十六番目のエピローグ
第26話 十六番目のエピローグ
外気温三十三度。真夏日だ。
外でミンミンゼミが鳴いている。エアコンの効いた室内に熱気は入り込まないけれど、やかましい鳴き声を聞くと本格的に夏なんだなと感じる。乱雑に積んだ本や資料が部屋を圧迫しているせいで暑苦しく見えるせいもあるかもしれない。
「君はミトコンドリア・イヴというのを知っているかね」
対面に座っていた白髪の老人が言った。彼に花村藍に対する恐怖や敵意はない。私の研究室を見ても片付けとは言わなかったし、珍しい人種だ。
基本的に私たちは人間との仲があまりよろしくない。
この老人のように親しく接するような仲になる人間も中にはいる。元々、藍は明るくて人懐っこい性格の人間だった。分裂しなければ、多くの人に好かれていたことだろう。私だって話の合う人間のひとりやふたりはいる。
しかし、問題は国際的な扱いというか、政治上の関係だ。
私は政府の人間と話していると、まだひとりだった頃に遊んだとあるゲームのラスボスを思い出す。姉さんに借りた古いゲームだ。魔物たちの王であるラスボスはプレイヤーの分身である勇者に味方となれば世界の半分をくれてやると提案する。勇者が断れば戦いに、反対に提案を受け入れるとそこでゲームオーバーとなってしまう。
花村藍とはまるでそのラスボスのような存在なのではないかと私は思う。
世界を侵略し、生活を脅かす人類の敵。そんなものが持ちかけた提案が領土の分割だ。結局、花村藍は誰かの故郷を奪う形で大きな国を造っている。毎日数千の藍が変異しているとはいえ、分裂の脅威もまだ残っているし、私たちがその気になればまた戦争だ。
そんな魔物をどう扱えばいいのかなんて誰にもわからない。わからないから、お互いに言葉を重ねて、少しずつわかりあっていくしかないのだ。
アイスコーヒーに口を付けながら、私はミトコンドリア・イブについて答える。
「人類の共通先祖であるラッキー・マザーのことでしょう」
エネルギーの変換を司るミトコンドリアは母親のDNAを受け継ぐ性質があり、父親から受け継がれることはない。故にミトコンドリアのDNAを調べれば母親を特定することができる。いくつも前の世代まで遡れば、すべての人類はあるひとりの女性にたどり着く。これが人類共通の女性祖先、ミトコンドリア・イヴ。
この言葉には人類がひとりの女性から始まったというロマンチックな誤解がつきまとう。
しかし、同世代には他にも女性はいて、彼らはおそらく男子を産んでいたはずだ。でなければ、ミトコンドリア・イブのパートナーはどこからやってきたのか、ということになってしまう。だから、ミトコンドリア・イヴは女系をずっと続けられた幸運な母親(ラッキー・マザー)と言い換える動きがある。
「人類史的には面白い題材ですよね」
「良かった。そこまで理解しているなら、話が早い。我々はDNAを研究していてね。どういった人間が、どういった性質を持ち、どういった塩基配列を有するかにとても関心がある。もちろん、君たち花村藍も同じだ」
「ほう、私の遺伝子は美形でしたか?」
「実に美しかったよ。口説き落としたくなるほどにね」
芝居がかった口調で老人が言った。
「ただ、その前に親御さんに挨拶がしたい。花村藍・イヴ。君たち風に言うなら、一番目か。進化生物学的にミトコンドリア・イヴは重要ではなかったが、花村藍・イヴはどうだろう。最初の花村藍がどんな風に構成されているのか、私はとても興味深く思っている」
私は少しだけ首を傾けて、腕を組んだ。
老人の考える通り、一番目はまだ花村藍としては未完成で特徴的な遺伝子を持っているかもしれない。花村藍は私の代で最初の女王が生まれた。それ以前の一番から八番はまだ人間から変異する途中。であれば、一番目を調べることができれば、どのようにして人間が花村藍的な生物へと変貌したかのきっかけをつかめるかもしれない。
だが、その前に考えることがある。
「面白い発想です。私としては、人間と花村藍は本質的に差はないと思います。変化の割合としては人とチンパンジーより小さいくらい。姿かたちが同じですし、もしも心や魂というものが見えるならそれも大差はないかもしれません。ふたつの差を調査することは決して無駄ではないでしょう。今後、人類がどのように変わっていくかの筋道が立つので」
私は口の中でコーヒーを転がした。
砂糖とミルク、ひとつずつじゃまだ苦い。
「しかし、難しいでしょうね」
「それは何故かな?」
「花村藍の中身を調べることが難しいという意味ではないですよ。一番目を探すのが難しいと私は言っているんです」
「番号があるのではないか」
「初期に兄さんが付けた数字によるラベルは誕生した順番通りではありません。多分、私は自然変異しているので一番ではないでしょう。ですが、変異装置で違う個体になった花村藍や分裂可能状態にある一から十五番目の花村藍はすべて花村藍・イヴの可能性があります。しかも、爆発事件のときに散り散りになってますし」
「データを取っていなかったのかい?」
「初期の資料はほとんどありませんよ。最初は高校生ふたりと私たちだけでしたからね。詳細に記録している余裕はありませんでした」
その頃を思い返すととても懐かしい気持ちになる。兄さんとケンカしたり、食べ物や衣服に困ったりもしたが、今となってはいい思い出だ。
老人が大げさに肩を落として落胆した。
「つまり、十六番目という数字には君を示す以上の意味はないのかね。それが一番や二番も同じで、数など便宜上のものでしかないと?」
「仰る通りです。もっとも、今ではそんな番号すらなくなりつつありますけれど」
議論は白熱し、数時間続いた。
研究所を出るともう兄さんが待っていた。難しい顔をしてスーツケースの周りをぐるぐると回っている。ついに暑さで頭がやられたのだろうか。
「お、話は終わったか」
「ええ、ひとまず」
「あの爺さんは誰だったんだ」
「有名な大学の教授です。進化生物学の専門家で、アメリカの花村藍対策部の顧問。今後も調査を続けるそうなので、また会うこともあるでしょう」
「そんな人が来てたのか」
「研究に協力するのが私の仕事ですからね」
「ただの爺さんに見えたけど、人は見かけによらないな」
兄さんがシャツの袖で額をぬぐった。しかし、もう服は汗だくで、絞れば水がコップいっぱいはしたたりそうだった。
「ちょっとじっとしていて下さい」
私はハンカチを持った手を伸ばして兄さんの額を拭いた。
一瞬で染みが広がる。
「私が来るまで中で待っていれば良かったのに」
「いや、落ち着かなくてさ。家に帰るの久しぶりだろ」
私たちが人間と共に生きることを決めてから、最初の夏。
まだ分裂してしまう花村藍たちはともかく、女王個体はもうそれぞれの道を歩み始めた。
訳あって四国につながる橋を全部落としたあの子なんかは毎日済まなそうに工事を手伝っているというし、意地っ張りなあいつは女王の上位個体として他の藍のまとめ役をやっている。私は研究と政治的な交渉が主な仕事。まだまだ復興も分裂も終わらない。
そういう次第だから、花村藍を探して世界中を巡っていた兄さんと研究所に缶詰だった私が一緒に一週間も休みが取れたのは奇跡に近かった。
「帰っても忙しいですよ。きっと皆、兄さんにお願いを聞いて貰いたくてうずうずしてます。兄さんはずっといろんなところに行ってましたからね」
「そうだな」
「今日の晩御飯は兄さんの手作りオムライスにしましょう」
「ああ」
「姉妹へのお土産も用意しとかないとダメですね」
「うん」
聞こえてないな、と思った。
少し面白くなくて、上の空な兄さんの体を揺さぶる。
「やめろ」
「どうしたんですか。さっきから上の空ですけど」
「さっき弥子姉に電話したら、怒ってたんだ」
「まだ帰るって言ってなかったんですか」
兄さんが小さくなって頷く。
「泣きながら怒ってた。向こうについたら話があるって言われてさ。俺、完全に弥子姉に告白されてたの忘れた。もうどうしたらいいかわからない」
暑いのかと思ったら冷や汗だったか。
いくらなんでもそんな大事なことを忘れるわけがない。兄さんがヘタレっぷりを発揮して、逃げ回っていただけに決まっている。
「なあ、弥子姉になんて言えばいいと思う?」
「知りませんよ。連絡もなしに何ヶ月も放置した兄さんが考えることでしょう」
「ああ、どうして藍のことが片付いたら答えるって言っちゃったんだ……」
答えなんてイエスかノーしかないというのに、また頭を抱えて唸りだす。私を臨時政府まで連れてきた人物とはまるで別人だ。あの時、かつてないほど頼もしく見えた兄さんとは月とすっぽん。幼なじみとの恋愛で妹に助言を求める姿など見たくはなかった。一体、あの頼もしかった兄さんはどこに行ってしまったのだろう。
「なあ、どう思う」
「好きなんですか」
「どうなんだろう」
「好きじゃないんですね」
「そういうわけじゃない」
「どっちですか」
「どっちだろう」
「もう好きにして下さい」
「そんな」
再び兄さんは頭を抱えて唸りだす。
そうしているうちに、迎えの車がやってきた。濃緑色の軍用車だった。これから私たちは国境を越えて、花村藍の国へと向かう。
「十六番目」
以前と変わらない呼び方にため息を吐いた。
「そうじゃないでしょう。せっかく決めたのに今更それはないです。いつまでもそんな調子なら兄さんがどうにかする前に弥子姉さんに愛想尽かされますよ」
「悪い」
そして、兄さんは私を新しい名前で呼んだ。
了
妹、分裂する 竜田スペア @kuraudo
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