第4話(表):「怪奇 宙を漂う観音開き!」に、瞬殺される雑魚。あと、神様

 神社の境内に出店が立ち並び、毎日御供え物が収められるようになってから、早一ヵ月が過ぎた。それに伴って、それまで質素を通り越して霞以下の、食生活という言葉すらおこがましい食生活を送っていた鬼姫の食糧事情……いや、酒事情が目に見えて改善された。


 何故、酒事情なのかといえば、時期が時期だからである。当初はお菓子やチョコといったものを備える者が多かったが、いくら封を切っていないとはいえ、猛暑続きの炎天下だ。


 日陰に置いたとしても半日も持たずに痛むばかりか、悪臭を放ち始めるものが続出したのである。御供えした後に持って帰れば良いのだろうが、それだけ参拝客が増えれば面倒臭がって忘れる者も続出して……役所からの指示の下、食べ物の御供えが禁止されたのであった。


 けれども、完全に禁止になったわけではない。信心深い者や臆病な者、そういうことを守らなければ不安を覚える者などから声が上がったのである。そして、有るのか無いのかよく分からない会議の果てに、すぐには腐らないもの……飲料水に関しては、小さいモノなら良いということで落ち着いたのであった。


 その為、現在、鬼姫が住まう神社には多種多様の飲料水が置かれている。鬼姫が愛してやまないカップ酒や、コンビニで買ってきたであろう酎ハイ、中には箱付の一升瓶まで。かつては砂埃と虫しかいなかった社の中、今ではまるで小さな酒屋を思わせるぐらいにまでなっていた。


 たった一ヵ月前には考えられない光景である。おかげで、鬼姫は嬉しい悲鳴を上げっぱなしであり、ほぼ一ヵ月に渡って酔いっぱなしの呑みっぱなしであった。


 なにせ、朝から晩まで飲んでも次から次へと御供えしてくれる者が後を絶たないから、無くならないのである。それまでの我慢も相まって、鬼姫の中にあった辛抱の糸がぶち切れるのは当然の話であった


 しかも、そのまま放置しておくと役所の人やら何やらが来て片付けられてしまうから、“飲まなければ御供えしてくれた相手に申し訳ない”という言い訳もある。大義名分を経た鬼姫に、節制などという言葉は初日に消えた。


 朝起きてまず一杯、お昼前に喉が渇いた(気がした)から一杯、夏の日差しに負けない為に一杯、ジュースをつまみにもう一杯、人々の笑顔をつまみに一杯、夕暮れを眺めながら一杯に、月見を楽しみながら一杯、寝る前のお楽しみに一杯。


 もはや、頭がおかしいとかそういうレベルの呑みっぷりである。そんなもんで、鬼姫は『ご厚意に答えなくてはのう~!』満面の笑みで朝から晩まで清酒をガバガバ、酎ハイをガバガバ、焼酎をガバガバ。生者であれば三日で墓の下に入るであろう量を呑み続けたのである。


 ……常識的に考えれば、だ。鬼姫の体格でそれだけの量を飲み干すのは不可能だろう。しかし、鬼姫は霊体である。いくら飲んだところで幽霊だから心配をする必要はない。既に死んでいるのだから気にしたところで無駄だし、鬼姫は並の幽霊でない。それこそ、プール一杯の酒を飲んでも命(死んでいるのに『命』というのも変な話だが)に別状はないのである。


『でゅふふふへへへへ、ほれほれ踊れ~』


 ただし、酔わないかと問われれば、それはまた別の話。ザルとまではいかなくとも酒豪の域に達している鬼姫だが、さすがに起きている間ずっと飲み続けているとなれば、酔わないわけがなかった。


 まあ、そんなわけだから、飲み明かしてひと月が過ぎた頃には鬼姫はすっかり前後不覚に陥っていた。もはや自分が何をしているのかも分からず、何ともまあ下品な振る舞いを繰り返していた。


 だが……安心してほしい。例えそんな状態になっているとしても、結局は酔っ払っているだけだから、心配する必要は微塵もないのである。


 そう、例え、巫女服が傍に転がって目のやりどころに困る恰好になっていても、心配の必要はない。ただ、酔っ払っているだけだから。


 そう、例え、褌すら放り捨てられた素っ裸のまま盆踊りを初めても何ら心配をする必要はない。ただ、酔っ払っているだけだから。


 そう、例え、己の姿すらまともに判断できないまでに酔い果てて、音痴としか言いようがない下手くそな歌を歌っていても心配する必要はない。ただ、酔っ払っているだけだから。


 そう、例え、歌って飲んでを繰り返すあまり夜になってもそれを続け、ぶっ倒れたとしても心配する必要はない。ただ、酔い潰れてしまっただけだから。


 そう、例え――。


「――思っていたよりもずっと酷いな。板は軒並み腐っているし、支柱もシロアリだらけ。よくもまあ倒壊しないで今日まで来れたもんだ……こりゃあリフォームっていうか、1から建て替えた方がずっと安く済むぞ」

「――ああ、やっぱりそうか。話に寄れば最低でも百年以上前にはあったらしいし、その時にはもうまともに手入れする者がいなくなっていたらしいからなあ……このまま放っておいた方がいいだろ、コレ」


「――さすがに、怪我人が出た以上は何もしないままにはいかないでしょ。苦情の電話が来ていますし……自己責任とはいえ、全く対応しないとなるとそれは問題になるし」

「――文句言っているのなんて、どうせ県外のやつらだけだよ。だけど、せっかく観光名所になりそうなのに、ただ取り潰して終わりにするのは……このまま残してはおけませんかね?」


「――残すのは簡単だけど、それでも改修はしないと駄目だろ。まあ、ぶっちゃけ、放っておいても良いと思うんだけどな……どうせ、この人気だって何時まで続くか分からないし」

「――でも、短期間とはいえ金を落としてくれているのは事実でしょ。観光名所となりそうなものがうちには何も無いからな。狙ったわけじゃないけど、テレビに宣伝してもらうとなると、べらぼうな金を取られるぞ」


「――例え、社の中にて、素っ裸で大股開きのままオヤジが如き喧しいいびきを立てている横で、調査に来た役所の人が真剣な顔で話しあっていたとしても、心配する必要は全くなかった。

「――それじゃあ、いっそのこと分社するか? 確か、地域の憩いの場を作って自主的な交流を促して医療報酬を抑えるとかいう制度が国の方にあったよな?」


「――あるにはあるけど、アレを使うには色々と条件があったはずだぞ。確か、歴史的資料がどうのとか、証拠が無いと駄目なんだろ」

「――そんなの、適当に作ったらいいじゃないですか。皆、やってますよ。それに、一度作れば観光名所の一つとして後々の言い訳にもなるじゃないですか」


「――まあ、そうか。でも、改修工事を始めたとしても、一ヵ月や二か月では終わらんぞ。その間、どこに神様を移すんだ? 由来すら残っていない神様の分社を受け入れてくれるところなんてあるのか?」

「――それだったら、あそこがあるだろ。ほら、跡取りが居なくなって取り潰しになったっていう○○寺が」


「――ええ、寺に神様を入れるのか? 大丈夫なの、それって……さすがに駄目だろ。神様なんだから、せめて別の神社に移すのが筋だろ。ていうか、それやると絶対色々なところから文句が来るぞ」

「――やっぱり?」


 ガヤガヤと、作業着を着た男たちが笑い合いながら室内を見回している。もし、鬼姫が酔い潰れることなく素面のまま起きていたら、さぞ驚いたことだろう。


 なにせ、彼らが話し合っているのは、この神社の改修と、それに伴う諸々の裏事情だ。役所の裏事情については無知だとしても、この神社がこの先どのような扱いを受けるのか……その行く末へと繋がる重要な会話である。


 本来なら、鬼姫は是が非でも聞いておくべき内容である。だが、魔の悪いことに鬼姫は寝ていた。それはもう、夢の奥底まで深々と意識を沈ませていた……おそらく、というか、間違いなくたらふく飲んだ酒の影響である。


 一度こうなれば、もう自然に起きるのを待つのは無駄だ。最低でも一週間、長ければ二週間はこのまま眠り続ける。長い時を経ているだけあって、時間の使い方というやつに加減というものがないのだ。


 そんな状態で、だ。いくら重要事項とはいえ、普通の声色で話し合っている彼らの声が目覚ましになることはなく……鬼姫は終ぞ起きる素振りすら見せることはなかった。


「――それじゃあ、○○神社はどうだ? あそこは確か寂れているとかで、取り壊しするか否かって話になっていたはずだろ?」

「――ああ、あそこなら……でも、あそこは確か務めていた神職が横領したとかで寂れたから、イメージ最悪だぞ」

「――この際、多少悪くなっても覚えてもらうのが先決だ。むしろ、それぐらいの方がインパクトもあって良いと思うぞ。それに、どんな神社であれ正式な手順さえ踏めば目を瞑ってくれるから、もうそこしかないだろ」

「――よし、それじゃあそこにしよう。また次に騒動が起こって問題起こされても面倒だし、早い方がいいだろ」


 寝こけている鬼姫を他所に、話が決まるのはあっという間であった。


 ……。


 ……。


 …………そして、遠路はるばるやってきた神職の方々の手により、神社建て替えの為の勧請(かんじょう)の儀式が慎ましやかに行われたのは、それから数日後のことであった。


 幾らなんでも早すぎだろうという言葉は、関係者の間からは上がらなかった。まあ、初めから決まっていたことなのだろう。いつもとはまた別の意味で大賑わいの神社の空には、雲一つない見事な晴天がその日も広がっていた。


 立ち並ぶ関係者たちの苦悶の顔を他所に、神職の人達は汗一つ掻いていなかった。いやあ、凄い凄いと幾らからの声が工事関係者の方から囁かれたが、神職の方々は素知らぬ顔で儀式を進めて、何事もなく終わった。


 ――だが、実は。


 儀式を見守っていた工事関係者の誰もが気付いていなかったが、その時、確かに社の中に鎮座していた、御神体でもある『刀』が消えた。まるで、初めからそこに無かったかのように、影も形もそこにはなくなっていた。


 ……消えた、わけではない。御神体である『刀』は、移動したのだ。『力』を持つ神職たちのお願いを聞き入れた『刀』は、彼らに促されるがまま、彼らが用意した新たな住居へとその身を移した……それだけなのであった。


『んごごご……すぴー……んごごご……すぴー……』


 ただ、『刀』は忘れていた。もはや片割れにも等しいはずの鬼姫が神社にいたということを。『刀』がそのことを思い出した時にはもう、『新居』へとその身を移した後であった。


 これは、かなりの大問題である。しかし、鬼姫はそんなことなど気づきもせずに眠りこけていた。それはもう、大股開きのまま、涎を垂らして大いびきを掻き、『刀』が場所を移したことなど全く気付いていなかった。


 鬼姫は『刀』から長時間離れられない。離れれば、体力を消耗するばかりか無理やり『刀』の下へと引っ張られてしまう。仮に事情を知る者がその場にいたなら、急いで鬼姫を起こして『刀』の下へ向かうよう話したことだろう。


 けれども、そんな都合の良いことなど起こるわけがなく。霊体故に鬼姫の姿が人々の目に触れることもなく。時間切れを迎えた鬼姫の身体は、ふわりと……動き出した。


 もう十歳経ていればさぞ持てはやされたであろう少女が、大股開きのまま空中を滑空するように山を下りていき、時折地面に頭をぶつけて行く。言葉にして、そのままだ。


 常人には見えなくとも、見える人が見れば目を剥くであろう光景が、仮初めの住居となる神社に着くまで繰り広げられていたが……あいにくその事を口にするものは誰もいなかった。


 結局は、加減もせずに飲み続けた鬼姫が馬鹿だという、ただそれだけのことであったから。


 ……。


 ……。


 …………そして、鬼姫が目を覚ましたのは新居に到着してから七日後のこと。鎮座する『刀』の傍にて大欠伸と共に身体を起こした鬼姫は、寝ぼけ眼で周囲を見回し……はて、と首を傾げた。


(化かされた……いや、違う。この気配は、もしや……?)


 周囲は、鬼姫の記憶にない光景ばかりが広がっていた。ただし、単純に知らないというわけではない。とりあえずは、カバーは掛けられているものの、その下に見え隠れしているのが紛れもなく『神具』であり、かつ、室内に残る気配からそこが『社』であることは察せられたのだが……分かるのはそれだけであった。


(『刀』はあるが……はて?)


 ひとまず鬼姫が確認出来る範囲では、神具の大半はカバーが掛けられ、目を凝らせば埃が積もっているのが見て取れる。人の手が離れてどれくらい経っているのかは分からないが、まあ一年や二年ではないだろうなあ……というのが、鬼姫の感想であった。


 まあ、それでも鬼姫が住まう神社よりははるかにマシである。『……手入れが行き届いておるのう』というか、比べるのが失礼なぐらいの、文句なしに綺麗な社である、ただ、それだけで、鬼姫の口から感嘆のため息を零すには十分過ぎた。


 なにせ、障子の紙は穴ひとつ開いていないばかりか、埃が僅かに被っている程度。隙間一つなく板が敷き詰められた床にはひび割れた場所が一つもないばかりか、見様によっては己の輪郭を確認出来るぐらいに滑らかだ。


 こんなに艶やかな板の間を見たのは何時以来だろうか、実に妬ましい。


 自分が何故、そのような場所にいるのかをさて置いて、まず鬼姫はココの主である神に向かって軽く嫉妬する。次いで、御神体でもある『刀』の所在について思いだし、見つける。『おお、無事じゃな』四つん這いのまま駆け寄って、ひとまずは安心だと確認した鬼姫は軽く安堵のため息を零し……さて、と立ち上がった。


『――って、ワシ、何で裸なのじゃ?』


 途端、というか、遅い、というか。ようやく己が恰好に気づいた鬼姫は、まいったのう、と頭を掻いた。いくら何でも羞恥心が無さ過ぎだろうと思われるだろうが、それも致し方ないことである。


 男として過ごした数十年。女とはいえ童でしかない時を十数年と、死を迎えて千年弱。女としての生き方を受け入れるどころか、女としての羞恥心を学ぶことなく、今日まで来たのだ。


 今更、裸の一つや二つで顔色を変えるわけがなく、素っ裸であろうと鬼姫は平気である。まあ、理由もなく素っ裸のままにいるというのは阿呆の証左と言われればそれまでなので、そういうふうに見られるのだけは我慢ならない鬼姫は、衣服はどこに有るのかと気配を……ん?


『――そこの、何奴じゃ?』


 先ほどまでなかった気配。まるで箪笥の隅から尻尾の毛が覗いたかのような微かな違和感に、鬼姫は目を向ける。その視線の先にあるのは……小さく、それでいて装飾が施された、厳かな雰囲気を放っている……『鏡』であった。


 鏡はガラスケースに覆われ、台座に立て掛けられた状態で保管されている。


 埃が被るのと、盗難にあうのを防止する為にそうしているのだろう。見れば、ケースには南京錠が掛けられており、大事なものであるのが伺える。


 一目で、鬼姫にはそれが『御神体』であるのが分かった。だが、鬼姫はその御神体を前に首を傾げた。それはここの主である神に対して、大変失礼な行為に当たるのだが……それでも、鬼姫が首を傾げたのには理由があった。


『……何故、隠れる? ここはお主の家であろう? ワシが無礼者であるのは自覚しておるが、だからといって盗み見をするのも趣味が悪いとは思わぬか?』


 それは、先ほどまでその鏡からは神様の気配が感じられなかったから。いや、もしかしたら初めからそこにいたのかもしれないが、それでも……黙って覗くだけなのは、些か趣味が悪いと言われても仕方がない行為である。


 まあ、神様なんて気紛れなことが多い。おまけに幾ら『力』が強くとも、鬼姫は神ではなく、幽霊である。それも、お世辞にも良い幽霊というわけではない。警戒して姿を隠すのも、まあ分からないでもない。


『覗いておったのなら話は早い。見ての通り、状況が掴めなくてな……無礼に失礼なのは承知の上じゃが、少々話に付き合ってほしいのじゃ』


 だからまあ、鬼姫はその事についてはそれ以上咎めようとはしなかった。というか、咎める立場では――


『分かりんした! 分かりんしたから、とにかく服を着ておくんなんし!』


 ――ない。そう思った矢先に叩きつけられた悲鳴に、鬼姫は目を瞬かせた。声がしたのは『鏡』の影。一見するだけでは分からないが……気配を探った限りでは、やはり、そこに居るのは確かだ。


『恰好と言われたところで、見ての通りこの身一つの素寒貧じゃぞ。ワシにどうしろと言うのじゃ?』

『そねえなの決まっておりんす! 手でも足でも使えばよいでありんしょ!』

『手で? なにを腑抜けたことを。女とて、何を恥じ入る必要があろうか。堂々と胸を張ってこその鬼姫よ……ところで、いつまで姿を隠しているつもりじゃ?』

『そ、そのような破廉恥な振る舞いをする痴れ者の前に、姿を見せられるわけねぇでありんしょう!』

『異な事を言う。神ともあろうものが情けないのう。童の、それも月のモノすら来ていない少女を前に怖気づくか?』

『うっ……!』


 男……ではない。しかし、女にしてはどうも違和感を覚える。少女……あるいは少年か。挑発でしかない無礼な言葉ではあったが、声の主自身も、少しは思うところがあったのかもしれない。


 しばしの間、声の主は沈黙を保ち続けた。だが、何時までもそうしていることこそが、鬼姫の言う「情けない」証左となってしまう。


 それは声の主自身が一番分かっていることで……不意に、鏡の裏から伸びた手が縁を掴む。おお、と鬼姫が驚く間もなく、ひょい、と姿を見せたのは……何とも豪華絢爛な着物を身に纏った少女。鬼姫は少女を見て、一目でその身に宿る『力』を悟り……おや、と目を瞬かせた。


 ――帯か?


 少女の右手が掴むソレを見て、鬼姫は首を傾げる。見た所、何の変哲もない亜麻色の帯だ。もしやと思って探ってみるも、やはり『力』も何もない、ただの帯である。


 何のつもりだろうか。少女の意図は皆目見当もつかないが、単純な『力』では鬼姫の方が圧倒的に上なのは分かっている。なので、特に警戒しようとは思わなかった……と。


『――ふん!』

『うん?』


 少女は持っていた帯を鬼姫に投げつけた。とりあえずはそれを軽く受け取って、広げる。間近で確認して分かったが、帯と思ったそれは意外と細く、二枚が重なっているのが分かった。


 ――どういうつもりだろうか。


 不思議に思って鬼姫が少女を見据えれば『――わちきのお古だぇ、それを使いなんし!』少女は紅を塗りたくったかのように顔中を真っ赤に染めると、両手で顔を隠してしまった。


 ……ああ、なるほど。


 理解した鬼姫は、早速帯を一枚拝借し、股を潜らせ褌のように巻き付ける。次いで、もう一枚は腹を冷やさぬようぐるりと巻き付ける。共に、些かどころかかなり余ったので、むりやり内側に巻き込んで止める。元々の用途が違うので不恰好な様になったが……まあ、この際、それは贅沢と言うものか。


『終わったぞ』

『……ようようでありんすか』


 途端、鬼姫の言葉に、少女はようやく気が抜けたのだろう。


 目に見えて肩を落として安堵のため息を吐いた少女は、ブツブツと文句を呟きつつ、両手を下ろして赤らんだ顔を鬼姫に。


『――阿呆でありんすか、ぬし様は! 胸に巻かずに腹に巻くやつがおりんすか!』


 向けた瞬間、堪忍袋の緒が切れた少女は、鬼姫を怒鳴りつけたのであった。




 そんなこんなで、かれこれ三十分程。『――もう、これを着なんし』紅頬もすっかり引いた頃。渡された羽織を素直に来た鬼姫と、幾分か疲れた顔の少女は、静まり返った社の中にて向き直った。わずかに入り込む日の光のおかげか、暗くとも何とか物の判別ぐらいは出来る程度に明るかった。


『…………』

『…………』


 互いに、無言であった。まあ、無理もない。不本意であるとはいえ、最初の出会いが出会いだ。いきなり親密に会話を始めろというのが無理な話だろう……けれども、何時までもそうしているわけにはいかないのは、互いに分かっていた。


『……お初にお目に掛かりんす。わちきは――この神社に祭られたしがない『神』でありんす。名を、『お由宇(お・ゆう)』と言いんす。以後、お見知りおきを』


 最初に話を切り出したのは少女……お由宇からであった。お由宇……口の中でその名を反芻した鬼姫は、次いで、お由宇から向けられる視線に気づき、慌てて頭を下げた。


『鬼姫じゃ。無礼であるのは許せ。何分、教養がない身、おまけに右も左も分からぬ今、正直ワシも混乱しきりなのじゃ』


 そう言うと、鬼姫は頭をあげる。じっとりと、梅雨の湿気た空気のような視線を向けられたが、鬼姫は素知らぬ顔で気付かないフリをする。許せといった傍から無礼な態度……でも、鬼姫からすればそれは仕方がないことであった。


 実際、鬼姫はこの手の礼儀作法など知らないのである。生前、そりゃあそれっぽいことはされたし、それっぽい振る舞いはしたが、所詮はうろ覚えの付け焼刃。正式な家元にて修行したわけでもなければ、そういった礼式を勉強したわけでもない。


 分からないのだから、どうしようもない。知らないのだから、どうしようもない。ならば余計な事をせず自然体のままでよいではないか……それが、鬼姫の本音であった。


『……そうでありんすか。そねぇなら、仕方ないでありんすねぇ。頭を下げることを知っとうだけでも良しとしんしょう』


 そして、そんな鬼姫の内心をお由宇は察したのだろう。不服としながらも、問い詰めるのは詮無いことだと判断したのか。お由宇はこれまでの無礼を不問とした……のだが。


『――で、ありんすが』


 全くの御咎めなし、にはしなかった。


『知りんせん、で、開き直るは愚か物の証。分かりんせん、で、踏ん反り返るは大馬鹿者の証。仕方ありんせん、で、終わらせるは恥知らずの証。ぬし様がどれに成ってありんすかは知りんせんが、恰好の悪うことなんは、自覚しなんし』

『うっ……!』


 チクリと、嫌味を一刺し、二刺し、三刺し。それが、不問とする代償であった。『……ご忠告、痛み入るのじゃ』そして、その事が分からない程の阿呆ではない鬼姫は、静かに頭を下げて受け入れるしかなかった。


 ……。


 ……。


 …………幾、しばらく。『さて、お互いに名前を交わしんした。お次は、お互いについてを語る番でありんすえ』というお由宇の言葉の下、二人はぽつりぽつりと語り始めた。


 そうして、薄々察してはいたが改めて分かったことが幾つかあった。


 まず、鬼姫が居るこの社は鬼姫が住まう××神社がある○○山から降りて、おおよそ10里程離れた場所にある。ビルと住宅街の一角に押し込まれ、今はもう寂れて久しい、小さな……それはもう小さな神社が、そこであった。


 お由宇曰く『昔は、それはそれは豪華で厳かで、人々の心の支えとなりんした』、である。けれども、△△県△△市の中央にその姿有りと観光名所として名をはせたのは、もう昔のこと。


 高度経済成長の波は『神』にすらどうにもできず、人々の心から『神』の御心が消え去って五十年。都市開発の波からは何とか逃れられたものの、ビルと住宅街の隙間に無理やり押し込められる形で残されてから、三十数年。


 今ではかつての豪華絢爛な社の面影はまるでなく、神社を構成する、申し訳ない程度の代物が置かれているのみ。神官も時折様子を見に来る程度で、神具もカバーを掛けられたまま長らく放置されっぱなし。まことに情けない話ではあるが、辛うじて神社の体裁が保たれているだけのお粗末な神社……というのが、お由宇が語ったここの実情であった。


(ははぁ……何とも波乱万丈な顛末じゃな。しかし、寂しきはそれが今では珍しくも不幸でもないのが……何よりも驚きなのじゃ)


 一通りこの神社のこれまでの経緯を聞いた鬼姫は内心、深々とため息を零した。現在の神社……この時代における新道を含めた様々な宗教の有り様が、昔とは大きく様変わりしているということは、何となく……本当に何となくだが、参拝客の態度から薄々察してはいた。ただ、それはあくまでもしかすると、という程度の認識であった。


 幾らなんでも世間知らずだろうと思われる人もいるだろうが、鬼姫の事情からすれば、(さすがに、千年も前の記憶が残っているわけがなく)それは致し方ないことである。


 なにせ、鬼姫は様々な要因と理由から相まって俗世から離れ、長らく人里に下りていないから、今の世界がどうなっているかを鬼姫は全く知らなかったのだ。


 今でこそ参拝客が来るようにはなったが、それ以前に鬼姫が外の最先端を定期的に知ることが出来たのは、昭和のごく初め……せいぜいが、戦争が始まる手前までだ。加えて、元々地元の者しか知らない寂れた神社なうえ、鬼姫自身が特に世間に広めようとしなかったせいである。


 結果、人々の足は徐々に鬼姫が住まう神社から遠ざかったのだが……まあ、それは自業自得である。とにかく、鬼姫が持つ世俗の知識は、その辺りぐらいで止まっていた。以前、神社にやってきたテレビクルーたちが持つカメラが、カメラであることを認識出来なかったように、鬼姫の認識などその程度のレベルなのである。


 だから、鬼姫にとっては、お由宇から語られる『現在』は驚きの連続で、終始困惑しっぱなしであった。そしてそれは鬼姫の、あまりの世間知らずさに呆れていたお由宇も似たような思いであった。


『……まあ、ずっと引きこもっていたのなら、そこまで驚かれるのも無理もねえでありんすね。それにしても、かの有名な『鬼姫』がこなたのような可愛らしいお姿とは知りんせんした』

『む? ワシ、そんなに有名なのかのう?』


 ええ、そうだんす。お由宇は頷いた。


『ぬし様は知りんせんことでありんしょうけど、わちきたちの間では有名なんでありんす。『神』をも手が出せない大悪霊、『鬼をも従える姫』と、一部の者は恐れていんしたから。まあ、今はそねえなことよりも、気になるうんは……』


 けれども鬼姫の事情を知った後では、お由宇は鬼姫への評価をガラリと変えた。チラリと、鬼姫から視線を外して、鬼姫の後方にある『刀』へと目を向ける。


『歪になっておりんすが、あの『刀』はある種の神格が宿っているようでありんすね。形だけとはいえ、御神体として長い間祭ったからでありんしょう』

『なんと、アレが……そんなことまで分かるのか?』


 『刀』の意外な新事実に鬼姫は目を瞬かせた。


『『神』としての格は高くなくとも、分かることがありんす』


 鬼姫の言葉に、お由宇ははっきりと頷いた。


『ぬし様がここにいるんは、わちきの思いんすに、眠ってありんす間にぬし様が神官たちによって勧請をなされたからでありんしょう。神格を持ってありんす『刀』がこちに来んしたことで、それに手を引かれる形でぬし様もここに来んした……まあ、大方そねえなところでありんしょうね』


 お由宇、大当たりである。


 けれども、そんなことを知る由もない鬼姫は、『勧請? なぜ、今更になってそんなことを?』ただただ不可思議に首を傾げた……のだが。


『そねえなこと、わちきが知っているわけがないでありんしょう。勧請の儀式を行った神官たちに聞けば分かることでありんすよ』


 当たり前だが、お由宇からすれば、そう答えるしかない。ちなみに、勧請の際の記憶がないのは、鬼姫が酔って眠っていたからではなく、幽霊だから、であるらしい。


 本来、例え眠っていたとしても勧請された場合はその時のことがしっかり頭に残されるらしく、知らないまま移動するなんてことは有り得ない、とのことだ。


『勧請の儀式は神霊より分けた御霊を移すものでありんすが、ぬし様は『神』じゃありんせん。神格が宿ってありんすとはいえ、その『刀』も『神』としては不完全。わちきの思いんすに、儀式が不本意、かつ、不完全な形で作用してしまいんした……のでは、ありんしょうかぇ?』


 それは言うなれば、分割出来ないデータを無理やり二つに分けただけでなく、それを違う格式に変換して送ったのと同じこと。あるいは、百円玉しか入らない箱に、半分に割った五百円玉を無理やり押し込めて運んだようなもので……。


『ぬし様が裸でいんしたのも、儀式の反動でありんしょう。思いんすに、ぬし様の衣服は……元の神社の社に、今も散らばっとぅ思いんすよ』


 お由宇、大外れである。


 まさか裸で居た理由が、酔っ払って脱ぎ捨てた状態でここに引っ張られた……とは、神様でも思うまい。『よく分からんが、そういうことになるのかのう』当然、酔っていた時のことなど記憶しているわけがない鬼姫も、欠片すら考えなかった。


『しかし、そうなれば残して来た神社がどうなっているかが心配じゃのう。何とかして戻ることは出来ぬものか……』


 ポツリと零した鬼姫の言葉に、『おやまあ、神でもないんに、神社を心配するんでありんすか?』お由宇は目を瞬かせた。何故かと言えば、お由宇の知る『鬼姫』はお世辞を入れても極悪としか言いようがない悪霊であり、間違っても神社を心配するような者ではないはずだからだ。


『事情を顧みれば、むしろ今回のこれは願ったり叶ったりでは? せっかく、あの山から下りて来んしたんいわすのに』


 なので、お由宇のこの言葉は、鬼姫を知る者からすれば、ごく当然のものであった。実際、鬼姫自身はそのことに気付いていないし夢にも思っていないが、それ程の悪評があるのだ。

 あの鬼姫が……あえてそれを口にしようとは思わなかったが、お由宇がそう思ったのも仕方ないことであった。それどころか、何の気紛れだろうとすらお由宇は思った……だが、しかし。


『いや、別に神社はどうでもよいのじゃ。それよりも、神社に参拝に来る者たちがのう……何事も起こらなければ良いのじゃが』

『え?』


 思ってもみなかった言葉に、お由宇はまたもや目を瞬かせた。瞬間、失礼だと気づいたお由宇は『お許しなんし』口元を抑えたが、『神社があるあの山はちと、特殊でな』鬼姫は気にした様子もなく話を続けた。


『悪しき者を引き付けやすく、ワシが目を光らせておかんとすぐに溜まり場みたいになってしまうのじゃ。まあ、当分は大丈夫じゃろうが……万が一が起こらんわけではあるまい?』

『……そうでありんすね。万が一が起こりぃせん保障など、『神』ですら出来んせんものね』


 それを見て、そうして尋ねられたお由宇は……己を恥じた。出来ることなら、穴に入って隠れたい気持ちであった。


 けれども、隠れたところで意味はない。何よりも隠れるということは、ますます己が恥知らずであることを示してしまう。『――分かりんした。ここで会ったのも何かの縁。御力になりんしょう』内心、顔から火が出る思いでお由宇は平静を装うと、さも、たった今思い至ったかのように膝を叩いた。


『さすがに悪さをしようとする悪餓鬼どもをどうにかすることは出来んせん。でも、様子を見るぐらいは出来んす。その都度時間は掛かりんすが、式を飛ばして様子を伺ってあげんすぇ』

『おお、それは有り難い……しかし、良いのか? 神様ともあろうものが、一介の悪霊に手を貸すなどとあっては……』

『いいんでありす』


 鬼姫の言葉を遮って、お由宇は言い切った。その顔には、晴れ晴れとした笑みが浮かんでいた。


『『神』とはいえ、所詮は捨て置かれたこの身。先ほども言いんしたが、これも何かの縁。なも無い所でありんすが、ゆっくりお過ごしくんなまし』

『済まぬ、この恩は何時か返す』


 対して、鬼姫が取った行動は……深々と頭を下げる。ただ、それだけであった。




 ……そして、それからひと月あまり。すっかり鬼姫とお由宇の仲も親密になり、鬼姫がお由宇の神社に来てから45日を過ぎた頃には、互いに気を置くことのない砕けた間柄になっていた。


 やはり、面と向かい合ってみれば分からないことが多々ある、ということなのだろう。最初はかみ合わない歯車のようにぎこちなかった二人だが、一滴、また一滴と油が差されるにつれて、二人の距離は目に見えて近くなった。


 それは単に鬼姫が他者に対して気さくな人柄だったから……というわけではない。むしろ、最初は全くの逆で、二人の仲が近づいたのは専ら、お由宇のおかげであった。


 それというのも、翌日にはまるで別人になったかのように余所余所しくなっていた鬼姫の頑なさも何のその、どこ吹く風と言わんばかりにお由宇は鬼姫に話し掛け、鬼姫が歩み寄るのを待ったのである。


 それが、偶然にも大正解であった。


 千年近く独りで過ごした鬼姫にとって、お由宇は千年ぶりとなる、己を認識出来る存在だ。言葉を向ければ言葉を返され、目を向ければ見返される。生者にとってはごく当たり前の行為でも、鬼姫にとっては千年以来の大事なのである。


 それ故に、鬼姫はお由宇に対してどう接していいか全く分からなかったのだ。初日こそ勢いと混乱に乗じて誤魔化せたものの、一晩経って素面に戻ってからは、もうどうにもならなくなっていたわけである。


 何を話せばいいのか、何を話しても良いのか、何を話すべきなのか。首を傾げるお由宇を前にして、それだけが鬼姫の脳裏をぐーるぐる、ぐーるぐる。


 鬼姫がその旨を語ってさえいれば、あるいは事情を知る者が他にいれば、違っていたのかもしれない。おそらく鬼姫もちろんのこと、お由宇も困惑することはなかっただろう。


 実際、お由宇は幾度となく『わちきが、何かしんしたか?』尋ねた。ただ、鬼姫はそのたびに何でもないことだと首を横に振るばかりで、お由宇の困惑は深まるばかり。


 それまでお由宇は臆すことなく鬼姫に話しかけ続けていた。だが、さすがに後三日と同じことが続けば、お由宇も神社のことを知らせること以外では、鬼姫から距離を取っていただろう。


 けれども、そうはならなかった。


 困惑が解れたのは、鬼姫が神社に来てから五日目のこと。切っ掛けは……そう、鬼姫がただ不器用な性根であるだけだということにお由宇が気付いた切っ掛けは、久方ぶりに訪れた神官たちが、何の力も宿っていない、ただの鏡を持って来たことからであった。


 それ自体は、特別驚くことではなかった。鬼姫が住まう神社で勧請の儀式を行ったのだから、御霊が宿った御神体(神官たちが用意した物で、実際は何も宿っていない)を、お由宇が住まう神社に近々持ってくるだろうというのは予想していた。


 ――ただ、予想外だったのは、その鏡の傍を漂うようにして付いて来た……巫女服の存在。それは見間違うことなく鬼姫のものであり、驚いた鬼姫が思わずそれの裾を掴んだ……その瞬間、不思議なことが起こった。


 それまで鎮座していただけの『刀』が、ふわりと浮き上がったのだ。『――何と!?』驚きに目を見張る鬼姫とお由宇を他所に、『刀』はふわりふわりと宙を泳いだかと思ったら、次の瞬間には神官たちが持っていた『鏡』をすり抜け、社を飛び出し、空を駆け抜け……鬼姫が住んでいた神社の方へと向かって行ったのであった。


 ……しばらく、二人は呆けたままであった。それも、致し方ない。ぽかん、と阿呆のように口を開いたままの二人は、どちらが先というでもなく互いを見やって……最初に笑ったのは、鬼姫であった。


 何が可笑しかったのかは、後になっても鬼姫には分からなかった。だが、この時の鬼姫はとにかく可笑しくて堪らず、まん丸に見開かれたお由宇の目を見ても笑いを止められず、腹を抱えて蹲るぐらいに悶絶した。


 それを見て、お由宇も何時しか笑い出した。さすがに鬼姫のようにはならなかったが、それでも口元を隠す余裕がないぐらいには笑い、しばし二人は互いの肩を叩き合って笑い続けた。


 ……不思議なことは、続いた。それは、鬼姫の身体が『刀』に引きずられるようなことはなかったということだ。本来であれば、鬼姫の身体は一時間と経たずに引きずり戻されるのに、半日が過ぎ、翌日になってもその気配すら感じられなかったのである。


 何故、今回ばかりは何も無いのだろうか。


 鬼姫には皆目見当が付かなかったが、お由宇曰く、『不完全とはいえ、あの『刀』はあなたと繋がっている御神体です。それが、あの空っぽの器(鏡)を通ったことで、あの鏡そのものが『刀』の一部となったのでしょう』ということらしい。


 つまり、この『鏡』が傍に有る以上は、鬼姫が神社の方に引っ張られることはない。また、それを調べる上で分かったことが一つ。それは、『鏡』は『刀』の一部である為、『鏡』から『刀』、『刀』から『鏡』へとワープすることが出来るようになったという点であった。


 これに関して、鬼姫は心から安堵した。『あくまで本体はあなたであり、この『鏡』は仮初めでしかない。結局は『刀』が大事であることには変わりません』とは、お由宇の忠告ではあったが……まあ、鬼姫がそれを聞いて怖気づくわけがなかった。


 そして……それからだった。話し掛けるお由宇に、鬼姫の心が歩み寄ったのは。心配事が解決し、笑いあったことで肩の力が抜けたことが良い方向に回ったのかもしれない。


 一度でもそうなれば、後は早かった。元々することが何もない二人は、気づけば一緒に過ごす様になり、来てから45日目には、すっかり噛み合う歯車となっていたのである。


 ちなみに、その歯車の潤滑油は鬼姫が住まう××神社の『御供え物』である。あの後、『ワシが持ったまま移動したらどうなるんじゃろう?』ということで試した結果なのだが……これに関しては、お由宇も心から手を叩いて喜んだ次第であった。


 それも、まあご愛嬌というやつだろう。なにせ、お由宇も鬼姫同様に、神社に備えて貰わないと飲むことも食べることも出来ない性質であったのだから。人足が途絶えて久しいお由宇の神社に御供えをしてくれる者などいるわけもなく、久方ぶりの酒にお由宇は毎夜舌鼓を打つのであった。




 そうして、さらに15日が過ぎて、鬼姫が、お由宇が住まう神社にやってきて、計60日が過ぎた頃。気づけば鬼姫は、もっぱらお由宇の神社にて寝泊まりするようになっていた。


『暇じゃな、こうも暇じゃと何をする気にも起きぬ。それでも酒が美味いのは、せめてもの救いじゃがな』

『そねぇなら、神社の様子でも見に行けばいいと思いんす。たしか、出来上がるのは年明け頃でありんしたかぇ?』

『順調に行けば、な。神社の建設は昔も今も面倒臭い手順が多いからな……まさかワシの神社が改装される日が来ようとはのう』

『良かったでありんすね。これで、参拝客が増えるかもしれんせんね』

『さあ、どうだか……完成したら、招待してやるのじゃ』

『あいあい、楽しみにしていんす。ところで、そねぇお暇なら、後でちっとばかしお外にでも気晴らしにどうでありんすか? ここに籠るよりも、ちっとは賑やかだと思いんすよ』

『気持ちだけ受け取っておくのじゃ。あんなに目がちかちかと眩しいだけの場所、見ていて何が楽しいと言うのじゃ? おまけに煩いし、喧しいし、騒がしいし……』

『それ、意味は似たようなものでありんすぇ。あれぐらいで参っていよぅは、明日も明後日も出歩けんせんえ。なんせ、こなたの辺りはまだ静かでありんすから』

『嘘を付け。ここに来てから今日まで一日たりとも途切れることなく、ぶおうぶおうと走り回っておるではないか』


 思わず、鬼姫は頭をあげた。『――こら、どなたが起きていいと言いんしたか。もう、忘れんしたか?』だが、すぐにお由宇に促されて、鬼姫は赤ら顔をそっとお由宇に預けた。


『何が走り回るとおっしゃるんでありんしょう、お婆ちゃん。思い返すばかりでは、そのような喧しい出来事などあった覚えがありんせんよ?』

『ワシが御婆なら、お前も御婆じゃろうが……ほれ、あの……くるま、とか言うやつじゃ』


 ああ……お由宇は納得して頷いた。


『前から思っていんしたが、ぬし様は妙なところで怖がりな気がありんすぇ。こんにち、『車』に怖気づく者なんておりんせんよ』

『仕方がなかろう。ここに来るまで、『くるま』なんぞまともに見たことがなかったのじゃから』

『あら、前に話してくださった、夜に神社を訪ねてきた人々の時には見ねぇでありんすかぇ? わちきの思いんすに、何台かの車は見たと思っていんしたが……』

『あの時は、アレが『くるま』だとは思わなかったのじゃ』


 唇を尖らしてそう零す鬼姫の様子に、ほほほほ、とお由宇は袖で口元を隠しながら笑みを零した。


『もしや、遠出するんは馬しかないと思っていんしたかぇ? 昔も『車』はありんしょうに』

『いや、『くるま』自体は知ってはいたのじゃが……ワシの頭に残っていたソレと、その時に見たソレとがあまりに違っておったからのう』


 だらだらと、言い合う二人。同じところに寝泊まりするようになったからか、二人は愚痴を言い合えるぐらいに仲良くなっていた。ただこれは、信者はおろか参拝客すらまともに来ないので、戯言を言い合うぐらいしかすることがなかったからなのだが……まあ、それはいい。鬼姫は当然として、『神』であるお由宇としても、参拝者が来ない以上はどうしようもなかったのだから……ぶっちゃけ、二人は何もすることがなかったのである。


 まあ、そんなわけで、鬼姫は暇であった。


 鬼姫が出歩かない以上、当然のことながらお由宇も同じであった。時折、『刀』がある神社の様子を伺いに行くことはあっても、あくまで時折だ。


 基本的に毎日が日曜日である二人にとっては今更な話ではあるが、とにかく二人は暇を持て余していた。ぐびりぐびりとワンカップを傾けながら、何をするでもなくだらだらと過ごしていた。


 ちなみに、だらけた内心は、二人の姿に如実に表れている。


 本殿入口前の廊下、階段上にて、鳥居を正面に見据える形でだらりと足を投げ出すように腰を下ろしているお由宇。その膝をもっぱら枕代わりにして寝そべる鬼姫。二人の傍には草冠でおなじみのワンカップが置かれており、今は酔って足元がふらつく鬼姫が介抱されているところであった。


 ……季節は既に、夏を通り過ぎようとしていた。残暑だの熱帯夜だので、まだまだ夏の名残が陽炎のように人々の中に漂っているが、それも時間の問題である。あと一ヵ月程……だいたいそれぐらいで名残も消え去り、そして秋の勢力が顔を覗かせる。


「――あっ! あった! 本当に有った!」

「――ねえ、有ったよ、ほらぁ!」


 そんな時であった。昼も夜も静まり返るばかりの神社に、月に二回しか来ない神官以外の声が響いたのは。あまりに突然に響いたその声に、『――うぉ!?』鬼姫は飛び退くように身体を起こした。がやがやと聞こえて来る声にしばしの間目を瞬かせた後……おもむろに、『お前、気付いておったな?』鬼姫はお由宇を睨みつけた。


『はてさて、そう睨まれんも、わちきには分かりんせん。さあさあ、お退きなんし。わちきはこれから、何時か以来のお勤めでありんすから』


 それを見て、お由宇も立ち上がる。『すぐに済ませんす。ぬし様は、とっくりと待っていておくんなんし』くぴ、と残っていた酒を颯爽と飲み干し、『それにしても、今更なことだとは思いんすが――』鳥居を抜けて境内へと入って来た数人の若者たちを見つめた。


『ここのとこ、礼儀といわすものをご存じないものがたくさんで滅入りんす。神様を小間使いか何かと考える罰当たり者もありんしょうね』

『それならば、放っておけばよいではないか』

『そういうわけにはいきんせん。理由は何であれ、人々の願いを知らん顔しては『神』の名が廃れんす。御力になれなくとも、傍に寄り添うことは出来んす』


 そう言うと、お由宇はむん、と、気合を入れて若者たちへと歩み寄って行った。その背中を見送った鬼姫は、赤ら顔のまま、くぴり、と自分の分の酒を煽り……深々とため息を零した。


(まあ、何かあったら目覚めが悪いし……絶対に待っていろ、とは言われておらんのう)


 要は心配だから、という言葉は意地でも考えることすらしない鬼姫。誰に言うでもなく自らに言いわけを重ねると、早速お由宇の後を追い掛け……ようとして、おや、と目を瞬かせた。




 ……。


 ……。


 …………お由宇の神社にやってきたのは、6名であった。化粧や身だしなみに気を使っているのが一目で見て取れ、その誰もが垢ぬけた顔をしているが、大人のそれではない……やって来たのは、そんな年頃の者たちであった。


 ――おそらくは二十歳前後だろう。見てくれは立派じゃが、まだまだ中身は子供じゃな。


 お由宇の後ろから覗き見ている鬼姫は、心の中で若者たちをそう評価する。全員が全員、あるいは誰かに何かが起こったのだろう。慌ただしくも引き攣り、どことなく青ざめた若者たちの顔色。


 どれ一つとっても平静ではない。よほどな事に出会ったのか、あるいは別の何なのかは分からない。理由は何であれ、医者や警察ではなく神社を訪ねて来たのだ。まず間違いなく、ただ事ではないということだけは鬼姫にも察せられた。……というか。


(……何ぞ、あれ?)


 十中八九、あれだろうなあ。


 そう思わずにはいられない鬼姫の視線が、若者の一人。男二人に取り押さえられながらも、よく分からない奇声を発しながらぐねぐねと手足を動かしている一人に向けられた。


 気が触れてしまったのか、あるいは別の理由からなのか。その若者は、唇の端から涎が垂れているのも気付かずに、いひいひ、いひいひ、と手足を、まるで海中を漂うたこ足のように滅茶苦茶に動かしていた。


 はっきり言って、目立つ。それはもう、目立つ。初対面の鬼姫が真っ先に目を向けるぐらいなのだ。そんなに目立つのだから、鬼姫の視線が向けられるのは仕方ないことで……いや、違う。


 鬼姫の視線が、つい、と動く。鬼姫の視線は、そこではない。もっと正確に言えば、その若者の背中、くねくねと手足をやたらめったらに振り回している、痩せこけた『何か』に、鬼姫の視線は吸い寄せられていた。


 その『何か』は、何とも珍妙な出で立ちであった。


 手足は枯れ枝のように細いのに、手首足首から先は猿のように大きい。腹は餓鬼のようにぽこんとせり出しているが、全体的には痩せ細っていて、目つきどころか顔立ちが……おおよそ、人のそれではない。そんな姿のやつが、若者と同じ動きをしていた


 はっきり言えば、それは良くない霊であった。おそらくは、人が持つ邪念が長い年月を経て似たようなものに変化し、それが意志(と、言う程大そうなものではないが)を持った……ということだろうか。鬼姫からすれば数ある雑魚の内の一人でしかないが、まあまあ面倒臭い部類に入る相手である……が。


 ――何で、そんな面倒なやつに憑りつかれたのだろうか。


 そんな疑念が、どうしても鬼姫の脳裏を過る。ジッとこちらを見つめてくるその『何か』を見つめながら、鬼姫は首を傾げた。


 何故鬼姫が首を傾げるのかと言えば、この手の類は、基本的に自ら獲物を探すのではなく、待ち受けるタイプの悪霊だ。加えて、特定の条件が重ならないと出現出来ない類のもので、実際、眼前にて鬼姫が確認した限りでは、そうであった。


 しかも、出現する場所は人里から遠く離れた場所や、おいそれと立ち入ることが出来ない場所がほとんど。で、あるからして、若者たちが集まって行くような場所にはまず現れない……はずである。少なくとも、鬼姫が知っている限りではそうだ。


 だからこそ、鬼姫は首を傾げた。


 若者たちの恰好は、とてもではないがそういった場所に行くような服装には見えない。加えて、鬼姫が見た限りでは、その若者が『何か』に憑りつかれて……おおよそ、一日とて経っていない。


 いったい、どこで何をやればそんな状態になれるのか。その理由が鬼姫には全く思いつけなかった……まあ、おそらく、自業自得だろうとは思うけど。


『自業自得でありんすね。まことに、坊やは何時の時代も無策無謀の無鉄砲でありんすから、困りんす』

『……分かるのか?』


 まるで心を読まれたかのようなタイミングに、思わず鬼姫は言葉を詰まらせた。幸い、お由宇は気付いていないようであった。


『『神』でありんすから』


 自信ありげに胸を張るお由宇に、鬼姫はそれじゃあ、と提案する。


『自業自得であるならば、放っておけば良いと思うのじゃが……あれは、下手に相手をすると面倒じゃぞ』


 あれ、とは、言うまでもなく『何か』のことである。


『捨て置かれた神とはいえ、『神様』でありんしから。『わけあり』でありんしても、助けを求める者たちの手を振り払うことだけは出来んせん……それに、あの中の娘には私の『力』が必要でありんすから』


 ポツリと、それでいて力強く零したお由宇の言葉に、鬼姫は目を見開いた。


 正直、凄いもんじゃな、と鬼姫は思った。


 何故なら、眼前の若者たちは口々に助けてくださいだの、どうにかしてくださいだの、同じことを延々と繰り返すばかり。いったい何があったのか、何をしたのか、何をどう助けて欲しいのか、それすらも説明しないのだから、鬼姫からすれば困惑しっぱなしである。


 それなのに、お由宇は理解していた。きゃんきゃん泣き喚く若者たちは何一つ具体的な事情を話していないのに、ちらりと一瞥しただけで『――なるほど』訳知り顔で頷いたのだ。


『まあ、これに懲りたらちっとは身の程を弁えるようになりんしょう。坊や達も、今後は阿呆なことも控えなんし』


 おまけに、何か説教っぽいことも言っている。さすがは、神様。たぶん、ここらへんが『幽霊』と『神』を分ける明確な、それでいて絶対の違いなのだろう。


(――しかし、のう)


 チラリと、鬼姫の視線がお由宇から『何か』へと向けられ……そして、またお由宇へと戻る。鬼姫はあえて口には出さなかったが、この時心の中では……どうしよう、この言葉がぐるぐると渦巻いていた。


(威勢が良いのは結構なのじゃが、もしかしなくても、お由宇の方が力負けしておるような気がするんじゃが……)


 見た所、『何か』から放たれる『力』は中々のものだ。鬼姫と比べればミジンコみたいなものだが、それでも並みの実力では手も足も出せずに殺されるだろう。


 『神』であるお由宇が、負けるとは思えない。だが、お由宇の『力』でどうにか出来る相手とも思えない。実際の所、お由宇がどれほどの『力』を有しているかは知らないが、もし、お由宇の『力』が鬼姫の想定内であったなら……正直、鬼姫は不安であった。


『それでは、ぬし様』

『ん?』


 だから、鬼姫はお由宇から名前を呼ばれた時。


『やっちゃってくんなんし』

『おい、待て』


 思わず身体の力が抜けたが、同時に、安心したのであった。


『……この流れで何故、ワシに振るのじゃ?』


 とはいえ、まさかこうもあっさり頼られるとは思わなかった。『神』としての意地がどうのこうのとか言われそうな気がしていたから、余計に、だ。


『いえ、思いんすよりも相手が手ごわそうで……お恥ずかしい話でありんすが、わちきの手におえる相手ではありんした』


 はっきりと言わなければ、分かりませんか?


 まるでそう言いたげに、何の後ろめたさもなくそう言われれば、『お、おう、そうか』逆に鬼姫の方が口ごもる有様であった。いや、元々力は貸すつもりだったから、ある意味では余計な手間が省けたようなものなのだが……なんだろう。


(さっき、すぐに済ませるとか言うておったような覚えが……まあ、いいか)


 少々納得出来ない部分はあったが、まあ、遠まわしにではあるがお由宇からお願いをされたのだ。見方を変えれば、お由宇から頼られていると言っても過言ではない。せっかくの飲み友達からの願いを無下に出来る程、鬼姫は薄情ではなかった。


『さて、急ぎんしょう。坊やも苦しんでおられんす。わちきもお手伝い致しんすがら、二人で何とかしてしまいんしょう』

『お主がそれで良いと言うのなら、ワシはかまわぬが……いちおう言っておくが、ワシはただの幽霊じゃからな? 他の『神』に見られて何か言われても知らぬからな』


 ただ、果たして本当に自分がやってもよいのかなあ、という疑念は消えなかった。けれども、再度急かされてしまえば、もう鬼姫の心は決まり、赤ら顔のままその若者に近づいていた。


 その瞬間、『何か』は己の最後を悟ったのだろう。それまでやたらめったらに振り回すばかりであった挙動をピタリと止めると、憑りついた若者を操って逃げようとした……が、遅かった。


 それよりも速く突き出された鬼姫の手が『何か』の首を掴み、引き摺り下ろすようにして若者から引っぺがす。『何か』は悲鳴をあげてなおも暴れようとしたが、『んっ?』鬼姫から一瞥され……大人しくなった。


「いひいひ、いひいひ、いひ……あ、あれ?」


 直後に、変化は現れた。それまで、誰が見ても気が触れているとしか思えない形相であった若者の目に、理性の色が灯ったのだ。「俺、何して――って、痛ってぇええ! 身体中が痛ぇえ!?」加えて、意味のある言葉まで発した。


 ――その瞬間、若者たちはにわかに沸き立った。男も女も、全く関係なかった。誰もが涙を流して、肩を叩き、抱き着き、ともすれば笑い合った。その若者たちの足元で、ただ一人。先ほどまで気が触れていたその若者だけは、状況を理解出来ずに、ぽかん、とした様子で呆気に取られていた。


『……で、ワシにこれをどうしろと言うのじゃ?』


 いや、少し違った。状況が呑み込めないのは、もう一人居た。それは、除霊行為を行った鬼姫であった。げふぅ、と酒臭いため息を吐いた鬼姫は、片手に掴んだ『何か』を、見せびらかすようにお由宇へ向け……ぽけっ、と呆けていたお由宇は、『――あ、ああ、お許しなんし』遅れて我に返った。


『どうしろと言われても、わちきにはどうすることも出来んせん。なんで、どうなさるかはぬし様に任せんす』


 任せます、と言われても、鬼姫自身は掴んでいる『何か』に対して何の興味も抱いていない。鬱憤晴らしに使うには脆すぎるし、下僕として扱うには理性が無さ過ぎるし、そもそもこんなやつを傍に置きたくはない。


 …………まあ、いいか。


 しばし頭を悩ませた鬼姫だが、考えるのが面倒になった鬼姫は一思いに『力』を込める。直後、『何か』はおぞましい悲鳴をあげてくねくねと手足をばたつかせたが、その程度で鬼姫の拘束を逃れられるわけがない。


 結局、『何か』は鬼姫の手から1cmと振り解くことが出来ないまま、断末魔の呻き声をあげて……ぼろぼろと燃えカスのように崩れ落ち、ものの数秒ほどで跡形すら残らずに消滅してしまった。


『……とりあえずは、これで終いじゃな。さて、ワシは少々眠い。ひと眠りしてくるとするかのう』


 しばし、『何か』が存在していた場所を見つめた鬼姫は、そういって大欠伸を零した。準備運動にもならない、とは、このことを言うのだろう。次いで、若者たちに何かをしているお由宇に『ワシは寝る。後はお前がどうにかするのじゃ』一言告げると、鬼姫はさっさと踵を翻し――。


『――ん?』


 ――た、その足が、不意に、ピタリと止まる。振り返りは……しなかった。何故なら、若者たちの後方、境内より向こうの鳥居の外からこちらを見ていると思われる、……『何か』以上の『良くないやつ』の気配を嗅ぎ取ったからであった。


(本当に、お前らは何処へ行って来たのじゃ?)


 気付いてみれば、何故それまで気付かなかったと呆れてしまうぐらいによく分かってしまう。ねっとりとへばり付く視線を背中に受けながら、鬼姫は頬を引き攣らせた。おそらく、『何か』と同類……あるいは、上位的存在か。どちらにしても、こいつは面倒事だな、と鬼姫は思う。


(……様子見、しておるのかのう? まあ、今は『力』なんぞ出していないから手頃な相手と見られても不思議ではないが……ワシも、なめられたものじゃな)


 『良くないやつ』から感じ取れる『力』の強さを見て、鬼姫はガリガリと頭を掻く。それは、恐怖から来る行為では無く……何時もの面倒臭いと思った時に出る癖みたいなものであった。


 何故ならば、結局は同じなのだ。先ほどの『何か』よりも明らかに『良くないやつ』は強い。だが、それでもなお鬼姫にとっては雑魚も同然で、その『力』は鬼姫にまで届かないのだ。


 鬼姫からすれば、だ。『何か』と『良くないやつ』の違いなんて、ミジンコか蟻んこかの違いでしかない。言い換えれば、その二つの実力の差なんて、鬼姫にとってはオタマジャクシに足が生えた……という程度の感覚でしかないのだ。


(だからといって、ここでやり合うわけには……ワシの神社……いや、今は無理じゃな。人が多過ぎて、とてもではないが以前のようにはやれぬ)


 問題なのは、場所である。以前、鬼姫が住まう神社に(鬼姫基準では、ただただ面倒なだけの相手)手ごわい悪霊が来た時は、全力を出せた。


 それは、あの時鬼姫の周辺に人影はなく、居合わせたテレビクルーたちは『刀』がある神社の方に逃げてくれたからで……今回、その『刀』は傍にない。


 いちおう、『刀』と同じ役割を持つ『鏡』があるが……果たして、それで鬼姫から放たれる『力』の余波を抑えきってくれるのだろうか。鬼姫としても、確証がない限りは無暗に本気を出すわけにはいかないわけであった。


(勝負は一瞬……というわけじゃな)


 注意しながらお由宇を見やれば、お由宇は若者たちのことに集中しているのか、まだ『良くないやつ』には気づいていないようだ。ある意味、好都合だな、と鬼姫は判断し……おもむろに振り返ると、『良くないやつ』と目を合わせた。


 ――そいつは、長い黒髪を垂れ下げた女であった。


 そう、鬼姫が認識したと同時に、『良くないやつ』は飛び出した。その狙いは……鬼姫よりも近い位置にいた、若者たちであった!


 垂れ下がっていた髪が、勢いよく舞い上がる。その下にあるのは黒い眼孔と、抉れて無くなった鼻腔。欠けて歪になった歯をむき出しに、『良くないやつ』は信じられない速さでお由宇へと迫った。


 『良くないやつ』からすれば、それは好機以外の何物でもなかったのかもしれない。なにせ、厄介な相手は一番遠く、『神』もこちらに気付いていない。失敗しても生者の一人や二人を盾にすれば十分に逃げる猶予は得られる――。


『ふむ――』


 ――と、思っていた。だが、現実は違った。指先が若者たちの誰かに触れるよりも前に突如現れた鬼姫の姿に、『良くないやつ』はギョッと足を止めた。慌てて反転しようとしたが、その時にはもう、全てが遅かった。


 ふわりと、まるで眼前の木の葉を払うかのように振るわれた鬼姫の腕。はた目から見れば、ただそれだけのこと。しかし、『良くないやつ』は身を持って……腰から下が消し飛ばされたのを知覚した瞬間、ただそれだけではなかった、ということを思い知った。


 どたん、と、『良くないやつ』は境内を転がった。遅れて、ようやく異変に気付いたお由宇が、何事かと顔を上げる……のをしり目に、『良くない』やつはバタバタと両手をばたつかせた。両手で地面を殴りつける様にして前に進み、一秒でも早く鬼姫から離れようと――した、時にはもう遅かった。


 ――ふっ。


 文字にすれば、それだけ。鬼姫が上半身だけとなったそいつへ吹き付けるようにして放った、吐息。もちろん、ただの溜め息ではない。浴びただけで重傷必至の『力』が込められたソレが、まるでショットガンのように『良くないやつ』の全身を貫き――次の瞬間には、『良くないやつ』は断末魔の悲鳴を上げる間もなくこの世から消滅した。


 ……それは、気のせいと思われかねないぐらいの、一瞬の出来事であった。


 視界の端に何かが過ったと思って見やれば、何もない。言葉にすればまさしくそんな感じ。『はて、いま何か……』首を傾げて境内を見回すお由宇を見て、一方的な戦いは人知れず終えた鬼姫は大きく欠伸を零し……何事もなかったかのように、社へと引き返すのであった。


 ……。


 ……。


 …………それからまた幾しばらく。鬼姫がお由宇の住まう神社にやってきてから季節は移ろい、晩秋を通り過ぎ、初冬へと差しかかろうとしている。


 そして、年明け。改装(実際は、ほぼ新築みたいなものだが)が終わるのは年明け……果たして、ゴミ捨て場よりも汚かったあの神社がどう変わるのか。


『そういえば聞いていなかったのう、お由宇よ』

『何え?』

『今更な話なのじゃが、お主はいったい何の神様なのじゃ?』

『あれまあ、話してありんせんしたかぇ?』

『しがない神様というぐらいしか、ワシは聞いておらんのじゃ』

『そねぇですか。わちきは、『性愛の加護を司る』神様でありんすぇ。特に、『花柳病』には心得がありんす』

『ほう、性愛の加護……して、かりゅうびょう、とは何じゃ?』

『今で言う、『梅毒』でありすぇ。わちきの加護を受ければ、花柳の発芽を遅らせたり、軽い者なら治すこともできんす』

『……ばい、どく? 梅の毒……最近は梅に毒が出るようになったのか?』

『おほほ、違います。おしげりなんし、と言いうことでありんす』

『……? おしげり……?』

『おほほほほ、分かりんせんなら、それが良いでありす。ぬし様は、それが程よいでありんすから』


 それはまだ……鬼姫が知るところではなかった。

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