第8話 妹、変異する5
その夜、母さんが帰ってきた。
「あら、藍、やけに増えたわね」
玄関で出迎えた十数の藍に母さんは認識が追い付いていなかった。呑気にひいふうみいよ、などと藍の頭を数えている。
「だから、増えたって電話しただろ。息子の言うことくらい信じてくれよ」
俺は母さんの視界を遮った。
母さんは悪びれた様子はない。全くいつも通りのマイペースだ。
「そう、それは悪かったわね。父さんは?」
「電話のことなら母さんと同じだよ。家にいるかってことならまだ帰ってない」
それから母さんから電話を受け、ようやく父さんも事体の重大さを知るところになる。
流石にふたりも目撃者がいることもあっては非科学的なことを全く信じない父さんも動かないわけにはいかない。仕事を途中で切り上げて帰ってきた。
そして、今、臨時花村家大会議が父さんの書斎で開かれようとしていた。書斎に椅子はひとつしかないので、三人で輪になって床に腰を下ろしている。
なお、藍は全て不参加である。十六番目も例外ではない。
「今月は光熱費が高そうねえ」
「それどころじゃないでしょ」
母さんの言うことはどこかずれている。
「子供が多いと市から援助金が出るんじゃなかったかな。後で聞いてみよう。戸籍もつくらないといけないしな」
「父さんも便乗しないで」
「心配ない。父さんも藍がひどく大変な状態にあるのはよくわかっているよ」
父さんは大丈夫だ、と俺の肩を叩いた。
「さっき、父さんは知り合いの研究者に相談してみてね。ひとまずは顔なじみの偉い人が預かってくれることになった。彼のところなら頭のいい人もたくさんいるし、設備も融通してくれる。父さんもその人のところで藍がどうして分裂したのかを調べるつもりだ」
「藍はどうなるんだよ」
「おそらくは研究所にしばらく隔離されることになるだろうね」
「隔離……?」
「実験とかされるのかしら」
「必要ならそうなる。父さんも不本意だが、そうせざるを得ない状況だと思うよ。勿論、人道から外れたことはさせないつもりだ」
「なら、いいけど……」
しかし、何かひっかかる。
問題は解決するはずなのに全然嬉しくない。
「それで増えたのは火曜日からだと言ったね。葵、火曜日から今日までに起こったこと、気づいたことがあったら教えて欲しい」
俺は弥子姉にそうしたように、かいつまんでことのあらましを語った。
藍がふたりになった朝のこと、弥子姉に相談して張り込んだこと、十六番目の藍がほかの藍と違うこと。思い返せば振り回されっぱなしの五日間だった。でも、藍が遠くに行ってしまうのが決まった今はそれがすごく密度が濃くて楽しかったような気がしてくる。
「そうか。それは大変だったな」
そう言って父は腕を組み、眉の間にシワを寄せた。そして、少しだけ首を傾ける。
あ、と思った。これだ。十六番目の癖は父さんと一緒だったんだ。どこかで見たと思ったらこういうことだったんだ。
「その十六番目の藍というのが少し気になるな。母さん、ちょっと呼んできてくれないか」
「ええ、わかりましたよ」
十六番目はすぐにやってきた。
母さんいわく、家族の共用PCで調べ物していたらしい。
「なんですか、父さん」
やってきた十六番目の藍は俺のすぐ隣に正座する。俺は少しだけ遠くに身をよじった。
「君は分裂が始まって四日目にやってきたそうだね。十六番目の藍は他の藍より随分と違うと聞いた。君は分裂してからずっと本を読んだり、パソコンで資料を探していたそうじゃないか。では、この分裂ということについてもわかったことがあるんじゃないかな」
少し考え込んだ様子を見せて、十六番目の藍は言った。
「気にかかることもあります。けれど、それを確かめるにはあまりにもデータが少ないでしょう。この手の調査には多角的な視点からの観察が欠かせません。分裂の際に体内、体外の両方でどのような変化が起きているのかさえわからない以上、私の推測は全て憶測の域を出ません。それでもよろしいなら、お話しましょう」
父さんが低く唸る。
「これは驚いたな。確かにいつもの藍よりもずっと利口そうだ」
俺はやっと十六番目に抱いていた感情に気づいた。
これは劣等感だ。年下のしかも、妹という立場の少女の話に全くついていけず、置いてけぼりにされて嫉妬していたんだ。
一端の研究者である父さんを唸らせた十六番目を見て確信した。
特別だと思い上がっていたというのは俺の勘違い。疲れていたとか面倒とかで、劣等感から逃げていただけだ。たとえ、頭がついていけなくとも一緒に話し合ってちゃんと考えてやるのが兄としての役目で、少なくとも十六番目はそれを望んでいたように思えた。本当に解決へ向かうなら俺は十六番目から逃げるべきではなかったのだ。
「どうするにせよ、できることなら早めに対処すべきでしょうね。ここではデータを取るにも設備が何もないでしょうし」
「よし、わかった。確かに時間を重ねれば藍はすぐに増える。ならば、できるだけすぐに動いたほうがいいだろう。明日には移動しようと思う。予測では六十一人ということだったな。バスが二台あればなんとかなる。手配しておくよ」
拍子抜けだった。
あんなに色々考えていたのに事件は俺の手を離れてどこか遠くへ行ってしまう。きっと父さんたちなら俺なんかよりもずっと上手く対処できるんだろう。十六番目も一緒に行くのだからきっと不可能も可能になる。
「母さんもそれでいいかな」
「父さんが一緒に行くなら私も安心して藍を任せられるわ」
やっと求めていた日常へと帰っていけるはずなのに、心にぽっかりと大きな穴が空いたような、空虚な気分だった。俺には藍のいない生活が想像できない。
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