【私】の物語

喪う者

泥沼に浸かっているように身体が動かなかった。

ゆっくりと、けれど確実に私の身体から何かが抜け落ちて行くのに気付きながらも、指一本動かす気にはなれなかった。

私は死んだのだろうか。

前に死んだときはこんな風に考える時間はなかったような気がするけれど。

考えが霧散するようにゆっくりと泥沼の底に沈んで行く瞬間―――誰か・・の大きな手が私の腕を引いて泥沼から引きずり出した。

そんな結末を望んだ訳じゃないんだ、と誰か・・の嘆く声が聞こえた。

これは君の物語だから、と誰か・・の謝る声が聞こえた。

どうか死なないで、と誰か・・が祈る声が聞こえた。

その声は今まで聞いた事の無い声だったけれど、どこか聞いた事のある言語――そう、かつての私が口にしていた言語で、【オリガ】はこんなところでは死なない、と言い切った。



だから、さあ、目を覚まして。



その言葉に導かれるように、遠くで私を呼ぶ声が聞こえた。

遠くで私に触れる手を感じる。

遠くで魔力を注がれている気がする。

泥沼のように私の身体を拘束していた何かの感触は遠く、ふわりと意識が上昇を始める。

ああ、でも、もう少しだけ眠っていたいの。

けれどもふわふわと揺れる意識が冷たい手に引っ張られるように表へと引きずり出され―――私はゆっくりと目を開けた。


「……リガ様、オリガ様」


薄くぼんやりとした視界に最初に入ってきたのは、見知らぬ壮年の男の顔だった。

ほっとしたと言わんばかりに目元を緩ませるその顔に見覚えはない。


「―――……かみ、さま?」

「私は治癒術師でございます……ああ、意識がお戻りになって良かった。あと少し戻らなければ危うかったでしょう」


緩慢に瞬きをしながら発した声は、喉に張り付いて鈍い痛みを発する。

この痛さは現実のものだけれど状況が分からない。

一体私はどうしたんだろう、と起き上がろうとすると、力が入らずにベッドに突いた腕から崩れ落ちた。

それを見た男は動けるようで何よりと言って私を助け起こし、サイドテーブルに置いたベルを鳴らす。

状況について行けずにぼんやりしたまま周りを見回すと、そこは見慣れた自室だった。


「……私、生きてるの?」

「勿論ですとも。そうでなければ困ります。さあ、ご自分のお名前は分かりますかな」


掠れた声で自分の名を述べると、男は水差しを渡しながら私の目を覗き込んで頷いた。


「宜しい。意識もしっかりしておられるようだ」


何故私はここに居るんだろうか。

私は戦場で死んだのではなかったのか。

あれから一体どうしたのかを聞こうと口を開きかけるも、部屋に駆け込んで来たケイカが私の顔を見てベッドの横で泣き崩れてしまって、ついに疑問を投げかけるタイミングを逸してしまった。

いつもは凛とした佇まいの彼女が子供のように泣くのを困惑しながら見つめ、私は力の入らない両手を軽くさすった。

――夢の中で誰かが私の手を優しく引き上げた記憶をなぞるように。





一通り泣いて落ち着いたケイカが、私が意識を失ってからの状況を説明してくれたのによれば、どうやら私が生きてこの場所に居るのは正に奇跡であったらしい。

陽動に徹していたケイカ達は先に砦に帰還していたのだけれど、炎の柱が砦近くであがったのを見て慌てて砦の騎士団と共に救出に向かったのだという。

アトラスに治癒魔術を施した為に限界が訪れて倒れた私は、薬物の過剰摂取によるショックと慣れない魔術を行使したせいか十日以上意識が戻らなかったそうだ。

アトラス自身は重症ではあったものの、砦にいた優れた・・・治癒魔術の使い手によって一命を取り留めたのだとも。


まるで神の奇跡であるかのように―――結局、私は舞台を降りる事を許されなかったのだ。

アトラスが生き残ったという事は、きっとまだ主人公の道は途絶えていない。

でも私は。

次第にはっきりとしてきた意識が胸の奥の違和感を正しく認識する。

どうしても力の入らない箇所が、消え失せた感覚が、あった。

否定して欲しくてじっと床を見詰めつづけていても男は何一つ私の状況について話す事はなく、ただ只管にケイカが捲し立てる言葉だけが部屋の中に響き渡った。

一通りの説明が終わると、ケイカが声を震わせながら説明を続ける間中ずっと治癒魔術を重ね掛けし続けていた男はこれで十分に動ける事でしょう、と私から目を逸らした。


「それではケイカ殿。そろそろ宜しいですかな」

「っ……オリガ様はまだ目を覚ましたばかりではないですか。幾ら先生のお言葉でも、ルージルの当主であるオリガ様に無理をさせる訳にはいきません」


医師であるらしい男の言葉を聞いた彼女が、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。

一体何の事なんだろうかとのろのろと視線を上げると、ケイカは心配しなくて大丈夫ですから、と弱弱しく微笑んで見せたけれど、その顔に浮かんでいるのは疲労の色と諦観の色だった。

……私が意識を失っている間に何かあったのだろうか。


「ケイカ殿。勘違いをされないで頂きたい。私はルージルの一門に要請されて此処に来たのであって、オリガ様に要請された訳ではありません。依頼主はこの先の部屋に居られるのです」


そんな、と抗議の声をあげようとするケイカを視線で制すると、治癒術師である男は恭しく頭を下げて見せた。


「オリガ様にはこれから客間の方に移動して頂きたいのです。勿論、治癒術師として貴女に無理を強いるような真似はさせません。ですが貴女の意識を取り戻し、彼等の前にお連れする事までが私の請け負った仕事であります故。どうかご理解ください」


ケイカは術師の言葉に悔しそうに目を伏せた。

彼女が雇った術師ではないのであれば、一門の重鎮達の誰かが個人的に雇ったのだろう。

治癒魔術師はそもそもの数が少ない上に、ルージルとは縁の薄い存在だ。

ケイカが雇えない人間を与える代わりに、私を自室から引き摺り出す事を要求されたのだろう。

その扱いが既に一門の長に対するものではないと思うけれど―――私は彼等を見捨てようとしたのだから仕方がない。

そう。自らの命を投げ打ってでもアトラスを助けたという事は、そういう事なんだ。


「構わないわ。……ケイカ、着替えさせてくれる?」


ベッドから足を下ろすと震える事なく立ち上がれたが、やっぱり身体のどこかに力が入らなかった。

それが何を意味するのかに気づいていたからこそ、ケイカが妙に術師に食い下がる様子にも納得が出来る。

彼女は先代を裏切る形で私の元で分不相応な権力を手に入れたのだから、それを脅かす事を認められはしないだろう。

彼女はそういうキャラクターなのだ。

簡単な衣装に着替えさせてもらう間に交わす言葉はずっと単調なものだったけれど、彼女は無理に明るい声を出し続けてこれから起こる事が何でもない事であるかのように振舞い続けた。


ケイカの手を借りながら部屋に入ると、見知った一門の重鎮達が顔を揃えていたが、そのどれもが厳しい顔をして礼の形を取った。

まだ立ち続けるのは辛いだろうからと医師に用意された椅子に座ると、一気に視線が注がれる。

その顔に浮かんでいるのは憂いや不安、そして怒り、なのだろうか。

けれども誰一人として言葉を発さないまま、呼吸音しか部屋には無い。


「……先生。私の身体について教えてください」


彼等の視線に耐えきれず、一番最初に沈黙を破ったのは私だった。

術師は頷き、男達を見回して低い声で状況の説明を始めた。

最初は身体に傷は残らずに済んだ事、薬は完全に抜けた事、そして体力の快復は早いであろうという事を。

良い事が羅列されていくばかりで、自分の本当に知りたかった事は何一つ触れられない。

その事に焦れた男の一人がもう良い、と一言呟くと、術師は口をいったん閉じてから、ただ、と言葉を続けた。


「恐らくオリガ様はご自身で魔術を行使する事は叶いません。いえ、使えてあと一度程度でしょう……魔力の源泉たる【器】が割れてしまったご様子です」


その言葉にゆっくりと目を伏せる。

気づいてはいた。

今までずっと身体の奥底にあった万能感が消え失せているのだ。

痛みは無いけれど、ただ只管に喪失感があった。

膨大な魔力が身体の中に殆ど感じられない。

【オリガ】を構築する魔術の大部分は先天的な才能であって、修行で身につけた後天的な技術ではない。

だからこそ喪った物の大きさは自覚していた。


「魔力を補えればまだ魔術は行使出来ます!オリガ様は魔術の制御を得意となさっていますから、魔力が少なくなろうとも戦う事は、」

「いえ、そういう事ではありません」


場に落ちた沈黙を払拭しようと言い募るケイカの言葉は、医師によって切り捨てられた。


「魔力の生成は人並み程度にされはしますが、器自体と……出口が壊れてしまったのです」


ティーポットを想像してください、と医者は申し訳なさそうに言った。

器の大部分は壊れ、その上注ぎ口は潰れてしまって溜まった魔力を放出する事が出来なくなっているのだと。

けれども魔力の生成自体は大幅に衰えたとは言え、人並みの魔術師程度には魔力が溜まり続ける。

時間が経てば経つほど壊れた器に魔力は満ち、そしていつか溢れだす。


「……魔力を身体に溜め込み続ければ、いずれは割れた器から溢れ、害を為すでしょう。これからは出来るだけ魔術師をお側に置くようになさって、定期的に魔術を行使して発散して頂いてください」


沈痛な面持ちで手をさすり、医者は低い声でそう囁いた。

部屋の中に居る誰もが口を開かない。

けれども、皆が息を呑んで唯ひたすらに私を見詰めていた。


ぼんやりと視線を上げると、顔を蒼くしたケイカと目が合って――彼女は信じられないような物を見る目で一歩後ずさった。

彼女にとっては特にショックな出来事だろう、と頭のどこかで冷静な私が呟いた。

だって彼女はルージルの体質を象徴するかのような存在だと、いつか私は思っていた。

力を愛し、無力を蔑む、完璧なまでの実力組織―――それがルージルだ。

他人の介添えが無くては魔術を使えない魔術一門の長。

天才の成れの果て。

実力の無い者を一門の者がどんな風に認識しているのかなんて、私は幼い頃から――いや、前世からよく知っているじゃないか。


「当主の座を、どうする」


ぽつりと場に落とされた言葉は、誰もの頭を占めていた言葉なのだろう。

耐え切れずに俯いて唇を噛むと、ほんの少しだけ血の味がした。


「……オリガ様は国王陛下の姪御でもあられる。継承の儀を行う訳にもいくまい」

「それでは特例を作り続ける事になる!我等の誇りを捨てる事となるぞ」


私を殺すか生かすかの話が口々にあげられて、机を叩く音すらした。

きっとアトラスに治癒魔術をかける前までの私であれば、命を狙われる状況を是とはしなかっただろう。

何が何でも生き残って、そしてギル様の前へ立つ為の道を探したはずだ。

でも、力を喪った私が一体どうして悪役として主人公の前に立つ事が出来るの?

斃されるべき悪役が、悪役として立てないなんて。


「どちらにしろオリガ様が力を喪った事が知れるのはよくない。今しばらくは隠蔽するしかあるまい」


最早当主である私に了承を得ようと視線をこちらに向ける人間すらいない。

最早魔術師として半端者に成り果てた私を尊重する人間なんて、いない。

自分達を見捨てた長なんて、誰も見向きもしない。


「一年、二年程度ならば怪我を理由に表に出なくとも済むであろうが、その後は一体どうすると言うのだ!」

「先代様が外に作らせた子も最近魔術に目覚めたと聞く。アレは水にしか適性を示していないらしいが……先代様に他にお子が居ないかを探してみるのはどうだろうか」

「そうだ、それならばオリガ様にお子を産んで頂けば良いのではないか?元々の才能が才能だ。きっとお子にも受け継がれるに違いない」

「だが一体誰を配するのだ。我等の中から選んでも構わないが」

「オリガ様を超える能力の子を産んで頂く必要があるのだぞ。慎重に選定せねば」


子を産み、魔術師を殖やすのは大事な役目の一つだ。

力を行使出来なくなったとは言え、魔術師の子供を産む事は出来る。

でも、これじゃ政略結婚ですらなく、まるで。


「…………」


震えはじめた手とは反対に、次第に私の心は冷めて行く。

ぎゅっと瞑った目蓋の裏で、何故かお母様の寂し気な笑顔が揺らめいた。



「――それならば、先代様が宜しいのではないか」



その言葉に弾かれたように顔を上げると、声の主は無感情に、まるで物を見るように私を見詰めていた。

色味の淡いその瞳の奥に隠れているのは、自分達を見捨てた者に対する怒りなんだろうか。


「近親の子であると気づかれなければ良い」


ざわり、と戸惑いの声が上がりかけたが―――それもすぐに掻き消えた。

先代様はどこにいらっしゃる、最後の消息は確か、と一気にざわめく声が一定の方向へ走りはじめる。

近親婚が罪であるという事を知りながらも、彼等は最早その事に気を配らない。


決定、してしまったのだ。


ぞわり、と鳥肌が立った。

あまりにも気持ちが悪い。

周りに助けを求めるように視線を巡らしても、誰も私を見ようとしない。

ケイカでさえぼんやりと議論の行方を追っているだけだった。

何か喋らなくてはと口を開こうとしても、何を言ったら良いのか分からない。

悪役でさえなく、一門の者を護ると言いながら簡単に見捨てた私が、一体何を言う権利があるのだろう。

――これが、報いなんだろうか。


「継承すべき器自体が壊れたのだと先程申し上げました。残念ですが、オリガ様がお産みになる子が魔術師となる事はないでしょう」


呆然とする私の横で過熱する話し合いの行方に眉を顰めていた医師の一言で、部屋の中に居た男達は一様にその目に籠った熱を消した。

救いの一言であるのに、私の存在価値を根本から否定するような言葉でもある。

私に注ぐその色は、かつてギル様を見ていたかのような色合いで―――。



「誰か、誰か来てくださいませ!――襲撃です!」



その声が部屋の中に満ちた屈辱的な空気を打ち破ると同時に、私は逃げるように席を立った。






「何事だ」

「おい、あれは……!」


駆けつけた先の表門では数人の人影が声をあげていた。

砦の奪還に成功し、ギル様が水の魔術師として魔封石の破壊に成功したこの状況で、護国の要であるルージルの家に襲撃を仕掛けるなんて有り得ない。

すぐさま腕を引かれて壮年の男達の背に隠されてしまったが、ちらりと見えた姿は見覚えのある恰好だった。

確認しようと顔を出そうにも人垣がそれを阻んで、誰も私の離せという言葉に耳を傾けようとすらしない。


「ハーベスタ侯爵家が当主、アトラス・ヴィル・ハーベスタだ。ルージルの当主殿にお目通り願いたい」

「何度来られても同じ事。我らが当主は貴方をお助けになった際に消耗した身体がまだ癒えていないのです」


それが誰なのかを確認しようともがいていると、良く知る低い声が耳に届いて目を瞠った。

声には張りがあって、つい先日死線を彷徨っていたとはまるで考えられない程の声だった。

よく通る声――表門からここまでの距離を考えれば通り過ぎている。

もしかして風の魔術を誰かが使っている……じゃあ、あの数人の人影の中に魔術師が居るのか。


「治癒魔術師を入れたと聞く。既に結果は出たはず。だからこそ私が自ら出向いているのだ」

「……そうですとも。その上で貴方をお通しする事が出来ないと申し上げているのです」


侯爵家の人間にまで私の状態が伝わっている。

これはアトラスがあの現場で一緒に救出されたからなのか、それとも最早外に隠せない程に知れ渡ってしまっているからなのか分からない。

もしも後者であるならば、戦争自体に大きな局面をもたらしてしまうだろう。

ルージル以外では樹と風の一門しか残っていないのに、要である火の当主が力を喪ったと知れば一体どれほどの影響が――


「オリガを切り捨てるつもりか。ならば私にその身柄を渡せ」

「人聞きの悪い事を仰らないで頂きたい」


けれどもそんな焦りも、男達の怒声で掻き消された。


「これはルージルの問題。最早魔術一門の主ではない、一介の魔術師でしかない貴方に口出せるような問題ではない!」


アトラスが魔術一門の主では、ない。

そんな言葉は私の記憶にはありはしない。


「どういう、こと?」

「……ハーベスタ侯爵家はアトラス様が家督をお継ぎになられましたが、魔術一門としての称号を返上なさる事が決定致したのです」


ぽつり、と呟いた言葉に返事をした男は私を腕で後ろに追いやって、空気中に満ちはじめた魔力を感じ取ってか身構えた。

魔術一門の誇りを捨てた若造が、と怒りと侮蔑に満ちた声と熱が辺りに充満していく。

ルージルの長が魔術を捨てる羽目になったのに、と男達は口々の声を荒らげた。


待って。

展開に付いていけない。

アトラスが私に会う為にやってくる事までは分かるけれど、どうしてそれが襲撃と見なされたのか。

どうしてアトラスが魔術一門の称号を返上したのか。

そんな展開も設定も、小説には少しも書かれた事はなかったのに。

驚いて声すら上げられずに息を呑むと、人垣の向こうから聞こえる声が色を変えた。

アトラスの声よりも少しだけ高い、なめらかな声音――この声は。


「そうだ。俺はルージルじゃない。何の意見も言えない――だから、会ってオリガの希望を聞きたい!」

「貴様は……」


ギルフォード・イヴリス。

声の主が誰であるかを知った魔術師達が、ざわりと声をあげた。

水の魔術師として開花したばかりの、先代のルージルの長の子。

それが私を長として認めていた頃の習慣だったからなのだろうか、どう対応したら良いのかと困ったように互いを見合わせた魔術師達が、自然と私の前を開け始める。

前方で対応を続ける重鎮達は一向にどかないけれど、人垣が薄まった為に彼等の姿を正しく認識出来た。

アトラスに、ギル様、そして周囲に居るどこか見覚えのある数人の武装した青年達―――あれは、救国の英雄となる者達だ。


「……腐っても当主だ。今回の件はハーベスタの当主である俺に全責任がある!お前は援護だけしてろ、ギル」


地面に手を着いたアトラスの呼吸に合わせて木の根が伸びる。

その背後からさあ、と霧が湧き出はじめたのを見て、一門の男達が慌てはじめる。

樹魔術ならともかく水魔術は火魔術の天敵で、それを操っているのはかつて火の一門で成長した青年。

彼等の弱点は元より、屋敷の構造を全て知っているのだから魔術を効果的に用いる事は容易だ。

慌てた彼等が打ち出す火球は悉く風によって進路を変え、魔術で練られた霧の中に飛び込み消え失せる。

その間に鈍い音を立てながら絡みついた樹木が門をめりめりと破壊し、その根の先端を立ち並ぶ魔術師の先―――私に向かって伸ばし続ける。


薄れた人垣の向こうに居たギル様が私を見つけ、口元を大きく動かしたのが見えた。

絶対に助けるから、と。


それは、何度も。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も読み返した、待ち望んだ台詞だった。

こんな流れでこの台詞を聞く事になるなんて、と腹の底から笑いが込み上げてくる。

これが、最後のチャンスなんだ。

これが、私が生き残ってしまった理由なんだ。

これが、あの腕の主が言っていた意味なんだ。

【オリガ】は此処では死なない―――これこそが予定調和。


「……ケイカ、焼き払って」


笑みを浮かべたまま呟くと、ざわり、と歳若い火の魔術師達が騒いだ。

それには構わず呆然としたまま立ち尽くす侍従の肩に手を置くと、自分の身体に僅かに溜まった魔力をその身体に乗せる。

私に魔術が使えないのだとしても、血を吐く覚悟で培った技術だけは確かな物。

それを一番身近で学び続けてきたのは彼女だけだ。

例えそれが困難を極めるものであっても、私が自分の魔力で方向性を指し示せばケイカにだって出来ない事ではない。


私の魔力の流れの通りに前方の魔術師達が魔術を発そうと練った魔力の指向を制御するよう口頭で指示すると、ケイカは驚いたように首を小さく振った。


「あ、わ、私には……そんな事……」

「いいから私に従いなさい!」


びくり、と震えたケイカが私の指示した通りに業火を練って霧の発生源である魔術の発生点にそれをぶつけると、音を立てて靄が熱されて蒸気と成り果てた。

続けて前方に居た魔術師達が練っていた魔術を乗っ取らせると、それを目前に迫っていた樹木の根へと叩きつけさせる。

かつて私が継承の儀で父親にぶつけた魔術を再現するかのようなそれに、呆然としたようにこちらを振り返る魔術師達は私と蒼白なケイカを見比べた。


髪を背に払って一歩前に踏み出すと、自然と最後の人垣が割れる。

こつり、と靴を鳴らして歩く間、誰も私を引き留めようとはしなかった。

門から伸びていた木の根は全て焼け焦げて、水蒸気が新たな靄を生み出す。

けれどその先に朧気に見える人は再び魔術を行使する事なく、目を丸くして私の姿を見つめていた。


「快復なさったようで何よりです、アトラス様。……それで、一体何のご用件でしょうか」


壊れかけた門の前に立つと、アトラスは顔を顰めてギル様の背を叩いた。

ハッとしたようにギル様が歪んだ門の鉄格子を掴むと、怪我はもう大丈夫なのか、と叫ぶ。

それに無言で頷くと、美しい新緑色の瞳を翳らせながら格子の間からこの手を取って、と腕が伸ばされた。


『一緒に行こう、オリガ。此処に居ても何も変えられない』

「一緒に行こう、オリガ。此処に居ても何も変わらない」


ああ、やっぱりそうだった。

優しいギル様が喋った通りの言葉だ。

一体何度、その台詞を読んだだろうか。

一体どれだけその台詞を待ち望んだだろうか。

妹を見捨てられない心優しい彼が口にするその言葉を。


「此処に居たら死ぬだけだ。俺はオリガに死んでほしくない、幸せになって欲しい」

「……何故私をそこまで思っているの?」

「助けられると分かっていながら見殺しになんて出来るか!君は―――俺の妹なんだ!」


そう。

【私】が待ち望んでいたのはこの言葉。

だからこそ、私が言うべき台詞は決まっている。



「私を誰だと心得ているのですか。護国の要、ルージルの当主。火の一門ですらない敗者の刻印持ちに憐れまれる道理などありません」



焼け野原が脳裏をかすめる。


『私はルージルの長。命を賭けて、一族を導くのが私の役目』

「去りなさい。例え力を喪ったとて私はルージルの長。命を賭けて、一族を導くのが私の役目です」


其処に立つのは満身創痍の少女と。


『私は一族の為に生き、国の為に死ぬ。お前にそれを翻させるだけの力はあるのか』

「私は一族の為に生き、国の為に死ぬと誓いました。貴方にそれを翻させるだけの覚悟はありますか」


少女を救いたいと叫ぶ青年と。


『幾百の同胞を、お前は見限れと嘯くか』

「数百の同胞を、私に捨てさせるだけの力はありますか」


そして彼女が踏みつける数多の同胞の死体のみ。


『誰をも裏切るお前に、私の心は曲げられない』

「誰一人見捨てられぬ貴方に、私の決意は曲げられません」


そう言い切った私の唇は、ゆっくりと弧を描く。

そんな光景は再現される事は無くなってしまったのかもしれない。

でも、物語は形を変えながらまだ続いている。

ほんの少しだけ首を傾げながら、目の前に立つ彼等にだけ聞こえるような声量で、口をもう一度だけ開く。

今度は【私】の言葉で。


「私は罪のある者、罪の無い者、無抵抗の者、反抗する者、反逆者、民、貴族、誰であろうと私の意思の前に立ちはだかる者は殺してきました。貴方達が考えているよりずっと多く。貴方達が考えているよりずっと酷いやり方で。……そんな私の幸せを願うのですか?多くを救いたいと願う貴方が、多くを殺した罪深い私を」


なんて愚かなの、と声にすると、どこか胸の奥につかえていた重りがほんの少しだけ外れたような気さえした。

私の犯した罪を囁くと、信じられないと言うように目を見開いたギル様がアトラスを振り返ったけれど、彼は何一つ口を開かずに目を伏せた。

彼には親友が求めている否定の言葉を口には出来ない。

だって私が犯した罪を全てではなくとも勘付いているのだから。

その姿に堪え切れない笑いが口から込み上げてきて、久しぶりに大声で笑った。

誰もが声を潜める焦げ臭いその場に、私の笑い声だけが響き渡る。


私は斃すべき悪だ。

たとえ力を失ってしまってはいても、それだけの所業は重ねてきている。

主人公にそれを自覚させさえすれば、後は私と言う存在を斃す事で彼は救国の英雄と成れる。

旧時代の象徴を。世界の憎悪の中心を。

きっとギル様は私の犯した所業を全て知る事となるだろう。その時になって初めて、私を殺さざるを得なくなる。

悪役の死を踏み台に、世界を変えるのだ。


「―――部屋に戻ります。アトラス様にはお帰り頂いて。議論が纏まったら私にも報告をお願いします」


くるり、と翻して屋敷の中に戻る背を追ってくる人は、もう誰も居なかった。

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