裏切る者
女は元来強欲で、嫉妬の感情が強い人間だった。
才能が突出していない自分の身体が疎ましい。
機会を手に入れられる年長者が妬ましい。
自らの成長を買わない大人達が恨めしい。
そんな風にいつだって誰かを妬んで恨んでばかりいたけれど、それは女の育った環境ではむしろ学びの原動力として喜ばれる事すらある感情だった。
結果的にその慣習通り、女は異例の出世を果たす事が出来、昔に女が欲しがった全てが手に入る環境が整った。
この先に彼女を待つのは輝かしい未来で、それは誰もが羨む未来で、女自身もその道を歩む事に何の躊躇いもありはしなかった。
けれど、それも全て主の失策のせいで全て壊れてしまった。
確かに手の中にあった輝かしい未来も一緒に、全て。
女は誰よりも権力の頂点に近い地位に居たが、自身が他にいる同胞より特別優れているからだとは思ってはいない。
何十年と経験を積めば追い越せると確信はしていたが、自らの父親と同等以上に年嵩の彼等は経験の量が違いすぎた。
故に将来有望な若者として大事にはされたが、有事の際――今この状況において意見が通るような存在感は持たなかった。
自らの行く末も、主の処遇も、女の意見は何一つ反映される事はない。
そうなってしまえば女の未来は最早暗いものしか残ってはいない。
何一つ望みを叶える事すら出来ない。
女に出来ることは唯一つ――落ち目の主を見捨て、新しい力に取りいる事。
それでしか自らの願いを叶える術はない。
だからこそ馬を走らせ、人に尋ね、持てる限りの手段は何でもした。
元々一門の中でも孤立気味な立ち位置にあった女が私的な目的で動いたのでは得られる情報も少なく、何度も徒労に終わる結果となった。
それでも女は諦めきれずにいつまでも走り回り、各所に頭を下げ、ひたすらに情報を集め続けた。
そうして幾日もかけてようやく見つけた場所は、灯台下暗しとしか言えない程に王都の近くだった。
馬で駆ければ数時間程度といった距離の森の中に、小さな屋敷が木立に隠れるようにぽつりと存在する。
その屋敷――いや、屋敷の周辺には不思議な魔力に満ちていた。
静かに漂う魔力が空気の間を穏やかに流れていくのが見えるようなのに、辺りに満ちている魔力の量は膨大だ。
誰かが生成しているのではなく、ただ大気に満ちている。
女の主がその身体の内に秘めていたようなものではなく、もっと漠然としてその量を量れない程の魔力が。
まるで御伽噺に出てくる聖域のような。
火の魔術でも十分に行使できるだろうが、どちらかというとこれは水の魔術に向いた場所なのではないだろうか。
でも、そうだとしてもこの場所でならどんな魔術師だって戦える―――。
そこまで考えたところで、女は静かに首を振って考えを散らした。
例えこの場所が魔力を帯びた土地なのだとしても、こんなに王都に近く、戦場から遠い場所では拠点として使う事は難しい。
治療院などを作るのに向いているとも考えられるが、ここではあまりにも森の奥過ぎて交通手段の確保すら厳しいのだ。
それにそもそも此処は個人所有の土地なのだから。
古びた扉に刻まれた刻印には王族のみに許された象徴が使われているが、それは故人の紋様だ。
昔は彼の人の私財としての屋敷だったのかもしれないが、死んだ時点で女の主に継承されるべき遺産のはず。
けれども本家の図書室の財産目録の中には、こんな屋敷は書かれていなかった。
隠し財産なのかもしれないが、それでも堂々と王族の象徴を飾っているのだから隠す気は無いとも取れる。
――そもそもこの屋敷に籠っている存在を考えれば、万全の状態の主以外ではこのような屋敷を隠していた事も責められないのだから。
力を籠めて小さな屋敷の扉を叩いたが、何の返事も無い。
けれども屋敷の主が中に居るという不思議な確信があった。
返事は無くとも攻撃されなかった時点で入室を許されたのだと勝手に判断し、古びた扉を音を立てて開ける。
ほんの少しだけ暗いその部屋に一歩足を踏み入れると、ようやくそこに求めていた存在を見つけ、女は声を低めて言葉を発した。
「ようやくお会い出来ました」
部屋の中に灯された照明が椅子に座った男を照らし、ゆっくりと開かれた男の赤銅色の瞳が射抜くように女を見据える。
「……君がくだらない理由で僕を探し回っていた事は知っていたけれど、その執念だけは見事だ。用は何だい」
発された声を聞いた事は数える程しかない。
自分に向けられた事などこれが初めてだと言っても良いだろう。
この男に対してはいつだって畏怖しか感じなかった。
絶対的な能力差、そして自らが犯した罪の意識。
今だって身体の奥が震えるようだけれど、それでも女はフードを払うと床に跪き、男へ頭を下げた。
「貴方にお願いがあります」
赤銅色の瞳を愉快そうに細めた男は立ち上がり、女の傍に寄ると身を少しだけ屈めて、女の顎に指を添わして爪先で引っ掻く。
勢いよく引っ掻いた爪は女の肌を抉り、血を床に滴らせた。
「それを引き受けて一体何の得があるんだ」
じくりと痛む肌の感触に一瞬だけ眉を寄せた女は、それでも視線を赤銅色のそれから逸らさない。
自らのよく知るそれとは温度の差があまりにも違うその瞳の色は、それでもどこか彼女に似た気質が宿っているようにすら見えた。
この男も、女の主も、本質的に他者に対して無関心だ。
だから、きっと男は女の過去の所業に対して何の怒りも抱いていないのだろう。
「君を此処で殺したっていい。誰一人として君の生死なんて気にしてない。誰も君を顧みない。誰も君に心を配らない。何故なら君は裏切り者だ」
言葉の一つ一つが女の中の感情を切り裂く。
怒りは抱いていない。
だからこれは女を甚振っているだけ。
でも、言っている事は全て真実だ。
「……分かって、おります」
どんな罪を犯そうと、他の誰に蔑まれようと、妬まれようと、唯一人の人が自分を気にかけてくれているだけで幸せだった。
けれどそれは虚構だ。
この男の言うとおり、あの人は自分を気にかけた事も信頼した事もありはしない。
きっと此処で自分が死んだとしても――。
「それでも構いません。どうぞ私の事はお好きになさってください」
至近距離で見詰める男の瞳には酷薄な色しか浮かばない。
女の口にしている言葉は只の強がりだ。
言葉の奥に隠した本音は真逆の事を主張する。
醜く、愚かしいまでに求めている物をこんな言葉で隠せるはずもないし、自分の心を偽る事すら出来はしない。
それでも傲慢で身勝手なこの願いを叶える為には、女には最早これしか手がなかった。
「貴方の為に死にます。貴方の為に手を汚します。私の未来を全て捧げます。だから、だからどうかお力を貸しては頂けませんか」
「……」
挑むように睨みつけ、一気に誓いを口にすると、男は女の目をじっと見つめたまま黙り込んだ。
女が口にした言葉は二度目の誓約の言葉だ。
信じるに値しない言葉だ。
けれど、今の女にはもうこの言葉以外で自分の願いを叶える術は存在しない。
「どうか」
最後まで言葉を続けられずに口を引き結ぶと、男はほんの少しだけ間を置いて、溜息を深く吐いた。
男は壁に掛けられた金髪の少女の肖像画にちらりと視線を転じると、諦めたように女へと投げやりに声をかけた。
「アレが君の挺身に報いるとは到底思えないけどね……まあいい、僕にも守らなくてはならない約束がある。君は僕に何を望むんだい」
きっと主は女を許さないだろう。
孤高で、孤独で、悲しい人だから、縋る者は見捨てられない。
けれど自らの意思に背き立ちはだかる全てを憎み、全身全霊でもって自らの目指すものを追い求める人だ。
その道を阻む力は女には無い。
だからこそ、女は喜色を浮かべて裏切りの言葉を口にする。
「ルージルの当代当主を、貴方の手で消して欲しいのです」
それは二度目の裏切りで、今生で最後の裏切りだ。
*
「お食事をお持ちしました」
ガチャリ、と重い金属音が響いた後に女が早めの夕食を持って部屋に足を踏み入れる。
その背後で男が一人控えているのを見遣ると、男は顔を顰めて目をそらしながら扉に錠をかけた。
内側から錠を掛けた上で、私が逃げないよう監視する為に扉に寄りかかると唇を引き結んだ。
女はそんな男の行動を見る事もなく、ただ黙々と自分の仕事をこなし続ける。
無言のままに配膳される夕食は今迄の食事と変わりなく豪勢だが、席を供にする人はいない。
「……今日は何か、ありましたか?」
「いいえ。オリガ様がお気になさる事は何も」
間髪を入れずに返されるこの言葉を聞くのはもう何度目になるのか分からない。
この離れに入れられてから初めの数日は、一門の人間達の考えや外の動向、戦況を事細かに問いただしていたけれど、それらの全てに返事が成される事は無かった。
何の情報も与えるな、この離れの外に一歩たりとも出すな、そう命令されているらしい。
質問に答える事は無くとも同情の言葉を口にした世話役の女も居たが、次の日からはこの離れの屋敷に訪れる事も無くなった。
それからはただ機械的に質問を投げかけていたけれど、もう返答が得られるとは私自身期待すらしていなかった。
食事を終えるまでの間、ただひたすら無言で食器を動かし続けるだけ。
女は私が食事を続ける間にシーツを回収したり、着替えを補充したり、飲料水を補充したりと忙しそうに動き回っていたが、その間中ずっと男が私の動きを見続ける。
少しでも食事の手を緩めれば、すぐさまどうしたのかと問いかけ、毒物を混入させる気なのかと疑いだすのだ。
そういった行動全てが煩わしくて、ゆっくりと食事を続ける。
こんな風に緊張して食事をするのはお父様と食事をしていた頃以来だ。
ぼんやりとそう考えながら食事を終えると、女が私の傍に寄ってきて硬い声を発した。
「ではオリガ様。お手をこちらに」
冷たい掌に手を重ね、ほんの少し溜まった魔力を女に流すと、女は手に持った燭台に火を灯した。
私の魔力では松明に火を灯す程度が限界で、幾つかの燭台に火を灯すこの行為だけで既に酷い虚脱感がある。
小さく揺らめく火は、それが今の私の力なのだと嘲笑うかのよう。
自分で魔術を使う事も出来ず、大した量の魔力を溜める事も出来ず。
ただ小さな離れに閉じ込めるだけで簡単に拘束できてしまう、ちっぽけな存在だと。
「私はこれで。……明日の朝は、その」
女と男の視線に耐え切れなくて顔を伏せていたから、女がどんな表情をしていたのかを私は確認する事が出来なかった。
けれど。
「おい」
女が躊躇いがちに口を動かした瞬間に、見張りらしき男は一声だけかけて女の言動を窘める。
いつも通りの連絡事項だとばかり思っていたからふと顔を上げると、男が殊更厳しい眼差しで私を見据えていた。
何だろうかと思い首を傾げてみると、男は気まずげに眼を逸らして首を振った。
答えられないという事だろうか。
男のそんな行動を見て女は重い溜息を吐き、失礼しました、と挨拶を述べて部屋から出た。
見送りの為に扉の前に立つと、外に出た男と女がすぐさま鍵をかける音がして、いつの間にか詰めていた息を吐き出した。
こうして彼等を見送る必要はないけれど、窓も外から板で閉じられてしまったこの離れの屋敷では彼等の出入りの瞬間だけが外の事を知る手がかりだ。
既に日付の感覚すら怪しくなってきていたけれど、扉の外に垣間見える景色はまだ記憶の中の季節を一つ跨いだ程度だ。
一体いつまでこうして現状維持に奔走するつもりなのか全く分からない。
まだ当主が戦の傷が原因で臥せっていると言い通し続ける事は出来る。
けれどそれもきっと長くは持たないだろう。
私が怪我を負っているだなんて嘘がそう長く突き通せるはずもない。
一門の権力者達は何を考えて私を拘束しているんだろう。
私の処遇をどうするのかを決めかねての時間稼ぎなのだろうけれど、時間が延びればそれだけ事態は混迷するのに。
王妹の娘、火の一門の当主。
一門の掟に従って私を殺して誰かが当主の座に就かなければならないけれど、王位継承権は無いとは言えそれでは王家に対して刺激を与えるも同然。
けれど自分達を見捨て力を喪った当主をこのままにしておけば、一門の主義を変えてしまう事となり―――結束が緩む。
魔術師にとって窮地に近いこの今の情勢で彼等がどちらの道を選ぼうと、どちらも事態を悪化させるだけの選択となる。
「……でも、私が心配する事でもない、か」
どちらにせよ近い内に意見も纏まるだろうけれど、どんな道を選ぼうともその先には必ずギル様がいる。
私が考えるべきは魔術師の事ではなく、ストーリーの展開だけだ。
あの時死ぬべきだった私が
それはきっと、私が目指すべき存在がただ一つだけである証拠。
設定は変えられないのだから行き着く先は必ず一つだ。
私が下手に動いてしまったせいで回り道をしてしまったけれど、これでようやく私の愛した物語に帰結する。
私はこの物語を誰よりも愛してる。
この結末を誰よりも喜べる。
だからギル様。
早く、早く、私を――。
コン、と扉を叩く音がして、ふと頭を上げた。
ここに訪れるのはさっきの世話係の人間だけだから、忘れ物でもしたのだろうか。
「どなた?」
どうせ鍵は外からかけられているのだから、尋ねたところで私が扉を開けられる訳ではない。
無駄だと分かっていながら誰何してしまうのは最早癖なんだろう。
きっとさっきの世話係の二人だろうと思って扉の前に歩み寄ると、聞こえてきたのは聞きなれた声だった。
「お久しぶりです、オリガ様」
「……ケイカ」
それは、あの日以来私の前に現れる事のなかった従者の声だった。
この離れに近づく事を許されていないのだとばかり思っていたけれど、こうして訪れる事が出来たのだからそういう訳ではなく―――自主的に私の元に来るのを避けていたんだ。
「あなた、」
自分でも何を言おうとしたのか分からないまま言葉を切ってしまう。
ケイカは元々私が一門の長として立ち、その上で重宝するからと約束して使ってきた人間だった。
私が力を喪った以上、ケイカが私の元から離れて行った事を責められはしない。
それだけの関係性、だったのだから。
でも、今更彼女が私の前に現れたのは一体どうしてなんだろう。
私を責める為だろうか。
今までの働きを考えれば、勝手に力を喪って彼女の欲を満たす為の手段を取り上げるような真似をしてしまった私を責める権利がある。
一門の誰もが何一つ恨み言を言わず、ただ蔑むような目で見てくる事には耐えられる。
でも、ただのキャラクターである彼女に何を言われようと物語が変わるわけではないのに、面と向かって言葉で責め立てられるのは恐ろしい。
扉を一枚隔ててそこに居るはずの存在が、今まで何年も付き合ってきた人間が、今は声を掛ける事すら恐ろしかった。
「お会いして頂きたい方がいます」
けれど、私の恐れとは裏腹に感情を感じさせない平坦な声音は、用件を端的に述べるだけだった。
このタイミングで私への訪問者。
外部からの情報伝達の手段を徹底的に排除している一門の人間が許すはずはない。
もしかしたら一門の誰かかもしれないけれど、何かあればさっきの男女に用件を告げさせていただろう。
それに自らの意思で私の元から離れたケイカに仲介させるなんて。
「……私は同席致しません。どうぞごゆっくり」
扉の向こうから聞こえてきた小さな声は私に話しかけるようなものではなく、そこにいる誰かに対して発された言葉だった。
相手の声は判然としなかったけれど、かろうじてそこに居るのが男性だという事は分かる。
世話役の男女が帰ったタイミングで隠れるように訪れ、ケイカ自身は同席せずに誰かをこの離れの中に入れるだけ。
見つかれば一門の人間達に殺されてもおかしくない行為だというのに、それでも私に会いに来る人間なんて――。
……ああ、そっか。
ケイカは、ギル様を連れてきてくれたのか。
そう考えると全てが腑に落ちて、自然と身体から力が抜けた。
最後にあの人に会ってから大分日が経っている。
きっと私の犯した罪をアトラスから聞き、自らの目で調べ、納得しただろう――妹は断罪すべき存在だと。
そう考える事は【設定】に定められている。【物語】にある通りだ。
けれど今私が置かれている状況だけは変則的で、私と彼が戦場で相対する事は困難。
だからこそ、唯一縁があるケイカの手を借りてこの離れを訪れたのだろう。
この戦争の旗印は、多くを殺し過ぎた私だ。
虐殺の象徴、戦争における絶対悪、各国との取引。
その後の展開はどう転がるかは分からないけれど、私一人の首できっと一度はこの戦争は小康状態になる。
本人の感情がどうであれ、ルージルの総意がどうであれ、もう私を殺す事でしか魔術師を憎む人々の感情の収まりはつかない。
魔術師として目覚めたギル様ならきっと、全ての苦境に立たされている同胞達を救う事が出来るだろう。
――悪役を打ち倒した正義の主人公として、私を踏み台にこの国を救う。
それは規定通りの物語。
だから。
今日ここで、私は死ぬんだ。
やっと悪役の物語を終えられる。
物語とは随分違う死に場所となってしまうけれど、これで【オリガ】としての人生を終えられる。
扉に掛けられた鍵が重い音を立てて再び開かれる。
扉の向こうに居るはずのケイカに対する感情も、そのずっと先の本邸に居る一門の魔術師達の事も、王都の中心に居る王様の事も、この国に暮らす全ての魔術師の事も、未来のことも、もう気にならない。
ギル様が私を殺してくれる――もうそれだけで良い。
ぎしり、と音を立てて開いた扉の先に居るはずの存在に薄らと微笑んだ。
けれど。
「え……?」
そこに立っていたのは想像していた人物などではなく。
「久しぶりだね、オリガ」
自分とよく似た赤銅色を持つ―――お父様が、いた。
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