第21話 妹、繁栄する5
俺はいない方がいいんじゃないか。
そんな風に考えたことがある。
藍は人類とは決別し、人類も藍の喉元に刃を突きつけた。こんなにも近く似ているのにどちらかが果てるまで戦い続ける。ふたつのものは決してひとつにはなれない。
だが、藍には十三年間の人間だった時の記憶がある。弥子姉や友人、両親、そして、俺、実の兄である花村葵の記憶もある。いくら藍の性格が変わっても、たとえ、八十番目のように好戦的になったとしてもそれは変わらないはずだ。
その記憶が藍をためらわせる。
人類を滅ぼすということは、最終的には俺や弥子姉すらも消し去ってしまうということだ。そうでなくとも、俺たちが生きるには他の人間が必要となる。
ところかまわず、両者を助ける俺の存在が人間との生存戦争に待ったをかけていたりはしないだろうか。藍は俺を見るたびに記憶の中の情を意識させられる。
人間のまま藍に肩入れする優しさなど中途半端なお節介。そう髪を横にくくった藍も言っていた。
そして、俺の存在はついに藍同士すら争わせてしまった。
俺が争いの原因となるのなら、このまま雨に溶けて消え去ってしまえばいいのに、と思うのだ。
扉の開く音がした。誰かが屋上へと上がってきた。
雨の音に混じってこつこつと靴が地を叩いている。
俺は一台の車の下に身を滑りこませ、息を殺した。
こつこつ。
屋上には置き捨てられた車が百台近くもあった。もしかすると、八十番目とその配下が使用しているものかもしれない。何にせよ、今の俺にとっては好都合だ。
こつこつ。
これだけ、隠れる場所があればしばらくは大丈夫。
相手はどういうわけかひとりだけ、それも俺が屋上にいることすら知らないはず……。
こつこつこつこつ。
足音が近づく。
服が水を吸って冷たくなっていく。
こつこつ、こつこつ、こつこつこつこつ。
変な足音だ。たまに立ち止まっては歩き、立ち止まっては歩きを繰り返している。車の下を覗いているにしては短すぎるし、疲れたから休憩というわけでもないだろう。
まるで、何かリズムを刻んでいるようだ。……リズム?
こつこつ、こつこつ、こつこつこつこつ。
ずっと同じリズムを地面に刻みつけていた。それは何かを伝えようとしているように思えた。
俺はこれを知っている。俺と弥子姉しか知らない秘密の暗号。小さい頃、お互いが来たことを知らせるためにインターフォンを鳴らす回数を決めたんだ。
転がって、車の下から脱出した。
「弥子姉!」
しかし、そこに弥子姉はいない。
ただひとり小柄な女の子がいるだけだ。
その少女は背を向けて紺色の傘を差していた。ちょっと古びたスニーカー、見覚えはあるけれど記憶のそれよりはぼろぼろになった服。上着のポケットに手を入れ、うさぎみたいに跳ねていた彼女は俺の声に反応して足を止めた。
「あ……」
「抜けてますね。あっさり引っかかり過ぎですよ」
少女が振り返る。
言葉にならない感情が一気に押し寄せてくる。
「このリズムで弥子姉さんを呼び出したところを知っているのはあなた方ふたりだけではないでしょうに。あなたは妹の前でもそうやって姉さんを呼んだことがあるはずです。分裂開始から三日目にも花村藍の半分を連れて、姉さんの家に行ったのをもうお忘れですか。その時にインターフォンをこういう風に押したでしょう。相変わらず考えが浅い人です」
傘が少し持ち上がって顔が見えた。
「花村藍は同じ芸当ができる。そういうことも考えずに出てきたんでしょうね」
そいつは小馬鹿にしたように笑い、前髪を留めるヘアピンを撫でた。その半月のようなモチーフを見間違えるはずもない。
「藍!」
「はい。私があなたの愛すべき十六番目の妹です」
くすりともせず、藍は言った。この憎たらしい感じ。間違いない。
十六番目は近くに来ると、俺に雨がかからないように傘を高く上げた。俺は少ししゃがんで藍の小さな背中に腕を回した。強く強く抱きしめる。
「会いたかった」
「私もと答えたほうがいいですか?」
「なあ、藍」
「はい」
「聞きたいことがある」
「分裂を止める方法でしょうか?」
「ああ」
「それなら、ありませんでしたよ」
感情のこもらない淡々とした調子で藍が告げる。
「私たちすべてが元に戻れる方法もどこにもありません。私だって兄さんに会うのは方法が見つかってからが良かった。けど、ないものは仕方ないです。もう、無理」
「そんな……」
全身の力が抜ける。同時に貯めこんでいた疲れがいっぺんに襲ってきたような気がした。
もしかすると、俺は薄々気づいていたのかもしれない。もし、十六番目が全てを元に戻す方法を見つけていたならすぐにでも実行している。それが出来ていないということはまだ方法が見つかっていないか、あるいはそんなもの最初からなかっただけのこと。
けど、どこかにそんな夢があると信じていたかった。だから、俺は現実を見て見ぬ振りを続けて十六番目の藍を探していたんだ。
「は、はは。そうか、ないか」
ただただ乾いた笑いが漏れる。
一体、俺は何をしていたんだろう。たとえ、藍に会っても何も変わらない。一度見た夢を、かつての日々を、忘れられずに俺はずっと無駄な時間を過ごしていた。ただの自己満足で俺は藍を追い続けていただけだった。
心が麻痺したみたいに何も感じない。なのに、勝手に涙はぽろぽろ落ちる。止められない。ぬぐってもぬぐっても湧き出るように落ちてくる。
「けど、選ぶことは出来ます」
藍が言った。
「……選ぶ?」
「人類か花村藍か。ふたつにひとつ」
俺が問うと十六番目が人差し指を立てた。
「ひとつは花村藍を滅ぼすこと。分裂したのも分裂前のひとりもひっくるめて全部、抹殺。人類は危機を回避できるでしょう。もしかしたら数年後には姉さんと昔のような平和な日々に帰れるかもしれません。私が協力すれば、多分できるでしょう。最終的に私もいなくなるつもりですけどね」
次に中指を立てる。
「ふたつ目は花村藍を選ぶ道です。今度は逆に地上から人類は消えるでしょう」
十六番目が意味深な笑みを浮かべる。
「兄さんも姉さんも、誰もが地上からいなくなります」
「他に選択肢はないんだな」
「ありません。よく考えて下さい」
人類か、藍か。
どちらかひとつだけ。
人類を選べば、十六番目は俺たちが生き残れるように全力を尽くしてくれるだろう。逆に藍を選べば、もっと簡単に事は進む。無尽蔵に増える藍の繁殖力と女王個体の能力を組み合せ、押し潰してしまえばいい。
今はまだどちらにも転がる可能性がある。その局面で藍は俺に選択を委ねた。
どちらかひとつ、選ぶだけ。難しいことは何もない。けれど、その選択はあまりにも重い。
藍は大切だ。何より大切な妹だ。
しかし、藍だけが世界を構成するすべてじゃない。
学校の先生。仲の良かったクラスメイト。父さん。母さん。前に会った自衛隊の人。これまでに出会った人々の顔が浮かんでは消えていく。いろんな人がいた。いろんな思い出があった。
ふと、弥子姉の顔が浮かぶ。
以前、学校基地で彼女は一度も俺に付いて行くとは言わなかった。不思議だったけど、今ならなんとなくその理由がわかる。弥子姉は俺を人間側に繋ぎとめようとしたんだ。ひとり待つ幼なじみを置いて行くような人間じゃないと、きっとそう思っていたに違いない。
藍と人間、どちらを選ぶの正しいのか。
答えが出せないまま、時間だけが過ぎていく。
十六番目の藍は薄く微笑みながら答えを待っていた。
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