番外編

陽だまりの記憶

手紙に近況を書き散らしては、書きかけのそれをくしゃりと握りつぶした。

書いては捨て、書いては捨てを繰り返したそれに書いた内容は、いつだって一番大事な事だ。

けれどそれを伝えられる事を、友人はきっと望まない。

そして彼女もきっと、書かなくて良いのに、と苦笑いするのだろう。

これを伝えなければ友人は前に進めないだろうと分かってはいる。

けれど、それではあまりにも誰もが報われない。

それが分かっているからこそ、あの国を出てから一度だって手紙は出せなかった。


いつかは終わらせなければならない。

それだけは、分かっているのに。


溜息を大きく吐いて机から離れると、隣の部屋から恐る恐るといった体で小さな子供が顔を覗かせた。

まだ起きていたのか、と声をかけると、子供は見る見る内に歪み始めた。

しゃくりあげる小さな肩に、男はゆっくりと瞬きをする。

まだ幼いその泣き顔は、少年の産みの母の生前のそれによく似ていた。


「どうした」


そう遠くない記憶に引きずられながらも何とかその一言を口に出すと、少年はぐすぐすと言葉にならない声をあげて脚にしがみついた。

大方怖い夢を見たのだろう。

この子のこういった唐突な行動は、夜になる度に何度も繰り返されてきた。



「おかあさん、どこ?」



そして、いつだって聞く内容も同じだった。


「死んだ」

「うそ!」


癇癪を起こしたように叫ぶと、子供は泣きながら男を睨みつけた。

昼間は何かと慌ただしく人の出入りもあるし、元々人見知りもしない子供だから多くの大人達に構ってもらえる。

だから深く考える程の心の隙間もなく過ごせるのだろう。

だが、夜になると思い出してしまうようで、何度も何度も同じ内容を問いただしては泣き続ける。


「おかあさん、もえなかったもん!やくそくしたもん!し、しんで、ないもん!」


――魔術師は聖なる炎で燃やされる。

それが一般的な処刑方法だったからなのか、それを何処かで耳にしたのか、この子は炎に対して異常に怯えていた。

自らの母が魔術師である事も、共に生活する男が魔術師である事にも、気づいていたからなのだろう。

いつか母親と男が燃やされてしまうのだと思い込み、調理の為に火を起こそうとするだけで泣きじゃくった。

そんな子供の不安な感情を、生前の彼女はいつだって困ったような表情を浮かべて受け入れて。


お母さんは魔女だから、いつかきっと捕まって火あぶりにされちゃうの。

でもね、と続けた彼女の瞳には悪戯な色が浮かんでいた。

貴方の前では絶対に死なないよ、と。

何度も何度もそう口にした。



「――ああ、そうだな」


思い出すのはいつだってあの時の事だけだ。

寿命が近付いて来ていたのは、彼女と男の共通認識だった。

もし助けに入っていたとしても、きっと彼女の身体は数か月も耐えられなかっただろう。

だからこそ、無理に生き続ける事よりも陽動に徹する為に処刑される事を彼女は望んだ。

幾人かの魔術師達と、自らの子を逃がすために。


「もえなかったんだもん……ぜったい、ぜったい、しんでない!」


火刑に処された彼女は、それでもその身に宿した守護の魔方陣の効果で決して燃える事なく、生きながらえた。

燃え盛る炎の中で、遠くでその様子を見て泣き叫ぶ幼子を安心させるように微笑み続けていた。

その様はあまりにも異様な光景で――だからこそ、この子は燃え盛る炎が母を奪わない事に安堵した。

けれど。



「……それでも、もうお前の元には帰ってこないんだ」



火刑に処されようが彼女は死ななかった。

約束通り、愛する子の前で死ぬ事はなかった。

泣き疲れて、そしていつまでも燃える事のない彼女に安心して眠りに誘われた幼い彼は。

痺れを切らした処刑人達の手によって、母の細い身体に幾本もの槍が沈んでいく様など見る事は無かった。


「っやだやだやだ!やだぁ……」


心無い人々の色んな言葉を耳にして、心優しい人々から色んな遺品を与えられた。

だから、二度と戻ってこない事はこの子も痛い程に分かっているのだろう。

それでも母の死も、亡骸も、この子は目にしていない。

だからこそ縋って泣き続ける。

何度教えられても何度諭されても、それでもめげる事なく男に問いただし続ける。

可哀想だとは思う。

けれど、男は誤魔化す気も嘘を吐く気も無かった。


「うそだもん、おかあさん、おかあさぁん」

「何度聞いたって同じだ。もうお前のお母さんは帰ってこない。お前の親は居ないんだ」


泣き続ける幼子の前にしゃがみ込み、震える身体を掌でゆっくりとさする。

まだ彼女が生きていた頃にもこんな事が何度もあったな、とふと思い出した。

悪夢を見たと言って泣きじゃくるこの子を撫でる手つきがあまりにもぎこちなくて、更に泣き声を大きくしてしまう子供を前にひたすら狼狽える男が珍しかったのか、彼女が耐え切れずに笑い転げていた。

子供のあやし方が分かっていないと言いながらも、その答えは終ぞ教えてなどくれなかった。

しょうがない人だよね、と言って意地悪に笑いながら子供をあやす彼女は、もうずっと遠い存在だ。


「何回でも、お前が聞きたいなら答えてやるから。泣きたいなら、今の内に沢山泣いとけ」


あれから随分時間が経って、何度も何度もこんな夜を繰り返した。

次第にこうして泣く回数も減り始め、子供が泣いて哀しむのにも慣れてきて。

哀しみは時間が少しずつ癒してくれるのだと、落ち着くようにゆっくりと力強く撫でるとこの子が落ち着くのだと気づいたのは、いつ頃だったろうか。

これで良いんだろうと聞きたくとも、答え合わせはもう出来ない。


「う、っひ……う、」

「落ち着いたか?眠れないなら甘い飲み物を作ってやるから、ちょっと待て」

「ん」


不安になって泣き出した時には甘い物を飲ませるとぐっすりと眠るのだと知ったのは、彼女が亡くなってからだ。

こうして、一つずつ彼女が知らなかった事が増えていくのだろう。

こうして、少しずつ子供は彼女が居なくなっても眠れるようになっていくのだろう。

それが時間が経つという事なのだろうが、それでも胸は鈍い痛みを訴える。

そんな痛みを素知らぬ顔で無視し、嗚咽が落ち着いてきた幼子の身体をもう一度ゆっくりと撫でて立ち上がろうとする。




「おとう、さん」




涙に濡れた赤銅色の瞳が、縋るように向けられていた。

ぎこちなく口にしたその言葉は、母を亡くした子供が唯一縋れる絶対の存在だ。

――けれど。


「俺は、お前のお父さんじゃない」

「……っう、え」

「お前の家族は、あいつだけだ」


きっと一人だという事が怖いのだろう。

母が死んで、縋れるものが欲しくて、だからこそ【家族】という形に自分を当てはめて、自らに足りない物が何なのか探り当て――そして、身近に居た男を父親として認識しようとした。

けれど。

この子がどんな未来を選んで行こうとも、【生きた魔術師】である男が親であるという事は枷になる。

母を魔女として処刑した国からは遠く離れたのだから、きっと魔術師の血を引く存在だとバレてしまうのは母親の事ではなく、男がきっかけになる。

いつか、魔術師の子供だという烙印を押されてしまえば、問答無用で罪に問われてしまうかもしれない。

それならば、この子に家族は要らない。


「お前の親は戦争で死んだ。だから、お前には家族はいないんだ」


戦災孤児だとでも教え続ければ、この幼さならいつかはそう認識するだろう――魔女として死んで行った母の事も、いつかは朧気になる。

炎の向こう側で微笑んでいた彼女も、戦火に包まれた記憶にすり替わる。

受けた愛情も、見届けた哀しみも、心に刻まれた傷も、いつかは薄く消えていく。

そして母親がどんな存在だったのかも、その素性にも、興味を持たなくなっていくだろう。

だが、きっとそれで良い。

この子の道行きが明るくなるようにと願ったのは彼女も自分も同じなのだから。


「や、…やだよう……やだ……」


泣き続ける子供の中には、今はまだ哀しみしかないのかもしれない。

唯一の存在を喪って、家族を喪って、幼くして世界で一人ぼっちになってしまったような感覚を覚えているのだろう。

可哀想だ。

けれど、この子には未来がある。


「なあ、俺とも約束をしよう」


今はまだ、この子の小さな世界は孤独だ。

けれど前を向いて歩いて行けば、自らの意志で進んでいけば、きっとこの子の世界は賑やかになっていくだろう。


「……俺は、あいつの分までお前を見守る。お前が大切な物をみつけて、一人で立ち上がって生きていけるようになるまで、絶対に一人にはしない」


旅の始まりに彼女が口にしたのは感謝の言葉で、旅の終わりに口にしたのも感謝の言葉だった。

彼女の小さな肩に一人で背負っていた物はいつだって重くて、苦しくて、悲しみしか生み出さないものだった。

けれど。

歩み切って振り返ってみれば、大切な物が沢山出来た人生だったと、満足気な笑みを浮かべていた。

その中でも一番大切だと言い切った存在は、自分にとっても一番の存在となった。

だから。




「ごめんな、俺はお前の家族にはなれないよ。でも、あいつも俺も――お前の事をずっとずっと愛しているから」




あと何年かしたら男もこの子の前から立ち去る事になるだろう。

そして幼い頃の記憶と共に、関係性に名前を付けられない男の事も次第に忘れていくだろう。

でも、彼女の事も俺の事も、忘れていい。

抱きしめられた記憶も、撫でられた記憶も、頬ずりされた記憶も、愛された記憶も、全て忘れて良い。

いつか君が一人で歩きだした時に、何の憂いもなく笑えるようになればそれで良い。

君が笑って生きていく為の糧となれるのならば――全て忘れられて良い。

だからどうか、君は明るい道を歩んで行って欲しい。

そう願いながら抱き上げた身体は、まだまだ頼りない程に軽い。



そうだ、とふと頭に考えが過る。

この子が産まれたという奇跡だけを、手紙に記そう。

友人が後悔と哀しみの中で繋いだ彼女の命が、小さな子供に繋がったのだと。

哀しい事も辛い事も、全てを伏せて、友人の選択によって産まれた新しい命について記そう。


それは、何の解決にもならないだろう。


けれど別れの哀しみは時間が癒してくれる。

そして、この新しい命もいつか友人の世界に繋がるかもしれない。

あの辛く苦しい世界のどこかに、光を射す存在になるのかもしれない。

この子は可能性の塊で、彼女が最後まで愛した存在なのだから。



抱きしめた愛しい小さな身体からは、暖かな陽だまりの匂いがした。


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