終章
「さよなら、お兄様」
革命が起きた日。
私はたった一人で屋根の上に登り、王都の方から上がる煙を見ていた。
私のせいで彼が人を殺してしまうのを、ただ遠くから眺める事しか出来ずに。
泣きながら、謝りながら、目を逸らす事無く見続けていた。
動乱の冬が終わり、この国にも春が訪れる。
各国に対しては、魔術師と人間の共存国家だと公布した。
そんな事は当たり前だと非難が向けられたけれど、今の時勢でそんな建前を守る国など最早存在しない。
どの国も程度の差はあれど魔術師狩りを行っているのだ。
緩やかに魔術師迫害の流れが勢いづいていただけに、各国に隠れ住んでいた多くの魔術師達が亡命を希望して国境の関門に殺到した。
亡命を希望する魔術師に紛れ込んで国内に潜入しようとする間諜は、結界によって入国時に選別される。
それでも幾人かは紛れ込んでしまう可能性もあるけれど、長期的に結界内にとどまり続けるのは無理だろう。
あまりの流入量に一度は結界も揺らぎかけたそうだけれど、結局はお兄様達の働きによって結界はどうにかその機能を保ち、今では堅牢に魔術師達を世界の悪意から隔離している。
勿論、国から出ていく事を希望する者もそれなりにいる。
魔術師との共生を希望しない者、旧王族に忠誠を誓っていた者、彼等の行為を許せなかった者。
私財を一部持ち出す事を許された人々は、定められた期間内に荷を纏めて国を出ていく事となる。
そして、それは私も。
*
父上にこの場所を指定されたから、とお兄様に住まわされたのは、お母様が個人的に所有していたという別荘だった。
革命に協力する上での条件だったらしく、春になるまで結局この場所を隠れ家として一人で生活を続ける事になったのだが、この場所で暮らしている間、滅茶苦茶に崩れたはずの身体の中の【器】の調子も良く、体調を崩す事も滅多になかった。
今では感じ取る事も上手くは出来ないけれど、きっとこの場所は魔術を使う者への影響力の高い場所なのだろう。
ここが唯の別荘としてではなく別の用途に使っていた事は容易に分かったが、一体何のためにあのお父様が隠していたのかっは結局分からずじまいだった。
そんな小さな別荘の中で只管に人を待つ。
随分前に荷を準備してしまっていたせいか、手持無沙汰でする事もない。
服装を整える事も、荷の点検も、もう何度も何度も行っている。
これ以上すれば何かしらこの家の中に忘れて行ってしまうかもしれない。
質素な椅子に座ってぼんやりと部屋の中を見詰めていると、外からは鳥達の声が微かに聞こえてくる。
ふと外の様子を見ようと立ち上がり、扉を開けて一歩を踏み出そうとして。
誰かにぶつかって、小さく悲鳴をあげた。
「……び、びっくり、した」
「随分変わったな」
目の前に立っていた人物こそが待ち人だった訳だけれど、私とは違って、扉の反対側に既に人が居たという事よりも別の事に心が奪われているようだった。
前に会った時にはまだ何の準備もしていなかったからだろう。
目を丸くしてこちらを見詰める人に、少しだけ居心地の悪さを感じて目を逸らす。
今まで腰の辺りまで伸ばしていた髪は、肩口までばっさりと切ったのもあって、自分でも随分印象が変わったとは思っていた。
妙に迫力のあった印象も、髪を切ってしまうと大分薄らいで幼さすら感じられるのだ。
「前から邪魔だったので」
「色も」
「国境を超えるのにあの色じゃ怪しまれると思って。ニ、三日しか色を保てませんが……まあ、大丈夫だと思います」
黒く染めた髪色はアトラスの色と合わせたから、一見すると兄妹で通せるかもしれない。
地下倉庫を探ると変装に必要な物は大抵置いてあった。
染髪用の染粉に異国の服、それから刃物や旅行者の装備に貴重な周辺国の地図。
埃を被ってはいたけれど、生活用品から備蓄の加工食料まで何年分になるか分からない程にあるのを見た時には流石に頬も引きつった。
――あの人は此処で何を考え、何を感じ、何を想って暮らしていたんだろう。
もう二度とそれを知る事は出来ないのに、彼に対して初めて抱いた興味はそれだった。
会う事も、話をする事もない、と考えると心の何処かが軋んだような気も、した。
どうせ亡命希望の余波で検問所なんてまともに機能しないだろうが、念には念を入れる必要があった。
季節を跨いで滞在する事を許した以上、この家に置いてある物は好きに使って良いのだと判断し、遠慮なく使わせて頂いた。
一々感傷的になってしまう思考に蓋をして、長かった髪を切って染めてしまえば、もう其処にいるのはかつての炎獄公女の面影を残すだけの女だった。
自分でも何度も何度も鏡を覗き込んでは、その違いっぷりに驚いたのだから、他人にまでその違いに指摘されるのも恥ずかしい。
軽く咳払いをしてアトラスの注意を引くと、すまないと小さく謝罪をされた。
「それより。少し遅かったけど、どうかしましたか?」
「ギル達と、……それから当主殿に会ってきた」
一瞬だけ視線を彷徨わせながらも、紡がれた言葉に咄嗟に反応する事が出来なかった。
当主殿、と言うのはきっとお父様の事だろう。
「そう、ですか」
革命後に位が上がったのだという話は聞いていたけれど、この話に踏み込むつもりは無い。
それに、アトラスも口を割るつもりはないのだろう。
彼は端的にそれだけ告げると、自身の鞄を漁り、中にあった本を手渡してきた。
「何ですか、これ」
初歩的な魔術についてのみ記述されたその辞書は、随分昔に読み込んだ物だ。
今渡されたところでどうしようもない。
ぱらり、とページを捲りながら尋ねると、アトラスも首を少しだけ傾げた。
「俺にもよく分からないんだが、見覚えが無ければ捨ててくれと渡された」
本自体には見覚えはあるが、わざわざ旅路に持っていく程の思い入れもないし、魔術師である事を疑わせるような物品を持ち歩くつもりもない。
誰から渡されたのかを聞かなくては、とふと思った瞬間、ぱらぱらと捲っていたページが止まった。
あ、と自然と漏れ出た声に、アトラスがどうかしたのかと近寄ってきて辞書を覗き込む。
挿し込まれていた色あせた花は、見覚えがある。
これを辞書の中に入れたのは一体いつの頃だっただろうか。
そっと触れると、花弁がくしゃりと崩れ落ちて、慌てて指を離した。
「これ、ケイカが?」
「ああ」
私自身、もうずっと忘れていた。
大好きな人から貰えた真心を、受け取る訳にはいかなかった真心を、私はずっとこうして隠していたんだった。
一体いつから忘れてしまっていたんだろうか。
この時に彼に走り寄っていれば。
この時に彼にお礼を言っていれば。
後悔の念が頭を過って、でも既にどうしようもない事なんだと溜息を心の中で大きく吐き出した。
「よくこんなの見つけられましたね、あの子」
「子供の部屋を作る為に整理していたら出てきたからとは言っていたが」
「……冬にはもう生まれているんでしたか」
当主の妻という地位に就いた彼女は、そのお腹に新しい命を宿しているのだという。
弟か、それとも妹か。
兄と姉は高い能力を持って生まれたのだからと期待されているらしい、とアトラスに告げられたのはそう昔の事でもない。
子供がどう育つのであれ、ケイカの負担は大きいだろう。
それでも、私に求められた役目を全て背負うと言った彼女は、私の手の届かない場所で一人で生き続けていく。
目をそっと伏せると、脳裏に浮かぶのは別れの日の覚悟を決めた者の目だった。
「誰かに強要された訳じゃない。彼女が自分で決めた道だ」
「……分かってる」
私はきっと目隠しをして生きてきた。
誰かの好意も、真心も、ずっと見ないフリをして生きてきた。
この押し花のように、元気になってと、生きていてねと、託された伝言をこうやって隠し続けた。
そんな想い達にも、今ならきちんと向き合える。
視線を合わせて笑ってみせると、ちゃんと笑えている私に安心したのか、アトラスはゆっくりと瞬きをした。
「これ、此処に置いていきます」
「良いのか?押し花にする程思い入れがあるなら、別の本に差し込んで持っていけばいいだけだ」
「連れてはいけない思い出だから」
これを見る度に、私は後悔と嫉妬が心の中に渦巻くのだろう。
どれだけ泣いて叫んでも解消出来ない濁った感情を抱え、また少しずつ盲目になっていくのだろう。
誰かのせいにしないと生きていけない程に醜くて、反省しなくて、過去の過ちから学べない。
私は、そういう人間だ。
それでも。
「後悔は、もうしたくない」
机の上にそっと辞書を置いて、古びた表紙を撫でる。
その言葉に何か思うところがあったのか困ったような表情を見せるアトラスに、自然と苦笑いが浮かんだ。
後悔しているその原因は全て私にあるというのに、この人は心優しい人間だからいつだって思い悩んでしまう。
説明が必要だったか、と思い立って少しだけ頬を掻いて。
今だから言うけれど、と前置きをすると、アトラスは神妙な顔をして頷いた。
「私は、ずっと死ぬ為に生きてました。死に場所を探してた。先の事が何となく分かってくるともう死ぬしかない状況だったし、きっと多くの人にそうなるように願われてきたから」
「………」
「別に、それ自体は構いません。そういう生き方をしたのは私だから」
魔術師を取り巻く状況に、黒幕の存在。
物語の結末や自分の役割なんてものを知らなくたって、それがどんなに絶望的な状況だったのかなんて誰にだって分かる。
だからこそ私は死ぬ為に生きた。
より価値のある死を願って、生きた。
「でも、私は知らなかったの。生きてって願い事はとっても重いものなんだって知らずに、願い続けてた」
私はその事を知らないまま、ずっとずっとお兄様に押し付けていた。
死を願われる私なんかより、お前はずっと幸せなのだと妬みながら。
生きろと一方的な願いを押し付け続けていた。
生き続けたその先に何があったとしても、私は何の責任も負わないつもりで。
「ずっとそれを願われたくて仕方がなかったのに、それを願われた人がどう感じるかなんて考えもしなかった。だから、物凄く自分勝手で、泣きたくなる程重い願いなんだって思い知って……凄く怖くなった」
知らなかった。
誰かに死を願われるより余程重くて、辛くて、逃げ出したくなる言葉だったなんて。
願ってくれた誰かが、その生の責任を背負ってくれる訳じゃないなんて。
辛い事も悲しい事も一人で背負って生きていかなきゃだなんて。
卑怯な私はその言葉を彼に押し付け続けて、それなのに、言われて初めてその言葉の重みを知った。
正直に言って、押しつぶされそうになる程苦しい願いだ。
刻まれた見えない魔術陣をそっと撫でて、机の上に置いた辞書に視線を落とすと、幼い頃のお兄様の姿が思い浮かぶ。
苦しくて悲しくて仕方ない。
だけど。
「―――それでも生きてって、言って貰ったから。生きられるだけは、精一杯生きてみようかなって思って」
ずっと、ずっと、私はそう言って欲しかったんだ。
だからもう、それだけで充分。
恨む事も、嘆く事も、後悔する事も、もうしたくない。
願ってくれた優しさだけを心の中に落とし込んで、辛さを抱えて真っ直ぐに進んで行きたい。
「ケイカにそう願って貰えた事を後悔したくないから、この本ごと此処に置いていきたい。持ち歩くには……ちょっと辛いので」
「……そうか」
「そうなんです」
笑ってこの話はもう良いだろう、と荷物を抱えると、アトラスは扉を開けてくれた。
その姿にああ、そうだったと思い返して声を上げると、不思議そうに目で促された。
旅が始まる前に、最後にもう一度だけ。
そう思って改めて頭を下げる。
「付き合わせてしまってごめんなさい」
「俺が選んだ事だ」
「……うん。でも、ごめんなさい」
結局のところ、私の身体は定期的に魔術師の手によって魔力放出をしなければ死んでしまう。
だからこそ国を出ていく上で魔術師の同行が必須だった。
私を生かす事を拒否した彼に対し、最後まで私の生を見届けるから傷を癒せと啖呵を切ったのはアトラスだ。
公式の記録ではオリガという人物は既に死んでいるが、それでも私の正体が判明したら危険だ。
アトラス自身、国外の魔術師達の亡命に助力する為に各国を回るとは言っているが、彼が魔術師であるというだけで危険な旅になるというのに、それに加えて魔術を使えないどころか迷惑まで掛けてしまう事になる。
自分で選んだ事だと何度も言われたけれど、それでも申し訳なさはある。
いつもならこの問答は何度も繰り返されるのだけれど、今日はそうはならずに違う言葉が耳に入った。
「いつ、この国に戻るつもりなんだ」
頭を上げると、目に入ってきたのはいつになく厳しい瞳だった。
移住者を送り出した後、お兄様は水の結界の魔術陣を、この国の全体に張り巡らせる手筈が整っている。
多少の年月はかかるだろうけれど、それさえ張ってしまえばお兄様の役割は終わりだ。
その段階にまで至ってしまえば、後は魔術師達の魔力でもって陣を動かしていく事になるのだから、私がお兄様を殺したところでその後の魔術師を取り巻く環境が悪化する事はない。
だから、アトラスは革命の行く末を最後まで見る事はせず、私と共にこの国を脱出すると告げた――きっと、少しでもこの国から遠くに離れ、私がこの場所に帰りにくくする為に。
その決定に特に反対する理由も無くて、二つ返事で同意していたのだけれど。
「いつって」
「ギルとの約束があるだろ」
苦しそうにそう言って、握り締めた拳は小さく震えていた。
約束、と口の中だけで呟くと、アトラスは低い声で言葉を紡いだ。
「ギルはこれから全ての魔術師の拠り所になる。誰もが彼奴を頼って、誰もが彼奴を信じ、裏切られたと憎むだろう。その辛さは死ぬ事でしか報われない」
「………」
「ギルは死にたがってる。俺は生きて欲しいと思うが……これも重荷かもしれない。お前は彼奴の願いを叶えると約束した。俺は、それを」
阻むつもりは無い、と目を伏せて呟いた。
苦渋に満ちたという表現がしっくり来るような顔は、只管に険しい。
自分に関係のある問題なんかじゃないと目を瞑って素通りする事だって出来る話なのに、それでも思い悩んで苦しんでしまうのだろうか。
だからこそ私をお兄様から引き離そうと必死になって仕事をこなし、予定を前倒し、国を出ると決めたのか。
そんなあまりにも優しい友達に、ふと自然と頬が緩む。
私がどんな思考回路をしているのかに思い至らないくらいに、真面目で純粋で一直線な人―――私には勿体ない程の、最高の友人。
だから。
「どうして私が大嫌いな人の願いを叶えてあげなきゃならないの?」
出来うる限りに明るく声を発し、小首を傾げて問うと、アトラスは目を見開いて言葉を失ったように口を無意味にぱくぱくと開け閉めした。
「……は?」
「だって、あんなの逃避に過ぎないもの。いつか必ず殺してくれる相手がいるって、自分の苦悩の拠り所にしてるだけ」
今までの私と同じだ。
誰かに罪とその先の未来という重い荷物を渡す事で、楽になりたいと望んでいるだけなのだ。
犯した罪はなくならない。
だからこそ一刻でも早くに死んで、その重荷を次の誰かに押し付けてしまいたいと願うのだ。
でも、そんな事許さない。
願いを叶えてあげたいなんて思わない。
「あんな人、一生泣いて苦しんで悩んで迷って後悔して―――多くの人達に惜しまれて死ねば良いのよ」
多くの魔術師の救いである英雄には、救いなんて存在しない。
だけど、せめて。
苦しみのその先に待つ未来が、失いたくないと思える程に大事な物であって欲しい。
重荷と称するそれが、彼を愛してくれる未来であって欲しい。
私のように破滅を願い、道を誤るような未来であって欲しくない。
だって私は、お兄様は大嫌い。
だから。
「二度とこの国には戻らない。私はあの人の救いになんてなってあげない。―――簡単に死なせてなんて、あげない」
大嫌いだからこそ、生きてと願い続けよう。
ずっと救いを待ち望んで、今を足掻いて足掻いて生き延びて、ひたすらに前を向いて歩き続け、そうしていつか私に騙された事に気づけば良い。
妹は自分を殺す気がないのだと。
最早、誰も自分を救ってなどくれないのだと。
最早、誰にもその苦しみを背負わせられないのだと。
それを知った時、彼は絶望するだろうか。
それとも――自分の歩んできた道を、愛してくれるだろうか。
「ごめんね、お兄様」
これは、呪いのように酷く重い願いだ――それでも、私はどうしようもない嘘つきで、悪役だから。
届かない謝罪と共に口元に浮かんだ笑みは、きっと意地の悪い笑みなんだろう。
それでも心の奥底が軽くなる、本心からの笑みだった。
呆けたように暫く口を開いたまま硬直していたアトラスは、次第に肩を震わせ始める。
堪え切れないというように笑い声を混ぜる様子に、首を傾げる。
一体何処が可笑しいんだろうか。
「……お前、本当にギルの事を好きなんだな」
どうにか笑いをかみ殺しながら発された言葉に、今度は私がびっくりしてしまった。
私が、お兄様の事を。
いや、いやいやいや。
それは無い。絶対にない。
「私はお兄様の事は本当に嫌い。殺してやりたいくらい嫌いです。これは嘘じゃない」
私は、これからひたすら栄光の道を歩んでいく存在に対して妬みを抱かないでいられる程善良な人間ではない。
むしろその逆で、ほんのちょっとのきっかけで、すぐにでも感情に引き摺られて道を間違えるだろう。
機会があればすぐにでもあの喉元に短剣を突き付けるだろう。
「お兄様が近くに居れば私はきっと何が何でも殺そうとする。ううん、殺す」
「だからこそ、この国には帰らないんだろ?」
「……そうだけど」
これから自分が背負うべき重圧を悟ってしまったお兄様は、きっとそこから逃げ出したいという欲に駆られる。
それでも逃げはしないだろう。
でも、もしも私がその目の前に現れたならば―――きっと抵抗はしない。
簡単に殺せてしまうだろうけれど、私はそんな幕引きを望んでなんかいない。
だからこそ私は、この国には帰らない。
「お兄様なんて、殺してやりたいくらい大嫌い。……でも、いつか幸せになって欲しいと願うくらいには、ずっとずっと【ギルフォード】という人間に憧れていたから」
私が【オリガ】ではないように、お兄様は【ギルフォード】ではない。
それは私を生かすと選択した瞬間に悟った。
【オリガ】は自らの魔術を無効化する陣を兄に与える程彼に情を抱いてはいなかったし、【ギルフォード】は悪役に自らを殺してほしいと願うような主人公じゃない。
いつの間にか、私達は私達になっていた。
だから、大好きなギルフォードの願いならともかく、大嫌いなお兄様の願いなんて絶対に叶えてやらない。
一世一代の嘘を突き通してみせる。
「だから、好きなんだろ?」
「お兄様は大っ嫌いです!……でも、幸せになってもらわなきゃ許せないって事、です」
噴出して笑い続けるアトラスに、煩いと声を荒らげれば、またそれも笑われてしまった。
怒って抗議の声を上げようとして、やっぱり私も笑い始めてしまう。
自分で言っておきながらなんだけれど、やっぱり矛盾してると思う。
でも、これが私なんだ。
笑って揺れる肩に、生きている事を感じる。
ずきずきと罪悪感に悲鳴を上げる心臓が動いてる。
生きなくてはと決意する心が、どうにか立ち上がろうともがき続けている。
私は今、どうしようもなく生きているんだ。
潤む視界に、私の生を望んでくれた人が映る。
ああ、なんて私は幸せなんだろう。
「ねえ、アトラス」
「ん?」
「私の生を願ってくれて、ありがとう」
いつだって私の生を願ってくれた大事な友人だ。
私のせいで人生が狂ってしまった人だ。
それでも、私の生を見届けてくれると、一人にしないと言ってくれた人だ。
私に重い重い願いを託し、これからも願い続けると言い切ってくれた人だ。
「これから辛い事は数え切れない程あるだろうし、死にたいと願う事も沢山あると思う。いつか、どうして私を生かしたんだって貴方を恨むかもしれない。それでも――私を生かしてくれて、ありがとう」
ここに居るアトラスだけじゃない。
私の生を願ってくれた人全てに向けて、ありがとうって伝えたい。
私の死を願った全ての人に、ごめんなさいって伝えたい。
きっと、これから始まる私の生は、犯した罪に対する贖罪にはならないだろうし、誰かの願いを満たせる程に幸せなものにもならないだろう。
それでも、私の生が誰かの希望になるのなら――震える脚に力を込めて前に歩き出せる。
「私、頑張って生きるから」
不確実な未来が来るのが嬉しくて、怖い。
何も分からない。
何も見えない。
何も約束されていない。
それでも、終わりはここじゃない――ここから始めて行ける。
私の選択を歓迎する優しい声に、涙で視界がぼやけていく。
伸ばされた大きくて温かな手に乱暴に撫でまわされて、短く切った黒髪が空に乱れた。
*
ふわり、と風が髪を撫でる。
焦げ付いた匂いも、人の焼ける匂いもしない。
ただ、新緑の香りだけしかしない旅路。
アトラスに連れられて、世界を隠れながら旅をする。
見つかれば、私が何であるかが判明すれば、きっとすぐさま殺される事になるだろう。
魔女と罵られ、石を投げられ、残酷な方法で処刑されてしまうだろう。
きっと苦しい旅になる。
けれど、それでも立ちはだかり続けよう。
其処に私が居なくても、私が生きる理由になると言うのなら。
最期の時の、その先まで。
ずっとずっとあの人達の心の中で生き続けてみせる。
これは【私】の物語なんだから。
これが贖罪の旅になるのか、それとも更に罪を重ねるだけの旅路になるのかはまだ分からない。
それでも、もう寂しくなんてない。
もう一人ぼっちだなんて思わない。
幸せを願ってくれた人が、私を大事だと言ってくれた人が、私の生を願ってくれた人が居たのだから。
お兄様が主人公だった物語を飛び出して、私は私の物語を生きて行く。
誰よりも愛して、誰よりも妬んだ、私のお兄様。
さよなら―――私の大好きな
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