中には『面倒なやつ』が住み着いているようで、少なくない稚児の霊が囚われているのも分かった。


 人形はまあ放っておいても良いが、あの稚児の霊たちは違う。どれぐらいの年月を囚われているのかは分からないが、あれでは転生はおろか、成仏することすら出来ず苦しめられ続けることになる。出来るなら、それを助けたいと鬼姫は思った。


 しかし……どうすればいいのか、それが問題だ。少なくとも、自分がやるのは最後の手段だと鬼姫は思う。この神社から出られぬ身であるし、手段が無いわけではないが……出来るなら避けたい。



『――おい、起きぬか』



 だから、鬼姫はいつの間にか酒瓶を抱いて寝入っているソフィアの尻を引っ叩いた。「……なんですか?」さすがに寝入りを叩き起こされて不機嫌になったソフィアが、しかめっ面で目を覚ました。



『寝るのはアレをどうにかしてからにするのじゃ』

「アレって何ですか……明日にすればいいじゃないですか……」

『ええい、寝るでない。ほれ、眼を開いて見やるのじゃ』



 今にも眠ってしまいそうなソフィアを強引に抱き起こし、その目をこれまた強引に開く。さすがに堪らないソフィアは嫌がって身動ぎし……ふと、その瞳が棺桶に焦点を合わせて、止まった。


 一拍の間を置いて、鬼姫はソフィアから離れる。けれどもソフィアはそのまま画面を見詰め続けている。赤ら顔は変わらずだが、「これ、何がどうなっているんですか?」もうその目に眠気は見られなかった。


 ……とはいえ、どうなっているかと聞かれても、鬼姫が答えられる部分はそう多くはない。


 なので、鬼姫はとりあえず先ほど見た映像をそのままソフィアへと伝えた。誇張もなく、憶測もない。余計な事を何一つ付け足すことなく、そのままをソフィアへと伝え……次いで、尋ねた。



『お主の術で、どうにかして、あの箱をこっちに引っ張り込むことは出来ぬか?』

「いやあ、無理っすね。こうまで酒気で頭の中が揺れていてはどうにも……けっこう繊細な術でして、素面だったなら……」



 はっきりと、ソフィアは首を横に振った。負け惜しみでも何でもなく、その言葉は事実なのだろう。「こうなるなら、程々にしておくべきでした」思わずといった様子で指を噛むその様からは、後悔しているのが見て取れた。



『……それならば、こちらからアレをどうにか出来ぬか?』

「それも無理です。それをするとなると、素面云々よりも事前の準備が必要になりますので」

『では、アレをどうにかするのではなく、囚われている稚児を開放してやることは出来ぬか?』

「そっちはもっと難しいですね。幼子の霊魂は、大人の霊魂よりもはるかに脆い。入念な準備無しに手出ししたら、取り返しのつかないことになりますよ」



 だから、鬼姫は他にも幾つか提案してみた。だが、それら全てがソフィアより却下されてしまった。


 ソフィアは何も、意地悪でそうしているわけではない。実際に危険だからそう言っているだけなのだ。


 それが分かっているからこそ、鬼姫は特に機嫌を悪くするようなことはなかった。だが、それで、はいそうですかと諦めるにはあまりに……仕方がない、やはりこれしかないか。



(ソフィアが無理でも、ワシなら……やれやれ、今も昔も泣く子には勝てぬというわけじゃな)



 それは、鬼姫にとっては既に思いついていた考えであった。ただし、他者から見ればそれを名案と思うかどうかは別だし、出来ることなら鬼姫自身も避けたいと思っていた手段ではあったが……既に鬼姫の心は定まっていた。


 他に思いつかない以上、これ以外に手立てはない。ぱちぽちと頭の中で、これから起こるかもしれない可能性を考慮した鬼姫は、膝に乗せていたお由宇を優しく下ろしてやると……さてさて、と巫女服の袖を捲った。



『ソフィアよ、向こうのやつらの目を眩ますことは出来るかのう? その間にコレを通じて棺桶を回収したいのじゃが……』



 鬼姫がコレと指差したのは、テレビだ。



 今やっている番組は生放送。つまり、リアルタイム。これが収録済みなら、この作戦は初めから破たんしている。ある意味、運が良いのかもしれない。



「はあ、目を眩ます……それってつまり、棺桶が無くなる瞬間さえ見つからなければ良いってことですかね?」

『そうじゃ、次いで、ワシがあの棺桶に触れても大丈夫なようにして貰いたいのじゃ』

「ああ、それならご安心を。貴女が棺桶を引っ張り込んでくれるのならば楽勝ですよ……ただ、分かっているとは思いますけど、相当辛いですよ?」

『無論、覚悟の上じゃ』

「おやまあ、鬼姫さんは子供に対してはお優しい所がありますね」



 ん~、と。赤ら顔で思案したソフィアがそう告げれば、鬼姫はそれで良いと頷いた。すると、それなら酔っていても大丈夫だと、酒臭いゲップを零しながら言い切った。


 次いで、ソフィアは頭上に両手を掲げるようにして俯くと、ブツブツと呟き事を零し始める。全く聞き覚えのないその言葉は、おそらく彼女の前世において使用されていた言語なのだろう。


 それがどういう術なのかは分からないが、その身より立ち昇る『力』の強さは分かる。風一つ吹いていないというのに、独りでにふわりふわりと舞い上がる修道服が、その証拠。


 鬼姫に及ばないとはいえ、ソフィアの実力もまた人知の外。超常的な現象の一つや二つ、起こすぐらいは朝飯前というやつだ。放たれる『正の力』が、鬼姫の『負の力』とぶつかり合って、社の至る所でラップ音がぱちぱちと響いた……と。



 不意に――テレビから、ざわめきと悲鳴が木霊した。



 何が起こったかと言えば、答えは明確。放送現場である会場(というよりは、局の一室)の照明が落ちて、手元すら見えないぐらいの暗闇に閉ざされてしまったからだ。


 誰がやっているのかが分かっている鬼姫たちとは違い、向こうでは不意の事故が発生したと思われたようだ。真っ暗で何も見えないとはいえ、大小様々な動揺がスピーカーより鬼姫たちの下へと届いていた。



(――さて、さっさと済ませるとするかのう)



 ソフィアの術が働いている内に、やることをやっておこう。


 テレビ向こうより聞こえてくる声に鬼姫は心の中で軽く詫びると、テレビ画面へと指先を宛がい……黒い画面に波紋が出来たかと思えば、肘まで音もなく沈み込んだ。

 腕がテレビ画面をすり抜けた……いや、違う。


 画面をすり抜けたのではなく、空間を通り抜けたのだ。膨大かつ強大である鬼姫の『力』をもって行われる、強引な部分転移。分かり易く言い換えるなら、ソフィアがやる『ワープですよ、ワープ!』を肘から先限定で行ったのである。


 ……仮にこの場を見た事情を知る者が見れば、鬼姫もそういう芸当が出来るという現実を受け入れられず、気絶していたことだろう。


 何せ、一部分とはいえ鬼姫が御神体である『刀』より解き放たれているのだ。その危険性を考えれば、事実を知った瞬間にその者が気絶したとしてもおかしくない。


 まあ、幸いにもこの場を目撃した生者は、ソフィアを除いて他にはいない。というか、事情を知る者は鬼姫を恐れて、たとえ泥酔していたとしても近寄ることなどないので、露見するようなことはなかった。


 そんな、一部の者たちを卒倒させる鬼の所業を行っている鬼姫は、いまだ黒いままの画面に目を凝らしながら、グリグリと腕を動かし続ける。


 未だ、画面の向こうが明るくなりそうな様子は見られない。ソフィアの術のおかげだろう。画面越し故に鬼姫の目でも正確に視認することは出来ないが、誰にも気付かれない内に盗み取るのは容易な状況であった。



(……いっ、つぅ……さ、さすがに痛いのじゃ……!)



 しかし、状況とは別に、鬼姫には余裕がなかった。一見すれば無表情のまま気楽そうにしているように見えるが、その内心は腕から伝わってくる饒舌し難き激痛に苦悶の呻き声をあげていた。


 無理もないことだ。一部分とはいえ、封印が及ばない場所に身体を出している以上は、この地へと引き戻そうとする封印の力が働く。それを無理に我慢して強引な作業を行っているのだから、当然の結果だ。


 その痛みときたら、まるで肘から先を溶岩の中に押し込んだかのような、饒舌にし難い激痛だ。さすがに消滅するようなことはないが、それでも鬼姫にとっては辛い時間であった……っ!



『――よいしゃぁ!』



 空ぶっていた指先が目標らしき棺桶に触れた。


 そう認識したと同時に、鬼姫はそれを掴んで引きずり出していた。もう少し慎重にやれと言われそうな強引さだが、そうしてしまうぐらいに腕が痛かったのだから、まあ仕方ないことである。


 ぶすぶす、と。テレビ画面より飛び出した煙が、社の中を立ち昇る。結界の外へ、強引に腕を出したせいだ。辛うじて棺桶を挟み取る腕を離さないように慎重に……棺桶を床に置いた。


 棺桶は、無傷だ。いや、正確には棺桶の中にいる稚児たちの靈は無事であった。何故なら、テレビの向こうより棺桶を引っ張り込んだ、その瞬間。異変に気づいた女の霊が何かをするよりも前に、ソフィアが外から霊たちの動きを封じたからである。


 稚児たちの霊と、それを押さえつけている女の靈を分けて対処するのは難しい。だが、両方とも動きを止めるだけならば、(ソフィアの実力ならば)そう難しい事ではなかった。



『いっ、つぅ……』



 とりあえず、これで今すぐ稚児たちの靈がどうこうなることはない。それで思わず気を抜いた鬼姫は、脳天へと走る激痛に堪らず顔をしかめた。



「大丈夫ですか? 手首から先が無くなっているように見えますけど?」

『封印に削り取られただけじゃ……まあ、腕だけならばどうということはないのじゃ』



 立ち昇る煙が、緩やかに止まる。そうして露わになったのは、肘から先がものの見事に消失している鬼姫の腕であった。


 本来ならば即座に引っ張り戻される所を、強引に堪え続けたせいだ。霊体であるが故に出血こそしていないが、何とも痛々しい有様であった……と。


 軽く、鬼姫は腕を振る。途端、音も無く消失した先からどろりとした黒い液体が噴き出したかと思えば、それが失った肘から先を形作り……次の瞬間にはもう、元の腕になって……ん?



『……何でお前がそこにおるのじゃ?』



 何気なく見やった鬼姫の視線が、テレビの隣にて座り込んでいる『人形』へと留まる。おいっす、と手を上げる人形に、「ありゃ、一緒に付いて来たんですか?」今更ながら気づいたソフィアも、驚いて目を瞬かせた。


 鬼姫たちとしては、狙いは棺桶であって人形ではない。それに、売り払った物だ。本来ならテレビ向こうのあの場所に返し、正当な持ち主の元へと送るべきなのだが……まあいいか。


 ちらりとテレビを見やれば、既にソフィアの術が解除されているようで、明かりが戻っている。しかし、相当な混乱が見られるようで、(スタジオに置いてあった物が無くなれば、そうもなるだろう)ずいぶんと騒がしい様子であった。


 この場所に、また人形を戻す……さすがに、それは面倒だ。というか、もうあの痛みは勘弁願いたい。どうするべきかとソフィアを見やれば、両手で×印を作っている……ああ、もう、仕方ない。



『ここに身を置くか? お由宇には、後でワシから話を通しておくのじゃ』

 ――コンゴトモ、ヨロシク。



 無表情なので分かり辛いが、嬉しいのだろう。可愛らしく万歳する人形の姿に、「それなら、名前を決めなければなりませんね」様子を見ていたソフィアが提案した。


 まあ、確かに。すぐにお別れするのであれば人形呼びでも良かったが、ここに身を置く以上は何時までも人形呼ばわりするのも変だ。名前の一つぐらい、付けてやるべきだろう。その点については、最もだと鬼姫も思った。


 ただ……それをするのは後だ。まずは、棺桶の中の『女霊』をどうにかしなければならないが……ふむ、とりあえずは閂を外して中を見るか。


 そう判断した鬼姫は、『力』を抑えながら、棺桶の扉を押さえている閂を外す。閂自体はとても簡単な作りのようで、扉の中心を横切るように差し込まれているだけだ。横から引っ張るだけで、あっさり抜けた。


 開ける前にソフィアに視線を向ければ、大丈夫だと言わんばかりに頷かれた。なので、そっと扉を開いた……のだが、はて、と鬼姫は小首を傾げた。


 何故かといえば、中には何もなかったからだ。隅から隅まで、棺桶の中は空っぽだ。あの女の霊の姿はおろか、稚児たちの霊すらない。なのに、気配だけは変わらず感じ取れる。


 これはいったい……まるで、狐に化かされたかのような思いであった。



『ワシには分からぬ……そちらは?』



 鬼姫には分からなかったので、隣のソフィアにも見せる。ソフィアも分からなかったようで、右に左に上に下にと視点を変えて調べ……「ああ、そういうことですか」という呟きと共に、背中側の壁……つまり、中の底を叩いた。



「二重底ってやつですね。たぶん、ここの下に遺骨か何かが入っている感じ……悪霊が住み着いているかと思っていましたけど、これはどうも違うようですね」

『遺骨じゃと?』



 思わず、鬼姫の声色が低くなった。何故かといえば、『面倒な奴』……すなわち、霊的存在が単純に住み着いているだけなのと、遺骨という物質的な憑代が有ったうえで住み着いているのとでは、前提条件が大幅に変わるからだ。


 樹木で例えるなら、あの時見えた女の腕が木の実や枝葉で、遺骨は幹や根のようなものだ。


 枝葉を切り続ければ『力』を消耗して衰弱はするが、霊的に死滅させるまでに時間を要する。手っ取り早く祓おうとするのであれば、憑代……すなわち、遺骨へと『力』を直接注いで幹や根を壊すところなのだが……しかし、だ。



『何故、そのような……何の目的があってこのような物を作ったのじゃ?』



 鬼姫が気になったのは、そこであった……というのも、だ。


 鬼姫の感覚や常識では、遺骨をこのような形で安置する理由が無い。この棺桶が実の所は仏壇だったにしても、二重底にして隠す必要もない。


 呪物として遺骨を用いるにしても、コレでは駄目だ。物質的な憑代を用意すれば、他者からの解呪が難しくなるという利点はある。


 だが、その分だけ術の範囲が狭まってしまうし、何より用いられた遺骨の思念をもろに受けてしまうことで、肝心の術が思うように発動しないという危険性があるからだ。


 少なくとも、鬼姫が生きていたあの時代(つまり、霊能やら何やらの全盛期)ですら、遺骨等を用いる術者は多くはなかった。


 用いたとしても、それは遺骨の主の意志を汲んだうえでの事で……それを知っているからこそ、鬼姫は意味が分からないと首を傾げた。



『今は遺骨を用いて呪術を行うのが一般的なのかのう?』

「さあ、分かりませんよ。死んでいる奴より生きているやつの方がよっぽど怖いのが世の常ですからね。誰かにやられたか、自ら望んでそうなったのか……で、どうします?」

『どうすると聞かれてものう……遺骨は、女のモノだけなのじゃな?』

「いえ、おそらく子供たちの分も有りますよ。少なくとも、私が感じ取れる限りでは入っている遺骨は13人分……なのですが、どうもこの感じ……遺骨が混ぜられた状態で収められていますね」



 混ぜられている……その言葉に鬼姫は思わず、むむむ、と唸った。


 女霊と稚児たちの霊との間に壁を作り、稚児たちに影響が及ばないようにする。そして、外から憑代(この場合、遺骨)へと直接『力』を流し込み、少しずつ憑代を破壊する。


 それが、遺骨を始めとした憑代がある場合の、お祓いや解呪の基本的なやり方ではあるが……混ざっているとなると、話は変わる。



『――よし、ソフィアよ』

「無茶言わないでください。さすがに混ざった遺骨を分ける術なんて知りませんよ」



 困った様子でソフィアを見やる鬼姫に対し、ソフィアも困った様子で鬼姫を見やった。



『まあ、そうじゃろうなあ……とはいえ、これでは迂闊に手出しが出来ぬのじゃ』



 憑代となる遺骨が有っても、成仏させることは可能だ。だがそれは、女霊が邪魔をしないうえで、時間を掛けてゆっくりと……という前提条件がある。


 稚児の繊細な霊魂を守りながら、抵抗する女霊を抑えつつ解呪なり何なりしていく……という作業は、ソフィアであっても不可能に近いことであった。



「お由宇さんなら、何とか出来るんじゃないですか?」

『共に成仏を望んでいるのであれば、可能じゃろうが……お前には、コレが成仏を望んでいるように思えるか?』



 コレ、と指差した遺骨……正確には女霊の遺骨を指差した鬼姫に、「欠片も、思いませんね」ソフィアは率直な感想を述べ……ん?



『……お前、何をしておるのじゃ?』



 何時の間に、近づいて来たのか。気づけば、鬼姫とお由宇の間には人形の姿があった。


 生者と亡者の間に挟まれた日本人形という、何とも奇妙な構図だ。いったいどうしたのかと思って二人が視線を向ければ、人形はまるで、『任せろ』と言わんばかりに己が胸をどんと叩いた。



 ……自然と、鬼姫とソフィアは互いの顔を見合わせた。



 経緯から分かる通り、人形は鬼姫の『負の力』を帯びた事で自我を持った呪いの人形だ。当然、除霊等の高度な技術は知り得ていないし、そもそも『力』が根本的に足りていない。


 いったい、何を思いついて、何をしようとしているのか。


 気になった二人が尋ねてみるが、人形は答えない。ただ、『私に任せろ』と言わんばかりに己が胸を張って、どんと叩くばかり。しばし、顔を見合わせた二人は……同時に、頷いた。



『任せて、良いのじゃな?』

 ――オオブネ、ノッテロ。

『よし、ワシたちは何をすれば良いのじゃ?』



 人形からの指示は、簡単なモノであった。


 まず、人形が棺桶の中に入る。次いで、閂で封をして、鬼姫たちは『力』を抑えて気配を断つ。そして、中から合図を送るから、急いで閂を外して扉を開けろ……それだけであった。


 本当はもっと細かく指示を伝えたいのだろうが、人形は自我を得てまだ時が短い。言葉だって拙いし、これでも精一杯なのだろう。それが分かっている二人は、言われるがまま素直に閂を差し込み、言われた通りにした。







 ……。


 ……。


 …………社の中には、点けっぱなしになっているポータブルTVから流れている番組の騒音と、それに隠れるようにして寝息を立てているお由宇の気配だけが残された。


 人形が自ら閉じこもった棺桶は、沈黙を保っている。鬼姫とソフィアも、息を潜めて気配を消している。仮に、この場に『力』を持った者が現れたとしても、その者は寝息を立てているお由宇と、点けっぱなしのソレと、棺桶しか見えなかっただろう。


 それぐらいに、二人は完璧に気配を、存在を、消していた。そうして、どれぐらい気配を消していただろうか。


 点けっぱなしのテレビ画面のバッテリーが切れて、社の中に暗闇が訪れて、幾しばらく。常人であれば手もとすら確認出来ないぐらいの真っ暗闇の中で……不意に、こつこつん、と物音が二回した。



 ――その瞬間、ソフィアは風になって、鬼姫は闇の向こうへと更に紛れた。



 ひゅう、と風を切って棺桶の傍に来たソフィアは、瞬時に閂を外して扉を開ける。途端、内側から飛び出して来たのは……『女の腕』に捕まれた人形であった。


 いや、よく見れば違う。女の腕が掴んでいるのではない。人形が、女の腕を掴んで放さないのだ。ぶん、と飛び上がる人形に引きずられた腕は、数メートルほど伸びた辺りで肩口が見え……女が、姿を見せた。


 それは、辛うじて女性としての原形を認識出来る程度に痩せ細っていた。眼球はなく、歯茎は剥き出しで、髪は蛇のように長い。腐敗しかけている女という方が、しっくり来る姿をしていた……と。


 ぬるりと伸びる髪の中から、泣き声が響く。と、同時に、幾つもの小さな手が、小さな足が、小さな頭が、もがきながら飛び出す。けれども、出られない。何重にも巻き付く女の髪が、稚児たちの霊を絡め取っているからだ。



「――汝、動くこと叶わず!」



 引きずり出された女が気付くよりも早く、ソフィアの掌に光が生まれる。それは直視することが難しい程に眩しく、カッと光を浴びた女が振り向いた――時にはもう、女は動けなくなった。


 しかし、それでも完全ではない。何故なら、そうするだけの『力』をぶつければ、稚児たちの霊が無事では済まないからだ。異変を理解した女霊は、唯一動かせる、稚児たちの霊に絡み付く髪の締め付けを強く――しようとした。



『――遅い』



 だが、無理だった。それよりも早く、鬼姫が女霊の前に現れ、視線を合わせたからだ。


 女霊は、その瞬間、真の意味で動かなくなった。


 動けないのではない、動かさないのだ。術を行使する必要はない。


 ――ほんの僅かな身動きすら、許さない!


 その意思を込めた視線だけで、圧倒的な『力』の差を思い知らされた女霊は……自ら、動くことを止めたのであった……っ!


 軽く、鬼姫が腕を振るう。たったそれだけで、指先より放たれたレーザーが如き『負の力』が、女霊の腕を切断した。


 悲鳴すら上げることが出来ないでいる女霊を尻目に、ぽてっ、と床に落ちた人形は……するりと自ら女霊の手から離れると、鬼姫の傍に立って、えっへんと胸を張った。



『お主の企みは上手くいったようじゃな、どんどん胸を張るがよい……そちらはどうじゃ?』



 視線を外すことなく鬼姫が尋ねれば、「これなら、やれそうです」女霊の頭上にて光の玉を作り出したソフィアが、稚児たちの霊に絡み付く髪を手作業で外していく。


 ……今度の術は、拘束するよりも消耗した稚児たちの霊魂を癒す意味合いがあるのだろう。


 その証拠に、先ほどよりも光から放たれている『正の力』が弱い。ぱちぱちと己が身体に当たって反発しているソフィアの『力』を感じながら……ふと、鬼姫は傍の人形がそれっきり何もしなくなっていることに気付く。


 短い付き合いではあるが、こういう時にあの人形が静かなのはどういうことだろうか。自分の手柄なのだから、拙い言葉で自分を賛美するよう話しかけてきそうなのだが、視線を外せないから確認出来な……あっ。



『……ソフィアよ、人形のやつはどうなっておるのじゃ?』

「人形ですか? それなら貴女の隣で大人しく……あっ」



 振り返ったソフィアが、ぽかんと大口を開けた。次いで、苦笑しながら人形の元へと歩み寄ると……光を浴びて間近に浴びたことで動けなくなっている物言わぬソレを、鬼姫の胸元に押し付けた。


 ……思った通り、ソフィアの術のとばっちりを受けてしまっていたようだ。再び稚児たちの霊を引き剥がす作業へと戻るソフィアを他所に、ぐったりと己が胸元へともたれ掛る人形を抱き留めながら、鬼姫も苦笑した。


 何とも、面白いやつだ。『力』そのものはこの場の誰よりも弱く、なのに無鉄砲で、変な所で間抜けだ……本当に己から生まれた存在なのかと、鬼姫は思った。



(……そういえば、名前がどうこうという話じゃったな)



 そうして、ふと。鬼姫はこの人形の事で一つ、途中で終わっていた話を思い出す。



(ワシから生まれたということは、いちおうは女なわけじゃが……はてさて、どんな名前が良いのやら)



 今の所、候補は何一つ思い浮かばないが……まあいい。


 自分一人で決めるのも変な話だし、稚児たちの霊を成仏させ、その後で女霊を滅し、翌日になってお由宇が起きた後に決めればいい。


 そう結論を出した鬼姫は、胸元の人形を抱え直しつつ、改めて女霊へと向ける視線を強めるのであった。










 ……。


 ……。


 …………それから、七日間の時間が経過した。



 どうして七日間なのかというと、ソフィアの方から『一週間後に、その子の新しい身体を持ってきます』と言われたからであった。


 何故、新しい身体を持ってくる必要があるのか。それは単に、あの日……鬼姫が人形を抱き締め続けた事が原因であった。


 何せ、元々が鬼姫の『力』によって生まれた存在であり、鬼姫の傍にいるだけで、鬼姫より漏れ出ている『負の力』を吸収してしまうことを危惧されたぐらいだ。


 そんな存在が、ソフィアが術を解除する(つまり、女霊を滅するまで)までの数時間。たった数時間とはいえ、直に鬼姫に触れ続ければどうなるか……考えるまでもないことである。


 実際、それが原因で人形の身体にヒビが入ってしまった。


 どうやら、あまりに急激に『力』を吸ってしまったことが原因らしい。他の幽霊とは違い、その人形は霊魂を持っていない。それ故に『力』が漏れ出るのは消滅に直結しており、新しい身体が急遽必要になったのであった。


 とりあえず、新しい身体が届くまでの一週間。


 その間は、鬼姫の傍に居る限りは失った『力』の分だけ、新しく『力』が補充される。なので、新しい身体が届くまで、人形は鬼姫とお由宇の下で大人しくするしかなかった。



 ……しかし、意外と退屈にはならなかった。



 あの日の翌日、鬼姫より事情を聞いたお由宇が、己の神社に住まうことを笑顔で承諾してから、かれこれ一週間。たった七日間とはいえ、意外なぐらいに楽しくやれていた。


 というのも、人形には常識がない。意図せず、偶発的に自我を持った存在だ。多少なり会話することは出来るのだが、調べてみれば一ケタの足し算すらまともに出来ないくらいの知識しかなかった。


 それ故に、鬼姫とお由宇は付きっ切りで一般常識(というより、日常で必要となる知識)を教え込んだ。それは本当に基礎の基礎というべきものばかりであり、見方を変えれば、物心が付いていない幼子に対するソレであった。


 いや、実際の所、人形に対しての二人の態度は正しく……それどころか、どこか自らの子供に向けるかのような愛情すら傍目には感じ取れた。



 ……まあ、無理もない。



 お由宇にとって、此度の人形は、愛する鬼姫より誕生した存在なだけでなく、己が手塩に掛けて作り出した存在でもある。口調というか雰囲気というか、どうにも琴線に触れるというか……気付けば、お由宇はその人形を我が子のように可愛がっていた。


 対して、鬼姫の方はというと……これまた意外な事に、お由宇ほどではないにしろ、それなりに愛着を抱いているようであった。最初はお由宇を取られたようで不機嫌になることが多かったのだけれども、あまりにも人形が無垢で無知である事に気づき、それから……ということらしかった。



 ――そうして、一週間後の夜。その日は、昼間の陽気が何処となく残っている夜であった。



 夜空に雲はなく、月もまん丸だ。もしかしたら明日になるかなあと二人が思っている所にソフィアがやってきたのは、人形を挟む様にして社の天辺に腰を下ろし、月を眺めている……そんな時であった。


 何時もの修道服を身に纏ったソフィアは、己の背丈にも匹敵する箱を背負っていた。

 アレが、新しい身体なのだろうか……気が急く二人と一体を他所に、まあまあと社の中にソフィアは入る。少し遅れて中へと戻ってきた鬼姫たちを前に、ソフィアは術で明かりを用意してから、背負っていた箱を床に置いて……開いた。



『――思うてんしたよりも、大きいでありんす』



 途端、お由宇は驚きに目を瞬かせた。


 それは鬼姫と当の人形とて例外ではなく、おお、と驚きに声をあげた。どうしてなのかといえば、鬼姫たちが想定していたよりも立派なのが箱の中にあったからだ。


 箱の中に納まっていたのは、部位ごとに分解され、隙間にクッションが敷き詰められている人形の身体であった。そこは想定していたのだが、サイズが鬼姫たちの想像とは異なっていた。


 率直にいえば、お由宇の呟き通りに大きいのだ。せいぜいが頭から足先までで30cm有るか無いか程度の今とは違い、新たに用意された身体は、足だけでも5,60センチ近くある。


 これに胴体やら腰やら頭やらを付けていけば……おそらくは140cm近くになるだろう。加えて、手足だけでなく、その身体はあまりに滑らか且つ人間らしく、顔に至っては本当に生きているかのように精密に作られていた。



「――いわゆる、等身大ドール(人形)ってやつですよ。どうです、久しぶりに本気になって作りましたからね……良く出来ているでしょ?」

『……お主、何故、わざわざ学校なんぞに通うておるのじゃ? その腕があれば、如何様にも食っていけると思うのじゃが……』



 ソフィアより間近で見せられる手足を見やった鬼姫は、思った事をそのまま伝えた。「学歴がなければ門前払いが世の常なのです」純粋に褒めてくれることは分かっていたソフィアは、苦笑しつつ箱から取り出した身体を組み立て始める。


 釘は、使わない。既に埋め込んでいるネジと、後は球体関節だ。人体とは違い、動くたびにきいきいと擦って酷い音がするだろうが、まあそこらへんはボディの内側に刻んでいる術によってカバーしていると、ソフィアは説明し……あっという間に、等身大の少女のドールが鬼姫たちの前に姿を見せた。



 おお……改めて、鬼姫たちは拍手をした。


 精巧な作りをしているのが部位ごとに一目で分かったが、組み上げられたことでそれが顕著になっている。間近で注意深く見ればバレてしまうだろうが、遠目からではまず判別出来ないぐらいに見事であった……ん?



(何で胸に穴が開いておるのじゃ? よくみたら、尻もすっぽり抜かれているかのような……?)



 ふと、鬼姫の視線がドールの胸元と尻に向けられる。平たい……というか、抉れているといっても過言ではない窪みの中心には、小指一本分程度の穴が開いている。お由宇も気付いたのか、不思議そうに小首を傾げている。


 いったいこれは……そう思ってソフィアを見やれば、「ふふん、気付きましたね……ですが、お楽しみは最後ですよ!」何やらソフィアは意味深な笑みを浮かべると、さあ、と人形へと手招きする。


 促されるがまま、人形は手を伸ばし……ドールの足に触れた。


 途端、崩れ落ちるように人形が倒れた。まるで、生気を抜かれてしまったかのようで……大丈夫かと鬼姫たちが見つめていると、変化はすぐに現れた。



 ――かたり、と。



 唐突に、ドールが痙攣した。一拍遅れて、かこん、と尻餅を付いた。そのまま、ドールは驚いたかのように瞬きを繰り返した後……おもむろに立ち上がり、鬼姫たちへと視線を向けた。



「……唯我独尊ゆいがどくそん



 それは、日本人形から等身大ドールへと身体を乗り換えた彼女が発した、最初の言葉であった。


 人形であった時よりも幾らか声色が低く、けれどもそれが返って人間らしく、無事に移れた事に鬼姫とお由宇は安堵……そう、安堵のため息を零した。



 ……そうしてから、改めて。二人の視線が、ドールの抉れた胸と尻へと向けられる。



 何かしらの意図があっての事なのだろうが、精巧な他の部位と比べてあまりに異質だ。背丈が4倍以上になったことに慣れていないその動きのせいか、余計に不自然であることが浮き彫りになっていた。



「――よろしい、それではとっておきを装着します。ちょいとチクッとしますけど、すぐに済みますからね」



 ちょうど、その時。まるでタイミングを見計らっていた……いや、実際に見計らっていたのだろう。これまた薄気味悪い笑みを浮かべたソフィアが、箱の中より取り出したのは……小さなケースであった。


 先程は気付かなかったが、クッションの隙間に隠していたようだ。それは何だと見やる鬼姫たちを他所に、ソフィアはケースを開けて……中から、プリンのように柔らかい何かを取り出した。



 それは何とも、不思議な物体であった。



 白色に近いが淡い肌色をしていて、ソフィアの掌よりもかなり大きい。広げた指の隙間からはみ出る柔らかさは、水の詰まった風船のように波打っていて、触らなくても窺い知れた。


 ソフィアはそれを、ドールの窪んだ部分へと押し込んだ。『……あっ』それを見て、ようやく物体の正体を察した鬼姫たちを他所に、波打つ物体をくるくると回転させ……かちりと音がしたのに合わせて、手を外した。



「――どうですか?」

『な、なんと……本物そっくりの乳房なんし』



 露わになったそこを見たお由宇の感想が、それであった。鬼姫の感想も似たようなもので、好奇心に促されるがまま、二人は胸へと手を伸ばし……突いた。偽物とは思えぬ弾力に、おおっ、と二人揃って呻いた。


 ……呻いた後、二人は思った。


 確かに、この乳房は凄い。見た目もそうだが、ソフィアの術も使われているのか、胴体の部分が分からないぐらいにぴったり張り付いていて、強めに触っても欠片も壊れる様子が見られない。


 あらかじめ偽物だと分かっていなかったら、鬼姫たちですら分からなかっただろう。少なくとも、服の上からならまず分からない(バレない)ぐらいに、そっくりだ。



 ……けれども、同時に二人は思う。


 凄いが、それに何の意味が?



 新たに湧いた疑問を前に首を傾げる二人を他所に、ソフィアは手慣れた様子で空いている片方の窪みに乳房を取り付け、そのまま尻の窪みにも同じように取り付ける。そうして気付けば、ドールはさらに人間そっくりの姿となった。


 ……ただ、取り付けた胸と尻。


 ドールの背丈に比べたら明らかに不釣り合いなサイズではあるが、それが返って(というか、それを装着して初めてバランスが釣り合うようになっているようだ)良かったのだろう。


 先ほどと比べて、明らかにドールの動きが軽やかだ。それはドール自身も感じているようで、無表情ではあるが、何処となく嬉しそうに身体を動かし、四肢の具合を確かめていた



『……何故、わざわざアレを付けたのじゃ? お前の好みか?』

「まさか、ちゃんとした理由がありますよ」



 気になった鬼姫が尋ねてみれば、ソフィアは隠すことなくあっさり答えた。



『理由、とな?』

「いや、だって、これからあの子は多かれ少なかれ、人と関わることが起こり得るわけでしょう? いくら本物に似せているからとはいえ、作り物は作り物。気付く者が現れても、何ら不思議ではありません」

『……まあ、そうじゃな』



 鬼姫は、否定をしなかった。これから先どうなるかは分からないが、その存在が露見しない可能性は0ではない。むしろ、何時かは露見すると考えるべきところだろう。



「表情はまあ、マスクなり化粧なりで誤魔化せます。腕や足だって、痩せているからで誤魔化せます。でも、一番の誤魔化し方は……おっぱいと、ケツですよ」



 だから……というわけでもないが、けっこう真剣に耳を傾けていた鬼姫は、その瞬間、呆れたように視線を白くさせた。



『……意味が分からぬ、どういうことなのじゃ?』

「男も女もそうですけど、多少なり不自然な部分があっても、それ以上に目立つ部分があると誤魔化せちゃうのです。この子の場合は胸で、次点でケツです」



 背後よりドールに腕を回したソフィアは、グイッと下から掬うようにして偽乳をたっぽんたっぽんと揺らした。



「推定、Iカップですよ。この背丈でIカップって、もはや目に毒なんて話ではありません。だいたいは、コレだけで誤魔化せますよ」

『阿呆かお前は……』



 こんな所でも助平なのか。そう言いたげに溜息を零した鬼姫ではあったのだが。



『……意外と、妙案だと思いんすよぅ』

『――えっ!?』



 まさか、お由宇の方から肯定されるとは思っていなかった。ギョッと目を見開く鬼姫を他所に、『こねぇは、助平とかそういうんはありんせん』お由宇はからからと笑いながらドールを見やった。



『老若男女の同性異性を問わず、そねぇなんは人の注意をば招きんす。男の魔羅(まら・男性器のこと)しかり、女の陰(ほと・女性器のこと)しかり、逞しい胸板、豊満な乳房、それに目を向けいんすのは、本能というものなんし』

『そ、そういうものか?』

『そねぇなんし。ぬし様とて、目の前にでんすよ。見事に実った双房をたわわに揺らす女と、遠目からでも御立派な胸板を晒した男が連れ添って歩いてんすれば、まずどこを見んす?』



 ……言われて、鬼姫は納得した。


 今でこそ男であった前世の記憶なんぞ彼方の向こうだが、男であった時の感覚は今も覚えている。女の感覚は今でも分からないが、女神であるお由宇が断言するのであれば、そうなのだろう……と、不意に。



「ところで、お名前はもう決めていらっしゃるのですか?」



 そういえばと言わんばかりに、ソフィアから尋ねられた。その質問に、鬼姫とお由宇は互いの顔を見合わせ……少しばかり照れくさそうにして、鬼姫が答えた。



『ありきたりじゃが、ワシらのお互いの名を取って『夕姫(ゆうひめ)』ということになったのじゃ』

『わちきが昼ならば、ぬし様は夜。昼と夜、その間は夕方。どうでありんす? 洒落が効いておりんす?』



 なるほど……それを聞いたソフィアは、満面の笑みを浮かべると。



「隙あらば惚気るの、勘弁してください」



 そう、吐き捨てるように感想を述べたのであった。


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