妹、変異する

第4話 妹、変異する1

「今日で分裂が始まって四日目。ニの四乗は十六です。こう言うとすごく少なく思えるかもしれませんが、これから先にはどんどんと増える速度は加速していきます。分裂のスピードは二の日数乗になりますから、一度増え始めるともう爆発的に増えるのですよ。十日で千、二十日で百万、一ヶ月もすれば十億程度といったところですか。日本の人口を上回るまでは後二十三日というところですかね。世界人口はを七十億とすると……って、聞いてるんですか、兄さん」

「あ、ああ、聞いてるぞ」

 テーブルを挟んで真向かいの椅子に行儀よく座った藍が俺を睨む。

 姿形が藍だから全く迫力もないのだが、藍がこんな表情をするところは今まで見たことがなかった。

「弥子姉さんもです。揃いも揃って同じような顔をして」

 思わず、隣に座る弥子姉と顔を見合わせる。その顔には、どういうことだ、という疑問の感情がくっきりと刻まれていた。

 そりゃそうだろう。今の今まで小学校レベルの算数でさえ拒否反応を示していたのに乗数やら日本の人口やらといった知識がポンポンと藍の口から出てきているのだ。

 この落ち着き払った態度も先を見据えた考え方も、昨日までの藍や他の分裂した藍にはなかったものだ。もしかするとこの藍は俺や弥子姉よりもずっと賢く、大人びているのでは、とさえ思える。

「あのな、藍。いや、便宜上、十六番目の藍と呼ばせてもらうけどな。お前は俺の知っている藍とは違うんだよ。十五番目までの藍は本も読まないし、二の四乗の計算もしない」

「そう、そうだよ。一体藍ちゃん、どうしちゃったの?」

 横を見ればテレビのアニメ番組に夢中になっている妹たちがいる。彼女らの興味はテレビにあって、自分たちが増殖しているということにはほとんど関心がないようだった。

 それに比べて正面に座る藍は雰囲気がどこか刺々しい。目つきが悪いし、口調も敬語で距離を感じる。

「私にもわかりません」

 十六番目の藍は腕を組むと眉の間にシワを作った。そして、少しだけ顔を傾ける。この動作、どこかで見たことがある。どこだったっけか。

「私には昨日までの花村藍の記憶があります。自分が花村藍であるという自覚も。けれど、今朝目覚めてからというもの、ずっと思考がはっきりするというかクリアなんです。物事がすんなりと考えられてどんどんと組み上げられていく、そんな感覚が自分の中にあります。忘れていたはずの授業の内容も覚えてますし、難解なはずの計算も簡単にできます。今までに感じなかった知的好奇心がどんどんと湧いてきます。もしかすると、私は花村藍であって花村藍ではないのかもしれません」

「藍だけど、藍じゃない?」

 十六番目の藍はテーブルの下に重ねていた本のうちから一冊を取り出すと俺と弥子姉の方に差し出した。それは俺の部屋からなくなっていた生物の教科書だった。

「この本に少しだけ生物の遺伝について書いていました。突然変異という言葉はご存知ですか?」

「少しは」

「聞いたことはあるけど詳しくは知らないよ」

 弥子姉は知らなかったようで力なく首を横に振った。そういえば弥子姉は文系コースだったっけか。受験に必要ない理科系科目は受けていないのだろう。

「詳しくは知らなくても構いません。まだ私にもわからない部分は多いのですが、どうやら、人間でもアメーバでも自分の子孫を作る際にはその遺伝子――まあ厳密には染色体ですけど――は、ただコピーもしくは交叉が行われるだけではなく、一部がコピーとは違うものになる可能性を秘めているらしいのです。その一部が大きな影響を及ぼすことがあって、同じように繁殖した個体とは異なる性質を示すと突然変異と呼ばれます。私はもしかすると、花村藍の突然変異した個体なのかもしれません」

「交叉? 変異?」

「……えーっと、なら、性別があるにも関わらず、無性生殖と同じように増え続けているということになる。これはもともとの藍自体が突然変異ということにならないか」

 十六番目は小馬鹿にしたようにため息をつく。

「そうかもしれませんねえ。で、この年になるまで分裂状態にならなかった理由に見当がつきますか?」

「いや、それはわからないけど……」

「わからないなら黙ってて下さい。話している途中に口を挟まれるのあまり好きじゃありません。話は戻りますけど、最近、花村藍が摂取している食事の量は普段より少し多い程度です。分裂のとき、必要とされる質量を考えるとあり得ないことです。これが他の生物であれば分裂した個体は元の個体よりもずっと小さくなるはずでしょう。ここがどうやっても解けないんですよね」

「科学よりもファンタジーに近いってことか」

「あー、もうわからないよお! 四人くっつけたら、ばよえーんって消えたらいいのに!」

 弥子姉がテーブルに身を投げ出した。

 正直、これ以上は俺も限界だった。多分、もう手に余るというか、どうしようもない。いくら素人が論理をこねくり回したところで突然変異したらしい妹を元に戻せるわけではないのだ。

「そうですね。私がどうして生まれたのかは置いておきましょう。さっき言ったようにどうにかしなくてはならないのは花村藍の分裂です。このままでは世界が滅んでしまうかもしれません」

「全くその通りだな」

 さっきから黙殺してはいるがそろそろ十五番目までの妹たちがうるさくなってきた。どうやら見ていたテレビ番組が終わってしまったらしい。液晶の中ではカラフルなキャラクターがエンディングテーマを歌っている。

「お腹すいたー」

「朝ごはん」

「朝ごはんまだ?」

「お兄ちゃーん」

「ごっはっん!」

「パンがいい」

「えー、藍はお米がいいな」

「UNOしようよ」

「ココア飲みたい」

「……ねむ」

 昨日で冷凍食品も切れたし、今日は買いだめしておかないといけないな。さて、俺の小遣いで足りるだろうか……。

 花村家の食糧危機も近い。

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