第6話 妹、変異する3
平行線で終了した会議の後、冷蔵庫を開くと空っぽになっていた。藍の嫌いな緑色の野菜を除いてほぼ全てが十五名の藍によって蹂躙されつくしていた。
俺は漁られた後の冷蔵庫を閉じて、弥子姉の方を振り返った。弥子姉は早くも藍たちと前世代のテレビゲームで遊んでいる。
「買い物に行ってくるよ」
「りょーかい!」
ゲームに夢中なのか、弥子姉はこっちを向かずに応えた。
俺は肩の力が抜けるのを感じた。あまりにも弥子姉がいつも通りであるからだ。さっきまでちょっとまじめに話し合ってたと思ってたのに、切り替えが早過ぎる。どうも、普段藍と遊んでいるのは善意からだと思っていたのだが、遊んで貰っていたのは弥子姉の方だったらしい。目が真剣だ。
買い物を手伝ってくれるかと期待していたのに当てが外れた。言えば手伝ってくれるだろうけどももうそんな気はすっかり萎えている。
「ねえねえ、藍も行く!」
「えー、じゃあ藍も!」
「藍も行きたい!」
代わりに生きのいい藍が五、六匹釣れたようだ。
「藍たちは駄目だ。はぐれたら一大事だからな」
「えー、ケチ!」
「なんでよー!」
次々と不満の声が上がるが俺は聞こえない振りだ。
もし、ひとりでも迷子になって、そのまま行方知れずになろうものなら藍は無数に分裂し続け、見つかった時には手遅れになってしまうかもしれない。
「ひとりくらいならいいのではないでしょうか」
と、言うのは例の十六番目の藍だ。奴は音もなく俺の横に立っていた。
「何だ。お前も行きたいのか」
「私も花村藍ですから」
お面みたいな無表情で言う。小脇には分厚い本を抱えていた。
どうやら、花村藍という生物はずっと家の中にいるとストレスで駄目になってしまうようだ。
「たくさん連れて行くと迷子になったり、不審に思われることもあるでしょうけど、ひとりくらいならば問題ないはずです」
「デートだね!」
「違う。全く誰のせいで何度も買い出しに行かなきゃならんと思ってるんだ」
いつもならば、ちょっと冗談めかしたことを言って頭を撫でてから連れて行ってやるのだが、今日はそういうわけにはいかない。
しかし、俺ひとりでは荷物が多すぎる。芙蓉家も合わせて全二十人分の食料ならもうひとりくらいは連れて行った方がいい。少数であれば俺の目が届かないなんてことはないだろう。
「ま、しょうがない。ほら、じゃんけんだ」
「え、私じゃないんですか」
十六番目の藍の眉がちょっとだけ動いた。
「当たり前だ。俺はどの藍だって平等に扱うからな」
十六番目が悔しそうに下唇を噛む。
そうやってむくれいる様を見ると少しだけ胸がすっとする。
俺にとってはどの藍も藍なのだが、どうしても十六番目は引っかかる存在だ。頭がいいだけに自分が特別な存在であると思っているようなのだ。だからといって対応を変えるつもりはない。
「じゃんけんだー!」
「行くぞー! 最初はグー」
「じゃんけん!」
「ポン!」
外はもうオレンジ色の夕焼けに染まっていた。
俺の隣で七番の番号札の付いた藍が上機嫌で吹けもしない口笛を吹こうとして奇っ怪な風切音を発する。リズムの不安定さが不気味だが、本人が満足ならまあいいだろう。
「ほら、藍。ふらふらするな」
藍は目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。
俺は藍の首根っこをつかんでやった。蛙の鳴き声みたいな音がした。
「痛い」
「なら、しゃんとしろ」
「でもでも、こうやってお兄ちゃんと出かけるの久しぶりだから、ついうきうきしちゃうじゃない?」
「じゃない? って聞かれてな」
そういえば、最後に一緒に外出したのはいつぶりだったか。記憶に出てこないあたりずっと昔のような気もする。
ひと月前だったか、藍がまだ陸上部に仮入部だった頃、一緒に商店街のでかい本屋まで出かけたのが最後だったんじゃないかな。ついでにスポーツ用品店で藍の新しい運動靴を見に行ったんだったか。
今の藍が履いているのもその時買った練習用のランニングシューズだ。
「そうか。出かけるにも大勢だと靴がいるんだったな。にしても何でいつものじゃなくてランニングシューズなんだ?」
「ひとり一足で分けるとこうなっちゃったんだよね」
横断歩道の白いところだけを踏みながら、藍が言った。
なるほど。ひとりひとり自分の使う靴を決めてあったのか。
また、藍が駆け出していく。かと思えば、今度は雑貨屋のガラスにへばりついて物欲しげな目でこっちを見ている。
「何か欲しいものでもあるのか」
「髪くくるやつ、買って」
「お前小遣いあるだろ」
「あれは皆の分。花村藍ちゃん大会議で決定されたもの以外買ってはいけないのだ」
「だから、俺にたかるわけね」
「うん!」
元気良く頷く。
家で騒いでいるだけかと思えば意外と藍同士ではコミュニケーションが取れているようだ。もしかすると野生の動物みたいに群れとしての意識があるのかもしれない。
考えてみれば、番号を付ける前の藍は個人ではなく、群体でひとつのものとして行動しているように見えた。まあ全員が十六番目のように自己主張してしまっては本当に収拾が付かなくなりかねない。今くらいのわがまま加減なら許してやるべきか。
「仕方ない。明日の藍も分もあるし、ヘアゴムくらい買ってやるよ」
「やたっ!」
藍が勢い良く駆け出す。
後ろから見るとポニーテールが揺れて生き物みたいだ。その髪を留めるのはお世辞にも洒落ているとは言いがたい真っ黒な飾り気のないゴムバンドだ。
雑貨屋のドアを開けると来客を知らせる鐘の鳴る音が軽快に響いた。
色とりどりのアクセサリーや小物の並ぶファンシーな店だ。中学からも近いし、友達と来たりしていたんだろうか。藍もこれで女の子だから、そうでも不思議じゃない。現に藍はいくつかの髪飾りを手に取っては戻すのを繰り返している。
「そういえば、藍。藍は他の藍の見分けがつくのか」
「んー、わかんない。十六番目の子だけはわかるけど」
「だよな。まったくどうなってんだか」
藍のお眼鏡に適う装飾品が見つかるにはまだ時間がかかりそうだ。小さくてもこいつはやっぱり女性だからか買い物には時間がかかる。いちいち俺に意見を求めてきたり、鼻っから買うつもりもないのに試着したりするのだ。付き合わされるこちらの身にもなって欲しい。
俺は何気なくゴムではなく、ヘアピンを手に取った。
おはじきくらいの大きさの円形のモチーフが付いている。円の左半分が深い色の青で、もう片方が薄いクリーム色だ。このモチーフが夜空に浮かぶ半月を思い浮かばせた。天文部にいた頃、星が見えにくい夜はいつも月を見ていたっけか。
こいつは左が半分かけているから上弦の月か。ああ、でも逆にしても使えるからそのときは下弦になるな。
うん、よく見ると悪くない。せっかくだから買って行くか。幸い、目立つものを目印にしておきたい奴もいることだしな。
「あれ、お兄ちゃん、それ買うの?」
「ああ、十六番目に買ってやろうと思ったんだ」
「何で十六番目の子だけ?」
「十六番目の藍だけは見分けが付いた方が便利だと思ってな」
十六番目に他の藍と同じように話しかけるとどういうわけか手痛い反発を受ける。だから、すぐ見分けが付いた方が精神的にいい。
そして、あいつは運動より、読書が好きそうだ。だから、本を読む時に邪魔になるであろう前髪を留められるピンのがヘアゴムよりも気に入ると思う。あいつはヘアゴムは付けようとしないからな。このヘアピンさえあれば前からも後ろからも十六番目だということがわかるようになる。
「ずるい!」
藍が風船みたいに頬をふくらませる。
「バカ。お前はその分、好きなの選ばせてやってるだろ」
「だーけーどー!」
「じゃあ、今日の晩飯も選ばせてやる」
「藍、ハンバーグがいい!」
「いいだろう。じゃあ、今日は藍も手伝えよ」
「うん!」
藍は笑顔で元気よく頷いた。
あまりに表情の切り替えが素早くて、思わず俺の頬も緩む。
「絶対だからね!」
「もちろんだ」
「ふふん。ハンバーグ、ハンバーグー。目玉焼きものせようね」
こういう感情が素直に出るところはすごく無邪気でかわいい。
とりあえず明日のこともあるので他の妹の分もヘアゴムを買っておくことにしよう。
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