第15話 妹、進化する6

 今日も授業もろくに頭に入ってこなかった。

 藍のことだけでも大変だというのに弥子姉のことも考えなければいけない。弥子姉だって俺たちふたりのことを考えてくれているというのは痛いほどわかる。

 けれど、俺たちが出した答えは違った。弥子姉は俺に俺自身をもっと大切にしろ、と言いたいんだろうけど、もう俺は二度と藍を失いたくはなかった。

 ちゃんと説明するか。とにかく謝るべきか。まだ弥子姉の告白に対して何も結論を出せていないのに、俺はどんな顔をして会えばいいんだろう。

 弥子姉のことは嫌いじゃない。むしろ、藍を除けばもっとも気心の知れた女性だ。だけど、弥子姉と恋人になるなんて今の状態ではまるで考えられない。藍を放っておいて俺だけが幸せでいるのは我慢ならないものがあった。

 依然として父さんとは連絡もつかないし、十六番目もどこにいるやら。このふたりの行方も心配事のひとつだ。一応、三日ほど前に母さんには父さんから無事だと電話があったらしい。また、しばらく仕事で家に帰れないとも言っていたという。藍については分裂したのが何人か行方知れずになったとしか教えてもらえなかったそうだ。前に家に戻ってきたときの様子だと、父さんも相当無理をしている気のではないだろうか。

 校門を出て、すぐに足が止まる。

 弥子姉が待ち構えていた。衣替えで夏物の制服に変わっている。冬物よりも薄い服にその女性らしい体つきがしっかりと浮き出ている。このスタイルに整った顔、男は放っておかないだろうに、どうして俺なんだ。

「や」

 穏やかな表情で軽く手を上げる。

 昨日のことは全部忘れたかのようにいつも通りの仕草だった。

「ごめんね、昨日は」

「いや、別に……俺の方こそ」

「こんなときに私って馬鹿だよね。勝手にチャンスだと思ってたけど、今は藍ちゃんも葵ちゃんも一番大変なときだし。好きって感情を押し売りされても困るよね」

「そう言ってくれると、助かる」

「うん、だから、ちょっとだけ待つね」

「待たなくても弥子姉なら恋人くらいつくれるよ」

「それじゃダメ。私が好きなのはシスコンで面倒見が良くて、頭はいいのにちょっと周りが見えない一直線な男の子なのです。わかった?」

「うん」

 嬉しさと不甲斐なさでちょっと涙が出そうになる。

 弥子姉は俺よりもずっと大人だ。すぐに気持ちを切り替えて、優しく接してくれる。

 今は無理だけど、いつか落ち着いたら答えを出そう。告白されたのは初めてだから勝手はわからない。けど、誠意だけは見せなければ。

 家に帰ったら藍のことについても始めから説明した方がいいかもしれないな。藍を追い回しているらしい連中のことを知れば、きっと今の弥子姉ならわかってくれるだろう。うん、それがいい。きちんと最初から説明しよう。

「今日もご飯作りに行くね。今日はお父さんとお母さんは帰ってこないから」

「お願いするよ」

 いつも通りの和やかな会話に花を咲かせていると俺の横をパトカーが数台固まって通っていった。パトランプは点灯していなかった。

 事件だろうか。珍しい。

「今日はパトカーとか多いよな。朝もたくさん通ってるのを見たよ」

「そうだねえ。何かあったのかな」

 のんびりした調子で弥子姉が相槌を打つ。

 思い返せば、今朝も含めてパトカーとすれ違うのは三回目だ。空を見上げればヘリコプターまで飛んでいる。普段は治安のいい町なのだが、何かあったんだろうか。朝のニュースではそれらしいことは言っていなかったけど。

「あっちって大して建物とかないよな。なんで商店街じゃなくて……あ」

 気づいてしまった。

 パトカーが向かっているのは藍たちが隠れている山の方だ。あっちへたくさんのパトカーが行く理由なんてそれしかないじゃないか。

 どうしてだ。どうしてバレた。俺は何かしくじったか。

 いいや、出るときも戻るときも見つかっていない。弥子姉以外、誰にも見られては……。

 ハッとした。もうその答え以外考えられない。

「まさか、弥子姉」

「あーあ、気づいちゃった」

 弥子姉が顔を隠すようにして額に手を当てる。

 やっぱり、弥子姉が通報したんだ。そうじゃなきゃあんな何もない山の中に藍が隠れていることなんてバレるはずがない。

「ごめんね。でも、これが葵ちゃんと藍ちゃんのためなんだよ。あんな山で寝るなんてどんなことが起きてもあり得ないよ。大人に任せれば、ちゃんと居場所を用意してくれるよ」

「クソッ」

 俺は怒りをぶつけるようにスクールバッグを投げ捨てた。

 そういうことかよ、弥子姉。弥子姉だけは味方だと思っていたのに、ここまでやるのかよ。一体、藍が何をしたって言うんだ。何もしていないじゃないか、ちくしょう!

 弥子姉が俺の腕をつかむ。冷ややかな目が俺を見ていた。

「藍ちゃんのところに行くつもり?」

「ああ」

「行って、何が出来るの?」

「知らねえよ。けど、黙って見過ごせない」

 力任せに振りほどいた。

 弥子姉の表情は見えなかった。



 山の周りには多くの車が止まっていた。中には自衛隊と思われる迷彩柄でタイヤのごつい奴もある。人が立ち入らないように黄色と黒のテープが行く手を阻んでいるし、片田舎には不釣り合いなほどに厳重な武装をした男たちも大勢いる。

 こんな場面をどこかで見たことがある。テレビで見た研究施設付近の光景だ。

 しかし、どれだけ厳重に囲もうと勝手知ったる我が第二の庭で俺を止めることはできない。入り込めそうなところに狙いを定めて動き出す。

「あ、そこの君。待ちなさい」

 人を避けてテープを潜ろうとした俺を目ざとく見つけて、警官が声を上げる。だが、待てと言われて待つわけにはいかない。小さい頃から遊び場だったから地の利はこっちにあるんだ。木々の影に隠れながら進むとすぐに警官は見えなくなった。

 俺は草に埋もれるようにして、森の険しい方へと進んでいく。

 と、つんざくような炸裂音がした。鼓膜の痛みに耳を押さえる。同時に藍のものと思われる悲鳴が聞こえた。

 まさか、銃声? 奴ら、手段を選んでねえ!

 音のした方へと進む。

 銃声らしき音と藍たちの声がどんどんと増え、近くに聞こえるようになっていく。

 今日の藍は一二八人。朝は周りを囲っていただけだとすれば、奴らが山に入ったのは昼ごろからか。その間にどれだけの藍がやられたことか。

 開けた場所に出た。五、六人だろうか。木々に擬態した迷彩服の男たちが黒光りする銃を構えている。一見すると夏祭りの露店のものと変わらないように見える。けれど、あれに人を害する能力がないとは思えない。

 その先には逃げ惑う藍たちがいる。足の生えたダンボールや新聞紙が動き回っているようにしか見えないが、あれは疑うまでもなく藍だ。

 男たちのひとりが発砲した。

 ダンボールがひとつ、斜面を転がった。地面には赤々とした血の跡が残っている。

「やめろ!」

 俺は発砲した男に飛びかかった。

 男は俺よりもずっと背が高く、体格もいい。腕周りなどは俺の三倍はあるのではないかというほどだ。根っからの文化系の俺どころか、運動部のエースだってこいつに比べれば赤ん坊みたいなものだろう。

 ただの警官ではない。足で事件を解決するタイプの刑事だった親戚の叔父さんよりずっとがっしりとしている。おそらく、もっと本格的な訓練を積んだ連中だ。

 迷彩服の男は銃を片手に持ち替え、空いた手で俺の首根っこをつかんだ。そのまま、視界が回転したかと思うと、俺は地面にうつ伏せで倒れていた。

 体に痛みはない。地面が腐葉土だったのもあるが、こいつに手心を加えられたような気がする。

「お前ら、相手はただの女の子だぞ! 銃なんて使ってどうするつもりだ!」

 男のひとりがにこやかに笑いかけてくる。

「安心して下さい。これは麻酔弾ですよ。私たちだって民間人を無意味に射ちはしませんし、どんなに酷くたって死にはしません」

 俺は吠えるように言い放った。

「嘘だ! 藍を、俺の妹をどうするつもりだ!」

 その言葉に男たちが眉を潜める。

 迷彩服の男たちの中でも一番年かさに見える男がポケットから写真を取り出して、俺と見比べる。そのぎらついた眼光は肉食動物のようだった。

「なるほど、関係者か」

「どうします?」

「関係者なら仕方あるまい。この様子では言っても聞かんだろう」

 男のひとりが銃口をこちらに向けた。

 俺は精一杯の力を込めて男たちを睨みつけた。

「民間人を無意味に射たないんじゃなかったのかよ」

「君はただの民間人ではない」

 パン、と音がしたかと思うと、肩に鋭い痛みを感じた。太いダーツの矢のような弾丸が刺さっていた。痛みは体中に広がり、感覚が抜けていく。歯を食いしばり、逆の手で抜いてみたが、体に力が上手く入らない。体の半分が自分の体じゃないみたいだった。

「たっぷり五時間はゆっくりできる。それまでには全て終わっているさ」

 小馬鹿にしたような声が頭の中に響く。

「さあ、次だ。こいつも後で回収する。今はターゲットの捕獲を最優先にしろ」

 年かさの男がそう言うと男たちが動き始める。

「藍……!」

 俺は必死に手足を動かそうとするが、地面を掻くだけで体を持ち上げることすら出来ない。それどころか、どんどんと手足の先が痺れて、触覚が消える。

 その時、先頭を歩いていた男の足が止まった。

「た、隊長!」

「何だ」

「囲まれています!」

 銃声がこだまする。ひとつやふたつではない。

 俺は四方八方から銃弾が白い尾を引いて迷彩服を切り裂いたのを見た。

 ひとり、またひとりと男が倒れていく。俺はただのその光景に怯えて体を縮こませて音の止むのを待っているしかなかった。

「もういいでしょう。お止めなさい」

 藍の声がした。

 男たちももがくが、俺と同じで立てないでいるらしい。

 そのうちに俺と男たちは数十人の藍たちに取り囲まれた。その藍たちはトレードマークのポニーテールにパーマをかけていた。ぐるぐるに巻かれた髪はまるでチョココロネのようだ。

 この藍たちは逃げ惑っていた藍とは雰囲気が違う。服装だってダンボールなどではなく、ちゃんとした布でできているばかりか、俺の普段着より上質に見える。

 謎の藍たちはどこからかやってきて、俺を助けた?

 何故? どこから? どうやって?

 駄目だ。何も思い浮かばない。頭がぼんやりとしてきた。

「き、貴様らは……」

「ああ、安心して下さいまし。これは麻酔弾、でしたかしら。確かそうおっしゃいましたよね。死にはしないのでしょう?」

「後方部隊に連絡を!」

「後方? ああ、この武器を持っていた方々のことかしら」

「クソッ! もうやられたってのかよ! 化け物め!」

「あなた方の相手は後です。わたくし、お兄様に挨拶に参りましたの」

 薄れゆく意識を何とか繋ぎ止め、俺は巻き髪の藍の中からそいつを見た。

 その藍だけは他の藍から浮いている。奴は藍たちの中で唯一、巻き髪をひとつではなくふたつにくくっていた。ダブル巻き髪で無駄に目立つ。

 けれど、異質に見えるのはそのせいではない。そのどこで身につけたのかもわからない上品な立ち居振る舞いが、こいつは俺の知っている藍じゃないと訴えかけてくるのだ。十六番目のときも似たようなことを感じた。しかし、あの巻き髪をふたつくっつけた藍は十六番目とも毛色が違う。こいつらは一体?

 その藍が他の藍たちに道を譲られて、倒れる俺の前に立つ。

「失礼をお許し下さい、お兄様。わたくしは六七四番目の花村藍です」

 六七四番目とやらはスカートの端をつかみ、恭しく頭を下げる。

 こちらに向き直った六七四番目の藍がしとやかに笑った。

「そして、この群れの女王でもありますの」

 藍たちは俺の知らない間にいびつな社会性を獲得していた。

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