第7話 妹、変異する4

 翌日、妹が三十一人に増えた。

 予想よりひとり少ないのは十六番目の藍が分裂しなかったせいだ。彼女は俺たちと一緒に朝方まで一緒に藍たちの分裂の瞬間を確認した。そのとき、十六番目だけは分裂しなかったのである。

「もしかすると、変異した部分が分裂に関わっていたのかもしれません。劣性遺伝というのもあります。そもそも分裂というのはもともと人間に備わっていた機能という仮定はどうでしょう。遠い昔に失われていた分裂という機能が花村藍の世代で復活した。これはつまり、人間が単純に分裂して増殖する原始的な生き物から進化したということを意味します」

 と、起き抜けに十六番目の藍は言った。彼女の言葉の意味するところはよくわからないがひとりでも増加が抑えられるなら嬉しい限りだ。

 それでも三十一。三十一といえば野球チームを三つ作ってリーグ戦が出来てしまう。各チームに監督もおまけに付けることだって可能だ。残りのひとりにチアガールでもやらせよう。はあ……明日になれば六チームかあ。これはもう家には入らないなあ。

 食事だっててんてこ舞いだった。

 台所から食卓までの短い道のりは藍でいっぱいだ。

「押すなー!」

「あ、私のだけソーセージが少ない」

「……ね……む」

「藍、カップ麺にする」

「ピザ取っていい?」

「ピザ? ピザはクリスマスしか食べちゃ駄目なんだよ」

「七面鳥!」

「ケーキ!」

「あ、六番、手洗ってないでしょ」

「洗ったし。洗ってないのはそっちの九番だし」

 レトルト食品はおろか、買い置きしておいたはずの卵三ダースまで全員に行き渡ることなく消滅した。おそらく目が行き届かないのをいいことに藍が食べたのだ。あいつ、卵かけご飯なんてチープなもんが大好きだからたまにおやつ代わりにしてるんだよな。

 おかげで俺は白米に塩を振っただけの朝飯を迎えることとなった。なんとも言いがたいことだが、これを用意してくれたのも何番目だかは知らないが藍だった。

 俺は朝飯だか昼飯だかわからなくなってしまった食事に箸を着ける。しょっぱい。

 対面の席には例の十六番目がいて、また腕を組んで顔を傾けている。

「――であれば、まだ科学的に手の届く範囲の出来事です。ちゃんと今までの生物学に則った結論になるのですから。しかし、解せないのは花村藍の分裂のときに必要とされる質量がどこからやってくるのかはまだ依然として不明なことです。夜中に見た湧きでたような分裂。図鑑に載っているどの生物もあんな風には繁殖しません。一体私たちはどのようにして分裂しているのか、それがわからなければ現象を食い止めることも不可能ですよ」

「そうだなあ」

 まだ正午も回っていないというのにすっかり疲れてしまった。引きつった笑い顔が元に戻らない。いくら可愛いうちの妹も三十人を超えると肩が凝る。いや、俺には八人くらいでも大丈夫と言える甲斐性はない。隣の家では弥子姉も同じような顔をしているのだろうか。

 夜も分裂の瞬間を見逃さないためにろくに寝ていなかった。ここ数日で別人のように老けこんでしまった気がする。今すぐにでも布団にダイブして、気が済むまで眠りたい。そして、ここ数日のことは全部夢で起きたら妹がひとりで朝ごはんを準備しているのだ。

 と、十六番目が俺を睨んだ。

「一回分裂するのにかかる時間は兄さんと弥子姉さんの測定が正しければほぼ二十四時間ちょうど。もしかすると分裂にかかる時間はまだ安定期に入っていなくてこれから変化するかもしれません。長くなるかもしれませんが、短くなるかもしれません。楽観はできないできませんよ。もっと危機感を持ってもいいんじゃないですか」

「持ってるっての」

 こいつの話はどうも小難しくて耳をすり抜けていく。俺は箸を止めて頬杖をついた。

 それを見た十六番目が眉間にしわを寄せる。

「初日からこれだけの数になるのに一週間足らずです。それがひとりでも逃げようものならまたどこかで花村藍は増殖し続けます。ネズミなんて目じゃありません。十日で千人。また十日で更に千倍以上。花村藍が地上を覆い尽くすのにはニケ月も掛からないでしょう。気づいた時にはもう対処できないほどに増えてるんです。花村藍の分裂を止めるには一度に全ての個体に措置を施さなくてはいけませんしね」

 まるで、あの黒い虫だ。黒い虫は言い過ぎとしても十六番目の言い方は藍をニンゲンとしてではなく、一種の動物に対するようなものだった。

 藍は確かにまだ本能的に動くことがある。しかし、たったひとりの、いや、たったひとりではなくなってしまったが、とにかく俺の妹だ。同じ妹でも十六番目にそう言われるとなんとなく気分が悪い。

「聞いてます? さっきからぼーっとして。兄さんも疲れているのはわかりますがもっとしゃんとして下さい」

「聞いてるよ。でも、もう限界だよ。俺にはどうしたらいいかわからない」

「わからない? わからないからといって諦めるんですか。何も全ての希望が潰えたわけではありませんよ。私もずっと考えていました。きっと、私、十六番目の花村藍の存在こそがこの現象を止める鍵となるはずです」

「どうして?」

 十六番目の藍は藍らしからぬ真顔で言葉を続ける。

「これまでの花村藍の中で私だけが分裂しなかったからですよ。私と他の花村藍の生体情報を比べればどこかに違いがあるはずです。この違いさえわかれば解決の糸口がつかめるはずなんです」

「生体情報ねえ。わかったところでどうやって藍の生体情報を書き換えるんだ? 手術か? 遺伝子操作か? もっと別の方法か?」

「そこまでは、ね。けれど、昨日よりは前進したと思います」

「破滅にも一歩近づいたがな」

 柄にもなく、言い方がきつくなってしまった。普段ならもっと冗談めいた調子で流せるのだが、どうも頭が上手く動かない。

 きっと、十六番目が藍らしくないせいだ。

 見た目と癖は藍そのものなのに中身が違いすぎて、気味が悪い。他人が家の中に土足で踏み込んでくるよりイライラさせられる。お前は藍じゃない。藍じゃないのに何でそんな姿をしているんだって。だから、こんなにも得体の知れない感覚に襲われなきゃならない。

「それに私自身感じるんです」

 十六番目が自信有りげな笑みを浮かべる。

「何を?」

「私というイレギュラーな存在こそ、花村藍の分裂を解決するために生み出されたんだということをです」

「大した自信だな」

「ええ、もう少しで何かがわかりそうなんです。例えば私の分裂する元となった花村藍、これが親なら私は子の関係にあります。このとき、私の姉妹となる――」

「もういい」

 俺は無理やり藍の言葉を遮った。

 うんざりだった。よくもまあ、次から次へとわけのわからないことを言っていられると感心していたものだが、それも一日で苛立ちに変わっていた。

「おや、兄さんには難し過ぎましたか?」

 十六番目が挑発するように言う。

「全くもってその通りだ。お前のご高説は聞き飽きた。飯のときくらいゆっくりさせてくれ」

「ふうん」

「わかってるよ。お前は俺より頭がいい。だから、さっさと原因でも何でも解決して元の藍に戻ってくれ」

「どういう意味ですか」

「藍はひとりでいいんだよ!」

 すると、十六番目の貼り付けたような笑みが固まった。

「そうですか……」

「な、なんだよ」

「そうですよね。花村藍はひとりでいい。最初はひとりだったんだから、ひとりじゃないとおかしいですよね。分裂を止められればそれでいいと思ってました」

 十六番目は悲しげに顔を伏せた。

 それを見て俺も気づく。俺は今、増えた藍の全てに消えろと言ったに等しい。

 多分、最初の藍以外は望まれて生まれた藍じゃない。でも、ひとりひとりがちゃんと生きていて、自我を持っている。だから、頭のいい十六番目は自身の存在意義について考えてしまう。自分とは、分裂した藍とは何のために生まれてきたのか。俺はそれを手繰ることすら否定してしまったのだ。

 見た目は他の藍とは同じようで、中身はまったく違うことが無性に悲しくて、苛立たしい。藍のあんな顔は見たくはなかった。あんな顔をさせた自分が許せなかった。もっと気を使っていれば良かった。しかし、もうどうしようもない。

 俺は白米をかき込むと逃げ帰るように自室へと急いだ。扉を閉めてベッドにへたりこむ。そのまま小さくうずくまった。

 ポケットに手を突っ込むと硬質的な何かが手に当たる。それは昨日買った半月のヘアピンだった。俺はヘアピンを贈るタイミングを完全に逃していた。

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