第17話(表の上)鬼姫ちゃんの七つの秘密のその1『すぐ調子に乗ってドヤ顔する』byソフィア

 




 その日は、見ているだけで心が現れそうなぐらいに清々しい青空が広がっていた。何とも言葉には言い表し難い程に美しいそこには、白色が一つも見当たらない。



 暦の上では既に年が明けて、一ヵ月ほどが過ぎた。不安定に天気が崩れることが多かったのだが、さすがにこの頃になると雲の前線も安定し、天気予報の的中率が目に見えて上昇している。


 そんな天気予報が示したその日の天気は、『晴天』の一言。最高気温は例年より少し高めだが、季節風の影響によって冷え込みがきつく、氷点下を下回るだろう……とのものであった。


 けれども、気温はまだまだ低い(というより、今が一番低いのだろう)が、空気が澄んでいるおかげなのだろう。


 うららかな陽気がさんさんと降り注ぐ作用も相まって、早朝の住宅街の各ベランダには何時もよりも多くの洗濯物が干されていた。


 当然ながら、それは住宅街の一角に居を構えている、お由宇の神社とて例外ではない。(さすがに洗濯物を干すようなことはしないが)存外、神様というやつは綺麗好きなのである。


 というのも、肉体を持たぬ『神』とはいえ、だ。気分(感情)というものはある。人間以上に過激な好き嫌いだってある。特に、些か考え方が古風な面もある、お由宇ならば尚更で。



『こねぇな陽気な朝は、空気を入れ替えねぇとありんすなぁ』



 と、言う具合で放たれたお由宇の号令の元、『名雪』の亡骸へと憑依した鬼姫は、いちおう外から不審な目で見られないように気を付けながら、普段は閉めっぱなしとなっている社の窓やら扉やらを開けて空気の入れ替えを行っていた。


 ……肉体を持たない神様なのに、そういうのを気にするのか。そう思う者もいるかもしれないが、答えは逆。肉体を持たない霊的存在である『神』だからこそ、そういった事は特に敏感であったりする。


 何故かと言えば、『神』を含めた『正の力』に属される霊的存在は、大なり小なり不浄を嫌う。肉体を持つ人と違い、そういう存在にとっての不浄は、無味無臭の毒となってしまうからだ。



 では、不浄とは何か?


 不浄とは、汚れである。



 しかし、人と違って霊的存在においての『不浄』は、雑菌の有無や臭いといった綺麗か汚いかの単純なものではない。


 コインの表と裏のように、そこに含まれた様々な前提によって幾らでも裏返ってしまう複雑なものであり、その種類は多岐に渡る。


 例えば、特殊なやり方を用いて日の光と月の光を浴びせ、『正の力』を帯びた冷水。これは、霊的存在にとっては綺麗な水に成り得ることが多い。例えそこに埃や塵が浮いていようが、霊的存在にとってそれは綺麗な水に当たる。



 しかし、ここに一滴……僅かでも血液が混じればどうか。これは、単にその血液の持ち主によって変わる、が答えとなる。



 修行を重ねて清めた『正の力』を持つ者の血が混じれば、より霊的存在にとっては綺麗な液体となる。反対に、不義を重ねて性根を腐らせた者の血であった場合は逆……といったところである。


 とまあ、人間よりもずっと好き嫌いが存在する霊的存在だが……実は、そういった様々な基準の中に二つ、霊的存在においては覆ることのない普遍的な不浄がある。

 それ、すなわち、『終焉』と『停滞』である。


 最も分かりやすい終焉の例をあげるとすれば、糞尿がソレだ。停滞は、死した肉体や、人や獣の従来すら無くなった場所が、その最たる例だろう。



 この二つのうち、特に気を付けなければならないのは、『停滞』の方だ。



 何故なら『停滞』によって引き起こされる霊的地場の悪化は、大抵の場合において広範囲に及んでしまうことが多いからだ。


 それは、神様の住居である社の中であっても例外ではない。


 境内よりもはるかに清浄は保たれるが、それでも停滞による霊的地場の悪化は逃れられない。徐々に停滞は不浄へと変質し、不浄は淀みを経て霊的地場の悪化を招き、それが神社全体に及んでしまう。


 それを防ぐ一つとしてあるのが、『空気の入れ替え』である。いや、正確に言い直すのであれば、入れ替えるのは空気ではない。淀んで溜まってしまった社内の停滞を、陽気を帯びた外気によって押し流す……それが、お由宇の言う『空気の入れ替え』であった。


 太陽神……天照大御神あまてらすおおみかみの神力を帯びた光は、『負の力』を減退させる。昼間に『面倒なやつら』が姿を見せない最大の理由が、それだ。雲一つない青空より下ろされる神力は、お由宇のような存在にとってはそれこそ恵の雨も同じであった。



 そんなわけで、だ。『空気の入れ替え』を行うのは晴れの日にやるのが一番効率的であり、また、お由宇のような霊的存在からすれば、それはかなり重要なことだったりする。



 それを『負の力』の権化たる鬼姫が知らぬわけもなく。『空気の入れ替え』という言葉がお由宇の唇から出た日には、例えうつらうつらとしていても鬼姫は起きてそれを行う……というのが、鬼姫がお由宇の神社に入り浸るようになってからの仕事となっていた。



 まあ……入れ替えといっても、特に何かしらの儀式があるわけではない。重要なことではあるが、やっていることは単純明快であり、子供でも出来ること。



 本当に、軽く外の空気を入れる程度のことでいいのだ。特に、今日みたいに晴れている日はより隅々まで陽気が入り込む分、色々と楽であった。


 そのせいで多少なり空気が動くことで埃っぽさが生じるのは否めないが、不浄を押し流す為とならば致し方ない。へくち、とくしゃみを零した鬼姫は、かりかりと頭を掻く。特に念入りにする必要もない為、目に付いた所から鬼姫がぱたりぱたりと開けていっていた。


 ちなみに……お由宇の神社には定期的に神官の者たちが訪れて境内の掃除をしているので、社の外は意外と綺麗だったりする。


 特に、参拝客が以前より増えたことも相まって、その頻度は前よりも多かったりするから、鬼姫が来る前よりも、今はずっと小奇麗になっていた……なので。



『……はて、な?』



 以前よりも清廉された境内に異物が入り込めば、よりそれが目立ってしまうのは……当たり前の話で。社の中にて寛いでいた、この神社の主たるお由宇が、境内へと入り込んだ『よろしくない気配』にいち早く気づいたのもまた、当然の結果であった。


 気を抜いていたのだろう。『性愛の加護』を司る神にしてはそういった所作に気を使うお由宇にしては珍しく、肩口を露わにした状態で緩やかに姿勢を崩している。十人中十人が美少女だと断言する顔立ちも相まって、その姿には何とも言えない色気が漂っていた


 その、お由宇が居る場所は、社の最奥。一般人はおろか神官ですらおいそれと足を踏み入れてはいけない場所。御神体が収められたその場所にて鬼姫の気配を感じ取っていたお由宇は、ふさりと着物の裾を払うと、ふむ、と顔をあげた。


 鬼姫の居場所を探る……気づいた様子はない。いや、これは気付いたというよりは、気付いていて放置しているのか。あるいは、鬼姫の基準では大した問題ではないと判断される程度のものなのか……まあ、どちらでもいい。



『……ぬし様のお手を煩わせるのも、なんしなぁ』



 それが、お由宇の正直な気持ちであった。幸いにも、異物から感じ取れる『力』は気配こそ禍々しいものの、己だけで何とか出来そうだ。


 ここは、自らの手で片付けましょうか。そう決めたお由宇は、『よろしくない気配』に目を向けた……が。奇妙な違和感に、お由宇はすぐに訝しげに首を傾げた。



 ……動きが、ない?



 何故、その場より離れないのだろうか。加えて、敵意が感じられない。意図が、お由宇には読めなかったのだ。しかし、捨て置くには禍々しい気配を孕み過ぎている。故に、お由宇の決断は早かった。


 かたん、と。社の何処かで音がしたかと思えば、何処からともなくお由宇の背後より姿を見せたのは、神楽鈴と呼ばれる神々を迎える神具の一つ。そしてそれは、お由宇が愛用している神具の一つでもあった。



 しゃらん、と。手に取ったソレに取り付けられた鈴を一つ鳴らせば、お由宇の身体から『正の力』が溢れ出る。



 全盛期よりも『力』が落ちているとはいえ、『神』の一柱。そしてここは、己の領域。感じ取れる気配から、己でも十分に対処できると判断したお由宇は、さらに強く鈴を鳴らした。


『力』という点では鬼姫やソフィアには遠く及ばなくとも、『神』として存在してからの歴史はそれなりにある。並大抵の悪霊如きに遅れを取るわけもなく、素早く居住まいを正したお由宇は……静かに、祝詞をあげる。



 ――祓いたまえ。


 ――清めたまえ。


 ――守りたまえ。



 しゃらん、しゃらん、しゃらん。鈴の音に合わせて上げられる祝詞。伴って、お由宇を中心にして広がる『正の力』が、社を満たし、境内へと広がり、神社全てへと広がってくる。


 ぱちり、ぱちり。火花にも似た異音が、神社の至る所から聞こえてくる。霊的な『力』を持つ者にしか聞こえないそれは、『正の力』と『負の力』がぶつかり合う時に起こる、いわば反発音である。


 それは、『よろしくない気配』からではない。至る所から聞こえるのは、単に神社内に残留している鬼姫の『力』のせいである。抑え込んでいるとはいえ、その『力』は強大……反応してしまうのはある意味当然のことであった。


 ……考えてみれば、鬼姫は大丈夫なのだろうか。仮にこの光景を外から見ている者がいたら、そんな疑問が過っただろう。万が一、億が一にも祓われることはないだろうが、多少なりともダメージを受けてもおかしくはないから――。



「おーい、お由宇よ。何やら変な物が放り込まれたのじゃが……?」



 ――だと思うのは、申し訳ないが鬼姫を甘く見過ぎている結果の間違いである。あいにくと、鬼姫はそんじゃそこらの悪霊ではない。時の帝すら恐れた、最恐最悪の怨霊。それが、鬼姫である。


 しかし、悪評とは裏腹にその見た目は、けして恐ろしいものではない。頭に角を生やしてはいるものの、年頃にして十代前半。顔立ちは美しく、巫女服に身を包んだその姿は、恰好さえ変えれば周囲の注目を集めそうな出で立ちであった。


 まあ……見た目はどうあれ、その実力は本物である。祝詞によって増幅され、魔を祓う『正の力』に満ちた社の中であっても、些かも堪えた様子はない。


 というか、鬼姫にとってはこの程度の祓いなんぞ、少しばかり空気が張り付いているかな……という程度のことでしかなかった。


 その鬼姫だが、扉をすり抜けて中に入った直後、おや、と首を傾げる。一通り風通しを良くしてきた鬼姫が、訝しんだ様子で社の中……祝詞を唱えているお由宇を見やる。


 まあ、アレだろうなと鬼姫は壁の向こうへと視線を向ける。その先にあるのは社の外。境内の方へと向けられたそこにあるのは……先ほど境内へと放り投げられた物であった。


 当然といえば当然だが、鬼姫もその事には気づいていた。というか、何処からともなくやって来て神社の外に停車した車から、何かが放り込まれる瞬間をたまたま目にしていたりするが……今はいい。


 ソレが、どのような物なのかは確認出来なかったが、目にした瞬間、既に鬼姫はそれが(己にとって)害になる類の物体ではないことは分かった。同時に、ソレがお由宇に危害が及ぶ程のモノでもないことも分かった。



 だから、そこへ向かう前にまず、お由宇へ伺いを立てるのが先だろうと鬼姫は判断した。



 というのも、ここはお由宇の神社だ。いくらお由宇が鬼姫を立てているとはいえ、ここの主は鬼姫ではない。些事に終わることであったとしても、勝手に己が動くのもどうだろうか……というのが、鬼姫なりの考えであったからだ。


 なので、そのお由宇が自力でどうにかしようとしている以上は、鬼姫は手を出そうとは思わなかった。しかし、助力を申し出られれば喜んで力を貸すつもりで――。



『……はて、な?』

「どうしたのじゃ、お由宇?」

『いえ、その……手応えが、ないでありんす』

「手応え、とな?」

『そうでありんすぇ。『力』を送っても、まるで柳のようにゆらゆらと……』

「ふむ……それならば、ワシが直接出向くとしようかのう。ちょいと待っておれ……これ、そう落ち込むでないのじゃ」



 ――早速、手を貸すこととなった。


 結局、自分でどうにも出来なかった事に落ち込んでしまうお由宇を他所に、実はそのおかげで機嫌よくなっていることを誤魔化したかった鬼姫は、急いで境内へと飛び出したのであった。




 ……。


 ……。


 …………けれども、その機嫌もそう長くは続かなかった。境内にて転がっていた箱を目にした瞬間、それまで浮かれ気味であった鬼姫の機嫌は傍目からでもはっきり分かるぐらいに下降してしまった。


 それはもう、目に見えて表情が『不機嫌』一色に変わった。頬は引き攣り、目尻は吊り上る。スーッと息を吸った鬼姫は、胸中に広がった何かを吐き出すかのように大きく息をつくと……胡乱げな眼差しを、その箱へ向けた。



「……これはまた、碌でもないやつを投げ込んだものじゃな。よりにもよって、お由宇が最も嫌う類の代物とは、な」



 何故か。それは、境内にて何事が起こるわけでもなく転がっていただけであった、『宜しくない物』の正体が、だ。鬼姫が考えていた以上に宜しくない物であったからだった。



 その宜しくない物の名は、鬼姫もよくは覚えていない。



 ただ、女子供にのみ作用する強力な呪いを振り掛ける呪具。かつては、数ある呪具の中でもひと際恐れられていた、人を容易く死に至らしめる類の代物であった。



 ――いったい誰が、どのような意図でコレを作ったのだろうか。



 屈んでそれを指で突きつつ、鬼姫はまずそんなことを思った。


 というのも、この、『宜しくない物』。鬼姫の知識が確かなら、とおの昔に廃れた類の代物であるからだ。加えて、その効力故に無関係な者まで命を落としてしまう危険性がある為に、製造方法すら禁忌とされていたはず……である。


 こつこつ、と。軽く突く。その姿形は、正方形の木箱。そう、木箱だ。作られて日が経っているのか、表面の至る所がカビによって黒く変色し、何とも言えない臭気を立ち昇らせていた。


 大きさは、野球ボールが一個分ばかりすっぽり入るぐらいだ。手に取って見た所、思っていたよりもさらに軽い。羽のようにとは言い過ぎだが、中が空洞になっているようだ。


 軽く振ってみれば、からからと中で音がする。感覚からして、石ではない。しかし、固い物だ。開かないように留められたのか、それらしい部分は見当たらず、壊さないと中の確認は出来なさそうであった。



 ……が、しかし。



 既に、鬼姫は箱の中身が何であるかを推測していた。いや、それは最早、推測ではない。ほぼ、確信を持って断言出来るぐらいのものであり、むしろ、それ以外の可能性を鬼姫は少しも考えられなかった。



 ……はてさて、どうしたものか。



 だからこそ、鬼姫は迷った。何故なら、『性愛』と『子供』は切っても切り離せるものではない。そういった呪いがあるという話を耳にするだけで不機嫌になるぐらいに、お由宇はそれらが嫌いなのだ。


 そんなお由宇の前に、コレだ。よりにもよって、コレだ。毛嫌いする類の中でも、殊更嫌悪される典型的なやつを見せれば最後……どれだけ機嫌を悪くするか、想像するまでもない。



 ……こっそり、ぶち壊してなかったことにしてしまおうか。



 そんな考えが鬼姫の脳裏を過ったが、いやそれはどうかと鬼姫は内心首を横に振る。お由宇の機嫌が悪くなるのもそうだが、鬼姫が気になったのはそれよりも、この箱が……紛い物ではない本物だという点であった。


 なにせ鬼姫ですら、それを目にするまで記憶の片隅にあったということすら忘れていたぐらいの骨董品である。当然、作り方も忘れている。そんな物がこんな街中(境内)にあるとなれば、鬼姫でなくても出所がどこなのかを気にするだろう。


 無言のままに箱を両手で包む様に持ち直し、念を込めれば継ぎ目のない箱の一辺が音もなく外れる。途端、中から立ち昇ったのは……死臭混じりの、すえた血の臭いであった。


 中を覗けば、箱の内側は隙間なく赤く染まっている。その赤色に塗される形で転がっているのは、何かの骨と思われる破片が……十個。軽く揺らしてみて総数を確認した鬼姫は……さらに重くなる気分に合わせて、深々とため息を零した。



(よりにもよって十壊(じゅっかい)……これを作ったやつは何を考えておったのじゃ? 何もかもを道連れにするつもりじゃったのか……?)



 この箱に限らず、呪物における強さというものにはランクがあり、使用された触媒によってその強さは変わる。例外はあるものの、基本的にはその数が多いほど破壊力が増すとされている。


 使用される触媒は赤子のへその緒であったり、子供のはらわたの一部であったりと色々とあるが、基本的には『幼子の物であり、かつ、多人数である方が強力』なものになる。


 つまり、一人よりも二人、二人よりも三人。そして、より幼い者でなれば、その分だけ呪いは強まるというわけだ。使用される触媒の数に応じて、一壊、二壊という具合で名称が変わる。



 それらを踏まえた上で今回の箱を見やれば、だ。



 箱に入っている骨の総数は、十個。つまり、十人分がこの箱には触媒として使われている。


 鬼姫の記憶が正しければ、確かそれは禁じ手だ。何故ならば、それは鬼姫がため息を零したその理由……すなわち、行ってはならない方法であるからだ。


 ……十人以上は、駄目なのだ。いや、正確にいえば、並の入れ物では十人以上の触媒に耐えうることが出来ないのだ。例えるなら、ガソリンをビニール袋に入れるようなものだ。


 十人以上を触媒にすれば、容器そのものが耐え切れずに崩壊し、呪いが周囲へと弾け飛んでしまう。あえてそれを作るのならば、それは何時爆発するか分からない不発弾を意図的に作るようなものであった。



(――面倒じゃが、このまま何事もなかったかのように捨て置くわけにもいかぬしのう)



 見つけたのが、己で良かったと鬼姫は心底安堵する。下手に誰かが空けていたら最後、どれだけの犠牲者が出た事か……からからと、箱の中身を揺らしながら鬼姫はため息を零した。


 この箱の持ち主が、だ。蔵から見つけ出し、扱いに困った果ての行動であれば、まだ良い。いや、放り込まれたこちら側からすれば堪ったものではないが、それでも対処できるだけマシだ。



 というのも、箱の呪いを解く方法は簡単だからだ。一辺を壊して箱を開け、『力』が込められた液体で満たせば良い。



 その液体が呪いを受ける身代わりとなり、箱に込められた『力』を相殺してくれる。液体に込めた『力』によって数回から数十回ぐらいは入れ替える必要があるが、それで箱の呪いは大丈夫なのだ。


 だが、厄介なのは、だ。この箱によって既に誰かが呪われている場合だ。この呪いは男に対しては無害だが、女子供に対しては執念深い。というのも、この呪いは病魔のように伝染するのだ。


 女子供から女子供へと呪いを伝染させ、命を奪い、子孫を絶やす。さすがに伝染を繰り返す度に呪いの『力』は薄れてゆくが、それでも呪いは十数人を超える死者を出してしまう。


 そして、死亡することこそなくとも、その後遺症は重い。妊娠し難いだけならまだ軽い方だ。最悪、子を産むことが難しくなってしまう場合も入れれば、全体の被害は三桁にも及びかねない。



 一族の女子供だけを殺し、子孫を全て奪い取る。



 それ故に、呪術を扱う日陰者たちからすらも外道の呪法として怖れられ、蔑まされた下法も下法。それがどうして……がりがりと頭を掻きつつ、鬼姫は箱を睨みつけた。



(……既に呪われた奴らは気の毒じゃが、ひとまず箱はワシの方でどうにかしてやろうかのう)



 とりあえず、この箱を目にしたお由宇の機嫌が悪くなりませんように。



 そう願いつつ、鬼姫は行きとは正反対となった重い足取りで、お由宇の下へと戻ったのであった。











 ――が、そう思う通りに物事が進むわけもなかった。



『ほんに、忌々しい……! まだ、わちきの前にその姿を現す日が来ようとは……!』

「お、おう、そうじゃな。ワシもそう思うていたところじゃ」



 空気の入れ替えと、お由宇の祝詞によって清浄化された社の中。本来であれば、そこにいるだけで気分が良くなるぐらいに清涼な気配に満ちたそこは……かつてない程に重苦しい空気が満たされていた。


 その空気の中心より少しズレた場所に、例の箱。そして、向かい合うようにしてお由宇と鬼姫が腰を下ろしている。お由宇は足を崩した状態で扇子でパタパタと自らを仰ぎ、鬼姫は……空気に耐えきれずに正座をしていた。


 鬼姫を知る者がこの場をみたら、驚き過ぎて心の臓を止めてしまうことだろう。


 なにせ、時の帝すら恐れ震え上がらせた大怨霊が、かつてより衰えた『神』の一柱を前に居心地悪そうに居住まいを正しているのである。天変地異の前触れかと思われても致し方ない光景であった。


 触らぬ神に祟りなしとは、誰が言ったのやら。これが何の縁もない相手ならば鬼姫もそうしていたが、此度の神はお由宇だ。


 これも、惚れた弱みというやつなのだろう。誰が見ても八つ当たりに近いものであったとしても、鬼姫はされるがままであった。



 ……言うまでもなく、だ。この、重苦しい空気の発生源はお由宇であった。



 残念なことに、鬼姫の願いが叶うこともなく、お由宇の機嫌は瞬時に底を突きぬけてしまった。それはもう激しく、箱を目にした瞬間、あのお由宇が……下品にも舌打ちしたぐらいであったから、その機嫌の悪さが想像出来よう。


 また、お由宇の物言いが悪くなる理由は他にもある。それは、お由宇の『力』ではこの箱の呪いを完全に祓うことが出来ない……というものであった。



 しかも、祓えない理由はお由宇の力不足……ではない。有り体に言ってしまえば、相性だ。相性が悪かったというそれだけの理由が、余計にお由宇の機嫌を悪くさせてしまったのである。



 ゲーム風に言い直すのであれば、この手の呪いは女に対しては強い。そして、『神』とはいえ、お由宇は女……女神だ。おそらく、お由宇も瞬時にそれを理解してしまったのだろう。


 箱を前にしたお由宇は最初、何処からともなく取り出した扇子で表情を隠しただけで、何も言わなかった。ただ、眼下に置かれた箱を見やり、鬼姫を見やり、虚空を眺めるだけ。


 五分か、十分か。苛立ちを隠すかのように沈黙を保った後。ぽつりと零したのが冒頭の言葉であり、それに対して慌てて返事をしたのが鬼姫で……社の中の空気は最悪となっていた。



『……みなまで言わしんせん。わちきの仰ることは、御分かりんすぇ?』

「う、うむ、分かった。分かったから落ち着くのじゃ」

『落ち着いておりんす。もそっとそねぇであーて欲しいんすれば、御早くその汚らわしい呪い共々片してくんなまし』



 そう言うと、お由宇はクイッと扇子で箱を指し示した。これには鬼姫も驚いて目を見開いたが、お由宇は構わず扇子で床を叩く。途端、どこからともなくふわふわと飛んで来たのは……タライであった。



 ……ああ、これは大人しく従う方が良いな。



 そう判断した鬼姫は一つため息を零すと、頭上にて箱を傾け……収められていた骨を全て平らげると、ぼりぼりと噛み砕いて一息に呑み込んだ。


 女子供を惨たらしく苦しめる呪いとはいえど、鬼姫の前では何の意味もない。溶鉱炉とマッチ棒を比べるようなもので、呪いの核とも呼べる骨は、溶鉱炉の中にて消滅した。



 ――さて、と。お次は、箱に沁みついた呪いじゃな。



 さっさと、鬼姫はタライの中に箱を置く。次いで、己が巫女服の裾をごそごそと捲り上げ、タライを跨ぐようにしてしゃがむと……ほう、と息を吐く。そうして、数秒程間が空いた後……ちょぽぽ、と飛沫が舞った。


 ……『力』さえ込められていれば何でもいいから、別段、鬼姫が取った手段は悪手ではない。血液なんぞを入れればその瞬間に箱が弾けてしまうので、それよりも薄いものといえばこれぐらいしかないからだ。


 亡骸とはいえ肉体を得ている以上は出そうと思えば出せるので、まあ、問題はない。羞恥心なんぞとうに捨て去った鬼姫だからこそ出来る、即効的な対処法であった。


 まあ、水でも何でも『力』を込めればそれで良かったのだが、一秒でも早く目障りな箱をどうにかしてやりたいというお由宇の気迫に、鬼姫が怖気づいてしまったからそうなったというだけの話で……と。



 ――ごめんくださーい。



 色々な意味でほかほかになった箱をどこに処分するべきか。褌を履き直しつつ、新たな問題に頭を悩ませていた鬼姫の耳に、そんな声が届いた。振り返れば、お由宇は目を瞬かせていた。



「……今日は、来客の予定があったかのう?」

『いえ、そねぇなんはなんしれど……はて?』



 心当たりが全くないお由宇が首を傾げれば、同じく心当たりが全くない鬼姫も首を傾げる。二人がそうまで不思議に思う理由は、単にこの場所が神社であるからだ。


 昼間に訪れる者といえば参拝客だが、それならば、せいぜい鈴を鳴らすだけ。酔っ払いが社の中に入ってくることはあるが、それは夜間に限る。今みたいに昼間からというのは初めてのことであった。


 他にあるとすれば……掃除や御供えの為に定期的に訪れる神官だろうか。しかし、神官が訪れる日は決まっている。特定の祝日などの時には臨時に来ることはあったが、今日は……平日だ。



 ――ごめんくださーい、もしもーし。



 考えていると、また声が響いた。先ほどと同じ者で、まだ年若い少女……いや、少年か。方向から考えて、神社の正面側。声の強さから考えて、境内の社へと続く御扉の辺りにいるのだろうか。


 少しばかり気になったので気配を探ってみるが、大したものではない。子供特有の、可愛げのある裏表ぐらいは感じ取れるが、それだけだ。『力』は感じ取れないし、邪な気配も感じ取れなかった。



「……物の次いでじゃ、ワシが出よう」

『はて、わちきが出んしょう?』

「いいから、お由宇は座っておれ」



 しかし、何だろうか。妙な胸騒ぎというか、嫌な予感というか。鬼姫自身の語彙では、何とも言い表し難い感覚。主であるお由宇を差し置いて、客人である己が出るのは無礼な話だが……あえて、鬼姫はそうすることにした。



 ――もしもーし、あのー、誰かいませんかー?

「ああ、はいはい、今行くから待っておれ」



 不思議そうに首を傾げるお由宇を後ろ目に、鬼姫は廊下へと出て、御扉へと向かう。少しばかり間が空いたものの、来客者の気配がそこより動いてはいない。


 ものの十数秒程で御扉の前に到着した鬼姫は、「そう急かさなくとも開けるのじゃ」内側より閉じている閂を外し、扉を開けた。



「全く、最近の童はせっかちじゃ――」

「――あれぇ? その顔、もしかして鬼ひ」



 そして、閉めた。



 ……。


 ……。


 …………無言のままに、鬼姫は閉めていた御扉から手を外す。その顔に浮かんでいるのは、無表情。魂を抜かれた人形が如き無表情のままに、大きく、それはもう大きくため息を零すと……そっと、扉を開けた。



「――あ、やっぱり鬼ひ」


 そして、閉めた。



 ……。


 ……。


 …………御扉の向こう、鬼姫の眼前に立っていたのは、声色の通り少年であった。髪は黒く、肌も浅黒い。シャツに半ズボンで健康的に日焼けした美少年……という表現がピタリと当てはまる、朗らかな笑みを浮かべていた。



 ……だがしかし。鬼姫は、その少年を知っていた。



 この笑みが、曲者なのだ。


 一見、この少年からは邪気が感じられない。当然だ、実際にこいつには悪気は一切無い。子供特有の無邪気さでスルリと懐に入り込み、心を解し……気づけば、誰もがこの子を好きになってしまう。


 だからこそ、厄介なのだ。悪意も敵意も下心もない。ただ、純粋な好意。純粋な愛情を持って接してくるからこそ、誰もがこの子を拒絶出来ない。気づけば、誰もがこの子に依存し……自ら己を破滅させてしまう。


 それを知っているからこそ、鬼姫は扉を閉め、暗に拒絶していることを示したのだが……それを察して離れてゆく相手なら、鬼姫もこんな態度を取らなかっただろう。


 無言のままに……鬼姫は閉じられた御扉から手を外す。その顔に浮かんでいるのは、無表情。魂を抜かれた人形が如き無表情のままに、大きく、それはもう大きいため息を零し……そっと、扉を開け――。



「鬼姫ちゃん、どうして閉め」



 ――有無を言わさず、閉めた。そのまま鬼姫は無言のままに閂を差し入れると、踵を翻してその場を離れようとした『――あれぇ、鬼姫ちゃん、鬼姫ちゃーん!』が、激しく御扉が叩かれたので……しぶしぶと。


 それはもう、心底嫌そうな顔で閂を外すと、これまた顔中から拒否感を露わにしながら……静かに、御扉を開けた。



「――やっぱり鬼姫ちゃんだ。お久しぶりだね、鬼姫ちゃん」



 途端、満面の笑みを浮かべた少年と目が合った。それはもう、太陽よりも朗らかな笑みを浮かべた少年は、そういって鬼姫へと手を振った。


 傍目からみても友好的だと分かるその態度は、実に好感が持てる。見た目の良さも相まって、だいたいの相手が気を許すだけでなく、一部の性癖の者を捉えて離さない魅力を醸し出していた。



「そうじゃな、久しぶりじゃな。それじゃあ帰れ」



 しかし、鬼姫は例外であった。当然だ、鬼姫は少年の正体を知っている。鬼姫を前にして平然と立っているだけの理由が、少年にはある。だからこそ、鬼姫は彼を拒絶しているのだ。


 そんな鬼姫にとって、少年から向けられる笑みは怖気を覚える何かでしかなくて。目を細めて不快そうに表情を歪めると、「今帰れ、すぐ帰れ、ほら帰れ」犬猫を追っ払うかのように手を払って、御扉を閉め――。



「……そんなぁ、鬼姫ちゃん……酷いぃ……酷いよぅ……」

「じょ、冗談じゃ。ワシが久方ぶりに尋ねてきた友人を無下にするわけがなかろう!」

「……鬼姫、ちゃん!」



 ――ようとしたが、目尻に涙を浮かべ始めた少年を見て、慌てて鬼姫は扉を開けた。それは少年が悲しむ姿に罪悪感を抱いた……わけではない。単に、この少年が泣いた後に起こる面倒事を心底嫌ったからでしかなかった。










 ぱたり、と。鬼姫が抜け出たことで本来の姿になった『名雪の亡骸』を元の場所に直したお由宇は、改めて鬼姫へと振り返った。



『……あのう、ぬし様?』

『何じゃ、お由宇』

『その、お友達であるのは察せられるんすれど、わちきはお初なんし。そねぇ、紹介をばしていだければと思いんしれば……』



 障子等を開いて光が差し込むようになったとはいえ、幾らか薄暗い社の中。出されたお茶を前に笑顔を浮かべて座っている少年を見て、お由宇は困惑気な様子で鬼姫に尋ねた。


 お由宇がそう言うのも、無理はなかった。何せ、来客を迎えに行ったかと思えば、疲れた様子で戻って来たのだ。その後ろに、当の来客者……それも、どう見ても子供の少年を伴って、だ。


 もう、その時点で少年が只者でないのは察せられた。お由宇の姿を目視していただけでなく、鬼姫を前にして平然と(いくら、鬼姫が『力』を抑えているとはいえ、だ)していられる辺り普通では……まあいい。


 問題なのは、鬼姫を心底疲れさせるだけの相手だという点だ。


 単純に気疲れさせるだけならソフィアもやるが、ソフィアはふざけているように見えて、かなり相手の内心を察するのが上手い。


 言うなれば、引き際というやつが上手いのだ。おちょくって相手を疲れさせる場合でも、相手がうんざりする手前で止めてしまう。だから、こうまで鬼姫を疲弊させる相手が何者なのか、お由宇でなくとも気にするのは当然であった。



『…………』

『……あの、ぬし様?』



 けれども、鬼姫は答えなかった。出された茶菓子を次々に平らげてゆく少年を、ただ見つめるばかり。怒っているわけでもなく、警戒しているわけでもなく、ただ……見つめている。


 もしかしたら、聞いてはならない事……踏み込んではならない事なのだろうか。少々面白くないとは思ったが、鬼姫にだって知られたくない過去の一つや二つはある。



 ――ここは引き下がるべきだろう。



 そう思ったお由宇は『……いえ、何もなんす』、それ以上は尋ねることをしなかった。ちらりと少年を見やれば、茶菓子がもう残りわずか。これ幸いとばかりに、新しいお茶を取りに行こうとお由宇は腰を上げ――ようとした、その時であった。



『別に、隠したいわけではないのじゃ』



 唐突に、鬼姫がそう呟いたのは。『えっ?』思わず足を止めたお由宇が振り返れば、『ただ、知ればお由宇は絶対に平静を保てなくなるからのう』鬼姫は苦笑を浮かべていた。



『知らぬが仏と、言うじゃろう? お由宇の心の安寧を考えれば、知らない方が良いと思うておったのじゃが……知りたいか?』

『わちきが、ぬし様のことで一つでも知りたくないことがあると御思いなんし?』

『そう言われれば、もう何も言うまい。まあ、無理だと思うたら遠慮せずワシの後ろに隠れるのじゃ』



 さて、と。そう呟いて鬼姫は居住まいを正すと……少年へと向き直った。



『おい、スサノヲ(素戔嗚)。お由宇に自己紹介をするのじゃ』

「ん~、そういえば名乗ってなかったね」

『……え?』



 お由宇へと居住まいを正す少年を前に、お由宇は聞き間違いか何かだと思って目を瞬かせた。


 だが、すぐにお由宇は思い出した。昔ならいざ知らず、今の親は子供に対して畏れ多い(色々な意味で)名前を付けることにそう抵抗はないということを。



 その事を知った時は、そりゃあもう面食らった。



 しかし、時代が違うというやつなのだろう。時々そういう名前を付けますのでご利益願いますとかいう参拝客が来ることもあって、今では特に気にすることはしなくなっていた。



「初めまして、お由宇さん。僕はスサノヲと言います。美味しいお茶と菓子で持て成して頂き、ありがとうございます」

『まあ、これはご丁寧に。スサノヲ君は良い子なんし』



 だから、お由宇は素直に少年……スサノヲと名乗った少年に笑みを返した。スサノヲという名前に思うところはあったが、以前にも『天照(あまてらす)』と名付けようとした母親がいたことを、お由宇は覚えていた。



 なので、そう名付けられた子供なのだろうと、お由宇は思っていた。



『あー、やはり勘違いしておるようじゃな』

『はいな?』



 鬼姫に、訂正される、その瞬間までは。



『こやつは、本物のスサノヲじゃ。スサノヲと名付けられた童ではないのじゃ』

『まあ、ぬし様。わちきを怖がらせんくんなまし。あの乱暴者のスサノヲ様が、このような愛らしい童なわけがありんせん』

『嘘なんぞついとらん。本当に、こやつはあのスサノヲじゃ。疑うのであれば、じっくり探ってみれば分かるはずじゃぞ』



 そう言われて、お由宇はジッとスサノヲと名乗った少年を見やる。だが、先ほども一応確認したが、何もなかった。いくら鬼姫に『力』が劣るとはいえ、黙秘している『力』に気付かないお由宇では……あれ?



 ……あれ?



 思わず、お由宇は己が目元を手元で拭う。目に見えて悪くなり始める顔色を他所に、目を凝らした。



 ……あれあれ?



 ドッと吹き出した冷や汗に目が染みたお由宇は、また手元で拭う。そして、震える指先をそのままに、目を凝らした。



 ……あれあれあれあれ?



 ぽたぽたと、シミ一つない小さくも綺麗な顎先から滴り落ちる冷や汗やら油汗やら。仮にその姿が周囲に見られでもしたら、まず間違いなく救急車を呼ばれるであろうぐらいに強張った顔で。



『……え? え? え?』

『お由宇よ、そう狼狽するでない。天照のやつもそうじゃが、この地に降臨しておる限りは本来の力は出せぬ。その気になれば、ワシの張り手で一発昇天させられるのじゃ』

「えー、せっかく来たのに昇天するのはやだよ。鬼姫ちゃんの張り手って痛いし、やるなら優しくしてほしいなあ」

『存在そのものが不変不滅のやつが、何を言うか』

『え? え? え?』



 気づいた鬼姫が宥めようとするが、効果はなかった。スサノヲを見て、鬼姫を見て、スサノヲを見て、最後に、鬼姫を見やった後。


 ……静かに、お由宇は鬼姫の背に隠れるようにして蹲ってしまった。巫女服の裾を掴むその指先は、今にも折れそうなぐらいに力が込められているのが……傍目にも分かるほどであった。



 ……スサノヲ。



 素戔嗚《すさのを》とも呼ばれるその正体は、イザナミのみことと呼ばれる最高神と、伊弉諾いざなぎみことと呼ばれる最高神との間に生まれた三大神。三貴人とも呼ばれる内の一柱である。



 会社員で例えるなら、お由宇はとある部門の係長クラス。対して、相手は本社の副社長といったところだろうか。文字通りの殿上人の登場に、お由宇が震え上がって言葉を失くすのも仕方ないことであった。




 ……。


 ……。


 …………そうして、幾しばらく。



『――で? お主がわざわざ地上に降りてきた理由は何じゃ?』



 背中に感じるお由宇の震えがひとまずは止まったのを感じ取った鬼姫は、本題を切り出した。スサノヲも無駄に話を引っ張るつもりはないのか、シャツの胸元に手を突っ込み……中から、四角い箱を取り出して見せた。



 ――その瞬間、鬼姫は思わず目を見開いた。



 何故ならば、スサノヲが取り出したのは紛れもなく、今しがた鬼姫が無力化した箱と同じ物であったからだ。それも、一つではない。



 どうやって仕舞っていたのか、スサノオは次から次へと箱を取り出し……気づけば、鬼姫の前には7個の箱が並べられていた。



 一個有るだけでも心から面倒臭い代物なのに、それが7個もある。



 鬼姫の名が広く知れ渡っていたあの時代ですら、日陰者たちの間から嫌悪され唾棄されていた代物。もはや遺物と称してもおかしくはないソレを、どうしてコイツが?

 指先すら掠らない困惑を前に、鬼姫が瞬きを繰り返してしまうのは……致し方ないことであった。



 ……と、いうのも、だ。



 鬼姫が知る『スサノヲ』というやつは、お由宇が思っている通りの『乱暴者』な一面を持ち合わせてはいる。しかし、それを見せる時にはだいたいにして外部に原因が有って、スサノヲ自身が一方的に怒りを露わにすることはない。


 何せ、転生の際に『お前、来世はメダカよ』と天照に言われて大激怒し、高天原にて本気でぶつかり合った時……あの時ですら、スサノヲが怒りを見せた理由が、『姉である天照に敵意を向けたから』なのだ。



 そのスサノヲが、わざわざこんなものを用意する。鬼姫にとって、それはにわかに信じ難い話であった。



 ……まあ、考えた所で心が読めるわけでもない鬼姫に、答えが出せるわけがない。というか、考えるだけ無駄だ。何故なら、こいつはスサノヲ……あの、天照の弟なのだから。



(……そうじゃ、こいつ、あのババァの弟なのじゃった)



 改めて……というには些か違うような気はするが、正直、鬼姫は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。


 何故なら、スサノヲだからだ。良くも悪くもスサノヲの性根は純粋無垢の無色透明で、鬼姫自身の感性からすれば『恐ろしく、おぞましい』と判断されるぐらいに、悪気がない。



 けれどもそれは、スサノヲが善性であるというわけではない。悪気がないからといって、良いやつでもない。それを体現しているのもまた、スサノヲというやつなのだ。



 天照も大概な性格をしているが、スサノヲはある意味ではそれ以上。『悪気はないけど善意によって相手を破滅させてしまう』ことを笑顔でやってのける存在であることを、鬼姫は知っている。



 だからこそ、鬼姫は嫌な予感がしてならなかった。ぶっちゃけ、碌でもないことを言い出すのだろうと思わず居住まいを正してしまった。



 本音を言えば、今すぐにでも張り倒して高天原に御帰り頂く所だが……それをすると、まず間違いなく怒髪天を突いた天照が降臨して来るから、それも出来ない。


 戦うしかない状況になれば戦うが、だからといって、こんなしょうもないことで戦いたくはない。というか、何が悲しくて天照とやり合わなければならないのか……これが、分からない。


 なので、鬼姫としては、だ。不本意な話であっても、天照の性格を知っているからこそ、心底嫌そうな顔をしつつも、スサノヲの言葉に耳を傾ける他なかった。



「七つ集めると僕が願いを叶えちゃうんだよ、凄いでしょ。頑張って、いっぱい作ったんだ!」

『……?』



 鬼姫は、小首を傾げる。



「でもね、作るのに苦労したんだよ。七つでだいたいの願いが叶うように調節できるまで、十年以上掛かったんだから」

『…………?』



 鬼姫は、反対側に小首を傾げる。



 ……耳を傾ける他なかったのだが、まさか耳を傾けてもまるで理解出来ないとは、さすがの鬼姫も想定していなかった。というか、主語も糞もない今の台詞で詳細を理解しろというのが無茶苦茶な話だが……まあ、それはいい。



 困惑しつつもぽかんと呆けていた鬼姫は、幾分か慌てて頬を引き締め、思考を始める。



 ……。


 ……。


 …………始めたのだが、さっぱり分からなかった。



 いや、だって、七つ集めると願いが叶うって……何が七つ? そもそも、叶うんじゃなくて、叶えるの? スサノヲが? 三貴神の一柱であるスサノヲが、どうして?

 思わず、鬼姫のお由宇に助けを求め……ああ、無理だ。



 震えは止まったが、俯いたまま未だ固く握りしめられている服の裾を見やった鬼姫は、内心にてため息を零した。この様子だと、言葉一つ拾えていないだろう……だがしかし、困った。



 何せ、スサノヲの言わんとしていることがさっぱり分からない。いったい何がどうしてなのかが、さっぱり見えてこない。



 いや、これは理解するのを無意識に拒否してしまっているのかも……止そう。とにかく、早くも覚え始めた頭痛に、鬼姫は堪らず額に手を当て……待てまてと、ヒートアップし始めるスサノヲを諌める。


 嘘を付いているわけではないのだが、スサノヲの説明はいちいち回りくどいというか、要領を得ない。故に、スサノヲと会話をするには、やたらめったに散りばめられた単語を拾ってゆき、頭の中で組み立てなくてはならない。



 それも含めて、鬼姫は嫌がったのだが……まあ、今更な話だ。



 とにかくは、だ。まず、七つ集めると願いが叶う……おそらくは、スサノヲが今しがた懐より取り出した箱が、そうなのだろう。アレをどう使えば願いが叶うのかが全く分からないが、まあそれはいい。


 十年掛けて調節したと口にした辺り、この箱の製作者はスサノヲなのは想像はつく。どんな目的で作ったのかは定かではないが……いや、待て。



(……こいつ、いっぱい作ったとか口にしなかったか?)


 それを理解した瞬間、鬼姫はサーッと血の気が引く感覚を覚えた。危うく聞き逃すところだったが、そうだ。こいつ、確かにいっぱい作ったと口にした。いっぱいということは、つまり……他にもある?



『……のう、スサノヲ』

「なーに?」



 にこにこと愛らしい笑みを浮かべるその様は、客観的に見れば天真爛漫な美少年といったところか。そういうのに性愛を抱く者であるならば生唾を呑み込んでいるところだろうが……生憎、鬼姫はそうではなかった。



『ワシの聞き間違いでなければ、お主は今しがたこの箱をいっぱい作ったと口にしたような覚えがあるのじゃが……聞き間違いと思ってよいな?』

「聞き間違いじゃないよ、いっぱい作ったよ」

『……いっぱい、とな?』

「うん、いっぱい!」



 太陽が如き満面の笑みを浮かべて即答するスサノヲを前に……無言のままに、鬼姫は己が眉間をぐりぐりと摩る。次いで、無造作に転がっている箱の内の一つを手に取って、見やる。


 パッと見た限りでも、相当な『負の力』が込められているのが分かる。しかし、先ほど鬼姫の手で無力化された箱よりも封印が頑丈のようだ。これなら、不用意に触れた程度で呪いを受けることはないだろう……が、だ。


 呪いを受けないからといっても、これが恐ろしい呪物であるのは事実である。そして、その呪物をどうしてスサノヲが作って、その内の一個がこの神社に来たのか……あっ。



(そういえば、何故、ここに箱が入り込んだのじゃ?)



 今更といえば今更な疑問に、鬼姫は顔をあげる。


 考えてみれば、この神社に箱が入り込んだのもそうだが、そもそもどうしてスサノヲがここに来たのだろうか。あまりにタイミングが良すぎるというか、何というか……それをまだ、聞いていなかった。


 ……どうか、碌でもない理由ではありませんように。


 でなければ、反射的にぶっ飛ばしてしまうから。天照が降臨することになるとは分かっていても、手を出してしまうから。だから、少しはマシな理由でありますように。そう願いつつ、鬼姫は率直にココへ訪れた理由を尋ねた。


 聞かれたスサノヲは、満面の笑みから思案の面持ちへと表情を変えると、「ん~……」顎に指を当てて考え始め……うん、と笑みを浮かべて頷いた。



「忘れちゃ――っだぁ!?」



 駄目だと思った時にはもう、あっと声を上げた時にはもう、遅かった。反射的に繰り出した張り手が、スサノヲの頬を引っ叩いていた。『力』を込めたその一撃はスサノヲの頬を瞬時に溶かし、どじゅう、と首から上が蒸発した。


 一拍遅れて、司令塔を失った身体は、崩れ落ちるようにしてその場に倒れる。しまった、と頭を抱える鬼姫を他所に、その身体はしゅうっと白煙を上げたかと思えば……ものの数秒後には、影も形も無くなっていた。



 ……ええい、もうやるしかない。



 覚悟を固めた鬼姫は、己が裾を掴むお由宇の指を、些か強引に外す。途端、状況を理解していないお由宇が涙目で見上げてきたが、「見える所にいるのじゃ」鬼姫はそう宥めてから、お由宇を抱き上げて……部屋の隅へと下ろす。


 次いで、鬼姫は部屋の中央にて立ち止まると……大きく深呼吸をしてから、居住まいを正す。合わせて、鬼姫の頭部より生える角が薄らと赤く染まり、赤い瞳より零れた鮮血が、頬を伝う。


 けれども、その鮮血は不思議な事に、肌より離れることはない。巫女服を濡らし、血の臭いを漂わせはするが、その一滴すら床に落ちることはない。まるで吸い取られているかのように、鬼姫の中へと消えてゆく。


 怪我をした、そういうわけではない。血涙の原因は、無意識に垂れ流している『負の力』を完全に内に留めたからであり、この鮮血は留めきれない『負の力』が溢れ出したものである。



 何故、そうしているのか。それは単に、お由宇の為だ。



 外ならまだしも、ここはお由宇の神社だ。下手に暴れれば、お由宇もそうだが神社そのものに致命的な損傷を与えかねない。それ故に、鬼姫は普段から抑えている『力』をさらに抑え、一片の漏らしもなく完全に留めたのだ。


 少々の息苦しさを覚えはするが、それでお由宇が鬼姫から放たれる余波を受ける心配はなくなる。降臨してくる天照とて、鬼姫相手ならまだしも、同じ『神』であるお由宇にまで影響を与えるようなことはしないだろう。


 そんな思惑を胸に、鬼姫は構える。天照の性格からいって、回りくどいやり方はしないだろう。やるからには真正面から実力でねじ伏せる……それを知っているからこそ、鬼姫は何時でも反撃出来る様に身構えた。





 ……。


 ……。


 …………あれ?


 一向に、それらしい気配が近づいて来ないことに、鬼姫は首を傾げた。もしや、まだ気づいていない……いや、それは有り得ない。内心にて、鬼姫は首を横に振る。


 間違いなく、天照は気付いている。気付いているなら、絶対にここへ来る。天照とは、そういうやつだ。なのに、まだ来ていない。それはつまり、此処に来られない理由があるから……ん?



 ――ひらり、ひらり、と。



 眼前にて唐突に姿を見せた白い紙切れに、思わず鬼姫は仰け反った。まさかの不意打ちかと思う鬼姫を他所に、紙切れはそのまま右に左に総身をくねらせ……静かに、床に落ちた。



「……何じゃ?」



 『力』を込めた札か何かかと思って警戒したが、それらしい気配はそこからは感じ取れない。注意しながら指で突いてみるも、変化はない。振り返ってお由宇を見やれば、お由宇も困惑に小首を傾げていた。


 ……仕方なく、鬼姫はそれを手に取った。やはり、何の『力』も込められていない。ぺらりと捲ってみれば、何やら何行かに渡って文章が書かれていた。



 ――まさかの果たし状と来たか。



 天照のやり方にしては回りくどいが、まあいい。そういうことも、あるのだろう。そう思って文字列に目を通していった鬼姫は……気付けば、己が目元を指で擦っていた。


 ぬるりと鮮血が掌に溢れて広がるが、それは果たして溢れた『力』なのか。それとも憐憫が生み出した物なのか。それは、当の鬼姫にすら分からないことであった。



『……あの、ぬし様?』



 何やら様子がおかしい鬼姫を見て、お由宇は違和感を覚えたのだろう。『そこには、何と?』けれども、口にするには些か辛い。訝しんでいるお由宇に、その紙を直接手渡し、それに視線を落としたお由宇は……静かに、目元を裾で拭った。


 鬼姫と違い、お由宇の目じりには大粒の涙が滲んでいた。けれども、その瞳より溢れた感情は鬼姫と同じく、憐憫であった。記された中身が、いったいこの二人をそこまで悲しませたのか……要約すれば、だ。




『  弟が馬鹿をやって、姉が甘やかした。私はしばらく忙しくなるから、後始末をしてくれ。詳細は後で伝えるから

 追伸: 休みが欲しい。一日でいいから、休みが欲しい  』




 休みが欲しい、その一文だけが他と比べて文字が太く、妙に力強い辺り……止めよう。『天照様も、悪い御方じゃありんせん……』援護のつもりか背後から撃ち抜く形になっているお由宇の言葉が、嫌なぐらいに耳に残った……と。



 ぴらりと、もう一枚紙が落ちてきた。



 今度は何だと手に取った鬼姫は……目を通してすぐ、堪らずと言わんばかりに新たな鮮血を流した。『……っ!』察したお由宇が、躊躇うように視線をさ迷わせたが……我慢出来ずに目を通した―ー直後、『あ、天照様……っ』ぶわっと涙を溢れさせた。




『  月詠の 憤怒の眼 超怖い  スサノヲだって 悪気はないの  』




 それは、天照の内心と、月読の現在を示唆する酷い内容の短歌であった。何が酷いって、スサノヲもそうだけど、甘やかしたであろう天照が微塵の反省の色も見せていないという点だ。



(何じゃろうなあ……どうも、月読のやつを見ていると、他人事とは思えぬ……)



 高天原で大喧嘩した際にも、月読だけは『姉さん、言い方ってものをいい加減に学んでください!』という具合で鬼姫の擁護に回ってくれたことを思い出す。



 ……あの時の恩もあるし、少しは手を貸してやろう。



 お由宇を除けば、損得抜きで手を貸してやりたいと思ったのは何時以来だろうか。機会が有ったら、酒の一つでも持って行ってやろう……そう、心に誓う鬼姫であった……ん?



 ――突然、目も眩む程の光が天井から降りて来た。



 天井には、穴など開いていない。けれども暗がりの、何も無い空間から光が溢れている。あまりに突然のことに硬直するお由宇と、そのお由宇を反射的に背に庇う鬼姫を尻目に、光の柱となったソレは何かを探っているかのように右に左に動き回り……『名雪の亡骸』を照らした途端、動きを止めた。


 直後、光は強まった。辛うじて目視することが出来てはいたが、もう出来ない。高熱を発しているのかと錯覚するほどに眩しい光の柱によって、『名雪の亡骸』は外からは見えなくなってしまった。



 ――反射的に、鬼姫はその光に飛び掛かりそうになった。



 しかし、そうはならなかった。『――なりません、ぬし様!』そうなる前に、お由宇が鬼姫の服の裾を掴んで止めたからだ。何故止める、そう思って振り返った鬼姫ではあったが、必死の形相のお由宇を見て……ふう、と息を吐いた。


 お由宇が止めたのも、無理はなかった。何故かといえば、虚空より降り注ぐこの光の柱は、ただ光っているわけではない。その光が、『正の力』を帯びた清浄なる光であるだけでなく、その光に込められた『力』があまりに膨大であるからだ。



(……月詠の仕業かのう? さすがに、あの中に飛び込めば相当痛いじゃろうな)



 改めて光の柱を見やった鬼姫は、内心にて舌打ちを零した。こうなればもはや、鬼姫が取れる手段は静観しかなかった。


『負の力』の化身である鬼姫にとって、『正の力』は対極に位置される……とはいえ、並み居る神々すら恐れ戦く鬼姫。弱点である『正の力』であっても、並の『力』では動きを止めることすらままならない。



 だが、その『力』が並でなければ、話は変わる。



 見た所、光の柱に込められているのは『正の力』だけではない。もっと高潔な……そう、『神の力』だ。それも、一目で上級神のものであることが伺えるほどの、膨大な力だ。


 何せ、柱から溢れた力の余波だけで、社の中はおろか神社全体にまで清浄化してゆくのが分かる程だ。単純な強さだけを見れば、ソフィアを軽く凌駕しているだろう。


 まあ、そんな『正の力』を前にして、だ。総身よりバチバチと火花を立てている程度で済んでいる辺り、鬼姫もまた規格外の存在であるのか伺え……っと。


 静観している鬼姫たちを他所に、降り注がれている光の量が目に見えて弱くなった。光が現れたのが突然なら、衰えるのもまた突然で。ものの一分ほどで光は治まり……後に残されたのは、『名雪の亡骸』だけであった。


 ……パッと見た限りでは、『名雪の亡骸』に不自然な変化は見当たらない。あれだけの『正の力』を浴び続けているだけあって、亡骸そのものに『正の力』は帯びているようだが……まあ、それだけだ。


 並みの悪霊であれば触れることすらままならないが、鬼姫ほどの存在ならば何の問題もないだろう……が、しかし。問題なのはそこではなく……亡骸に手を触れた鬼姫は、ん~、と顔をしかめた。



(どのような類なのかは分からぬが、術が施されておるのう……何の術じゃ?)



 少なくとも、鬼姫自身に害意をもたらすような類のソレではないのは分かる。けれども、お由宇も術の詳細が分からないのだろう。振り返って見やれば、お由宇も鬼姫と同じく困惑気味に首を横に振っていた。



 ……まあ、いい。己を封印するのならもっと違うやり方をするだろうし、これが何かしらの害意であったならば……とことんやろう。



 そう覚悟を固めた鬼姫は、えいや、と『名雪の亡骸』に憑依する。瞬間、鬼姫の意識は『名雪の亡骸』と同化し、視界がぐるりと入れ替わり……気付いた時にはもう、『名雪』の視点に変わっていた。



 ……何もないのう?



 むくりと身体を起こした鬼姫は、さて、と己が身体を見下ろす。一拍遅れて現れる肉体の変化にも、何時もとの違いはない。角が生え、生み出される巫女服を身に纏ったその姿は、鬼姫その人であ……あれ?



「何ぞ? 腕が生えておるぞ?」



 気付いた鬼姫は、思わず己が脇の位置より伸びる二本の腕に目を瞬かせる。合わせて4本の腕を上下左右に動かしてみる……違和感は全くない。余分な腕を生やした覚えはないが……先ほどの御業が、原因だろう。



(……何じゃ? これはもしや……『正の力』か?)



 それと、もう一つ。鬼姫は、己が総身より溢れる『力』の質が変転していることに目が留まる。根幹の部分は以前と変わらないが、それが表に出る前に反転が成されているようだ……けれども、それだけだ。


 一切を悟られずに腕を増やした御業や、仮初とはいえ力の質を反転させたのは見事だが、それだけだ。腕が勝手に暴れ出すような気配もないし、『負の力』が『正の力』へと反転してはいても、感触には何の異常もみられない。


 何かしらの封印術が施されているのであれば、相応の変化が表に現れるはずだが、それもない。憑依した感触からいっても、何かしらの罠である可能性もなさそうだ。


 何だろうか……拍子抜けした気分だ。いや、何もないのが一番なのだが、神の御業(それも、上級神による)が行われたにしては、思っていたよりも地味な結果に……ん?



「……何じゃ、お由宇よ」



 ふと、鬼姫は様子のおかしくなっているお由宇に気付く。鬼姫がそう思うのも無理はない。何せ、先ほどまで青ざめていた頬を真っ赤に染めるばかりか、今にも涙が零れそうなぐらいに瞳を潤ませていたからだ。


 尋ねられたお由宇は何も言わず、まるで美しい彫刻に見惚れる少女のように、両手を組み合わせて呆けている。「お、お由宇……?」顔を前で手を振ってみるも、反応が薄い……あっ。



 たらり、と。



 すらりと伸びるお由宇の鼻筋がほんのり紅潮したかと思ったら、一筋の鮮血……まあ、鼻血が垂れた。お、おう、と思わず退く鬼姫を他所に、お由宇はそのままぽたりぽたりと滴を垂らした後、「と、尊い……!」と、呟いた。



 尊い……え、尊い?



 発言の意味が分からず困惑する鬼姫の手を、シュババッと距離を詰めたお由宇の手が掴む。普段は見せない俊敏な動きにさらに退こうとする鬼姫ではあったが、これまた普段は見せない強引さで引っ張ると……その手に、頬擦りを始めた。



「え、あ、その、お由宇?」

『はああ~、尊いんす、ものすんごく尊いんでありんす、こねぇだけでご飯三杯いけんすよぅ~』

「と、尊い、とな?」

『いつなるときものぬし様が夜闇に色づく真紅の女王であるならば、今のぬし様は晴天の下で輝く黄金の女王……ああ、ぬし様、しょうし、わちきを踏んでくんなまし』

「え、踏めと? 何故じゃ?」

『理由など、今は何の意味もありんせん。さあ、さあ、さあ、どうかわちきの顔を……ああ、お腹でも構いんせんよ』

「ええ……こ、こうか?」



 ごろりと横になったお由宇の頬に、足裏を押し付ける。「も、もっと……!」途端、さらに鼻息を荒くするお由宇に内心引きながらも、少しばかり体重を掛けてやる。


 そうすれば、感極まったと言わんばかりお由宇は熱のこもった呻き声を上げた……まるで、マタタビに酔った猫を相手にしているかのような気分だ。足裏に感じるお由宇の身体が、びくびくと淡く痙攣しているのが伝わって来る。



『ああ、こ、こねぇの正道を歩む晴れ人に無下に踏まれる、隔たりがもたらす仄暗い屈辱と喜びが……た、堪りんせん……!』

「お、おう……おぬしが喜んでいるのならば、ワシは何も言わんのじゃ……うむ、何も言わんのじゃ」



 興奮のあまり涎すら垂らし始めるお由宇の姿に怖れ慄く鬼姫の元に、月読から詳細が記された紙(という名の願い事)が舞い降りるまで……残り、15分前の出来事であった。











 ――翌日の天気もまた、晴天であった。


 街中では雪が解けて無くなってきてはいるが、町中よりもずっと気温が低い山々においては、まだまだ白色を確認することが出来る。特に郊外の、車の往来がほとんどない場所ほど、雪が多く残されている。


 雪というのは、積もるまでには様々な要因を重ねなければならないが、一度積もってしまえば後は早い。先に降りた雪が温度差のクッションとなってくれることで、溶け難くなるからだ。


 それは、雲一つない澄み渡った青空の下でも、同じことだ。よほど季節外れの日差し等がなければ、まず雪は溶けない。それは、鬼姫が足を踏み入れることとなったその山もまた、同じであった。



 そこは、お由宇の神社から距離にして334kmほど離れた場所の、とある県境の山中にある山道であった。



 百年以上昔に作られた山道(というにには、些か獣道ではあるが)は、当然といえば当然だが、人の往来は全くない。観光名所はおろか集落すら無いのだから、当たり前だろう。


 そのうえ、登山道としてみても、そこは魅力的とは言い難い。そこから見える景色はけして良いわけではなく、山頂への高さもそうはない。途中の高低差も、中途半端といっていいだろう。


 なのに、降り積もった雪は、浅い場所でもメートル単位で積もっている。深い所なら、3メートル近い。よほどの重装備であっても、下手に足を踏み入れば命を落とす……そんな山道を、鬼姫は登っていた。


 仮に、その姿を目にした者がいたならば、だ。その者の大半は、幻覚を見てしまったと己の正気を疑うか、見間違いか何かだと思って忘れるよう努めてしまうだろう。



 何故ならば、山道とも呼べない山道を登ってゆく鬼姫の恰好は、御世辞にも登山をするような恰好ではなかったからだ。



 防寒性など皆無に等しい隙間だらけの巫女服に、通気性が抜群過ぎて冷気を素通りさせる草鞋。雪山でなくとも下手すれば凍死しかねない薄着ではあるものの、山を登る鬼姫の顔には苦痛の色一つない。



 そのうえ、鬼姫の姿もまた、常識的に考えれば有り得ないものであるからだ。



 まず、鬼姫の風貌事態が、この場にいるにはあまりに年若い。頭部より伸びる二本の角もそうだが、何より目立つ異形は……巫女服の袖より飛び出している、四本の腕である。


 大の大人を見かけることすら極稀な場所に、二本の角を生やした四本腕の少女。そんな光景を目にして、果たしてどれだけの者が素直に現実を受け入れるか……まず、いないだろう。


 そんな、鬼姫の手にあるのは、しゃらん、と音を立てている錫杖だけ。登山には何とか使えそうではあるが、この雪の中では邪魔にしかならないであろうそれが、さくさくと雪の上に跡を残してゆく。


 不思議なことに、だ。鬼姫が手を伸ばしてもまだ頂には届かないであろう、降り積もった雪の上にあるのは、錫杖の跡だけ。雪上を通ってゆく鬼姫の足跡は、どこにもない。



 どうしてそうなるのかといえば、鬼姫が術を用いて浮いているからだ。



 単純な雪の冷たさなど、鬼姫にとっては何の問題にもならない。しかし、物理的な障害となるのならば、話は別……だからといって、空を浮くという奇跡をサラッと行う辺り……まあ、いい。



 ――ちちち、ちちち、と。



 頭上を通り過ぎてゆく野鳥の声に、鬼姫は足を止める。空を飛べる鬼姫だが、やはり、鳥には負ける。あっという間に空の彼方へ飛んで行った鳥達を見送った鬼姫は……一つため息を零すと、再び登山を再開した。


 ……さて、どうして鬼姫がお由宇の神社から遠く離れたこの山を登っているのか。それは単に、月読より託された願い事(スサノヲの後始末とも言う)を達成する為であった。



『 余計な前口上は無しにして、要点から話そう。


  今より50年ほど前、スサノヲの馬鹿野郎が何をとち狂ったのか、願い事を叶える箱(要は、自分に願い事が届く道具)を作るとか言い出しやがった。


  お前が何かすると碌な事にならんから止めろと怒鳴りつけて辞めさせたのだが、どうやら秘密裏に色々と作っていたらしい。腹が立つことに、姉さんも協力していたようだ。


  君が見た箱は、言うなればその箱の完成品。七つに分散することでスサノヲへと願い事が届くようになっているらしいのだが……問題なのは、この完成品が出来る前に作られた、試作品の箱だ。


  そう、君が壊してくれた、あの箱の原形ともいうべきものだ。


  最初の頃に作った箱は経験も力加減も何もなかったおかげか、完成品よりもかなり安定性が悪いらしい。さすがに触っただけでどうこうなるようなものではないらしいのだが、非常に危険だというのだ。


  それを、よりにもよってスサノヲの糞馬鹿野郎は私に発覚することを恐れて、地上にばら撒いて誤魔化していたらしい。先日、とある筋から発覚し、スサノヲに全て回収させたつもりだったのだが……ええい、腹が立つ。


  本来ならばスサノヲ自身に取りに行かせるべきなのだが、君も知っての通り、スサノヲが作った箱は誇張抜きで危険である。しかも、その試作品だ。


 おそらく、スサノヲ自身も分かっていたから、誤魔化そうとしたのだろう。最悪、近づいた瞬間に反応して中の『力』が溢れ……という事態になりかねない。


  これまた腹立つことに、箱そのものにもスサノヲのやつは細工をしていたらしく、こちらからではその正確な位置を調べることが出来ない。だいたいの位置は掴めたのだが、それ以上の手出しが出来ないのだ。


  御存じの通り、私も姉も迂闊に動くことは出来ない。


  かといって、並の神々では箱に近づくことすらままならない。既に50年近くが過ぎているとはいえ、箱より感じ取れる『力』は紛れもなくスサノヲのもの……まず、怯えきってしまってどうにもならないだろう。


  そこで白羽の矢が立ったのが、君だ。


 本気になれば我々とも相手取れる君ならば、箱を前にしても耐えられる。仮に箱から『力』が漏れ出していて、周囲をスサノヲの邪気によって汚染されていたとしても、君ならば処理することが出来るだろう。


  その為に、事後承諾の形にはなったが、君の憑代となる御遺体に細工をさせて貰った。そのまま君が近づけば、箱と共鳴して中の『力』が漏れ出してしまうからな。


  どんな手段を使っても構わない。とにかく、箱を無力化さえしてくれたら、私からは何も言わない。頭のねじが緩みきっている姉弟にも何も言わせない……だから、どうか頼むぞ


 P・S 君が身を寄せている神社に入り込んだ箱だが、アレはどうも君を巻き込んでさっさと問題を解決しようと考えた姉さんの仕業であったことを、ここに記しておく。


 』



 それが、あの後。月詠より送られた手紙に記された、此度の騒動の全てであった。

 つまり、今の鬼姫が何をしているのかといえば、手紙に記された『スサノヲの作った箱』の処理をする為に、その『スサノヲの箱』があるであろう地点に向かっているというわけだ。


 ……空を飛べる鬼姫が、どうして空を飛ばずに(宙を浮いてはいるが、徒歩ではある)地道に山を登っているのか。その理由は、月読が箱を見付けられない理由と同じ。



 それ、すなわち――スサノヲが箱に施した術によって、空からでは『スサノヲの箱』を見つけることが出来ないからだ。



 月詠ですら見つけることが出来ないのならば、鬼姫でも見つけるのは至難。鬼姫の探知能力自体は相当なものだが、三貴神の一柱ですら無理なら……術の効果が及ばない地上を地道に散策した方が早いというわけであった。



 ……正直、月詠の願いとはいえ、何でワシが尻拭いをせねばならぬのじゃ、というのもまた鬼姫の本音ではある。



 だが、本来ならば敵視すべき相手である怨霊の鬼姫に、あの月詠が助力を頼むぐらいなのだ。濁してはいたが、相当に切羽詰まった状況にあるとみて、間違いない。


 手紙には『力が漏れ出しているかも』という曖昧な書き方ではあったが、おそらくはもう……漏れ出しているのだろう。それが露見していないのは、単にスサノヲが施した術のせいなのは……皮肉な話である。



「ええっと、登り始めてから……あそこの杉の木が、ここのコレだから……」



 少しばかり開けた場所に出た鬼姫は、ぽんと白雪を蹴って傍の樹木の頂点へと飛び乗る。飛び散った白雪が後を追いかけるように舞い上がるのを他所に、鬼姫は手紙に添付されていた地図を片手に現在位置の確認を行う。


 土地勘のない場所であるのもそうだが、どうやらスサノヲの術の影響なのだろう。普段なら目を瞑っていても自分の位置ぐらいはわかるが、どうもこの山では方向感覚にズレが生じている気がしてならない。


 はっきりとズレを自覚するのではなく、そんな気がするという曖昧な感じで留める辺り、スサノヲの性格の悪さというか、厄介さが窺い知れる。同じ厄介さでも、ソフィアの方が万倍もマシだろう。


 おそらくこれは、月読を始めとした神々にバレないようにするための術なのだろう。今の鬼姫が『正の力』を……つまり、神の気質を孕んでいるので、どうやらソレが発動してしまっているようだ。



 ……そのおかげで、下手に走って登ることもままならない。



 少し進んでは立ち止まって位置を確認し、少し登っては足を止めて方角を確かめる。山に入って、かれこれ数時間……ずっと、これの繰り返し。仕方ない事とはいえ、鬼姫が退屈を覚え始めるのは……まあ、どうしようもないことであった。



(ふむ、けっこう登って来たのう)



 だが、しかし。地図より顔を上げた鬼姫の顔には、特に不安の色は浮かんでいなかった。



(そろそろ、目的地に着いても良い頃合いなのじゃがな……)



 退屈を感じ始めているのは事実だが、嫌気が差したわけではなかった。その証拠に、山に登り始めてからこれまで、鬼姫は一言も愚痴を外に零していなかった。



 いったい、どうして?



 答えは、一つ。それは……チラリと、鬼姫は辺りを見回す。別に、何かに狙われているわけではない。鬼姫が見ているのは、樹木の陰やら何やらから顔を覗かせるようにして遠目から己を見ている……八百万の神々であった。


 その神々たちの姿は、様々であった。人型もあれば、獣を思わせる姿もあり、そのどちらでもない者もいる。共通するのは、その神々たちは、けして強力な神々ではないということ。


 普段の鬼姫であれば、一瞥するだけで怯えて遠ざかってゆくであろう程度の、小さくか弱き神々だ。その神々が……眩しさを堪えるかのように、細めた眼を鬼姫へと向けていた。



「…………」



 無言のままに、鬼姫は手を振ってやる。途端、小さき神々たちは一斉に声を上げ……鬼姫へと深々と頭を下げた。中には土下座までして感激を露わにする者までいた。



 ……鬼姫は、何も言わなかった。



 ただ、無言のままに前へと進む。その際、これが最後だと言わんばかりに軽く後ろ手を振ってやる。すると、神々たちはまたまた歓声をあげて頭を下げた……のを、気配で察した鬼姫は。



(な、何だかむず痒いのう……尊敬の眼差しを向けられるというのは……!)



 けして表には出さなかった(お由宇やソフィアには即座に看破されてしまうだろう)が……内心にて、にやにやニマニマと気色悪い笑みを浮かべそうになるのを抑えるのに必死であった。


 仮初とはいえ、今の鬼姫は『多大な力を持つ、見慣れぬ神の一柱』。少なくとも、か弱き神々からすれば、今の鬼姫はそうとしか見えず、突如姿を見せた殿上人に他ならない。



 例えるなら、プロを目指す野球少年たちの前にある日突然、メジャーリーガーが姿を見せたようなものだ。



 普段の鬼姫ならば、こうはならない。か弱き神々は当然のこと、名のある神々すらも距離を置いて遠巻きにする。時の帝をも震え上がらせた『鬼姫』の怖さを知る者からすれば、鬼姫は触れる事なかれの禁忌でしかない。



 だからこそ、鬼姫にとって、今のこの状況は新鮮であった。



 生前にも似たような状況にはあったが、好意の純度が違う。あの時の人々の好意には打算があって、見返りを前提にした尊敬の眼差しでしかなかった。それと比べたら、神々の純真な眼差しの心地よさときたら……堪らない。



「…………」



 錫杖を振り上げ、しゃらん、と鳴らす。途端、鬼姫の身体より溢れた『正の力』が蒸気のように立ち昇り、淡い光となって辺りを照らす。それを遠目にした神々たちは、声なき声をあげて万歳をし始めた。



(ぬふ、ふふ、ふふふ……)



 本当は違うのだと言うべきところなのだろうが、鬼姫はそれが出来なかった。せっかくだし、もうちょっとだけ、もう少しだけ……仄暗い罪悪感から目を逸らしつつ、鬼姫はしばしの間、悦に浸ったのであった。





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