◎すれ違い向かっていく先は。(ラナの場合)


「ありがとうございますっ!」


 ラナは満面の笑みで本屋の店主にお礼をすると、買ったばかりの本を抱えて店の外に飛び出す。

 夕闇の空が広がっていた。


「あ、早く帰らないと。レイが待ってます」


 自分の帰りを待ってくれている人のことを思うと、思わずうふふと笑ってしまい、歩く速度も速くなる。

 実は最近やっとお金の数え方を覚え、ひとりでも買い物もできるようになったのだ。レイも安心した顔で「ラナにひとりで買い物任せられるようになって良かった」と言ってくれた。

 そう言って頼られるのも嬉しいが、帰りを待ってくれている人がいることはもっと嬉しかった。

 しかも今回は、レイに頼まれたものを買いに来たのだ。次に行くらしい国の資料となる本を無事に買うことができて、ラナはとても上機嫌だ。


 夕暮れ時。ここは治安がいいといわれている地域だけれど、それでもこの時間になると物騒な顔をした人が道を通っていくのを、ラナは俯いていたため気づかなかった。

 パタパタッと走っていたラナの肩が誰かにぶつかる。


「あ、すみません!」


 ラナは早くレイに会いたかったものだから、急いで謝り急いでその場から離れようとした――でも、それを相手が許してくれなかった。

 道の先、ラナが行こうとした先に立ちふさがり、驚いて身をすくませるラナを、二人の男が見下ろしてきた。


「あー、お嬢ちゃん。すまんで済んだら、警察はなんとやら、だぜ」

「ま、ここに警察がいたら、俺ら非常に困っちゃうんスけどね」

「えっと、あの、その……」


 ラナはこういう状況になれていなかった。なにを言っていいのかわからず、本を抱えて後退る。

 狼狽える赤い眼鏡の少女を二人の男が下卑た笑みを隠そうともせずに、ニヤニヤと眺めてくる。


 さっきわざと男たちが少女にぶつかったことを知っている男性が、一言言おうと口を開きかけたが、男達の肩にある大きな熊の入れ墨に気づき、それがこの辺りの裏社会を牛耳っている幹部とその下っ端だということ気がついてしまい、怖れてその場を離れていった。

 関わりたくない。そう思ったのだろう。チラチラと見てくる人もいるが、皆が皆、関わりたくないような顔で通り過ぎていく。

 それに愉悦感を得たのか、二人の男はますます笑みを深める。


「すみませーん、ですまない世の中なんだぜ、特に俺らはね」

「先輩、この子眼鏡外したらむっちゃ可愛いスよ」

「あー、確かに。売れそうかもね」

「ちょうどいいじゃないスか。これからボスに会うんだし、お土産にしましょうや」

「えー、でもボスに幼女趣味はないよ。あと十年もしたらいいかもだけど……」

「まあ、いいじゃないスか。いま俺らにぶつかったツケを払うために、働いてもらいましょうぜ」

「いや、これは高く売れるから、売った方がいいよ。どこかの貴族さまが、侍女にでも買ってくれるさ」

「先輩の言う通りっすねぇ」

「じゃあ、お嬢ちゃん。ついて来て貰うぜ」

「え、あの、ど、どこに……」


 言葉を続ける暇もなく、いきなり腕を引かれたラナは小さな悲鳴をだした。男たちは気にせずに、路地裏に誘導して行く。

 明りが届かない路地裏は、暗く、放置されたゴミからは悪臭がしていた。

 喧騒から離れていき、辺りはどんどん静かになっていく。


 いつしか、男たちとラナの足音しかしなくなっていた。

 ラナはどうすればいいのかわからずに、ただ腕を引かれるがまま歩いていく。

 助けて欲しい。でも、ここには助けを求められる人はいなかった。


 わたしはどうすればいいのだろう。

 ラナは周りをきょろきょろと見まわし、でもなにもできずに途方に暮れる。

 これは恐怖だ。どこか身に覚えのある恐怖よりも、大きく締め付けられるような恐怖。

 あの頃と同じ……いや、あの頃なんか比べ物にならないくらい、胸を締めつけてくるような、息するのを許してくれないような恐怖。

 いったい自分はこれからどこに連れていかれるのか。どうなってしまうのか。分からない恐怖。


 ラナはギュッと目を瞑った。

 神さま、と呟く。

 タンッ、と足音が響いたのは、そのときだった。

 救いのようなその足音は、背後から響いた。


 怪訝そうに、男たちが足を止める。ラナは閉じていた目を開いた。

 初めて耳にする声が、背後から聞こえる


「なぁ、おっさん二名。女の子を連れてなにをしてんだ?」

「お、おっさんって、俺はまだ二十九だぞ!」

「俺なんて二十六だ!」


 声をかけてきた人物は、とても感情の乏しい瞳をしていた。

 ラナより一つか二つ年上だろうか。赤毛の青年は、色あせて感情のない緑色の瞳で男を見ていた。


「別に年齢は聞いてねぇよ。俺はなにをしているのかって、訊いたんだけど? もしかして聞こえなかったか? 耳遠いんじゃね、おっさん?」


 嘲笑。

 青年はわざと相手を刺激するためか、嫌味を含んだ声で笑う。


「て、てめぇッ」

「またおっさんていいやがったな! ガキが舐めてんじゃねぇぞ!」

「いや、別に舐めてねぇよ。俺より十年は長く生きているのにバカじゃねとは思ったけど。人とは違う道を歩もうとしているアンタらに、丁寧にていねいに訊いてあげてるんだけど?」


 いや、もう歩んでいるのか。後退しても無意味か。もう人じゃないのかもね、と青年はため息交じりに吐き捨てる。

 先輩と呼ばれていた男が顔を真っ赤にさせると、腕を振り上げた。

 ラナは思わず悲鳴を上げる。

 男の手にはナイフが握られていた。


「てめぇ、ガキだからと言って容赦しねぇぞ!」

「容赦しなくて結構。俺はアンタらなんかにさ、傷ひとつ負わされないぜ」


 不敵な笑み。青年のその笑みに、ラナは寒気を覚えた。

 いったいなにをしようとしているのだろうか。

 ナイフを構えた男が舌打ちをすると青年に近づいて行く。

 鋭い緑の瞳で、男の動作を一つひとつにらみながら、青年が腰に手をやる。

 「カチッ」というような音が響いた。


「だって、そんな短いナイフなんてさ、飛び道具に比べたらちんけすぎて笑えるだろ」

「あ?」

「だから、さ。はい」


 パンッ。

 乾いた音がした。


「さようなら、おっさん」


 一歩踏み出したはずの足がカクッと傾き、男が目を見開きながら後ろに斃れる。

 同時に、男の胸から赤いものが流れていることにラナは気がついた。


「え」


 思わず悲鳴を漏らす。

 血を流して斃れた男――ではなく、楽しそうにしている青年の笑みに。

 あはは、と青年が笑い声を上げる。

 ラナはその笑みに恐怖して思わず後退ると、首元に冷たいものをあてられた。


「て、てめぇッ、このガキがどうなってもしらねぇぞ!」

「あ?」


 ラナの首にナイフを当てて、残された男が怒鳴り散らす。

 青年は笑みを消すと、じっと男の持っているナイフを見て自然な動作で銃を構えた。


「ふーん。で?」


 パンッ。

 銃声が鳴る。

 男がナイフを落とすと呻き声を上げて後退った。

 恐る恐る背後を見ると、男の足からは赤いものが流れ出している。

 もう一発の銃声。片方の足からも血が流れ出し、男が無様に尻を地面に打ちつけた。


「がっ。くっそ……ガキぃ!」

「うるせぇおっさんだなぁ」


 少年が再び銃を構える。指が引き金を引こうとするのに気付き、ラナは考える前に動いていた。


「あ、あのっ」


 二人の間で腕を広げる。

 そんなラナの行動を見て、青年は眉を寄せると首を傾げた。


「も、もう、この人は動けないから、抵抗できない人を撃つのは止めた方がいいと思います!」

「え? いや、え? そのおっさん、さっきアンタを殺そうとしたよね? なのになんで庇うの? バカなの?」

「か、庇うわけじゃなく……その、目の前で、人が死ぬのを見たくないだけですッ」

「ああ」


 青年が一歩足を踏み出す。

 ビクッとラナは肩を揺らした。


「だったら、こうすればいいのか」


 銃を構えたままの青年が近づいてくると、彼はラナをチラリと一瞥して通り過ぎていった。

 パンッ。

 背後から乾いた音が。

 思わずラナは振り返ろうとする。


「振り向くんじゃねぇよ?」


 冷たい声に引き戻される。

 視線を前に向けたまま、ラナは震える声を出した。


「……どうして」

「どうしてって……生きている価値のない奴を、殺してなにが悪いんだよ」


 足音を立てながら青年がラナの前に立つ。

 愉しそうな笑みを浮かべた彼は、銃を片手でくるくると弄びながら笑い声を上げる。


「人なんて、どうせいつか死ぬんだ。それが早いか遅いだけでさ。だから、俺は価値のない人間を殺している」

「なんで、そんなに楽しそうに人を殺せるんですか」

「楽しそう、ねぇ」


 青年はそう呟くと、さっと笑みを消し、感情の乏しい瞳でラナを見据えた。


「こうでもしなきゃ、人を殺せないからだ」


 冷たく見放すような声音。


「人は簡単に死ぬんだ。それは罪を犯していなくても犯していても変わることがない。死にたくなくても人は簡単に死んじゃうんだ。事故、殺人、自殺……。どれもが容易く、命なんてもろいものだから、ナイフでも銃でも紐でも……なんでも殺せちゃうし殺されてしまう。今朝まで生きていたはずの人がその日の夜に遺体になっていたり、目の前にいた健康そうだった人がいきなり血を吐いて倒れたり、外出するときに送り出してくれた家族が、気づいたら胸から血を流して倒れていたり……。て、まあ、様々な理由や出来ことがあるけどさ、人は必ず遅かれ早かれ死ぬ定めにあるんだよ?」


 億劫そうに青年が冷たく吐き捨てる。


「この二人のおっさんは、俺に見つかったせいで、死ぬのが少し早まった。それだけ、さ」

「で、でもだからと言って」

「あー、もううるせぇなぁ。それ以上言わなくっても、アンタの言いたいこと分かるぜ。けど、アンタはさ、俺とは考えも育ってきた環境も違うんだからさ……アンタごときに、俺の気持ち分かってもらおうだなんて思ってないからさ」


 ラナと向かい合っている青年が、感情を見せない表情のまま、一歩ずつ後ろに下がっていく。

 距離を、空けようとしている。


「それ以上アンタがなにかを言ったところで、それは偽善で自己満で。俺の言っていることも、俺の自己満だから、すれ違って終わるだけなんだから、そんな無意味に自己満さらけ出したって、時間のムダ無駄。だから、アンタはいまここで起きたすべてのことを、お家に帰ったら布団を被って寝て、忘れれば? それが、一番いいと思うよ」


 青年が銃をしまう。

 ラナはなにかを言おうと口を開いた。

 だけど言葉が出てこない。

 なにを言えばいいのか。いま、この気持ちを。

 青年に偽善だといわれ、自己満だといわれてしまい――

 なにかを言ったところで、この感情は無意味なんじゃないかと思ってしまい――

 ラナは悲しそうな顔で俯くことしかできなかった。


 フンッ。と青年が鼻を鳴らす。


「じゃあ」


 彼はそう言うと、身を翻して来た道を戻っていった。

 タン、タンッ、という足音が徐々に聞こえなくなっていく。

 ひとり残されたラナは、青年の消えた背中を見つめながら、ただ呟いた。


「でも、だったら……だったら、どうしてあなたは……そんなに悲しそうな顔をしていたのですか?」

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