妹、進化する

第10話 妹、進化する1

 仕事で忙しい両親はあまり家にいることはなく、ほとんどが家を空けていたために俺と藍はずっと一緒だった。だから、俺は家事を覚えた。たった三年の歳の差だけで俺は藍の面倒を見てやらなければ、という使命感に駆られていた。炊事、洗濯、掃除、それなりに器用だった俺は全てそつなくこなした。

 俺が中学に入った頃だった。自室で漫画を読んでいると台所から小さな悲鳴が聞こえた。台所に駆けつけると割れたように不格好にカットされたじゃがいもと左手の人差し指からどくどくと血を流す藍がいた。

「何してるんだ!」

 俺は藍を叱りつけた。

 この時、藍は小学四年生。包丁なんて持たせたことはなかった。料理させようとも考えたことがない。洗濯物の取り込みくらいは手伝ってもらうこともあった。しかし、藍は俺よりもアウトドア系で男子に混じって暗くなるまで遊ぶこともよくあった。だから、既に取り込み終わった後のことが大半だった。

「お兄ちゃんの手伝いがしたかったのに」

 久しぶりに泣かれてしまって酷く慌てることになった。あの時に言われたことは今もまだ忘れられそうにない。

 多分、遊んで帰ってくる頃には残っている家事なんて料理くらいだからやろうとしたんだろう。そんな藍の思いをどうして無視できるというのだ。

 仕方なく俺は藍に料理を手伝わせた。多分、すごくむすっとした顔をしていたと思う。俺の変わり様に泣きながら笑う藍だったが、絆創膏でがんじがらめにされた指先ではろくろく料理も出来ない。とりあえず、皮むき器(ピーラー)で皮むきだけやらせて、それも上手く出来なくて、七時に準備を始めた晩御飯が九時を回ってからになった。

 このときから、藍はただの保護対象とは違う存在になった。ひとりの人間として、家族として、俺たちは共に過ごしてきた。

 一週間後には朝食は藍が、晩飯は俺が担当するようになった。他にも洗濯は俺、ゴミ出しは藍などと家事は藍の成長と共にどんどんと分担されていった。休みの日にも一緒に買い出しに行き、たまに映画や遊園地に遊びに行く。

 今では藍も中学に入って部活を始めて、でも、家事もしっかりとこなす。どこか抜けたところはあれどもしっかりとした子に育っていた。

 ふたりだけ過ごした時間が長いせいもあってか、俺たち兄妹は普通の兄妹よりも少し仲がいい気がする。



 肺の辺りに溜まった憂鬱を二酸化炭素に乗せて吐き出す。けれど、そんなことでは気だるさは一向になくならない。むしろ、より酷くなっているようにさえ感じる。

「おっきなため息」

 制服にエプロン姿の弥子姉がハンバーグの載った皿を両手にキッチンから出てきた。これが今日の晩御飯らしい。

 藍が行ってしまってからというもの何かにつけて弥子姉がうちにやってくるようになっていた。多分、俺のことが心配なんだろう。それくらい今の俺は不安定に見えるらしい。

「また藍ちゃんのことでも考えてたの?」

 湯気の立つプレートが俺の目の前に置かれる。肉の香ばしい匂いが鼻の奥をくすぐった。一口噛めばジューシーな肉汁が溢れてくるだろう。なのに、どうにも食欲がわかない。

「まあな」

「藍ちゃんが行ってからもう一週間近くになるね」

「そうか。まだ一週間だったか」

 指折り数えてみれば本当にたった一週間しか経っていなくて驚いた。もっと長かった気がする。もう何ヶ月も藍に会ってない気分だ。

 いなくなって最初の頃はゆっくりできると安心したものだった。しかし、二、三日も藍の顔を見ていないと無性に落ち着かなくなった。もう今ではほとんど何も手に付かない。

 あいつは元気でやってるのだろうか。実験は上手くいってるのだろうか。ちゃんと緑色の野菜も食べてバランスのいい食生活を送れているのか。自分も付いて行ってやるべきではなかったのか。

 大事なことからどうでもいいことまで、ついつい考えてしまう。そういうのは全部大人に任せたはずだったのにどうして俺はこんなにも悩んでいるんだろう。

「元気にしてるかなあ」

「あの藍が元気じゃないところなんて想像できないな」

「確かに。いつも走り回ってるような子だもんね」」

 ハンバーグを切って、フォークで刺して、それから口に運ぼうとするが固まったように手が動かない。つい藍のことを考えてしまう。

 今度は弥子姉がため息をつく番だった。

「本当、重症だよね。葵ちゃんのシスコン」

「普通だろ、藍は血を分けた妹だぞ」

「それでも葵ちゃんは行き過ぎ。普通の兄と妹はほぼ毎週に一緒に遊びに行かないし、専用の着メロ設定しないし、ふたりで女性向け下着売り場に入ったりしないよ」

「え、いや、嘘。そんなことないって。弥子姉はひとりっ子だから、わからないだけだ」

 週末に出かけるのは買い出しもあるし、着メロはわからないと不便だからだ。下着も胸が大きくなってブラを買わないといけなくなったが、今まで付けたことのない藍ひとりに買いに行かせるのが不安だったからしょうがない。全部ちゃんとした理由がある。

 そう説明しても弥子姉は呆れた表情のままだった。

「何でもいいけど、ちょっとそばを離れたくらいで大げさ過ぎるよ。これを機にもうちょっと他のことにも目を向けてみよう。ね? いつかは大人になって藍ちゃんとは離れて生活するかもしれないんだし」

「そんなのずっと先の話だと思ってたんだけどな」

 思えば、こんなにも長い間藍と離れ離れになっていたのは初めてのことなんじゃないだろうか。中学のときの修学旅行だって二泊三日だったし。

「ほら、早くご飯食べようよ。今日のは自信作なんだから」

「ごめん、弥子姉。やっぱり俺、後で食べるよ」

「そ、そんなこと言って昨日も全然食べなかったじゃない。ちょっとだけでいいから。そうじゃないと葵ちゃんが倒れちゃうよ」

「いや、今はお腹が空いてないから」

「そっか……。じゃあ、お腹が空くまで星でも見に行こうよ。葵ちゃん最近、天体観測にも行ってないでしょ」

 学校には復帰していたが今の俺は何部にも所属していない。

 高校に天文部がなかったから、どこかに所属するきっかけをつかめずにいた。代わりに、晴れた夜にひとりで星を見るのが習慣になっていたのだが、藍が出て行って以来望遠鏡に触ってすらいなかった。

「えーと、オリオン座とか。あの人さそりとか倒したし、かっこいいでしょ」

「オリオン座は今の季節は見えないよ」

「え、そんなー、私、オリオン座しかわかんない。……あ、じゃあ、月を見よう。月なら季節は関係ないでしょ」

 弥子姉が勢い良くカーテンを開ける。

 窓の外では大輪の満月が夜の空に花を咲かせていた。

「ほら、満月だよ。綺麗だから見ようよ」

「そうか。そうだよな。一週間あれば月も満ちる、か」

 十六番目と見た半月も日々変わっている。上弦だった月も太って今日は真ん丸だ。

 きっと弥子姉の言う通り、俺と藍もいつまでも昔のような関係ではいられない。月が日々形を変えるように俺たち兄妹だって、いずれは変わってしまうときがくる。それがたまたま俺の予想よりも早かった。それだけだ。

「いや、天体観測はいい」

「え」

「食べよう。せっかく弥子姉が作ってくれたんだ。冷める前に食べないと勿体ない」

 ハンバーグをひと口放り込んだ。いつものハンバーグとは違う味だが、悪くない。

 俺は俺のやれることをやる。妹を投げ渡した俺に出来るのは身の丈にあったことまでだ。その先にたどり着くには一歩ずつ進んでいくしかない。妹を想うことが兄の役目ならば、今できることを全力でしようじゃないか。

 とにかく今は弥子姉を安心させることが正解だと思う。

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