◎儚い夢を。
ある廃墟になっている民家の前。周辺に誰もいないはずなのに、カタンという物音が聴こえた気がして、リリは足を止める。
いまは夜中。ここ周辺に住んでいる人がいないことは、もうすでに確認していた。
静寂。リリは気のせいだと思うことにして、足を踏み出そうとした、その時。
『ううぅ……』
微かに泣き声が聴こえてきた。
それは確かにリリの耳に届く。
泣き声は古びて誰も住んでいないはずの二階建ての家から聴こえてきてきた。
廃墟となっている民家の中に、リリは躊躇うことなく入っていく。
脱がなかった靴の足音が、コン、コンと家の中に反響する。
一階に誰もいないことを確認して二階へ。
上がってすぐにある扉を開くと、どうやらそこは子供部屋だったらしい。荒らされた部屋の中を見渡して、リリは少し目を見開く。
そこには体育座りの状態で、足に顔をつけて泣いている十歳にも満たない少年がいた。
彼は不思議と存在感が薄く、どこか儚さを思わせる。
リリに気がつき顔を上げた少年は、赤く腫れた目を大きく見開いた。
『お姉さん……だあれ?』
やはり存在感のない、すぐにでも消えてなくなりそうなぐらい小さい声だ。
リリはそれが少年の声だと遅れて気づき、もう一歩足を踏み出す。
「きみは、こんなところでなにをしているの?」
『ぼくは……ぼく、は……。なにしてるんだろぉ?』
少年が首を傾げる。不思議そうに辺りを見渡しながら。
彼は自分の頬に手を触れると、首を別方向にかくんと傾けた。
『どうしてぼくは泣いてるの……?』
縋るような目を向けられる。
リリにはわからない。なんで彼がここにいるのか。どうして彼は泣いていたのか。
分からないものだから、リリは少年の前に屈み込むと、さっきと同じ質問をした。
「なにをしているの?」
『ぼく……ぼく……ッ』
目を見開き閉じてまた開き、少年は顔をさまざまな感情に歪めると、『わっかんないよぉ――ッ!!』と、爆発した。大声で叫び、泣きだしてしまった。
リリはどうしていいのかわからずに、眉を潜める。
「泣かないでよ」
迷いながら、リリは少年の頭を撫でた。
ゆっくりと、壊れ物を扱うかのように。
しばらくすると少年は泣き止み、リリはそれを確認すると口を開いた。
「パパとママはどうしたの?」
『パパ……? ママ……? え?』
そのまま数秒、少年は一度瞬きをすると、なにかを思いだしたのか、唇を震わせる。
――やばい。
リリが耳を塞ぐと同時。
少年は口を大きく開けて叫んだ。
『うわあああああああああああああああああああああん』
そして力尽き、少年は倒れ込む。
耳から手を離し、リリは自分の膝に倒れ込んできた少年を見て困ったような顔をする。
「どうして視えるんだろう……」
『あれ? ……ここ、どこぉ?』
「家の中よ。……きみの写真があったわ。半分汚れていたけれど、ここはきみの家なんじゃないの?」
『ぼくの写真……?』
「そう。 きみは、憶えてないの?」
『なにを?』
リリは口を噤む。
なんて答えればいいのだろう。下手に言えば、またこの子は泣いてしまう。
子供の鳴き声はよく頭に響く。
考えたもののなにも妙案は浮かばず、リリはため息をついて少年から視線を逸らした。
少年はリリの隣で壁に背中を預けていた。
リリは天井を眺める。
『なんにもわからないよ。ぼくがどうしてここにいるかも、なにもわからないよぉ……』
「まあ、別にいいんじゃない」
どうしてここにいるか、それはリリが訊きたいことでもあったが、もう訊かなくてもいいだろうと――リリは思う。
そして天井を見たまま、ふと思った。
あたしはどうしてここにいるのだろう――と。
気づいたら、リリはこの世にいた。どこかの国の小さな町。そこで目が覚めた時、もうリリは独りだった。
知り合いもいない。いや、いたところで忘れてしまっていた。
リリは十四歳以前の記憶を失くしている。
周りにいた人は、壊れ物を扱うかのように自分に接しては優しい言葉をかけてくれたけれど、それが心に響くことはなかった。
少しずつリリに声をかけてくれる人は少なくなっていき……そしてリリは旅をすることにした。
それからリリは独りのままだった。
リリ自身どうしてこの世にいるのか、それは分からない。
それなのに少年にどうしてここにいるのか、それを訊くことは残酷だったのかもしれない。
リリは天井から顔を逸らし、手に持っていた写真を見る。
そこには笑顔の少年がいた。少年の両端は汚れていてわからないが、きっと両親が写っていたのだろう。
「きみは……なにかこころ――願いごととかあったりしない?」
『願い、ごと? ぼくの……願い? どうして?』
お姉ちゃんが叶えてくれるの? と少年がリリを見上げる。
その視線を受け止めて、リリはうっすらと微笑んだ。
「ええ、そうよ」
『願い、ごと……』
いままでリリは少年のような存在に何度も会ってきた。
会っては、必ずこれを聞くことにしていた。
願い事。
ただの気紛れだ。
年を取ることなく、死ぬこともない、ただ生きて行くしかない自分の時間は身に余るほど存在する。だけど彼ら彼女らには、それはもうミリグラムも残されてはいない。
それに彼らは、自分が置かれている境遇を自覚してはいないことのほうが多い。
「どうしてそんなに泣いているのか気になってね。もう涙は見たくないから、願いごとでも叶えてあげようかな、と思っただけよ」
ぱちぱちと少年が瞬きをする。
満面の笑みを浮かべて、彼は嬉しそうに口を歪めた。
『願い、かぁ……。ぼくの願いは……』
微笑みは徐々に歪み、どこか切なそうな表情に変わっていく。
少年は俯くとぼんやりと呟いた。
『パパとママとぼくと……三人で、ずぅーっと、一緒に暮らしたいなぁ……』
リリは思わず目を逸らす。
『パパとママはね、昔はもっとぼくと遊んでくれたんだ。遊園地にも行ったし、動物園にも水族館にも行ったんだよ。パパと公園でキャッチボールもしたんだぁ。でも……いつからだったのかなぁ。小学校に上がった時にね、いつの間にかママもパパもケンカばっかりして、ぼくと遊んでくれなくなったんだぁ。……ぼくはあのときに戻りたい。ママとパパがケンカしてなくて、仲良くしているときに。ぼくと遊んでくれなくてもいいから、ママとパパが笑顔で笑いあっているときに。――そうしたら、ぼくももっと……笑えるのになぁ』
一滴の涙が少年の頬を零れ落ちていった。
少年は切ない笑顔を浮かべる。
顔を上げた少年の目を、リリはじっと見つめた。
彼に向かって微笑むと、ゆっくりと口を開ける。
「その願い、きっと叶うわ」
もう叶うことなんてありはしない。
「きみの願いはあたしが叶えてあげる。なんていったってあたしは魔法使いなんだから」
嘘だ。願いは叶わないし、リリは魔法使いなんかじゃない。
リリは優しい嘘を吐く。
「だから安心なさい。その願い、絶対叶えてみせるから。きみは、もう眠ってもいいのよ?」
嘘を吐き続ける――。
「ね?」
手を伸ばすと、少年の頭を優しく撫でた。
キョトンとした目をしたあと、少年は大粒の涙を流した。
そして彼は元気よく、
『うんっ!』
幸せそうに微笑んだ。
リリはもうなにも言わない。
ただ寄り添うようにいる少年の頭を撫で続ける。
不意に手が空を切った。
リリは微笑みを消す。
誰もいなくなった空間。もう温もりも感じなくなった自分の右手を無表情で眺める。
それをギュッと握りしめた。
少女はただ歩く。
誰もいない夜道を。
前を見ているのに見ていない彼女は、ただ歩いていく。
握りしめていた右手を開き、少女は振り返ることなく歩いていく。
彼ら彼女らは、もう死んでしまった人間の魂だ。
振り返る必要なんてないのだから。
ただ、もうこの世に存在できない、彼ら彼女らの願いを隠して――。
リリは目的もなく生きて行く。
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