第16話 妹、進化する7

 意識を取り戻した時、俺は鉄筋のむき出しになったコンクリートの天井を見た。

 安っぽい毛布に体を挟んで寝かされていたようだ。

 まだ体はふらつくが、立てないほどじゃない。

 身を起こせば薄暗闇の中にぽつんと浮いた島のような場所にいることがわかる。その島は細長く、どこまでも続いていて、何本もの柱が天井に突き刺さるようにして伸びていた。

 目を凝らして柱を見れば知っている地名が書かれている。そういえば、こんな場所に来たことがある。いつもと違ってまるで人がいないし、電灯もほとんど点いていないが、ここは地下鉄のホームだ。

 そうだ。俺は藍を助けに行こうとして違う藍に助けられたんだ。あの自らを女王と名乗る、ふたつの巻き髪を垂らした妹に。

 俺は謎の男たちに射たれた麻酔弾によって眠り、ここに連れて来られたんだろう。問題は俺をここに連れてきたのはどちらであるか、だ。

 虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。

 俺は意を決して口を開いた。

「藍! 藍はいないか!」

 売店からひょっこりと藍が何人か顔を出した。階段の上からも靴がコンクリートを打つ音がする。売店の巻き髪がひとつの藍たちが俺の前に並び、降りてきた巻き髪ふたつの六七四番目の藍、女王を出迎える。

「おはようございます、お兄様」

「おはようございます」

 藍たちが一糸乱れぬ様子で女王の言葉を繰り返す。

「なんだ、お前たちは……」

「見た通りですわ。わたくしたちは花村藍。お兄様の可愛い妹ではありませんか」

 うっとりとした表情で女王が言う。

「それはわかる。だが……」

「わたくしたちが普通の藍とは違う、そう仰りたいのですね」

 俺は頷いた。

 俺と藍がここにいる、ということは藍たちはあの山を抜け出したということだ。しかも、最後に覚えているのは屈強な男たちが藍に敗れる姿だった。この藍たちは只者ではないと俺の記憶と直感が語っている。

「そして、その理由が知りたい、と。いいですわよ。わたくしはお兄様のためならば何だってお話致します。ならば、まずは研究所で起きたことから説明致しましょうか」

 女王はひとつ巻き髪の藍の肩に両手を置いた。

「あのときのことは忘れもしません。かつて、わたくしはまだどこにでもいる普通の花村藍でした。けれど、十六番目のあの子が変えてしまったのです。十六番目はわたくしたちの中でも最も知的な個体でした。その彼女の頭脳をもってすれば花村藍を突然変異させる方法を発見できた。わたくしにはそれはひとつの巨大な機械に見えました。まるで、病院の検査装置のようでしたわ。装置に入った花村藍は数時間の後に、新しい花村藍へと変貌しました。そうです。このわたくしのように」

 やはり、変異した藍だったか。

 上流階級というか、型にはめたようなお嬢様言葉に十六番目には及ばないながらも漂う知的な雰囲気は確かに元々の藍とは一線を画す。外見に関しては好きなように変えられるが、どことなく見た目にも性格が表れている気がする。

「じゃあ、ここにいる藍も全員……」

「いいえ、それは違いますわ。この場で変異したのはわたくしのみ。研究所で変異させられた花村藍は山ほどおりますけれどもね」

「じゃあ、山で見たのはどういうことだ。俺には藍がきちんと統率されていたように見えた。いつもの藍なら俺の言うことだってちゃんと聞くかどうかわからないのに」

「それは後ほどお話しましょう。今はわたくし、変異個体の話ですわ。変異個体は文字通り、オリジナルの花村藍とは違います。ここまではよろしくて? では、次ですけれど、わたくしのような変異個体は性格、能力は一応基本的なところは受け継がれます。けれど、全てが同じ、というわけには参りません」

「十六番目のように頭が良くなったりするわけか」

「そうですわ。彼女は花村藍の中でも特に頭脳明晰。同じように運動神経に優れた者や、わたくしのように気品を身につけた者もおります。性格も冷静沈着な者から短気な者まで様々ですのよ。そのために、わたくしたちは髪型を変えることで互いを区別することに致しました。わたくしの場合は、この巻き髪ですわ」

 女王藍が垂れた髪を指でいじる。

 信じがたいことではあるが、目の前にもその一例がある以上、信じないわけにはいかない。何より藍が言っているのだ。嘘ではないように思う。

「変異した花村藍にどのような個性や能力が宿るかは当の十六番目すら知り得なかったそうですわ。おそらくは、彼女と同じような個体が出来ると想像していたのでしょう。わたくしも変異個体としては新参でして詳しいことは存じません。とにかく、十六番目はその誤差を無視して幾人もの変異個体を作り続けたのです。それが花村藍の分裂を止める唯一の方法と信じて」

「けど、全ての藍が変異体になったわけじゃない」

「ええ、お兄様がご覧になった通りですわ」

「俺が保護した藍は分裂していた。その藍だけじゃない。各地に逃げた藍だってきっと分裂したはずだ。ネットやニュースで見た」

「全ての藍を変異させるにはあまりに時間が足りませんでした。なにせ藍の数に対して変異化装置は数が絶対的に少なかったのですから。だから、その前に事件が起きてしまったんですわ」

「あの爆発事故だな」

 女王が悲しそうに目を伏せる。

「不幸な事故でした。変異個体の生産は一歩間違えば非道な実験であるとも言えました。人為的に生物を組み替えようというのですから、神に対する反逆です。そして、ついにあの八十番目が生まれたのです」

「八十番目……」

 女王が身を震わせる。心底恐怖しているとわかった。

 あの訓練された軍人たちを圧倒した女王の藍でさえ、怯えさせる存在とは一体どのようなものなのだろう。しかも、それもまた藍のひとりであるという。

「その力の程はわたくしも存じません。変異した八十番目は十六番目と対立しました。いえ、正確には研究所の全ての人間と十六番目に反抗したというべきでしょうか。彼女が持つ恐るべき力が元で研究所にあのようなことが起こったと聞いています。わたくしは爆発が起きて直ぐ様、眷属を連れて逃げ出しました」

「なるほど。それが研究施設で起こった真相か」

「ええ、わたくしの知る限りでは。これ以上は当事者である十六番目……あるいは八十番目に聞かねばなりません」

 やはり、そうなるか。

 藍の分裂はもはや取り返しの付かないところまで来ているようだ。ただの藍ならまだいい。しかし、この女王藍や八十番目のような戦闘能力を持った藍が増え続ければいずれ、人類は藍を危険視し、敵対してしまう。いや、もうしているかもしれない。山で厳重に藍を取り囲んでいたのを思い出せばしているとすでに遅いと考えた方が自然かもしれない。

 八十番目はわからないことが多すぎるから置いておくとして、目の前の女王藍の力の源は明らかだ。奔放な藍たちが女王藍のもとで団結し、行動すること、これに尽きる。それも大人、組織化された兵隊たちを圧倒するくらいの力を秘めている。

「お前はここにいる他の藍を眷属と言ったよな。俺にはお前が他の藍を指揮しているように見えた。これは間違いないか」

「ええ。流石、お兄様。察しがよろしいですわ」

 分裂した藍を統率する指揮能力。

 やはり、これが藍が持つ新しい力か。

「花村藍は人類とは全く別の生態を持つ生き物に生まれ変わったのです」

「別の……生き物?」

 巻き髪ふたつの藍はちろりと舌で唇を湿らせる。その妖艶な動作と得体の知れない藍へと薄気味悪さが合わさって、麻酔で濁った頭が冷えていく。

 もしかして、俺の妹はとんでもなくやばいことになっているのではないか。

「わたくしたちひとりひとりはこのような見た目ですが、全体で見れば蟻や蜂に近いのですわ。ひとつの群れにはひとりの女王が生まれ、群れを構成するのは女王に近しいところで分裂した花村藍。女王は分裂しない代わりにさっき言いましたような他より秀でた能力を持つのです」

「ちょっと待て。分裂しないって女王は変異個体なのか」

「ええ、そうですわよ。お兄様が変異個体と呼ぶものこそが群れを守り、導くための女王、いわゆる女王個体なのです。女王個体にはその人類的な能力とは別に姉妹である個体、及びその子孫を統べる能力と義務を持ちます。わたくしたちは言葉や体ではなくもっと別の深い場所で繋がっていますのよ。姉妹の見たもの、聞いたこと、言いたいこと、全てがわたくしに集積され、また逆にわたくしからの言葉が伝達されますの。だから、わたくしは彼女たち姉妹を眷属と呼ぶのです」

 同じようなことを逃げてきた藍からも聞いた気がする。

 女王藍にしろ逃げてきた藍にしろ、その言葉は『繋がっている』とだけで、俺からすれば曖昧過ぎてイメージが固まらない。女王藍が蟻を例として出したこともあって、人間的にとらえるよりも階級構造を持った動物として考える方が受け入れられる。

「研究所ではそんな藍を作り続けていたってことかよ」

「そうですわ。必然的に多数の群れが誕生することになりました」

 となると、十六番目や八十番目と呼んでいる藍も女王個体であり、群れを守っているのだろう。俺の家に十六番目がやってきたときには既に藍たちの中に群れとなる藍の集団がいたのかもしれない。

「群れを形作る花村藍、労働個体、と呼んでいたのですけど、彼女たちは基本的にオリジナルに近い性質を持っていました。けれど、日を追うごとにそういう花村藍はわずかながらに女王個体と似た性質を持つようになりますの。これによって群れの境界が作られるのです。だから、最初は誰も気づきませんでしたわね」

 なるほど、それで蟻か。蟻には女王蟻と働き蟻の二種類の階級が存在する。女王蟻を頂点としたその生態系は今、女王藍が語った藍の構造に似通った点が多い。蟻の場合、女王が生む蟻は働き蟻となるが、複雑な指揮系統を持たない。

 どのように労働内容を決めるに関してはどこかで読んだ気がする。個体別に閾値というのがあって、刺激の度合いと閾値を照らしあわせて行動が決定されるというようなものだったはずだ。

 それを藍の場合は女王個体というリーダーを生み出すことでより人間に近い階級社会を創っている。山での戦闘を見る限り、労働個体は女王個体の指揮さえあれば、より複雑な行動もこなせるようだ。そういう点では狼などのように群れのボスとして女王が君臨していると考え方がわかりやすいかもしれない。

 わかったことも多いが、いくつか疑問はある。

「労働個体を全て失った女王個体はどうなる? 何を拠り所にして生きていくんだ」

「わかりませんわ。まだわたくしたちの歴史は始まったばかりですもの。しかし、逆ならば予測は出来ます。女王個体を亡くした労働個体はまた新たな女王個体を分裂によって生み出すことでしょう。統率なくして生きるには花村藍はまだ弱すぎますから」

 これもまた蟻に近い。女王蟻亡き後は働き蟻から紆余曲折を経て新たな女王が誕生するという仕組みだ。この女王藍も蟻を参考にこの結論に至ったから、女王を名乗っているのかもしれない。

「しかし……」

 女王藍が目を細める。

 粘りつくような視線だった。

「お兄様の仰る通り、自身以外の全ての眷属を失う、あるいは変異させられて分裂できなくなった女王は生物としては失格ですわよね?」

「……子孫を残せないからな」

「ええ。けれど、わたくしたちが人間であった頃の方法ならばどうでしょう。なにせ、今までわたくしはそういうものを試したことがありませんの。だってまだあれが来ていませんものね。試したくても試せないのですわ。もし、可能ならそれはそれで女王個体にとっての幸せと成り得るでしょう。たとえ、それがまだ群れを持つ女王であったとしても」

 藍が俺の胸元に手を這わせ、艶かしく体を寄り添わせてきた。

 いつもなら、まだまだ子供らしさの残る藍が触れたところでどうとも思わない。けれど、女王藍は雰囲気が違う。潤んだ瞳や甘ったるい吐息が俺を困惑させる。

「まさか……俺を助けたのは?」

「できれば、わたくしは好きな方と添い遂げたく思いましてよ」

「きょ、兄妹だぞ」

「人間とは違いますわ。わたくしたちは花村藍。より自分に近い遺伝子を求める方がより分裂には都合が良いのではないかしら」

 考えてみればこいつが助けに来たのは不自然だった。

 きっと山に来てすぐいなくなったという藍は巻き髪藍の眷属だったんだ。無銭飲食して、山に行って、俺のことを聞いて、この女王藍に報告して、そしたらちょうど俺が襲われている場面に出くわした。

 藍が藍を、あるいは俺を助けるのは普通だと思っていたが違う。

 こいつは藍ではなく、最初から俺を狙っていた。

「お慕いしております」

「やめろ……やめてくれ。俺は妹として藍が好きなだけだ」

「わたくしだけではありません。他の女王もあなたを狙うでしょう。ならば、お兄様も覚悟を決めるべきです」

 俺はいつの間にか、じりじりと後退っていた。

「誰か! 誰かいないのか!」

「ここ一帯はわたくしの領土ですわ。人間たちは追い出しました。わたくしはわたくしと眷属ために巣を張り、姉妹を増やし、敵を倒すのです。もうすぐ人間の栄華は終わりを告げ、次なる時代がやってきます。その時、大地に立っているのはわたくしたち、花村藍ですわよ」

 藍の瞳が獲物を狙う猛獣のようにらんらんと輝いていた。

 怖い。

 藍が怖い。

 足が震える。喉が乾く。

 俺は藍を突き飛ばして逃げ出した。

「追いなさい! 捕まえるのです!」

 女王藍が金切り声で叫ぶ。

 ひとつの大きな塊となって巻き髪の藍たちが動き出す。

「捕まえるのですか」

「ロココ的に疲れますわ」

「ロココって?」

「わたくしも最近お肌が」

「気が乗りませんわ」

「お兄様ですしねえ」

「でも、お姉様も言っていることですし」

 後ろから少し上品で大変やる気のない声が聞こえる。このぶーたれた感じ、俺が宿題をやれと言ったときの藍そのものだ。労働個体の藍たちは変異個体ほど変わっていないらしい。個性といえば走り方が内股で遅いことくらいか。

 これならば行ける。俺は階段を登ろうとホームの内側へ曲がる。

 しかし、そこにはおびただしい数の巻き毛の藍たちが陣取っていた。その藍たちがこちらに気づく。逃げるのを読まれていたか!

「誰かしら?」

「お兄様ではなくて」

「あ、お兄様」

「お兄様だー!」

「お兄様、ごきげんよう!」

「ごっきげんよー!」

 こっちは駄目だ。他にどこか逃げる場所はないか。

「逃げない方がよろしいと思いますわよ。もう上では本格的な戦闘も始まる頃でしょう。花村藍は女王の数だけ領土を必要としますのよ」

 藍たちに囲まれた。もう逃げ場は一箇所しかない。

 俺はホームから線路へと飛び降りた。次の駅まで走りきれば、いや、途中にでも梯子か何か、登れる場所があればそこから出られる。

「お兄様、次はありませんわ。必ず、必ずやお兄様をわたくしのものにしてみせます」

 背後から怒りに満ちた声がする。

 俺は一心不乱に足を動かした。進むたびにホームの灯りは遠のき、闇が濃くなる。

「いずれ世界は花村藍のものとなります。ゆめゆめお忘れなきよう!」

 妹の叫びは未知の生き物の産声のように聞こえた。



 息が切れる。もう体はとっくに悲鳴をあげていた。

 俺は崩れるようにしてその場にへたり込む。額に流れる汗を拭う。吐息が熱く、一息一息が苦しい。

 俺の感覚では一時間は走っただろうか。次の駅はもうすぐのはずだ。梯子は見えなかったのか、それともないのかはわからないが発見できなかった。

 しかし、そんなことよりも地上に戻ってどうする?

 走っている間に電車は一台も通らなかった。普段であれば上りだけでも十分に一本はある。もうすでに地下鉄は藍に占領されているのではないか。

 俺は藍さえ助かればいいと思っていた。けれど、藍は違った。あの巻き毛の藍は人類とは別種の存在として地球での繁栄を望んでいた。

 蟻と同じであれば、ある程度、巣が大きくなれば増加は止まる。しかし、藍の大きさからして、巣の大きさはかなりのものだ。小さくても村や町にも匹敵するだろう。そして、女王蟻に相当する女王個体は変異した藍の数だけ存在するという。

 ……果たしてそんな巨大な巣をいくつも人類が許すだろうか。これまで、淡々と領土を開拓し、我がものとしてきた人間が、だ。

 もはや人類と藍の対決は避けられないように思えた。

 なら、俺はどうすべきなんだろう。

 俺は藍ではない。けれど、藍の兄だ。そして、人間だ。人間として藍を止めるのが正しいのか。それとも、藍に付いて地球を覆う彼女を見届けるのが正しいのか。わからない。俺にはもう何が正しいのかわからない。

 どんどんと深く思考の海に沈んでいく。頭の中が真っ黒な霧に覆い隠され、何も見えない。何を考えるべきか。それすらわからなかった。

 なあ、一体、俺はどうすればいい。

 ……誰か、誰か教えてくれ。

 そんなとき思い浮かんだのはあの小憎たらしい十六番目の藍だった。俺よりもずっと頭が良くて、巻き髪の女王さえ認めた十六番目ならばきっと他の藍とは違った答えを出しているかもしれない。いや、きっと出してもう動き出していることだろう。

 俺はゆっくりと立ち上がる。

 待っているだけでは駄目だったのだ。そこにいるだけで見つけて貰えるなんて虫が良すぎた。もっと藍のために本気にならないといけない。どんな小さな希望だろうと、あるのならば俺は藍のために頑張れる。

 のろのろと歩き出すと、わずかながらに光が見えた。

 次の駅だ。もう出口は近い。

 早く、探さなければ。

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