◎白い少女。
白い部屋だった。行き過ぎた清潔感のする、真っ白な部屋。
窓辺にそよいでいるカーテンも、部屋の片隅にある机や椅子も、ベッドもシーツも、ベッドに横たわってこちらを窺っている少女までもが、白い。真っ白。
色素の薄い真っ白の髪の毛に、もう随分と日に当たっていないのだろう、サンと真反対の白い肌。白いネグリジェから、筋肉なんてまったくない白く細い腕がそっとサンに向かって差し出された。
「だれ?」
か細く、いまにも消え入りそうな声。
サンは息を呑み、それから少女の白く虚ろな瞳を見つめて、いつものようににっこりとほほ笑んだ。
「オレはサンだ」
「サン。わたしは……天使」
「天使?」
「みんな、そう呼んでくれるわ。本当の名前も、もう忘れてしまったの。わたしは忘れっぽいから」
「ぴったりの名前だな!」
「……ありがとう」
こちらが見えているのか定かではない虚ろな目で、天使と名乗った少女がうっすらとほほ笑む。儚い笑みだった。
「ところで、サンは、どうしてここに?」
天使の問いに、サンは「あっ」と思い出した。
「この部屋に黒い猫が入ってこなかった?」
サンはとある少女に逢うために、旅をしている。その旅の途中の旅費を稼ぐために、日雇いのアルバイトをしていた。今日は探偵社の日雇いのバイトで、逃げ出したペットの捜索を頼まれていた。黒く、眉の白い猫。その猫はどこかの御曹司の猫らしく、成功報酬も割高らしい。もちろん、サンに入るアルバイト代も高めだとそこの探偵は言っていた。
旅の友であるもうひとりの少年と手分けして探していたところ、たまたま生垣の上にいた黒猫を、サンは見つけた。その猫を追いかけていて、気づいたらロンはこの部屋にいた。
(これだと不法侵入になるな)
それはマズいと思いはしたものの、突然現れたサンを、少女が咎める様子がない。こうして部屋で話していても誰も来ないことから、家族は出かけているのか、それとも少女はこの白い家にひとりで住んでいるのかもしれない。
不用心だと思ったが、勝手に人の家に土足で踏み入っておいて、何かを言うのも憚られる。見ようによっては、サンは不審者になっているし。
サンの問いに、長く白いまつげを震わせて、少女が答える。
「見てないわ」
「そうか。オレの見間違いだったかな」
サンは白いタオルの上から、頭を軽く掻く。
「ごめんな。勝手に家のなかに入って。すぐ出ていくからさ。あ、あと、窓の鍵は閉めておいた方がいいぞ。オレだからよかったものの、もし変なヤツが入ってきたら天使さんが危ないからな」
踵を返して今度は玄関から出て行こうとしたサンの背中を、か細い少女の声が止める。
「べつにいいわ。ここは、わたしの家だもの。わたしはこうして体を動かすことができないから、いつでも、だれでも、入ってこれるように鍵が開いているの」
サンは驚いて振り返る。
「それは……どうしてだ? オレにはてんで見当がつかないけど」
「わたしは、天使だから。みんな、わたしに良くしてくれるわ」
「……教会みたいなものか」
「ええ。この周辺の人々は、ここを教会代わりにしているの。もうずっと寝たっきりのわたしの世話をしてくれたあと、天使のわたしにお祈りをしていかれるわ」
「……ずっと、寝たきりなのか?」
「ええ。わたしは産まれたときからずっと、この部屋から出たことがないわ。だから、あなたみたいな陽に焼けた肌をしている人を見たのも、初めて。とても素敵な肌ね。握手、しましょ」
さっきからずっとこちらに向けられていた白く細い手。
その手の理由に気づき、サンはそっと彼女に近づくと、その手を握った。
「男の人の手って、大きくて、温かいのね」
少女が儚く笑う。その瞳はやはりおぼろげで、いまにも光が消えてなくなってしまいそうで……サンはそんな少女の瞳に、十歳になる前に亡くなった妹の姿を重ねてしまい、胸が締め付けられるような気持ちを味わった。
「どうして、そんなに泣きそうなの?」
ああ、妹の墓に誓ったのに。もう泣かないと。ずっと笑っていると。
でもこんなところで、いまにも消え入りそうな少女に会うと思っていなかったから、サンはいつもの笑みを忘れてしまっていた。
「天使さんは、ずっとそうなのか?」
自分の妹も、産まれた時から病弱で、生涯のほとんどを布団で寝て過ごしていた。妹も、この少女と同じように、サンの手を小さな力ない手で握りしめては喜んでいた。
人はいつか死ぬ。老いも若いも関係なく、死ぬときはあっさりと死んでしまう。
妹がそうだった。妹は体が弱かったから、大人になることなく死んでしまった。
この少女は、まだ十五歳と言ったところだろうか。もし外を歩けるほど元気があれば、学校に通っていてもおかしくない歳だ。まだ消えてなくなるには早すぎる歳。
でもこの白い少女は、天使と名乗り、天使として慕われている少女は、もしかしたら……。
「わたし、もうすぐ死ぬの」
やはり、と、サンは奥歯を噛み締める。
死は、簡単に人の生を奪い去って行く。
サンはギュッと目を瞑った。目の奥が熱くなり、涙が出そうになったけれど、涙を流してはいけない。それは、笑顔を望んだ妹に背く行為だから。
笑顔を意識することにより、サンは口角を上げて、不器用な笑みを浮かべる。
「そうか」
「いつ死んでもおかしくないと、お医者さまからは言われているわ。息をしていても、心臓が動いていても、それでもこの体はあまりに弱すぎるの。だから動いているだけで奇跡だって、みんな口にするわ」
「……怖くはないのか? 死ぬのが」
いまにも死ぬ行く少女へ、妹にも訊ねることができなかった問いが、気づいたら口をついて出ていた。
少女はぼんやりとした目を、きょとんと瞬かせて、それから口許にやはり儚げな笑みを浮かべる。
「ええ。人はいつか死ぬもの。わたしはそれがすこし早かっただけ。……それにね、わたしはもう産まれたとき、すでに寿命は長くないでしょうと、お医者さまに言われていたの。それが十五年間も、生きてこられたのよ。これは奇跡なの」
ああ、もしかしたら、だからなのかもしれない。少女が人々から奇跡の代行者――天使として慕われているのは。少女の存在そのものが、奇跡によって成り立っているから。人々はそんな少女から生きるための力を得ようと、彼女を信仰しているのだろう。
ふわりと、風に撫でられるような感触を頬に感じた。
「ねえ、こうしてサンと出会ったのも、運命だわ。だから、ひとつだけ、お願いごとを聞いてくれない?」
握手をしていないほうの手でロンの頬を撫でながら、少女が言う。
「わたしのこと、覚えておいて」
はっとした顔をして、サンは喉元まで出てきそうになった嗚咽を抑えながら、「ああ」と声を絞り出す。
顔に満面な笑みを浮かべて、頷く。
「ぜったいに、忘れないぞ」
天使と名乗った白い少女は、儚げに、「嬉しい」と笑った。
後ろ髪を引かれる思いを抱えながらも、サンが一軒家の外に出ると、にゃおんと猫の鳴き声がすぐそばで響いた。
あ、とサンはその声の主を見つけて、自分の今日の予定を思い出した。
黒猫は、サンの姿に気づいているのかいないのか、優雅に毛づくろいしている。その姿は隙だらけだ。
眉の白い黒猫。
その猫に、じりじりと、サンは近づいていき、一気に間合いを詰めると猫の体を捕まえて上に掲げた。それから遠くに見えた人影――旅の友に向かって大きな声を掛けた。
「レイ! 捕まえたぞ!」
ふんわりとした茶色い髪の少年は近づいてくると、サンと黒猫に交互に視線をやり、それからサンの顔で視線を止めると、もの問いたげな顔をしながらも、「お疲れさま」と言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。