◎マザー・パニック。(三)

「実は、僕もモトからよくちょっかいをかけられてね。たとえば前なんて、寝ている途中に起こされたし。いやそれは生易しいほうなんだけど、そういえばミミズが靴に入っていたこともあったなぁ……。そう思うと、あんなイタズラ小僧、眠ってくれて清々するとか思うんだけど、本当はマザーもそう思ってるんじゃないの?」

「あ、あんたっ……!」


 胸倉を掴まれ、導火線に火が付くのが早いマザーは、思いのほか早く憤りを見せた。


「マザーだって、モトのイタズラに悩まされていただろ」

「ち、違う。確かに、たまに頭きて怒ったことは何回もあったけど」

「怒ってるのはいつもじゃ……」

「それでも、違う! モトは、モトはね、まだ物心つく前に捨てられて、二歳の頃からここにいるの。あの子は親の顔を知らないから、私が親代わりになってあげないといけないの。ちょっとイタズラが過ぎることがあるけど、それでもいなくなって清々するわけがないじゃないの!」

「いやモトは意識不明の重体だけど生きてって、ちょ」

「こんな姿にしたのは私なの! だから、モトを責めるようなこと、言うなんて許さないんだから。貶すなら私にしなさい!」

「……」


 胸倉を掴まれて壁に背中を押し付けられながら、レイは困ったように微笑んだ。

 想像以上の変化に、戸惑ったからだ。


(ちょっと言いすぎたかな)


 般若のような形相のマザーに、レイは両手を上げた。


「ごめんマザー。言いすぎた」

「……ッ」


 マザーの両手が離れたのを見計らい、再び項垂れたマザーに優しく語りかけた。


「でも、やっと見ることができたよ。マザーの弱いところ」

「違う。こんなの、怒っているだけっ」

「そう? ……涙が零れてるよ」


 再び顔を上げたマザーの頬に、流れる涙を見つけて、レイは嬉しそうに言った。


「怒りながら泣くなんて、マザーらしい」

「……レイ、あんた」

「さあ、もう醜態を晒したんだからこれ以上どうってことないでしょ。もっと泣いていいよ」

「……あんた、馬鹿でしょ」

「へ?」

「思ってもないこと言うなら、その苦しそうな顔やめなさい。はあ、なんか怒りが冷めちゃった」


 椅子に座り直したマザーが、壁にもたれて天井を見る。

 レイは、首を傾げながら自分の頬に手を当てた。なんだか濡れている。


「まあ、レイも泣いたのなら、私もいいかな」

「僕は泣いてないよ?」

「嘘つき。嘘をついて泣くぐらいなら、嘘なんてやめちゃいなさい」

「こちらの台詞なんだけど」


 困ったように、頬を掻くレイ。

 マザーは視線を逸らして地面を見ると、ポツリと呟いた。


「なんか、すっきりした」

「うん。そうだね」

「泣けって言われると、涙って引っ込むのね」

「あれ。じゃあ、どうしよう」

「ばか。子供の前で泣く親がどこにいるのよ。あんたがここにいる限り、私は泣かないから」

「いや僕、子供じゃ……」

「孤児院にいる子たちは、みんな私の子供なのよ」

「……うん。そうだね」

「ねえ、レイ」

「……ん?」

「あんたはこれからも旅を続けるの?」

「それが僕の生き方だからね」

「そう。……もうそろそろ、出て行く頃かと思ってた」

「気づいてたんだ」

「ねえ、レイ。旅をするのなら、ちゃんとご飯食べなきゃ駄目よ。睡眠もちゃんととるの。自分を痛めつけていたって苦しいのは自分だけで、他人はなんとも思わないんだから。自分ぐらいちゃんと労わってあげなさい」

「……そう、だね」


 なぜか説教をされてしまっている。

 微笑ましく思い、レイは照れるのを隠すように頬を掻いた。


「マザーも、気をつけるんだよ」

「わかったわよ、馬鹿」


 これからマザーは大変だろう。

 なんて言ったって、孤児院が丸々焼けてしまったのだから。

 これから先のことを思うと力になってあげたいとレイは思うのだけれど、これ以上彼女に干渉するわけにはいかない。別れるのにちょうどいい頃合いだ。


 マザーも、もう気づいている。

 レイは立ち上がると、蹲っているマザーを見下ろしながら、微笑みながら別れの言葉を口にした。


「ばいばい。マザー」


 レイは不老不死だ。

 またね、なんて実現不可能なことを口にするわけにはいかない。


「またね、レイ。大きくなったら、また来なさい」


 ――だから、マザーの最後の言葉にも返事をしなかった。頷きもしなかった。



   ◇◆◇



「懐かしいね。この町を離れて、数十年は経っているのかな」


 町外れの教会の前に立ちながら、レイは呟いた。

 背後から足音が追い付き、同時に不満そうな顔と声で少女が問い詰めてくる。


「レイ。どうして早歩きするんですか? 意地悪ですか?」

「ん? 違うよ」

「むぅ。別にいです。……それにしても、レイも神さまにお祈りしたりするんですね」

「……そうだね。神さまは、別に嫌いじゃないからね」

「私は、あまり好きではありませんでした」


 栗色の髪をふたつ少女がに結った少女が、沈んだ顔で俯く。昔のことを思い出しているのだろう。彼女は、幼い頃に両親を失くして、引き取られた親戚の家で酷い嫌がらせを受けていた。


「でも、こうしてレイに会えたので、私は幸せです。だから、この運命に感謝ぐらいしてやります」


 まるで決意するように両手を握りしめる少女を、優しい眼差しで見つめるとレイは教会の扉を開いた。

 タイミングの良いことに参拝客はいないようだ。

 並ぶ椅子の一番前の椅子では、シスター服を着た女性がお祈りをしていた。


 ゆっくりと、少しわざとらしく足音を立てたりしながら、レイは通路を歩く。

 人に気づいたシスターが顔を上げると、ゆっくりと振り返った。

 八十……いや、もう九十歳は超えているのかもしれない。

 シスターは目を見開き、レイの名前を呼んだ。


「れ、レイ?」

「久しぶり、マザー。元気にしてた」

「ひ、久しぶり……って、れ、レイ。あなた、七十年以上会いに来ないで……って、うそ、これは夢なの。いや、ちょっと待って。わかった、あなたレイの子供でしょ!」

「……? レイ、お知合いですか?」


 少女が不思議そうに首を傾げる。


「うん。ちょっと、昔お世話になってね……。でも、まさかまだ生きているなんて思わなかった」

「その言葉遣い。あなた、やっぱりレイなのね! でも、どうして……」

「それは追々ちゃんと話すよ。……その前に、とりあえずこれで涙でも拭いたら?」


 ポケットから折りたたまれたハンカチを差し出し、レイは微笑んだ。

 皺くちゃの顔を、さらに皺くちゃにして泣いていたシスターは、慌てたように顔を覆う。


「しばらく会わないうちに、随分泣き虫になったんだね、マザーは」

「……あなたは、ますます意地悪に」

「レイのこと、よくわかっていますね、この人」

「ちょっと、ラナ、静かにしてもらっていい?」

「……むぅ。なんだかよくわかりませんけど、わかりました」


 ラナがむくれた顔で、一歩後ろに下がる。

 レイから借りたハンカチで目尻の涙を拭ったシスターは、再びレイを見つめる。

 その瞳を見つめ返すと、レイは口を開いた。


「シスター、お願いがあるんだ」

「私にできることならなんでも言いなさい。あなたは私の子供なんだから」

「ありがとう。……マザー」


 レイは言葉を切ると、躊躇う様子を見せずに言った。


「まだ孤児院を経営しているんだよね。ならここで、ラナが大人になるまで面倒を見てほしいんだ」

「……どういうことですか、レイ?」


 困惑した声に振り返ると、レイはいっそう微笑みながら、出会った頃から一年が経ち――すっかり身長を伸びて見上げる形になってしまった少女、ラナの瞳を見つめ返し、伝えるのだった。


「ラナ、お別れだよ。きみは、今日からこの孤児院で暮らすんだ」


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