◎いじめられっ子とまぼろしの少女。

 ある日、少年はまぼろしのように儚く消えていなくなりそうな少女に出会った。

 腰ほどまでの長い黒髪に、濡れたように輝く純粋な黒い瞳の十四歳ぐらいの少女。

 公園のベンチで少年が泣いていると、彼女は少年の前に立って声をかけてきた。


「どうして、泣いているの?」


 静かに涙を流していた少年は、顔を上げると口を尖らせる。


「君には関係ないよ」

「そう」


 少女はそう囁くと、とことこと近づいてきて、少年の隣に腰を降ろした。

 チクタクと、公園の時計が時間を刻んでいく。

 午後四時の公園では、少年より何歳か年下の、まだ小学校に通っていないだろう子供たちが遊んでいる騒がしい公園内の一角。少年と少女の座るベンチの周囲だけ、しんとした静けさで満ちていた。そう彼は錯覚するほど、少女は少し存在感が希薄なように思えた。


 少年は無邪気な子供たちを眺める。羨ましいな、と思った。

 少年は、先日十歳になったばかりの小学四年生だ。

 彼は、学校でいじめられていた。

 靴を隠されたり、机の中に置いていた教科書に落書きされたり、シューズをごみと一緒に捨てられていたりと、まるで漫画や小説で語られるような陰湿で陳腐でテンプレートないじめだった。


 彼をいじめているのは、クラスの中心人物である三人の男子生徒。小学四年生にしてはがたいがいい少年を中心とした、その取り巻きたちだ。クラスメイトはいじめに加担をすることはないけれど、その三人を怖がって遠目に眺めているだけ。被害者の少年からすると、クラスメイト全員が加害者のようなものだった。

 日々の非道な仕打ちを思い出すと、口惜しくなり、唇を噛み締める。


 いつまでもやられてばかりでは嫌だった。だけど、少年にはいじめっ子に「やめて」という勇気がなかった。いつも口を噤んで、事が終わるのを待つだけ。

 自分の不甲斐なから流れだす涙に、口惜しくなる。これ以上泣いたら負けだと、少年は涙を我慢するように、にらみつけるように握り絞めた両手を見つめた。

 ため息を吐くような囁きが隣から聞こえてきたのは、その時だった。


「泣いたらいいじゃない」


 キッと、少年は少女をにらみつける。

 少女は、じっと淡泊に思える黒い瞳でこちらを見ていた。


「何か、つらいことがあったのでしょう? 涙が出そうなほどもどかしくて、耐えきれない思いをしているのでしょう? それを、我慢する必要はないのよ。少なくとも、あなたはまだ子供なのだから、好きに泣いたり怒ったりすればいいじゃない」


 嫌だ、と少年は呟く。


「ぼくが何に悩んでいるかも知らないくせに」


 吐き捨てるように言う。

 すると、また少女はため息を吐いた。


「そんなの、わかるわがないじゃない。思いは、口にしなければ誰にも伝わらないのよ。言葉がどうしてあるのか知ってる?」


 少年は俯く。

 言葉は、たくさん少年を責めてきた。純粋な子供の言葉は、容易く彼を傷つける。いじめっ子は、オブラートに包むという行為を知りはしなかった。

 優しい言葉も知っている。両親は、彼に愛情を与えて育ててくれているのだから。それでも同世代の、それも学校という閉鎖空間で行われている「いじめ」という行為は、簡単に少年の心を傷つけて、苦しい思いばかりさせる。


 唇を噛み締める。

 少年の返答を聞くことなく、少女は話を続けた。


「言葉は、自分の気持ちを相手に伝えるためにあるのよ」


 たとえば、嬉しくってはしゃぎたかったら「嬉しい」と。

 たとえば、むかついたことがあって怒りたいことがあれば「ふざけんな」と。

 たとえば、どうしようもなく悲しくって涙にくれそうになったら「悲しい」と。

 たとえば、楽しくってしょうがないことがあれば「楽しい」と。


「そう言葉に乗せれば、相手に伝えられるのが人間なのよ。動物や植物にはできない、人間に与えられた、大切なものなの」


 そんなの、簡単にできるものなら最初からやっている。

 喋りたくても、三人にもっといじめられるのではないかと、そう恐怖心が勝り、何も言えなくなく。これまでだってそうだった。いじめっ子に自分の気持ちを伝えたところで、笑われておしまい。

 だから。

 不意に少女が笑みを浮かべて続けた言葉に、少年は軽く口を開いた。


「悩みぐらい、あたしが聞いてあげるわよ」


 どうせ、暇なんだし。



 つらつらと、少年は「いじめられっ子」の自分のことを、少女に語り始めた。

 言葉にするのも苦しい思いを吐き出したあと、少年の中に残っていたのは、ほんのちょっとの、けれど変化の兆しのある「怒り」だった。


「ぼくは、あいつらに仕返しをしてやりたい」


 殴ったり、罵ったりはできないけれど。どうにかしていじめっ子の三人に、「いじめ」を後悔させてやりたい。


「そう。それなら、仲間を作るといいわ」

「仲間?」


 思い当たる節はない。三人以外のクラスメイトは、遠巻きに眺めるだけで無関心なのだ。

 きっと、彼らは助けてくれない。


「ええ、仲間。きっと、あなたを助けてくれるクラスメイトたち」

「いや、無理だよ。あいつらは、いつも遠くから眺めているだけで、ぼくを助けてくれやしない」

「本当にそうかしら?」


 少女は微笑んでいた。人差し指を出し、くるりと円を描く。


「彼らは怯えているだけよ。あなたと同じように、その三人にちょっかいをかけられるのが怖くて、事が終わるのを待っているだけ。あなたが何も言わないことを良いことにね。ま、あなたからしたら彼らも同じような加害者に思えるのかもしれないけれど、きっと彼らも、もうたくさんだと思っているはずよ。人が傷つくのを眺めて喜べる人間なんて、本当に性根の腐ったほんの一握りにも満たない人間だけなのだから。だから、もしあなたが、やめろ、とでも叫んで仕返しをはじめたら、彼らの中の、ほんのちょっとの勇気を持っている勇敢な子が助けてくれるかもしれない」

「でも、散々いままで、見てみぬ振りをしてきたやつらだ」


 信じられるわけがない。


「信じなくてもいいわ。あなたが勇気をもっていじめっ子に仕返しをはじめた。それだけでも、十分いいことじゃない」

「でも、ぼくは弱い」

「そう。……なら、魔法をかけてあげましょうか?」

「魔法? そんなもの、あるわけない」

「そんなことないわ。あなたが信じてくれるのなら、魔法は存在するのよ。これでもあたしは、正義のために戦う魔法少女にスカウトされたこともあるのだから」


 魔法少女。確かに、それは彼女に合っているかもしれない。

 少女の意思の強い黒い瞳を見つめる。

 彼女は微笑みながら、少年の額に指を置くと、目をつぶった。


「チチンプイプイ」


 しばらく沈黙が続く。

 再び少女が目を開けると、「できたわ」と誇らしそうに言った。

 本当か、と少年は疑いかけたけれど言葉を飲み込む。それを口にしてしまえば、魔法が解けてしまうと思ったからだ。


「あなたは、必ず勇敢にいじめっ子と戦えるわ」


 でも、と少女は真剣な顔をすると言う。


「あまり傷つけてはダメよ」


 変なことを言う。相手を傷つけずに、どうやっていじめっ子と戦えというのだろうか。


「あなたは、傷も、痛みも知っている。それが嫌だと、思っているのでしょう?」


 頷く。


「だったら、なるべく傷つけないで、勇敢にいじめっ子と戦いなさい。あなたは打ちつけられる痛みも、人を傷つける言葉の重みも知っているのだから、だいじょうぶよね?」


 迷い、俯き、首を振り、少年は顔を上げると、少女の瞳をじっと見つめ返して、頷く。

 人を傷つける言葉を、少年は知っている。

 少女は真剣な顔を崩し、まなじりを下げた。


「でも、そうね。悪いことをしたやつらには、やっぱり一言ぐらいお見舞いしてやらなくちゃ」


 たとえば――


「くそったれ、とか」


 少年は頷くと「それがいいや」と笑った。

 少女は――消えてなくなりそうなほど、儚い笑みを浮かべていた少女は、しばらくするとベンチから立ち上がり、現れたときと同じようにふらりと姿を消した。


 ――不思議な人だな。

 まるでまぼろしみたいだ、と少年は思った。けれど、彼女の言葉はきちんと少年の心のなかに残っていた。


 それから数日後。思考を凝らした少年の反撃により、いじめっ子は教師や彼らの親をはじめとしたオトナたちに、こってりと叱られて涙を流すことになるのだが――それはまた別の話。

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