第13話 妹、進化する4

 俺の危惧はついに現実のものとなった。

 藍の存在が世間に知れ渡ったのである。

 分裂のことは触れられなかったが、見つけたら最寄りの警察に連絡するようにとの通達が回ってきた。研究施設で撒き散らされていたのは有害物質ではなく、未知の病原菌ということになっていて藍はその感染者なのだそうだ。いまや国民的アイドルよりテレビに出ずっぱりの藍は重大な犯罪の指名手配犯のようだった。反吐が出る。

 ネット上でもで藍が目撃されたという情報が出始めた。最初に発見されたのは研究所のあったS県だった。けれど、次はそこから遠く離れた場所で、その次もまた別の遥か彼方の場所という風に藍はどこにでも現れているようだった。

 一番ひやひやしたのは群れているところを発見したという話だ。そのせいでネット上ではクローン研究説はより一層強く支持されている。

 しかし、俺が一番気になる情報はどこにもない。保護された藍がどのような扱いを受けているかはテレビやネット、その他のあらゆるメディアにも載っていなかった。

 目撃情報が湯水のように湧き出ている中、特に俺の住む町ではよく藍が目撃されている。帰巣本能ではないだろうが、藍が家に帰ろうとする気持ちはよくわかる。俺も出来ることなら手助けしてやりたいのだが……。

「待て! 食い逃げだ!」

 学校帰りの俺が目撃したのは全国チェーンの牛丼屋から汚れた格好で走り去っていく藍の姿だった。その後ろに店員らしき制服の男が続いている。

 藍は食後だろうにかなりの速度で走っているが、成人男性であろう店員が追いつくのも時間の問題だと思えた。昼下がりの商店街は人通りがまばらで小さな藍が有利になりそうなほどの人混みはない。

 俺はそのふたりの間に体を割りこませた。

「ちょっと待って下さい」

「なんだ、あんたは」

 店員の男はあからさまに不機嫌な様子を隠そうともしない。つつけば爆発しそうな形相だ。

「あの子の兄です。代金なら俺が払います」

「何、兄妹なの。まあ、払ってくれるんなら別にいいけど」

 店員が俺に手にしていた伝票を押し付ける。

 あいつ特盛りに豚汁、生卵までつけたのかよ。それでも、価格としては良心的なものだ。流石に全国チェーンとして展開しているだけのことはある。

 俺はいそいそと財布を取り出した。

「あれって今テレビでやってる子じゃないの。ほら、なんとかっていう病原菌の」

「いやだな。そんなわけないじゃないですか。似てるからよく間違われて困るんですよね」

「ふうん、あんたも大変だね」

 全くそう思っていないとわかる口調で男は言った。

 財布を漁っていた手が止まる。よくよく中身を見れば牛丼一杯分のお金も入っていなかった。そういえば、最近は増えた藍のせいで何かと入用だったっけ……。

「どうしたの、早く払ってよ」

 背中に冷や汗が流れるのを感じた。ああ、この世には神はいないのか。

「あれ、葵ちゃんじゃない。こんなところで何やってるの?」

 振り返ると俺の背後に弥子姉が立っていた。

 良かった。この世に神はいなくとも、幼なじみはいるらしい。



「いやー、助かったよ。弥子姉」

「それはさっきも聞いた。もう、しっかりお金は確認しておかないと駄目だよ。だいたい五百円も持ってないってどういうこと?」

 弥子姉がふぐみたいに頬を膨らませる。俺はどう言い訳したものかと頭を掻く。

 気乗りはしないが、もっとこの幼なじみ様を拝み倒さなければいけない事情がある。今の俺の懐事情では数日で増えに増えた藍の食費すらまかなえない。もういっそ恥を上塗りして無理やり誤魔化す方が良いか。

「ついでにいうのも悪いんだけど少しお金を貸してくれないかな。二千、いや、千円でいい」

「下ろすの忘れたの?」

 弥子姉の流し目が突き刺さる。

「そ、そうなんだよ。もう郵便局も閉まってるし、俺は銀行には預けてないからさ」

「……何に使うつもりよ?」

「ほら、晩御飯とか」

「それなら私が作ってあげるじゃない」

 弥子姉の手にはスーパーの袋が握られていて長ネギが首を出している。最初から俺の晩御飯を作ってくれるつもりだったようだ。

「ほかにも少し、えーと、いろいろ買うものがあってだな」

「怪しい……」

 自分でも目が泳ぐのがわかった。

「何か隠してない?」

「ないない」

「もしかして藍ちゃんを匿ってたりとかしない?」

「あ、あるわけないだろう」

「別にいいけど。匿ってるならちゃんと警察に言うんだよ。前と違って今ならちゃんと話を聞いてくれるはずなんだから。増えた藍ちゃんをそのままにしておいたら大変なことになるのは私たちが一番よく知ってるでしょ」

 うんうん、と頷いてみせるも弥子姉はまだ俺を疑っているようだった。その証拠に探るような視線が俺から離れない。どうしてそう思うのかと聞いてみると弥子姉もこの辺りで藍の目撃情報があるのを知っていた。

 決定的だったのが帰宅したときだ。

 弥子姉は俺が家の鍵を開けるなり、買ってきたものをこっちに押し付けた。

「中をチェックするから、大人しくしてなさい」

 弥子姉が家のドアへと手をかける。とっさにその手をつかんだ。

 スーパーの袋が地面に落ちて、中身が玄関に転がった。

 不満そうな目が俺に向けられる。

「何? この手?」

「ちょっと待ってくれ」

「ふうん、やっぱり。藍ちゃんがいるんだね?」

「そんわけないだろ」

「じゃあ、私が入っても問題ないよね」

 弥子姉がにっこりと俺に微笑んだ。顔は笑っているのに、何故か背筋が冷たくなるような表情だった。あまりの迫力につい頷いてしまう。

「葵ちゃんは台所でコーヒーでも入れて待ってること。分かった?」

 俺は天に祈りながら、手を離した。

 それから弥子姉はひとつひとつ部屋を周り、一階の部屋を総当りにして、二階へと向かった。心臓をバクバクさせながらふたり分のコーヒーを淹れていると上からどたばたと音が聞こえてくる。しばらくして弥子姉が戻ってきた。

「いなかった」

 むす、とした顔で弥子姉はコーヒーを受け取って俺の向かいに座る。

「……だからそう言っただろ」

「あれは間違いなく嘘をついてる顔だと思ったんだけどなあ」

 流石、弥子姉。ぽやぽやしているように見えて意外と鋭い。これも長年に渡る幼なじみ歴のなせる技か。しかし、残念ながら藍は別の場所にいる。だから、どれだけうちの中を探したって無駄なのだ。

「弥子姉、レシート出して。今日のご飯代も今度払うよ」

「んー、いいよいいよ。私も食べるし」

「けど、ここんとこ二日に一回はこうやってご飯作りに来てくれるだろ。結構お金かかるんじゃないか」

 しかし、弥子姉はお金ない人は黙っておけばいいの、と笑う。

「今は葵ちゃんも大変でしょ?」

「弥子姉、俺はそこまでして貰わなくても大丈夫だよ」

「葵ちゃん……?」

 もう十分弥子姉に助けて貰った。だから、弥子姉は自分のために行動すべきだと思う。俺のような妹にしか構ってやれないような奴と一緒にいては変な噂も立つだろう。

 それに弥子姉がいるといつか藍が見つかってしまいそうで怖いのだ。そしたら、やっぱりまた警察に行こうと言うに違いない。それは困る。

 俺はできるだけ真剣な顔で弥子姉を見た。

「藍がいなくて塞ぎこんでたこともあったけど、もう立ち直れたと思う。ご飯だって用意して貰わなくても自分で作れる。天体観測も最近は行くんだ。もうすぐ梅雨に入るからその前に春の大三角形を目に焼き付けておこうと思っ――」

「私、葵ちゃんのこと好き」

 話を遮って弥子姉は言った。

「好きなの。恋愛的な意味で」

「……え?」

 弥子姉が爆発した?

 いや、爆発したのは俺の頭か?

「落ち込んでるときは励ましてさあ。通い妻みたいなことやってさあ。好きじゃなかったらやってられないよねえ。ねえ、葵ちゃんもそう思わない?」

 弥子姉がすねた様子でコーヒーに口をつける。

 衝撃の告白に思考が停止している俺は何も言い返せない

「よく考えてみて。思春期の男女が一つ屋根の下にふたりきりなんだよ。なのに、一週間も何もないってどういうことよ。いくら幼なじみだからってそれはないでしょ。同人、じゃなくて、少女漫画みたいな展開とか期待したりしてたのに何もしない。手くらい握ってよ。少しくらいドキドキしてよ。私は一体なんなのよ。これじゃあ、帰ってお父さんとお母さんににやにやされるだけじゃない!」

 コーヒーを持っていない方の手がテーブルを力強く叩いた。テーブルに置いたままだった俺のカップがかたんと音を立てる。

「それが、何? 今度はもう来なくていい? ふざけんな!」

 一体、何故俺は怒られているんだ。

 とりあえず、謝るべきなのか。

 謝ったら謝ったで、フったことになるからちゃんとフォローを入れた方がいいなじゃないか。うん、そうだ。それがいい。謝って、フォロー、そして、現状維持。これだ。政治家が長きに渡って開発したといわれるぼんやりしてまるで具体性のない弁論術に身を任せて先延ばしにするんだ。それしかない。

「ご、ごめん」

「ねえ、そんなに私って魅力ないかな?」

 弥子姉は弱々しく笑う。

 いつもずっと年上に見えていた弥子姉が急に幼くか弱い少女のように見えた。胸が痛い。

「そんなことない! 弥子姉は美人だよ。いっつも俺を助けてくれるし、今日だってご飯作ってくれた。尊敬できる幼なじみだ。けど、俺は藍のことで手一杯なんだよ。ちょっと、今はそういうこと考えてる余裕ない」

「あーあ、せっかく、葵ちゃんを独り占めできると思ったのになあ。ここにいない藍ちゃんに負けるんだ」

「ちゃんと藍のことが決着したら考えるから」

「はー、わかってますよーだ。あー、苦あ。無理に飲むんじゃなかったわ」

 弥子姉がまた一段と顔をしかめる。

 俺はカップの中身が真っ黒なままだったのを思い出した。尊敬する幼なじみは普段ミルクと砂糖を山ほど入れるタイプだった。

 今日はどうして入れなかったんだろう。

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