◎雨が降っている。


 三日前、わたしは彼と別れた。

 出会いは突然だった。想いを抱くのも、突然だった。ああ、この人のこと、好きだな。そう思ってしまえば一直線に。

 過ごしてきた日々は、瞬間に幸せを残して過ぎて行く。思い返せば思い返すほど、それは想い出となっていった。


 だけど別れは。

 いま、わたしの心の中にある。

 雨が降っている。

 わたしの替わりに、空が涙を流している。

 なんて、そんなことあるわけないのに。

 突然の別れは、わたしになにも残さなかった。

 想い出も、出会いも、好きになった気持ちも、すべてがどこかに消えてしまった。


 雨が降っている。

 傘は持っていない。

 ぽたり、ぽたり。と、わたしの頬を撫でるように、水滴が落ちてくる。

 雨脚が強くなくてよかった。

 なんとなく、そう思った。


 ふと前を見ると、雨が降っているにも関わらずに、傘を差さずに歩いてくる少年を見つけた。

 不思議な雰囲気のある少年だ。一瞬幻想だと思ったほどに、彼は儚い笑みを浮かべている。

 薄い茶髪の少年は、わたしに気づくと、優しげに目を細めて微笑んだ。


「どうしたの?」


 わたしより年下。まだ十五歳かそこらだろう。

 それを感じさせないほど、どこか異様な雰囲気を纏う少年は、わたしの近くで足を止めると訊いていた。


「あなたこそ、どうしたの? 傘は?」

「それは、お姉さんもじゃないかな。僕は濡れても平気だけど、お姉さんは濡れると風邪をひくよ?」


 この子だって風邪をひくはずだ。

 苦笑してしまう。


「わたしは、いま、熱から冷めている途中なの。だから、平気」

「ふーん」


 変なのと言いたげな少年の目だ。こんな顔もできるのだと、出会って間もないにも関わらず、わたしは彼の秘密を見つけた気分になった。


「お姉さん」


 少年が、問うてくる。


「泣いてるの?」


 それは――答えられない。

 熱から冷めている途中のわたしは、怒りたいのか、泣きたいのか、それともなにも考えたくないのか、わからない。

 答えないわたしに気を使ってか、少年は大きく手を広げると、空を見上げた。


「空もこんなに泣いているんだよ。だからお姉さんも、泣きたかったら涙みせてもいいんじゃないかい?」

「ふ」


 ふふっと、わたしは声に出してしまった。

 少年に似合わない行動が面白くって。

 やってしまったという顔で、少年が頬を掻く。


「我ながら、くさかったかな」

「そんなことないんじゃない」

「お姉さん、まだ笑ってる」


 そんな、大人っぽさのある少年は、子供らしく口を尖らせてみせた。

 いちいち動作が決まっているので、笑いが止まらない。

 雨は、まだ降っている。



 わたしがひとしきり笑うと、少年はやっとといった様子で、口を開いた。


「お姉さん」


 その声に顔を上げる。

 少年の、髪と同じ色の瞳と目が合った。


「僕はね、迷っているんだ。だから雨の中、歩き回っていたんだけど。なにも思い浮かばなくて」


 少年は、掌に落ちる雫を眺めた。


「人と別れるのって、どれだけつらいのかな」


 なんとなしの問いに、わたしの胸が疼く。

 人と別れること。

 それは家族なのだろうか。それとも友だち? 彼が学生だとするとクラスメイトなのかもしれない。――もしかしたら、愛する人?

 最後だったら、とんだませガキだ。けれど、少年が口にした人は、それとはまったく違う人のような気がした。

 どうしてだか、そう思った。


「僕は、どうしてもあの子と別れないといけないんだ。僕とあの子とじゃ、決定的に違う部分がある。それがある限り、あの子とは一緒にいられない」


 あの子。決定的に違う部分。

 それが、少年の悩みなのだろうか。


「雨が悩みを流してくれると助かるのだけど、そう上手くいかないみたいだね」

「雨は、熱をとってくれるだけだから」

「熱、か。僕は、風邪はあまりひかないから、わからないや」


 わたしは、少し考えてから口を開く。


「熱は、風邪だけじゃないわ。人間が本来持っている体温もそう。それから、わたしの心の熱も、あなたの心の熱も、それから……大切な人との別れも、こもっている熱を洗い流してくれるのよ」


 三日前。彼がわたしよりも若く小柄で、華やかな笑顔を浮かべている人と一緒にいるのを見つけてしまった。次の日、どうしてだか問い詰めると、「もう俺たちは冷めているだろ」と返されてしまった。

 そう、冷めていた。彼との関係は、雨が降るよりも前に。瞬間の想い出を残して。社会人になったわたしと彼はそのまま会う回数も少なくなっていた。ほとんど自然消滅していたのだ。わたしの想いだけをそこに残して。彼は、新しい瞬間を過ごしていた。


 たったそれだけのこと。

 怒りの言葉すら出てこなかった。

 わたしは、泣くことすらできない。

 あの日、彼とわたしは、言葉を交わすと関係に止めを差した。

 あの女が憎いとか、彼を愛おしいという気持ちすら、もう流されて消えようとしている。


 雨は止まない。

 わたしの頬を撫でてくれる。


「お姉さん?」


 少年の言葉で我に返る。


「でも、悩みはすべて流していいものではないのかもしれない」


 もうわたしに悩む気持ちはないけれど。

 彼への気持ちも、過去(おもいで)も流れてしまったけれど。

 わたしは、まだここにいる。


「だからね、彼女と別れたいのなら、ちゃんとお互いの気持ちを確認してからにするのよ。そして、泣いても怒っても、笑顔で別れなさい。出会いも別れも、しんみりはつまらないのだから」

「え、彼女?」


 驚いたように目を見開く少年。


「あの子っていう時、キミ、一段と優しい笑みをしていたのよ。彼女以外に考えられないと思ったのだけれど、違ったかしら」

「彼女……うん。そうだね。僕があの子に対して抱いている感情は、愛だとかそんなバカらしいものじゃないけれど。嫌いってわけじゃない」

「愛をバカらしいって、そういうこと言うのは、もっと人生を経験してからにしなさい」

「あ、うん。そうだね。そうだった」


 あはは、と少年が笑った。


「ねえ、お姉さん。そろそろ、晴れそうだよ」


 少年が指し示す方向を見ると、雲から太陽が顔を出していた。

 雨は、止んでいる。

 空は、泣くのをやめていた。

 それなのに、わたしの頬を、優しく雨が撫でていく。

 目元を指で拭うと、雨がわたしの指についた。


「お姉さんの悩みも、晴れるといいね」


 上手いことを言う。

 笑いたいのに、涙が止まらない。

 ああ、わたしは泣きたかったのだと。

 彼と別れて、冷めた関係が元に戻っただけだと、言い聞かせていたのに。

 やまない雨(なみだ)が降っている。

 それはゆっくりと、わたしを解放してくれた。



「ほんとだ。晴れてる」


 空を見上げて、わたしは微笑む。

 黒い雲がなくなった空にあるのは、太陽だけ。

 まるでさっきの雨がなかったかのようだ。

 ううん。ここにある。

 雨はもう止んでしまったけれど、晴れてしまったけれど、想い出はちゃんと残っている。


 少年はいつの間にかいなくなっていた。

 少年が最後にどんな顔をしていたのかは覚えていないけれど、きっと笑っていたのだろう。いまのわたしと同じように。

 不思議な少年だった。

 まるで、雨の中の幻想のように。晴れわたる空と共にいなくなった少年は、これからどうするのだろうか。

 彼女と一緒に、幸せになっているといいな。

 少年は無理だと言っていたけれど。

 わたしは自分勝手に、そう祈ることにした。

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