炎獄公女 前編
その日訪れた小さな指揮官は、いずれ美しく成長するだろう事は分かれども、戦場の荒々しさには余程縁遠いような、あまりに――そう、あまりに普通な貴族の令嬢に見えた。
「何ですか、この報告は。私が聞いた事は何だったのか、覚えていますか?」
「はっ!司令官が命じられたことは、川の水量、地質、最近四か月の天候です」
男が少女に命じられたのは、確かにそれだけだった。
報告書は数字を変えて出してはいたが、自分の屋敷からほぼ外出せずに育ったお嬢様では数字の改竄には気づいても、それが実際にどれほどの差異があるのかなど知るはずもない。
そうタカをくくって、改竄の報酬として手に入れた金貨の使い道を心の中で考える。
「そうです。目測でも分かりますよね、ここに記載された水量の数倍はこの川に流れていると」
どうせ前線にとばされた騎士崩れの身。
若い司令官の不興を買ったところで、今後の出世に響くなどという事もない。
そもそもがその日暮らしのような底辺の人生なのだ。
こんな名ばかりの役職な小娘に怖い顔をされたところで、何の恐怖も生まれはしない。
「そのようですね。敵国の水の魔術師が水量を調整しているのでしょう」
前々からそういう事はあります、と続けると、少女は口を閉ざして報告書に再び目を落とした。
実際、この戦場には水の魔術師が配備されている。
水気があればあるほど力が振るえなくなるという火の魔術師にとっては、それが最大の懸案事項なのだろう。
そう、結局こいつら魔術師は、自分の事しか考えはしない。
自分達の行使した魔術がどんな結果を出したところで、後片付けは全て他者に放り投げる。
実際に人を切り伏せ、砦の処理を行うのは自分達兵士という面倒事を考えれば、これくらいの憂さ晴らしは許されるだろう。
「では、何人程の水の魔術師が配備されているのか、報告をお願いします」
「調査の結果、三人程であると思われます」
そんな事を考えながら告げた瞬間、赤銅色の少女は薄らと微笑を口に載せた。
ああ、納得したのか。なんて馬鹿な子供なのだ。
確認出来ただけでも、最低その倍はいる。
魔術師同士の争いとなれば、数の差は圧倒的な障壁となるだろうに。
頬に笑みが浮かんでしまいそうになるのを抑えていると、聞こえた声は予想したものではなくて。
「――よく、分かりました。ケイカ」
「はい!」
「川向こうには水の魔術師が今の報告の最低三倍いると考え、上流の水を堰き止めてください。時間は三十分間程。出来ますか?」
「……土の魔術師をお借りしても宜しいでしょうか」
「好きなだけ連れて行ってください」
少女の後ろに控えていた軍服の女が、挨拶もそこそこに天幕から駆け出していく。
これで話は終わりだと言わんばかりに報告書をくるり、とまとめていく少女の瞳には、もう自分の事など映されていない。
こんなのは期待していた展開ではない。
何故だ。これでは、追加報酬が―――。
「司令官殿?何を……」
分かったと言ったでしょう、と小さな唇が動き。
偽装に塗れた報告書が、少女の手の中で紅い炎に包まれて。
「貴方達にこの戦を終わらせる気がない事が、です」
ゆっくりと振り返った【ただのご令嬢】の赤銅色の瞳は、怒りに染まっていた。
*
当主襲名から一年が経ち。
只今私は隣国との国境――つまり、戦場に来ている。
以前から社交界やら議場やらで話題に上っていた戦場。
日々戦況は悪化するばかりで、この度ついに、ルージル家の当主として担ぎ出されたのだ。
華々しい初陣の舞台が整いました、さあどうぞいってらっしゃい、と手を振られながら。
初陣、とは名ばかりで、どうしようもない状況まで私が戦場に出るのを妨害し続け、ようやく投入されたような状況で。
元々、どこの一門に所属していない一般魔術師達が戦場に投入されていたのだけれど、三か月前に一夜にして突然軍事拠点であった砦が陥落。
慌ててルージルの魔術師が派遣されたけれど、地理的に不利な条件で埒が明かず、ついに私にまで案件が回ってきた。
一年前には只の小競り合いでしかなかった戦場は、今や我が国の領土を大幅に侵略した形となった。
川向こうの最前線に設置されていた砦は既に陥落済み。
敵は難攻不落で名高い砦を根城に、既に川に橋を建設し始めてすらいて。
川を越えられてしまえば、何の障害物もない平地が続く。
農耕地帯として有名なこの地方は、有力貴族が治める領土までの間に険しい山があり、援軍の派兵すら難しい、と。
援軍が難しい状況。
障害物の無い平地。
川を越えられてしまえば、終わりだ。
どうしろって言うんだろうか。
まず、何故難攻不落の砦が陥落したんだ、と頭を抱えたくなる。
まだアレが物語に登場するには時間があるはずだから、魔術師が配備されていたならそんなに簡単には陥落しないと思うのだけど。
……誰かの手引きがあったと考えても、異常な程の手際の良さだ。
櫓に立って、望遠鏡を片手に辺りをぐるりと見渡せば、どれだけの被害が出ているのかはすぐに分かる。
自軍はこれまで魔術を考えなしに乱発していたのだろう。
農地は作物を焦がし、井戸の水は汚れ、土は荒れ、木々は未だに火を燻らせている。
農耕地帯をここまで荒らしてしまえば、収穫量の回復は年月がかかる。
更には長い目でみれば、王都への影響も出かねない。
私の初陣の舞台を整えた連中は、これ以上少しでも被害を出せば難癖を付けてルージルを貶めるつもりなのだ。
状況を打破する為に、早急に終わらせなければならない。
その為のルージルの
……ただ、解決の為には、豊富な水源があり尚且つ水の魔術師が敵国に配置されているようだ、という大きな問題があった。
戦争において後々の処理を度外視で手っ取り早く場を制するには、火の魔術師を投入する事が一番。
他の魔術よりも形にし易く、短時間で大きな効果を発揮できる。
けれども火魔術は一番攻撃的に優れているとは言え、非常に環境に左右されやすい魔術でもある。
水、というのは火の魔術師にとって非常に厄介なものだ。
雨が降った日にはマッチ一本の火を着けるのにだって大変な労力になってしまう。
だからこそ一般の魔術師が火を専門とする場合は、サブとして樹か風の魔術を習得する必要がある。
けれど一門の特性上、【オリガ】に出来るのは炎を灯す事だけ。
その為、手を打っていたのだけれど……。
「司令官。別働隊から合図が。それから、件の方がお見えになられています」
「分かりました。今向かいます」
先行させていたケイカの報告で水辺が存在すると聞いて、風と樹の一門に援護をお願いしてはいた。
当主に来て頂くのは難しくとも、実力者を何名かを、と。
しかし、議会の方で色と々あったらしく、どちらの一門からも援軍は来なかった。
親身になってくださっているハ―ベスタ侯爵からも援軍を派遣してもらえなかった、という辺りにきな臭さを感じつつ、仕方のない事だと諦めて。
けれど、幸か不幸か。
申し分の無い程の実力者を、一人だけ派遣して頂けた。
「こちらです」
伝令兵に案内された天幕に近づくと、困ったような顔をした伝令兵がどうにか口を開こうとし。
しかし、その説明すらも必要ないような声量が聞こえてきて。
「幾らなんでも魔術師が配備されていた砦が一夜で陥落しただなんておかしいだろ。それに、あそこは押さえたところであちらの国には何の利もないような砦なんだぞ?あいつらがあそこに人員を裂いてくる理由は調べたのか」
「申し訳ありませんが、未だ当時の状況ははっきりとは判別していないのです」
「しっかりと調べて、状況を判断するべきだ。場合によっては撤退も視野に入れろ。これじゃ幾らやっても―――」
天幕の中から詰め寄る若い男性の声と、聴きなれた兵士の声が聞こえる。
一人は興奮したように声を荒らげ、一人は心底うんざりとしたような声で。
ああもう、面倒臭いなあ、と考えてしまう心にどうにか蓋をして掛け布を捲り。
「養成所の代表としてここに来た、とお聞きしましたが。騎士とは逃げに徹するものなのですね。勉強になります」
援軍を送って下さったのは有難いのだけれど―――よりにもよって、派遣されてきたのは樹の一門の跡取り息子、だった。
公に派遣する事は難しく、色々苦慮した上での選択だったようだ。
一応、養成所の首席として戦いの最前線を学ぶ、だとか実地訓練、だとか名目を付けられたようではあるのだけれど。
主人公一行には極力関わりたくはなかったというのに、共闘までする機会が与えられてしまった。
……ギル様が付いて来なかっただけ良かった。
連絡を受けた時にはちょっと肝が冷えた。
「お前……」
「お久しぶりです、アトラス様」
一年ぶりの再会ですね、ちょっと大きくなられましたね、なんて社交辞令を言える程の楽しい関係性ではない。
この人が撒いてくれた噂話の種のおかげで、この一年間社交界では苦労したから掛ける言葉にも怨みが籠る。仕方ない。
吐かれた毒よりも、私が現れた事に対して驚いたように一瞬だけ目を見張り。
「騎士は逃げる事を第一とするんじゃない。守りに徹するものだ。王を守り、民を守る」
「そうでしたか。不勉強で申し訳ありません」
生真面目な様子で私の毒に訂正を入れ始めて―――ああ、こういうところが面倒な人柄なんだよなあ、小説でも。
むしろ去年の舞踏会の時の方がおかしかったのだ。
キャラクターの設定上、生真面目で融通がきかなくて、真っ直ぐな正道を歩む人柄。
そんな彼が、あんな風に公の場で年下の子供を追い詰める、という心境に少し疑問が湧く。
騎士道のお話になんて耳を傾けていたら、時間がかかり過ぎそうだったので取り敢えず軽く謝罪を入れて受け流し。
着席を促すと、気まずげに一瞬だけ顔を歪めながら口を開きかけて、首を小さく振った。
「何で原因究明を後回しにしているんだ。これじゃ砦を奪還したところでまた直ぐに同じことを繰り返すぞ」
「でしょうね」
……やっぱりそっちを選んだのか。
この人は【私】のお気に入りのキャラクターという訳ではないけれど、真っ直ぐに切り込んでくるその性根は好まし。
そして、思うところのあるらしい私への感情にも一応の蓋をして、優先すべきを取る考え方も。
この性格だからこそ、彼はギル様の親友となり得たのだろう。
人払いを、と手を挙げると兵士は安堵したように、きびきびと敬礼して天幕から去った。
天幕の周囲に人の気配が無くなったのを確認して、口を開いた。
「あいつらはあの砦に異常に執着している。あの国はただでさえ正規の魔術師の数は少ないはずなのに、あんなに川向うに配備しているなんて、正気の沙汰じゃない。理由も分からずに攻撃を仕掛けたところですぐに奪還されるぞ」
「確かにあそこに割いている人員数は異常だとは思います」
「だったら、早く理由の方を突き止めた方がいい。何らかの鉱脈があるとか、魔力値の高い地脈があるとかなら良いんだけどな。それと、魔術師達が居たのに一夜で陥落した原因も」
通常のこの規模の戦場なら、魔術師は三人もいればいい方だ。
それぐらい魔術は強力で、魔術師の数は少ない。
それを考えれば、彼の言い分も分からないではない。
けれど。
「当時、砦に配備されていた魔術師は五人。ですが誰一人として救難信号を発する事も出来なかった、となれば原因究明は困難です。それに、」
言葉を続けようとした瞬間に、肌を逆撫でするような魔力が絡みつき。
つい舌打ちをしてしまいながらも少年に目配せすると、そちらも不可解な顔をしながら何も言わずに押し黙った。
「……いえ。とにかく、砦を奪還してから考えるしかないでしょう。時間をかけている余裕はありません。冬が終わる前に決着を付けなければ苦しむのは農民です。今年はこんな事態でしたし、今は物資がありますが、いつまで持つか」
「冬までに治められるのか。ここは、その」
不可視の魔術を見つめようと目をこらしながら、言いにくそうに濁された言葉の先に見当が付き、苦笑しか浮かべられない。
未だ実地を知らぬ養成所に属している見習いとは言え、やはりこの戦場の士気の低さは目に余るものがあるのだろう。
盗聴、改竄、魔術の乱発―――。
最早、誰が味方で、誰が裏切り者なのかすら分からない程に入り乱れている。
「それでもやるしかないでしょう?それが私の役目なのですから」
さあこちらへどうぞ、と天幕の外へと案内しながら周囲を見回すも、やはり目当ての存在は見えず。
鼠のように神出鬼没、とは言えその数すらはっきりしないのでは、対処のしようもないのが残念で仕方ない。
見えない存在を睨みつけるように、もう一度小さく舌打ちをした。
*
養成所の委任状だ、と渡された書状には、所長の名前でアトラス様の騎士としての働きを保証する旨が記載されていた。
それに一通り目を通してから返すと、熱意に満ちた瞳で剣を腰に装備させて。
「父上には出来うる限りの協力を、と言われて来た。俺は何をしたら良い」
「……いいえ、何も。騎士と兵達には後方で待機していただく予定です。それは騎士見習いである貴方にもお願いしようかと思っています」
ぽかん、としたように、目が大きく見開かれて。
まあそうなるか。要請されたから来たのにやる事は見てるだけ、なんて。
意気込んで腰の剣に置かれた手は、鍛練の跡が窺えて―――恐らくは、養成所の首席というのも実力で勝ち取った称号なのだろう。
それに対して誇りを抱く気持ちは分かるつもりだ。
けど。
「私がハーベスタ様に要請したのは、騎士見習いではありません」
優れた魔術師を要請したのであって、騎士の覚悟を宿した存在を要請したのではない。
養成所から派遣させる際にはその建前だったのだろうが、それを真に受けて戦場に立ってもらっては困る。
民を守る為に後手に回る、という発想では、事態に対処していけない。
魔術師は、残忍で、残酷で、強大なのだから。
「貴方の剣が一人を守る間に、魔術は十人の敵を薙ぎ払います」
「騎士を馬鹿にしているのか!」
「魔術師は圧倒的に数が足りず、騎士の方々に頼らざるを得ません。馬鹿になどしておりません。ただ、適材適所、というものがあると申し上げているのです。貴方も分かっていらっしゃるでしょう?」
ハーベスタ侯爵様が衰え行く樹の一門の未来を憂い、息子の可能性を広げようとしているのは分かる。
【オリガ】の様に魔術に浸り過ぎて歪んでいかないように、騎士養成所という普通の環境に出した。
小説内にもその記述はあったから、その思いを否定するつもりはない。
けれど。
「ここは戦場です。騎士は、貴方でなければならない訳ではありません」
衰退し始めているとは言え、五大魔術一門の当主。重圧は果てし無く大きくて。
父親に別の道を示されてしまえば、そちらに逃げたくなるという事も良く分かる。
それ自体は彼の選ぶ道で、主人公達の物語の中での選択だ。
けれど、ここは本編には一切出てこない戦場――だからこそ。
「なので、残念ながら騎士見習いの貴方に出来る事はここにはありません」
「……魔術師としての俺には、あると」
小説の中でのこの人のテーマはそれだ。
騎士であるべきか、魔術師であるべきか。
本来であれば、この葛藤はギル様の元でするはずのもの。
こんなところで、悪役の指摘で、味わって良いものではないだろう。
けれど、私には出来ない守りの部分を受け持ってもらう為の人員がどうしても必要だ。
「既に上流を堰き止めるように指示は出しましたので、水量は大分減っています。後はアトラス様にこの川の水を全て枯らして頂きたいと思っています。この水を全て使い、熱を通さぬ樹木の盾を、対岸沿いに」
上流を堰き止める手配はしたけれど、緩やかに流れる水は未だ私の魔術には危険な量。
合図がされたという事は、ケイカが率いている別働隊の働きではこれが限界だと見るべきで。
これだけ水がある状況下では、全力で魔術を仕掛けなければ、敵国の魔術師達に私の炎は掻き消されてしまうだろう。
だからこそ、私は覚悟を決めなければならない。
「これだけの水量です。あちらが動き出したら、少し面倒になりますので」
「……この範囲を、俺一人でか」
「火を使えば必ず土地を荒らします。せめてこれ以上、熱波による被害を出さないようにしたいのです。ここには樹の魔術を扱える魔術師も二人ほどいますから、どうぞ連れて行ってください」
私には、火しか扱えない。
それは最初から決まりきった設定だ。
だからこそ、燃やすか、燃やさないかという選択肢しかない。
「防護膜ぐらい張れるだろう」
「勿論可能です。ですが、一度落とされた砦なんて使い物になりませんから、焼き払おうかと思っておりまして。そちらに集中したいのです」
「砦を焼き払う?」
驚く声を無視し、硬質な革靴を鳴らして。
駆け寄ってきた伝令兵が敬礼をするのを眺め、深呼吸。
―――さあ、覚悟を決めて。
「司令官。住民の避難完了しました。敵兵に勧告致しますか?」
「数人捕獲出来れば問題ありませんから、その必要はありません。後は全員(・・)、焼き払います」
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