第14話 妹、進化する5

 弥子姉が帰った後、望遠鏡をかついで家を出た。

 少し、雲が目立つが切れ間からは一等星が輝いているのが見える。この天気なら山から空を眺めるには十分だ。

 途中、二十四時間営業スーパーのに寄って弥子姉から借りた二千円で買えるだけの食料を買った。腹持ちの良さそうなものと飲料が中心だ。この時間に俺のような若者が買ってもおかしくないもの、というのも条件に含まれる。

 自転車のかごに袋を入れてペダルを漕ぐ。山の近くは住宅地どころか、コンビニすらないような僻地だ。あるものといえば送電塔くらいだから、夜間は誰ともすれ違ったことはない。

 目的地の山の中腹までは十分でたどり着いた。帰りは下りだから、もう少し短くなる。

 自転車を置いて少しだけ歩けばいつもの天体観測のポイントだ。山頂というのはおこがましいくらいにささやかだが、周りより一段高くなっている。そして、そこを過ぎて下った先には木々の生い茂る天然の森林があった。

「藍」

 俺は森の向こうへ呼びかけた。

 草木が動く音がする。風が葉を揺らすのとは違う音だ。

「お兄ちゃん」

「お腹すいた」

「ご飯」

「肉」

「サンドイッチー」

「めしー」

「うどんがいい」

「藍も。きつね」

 森からわらわらと無数の藍たちが顔を出す。お金ないからダンボールや新聞紙で作った上着をを身につけている。家にあったものを来ている者もいるが極少数だ。もうトレードマークのポニーテールすら輪ゴムで止めている状態だった。

「ちゃんと全員いるか」

 整列させようとするが、藍が多すぎて上手く数えられない。計算上、六十四人の藍がいなくてはいけないのだが、暗いのもあって数えるのは難しそうだ。

 俺は数えるのを諦めた。

「まあいい。ちゃんと全員いるとしよう。今日は藍たちに言いたいことがある。この中に町に降りた者はいるか?」

 藍たちが顔を見合わせる。

「降りた?」

「降りてない」

「降りてないはず」

「でも、増えたよね」

「増えたね」

「増えた増えた」

「新入りだ」

「変な髪だった」

「くるくる」

「ちょっと変だったかも?」

「笑い方、変だったね」

 ふむ。どうやら、山に保護していた藍が降りてきたのではなく、どこからともなくやってきた藍が牛丼屋に立ち寄ったらしい。

 放浪の旅で金銭を稼ぐ手段がないからやむを得ず食い逃げ、というところか。俺が見た時は結構まともな服装だったような気がするが、どこで手に入れたんだろう。

「じゃあ、その新入りはいるか」

 と、聞けば、藍たちは首を捻る。増えた藍は今はここにいないらしい。

 一時的に山を降りたのか、それともどこか別の場所へ旅立ったのか。もう旅立ったのなら、例の変な奴らに見つかっていなければいいが……。

「とりあえず、もう一度言っておく。藍たちはできるだけここから動くな。この町には藍が集まるのがバレている。黒い服の奴らに見つかったら連れて行かれるものと思え。飯は俺が調達する。ひもじい思いをさせてしまうが、これも藍のためなんだ。服の方も少しずつ――」

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 藍のひとりが俺の服の裾を引っ張った。

「なんだ。ちゃんと大人しく話を聞いてくれ」

「そうじゃなくて」

 なおも藍は力を込める。

「わかったわかった。後で遊んでやるから」

 そう言って押し戻そうとするが、何やら他の藍も様子がおかしい。なんだろう、と藍たちの見ている方へと視線をやった。

「……え?」

 そこには目を見開いて固まる弥子姉がいた。手に持った小さめの懐中電灯が地面を照らしている。

 終わった、と思った。

「野良藍ちゃんがこんなに……」

「弥子姉、どうして」

 あと、野良藍っていうネーミングはやめて。

「どうしてって、後を付けてきたのよ。葵ちゃんが妙にそわそわしてるんだもの。怪しいって思うに決まってるじゃない」

 そんな。誰にもばれないように細心の注意を払っていたはずなのに。

 やはり、弥子姉だけには隠し事は出来ないか。

 弥子姉が駆け寄ってきて、藍たちの方にライトを当てる。その数が予想を遥かに上回っていたのか、一瞬、目を見開く。そして、俺の襟元につかみかかってきた。

「こんなに増やしてどうするのよ。さっさと警察呼ばないと」

「嫌だ」

「じゃあ、ずっとここに藍ちゃんを置いておくの? 犬や猫とは訳が違うんだよ」

「そういう訳にはいかないんだ」

「だって、もう私たちじゃどうにもできないじゃない。もう本当はお金だって底を付いてるんでしょ。だから、私にまで泣きついたのよ」

 流石、弥子姉。いい勘してる。

 もう正直、俺の所持金は限界だ。次に母さんが帰ってきたら小遣いの前借りも考えている。弥子姉に返せる目処なんて最初から立っていなかった。

「それに藍ちゃんだってこんな森に置き去りにされたら辛いよ。服だってないんでしょ。寝る時だってダンボール? 雨が降ったらどうするの? ずっとここにいても何か上手くいく?」

「わかっている。だけど、父さんか十六番目と連絡が取れるまではここを動かない」

「どうしてよ。もう大人に任せようって決めたじゃない!」

「藍は俺を、いや、家族を頼ってここまで戻ってきたんだ。だから、俺は藍を守る。俺にとってはいくらたくさんに分裂したって藍は藍だ。大切な妹なんだよ。他人なんかに藍を任せられない」

 弥子姉が固まった。

 それに藍を無理やり連れ去ったという黒い服の男というのも気にかかる。戻ってきた藍が言ったことが事実だとすれば、絶対に奴らに藍を渡してはいけない。

「……それ、本気で言ってるの?」

 瞳に戸惑いと悲しみが浮かんでいた。

「そっか。私は他人なんだ」

「ち、違う! 弥子姉のことじゃない!」

「じゃあ、なんで私に相談してくれなかったのよ!」

「それは」

「葵ちゃんにとって私ってなんなの? もう私、何もわからない。葵ちゃんの考えることもやってることも何もわからないよ」

 襟元にかかっていた力が抜けていく。弥子姉が顔を伏せた。

 こんなにもすれ違っていることが虚しくて、悲しくて、息が苦しい。

「私は二番目でもいいや、って思ってた。けど、それじゃあ駄目なのね」

「弥子姉……」

「一番には二種類あってね。ひとつは二番とか三番とすごく近い一番。たまに順位が入れ替わったりする、あんまりこだわらない感じの一番。もうひとつはどんなに二番が頑張っても追いつけない絶対の一番。ずーっと遠くに一番があるからもう他はどうでも良くなっちゃうんだよね。葵ちゃんにとって藍ちゃんはこっちの一番なんだ」

 伸ばしかけた手の甲に冷たいものが落ちてきた。俺の手はそのまま止まってしまう。

「しかも、葵ちゃんにとっての一番がひとりじゃなくなっちゃった……。もう、私どうやったら勝てるのかわかんないよ」

 弥子姉は俺を突き飛ばして元来た方へ走り出す。

 俺は呆然と小さくなっていく後ろ姿を見ていることしか出来なかった。体を脱力感が支配していて、動くのがつらい。動かない。だいたい追いかけてなんて言えばいいんだ。今の俺には弥子姉の恋心を受け止めることなんてできないんだぞ。

 藍たちが訳知り顔で去っていく弥子姉と俺を代わる代わる見ている。

 そのうちのひとりが俺の肩を優しく叩いた。

「どんまい」

「どんまいじゃないっての……」

 藍はちょっと困った顔になった。

 そんな藍を見ていると、ちょっとだけ気分が軽くなる。

「藍を守らなきゃって思ったんだ」

「知ってる。ありがとうっていつも思ってる」

「でも、全部上手く行かない。分裂も戻せないし、弥子姉には心配をかけるし、藍たちにもつらい思いをさせてる。本当、弥子姉の言う通りだ」

「そうなんだ」

「……俺は間違ってたのかな?」

 そう藍に尋ねると少しの間、うーんと唸っていたが、突然何か閃いたように顔を上げた。にへら、とあけっぴろげに笑う。

「よくわかんない!」

 うん、そんな気はしてた。

「よくわかんないけど、弥子姉とは仲直りはした方がいいよ」

「ああ、そうだな。これは藍が正しい」

「へへー」

 褒められたことでまた藍が笑う。

 うちの妹はたまに真理をつく。すごいやつだよ。

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