終わりのない世界で僕とあたしは旅してる。
槙村まき
第一部
◎ピエロの見せない涙。
そこには齢十四歳程の少女がいた。
長い黒髪は濡れたかのように光輝いており、瞳は純粋そうな黒。見た目と違い意志の強そうな瞳は、じっとひとりの人物を見つめていた。
公園にある噴水の前。そこにひとりピエロが立っている。赤いアフロヘアに赤い口の、目元に水色の涙を描いた、どこかのサーカスにでもいそうなピエロだ。
ピエロはいろいろな色のボールでジャグリングをしていた。ボールの数は把握できるだけでも六個はあるだろうか。
公園で遊んでいる子供。それを見守るでもなく喋っている主婦たち。公園を通り道にしている学生は、そのピエロを見ては白けたように視線を逸らす。
その理由は、失敗ばかりしている――ただそれだけなのだろう。
ほとんどの人はピエロのその行為が道化だとしっている。
でもその行為は、舞台の上でしか役に立たないのかもしれない。
ただの町中の公園。こんなところでジャグリングをしていたところで、誰も見向きもしやしない。
子供は遊ぶので夢中だし、大人はしゃべるので夢中。
なにもしゃべらないピエロなんかに、人々の注目など集めるのは無理だった。
少女はつまらなそうに、失敗ばかりして人を笑わせようとしているピエロを見ていた。
――バカみたい。
そう思いながら見ていた。
――バカみたい。
どうしてこんなところでジャグリングなんてしているんだろう。誰も見やしないのに。
――本当にバカみたい……と。
誰にも見向きもされないピエロ。
だけど、それを見ている少女には、ピエロが可哀想に見えなかった。
三十分ほど経っただろうか。
誰も笑うことなく終わったその笑劇は、ピエロが荷物を片付けたところで終わりを告げた。
顔を俯かせながらピエロが歩き出す。帰るのだろうか。
少女はベンチから立ち上がると、ピエロの後に続いた。
これは好奇心だ。この笑わないピエロが、これからどこに行くのか気になっただけ。
彼女はこの近辺にサーカス団がいないことを知っていた。だから余計に気になったのかもしれない。
歩幅の大きいピエロと比較して、歩幅の小さい少女は早歩きになってしまう。ピエロの身長は身を屈めているからかそんなに高くは見えないけれど、背筋を伸ばせば百八十センチは越えていそうだ。がに股で歩いていることから、少女はピエロを男性だと思うことにした。
彼(推定)は公園から出ると、大通りには向かわずに裏道にそれていく。
少女は少し小走りに、彼を追いかけて裏道に入っていった。
「私に、なんのようがあるのかな、お嬢さん」
男性にしては高く女性にしては低い、中性的な声が響いた。
少女は、屈んで見下ろしてくるピエロの瞳を無表情で見上げる。
「お嬢さん、さっきからずーっと私を見ていたよね? なにかようがあるんじゃないのかなーと思ったのだけれど、違うかい?」
赤い赤い唇が、言葉を紡ぐ。
「別に、なにもようはないわ」
少女は囁くように言う。
彼は「ふーん」と歌うような声を上げた。緑色のカラーコンタクトがきらりと光る。
「ただ気になっただけ」
「なにを?」
「あなたは、全然楽しそうに見えなかったから。顔はそんなに笑っているのに、下の顔は全く笑っていなかったから」
自らを楽しませていないピエロが、人を楽しませることなんてできはしない。
自らを楽しんでいないピエロを見て、人は笑ったりなんかしやしない。
だから少女も、周囲の子供や大人までもが、ただ白い目でピエロを見ていたのだろう。
この出来損ないのただの道化を。
緑色のカラーコンタクトの下で、黒い瞳が動揺したかのようにゆらゆら揺れるのを少女は見逃さなかった。
「全然楽しそうじゃないのに、どうしてあなたは道化師を演じているの?」
「それは」
赤い唇は笑みを刻んだまま、表情を消した彼は黙り込む。
そして赤い唇と共に口を開くと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「なんで、なのだろうね。実は、私もそれを知りたいんだ」
ずっと自分自身を白けた目で見ていたピエロを、道化になれない道化師を、少女は無表情で見つめる。
「あなたは悲しいんだね」
「……」
「あたしには、ずっとあなたが悲しそう顔をしているように見えた。ねぇ、どうしてあなたはあんなことをしているの? 自分が楽しめないことをしているのは、どうして?」
「――ああ。私が、悲しんでいる……ね」
少女の問いに答えることなく、ピエロは呟くと空を見上げた。夕闇に染まる空は、薄い雲で覆われている。もうすぐ、雨が降りだしそうだ。
「私はね、別にピエロなんてやらなくてもいいんだよ。私の所属していたサーカス団は、私を置いてどこかに行ってしまったし、ここに知り合いはひとりもいない。……だけど、なんでなんだろうね。昔から染みついてしまった道化はなかなか治らなくてね。普通の仕事をしたいのに、なにひとつ上手くいかないんだ。私がもともと人と接するのが苦手だということもあるのだろうけどね……。みーんな、私から遠ざかってしまう。サーカスでも孤立していた私は、ただの会社でも孤立をしてしまった。だから、かな」
彼は空から視線を逸らし少女を見た。
「私にはこれしかできないんだ。少しでもみんなに笑ってもらおうと努力をしているのだけどね、やっぱりそれは無理みたいだ」
自虐的にピエロが呟く。ところどころ掠れた声で彼が訊いてきた。
「お嬢さん、よかったら私に名前を教えてもらえないかな」
「……リリ」
「リリ。良い響きの名前だ」
「……ありがとう」
「リリ」
リリは、真っ直ぐにピエロを見つめる。黒い瞳で、彼は見返してきた。
「リリに言われてわかったよ。私は悲しんでいる。とても、悲しいんだ。私の人生にはいろいろありすぎた。父と母に裏切られ、自らが作ったサーカス団に裏切られ、唯一の取り柄の道化を自分で裏切ってしまった。子供の笑いが救いだったのに、その子供に見破られてしまった」
「あたしは子供じゃないわ。……十四歳よ」
「ああ、すまないね」
ふふっ、と彼は笑い声を上げた。
リリは軽くため息をつく。
「リリ」
「なあに?」
「笑ってくれないか」
「楽しくないから無理よ」
「きみが笑ってくれれば、僕は少し救われるような気がするんだ」
「なら、楽しませて」
「いまは……ごめん。無理だ。それでもきみに笑って欲しい」
「あはは」
「見事に棒読みだね。でも、それでいいや」
あーあ、といいながら彼はゆっくりと背筋を伸ばした。
リリは彼の瞳を覗くべく、少し背伸びをした。その姿を見て、ピエロの仮面をかぶった彼は、赤い唇に負けないような笑みを浮かべた。緑色のカラーコンタクトの下には綺麗に輝く黒い瞳があった。
「リリ。きみのおかげで、僕は少し上を向けるようになったよ」
「あたしはなにもしてないわ。ただ話をしていただけ」
上を向こうと思えば、誰でも上を見ることができるのだから。
その言葉を思い留め、リリは地面に視線を向ける。
「ありがとう、リリ」
トンっ、と足音がした。
リリは視線を上げる。
彼はとっくに背を向けていた。
「また、どこかで会えるといいな」
「ええ。そうね」
無理だろうけれど。たとえ何十年後に会ったところで、彼が探しているのは成長をしたリリで、ここにいる自分じゃない。
トン、トンっ――と足音を立てて、彼の背中は遠ざかっていった。
ふふーんふふふーんふふーんふふふーん。
裏道に、鼻歌が響く。
ふふーんふふふーんふふーんふふふーん。
リリは彼の背中を見つめ続けた。
「さようなら」
小さな声で囁く。
一瞬鼻歌が止まり、チラリと彼が振り向いた。すぐに顔を前に戻し、トンっと足音を立ててピエロの背中は遠ざかって行った。
ふふーんふふふーんふふーんふふふーん。
ふふーんふふふーん――
ふふーん……。
鼻歌は徐々に小さくなる。そして消えていった。
リリは大きく目を開く。
「いまの、本当の涙?」
振り向いたとき、水色の涙が、本物に見えた気がしたから。
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