お大事にね、お兄様!
たった一人で何度も何度も火球の呪を唱え、練習をする少年を見て、侍女は憎々しげに突き飛ばした。
紛れもなく一族の一員であり、本家で働く事を許される程の能力を持つ彼女にとって、この少年は妬みの対象でしかなかった。
当主が本家に引き入れて二年も経つというのに、全く火の魔術に目覚めない少年。
歴代最優と謳われる当主の血を引くというのに、その力の片鱗すら感じさせない体たらくに、苛立ちばかりが募るのだ。
誰よりも才能もないくせに、本家で暮らす事の許される身分が妬ましい。
誰よりも優遇された環境で、火の魔術を学べる彼が妬ましい。
でも、何よりも―――誰よりも才に恵まれた彼女の兄である事が妬ましい。
故に、少年に対してぞんざいな扱いとなる。
けれどもそんな彼女の行動を咎める者は、この屋敷の中には誰も居ない。
「オリガ様がお使いになられます。おどきくださいませ、ギルフォード様」
尻餅を着いてのろのろとこちらを見上げる少年は、疲れからかぼんやりとした表情のまま首を傾げた。
―――魔力の使い過ぎによる脱力状態だ。
発動しない魔術に対していつまでも力を注ぎ続けていた為、魔力自体が枯渇してきていたのだろう。
小さな主を見やれば、感情の凪いだ赤銅色の瞳が腹違いの兄を見据え、小さな溜息を吐いた。
「目障りです、お兄様。外で瞑想でもしてきたらいかが?少しは魔術が使えるようになるかもしれませんよ」
雷鳴轟き、激しい音を立てて雨が地面を叩く窓の外を指差し、無表情で言い捨てる。
妹ではあるが、次の当主と目される一門の実力者の命令。
無能力の兄がそれに逆らえるはずもなく、目を伏せながら中庭へと続く扉に向かうのを見て、侍女は胸がすくような思いを抱いた。
*
うあああああああああごめんねごめんねギル様!
本当に申し訳ない。まだ十歳の身体だというのに、こんな豪雨の中に身を晒せば確実に風邪をひくだろう。
でも、誓って言うけれど、これは決して無意味な事ではない。
自然に溢れる魔術の要素に触れる事は、正攻法の修行の一つ。火ならば毎日毎日火を扱う、風ならば高台に登り風の中で一日を過ごす、土ならば洞窟に篭って土に触れる。
そうやって少しずつ自分と魔力との親和性を高めるのだ。
私だって、屋敷の結界を構成する為の篝火を毎日数時間灯し続けて、親和性を高めようと努力している。
しかしながらギル様の適性は水だけれど、ルージルは火の魔術一門。
敷地内に自然の滝も湖もなくて、水の修行には全く向いていない環境なのだ。
そもそも、火の一門である以上個々人の差はあれど、皆必ず火の素質を抱いて生まれてくる。
故に、ギル様が水の素質
我が家ではほんの少しでも火の素質があるならば、それを伸ばす為に他の素質は封印し、少しずつ、少しずつ訓練を重ねて行くのだけれど……。
そういったルージルの他を全て犠牲にする一点特化型な修行は、むしろギル様の水魔術の開花を阻害する要因になってしまうのだ。
なら、さっさとギル様の体質について説明して、家から出せば良いじゃないって思うでしょう?
しかしながら。
ここは前世の常識なんて通じないのだ。
この事を皆に発表したところで、ギル様は火の一門を騙った詐欺師扱いで殺されてしまうだろう事は目に見えているくらいには。
……まあ、何と言うか、そういうハードな世界観の小説だったもので。
だから、なんとしてでもギル様の資質を隠しながら育てつつ、速やかに私が当主となってギル様をルージルから解放して差し上げねばならない。
このままでは本気で命の危機!
故に、土砂降りなんて格好の水要素!
無理矢理にでも触らせるしかなのである!
……でも、やっぱり申し訳ない。
「ケイカ、お茶を――」
溜息がついつい漏れそうになるのを首をふって散らし、沈んだ気分で侍女にお茶を頼もうとして。
鬱陶しい虫を見るような冷めた視線で中庭を眺める侍女に、一気に不安が湧き出てきた。
あ、これ小説にもあったパターン。
中庭の扉の鍵を閉めてギル様が倒れても放置しちゃうやつだ。
その後の流れも最悪も最悪なんだよなあ。
うあー、折角のギル様の鍛練の為とは言え、今の魔力が枯渇した状態では体調を崩しやすいし。
「はい、オリガ様。只今ご用意致します」
「……それと。夕飯前にお兄様を鍛練場にお連れして。私が指導します」
こう言っておけば、多分二時間くらいで雨の中から回収されるはず。
その後に虐待としか言えないような
指導、という言葉に苛ついたように侍女の顔が一瞬だけ歪められたのが視界に入り、小さくため息を吐いた。
ギル様が微妙な立ち位置なのは分かっているけれど……ああもう!小説の中の世界なのに人間関係がめんどくさい!
*
午後の修行を終えた後、侍女から告げられたのは久しぶりのお父様との食事の予定だった。
そもそも顔を合わせる事自体、年始の挨拶の際に一分二分程度しかない。
一体全体どういう気まぐれなんだか、と呆れながら急いで着替えを終えて食堂に向かうと、これまた珍しく、ぐったりとしたギル様も着席していた。
ギル様と私を揃えるだなんて明日は槍でも降るのだろうか、と澄ました顔の裏で考えながら席に着くと、一品ずつ料理が運ばれて来た。
普段はそんなに豪勢な食事では無いからか、テーブルの上に配膳されていく料理をギル様はマナーを気にしてあまり手を付けられず。
私はせめてお手本になるように、と心持ちゆっくりと食事を進める。
テーブルを挟んで私とお兄様を眺めるお父様は、そんな私たちを見て機嫌良くワインを揺らしながら微笑むばかりで、何も口にはしなかった。
私は、この人が苦手だ。
特段好きなキャラクターという訳ではなかったけれど、不運な結婚生活を送るお母様には同じ女としては同情している。
けれどもお父様に関しては、正直自分の父親という実感よりも。
いつか自分の実力で下さなくてはならない相手、という認識の方が大きい。
親の浮気云々以前に、必ず衝突する相手に苦手意識を持つなというのも難しい話でしょう?
だけど、彼については一つだけ絶対的に信用している事もある。
ギル様以外にどれだけの異母兄弟がいるか知れたものではないけれど、幸い小説の方には異母兄弟は出てこなかったのだ。
つまり、そういう存在を表舞台に出すつもりはないのだという事を。
だって、火の申し子と呼ばれる私、後の水の大魔術師、と彼の子供は方向性は違えど魔術の適性が高い。
こんなのがあと二人も三人も増えたら、私の手には終えないからこれは大変有りがたい事だった。
私達が黙々と食事を進める傍ら、お父様は給仕に何度もワインを継ぎ足されていた。
何を考えているのか分からないような表情で居たが、デザートが配膳された段階でようやく口を開いて。
「ギルフォード、報告は上がってる。もう少し修練の時間を増やしなさい。それと、そろそろ君には剣の師を付けるからそのつもりでいなさい」
「……はい、父上」
暗に魔術に向いていないと告げながら、興味が無さそうに素っ気ない物言いで指示を飛ばす様子を黙って見つめていると、視線に気づいてか笑いを含んだ眼をこちらに向けてきた。
昏い、自分とよく似た赤銅色の瞳が、まるで捕食者であるかのように細められて。
「ところで。随分と精を出しているようだね、オリガ」
「はい。一日でも早く、国とルージルを支えて行ける魔術師となれるよう、日々頑張っております」
「ふうん?」
模範解答はこれだろう、と常日頃から意識して出す【オリガ】の台詞に、紅い唇が笑みの形に歪んで。
視線をグラスに向けながら、けれども圧力を含んだ低音の声が私を追い詰める。
じとりとした熱気が、部屋に充満した。
「
心臓が、一気に冷たくなったように感じた。
―――ああ、来た。
一番聞かれたくない事だ。
やっぱり、この男は私がギル様に何をさせているのかに気付いている。
見る人が見れば、私がひそかに水の魔術の鍛練をさせているのだと気づいてしまうのだろうか。
一体どれだけの人間が、この事に気づいているのだろうか。
誰が、お父様に報告したのだろうか。
「……何の事でしょうか。毎日の鍛練はお父様の勧め通りの内容を行っておりますが」
一門の長であるお父様に気付かれたのであれば、火の一門を名乗る資格の無いギル様の処遇は決まったも同然。
行く末は、主人公らしかぬ見るも無残な死だろう。
この物語に、そんな結末が許されていいはずがない。
彼とこの小説に、そんな改変が許されていいはずがない。
ならば、例え父親であっても、一門の長であっても、例え敵わなくても、私の邪魔をするのであれば。
そんな私の感情に合わせて、部屋中の蝋燭が大きく燃え上がる。
私の機嫌の変化に気づいたギル様が困惑したようにこちらを見たが、そちらには一瞥もくれずにひたすらにお父様の顔に視線を注ぎ続ける。
一挙一動、見逃さぬように。
いつでもギル様を連れて逃げられるように。
敵意を向けられた本人は、テーブルの上の蝋燭に変化が起きたのをちらりと見遣って。
「さて、ね。君がその才能を伸ばしていけると考えるのならば、好きにすれば良い」
お父様がおどけたような声音で赤銅色の目を瞑ると、部屋に充満していた熱気は魔力に介入され、なりを潜めさせられた。
当主が見逃す、と言葉にした―――言質は取れたので、ギル様は当面の安全を確保出来たも同然。
今この瞬間に衝突せずに済んだだけでも、僥倖だ。
詰めた息をゆっくりと吐きながら感情を鎮め、火のゆらぎを収める。
「君が僕を越えたなら、その時は全てが君の自由だ。まあ制約はあるだろうけれど」
「ええ。分かっております、お父様」
才はあれど、経験が圧倒的に足りていない。
例えどれだけ圧倒的な才能であったとしても、今この瞬間ではお父様に適いはしない。
歴代最優とまで呼ばれるお父様にはあって、私には足りないもの――――それが経験。
だから今はまだ、その時ではない。
けれど、いつかそれが補えたならば。
くしゅん、と小さなくしゃみが、凍り付いたように殺伐とした空気の中に響いた。
完全にその存在を忘れていた、とそちらに顔を向ければ、場の空気に怯えた様に目を伏せるギル様が居る。
ああ。全く、溜息しか出ない。
憂鬱だ。
―――やっぱり風邪を引かせてしまったようだった。
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