第3話 妹、分裂する3
静まり返った部屋。灯りは豆電球だけで部屋は淡いオレンジ色に照らされいる。
俺のベッドには八人に増えた藍のうちのひとりがぐーすかと気持ちよさそうに寝息を立てていた。この部屋の主であるはずの俺はこの薄暗闇の中、弥子姉と息を殺して今か今かとその瞬間を待っているのである。
「いい? 分裂したらその様子をきちんと覚えておくの。できれば携帯が何かで動画が取れれば最高よ。一瞬で分裂するならそんな暇もないと思うけど。わかった? ワトソン君?」
「ああ、うん、そういう設定なんだ」
小声で話しかける弥子姉に対して俺はゆっくりと頷く。
弥子姉はいつもより生き生きしている気がする。漫画や小説が好きならこういう状況も楽しめるのかもしれない。楽観的だけど変に暗くなるよりはずっといい。
「時間も記録しておいた方がいいかも。何時間周期で分裂するのかも大切な情報よ。次に分裂した時間と合わせてみればわかるはず」
「わかった。で、それはどの漫画の受け売りなんだ?」
「ど、どうでもいいじゃない」
そんな会話が交わされてから既に四時間が経過していた。
その間に起きた出来事といえば藍が四回寝返りをうち、七回獣のうめき声みたいな寝言を発していたことくらいだろうか。我が妹ながら何と色気のない。
「暇だ」
「我慢してよ。私だってずっと待ってるんだから」
もぞりと隣で弥子姉が動いた。ふたりで一枚の毛布を使っているせいか距離が近い。寝るわけじゃないから毛布なんていらないんだけど、弥子姉が風邪を引くからと無理やり被せてきたのだ。
「これからどうなるんだろうな」
「増え続けるならどうにかしないといけないね。もう終わりならまだなんとかなるかもよ」
「けど、八人だけでもかなり面倒だよな」
「戸籍とかどうするのかしら」
「そこは弥子姉が言ったように父さんの隠し子とかにするしか――」
そのとき、藍がまたもぞりと動いた。布団の膨らみが急激に大きくなっていく。
「弥子姉、動画、携帯!」
「うん! あれ、電池切れてる……」
「もういい!」
俺は立ち上がり、藍の布団に手をかけた。顔の見えている方の藍が苦しそうにうめく。布団を握る手に力が入る。
こいつ、布団を握りしめて放そうとしねえ!
こうやって押し合いやっている間に分裂は終了してしまうかもしれない。俺は力一杯布団を引剥がしてやった。くるりん、と転がって藍がベッドから落ちる。
掛け布団の下にはやっぱり二人目の藍がいた。分裂は完全に終わっている!
大きさも形もいつもの藍そのものだ。ただ、その藍というのが、素っ裸だったのである。弥子姉の何分の一かという胸の膨らみとか鼻で笑いたくなるような幼児体型が丸見えである。
「葵ちゃーん?」
弥子姉の猫なで声がやけにおどろおどろしく感じる。振り向くのが怖い。
「これは俺も知らなかったんだよ。いやー、そうだよなあ。藍が分裂しても着てる服は分裂はしないよな。あはははは」
「いいから出てってー!」
俺たち兄妹の朝は人数確認のための点呼から始まる。
「いち!」「に!」「さん!」「……よん、ねむぅ」「ごっ!」「ろく!」「しち、いや、なな?」「はち」「きゅー!」「じゅう!」「じゅういち!」「じゅうに!」「じゅうさん! 花村藍十三才!」「じゅうさん? あれ、じゅうよんだっけ……?」「じゅうよん!」
次第に増えてきているせいでこの確認作業も時間と手間がかかるようになってきた。朝一にやるもんだから、寝ぼけている奴が複数混じっている。昨日の時点でそういう傾向があった。あのときは両手の指で数えられたからいいものを今日からはもうちょっとやり方を考える必要があるかもしれない。
こうやって居間に十数人もの藍が勢揃いしていると壮観だ。
全く同じ顔形の人間が一同に介しているというのは不気味な出来事なはずなのだが、藍の生来のゆるさのせいか全く変な感じがしない。猫のたまり場に迷い込んでしまったような気分になってしまう。
俺はともかく、自身である藍はどんな風に思っているんだろう。普通なら自分が複数いるなんてことになったらノイローゼになってもおかしくない。この呑気そうな表情を見る限り、あまり深く考えてはいなさそうだ。それもまた兄としては心配なところだが。
「ひとりひとりに名前を付けた方がいいかも」
藍たちの髪を結び終わった弥子姉が言った。
トレードマークのポニーテールは分裂しても止めないつもりらしい。何でも動く時に髪が邪魔なんだとか。それなら短くしたらいいと言うと、似合わないから嫌だとか乙女心がわかっていないとかぶーたれるのだから世の中理不尽だ。
「名前なら藍というのがあるだろ」
「それじゃあ、どの藍ちゃんかわからないじゃない。ひとりひとり別の藍ちゃんなんだから個性を尊重してあげないと、ね?」
と、藍に笑いかけるも、当の藍が話をよく聞いていなかったらしく、並んでいた藍たちがきょとんとして弥子姉を見返している。
「うーん、可愛い!」
藍の顔は全て同じではあるものの髪留めや服装は若干異なる。洗濯する必要もあるだろうし、毎日同じ特徴を持っているとは限らない。
「名前か。名前はともかく、確かに識別できるようにしておいた方がいいかもしれないな。これから何が起きるかもわからないし」
たとえば、あっちの藍を呼びたいのにこっちやそっちの藍まで一緒に来てしまう可能性があるわけだ。何らかの行動を割り当てるのに名前というのは非常に重要になる。昔の人はよく考えたものだ。
それなら、と、俺はコピー紙を小さく切って長方形を作っていく。
「何それ」
「名札、みたいなもんだな」
続いて、太いマジックで紙切れに番号を振っていく。今日は十六人だったから一から十六までを一枚ずつだ。
「味気ない」
「緊急だから仕方ない。今はどうやって藍を元に戻すかに時間をかけるべきだ」
「そうだけど、人間じゃなくて実験動物みたい。ちょっと寂しいよね、藍ちゃん」
手頃なところにいた藍をひとり、弥子姉が抱きしめる。特に眠そうにしていた奴だ。藍はしかめっ面で腕の中に収まっている。抵抗するのも面倒そうだ。
「ま、わかるならなんでもいいさ」
俺はセロハンテープで藍たちに番号札を張り付けていく。と、途中までは良かったのだが、手元に一枚紙が余ってしまった。首を捻って、数え直してみると本当に十五人しかいない。最初に点呼させたときはいたような気がしたのにな。あれ、どこかではぐれたか?
「ひとり足りない。弥子姉知らないか?」
「知ーらない」
ぷい、と顔を背けられてしまった。名前をちゃんと付けてあげなかったことを根に持っているようだ。腕の中にはまだ眠そうな藍が抱かれたままだ。しかも、頭をぐりぐりと撫でられて、より険しい表情になっている。
仕方ない。ひとりで探そう。
おそらく、藍の行動範囲は俺の家と弥子姉の家だけ。外には出ないように厳令してあるので他の場所にはいないはず。弥子姉は俺の家に藍を連れてきたときにちゃんと数を数えていたとすれば藍がいるのは俺の家ということになる。
藍の部屋は一番最初に見たが誰もいない。次に父さんたちの寝室、台所も何もなし。居間は十五人の藍と弥子姉がいるだけ。トイレも確認したが誰も入ってはいなかった。
俺の部屋も一応、と見てみると、ここは少し様子が違った。誰もいないのだが、誰かに荒らされた形跡がある。
泥棒の線はないだろう。十六人もの藍がいて誰も気づかないはずがない。むしろ泥棒の方が藍の集団を見つけて悲鳴を上げそうだ。それより安眠を邪魔され、機嫌を損ねた藍が暴れた可能性の方がずっと高い。
荒らされた箇所は主に本棚だった。俺の高校の参考書や教科書の入った棚だ。普段の藍なら絶対に手を出さないどころか見ただけで頭が痛いなどとのたまって逃げ出すはずの場所である。
そんな馬鹿な。
更に変なところはないかと荒らされた後を見てみると高校で使っていた生物の教科書が一冊なくなっていることに気づいた。再び調べてみてもどこにもない。
まさか、本当に藍が?
俺はついに絶対にあり得ないと思っていた場所に踏み入れることにした。研究者である父の書斎だ。あそこはこの家の中でも最も本があり、活字アレルギーの藍にとって最も縁遠い場所だ。だから、ここだけはないだろうと思って捜索の対象から外していたところでもあった。
書斎の戸を開ける。むっと本の独特の匂いが押し寄せてきた。
中を見たとき、押し寄せてくる違和感に足が止まる。体が震える。ありえないものを見てしまった気分になる。おかしい。変だ。異常だ。
確かにそこに俺の探していた少女はいた。
けれど、その少女は俺の知っている妹ではなかった。正確には俺の妹である花村藍の顔をしていて、花村藍の体を持っていて、花村藍の服を着ている誰かに見えた。だって、彼女は本の山に囲まれていて、俺でさえ三分で息の詰まってしまうような分厚い本を読み漁っていたのだ。そんな少女が、俺の妹? 信じられない。
パラパラとページがめくられている。窓から差す光に映しだされた表情は真剣そのもの。いつもの間の抜けた藍ではない。仕事中の父さんみたいだ。
髪は後ろで結んでいない。と、いうことは居間に集合したときにはいなかった藍だ。
藍の顔をした少女が髪をかきあげ、顔を上げた。目が合う。
そいつはわざとらしく唇の片端を持ち上げて赤い三日月を作り上げる。藍はこんな愛想笑いみたいに笑わない。もっとあけっぴろげに笑う。違和感は冷たいものとなって俺の背筋を駆け上がった。
「兄さん」
彼女は、そう俺を呼んだ。だから、多分、彼女はきっと俺の妹で、俺の妹ということは花村藍以外の何者でもない。
つまり、十六番目の藍はそこにいた、ということなんだと思う。
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