第9話 妹、変異する6

 夜、九時過ぎのことだった。

 俺はどうにも落ち着かなくなって押入れに仕舞っていた望遠鏡を取り出した。

 中学生の頃、自分だけの望遠鏡が欲しくなって小遣いをためて買ったものだ。天文部にあったどの望遠鏡よりも安いけど、俺にとっては宝物だ。

 うちには二階に庭に向かって突き出したベランダがある。けれど、ベランダから夜空を眺めることはあまりない。周りが明るすぎてよく星が見えないからだ。

 星が見たいときは望遠鏡を担いで自転車で近くにある小高い山に行く。こっちは住宅街から少し離れていてコンビニすらないような場所だから、その分星の光が際立つ。

 今日はどうしようか、と、空を見れば半月が真っ暗な天上に輝いていた。たまにはここで月見も悪くない。俺はベランダで望遠鏡と三脚を組み立てた。月を見る程度なら家のベランダでも十分だろう。

 下の階では藍たちが騒いでいるのが聞こえる。そろそろ室内でひと通り遊びつくしたから、動き回りたくてうずうずしているのだろう。入ったばかりの陸上部が恋しいと言っていたような気がする。陸上部は顧問先生が厳しいことで有名だったが、全身が元気の塊みたいな藍とは相性がいいらしい。

 望遠鏡の上についた小望遠鏡(ファインダー)を覗いては微調整を繰り返す。これで見えるのは実際に見えるものが逆さまになった倒立像だ。最初は動かしたのとは逆に動くせいで調整には随分と苦労させられた。けれど、もう今では慣れたものですぐに視界の真ん中に月を収めることができる。

 黒と白の境目が、表面の凸凹が、目の覚めるような輝きがよく見える。

 後ろから物音がした。俺が振り返ればそいつはさっと身を隠す。

「来いよ」

 おずおずと十六番目がベランダへと上がってきた。

 俺にはそいつが怯えているように見えた。

 当たり前か。俺が死刑宣告にも等しいことを言ったばっかりに招いたことだ。それから俺は藍たちの面倒は父と母に任せて、ずっと藍たちについて考えていた。

 特に十六番目。こいつはやっぱり他の藍とは違う。こいつは他の藍よりずっと賢い。だから、危機感も持つし、俺の情けなさに苛立ったりもする。怒りを無表情や造り物の笑顔の下に隠していることだって一度や二度ではなかったはずだ。

「お前も見てみるか?」

「いいんですか?」

「駄目なら言わないだろ」

 十六番目が望遠鏡を覗きこむ。

「ふうん」

「藍は天体観測に興味がなかった。十六番目、お前はどうだ?」

「たまに見る分には悪くないかもしれませんね」

 十六番目は正直だった。嘘でも興味が沸いたといっておけば好感度が上がるということくらい頭のいいこいつならすぐにわかりそうなのに、あえてこいつは俺に正面から向かってきた。どこまでも生意気なやつだ。

「でも、私は自分で何かをする方が好きみたいです。頭や体を使っている方が性にあっている気がします。ただ見ているだけ、というのは退屈です」

「じゃあ、今日は何をしていたんだ」

 小さな手が髪をかき上げ、望遠鏡から顔が遠ざかる。ぎゅっと唇を引き結んだかと思うと十六番目は吐き出すように言った。

「考えてました。私は一体何ができるか。何をすべきなのか。ずっと」

 十六番目は藍とは違うところも多い。物静かで、計算高くて、口を開けば毒舌。どっちかというと母親より父親似の性格をしている。頭の回転が速かったり、記憶力が特別いいのも父さんそっくりだ。

 もしかすると、藍はこういう風な性格で生まれてきた可能性があったのかもしれない。俺は今、その可能性を目の当たりにしているというわけだ。

「怖くないのか?」

「怖い? 私が? どうして?」

「自分の身に訳の分からないことが起こってたら不安になるもんだろ」

「なるほど。確かに普通はそうかもしれませんね。けど、私は色んな意味で特別ですから」

 十六番目が不敵に笑った。

「自分より優秀な妹を持つというのは思ったより大変だな」

「ごめんなさい、というべきでしょうか」

「謝らなくていい。ただの嫉妬だ」

 十六番目が望遠鏡から顔を上げる。俺は視線を月の方に逸らした。

「いいえ、私が悪いんです。自分のことなら言葉にするより早く兄さんはわかってくれると、花村藍の記憶から思ってしまった。花村藍の知っていた兄さんは完璧超人みたいなものでしたから」

「買いかぶりだ」

「私も今ならそう思います。けど、昔はそうだったんです。私に出来ないことを兄さんはいつも教えてくれた。宿題はもちろん、泳ぎ方や料理や他にもいろんなことを兄さんには教わりました。ふたりだけでお婆さんの家に行ったときのことを覚えていますか?」

「あのときは大変だった。藍が切符を落として、駅員に謝り倒したな」

「私はめそめそ泣くことしかできませんでした」

「まだ小さかったから仕方ないだろ」

「カッコ良かったですよ。他にもたくさん助けられたことがありましたね」

 十六番目が語るのは俺と藍の思い出だ。それをひとつひとつ丁寧に巡っていく。思い返してみればいつも藍は何かやらかしていた。

 笑えるようなこと。少し悲しいこと。今でも忘れられない辛い思い出。初めての挑戦に一喜一憂したあの日。もう戻れない過去はどれも美しく、しかし、色あせているように思えた。そこに花村藍はいても、十六番目はいないのだ。

「私は、花村藍はみんな全部ひとりで解決できる兄さんを求めてしまう。期待されることの大変さを知らなかった。いや、もっと酷いのかもしれませんね。私は私が成長しても、誰より頼もしいあなたでいて欲しかった。こうならなくてもいずれは兄さんもただの人間だと気づく時が来るでしょうにね。だから、ずっと独り善がりだったんです」

「それも今日と明日で終わる」

「兄さん……」

 喉から絞り出したようなかすれ声で十六番目の藍がささやく。

「でも、今は寂しいとも思う。俺にとっては何番目であろうと藍は全部妹なんだ。ひとりに戻って欲しいと言ったけど、いざ本当にそうなるんだと思ったら寂しくてたまらない。七番目と買い物に行ったり、十六番目とこうやって空を見たり。この思い出が俺の中に残っても藍がひとつに戻ってしまったら、他の藍は消えてしまう。一体、残るのはどの藍なんだろうな」

「どの藍でもありません。強いて言うなら全ての藍です。ひとりの花村藍が私たちに別れたように、私たちがひとりの藍になるだけです」

 よどみなく十六番目の藍は言った。

「それは、理想的だな」

 冗談みたいなことから始まって、本当に冗談でしたという風に終わるのならどんなに幸せなんだろう。

 けれど、今の俺にはそれほど幸せな結末には思えないのかもしれない。

 もとに戻った藍は全てを覚えていて、でも、やっぱり元の藍の性格で、なら、十六番目や他の藍は消えたのと同じじゃないのか。本当は全部の藍に生き続けていて欲しい。

 そんなことを真剣に考える俺は多分どうしようもないくらいのシスコンなんだろう。

「兄さんは月が好きなんですか」

 湿った空気を察した十六番目が尋ねた。

「まあ、それなりだな。一等星や星雲を見るのと同じくらいには好きだ。けど、一番見たいのはもっと別の星だ」

「別の星?」

 俺は地面を指さした。

「地球だよ。昔、地球は青かったって言った宇宙飛行士がいただろ。俺は彼と同じように宇宙から地球を見てみたい。青く、美しいと聞いた。実際に写真でも見たことはあるけどできるならこの目で見たい。だから、しょうがなく月を見てる。月にでも住めば地球が毎日見られるから楽しそうだ、なんて考えてな」

「なかなかロマンチストなんですね」

「なら、十六番目はリアリストの方を担当してくれ。一日中考えたんだろ。その結果、解決策は見つかったのか?」

「いえ、それがですね」

 腕を組んで眉を寄せる。顔の傾きは四十五度。父が考えこむ時と同じポーズだった。

 それを見て少しだけ顔が緩む。

「やっぱりお前は俺の妹だよ」

 パーカーのポケットを探るとまだあった。

「少しじっとしてろ」

 こっちを見つめる十六番目の藍が少しだけ体をこわばらせる。その十六番目の前髪にヘアピンを挟んでやった。モチーフは今日の月と同じ、上弦の月。隠されてた額が少しだけ月明かりにさらされて白くなっている。

 十六番目の藍は確認するようにさわさわとヘアピンを撫でていた。

「これは?」

「昨日、買ってきたんだ。十六番目は後ろをくくるより、こっちの方が似合うと思ってな」

「ありがとうございます」

 藍が意味ありげに微笑む。その笑顔はどの藍とも違うくらいに憎たらしくて生意気で、でも、そこにはきちんと俺に対する感情がこもっている気がした。

 俺たちは月が沈むまでずっと空を見上げていた。

 上弦の月が沈むのはシンデレラの魔法が解ける時間と同じ、真夜中の十二時。その先には月の光を失った真っ暗な世界が待っている。

「藍」

「何ですか」

「藍を頼む」

「変な感じです。私も藍なのに」

 ふふ、と藍が柔らかに笑う。

「あとお前も元気でな」

「兄さんこそ」

 十六番目が怖いテレビ番組を見た時の藍がそうしたように俺にぴったりと身を寄せて、体重を預けてきた。じんわりと暖かさが伝わる。

 いつも頼ってくれる妹が、笑顔を振りまいてバカをやってる妹がもうすぐいなくなる。いなくなると聞かされて、俺は自分の中で藍が占める場所の大きさに初めて気づいた。あいつはきっと無自覚に俺を支えてくれていた。俺は藍がいたから頑張ってこられた。

 そんな生活も一旦終わり。

 もうすぐ、藍のいない日々が始まる。

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