そして悪役は舞台から飛び降りる
倒れ伏したアトラスを呆然と見つめ、時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
今、一体、何が。
「……アトラス?」
血が胸から流れ出てる。
ひゅ、と息を浅く吸い、吐いた息と共に口から血が勢い良く溢れ出る。
苦しげに伸ばされたアトラスの手が私のボロボロになった革のブーツに触れて、力なく引っ掻いた。
「嘘」
上擦った自分の声が耳に届く。
奇襲されたんだ、と認識する前に、遠くから男の興奮した声が不気味な程に静まり返った夜闇に響き渡った。
「おい、ここに居るぞ!」
大声で応援を呼ぶ男が、一人は仕留めた、と歓声をあげながら走り寄ってきて倒れ伏した男の前で座り込んだ女が誰であるかを認識し、大きく目を見開いて何かを呟いた。
遠目にも分かる程の瞳に浮かぶ殺意と憎しみが、もう一度矢をつがえて、今度は正確に私を定める。
このままでは、私が殺される――!
とっさに炎で周囲を焼き払って自分達を囲むように炎柱を発すると、ぱきり、と体の中の【器】にヒビが入る音がした。
「いっ………あ、」
心臓がどくり、と波打って真っ直ぐに立てずに数歩よろめき、膝を地についた。
発動した魔術以上の魔力が漏れ出て身体の中を焼くようにぞろりと蠢く。
痛い。
痛みで目に涙が浮かんで、息を上手く吸えない。
魔力不足の状態で魔術を使い続ければ、良くて魔力源たる魂の損傷、悪ければ死に直結する。
今、私が死んでないのは偶然に過ぎなかった。
「おい、クソ!応援を―――らず、殺して――」
炎の壁の向こうから途切れ途切れに聞こえる声が、私を殺すと叫んでいる。
轟、と燃え盛る炎の柱が発する熱が私を焼く事はないけれど、これだけ派手に広範囲魔術を応用した炎の障壁を築いたとなればすぐにでも敵の本隊に発見されるだろう。
敵に囲まれ、どうにか一時的な障壁を築いたからと言ってそれが死を避ける有効な手立てとは到底言えない。
此処がどの辺りに位置するかは不明だけれど、敵の遊撃兵が居るのであればまだ砦には距離があるだろうから、助けも期待できない。
魔力も尽き、アトラスも倒れ、逃げ場を失くしたこの状況で私は一体どうしたら良い―――そんな問いは、また大きく痛んだ【器】の軋みで霧散する。
「………あ、う、」
吸い込んだ熱気が肺を刺激して焦りを煽るのに、炎に煽られた赤銅色の髪が視界をふわりと揺れ、その先にある現実に紗を掛ける。
まるでこれが悪夢であるかのように血塗れのアトラスの姿が滲んで霞んだ。
ハーベスタの伯父様亡き今、彼の友人達でギル様の身の安全を確保出来る程度の権力を持つのはハーベスタの名を持つアトラスしかいない。
たとえ
もしも今ここで、アトラスさえも死んでしまったら―――ギルフォード・イヴリスは救国の魔術師には、なれない。
「……っアトラス!傷を見せて!」
そんなの『ギルフォード』じゃない。
そんなの私の愛した物語じゃない。
そんなの、私が死ぬ意味が、ない。
ぞっとするような想像だけれど、すぐそこまで迫っている問題だ。
痛みに呆けている場合じゃない。
倒れ伏したアトラスの身体ににじり寄って俯せになったその身体を転がすと、矢傷が目に入った。
胸に深く刺さってはいるけれど、急いで止血すれば何とかなるかもしれない。
血を吸って脱がせにくくなった軍服の釦を引き千切るように力を込め、シャツを切り裂きながらアトラスの色を失くしはじめた顔を覗き込んで。
「止血する、か……ら……」
「大丈夫だから、お、まえは手を出すな」
仰向けにさせたアトラスは、口の端に血を滲ませながら微笑み――あまりにも深いその傷を、力なく隠した。
「そんな顔するな」
折角近くまで来れたんだけどな、と血を吐きながら苦笑するアトラスに何の応えも返せずに押し黙るしか出来なかった。
まるでいつもの悪夢を見ているよう。
けれども血の臭いと、眼前の光景と、ずきずきと痛む身体の奥底の【器】の痛みが、これは現実なのだと私に訴えかける―――そう、これは小説なんかじゃ、ない。
ゆっくりと赤黒い血に染まっていく身体を抱えたまま呆然とする私に、掠れて途切れがちになる声が進むべき方向と目印を端的に述べていく。
それではまるでアトラスが死んでしまうかのようで。
けれどもそれが決定事項であるだろうと、頭の片隅では理解していて。
「やだ。やだよアトラス」
アトラスが死んだら、ギル様は、主人公はどうなってしまう――主人公が、主人公ではなくなってしまうかもしれないのに。
こんなところで私は全てを諦めなくちゃならないんだろうか。
ああ、炎獄公女だというのにどうして私はこんなにも無力なんだろう。
あんなにも溢れるほどに満ちていた魔力は底をつき、助けは呼べず、命一つ留められず、只の女として、役立たずとして此処で狼狽えているだけしか出来ない人間だなんて。
死なないで、死なせない、ここで死ぬなんて許さない。
意味の通らない言葉を連ねる私にアトラスは苦笑し、自分たちの周囲を取り囲むように燃え盛る炎柱を見遣ると、茶色の瞳を曇らせ、咽ながら小さく呟いた。
「治癒魔術をかけ、るから。
だから応援が来てしまう前に早く逃げろ、と。
そんなの嘘だ。
こんな状態で魔術を使える筈がない。
集中も出来ず、専門としていない魔術を使う事は如何に修練を積んだ者でも難しい。
「や、やだ。嫌です。一緒に行こう?私が担いでいくから……」
「……後から、追い付く。いいから行け」
それが不可能であることを知りながらも、私の思考は空回って無意味な提案をし続ける。
こんな事を聞いている暇があったなら、生きたいと願うなら、アトラスの言うとおりに速やかに逃げるべきだろう。
でも。
震える手で懐から取り出した小包を地面に転がすと、謝りたい事があったんだ、とアトラスは虚ろな瞳で呟いた。
ぽん、と頭に置かれた手はあまりにも急速に温度を失くしていく。
「無事逃げ、ったら、今度は、俺から、誘…か……ら……」
血が、止まらない。
息が浅くなっていく。
体温が下がっていく。
瞳から色が失われていく。
未来を囁く声が、途絶える。
―――ああ、これはもう、駄目だ。
どう見ても助からない。
握りしめたアトラスの手を離すと、力なく地に落ちた。
もう意識を失ってしまったようで、それを咎める声も早く逃げろと怒る声も発される事は無かった。
そんな様子を見ていられずに誰かに救いを求めるように空中を見上げると、熱で蜃気楼のように揺らめく夜空はゆらゆらと月の姿を変えさせる。
まるで夢のように美しい。
「……あーあ、しくじっちゃったなあ」
そう。
まるで夢であるかのような人生だった。
病がちで寝台から出れず、ひたすらに窓の外を眺め、誰かの訪れを待ち、何も生み出さず、何も滅ぼさず、誰にも必要とされず、ただ只管に死んだように生きていた。
そんな私が夢にまで描いた世界に生まれ変わった。
健康な体を手に入れて、大好きなキャラクターの側に居られて。
辛い事も確かにあったけれど、それ以上に自由に生きられる事に、そして未来に必要とされる喜びを感じていた。
でも、これでギル様が主人公としての生を全う出来なくなったのだけは確かなのだ。
今後、一つの国を建て直し、世界の魔術師を救う存在となるはずの人間が道半ばで表舞台から消え去るだろう。
悪を斃さずに何が正義だ。
悪に行き着く前に斃れて何が主人公だ。
主人公が正義を全う出来ないと言うならば、【私】は一体何なのか。
「私は……オリガ。オリガ・エメルダ・ルージル」
でも、その中身は、悪役に産まれながら役目を全うせず、大好きな物語に泥を塗った女。
「は、……ははっ、あは、は」
乾いた笑いが口から零れる。
魔術師の事も、この国の未来も、私の罪も、王様への怒りも、欲も、執着も、きっと全ては無駄になる。
こんな状況に陥ってしまったのだから、どうせ私は此処で死ぬのだろう。
欲を出し過ぎた罪だ。
救われる事が決まっている人間だというのに耐えきれず手を差し出そうなんて考えたから、
その結果悪役たるオリガが、何も残せず、誰からも顧みられず、何も生み出せずに死んで行く――それだけの存在に成り下がった。
唯の魔術師である私になんて、何の価値も無い。
唯の女である私になんて、何の意味も無い。
そんな私は、私の成りたかった【私】では、ない。
……もう、どうだっていい。
そう口に出すのも疲れて、亡、とした視界で目の前に転がるアトラスを捉える。
私に関わらなければ、私が動きすぎなければ、きっと私を倒す為にギル様と共に前を向いて歩き続けただろう人物。
その命が失われていく事すら、もう、どうだっていい。
目を瞑って溜息を吐くと、ふと少しだけ小さな頃のアトラスの声が耳に蘇った。
『友達に、なって欲しい』
そう……アトラスは私の【友達】で、ギル様の親友だ。
友達を救おうとして死ぬのであれば、たとえ悪役として死ぬ意味は無くとも人として死ぬ意味はあるんじゃないか。
実際に助かるか否かは別として、救助が来なければたとえ此処で死なずとも、すぐにでも剣で刺し貫かれるだろう。
一分一秒でも長く生かすなんて綺麗事は、苦しみを長引かせるだけで何の解決にもならない。
でも。
「……でも、友達だから」
きっと、許してくれるよね。
するり、と撫でたアトラスの頬は生暖かい血に塗れて、浅い息が段々と弱まっていく。
治癒魔術は使ったことが無い。
それは、それが水魔術の領域である為にその適性を封じてきたからに他ならない。
【オリガ】は生涯使わなかったけれど――使えない訳ではない。
やり方は、さっきアトラスが見せてくれた。
きっと、出来る。
オリガとしてではなく、【私】の感情から生じた歪んだ笑みが口許を彩るのを自覚した。
アトラスの包みから小瓶を取り出して瓶の中身を手のひらにあけると、数粒の鈍色に輝く丸薬が転がり出た。
慣れない魔術を使う為にロスする魔力を考えれば、さっきのように一粒二粒程度の丸薬ではまるで足りない。
一粒一粒口に入れて、それすらもどかしくて一気に喉の奥に流し込む。
がり、と噛み砕いた丸薬は口の中の水分に溶けて身体の中を駆け巡り、罅割れた【器】にこれでもかと急速に魔力を注ぎたす。
あまりにも速い魔力の回復に私の身体は付いてこれずに悲鳴を上げる――きっとこれは致死量だ。
そう思っても、もう先程のような不快感は起きなかった。
だって、私の死は、無駄になんてならないのだから。
どくどくと今までに無い程に心臓が波打って、空気が上手く吸えない。
膝の上に乗せたアトラスの目はもう既に生命の色すら失くし始めている。
きっと何も見えていないのだろうし、何も聞こえていないのだろう。
それでも頬にべっとりと付いた血を拭うと、少しでも安心出来るように微笑んで。
「アトラスは、私が助けてあげる」
口をついて出た言葉に一瞬だけ驚いて、けれど言葉の意味が頭に浸透すると、陶然とした感情が拡がって行く。
それが只管に友人の為を思っての行為ではない事を自覚しながらも、ほんの少しの時間だけでも幸せに浸っていたかった。
―――私の死が意味あるものになるのなら、これはこれで納得のいく結末だ。
魔術をかけると同時に硝子が割れるような音がして、心臓に走る激しい痛みと共に私の意識は遠のいた。
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