悪役の激昂、そして倒れ伏す男

流す涙が尽きる頃に、木の根元に身を隠すようにして一度だけ休憩を取った。

間近に迫った端正なアトラスの顔には疲れが滲み出ていたが、それでも諦めの色は乗っていない。

泣くだけ泣くと、ようやく心が落ち着いて、自分のかけた言葉の意味を思い出した。


辛いのは父親を亡くしたばかりのアトラスだというのに、その傷口を抉るような言葉を掛けた。

その悲しみの原因を作ったのは私だ。

許される事ではないのを知ってはいたけれど、口に謝罪の言葉を乗せようと口を開くと、同じタイミングで潜められた低い声が耳元に落ちた。


「お前、魔力はまだ大丈夫か」


自分の状態を気にかけていなかった事を思い出して、目を瞑る。

ゆっくりと血流に乗って体中を巡る魔力の流れは、ほぼ感じられない。

魔力が供給されている大本を探ると、【器】にヒビが入っているような感触すらする――極限状態で無理に使ったせいだろうか。

小説の中で炎獄公女がこの状態にまで追いつめられるのは、主人公と相対する時のみだったはず。


――このまま魔術を使い続ければ、ギル様に再び会う前に私の命が尽きるかもしれない。


そっと目を開けて首を振ると、難しい顔をして眉根を寄せたアトラスが背に括りつけていた荷物を解いた。

薄い袋の中にあった小包の中には幾つかの乾物や薬草があったけれど、そこから迷わずに取り出したのは小さな小瓶だった。

その中にあるのは無数の丸薬。

私が見て取れるように月明かりに向けてそれをかざしてみせたそれは、ガラスに反射する光を集め、鈍い白銀に煌めいて。

使ったことはない。けれど、これは。


「これ……」

「ギルからの土産だ」


戦端に配備される兵士が緊急時用に持たされるそれは、私に至急された事はない。

けれどケイカが幾度か使った事があると言っていた。

急速に魔力を回復する特効薬。

けれど、確実に身体を蝕む

どうしてこれを、と考えたところで、まさかと思い至る。

アトラスを見上げると、頷きながら口許に小さな笑みを浮かべて。


「お前は使った事が無いだろうから知らないだろうが、一気に飲んだりしない限りは身体に影響は出ない」


自らの手に一粒だけ取り出すと、私が制止する前にそれは口に含まれてしまった。

がり、と丸薬を噛みしめる音に血の気が引く。

だって、それは、毒だ。

その言い方じゃ、まるで何度も飲んだ事があるみたいで――。


「それは、経験談?」

「そうだ」


主人公が口にする正論は、その全てが紆余曲折を経ても必ず実現に至る。

人は死なない。

残虐な行為は行われない。

心身を病む事柄は起きない。

安穏、何の危険もなく、定められた結末に向かって動いていくはずのキャラクターのはず。

それが、どうしてこんな危険な物に。


『養成所は籍だけ置いてる形になる。学ぶ事は皆学んだ。あとは実地だけだが……俺は魔術師として戦場に行く』


……そうだ。

アトラスが騎士の道ではなく魔術師の道を選んだのは、私が原因だったではないか。

私があの戦場で魔術師の役割を指し示してしまったから。

私が彼らの正義に現実を叩きつけてしまったから。

じゃあ、これも。私が。


「俺の分もあるな。水魔術で包んであるらしいが一粒にしておけ。護身程度には回復するだろう」


手の上に一粒だけ落とされたそれは、鈍く月光を弾く。

これは身体にとって毒。

これを飲んだら死んでしまうのだろうか、と頭の中で【私】が悲鳴を上げる。

けれど、この薬を飲まねば遠からず私は死ぬ事になるだろう。

自分の犯した愚が、巡り巡って毒薬の形となって私の前に現れただけの事。


それならば。

口に含み、奥歯で噛みしめると、苦みがじわりと口の中に広がった。

まるで【私】が味わった薬のようだ、と肌を粟立たせながら、その不快感ごと飲み込むように目を瞑った。





助けてもらった身で言うにはおこがましいにも程があるが、アトラスの言を聞く限りではどうにも無謀な作戦だったという事は否定できない。

例え砦にまで戻る事は出来なくとも、その周辺に配備された遊撃兵の拠点まで戻る事が出来たら一安心だと考えての救出作戦だったらしい。

けれども出血多量による貧血でふらふらとした私を連れた状態では、衛生兵のいる支援部隊まで退却する事は困難で。

そして、遂に敵兵達に見つかった。

回復薬を飲んだとしても相手を一発で捻じ伏せるには魔力が足りず、けれどもアトラスのそれは突発的な発動が出来ず攻撃には向かない魔術。

そして私の魔術は中途半端にその威力を発して、魔力が尽きた。


焼け焦げて黒ずんだ身体から鮮やかな何かが赤く見え―――声にならない悲鳴が、口をついて出そうになった。


肉の焼ける臭いと、低い呻き声が入り混じる。

はやく苦しまないように、燃やし尽くしてしまわなくてはいけないのに。

震える身体の底から魔力を絞り出すように何度も何度も火の魔術を行使しようとしても、火力が足りずに悪戯に苦しめるだけで。

見兼ねたアトラスが剣を抜いて絶命させるのを、ただ呆然と眺めていた。

血が急所から勢い良く噴き出て、無表情に死に行く敵兵を見下ろすアトラスを染めて行く。


「ぅ……ぐっ………」


目にした光景に、胃酸が喉を逆流する。歯がかちかちと音を立てた。

自分がしてしまった事に対する恐ろしさは勿論ある。

リアリティの有り過ぎる光景が、五感に訴える感触が、ヒトを殺す事の生理的な嫌悪感を生み出す。


でも、|それ以上に(・・・・・)―――主人公とその仲間たちは誰かの屍を重ねたりなんてしない、と記憶が悲鳴を上げる。

強烈な違和感に吐き気がする。

こんな事が許されるはずはない。


毒薬を飲んで。人を殺して。次は、何をしてしまうのか。

彼は私と違って正道を行くべき人で、主人公を支える人だ。

悪役がどれ程罪を重ねようと行きつく先は同じだが、脇役は罪を重ねれば重ねる程物語を逸脱する。

これ以上アトラスに罪を着せてはいけない。

そんな言葉が警告を発するように私を突き動かす。

震える身体と、悲鳴を上げる【私】の記憶に蓋をして。


「薬を、ください」


噴出す返り血に染まった彼に手を差し出すと、警戒したように身を半歩引かれたが、私も退く訳にはいかない。

この薬を短時間で多量に飲めばすぐにでも副作用が出るだろう。

それは例え癒しの水の魔術で加工されていたとしても同じ事だ。

それでも、次に遭遇する敵が魔封石を所持していないなんて誰が保証できる。


「次は私がやります。だから、貴方は索敵だけに力を注いでください」


私の魔術が一番魔封石の破壊に向いている事は小説の中で、作者の言葉で、保証されている。

その保証を知らないアトラスでも、自らの魔術が戦闘に向いていない事ぐらい理解しているはずだ。

尚も躊躇う様に眉根を寄せるアトラスを急かすように言葉を重ねていく。


「大丈夫です、見つかりません。人だけを焼くのには慣れましたから目立つこともなく始末出来ます」


火の魔術の欠点と言えば、環境によって威力が左右されてしまう事ぐらいだ。

故に、悪環境の中でも魔術を使用する為に細かなコントロールが出来ず、大仰なものになってしまう。

けれどもこの戦場の中で、何度も。

そう。何度も焼いて、焼いて、身体にその細かな調整を叩き込んだ今ならば。


連ねた言葉の意味を察して、アトラスの目が瞠られた。


「お前まさか」

「請われたから、与えただけです。……今なら失敗する事もありません」


痛みに苦しむ魔術師が、私の魔術を求めて懇願する。

護るべき魔術師に、魔術を向けて命を絶つ。

その光景が目蓋に蘇って、自然と目に水を溜まって行く。

焼く対象が敵から味方、そしてまた敵に戻っただけの事。

立ち向かってくる人間にも、苦しみの中で救いを請う人間にも、炎を向けるだけだ。


「だから、もっと薬をください」


私は水の魔術師ではない――だから、私に出来るのは焼く事だけ。

かつてギル様が言ったように、恨みを連ねて行く事しか出来ない。

鼻をすすりながら手を差しだすと、アトラスは少しだけ押し黙って、それから私の身体を見て首を振った。


「嫌だ」

「何故。貴方の魔術では魔封石に対応出来ない」

「対応?」


顰められた眉を見て、苛々とした感情が沸き起こる。

現状において私以外が魔封石を破壊できない事ぐらい分かるだろうに、物分かりが悪いにも程がある。

けれど、ふいに時系列が頭に蘇って、歪んだ笑みが口元に浮かぶ。


「ああ、そっか。……まだ知らないんだ」


思わず漏れた言葉は、口に出すべきものではなかった。

訝しげだったアトラスの視線が確信の色を帯び、私を鋭く射抜く。


しまったなあ、口が滑ってしまった。


魔封石の破壊は、一定量以上の魔力を注ぎ込む事で為される。

そんな簡単な事ではあるけれどまだ本国の人間の知り得ない事だ。

ギル様が一番最初に魔封石を破壊できた存在である事が判明しなきゃいけないのに、ここでバレてしまったら軍部にまで伝わってしまう。

そうしたらギル様に付与される名声が損なわれてしまうのではないだろうか。


あれ、でも。

一体いつ、ギル様は魔封石を破壊できるようになるのだろうか―――私が狂わせた物語にそのイベントは起きる、のだろうか。



「オリガ、お前は一体何を知ってる」



眇められた目に映る私は、ちゃんと【炎獄公女】の姿をしているのだろうか。

口を引き結んで答えを拒否すると、アトラスは何かを口にしようと開き、そして昏く淀んだ瞳で私を見据えた。


「……お前が俺を信じていないのは分かってる。けど俺はお前を、大事な友人をこれ以上苦しめたくはない」


どうしてそんな責めるような目で私を見るの。

私は何も悪くないのに。

どうしてそんな薄っぺらい言葉を吐くの。

どうせ私を殺しに来る癖に。

貴方は正義の存在の癖に、私に対して、どうして。


「この薬は俺が飲む。お前はもう戦うな」



感情の波が、コントロール出来ない。



「―――貴方に一体何が出来るって言うの!」


叫んだ声は、森の中に高く響いた。

どうしてこんなにも悔しいんだろう。

アトラスに与えられたのは、ギル様の親友という善良な人生を送ることになる設定。

片や私に与えられたのは主人公を痛めつけ、多くの人間を犠牲にして国に叛逆する役割。

何も知らない人間に私の歩みを否定されたくなんてない。

何も出来ない人間に私の役割を否定されたくなんてない。


「苦しめたくない……?だったら私に戦わせてよ!どうせ私が戦うしかないんだから!こうしかなかったの、過去も未来も全部決まってる!だって私は【オリガ】として生まれたんだもの。私さえちゃんとやり切れば全部上手く行く。私の死は無駄にならない―――私はそれを知ってる、私は全部覚えてるんだもの!」


悪役として生きて人を殺し、悪役として死んでいく事は怖くなんてない。

だって、私は悪役の死が主人公に与える影響の大きさを知っている。

それが物語を幸せな結末に導く重要な役割なのだと知っている。

だからこそ私にしかこれは出来ない事なのに。


『でも、私は間違えた』


頭の中で、誰かが責めるような声がする。

本当なら、ハ―ベスタ様は死なない。

本当なら、アトラスは薬に手を出したりしない。

本当なら、魔術師がこんなにも死んでいく事はない。

の知っている物語全てが幸せな結末ではなくなってきている。

それならば、この物語における|悪役(ラスボス)の存在意義は。

私が、死ぬ意味は。


「全部、……ってるくせに!どうして私は……!」

「落ち着け、オリ、っ!」


ぐるりと回る思考が自分の醜さを露呈する。

魔術師を護って死んでいった【炎獄公女】、病床で願った夢、叶えられない夢想、血に塗れる手、頭を叩きつけるような痛み、違えた物語、行きつく先の結末、王道を歩む主人公。

――これは小説ではなく現実なのだと思考が結論を出そうとする。


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

そんなもの直視するくらいならば。

此処まで来て、現実を見なければならないのなら。

半狂乱になってアトラスの荷に手を掛けようとして、けれども力強い腕に突き飛ばされて地面に尻餅をつく。

それでももう一度立ち上がろうとして、何かが視界の端で動くのが見えた。


「………え?」


顔の横を掠めた何かが、アトラスの身体に鈍い音を立てて当たる。

ずるり、と崩れ落ちる身体が足元に血だまりを作った。

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